カテゴリー:お買い物

第77回 池田精肉店 土谷輝生さん 土谷政恵さん

祖父の代から80年超
愛され続けるコロッケは毎日「手作り」

五條の名物・五條市民のごはんのお供、長年愛され続ける「池田のコロッケ」。
本陣交差点や大川橋、新町通りを目の前に、五條の歴史と共に歩んできた池田精肉店さんにインタビューしてきました。

歩みについて

―池田精肉店さんの歩みについて聞かせてください。
土谷政恵さん(つちやまさえさん 以下 政恵さん)祖父が大正時代に始めたのかな・・・最初は行商みたいな形態から始めたと思うんですよね。当時は電車もなくディーゼル?だったと思いますが、肉を仕入れてきて、リヤカーでここまで運んできて。その頃はお店はここじゃなかったみたいやけどね。
土谷輝生さん(つちやてるおさん 以下輝生さん)肉屋としてはね、ここの曾おじいちゃんがうちのおじいちゃんのと一緒に最初、商励会通りでやってたみたい。でも戦争で兄が亡くなってそれで弟(うちの祖父)が引き継いだのか、後に独立してお店を始めたみたいです。そのもっと大昔は牧場をやってたみたいで、牛を育てて、それを売ってた。昔はほら、耕運機のかわりに牛を使ってたやん。トラクター替わりね。その牛を育てて売ってたみたい。
政恵さん)牧場やりながらだんだん食用へと移っていったのかな。

政恵さんのお母さん 以下お母さん)おじいさんが肉屋始めたんは大正10年(1921年)やね。(82歳のおばあちゃんの記憶による)
輝生さん)じゃ、もう100年以上続いてるってことやね。一回、役所にも問い合わせたことあるんやけど、役所ができる前の事って調べるのが難しいらしくて。保健所も資料を持ち合わせてなくて、詳しいことは分からないんですよね。

―では輝生さん政恵さんは四代目?ということですね。
政恵さん)そうなりますね・・・、うーん、まぁ、でも実は今も店主は母で。高齢なので、これしてあれしてって感じで私達がやってるだけで、はっきりと今「誰が」とか「継いだ」とかっていう感覚はなくて、みんなで一緒にしてるって感じです。

―子供の頃、おうちがお店をしていることをどんな風に感じてらっしゃいましたか?
政恵さん)やっぱりね、よそのサラリーマン家庭のおうちに比べて、うちは従業員さんも居て毎日バタバタと忙しくしてて・・・。お友達が日曜日に家族とお出かけしたり、夏休みに旅行に行ったりしてるのをみて、うらやましいなと思ったことはありました。

―お手伝いなどもされてたんでしょうか?
政恵さん)高校生、大学生のときは手伝ったりしてましたね。

―卒業後はもうお店を手伝うかたちで?
政恵さん)
いえ、結婚して大阪に住んでました。普通にサラリーマンの嫁で。
で、主人がこっちでレンタルビデオ屋と漫画喫茶をやり始めて。その頃からお店を手伝い始め今に至ります。
輝生さん)当時肉屋の方には長年勤めてくれてた職人さんがいました。でもその方も高齢になり「これから池田(のお店)どないすんねん」と・・・。僕が引き継いでいかないと・・・と思っていたことではあったので、「はい。僕がさせてもらいます」と。それで、いろんなことを教えてもらったり覚えたりするのは当然片手間にできることではないのでビデオ屋や漫画喫茶の方はやめて、それからずっとここで家族と一緒にやっています

 

愛されるコロッケはすべて「てづくり」

―池田精肉店さんの一日はどんなことから始まりますか?
政恵さん)まずは、コロッケの芋を炊くところからですかね。芋を洗って皮をむいてそれを炊きます。それから次の工程、芋をつぶして・・・と進んでいきますが、それは私ではなくて、他の従業員さんが担当してくれてます。

―現在 何名でお店を切り盛りされてますか?
政恵さん)私達と息子、そして従業員さん・・・。シフトによって変わりますが、常に5名は必ずお店にいますね。

―1日どれくらいのお客様が来られますか?あと来店人数の多い曜日や、お客様の年齢層についてはいかがですか?
政恵さん)人数は分からないですが、土曜日は平日の倍近くのお客様が来られます。うちの定休日が日曜っていうのもあるかもしれないですね。今はスーパーでパック入りのお肉を買われる方多いと思いますが、土日の特別な日に買いに来てくださるのか、土曜日がお客様多いです。年齢層は揚げ物に関しては幅広い年齢のお客様に買っていただいてるのと、意外と男性客が多いですね。お肉の販売はご年配のお客様が多いという印象です。

―今や地域になくてはならない存在の池田精肉店さんですが、お店の特徴、強みは何ですか?
政恵さん)やはりそれはもう、祖父が作り上げたコロッケですね。肉屋さんがコロッケなどを販売するのは、仕入れたお肉に商品として使える部分とそうでない部分(提供可否)があって、その提供できない部分をコロッケとかミンチカツの材料として使えるからでもあるんです。ありがたいことに祖父が作ったコロッケは当店の名物みたいに皆さんに愛され、お買い求めいただき続けてるのはほんとに嬉しいですね。

―その大人気の「コロッケ」はいつ頃から始めたんですか?
輝生さん)おじいさんがこっち(現店舗)に来た時から始めたと思うけど、いつ頃この店に移ったんかな。
お母さん)昭和15年にこの店に移ったと思うよ。
輝生さん)あー、じゃあコロッケはもう80年以上前からや。
政恵さん)そんな前??その時代にフライヤーとかなかったでしょう?笑
輝生さん)そっか、違うか・・・うん?いや、お鍋とかで揚げてたんちゃう?辻さん(90代のお知り合い)が10代の後半にお店に来たときにはもうコロッケやってたって言ってたもん。それくらいの年代のおじいちゃんやおばあちゃんに聞かないとわからなくてね笑

―1日どれくらいの数を作られるんですか?
輝生さん)数というよりかね、ちょっとこっち来てみて。お芋さんを洗って皮をむく作業をこの機械がやってくれて、その後この釜でお芋さんを炊くんだけど、この釜に入る分の芋をつぶしてコロッケにしてるから何個っていうカウントしてないねん。この釜、一釜分、だいたいね、キロでいうと20キロくらいかな。

 

 

 

 

 

 

 

―20キロ・・・。ちょっとピンとこないです笑
輝生さん)そうだよね。で、結構知られてないのが毎日その日の分「手作り」してるってこと。逆に言えば、手作りじゃないと思ってる方が意外と多い・・・。

―え?
輝生さん)
冷凍のままちょうだいって言われたりするんで、ほら、スーパーとかで売ってるあんな状態で置いていると思ってる方もいるみたいで。

―いや、めちゃめちゃ手作りですよね。毎朝お芋を洗って皮をむいて茹でて・・・、それから・・・
輝生さん)つぶしてお肉と混ぜて味付けして、成型して冷まして衣つけて揚げて袋に入れて売る・・・80円。どう?笑

―すべて手作りでそのお値段!私達は嬉しい限りですが・・・
政恵さん)まぁね・・・。コロッケっていうのは市場的にはやっぱり庶民的?っていう感覚があるからそんなもんかなと思うですけどね。最近、芋も高いんですけどね笑 昔はスーパーでも一袋100円とかだったのに今そんな値段でないしょ?笑

―そうですよね!何もかも値上がりしてて。
輝生さん)油も3倍くらいになってるもん。
政恵さん)そうやねー。

―揚げる油も何か特定のものを使用されてるんですか?
輝生さん)うちはラードで揚げてる。

―家庭ではサラダ油が一般的かと思うのですが、ラードで揚げるとどう違うんですか?
輝生さん)揚がり方。サラダ油かヘッド(牛)かラード(豚)で同じものを揚げても仕上がりが全然違うやん?

―そ、そうなんですか?
輝生さん)サラダ油で揚げると時間経つとべちゃっとならへん?

―なりますなります。
輝生さん)ラードはなれへんねん。カラッとしてるねん。それを考えてラードにしたんだと思う。

―ラードで揚げるっていうのも祖父様の時代から?
政恵さん)そうです。それにサラダ油だと酸化するから捨てないといけないですけど、ラードとかヘッドはずっと継ぎ足しで使っていけるんです。

―重要な味付けは昔から受け継いだものなんですよね。
政恵さん)そうです。
輝生さん)極秘で。味付けはもうここ(政恵さんとお母さん)しか知らん笑。俺知らんもん笑
政恵さん)笑笑 まぁまぁまぁ・・・笑
輝生さん)一子相伝やで。
政恵さん)たまに味変わったなとか、ちっさなったなーとか言われることあるんですけど、「いや変わってないです!」って笑 昔から同じ型使って成型してますしね。お店によっては材料にマッシュポテト(つぶした状態のもの)を使うところがあるんですが、うちは先ほどからお話したように芋からなのでそこはやっぱり絶対にこだわって作ってると言いたいところですね。
輝生さん)芋は湯がくより、皮むきが大変。やったことある?笑

―ありますよー笑 いちおうこれでも主婦のハシクレなんで笑
輝生さん)めっちゃ大変やろ?皮むくの?

―はい。ま、ピーラーを使いますが笑
輝生さん)うちは機械でむくんやけどな、大変。

―お芋の種類は?
政恵さん)男爵です。
輝生さん)基本は北海道のお芋さん。春先から夏前の北海道の芋がなくなる2~3ケ月だけ別の新じゃがを使うけど、基本は北海道男爵。
政恵さん)重さもずっしりあって、甘味も味もしっかりしてて、ほくほくしてます。

―コロッケ作りで大切にしていることは何ですか?
輝生さん)毎日作ってるってこと。作り置きをせず毎日全部手作り。従業員さんたちは手がすいたら串カツ作ったり、ハムを切ったり。衣をつけたまま長時間置かないようにしてる。じゃないと衣が水分吸ってしまって揚げると真っ黒になるから。

―今日はコロッケ足りなくなった・・・って時は?
輝生さん)閉店・・・?笑
政恵さん)一日一釜(湯がく)って決めてるんで、もうそれ以上は作らないですね。ただお盆とか年末など帰省で皆が帰ってくる時期は2回炊いたりしますね。

 

池田精肉店広報担当

―2022年にLINE公式アカウントを開設されてますが、その経緯は?
政恵さん)どうやったかな?
輝生さん)電話かかってきて、今無料でこういうのできますけどどうですか?ってやり始めた。
奥さん)??・・・いやいやいやいや・・・ちゃうちゃうちゃう
輝生さん)そうだって。
政恵さん)違う・・・私、調べてん。自分で。無料でそういうサイト作られへんかなって。注文の予約をスムーズにできるサイト作れないかなって色々見てたら無料でできるサイトを見つけて。そこからLINEと連携できる事が分かって自分で全部やったもん。そんなん向こうからしませんかって電話かかってきてないで。
輝生さん)え!? ほんまに?

―まぁまぁまぁまぁ笑・・・ではもしかしてインスタグラムの投稿も・・・?
政恵さん)全部、私笑 誰もやってくれないもん笑

―投稿ネタの感じから、てっきり息子さんか誰かがされてると・・・笑
政恵さん)それよく言われます。だいぶしんどいんですよ、ネタ考えるのが笑 だからネタが尽きたら投稿ストップ笑
輝生さん)息子は息子で忙しいんでねー。
政恵さん)私も忙しいねん。だから家帰ってからやってるねん。

―まぁまぁまぁ笑  実際LINEでの注文はどうですか?お友達登録が1000名突破されてますよね。
政恵さん)はい、ありがとうございます。お客様も、LINEで注文するのが楽と言ってくださいます。こちらとしても電話での聞き間違いの解消や、時間の短縮もできてよかったです。

―インスタ投稿主が政恵さんだと判明したところでもう一点気になってたんですが・・・。以前、店舗前にマスク姿のかわいいぬいぐるみを見ましたが。あれは?
政恵さん)私。笑 コロナ禍にただアルコール消毒をボンと置くだけだと何か冷たい感じがするから、何かこう・・・、なめこちゃん(ぬいぐるみのキャラクター)
にマスクさせて、「ま、アルコール消毒やってちょうだいよ♪」みたいなね笑 うちの娘が持ってたぬいぐるみがあったんで。その頃はマスクさせてたから何か可愛かってんけど、マスク外してそのまま置くと何?って感じやから、その後、冬はニット帽被せてみたり?WBCのときはユニフォーム着せてみたり?しててんけどね。

―不二家のペコちゃんみたいな感じで?笑
政恵さん)違う違う

―今日は居なかったですけど?
政恵さん)ネタ切れ。笑

―そういう演出も全部政恵さんがされてたとは。ただただ驚きです笑
政恵さん)そうですよー全部私ー!笑

俺は「池田」で

―定休日は日曜日のみですね。池田精肉店さんにとっての貴重な休日は何されてますか?
政恵さん)ほんまにバッタバタです。週1回の休みやからちょっとゆっくりしてから・・じゃない。動かんと損!?て感じで買い物行って、喫茶店行ったり、それでまた何かして・・・。それはもう息子も同じで毎週日曜日、空いてる時ないですもん。山行ったり、海行ったり。旦那もテニス行ったり、みんなそれぞれです。

―息子さんが継いでくださるのは頼もしいですね。
政恵さん)はい、もうそれはありがたいことに。小学校のときから言うてましたよ。「俺はもう”池田で”」って笑

―何か今後とりいれてみたいこと、やってみたいことはありますか?
政恵さん)働き手もだんだん少なくなってきてるから、仮に大きくしようと思っても、無理がありますよね。今、海外の方を雇用されてるところ増えてきてるじゃないですか。そういう風にできるんであれば考えていけるかもしれないですけど、いまのところ家族経営プラス来てもらってる従業員さんのキャパでやっていける範囲でなので、まだちょっとわからないですね。

―お店は新町通りや大川橋も近く、付近でのいろんな行事や時代の移り変わりを目にしてきたかと思いますが、五條市についてどのように感じますか?
政恵さん)子供の頃は、新町通りもただの古い街並みっていうだけで特に何も思いませんでしたが、今は道も綺麗に整備されて、古民家を再生したお店とかも増えてきましたよね。観光客も少しずつ増え、そういった感じでこれからもお店や観光客が増えていけばいいなと思います。駐車場の整備などは取り組んでほしいですね。でも若い世代がいなくなってしまって、何かこう、若い世代が働いていける企業や工場の誘致とか、大学とかができれば違うんでしょうけど、五條にいてても・・・て、みんな出ていっちゃうじゃないですか実際。
中央公園には市外からも子供連れが大勢遊びに来るようで、帰りにお店に寄って買って帰ってくれます。そういう公園があるのはいいなと思いますね。やっぱり人が集まるようなものがないとってことですよね。

―輝生さん、政恵さん、お母さん、本日はありがとうございました。

住  所 五條市五條1丁目9-23
電話番号 0747-22-2437
営業時間 9:30~18:45
定 休 日 日曜日・臨時休業

 


☆スタッフHのすぽっとwrite☆

家でコロッケを作ったことありません。
冷凍を揚げても大失敗。なのでワタクシ、主婦のハシクレは今後も家でコロッケを作る気も揚げる気もありません笑。だってあんなに美味しい「てづくりコロッケ・ハムカツ・串カツ・・・」が池田さんにあるんですから。

お忙しい中、つたない取材に快くお応えいただき楽しいひとときでした。なのでワタクシ、インタビュアーのハシクレは、この記事を通してお店やコロッケのこと、そしてSNSやなめこちゃんディスプレイはぜーーんぶ、政恵さん発信なんだということを少しでも多くの皆様に知ってもらえたら嬉しいです笑。

店先の“幸せコロッケ香”に包まれ出迎えてくれたあのなめこちゃんにまた会えるのを楽しみにしています♪

 

第73回 山本美容室 原谷裕子さん・山本智子さん / Lash fully 岡佳苗さん

求められる間は続けたい「美と癒しのお手伝い」
それが私達の活力

左:原谷裕子さん 右:山本智子さん

重伝建の街並みに溶け込む店先に暖簾が揺れる。何屋さん?興味から中の様子を伺う方も・・・と話す2代目裕子さん智子さん姉妹のお店は一見「美容室らしくない」。が、取材後には一転、外観も暖簾も全て「山本美容室らしさ」に感じられる。
まつ毛エクステ「Lash fully」を併設する裕子さんの長女佳苗さんと共に営む山本美容室は、歴代ワンコと新入りニャンコ、ここに居る方、訪れる方が癒し癒され歩んできた場所。これまでの歩みや思い出、ご趣味や楽しいトークを聞かせていただきました。

それぞれの思い出

―山本美容室の歩みについて聞かせていただけますか
長女、原谷裕子さん:以下裕子さん)母が美容師の免許取ってすぐにお店を始めたんじゃないかな。母の修行先でもあった3件隣の小林美容室さん(現在は駐車場)の移転をきっかけに、その店舗を引き継いで昭和24年に開業しました。ここに移転したのは昭和33年・・・、その翌年に伊勢湾台風の災害にあったんです。

―移転した翌年に・・・。そのときのこと覚えてらっしゃいますか?
裕子さん)覚えてます。そのとき私は小学校1年生で、それはもうすごかったことを覚えています。ほんとにすごかった・・・。上まで浸かって。だから壁に浸かった跡の筋がついてたよね?
次女、山本智子さん:以下智子さん)そう・・・、そのときにお雛さんが流れてしまってね。だから、うち三人姉妹なんだけど、お雛さんの思い出がないんです。

―その後ずっとお店を守り続けてるんですね。とても素敵なお店ですが、改装を?
裕子さん)新町通りが重伝建に指定されたとき(2010年)に改装しました。改装中、壁を一旦取っ払ったときは焼け跡のような真っ黒な骨組みが出てきてびっくりしました。当時で築160年くらいだと聞きました。
智子さん)隣と奥の建物は昔はつながっていて、ここは料亭だった様です。この辺りは宿場町だったので舟から上がって来た方達が利用してたんじゃないでしょうか。

―宿場町でとても賑わってたんでしょうね。
裕子さん)そうですね。河原に舟がとまってた風景を覚えてます。
智子さん)上の方から木を組んで筏にして流れてくるのね。トラックじゃなく当時は川を流して運んできて。その先の川端二見の貯木場に集まった木を今度は汽車に積んで・・・。ほんとに昔ですね、昭和30年代かな。この通りにも魚屋さんとかすごくたくさんのお店があったよね。
裕子さん)そうそう、お風呂屋さんとかもあったよね。

―裕子さんがお店を引き継いだのはいつ頃ですか?
裕子さん)平成10年に、母が引退するタイミングでお店を継ぎました。

―裕子さんはやはり小さい頃から美容師を目指してたんですか?
裕子さん)もうずっと洗脳されて育ったって感じですよね笑 高校出て美容学校行ってインターン行って2年ほど大阪に居て22~23歳くらいに帰って来たのかな・・・。子供の頃、お店がすごく忙しくて、私が小学校2~3年の時から家事、ご飯作りとか結構言われてね笑。
智子さん)年末とか、季節の行事のときはほんとに忙しかったから、私の小学校の入学式はこの人(裕子さん当時4年生)が付き添いしてくれましたから笑
裕子さん)しっかり覚えてるな~笑 私があんたの入学式の付き添い行ったの?笑
智子さん)そうやで笑

―智子さんは美容の道へは進まなかったんですか?
智子さん)はい。お店は姉が継ぐもんだ、私は外へ出るもんだみたいな感じで、自然とそうなりましたね。高校出てから京都に居てて、そこで色々して、いつこっちに帰って来たんだろ?そうそう、平成7年に帰ってきたんです。父親の具合が悪くなったのもあって戻って来て。そのときは継ぐ気も何もなかったんですけど、母も父に付きっきりになりましたので、お店を手伝ったり雑用係みたいな感じで。
裕子さん)そうやったね、旦那も連れて帰って来たのよね笑
智子さん)そうそう笑

―時代と共に美容室のスタイルも変化しましたか?
裕子さん)母の時代は結い上げ、アップといったセットの時代ですよね。当時はまだお正月に着物を着る習慣が残ってましたので、そのセットとかね。
智子さん)花嫁さんがお家から嫁いでいった時代なのでお家にお邪魔して着付けや化粧、かづらのセットもしてましたね。
裕子さん)徐々にセットのスタイルはなくなって、パーマでもこういう中に入るっていうのもなくなりましたよね。今では当たり前ですが、予約制を取り入れた当初はお客様に怒られたり。「すぐ行かれへん」とかって。
智子さん)昔は美容院て、何だろな・・・文化というか一種の社交場だったんですよね。ここへ来て順番待ちながらお話して、そこで息抜きするみたいな場所。だから予約制にすると、ここで近所の方と会う機会がなくなってしまったんですよね。こちらとしては効率化も考えて取り入れたんですが、お客さんにとっては寂しかったのかもしれませんね。

趣味と癒し

―智子さんは鞄作家とお聞きしましたが?
智子さん)いえいえ、作家ではないですないです。趣味でしているだけです。ただ編み物が好きなことから始めたんです。

―セーターとかではなくて鞄を編むって難しくないですか?
智子さん)笑笑 セーターだと、前身ごろと後身ごろと袖を編まないといけないじゃないですか・・・それめっちゃ苦手で笑 一発で作り上げたい・・・それが理由です笑 だいたいのイメージで作ってるんだけどイメージ通りいった試しがない笑 以前は大きいバッグを作ってたんですけど、最近は小さいバッグをいろいろ挑戦しています。セーターだと主に毛糸で編みますけど、鞄だといろんな素材で編めますからね。
裕子さん)これなんかは和紙でできた紐で編んでます。だからすごく軽いんです。何回もほどいては考え・・・ってやってるよね。

―裕子さんも鞄を作ってるんですか?
裕子さん)はい。私はミシンで作るタイプの鞄です。20年ほど前はこういう人形を作ってたんですよ。それが何で鞄になったん?て皆に言われるんですけど、細かい作業が大変になって。でも、こういう何か作るっていうのが好きで時間があったらひたすらミシンを踏んでます。


―作品は展示や販売などされてるんですか?
裕子さん)はい、今は月に1回のイベントによんでいただいて販売しています。
智子さん)近くに刺繍作家の方がいらして、その方のイベントに参加させていただいたり、以前は高野山で開催されるクラフト作家のイベントにもよんでいただきました。

―ほんとにお好きなんですね。そしてお二人とも器用でいらっしゃいますね。
裕子さん)いえいえ、そんなことないです。やっぱり、極めてないのよね笑
智子さん)そうそう、器用貧乏っていうのかな笑。
裕子さん)もうほんと、楽しんでるだけで結果はついてきてないんです笑。いろんなお客さん来てくれて出会うのが楽しい・・・そんな感じですね。うちってお客様を待つ商売じゃないですか。その待ち時間とかお昼休み、合間合間の時間を使って編んだり、ミシン踏んだりしてるんです。

―ワンちゃんのお写真がたくさんありますが?
裕子さん)うちの歴代犬の写真です。この子が去年の夏に亡くなって。いつもここで一緒に居た子だったからお客様も「あれ?わんちゃんは?」って気にしてくれて。20年くらいずっとうちにはわんこが居ましたから。うちの美容室=犬だったんです。 

―大きくて存在感があって、癒しですよね。
裕子さん)そう、すごい癒しです。すごくおとなしくて、じっと見守ってくれてる感じで。

―今は猫ちゃんがいるとか?
智子さん)そうなんです。生まれてすぐ親猫がいなくなってしまったのか一晩中鳴いてたのを保護したんです。
裕子さん)冷たくなっててもう助からないと思ったけど、もうほんとに小さくて、87gだったかな、なのにしっかり鳴いてて。夜中2時間おきにスポイドでミルクあげて無事大きくなってくれました。
智子さん)すごいやんちゃで、仏壇が好きで暇さえあれば仏壇に入ってる笑
裕子さん)あれ、狭いから落ち着くのかな笑
智子さん)位牌は倒すし、線香立てはひっくり返して灰まみれにするしでもう大変・・・笑

 ―でもかわいいですよね。
裕子さん智子さん)はい笑

まつ毛エクステ「Lash fully」
岡佳苗さん

私ができた旅立ちのお手伝い

―佳苗さんが美容の道へ進まれた経緯についてお聞かせください。
私はもう決まっているかのように、ここで母と一緒に働くんだと子供の頃から思ってたんです。祖母にも子供の頃から、あんたが継ぐんやで~ 代々そうやっていくんやで~みたいにずっと言われてて笑 母がめちゃくちゃ忙しかったんで、祖母が母親変わりだったんですよね。美容の仕事が好きというのは大前提ですけど、私は髪の毛よりもまつ毛とかエステとかの方が好きだったんで、美容師免許取得後、ずっとまつ毛のお仕事をしています。美容室には既に母にお客さんがついてましたし、私は何か違う方でお客さんを広げようと思ったんです。

―美容師免許取得後すぐにこちらでお店を?
いえ、大阪のエステサロンで勤めていて、そこでまつ毛エクステと出会いました。いつかは独立しようと思ってたんですけど、そうですね・・・、そのタイミングが26歳の時にきて、ここでお店を始めました。早い独立だったので色々心配もありましたし、まわりから田舎では失敗するやろう・・・とか言われたりもしたんですが、ちょうどマツエクが流行り出した頃というのあって、お客様も来てくださって、結構こっち(五條)でも需要があるんだって思いましたね。

―都会でされてたときと比べてどうですか?
そうですね。流行りを追う都会に比べると、髪が伸びたら切るのと同じ感覚というか、マツエクが外れたら行くって感じで生活の一部として考えてくれてますので、「定番」の気に入ってもらったものをつける、っていうスタイルでさせてもらっています。

―店名「Lashfully」の由来は?
ニューヨークの「Lashfully」というお店をネットで見つけて何かいいなって思って。Lash(まつ毛)がfull(フル)ってことで。若い頃、ニューヨークへ旅行して以来、ニューヨークが大好きなんです。

―どういったお客様が多いですか?
高校生から上は80,90代の方まで、幅広い年齢層の方に来ていただいてます。都会では来店客の年齢層が割と区切られてたんですけど、こっちではいろんな年代のお客さんと接することができるのでそこがいちばん楽しいというかいいところだなと思っています。

―お店の紹介は主にSNSですか?
SNS、めっちゃ頑張りました笑 ブログ書いたり、リーフ作って駅で配ったり、ポスティングしたり。でも一番強かったのは新聞でしたね。当時新聞に載せるのがこの辺りではいちばんいいって聞いて、ちょうど何かのキャンペーンだったかな?母の方の美容室を掲載する時に一緒に載せてもらったら、それが一番反響があって。時代や地域性だったのかもしれないですけど、新聞をみていただいて広まったって感じですね。

―1日どれくらいのお客様を施術されますか?
今は子育て中なので1日に3組と決めさせてもらって、週5日しています。

―今までで印象に残った出来事はありますか?
もう亡くなられた方なんですが、ちょっと遠いところからずっと歩いて通ってくださってた80代後半のお客様がいらしたんです。最後にいらしたときは施術ベッドからひとりで起き上がれなくて、初めて「タクシーよんで」っておっしゃったんです。その1週間後にその方は亡くなられたんですけど、そのとき「美」って女性にとってすごい大事なんだなってほんとに思ったんです。私、お葬式に行かせていただいたんですけど、後に、最後の旅立ちに立ち会った方から、死に顔がとても綺麗だったよ、良かったねって言っていただいて、何か嬉しいって言ったら言葉が違うかもしれないですけど、このお仕事してて、何か自分にもできることがあるんだなって。お客様が亡くなられた後のお話まで聞かせてもらって、お役に立てたことがあるんだなって思いました。

―佳苗さんのところに綺麗にしてもらいに行くことが気力、楽しみだったんでしょうね。
そうですね、うれしいです。

―施術中はお客様とどんなお話をされますか?
今日の夕飯何作るんですか?とかそんな話ですよ笑。主婦の会話です。白菜あるんですけど、どう(調理)します?とか笑 最近流行ってる美容の話をしたり、海外ドラマの話とか色々・・・ほんと普通の女子トークです。寝はる人はすぐ寝ますね笑

―どういったお店にしていきたいですか?
求められる間はずっと続けたいなって思ってます。今来ていただいてるお客様もほんと長く来ていただいてる方多いので。あとは有資格者の方に技術のレクチャーもしていきたいです。

―お母さまは鞄作りがご趣味でしたが、佳苗さんは?
私は結構アウトドア派なんですよね。海行ったりとか、そっちの方が好きです。自然に癒されに行きます。今は子育て中なのでなかなか行けないですが、休みの日は公園に行ったりします。

ー佳苗さんありがとうございました。

 

お客様と共に歳を重ねて

―これまでの人生を振り返ってみていかかですか?
裕子さん)とにかく忙しすぎて駆け抜けてきた感じ。だからほんと子育てとかあまり覚えてないのよね笑 ご飯作りはずっと妹がしてくれてたし、習い事も全部母が連れて行ってくれて。上靴とか私、洗ったことなくて笑。ほんとみんなに助けられて、ただただ感謝です。今度は私が娘の子育てを手伝ってあげないとね。

―五條市についてどのように感じますか?
裕子さん)そうですね、閉鎖的だなと思います。
智子さん)人口も減ってきてるし交通のアクセスも悪い。最近新町通りでも増えてきた空き家問題。それでも何かできることはあるんじゃないかなと思います。何か新しいことを始めるときにはもっと女性の意見を取り入れてほしいなと思います。昔、新町の良さを発信したくてかげろう座の前身『ワンデーズギャラリー』を立ち上げました。その後数年間はかげろう座でにぎわいを見せましたが、いつしかそれもなくなり、あれほどのにぎわいは未だないですよね。かげろう座はとてもいいイベントでしたので、ああいうのをまた考えてほしいなと思いますね。
裕子さん)かげろう座では、ここも喫茶店にしたんですよ。たくさんの方が来てくれて、楽しかったってみんな言ってくれました。たった1日だったけどすごく楽しかったって。

―お二人姉妹とても仲が良いですね。
智子さん)親が忙しかったから昔から何でも自分達女3人でやってきてたからかな。
裕子さん)彼女(智子)は真ん中で一番しっかりしてて、私は長女でなんかずっとぼーっとしてましたけどね笑
智子さん)歳取ってくると特に、お互いしかいないしって感じですよね。何となく流れで私が山本の姓を継いでますし、何となくそうなっちゃったんです笑。だから、私の方が「お姉ちゃん?」ってよく言われます笑 

 ―そして、お二人ともとってもおしゃれで素敵です!
智子さん)いえいえ・・・そんなことないですよ。ただ好きなんです。お洋服とか。
裕子さん)元気になりますやん。お洋服の力っていうのかな。

 ―ではお洋服などお買い物は一緒に?
裕子さん)はい、鞄作りの材料を仕入れに本町(大阪)へ行って、そのついでに。でも好みのお店のお洋服もだんだん似合わなくなってくるのよね、体型がほら、下がってくるでしょ笑

 ―お料理なんかもお好きで?
裕子さん)この人(智子)はね。だから18日はお味噌作り。二人で毎年仕込むの。今度、18日やんな?
智子さん)そう、18日。

―今後はどういったお店にしていきたいですか?
裕子さん)私も70歳なのであと10年はできるかな・・・ていうかしたいなって。といって、もうちょっと頑張ってるかもしれないし、早めに引退してるかもしれないし。今でも目が見えにくくなったり、ブローしながらの会話が聞こえにくくなったり・・・いろいろありますけど笑
智子さん)お客様がいらっしゃる限りはやっぱり続けていきたいですね、たとえ一人になってもしようなっていつも話してんねんな?
裕子さん)そうそう。吉行あぐり※みたいに生涯現役で笑

※90歳を過ぎても、馴染み客限定で美容師として仕事を続けていたが、2005年(平成17年)に閉店。日本の美容師免許所持者最高齢だった。

智子さん)お客様も高齢化で、最近お顔見ないなと思ったら施設に入られたとか、「入院してたの」「骨折して・・・」そういうの最近増えてきました。仕事が先細りになるのは確かですが、我々も歳とっていきますんで、お客様と一緒に歳を重ねていくって感じですね。

 裕子さん・智子さん)長引いたコロナ禍で、久々にカットに来られたお客様は何となく元気がなく、疲れたご様子なんですよね。お出かけできなかったり、人と会う機会が減ってしまったからでしょうか。でもヘアを整えると驚くほど元気になって帰られるんです。そういった姿を見ることで私達も元気になれるし活力なんですよね。これからもお客様の美と癒しのお手伝いができればと思っています。

―裕子さん、智子さん、佳苗さん、本日はありがとうございました。

 

山本美容室  
住所 五條市新町1丁目10-14
電話 0747-22-5421
営業時間 8:30~17:00 (予約優先)
定休日 毎週月曜日・第2月・火曜日・第3日・月曜日
駐車場 有 (店舗横)

☆スタッフHのすぽっとwrite☆

「鞄作家」「子猫の保護」すぽっとらい燈ファン?の方から山本美容室についてこの2つの情報を入手しました。一旦持ち帰ることなくその場で取材の取り次ぎを依頼したのは、取材歴8年のワタクシの直感とでもいいましょうか?笑 でも、ほら的中。こんな素敵な方達と出会えました。おふたりが作った鞄はもちろん素敵で取材時一目惚れした大きなバックは買い物に旅行にと大活躍中です。

まわりから姐さん姐さんと呼ばれている私ですが兄弟は兄二人。女姉妹、特に姉が欲しかったんですよねー。姉妹で買い物、姉妹で味噌作り、鞄作り。ほんとうらやましい。裕子さん、智子さん、どうか「姐さん」と呼ばせてください。そしてこんな私を「妹」だと思って?(笑)これからもよろしくお願いします(⌒∇⌒)

 

第70回かどや 森脇孝子さん 津積絵美さん

 

 化粧のちからで心豊かな人生を応援します

 

娘さんの代で3代目となるかどやさん 娘さんとお母さまが二人で仲良く楽しくお店をしてます。お店が出来た経緯を教えていただきました。

いつからお店を始められましたか?

65年前位からです。

お母さま)先代の父と母が始めました。元々橋本の隅田に住んでおり、百姓もしていました。ところが父が病気を患い、和歌山県庁の仕事を辞め、牛乳の販売と処理場をしていた親戚の片岡牛乳さんから土地を買い取ってこの場所でお店を始めました。その当時はこの周辺は南都銀行、郵便局、NTTがあり賑やかだったそうです。
先代の父は、京都工
芸繊維大学出身で繊維の勉強をしていた関係で、下着はワコール、服はレナウンがいいと取引を考えた人です。お店の開店の初期は足袋、和装小物を販売してたようです。お店の2階に福助の人形があり今でも大切にしています。
そこから資生堂、カネボウ、マックスファクターの化粧品を始めていきました。

お母さまはいつからお店にいてますか?

主人と結婚してからお嫁に来て40年以上です。

お母さま)主人が学校に勤めてましたので、私がお店を手伝うようになりました。お店はその頃資生堂花椿クラブのチェーン店になっておりまして一から化粧品の勉強をしました。資格を取得するのに、奈良まで何日も通いました。その頃は、エリクシール、リバイタル・ドルックス・クインテスの商品がありました。正社員の方が2人居て、母と私と4人でお店をしてました。一人前になるまでに化粧品の知識と技術がいりますので2年はかかります。

娘さんはいつからお店で働いてるんですか?

大学を出てから20年以上居ます。

お店を手伝いながら資生堂ビューティーアドバイザーの資格、一般社団法人日本エステティック協会のフェイシャルエステシャンの資格を取得してます。娘が、お店を手伝う事に先代の社長はすごく喜んでました。

お客様はどのような年齢層が多いですか?

年齢層は高齢の方が多いです。

お母さま)一度お店に来られた方は長い間来てくれます。一人暮らしのお年寄りが多いので、化粧品を購入に来られて、世間話をされて憩いの場になっております。五條市から引っ越しされた方や、その方の娘さんも来てくれます。

お薦めの商品はありますか?

お母さま・娘さん)取り扱いの化粧品は資生堂、カネボウですが当店ではカウンセリングをして対面販売する専門店の化粧品店です。お客様の一人一人のお肌の悩みをよくお伺いしてお客様の気持ちに寄り添う事です。その悩みを解決するお手入れ方法や、綺麗になる為の商品や使い方を丁寧に紹介してます。店頭機器を使って肌診断も実施してます。毎月実施するセミナーに必ず出席して常に新しい知識と技術を取得してます。
化粧品の他にも洋服、小物を販売しております。娘が大阪に仕入に行ってます。みなさん高いと思うイメージがあるそうですが靴下、鞄、エプロン等お手頃価格商品も置いてます。

エステもしてるんですね?

娘さん)基本的にお勧めしてるのが、お手軽価格でマッサージとパックがついて¥2,200。月2回位来ていただけたらと思います。

エステがメインではなく、お手入れをしながら、化粧品の正しい使い方や、今使っている化粧品の有効的な使い方を伝えていく事です。エステをすると、肌がツルツルになったり、もっちりしたり化粧のりがいいです。エステをされたお客様が、お家に帰りますと娘さんに「今日は肌が違うね」と言われた話を聞くと嬉しくなります。同窓会やライブなどのイベントの前にエステに来られるお客様も居ます。90歳の方が、毎週エステに来られてました。すごく綺麗でした。先代の母も92歳まで毎日お店に来て、マッサージしてましたよ。綺麗でした。

肌にとって大事な事は何ですか?

化粧した日は必ずクレンジングして化粧水、乳液を塗りましょう。余裕がある時は、美容液も塗りましょう。お化粧をクレンジングで落とさないなら、化粧はしないほうがいいとメーカーさんが言ってましたよ。紫外線は年中降り注いでいますので、日焼け止めを必ず忘れないように塗って下さい。毎日続けましょう。

配達もしてるんですね?

お母さま)配達に行くと話相手になって長居する事もよくあります。花の話や料理の話をする事が多いです。お客様が配達に来るのを待ってくれてるのが嬉しいです。あまり長い間お客様から連絡がないと心配になりますが、そんな時に配達の電話をくれますので以心伝心ですね。お客様も親切で私が椿の花が好きな話をしましたら椿の挿木を持って来てくれました。お客様に椿の挿木をいただいて、3回失敗して4回目で成功しました。

かどやのコンセプト 化粧の力

娘さん)化粧をするといつまでも元気でいられる。

当店では資生堂化粧療法を取り入れてすべての女性に元気でいつまでも綺麗で居てほしいと願っております。化粧をすると認知予防になり、前向きな気持ちになって、脳の活性化につながっています。眉を書いたりするのは、丁度いい筋肉を使っています。認知予防にもなると、化粧することは注目されてます。誰でも気軽に来れて地域の憩いの場にしたいです。

娘さんの代で3代目になりますがこれからどういう店にしたいですか

娘さん)若い方が来てくれるお店にしたいです。
年齢問わず新しいお客様とお会いしたいです。

五條市内で長年商売をされてまして、五條市をどう思われますか?

お母さま)緑豊かで花を育てながら四季を感じられる安心な街です。人情味があり、人との繋がりが義理堅くて温かいです。食べ物も美味しいですし、安心して暮らせます。ずっと五條市で居たいです。

娘さん)結婚してから五條市から出ましたが、やはり五條市の方が住み慣れてますし居心地がいいです。近所の方達もいい人ばかりです。

本日はありがとうございました。

おしゃれの店かどや
住所 奈良県五條市本町1丁目8-12
TEL 0747-22-2891
営業時間 AM9:30~PM5:30
定休日 日曜日
駐車場

スタッフの感想

初めてのインタビューで緊張しました。お母さま娘さんは気さくな方々でいつも笑顔で迎えてくれますので、お店の中はほっとする空間です。美容に関する話はもちろん、世間話で長居してしまう程居心地のいいお店です。
私自身美容に興味がありまして、訪問する度にお店で新商品を見かけますと気になりまして商品について話を聞く事が度々あります。
化粧品を見てますと、気分が良くなりますね。
化粧をする事が、とても大切な事だと教えていただきました。
これからも美意識を持って年齢を重ねていきたいです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第69回 Cafeことほぎ 桝田小百合さん 園田ひとみさん 森本早苗さん

ここが「繋がり」の場所であれる幸せ お客様も私達も

重伝建五條新町通りの起業家支援施設「大野屋」で前身の「町家カフェゆるり」を引き継ぎ再スタートした「caféことほぎ」。古民家を改装したお店は重厚で風格ある外観、梁や柱、また格子戸越しに入る光、見える眺め等、日本の伝統的な美しさがあふれている。そんなカフェを日替わりで?営業する3名の女性スタッフにインタビューさせていただきました。

 

来てみたらここでした

―「町家カフェ ゆるり」を引き継がれた経緯について聞かせてください
園田ひとみさん 以下 園田さん)「ゆるり」は社会福祉法人正和会が営業していました。5年間営業させてもらったんですが、正和会の本業の方が忙しくなってきたということもあり一旦5年という区切りで撤退しましょうということになりました。私達は正和会の「カフェ担当」で「ゆるり」の時からのスタッフだったんですが、撤退すると聞いてとても残念に思いました。顔馴染みのお客様もいてくださいましたし、ここがまた空き家(空きスペース)になってしまうな・・・って。そこで3人で話合って、正和会から離れて自分達だけでやってみようかということになり、正和会に相談し承諾いただきました。それで店名を「ことほぎ」と変えさせてもらって再スタートしました。

―では皆さんはもともと正和会の職員さんだったんですか?
桝田小百合さん 以下 桝田さん)いえ、私はハローワークで「カフェのスタッフ募集」という求人を見て応募したんです。そこで正和会というお名前を見たものの、正和会さん自身がカフェを始めるとか、場所がここだとも思ってなくて、多分、正和会の施設内にカフェがあって、そこで働くのかなって思ってて。それで来てみたらここで働くんだって分かって笑。

園田さん)
私もそんな感じだったような・・・笑。

ーでは、皆さんは「ゆるり」のスタッフ募集がきっかけでお知り合いになったんですね。以前からカフェのお仕事に興味があったんですか?
桝田さん)そうですね、みんな接客業の経験があるので。

―ゆるりのスタッフとして働き始めて、当時どんなことを感じましたか?
園田さん)あ、こういう形(起業家支援施設内での営業)の経営なんだと分かりました。今までの経験のあるカフェとは違って、色々制約がある(カフェスペースで提供できるメニューの制限、営業日が決まっている等)ことがわかりました。その中でも自分の今までの経験を生かしてお仕事させてもらおうと思いました。

―前身の「ゆるり」と現在の「ことほぎ」、何か違いはありますか?
皆さん)そんなに大きな違いはないですね。

園田さん)
自由にできる部分があることですね。今までは五條市の規約の中のさらに正和会の規約の中での営業でしたが、今は例えば、自分が今日はこのメニューにしようと思えばそれができるとか。それ以外は特に違いはなくて、だからこそといいますか「ゆるり」時代のお客様が引き続き来てくださるのでそれがとても有難いですね。「ゆるり」を始めた頃は観光客を含めそんなにお客様も来てくれなかったんですが、5年間でこのお店のことを知っていただけて徐々にお客様が増えてきました。「ゆるり」の5年間があったからです。名前は変わりましたが、以前と変わらずお馴染みのスタッフが引き続きお待ちしていますので・・・とお客様には伝えています。 

―「ことほぎ」という店名の由来は?
園田さん)3人で候補を出し合い、ずらっと並べた名前をいくつかに絞りました。その中で「ことほぎ」という言葉は「寿ぐ(ことほぐ)」というおめでたい言葉だし、響きも良いなと。おめでたい言葉で少しでも新町通りの活性化につながればってことで「ことほぎ」に決めました。

 

2つの顔

―ことほぎは「日によって店主が替わり、「meguruめぐる」と「musubiむすび」2つの顔をもつcafé」だとうかがいました。そのあたりについて聞かせてください。
桝田さん)「ことほぎ」として再スタートするにあたって、それぞれの両立していく仕事や家庭の事情を考えるとここの規約通りに(定休日(月曜日)以外は必ず開店)お店の営業を続ける自信がなかったんですよね。私は家が農園なのでその仕事と、このカフェの仕事、そして介護などもありますし・・・

森本早苗さん 以下森本さん)
私はお二人のサポートという形で働かせてもらっています。

桝田さん)
それぞれの事情を踏まえると、二人で交替制にすれば無理なく営業を続けられるんじゃないかってことで。でもどうしても無理な時は森本さんがサポートしてくれるので、3人で協力してこのスタイルでやっています。それと、それぞれがちょっと違ったメニューを出したいとか、多分そこも分かれてくると思ったので、お互いを高め合うため、また経営上や食材の管理等、別々にした方がやりやすいんじゃないかってことでこのスタイルにしました。

森本さん)お二人が急用でお店に出られないときのサポートというかたちでお手伝いさせてもらってるんですが、私はケーキ等を作る方の経験はないので、下準備しておいてくれたケーキにトッピングをしたり、飲み物を作ってお出ししたりしています。今日は桝田さん、園田さんいるかなと思ってお越しいただいた方には申し訳ないんですけどね。

―3人でフォローしあって営業されてるんですね。
桝田さん)そうですね。個人経営ではなく市の規約のもとの営業ということで、ここで一緒に働きそのあたりを理解、共有している私達で一緒にお店をやっていきませんかってとこからスタートしたので、互いにフォローしあえてるかなと思います。

―「musubiむすび」「meguruめぐる」のそれぞれの特徴や思いを聞かせてください。
桝田さん(musubiむすび)家業が柿・梅農家なのでそれを使ったものでいきたいなと思っています。ただ、柿、梅の時期は家業も当然収穫で一番忙しい時期なのでそこがネックでして・・・。
五條市の方って柿は生で食べるのがいちばんって思ってる方、多いと思うんです。五條市でも柿をメインにしたケーキや、スイーツを出されてるとこってあまりないんです。お店に来てくださる方には「ここら辺に柿売ってるとこないの?」って結構聞かれるんです。例えば駅からここまでの道中にはその案内をできるところがないので選果場を案内するんですが、そしたら選果場へ行った帰りにここへ寄って柿をつかったスイーツを食べてくれるんですよね。「柿を使ったものを食べれるお店がないのよ」って言われて、あ、それやったらここでそれをお出しして、その美味しさを分かってもらえるのがいちばんいいなぁって思って。五條市の人をはじめ多くの人に柿ってこうやって食べたら美味しいんだよってことを知ってもらいたいですし、五條市の活性化には柿をもっと宣伝したらいいんじゃないかと思っています。柿は割とご年配の方が好まれるので、若者にももっと知ってほしいなって思いますね。

―例えばどんな食べ方があるんですか?
桝田さん)生で食べるにしても、ヨーグルトに入れたりされる方はいらっしゃるかもしれないですけど、例えば、柿はクリームチーズとすごく相性がいいですし、あと、ここでは柿プリンや柿スムージーもお出ししています。生で食べるにしてもパフェにしてお出しするなど、五條の方にも知ってほしい美味しい食べ方を発信していきたいと思っています。

園田さん(meguruめぐる)私は柿や梅を桝田さんのところから分けてもらって、それをアレンジしたものをお出ししていますが、どうしてもよく似たものになってしまいます。ですので私は五條市で獲れる美味しいイチゴや桃、マスカットや梨といった果物を使ってちょっと違うものもやってみようと思っています。あと、栗なども取り入れたものも考案中です。桝田さんの「musubiむすび」とは違う特色をあえて出していきたいな・・・と思っています。

ー最近、モンブランなども話題になってますよね。ぜひ、栗を使ったスイーツも考案してほしいです。
桝田さん)柿農家の私は、廃棄されるような柿がいちばん美味しいと思っています。少し傷があるものはそこから甘味が増しますし、既に赤く色づき今から市場に出せない柿はその時が一番甘味みのピークだったりします。五條市の人は柿を袋や箱にいっぱいもらえたりってことも普通にあるので、それで十分って思ってしまうのかもしれません。広報で柿のスイーツを紹介させてもらってますが、どれだけの方に興味を持ってもらえてるんかなって思います。難しいですね。柿を五條市に発信したいのか、五條市以外の方に発信したいのか・・・、そこが揺れるところです。

園田さん)柿が大好きで毎年、柿の季節になると大阪からお越しになるリピーターさんもいらっしゃいますし、若い方でも柿が好きって言ってくださる方もいますけどね。やはり市外、県外から来ていただく方が多いです。

―定番のシフォンケーキの他に夏はかき氷も人気だったそうですね。
園田さん)奈良市の方でかき氷がブームになってきてましたし、年々夏の暑さが増してきたのもあってかき氷を始めました。シロップにこだわって特色を出していこうということで、柿、梅のほかに苺や桃のシロップを手作りし、徐々に種類を増やしていきました。すもものシロップもできて好評いただきました。

―柿や梅、すもものシロップのかき氷なんて、食べたことないです。よくある夏祭りとかのかき氷とは違うんですね。
桝田さん)そうですね。できたら五條産、できなくても奈良県産でいきたいというのがこだわりです。とっても美味しいのに廃棄されてしまう果実も、シロップ等、違ったかたちに加工することでまた美味しく食べていただくことができるので。

 

 ほっとする場所、ドキドキする場所

―日々の営業で感じることや、印象に残っていることなどはありますか
桝田さん)リピーターの方、ご近所のお年寄りの方がここでコーヒーを飲んでくれるとき、多分ホッとしに来てくれてるんだなって感じるんです。コロナでなかなか人と会えないとか、いろんな行事が中止になってるじゃないですか・・・。なので、ここに近所の人が集まって近況報告とか世間話とかしてるのを見るととても嬉しいんです。また、最近新町通りに新しくチョコレート屋さんができたり、ゲストハウスもできて人との繋がりをここでしてくれることが増えたんですよね。ここがあってよかったわ、ここでちょっとコーヒーが飲めてよかったわって言ってくださって、そういう人と人が繋がる場所として使ってもらえてるのが嬉しいです。

園田さん)先日、ご近所の方々が来られて「ここやったら感染対策ちゃんとしてるから安心やな」「近所の人と話するのってやっぱり楽しいな」「こうして1ケ月に1回集まれたら」「久しぶりにこんな感じで過ごせたわ」ってお話されてて。皆さん長引くコロナに飽きてしまってるんでしょうね。じっとしていることに我慢も限界なのかなって。ちょっとお出かけしたい、でも不安、あまり遠くにも行けない・・って感じですね。ここで集まって話ができたことにあんなに喜んでもらえるんなら、そういう場所としてこれからも使ってもらえたらなって思いました。

ー人との繋がりの大切さ、人と会える嬉しさを皆さん感じてるんですね。ご近所さんにとっても「ことほぎ」がほっとする場所として存在してる様子がわかります。園田さん)あと、観光客の方が、シフォンケーキやかき氷、柿ぷりんをお出しすると「わぁー!大きい!」とか「わぁー!かわいい!」って写真を撮って、インスタに投稿してくれたりするんです。そういった反応がとても嬉しいです。

森本さん)私は五條市で生まれ育ちましたが、今まで新町通りを通ることってなかったんですよね。それがここでお勤めさせてもらうようになって、あ、新町通りって久しぶり、あ、そういえば幼稚園の頃のお友達、この通りのこのおうちの・・・って色々思い出して、そういうのが個人的にはすごく懐かしいっていうのがありました。あと、趣味で日本中の重伝建を周ってらっしゃるご夫婦がお見えになって、「すごくいいですね」ってこの新町通りや五條市を褒めてくださるんです。私からすると、正直、すっかり錆びれてしまった・・・と思っていた場所を「いや、そこがいいんです。他の重伝建は観光地化されて、いろんなお店もあるんだけど、ここは静かに生活されてるそのままの様子がいいんです」って言ってくださって。自分の今までの間隔とは真逆の感じ方をされるそのご夫婦に、地元の者が関心なかったことに気づかせてくれた、あらためて地元を見つめるきっかけをいただけたことが印象に残っています。それから休みの日に、昔の通学路を歩いてみたり、路地に入ってみたりすると、”五條いいやん”って思いましたね。観光客の方がインスタにあげてる吉野川の写真を見ると、めちゃめちゃいいとこやんって思って笑

―新町通りはあらためて五條市を見つめる、魅力に気づかされるきっかけとなる場所ですね。
園田さん)2~3か月に1回東京から来てくださるお客様がいらっしゃるんですが、いつもカウンターに座られて、格子越しに外をながめゆったりとここでの時間を過ごしてくださいます。

桝田さん)ちょっと時間ができたら1ケ月に1回来られるときもあります。

―東京からそんな頻度で五條にこられる目的は?
皆さん)ここ、五條なんです。

園田さん)
五條に来たら、必ずここへ寄ってくださいます。五條の事は私達よりよくご存じです。金剛寺のボタンが・・・とか生連寺のてるてる坊主が・・・とか。奈良が大好き、中でも五條が大好きな方なんです。

桝田さん)奈良や五條へのルート、交通手段なんかもすごい熟知されてて、私達が色々教えてもらってるくらいですよ。

森本さん)きっかけは吉野川のこいのぼりだそうです。吉野川でこいのぼりがたくさん泳ぐ写真を見て五條に行きたいと思ったのが最初だそうです。こいのぼりをあげるところを見たかったそうで、あげる日の前日から五條市に泊まって準備されて。ここを拠点にいろいろおでかけもされますが、1~2日は五條でゆったり過ごし、河原や新町通りを歩いたり散策しながらここで休憩してくださるんです。

―こちらには展示スペースや飲食ブースがありますが、そこへ展示や出店される方との繋がりなどは?
桝田さん)いろんな方と知り合えますし、展示等も見れて楽しいですね。先日、初出店の店主さんが来られたんですが、坊主頭で髭を生やした結構体格のいい方で、もう私達最初ドキドキで、どうしようっっ(汗)、ちょっと絡みにくいかも~って思ったんですが笑、その方はその方で、帰り際に「いいんですか、僕たちなんかがここに来ていいんですか?」みたいな感じで笑。

お店は盛況でバタバタした日は私と森本さんもそちらのお店を手伝って笑 最後には色々お話して、売り上げはどうでしたか?て聞くと、「いや、違うんです、僕は人のつながりが楽しいんです。ここに来ていろんな人との繋がれることが楽しいんです」っておっしゃって。ここで出店される方にはそういうことを楽しまれる方もいてるんだなって思いました。私達も刺激、勉強になりましたね。いや、でも毎回最初はほんっとにドキドキで。お互い様子をみながら絡み始めるみたいな笑

園田さん)ここでの出店を終えた後もSNSでお互いフォローし合って、今日はここで出店してますとか近況を教えてくれるので、あ、今日はそこで頑張ってるんやなとか、ここで私達と出店者の方たちとの繋がりもできています。

桝田さん)お店に来られた方にあのスペースは何?って聞かれることもあるので、(チャレンジショップの)説明をすると、一度やってみよかなっておっしゃる方もいらっしゃいます。

歩いてみませんか 

―コロナ禍での引継ぎ、そして今もまだその中での営業かと思いますがそのあたりについてはどう感じてらっしゃいますか?
園田さん)「ゆるり」のとき、コロナ感染予防対策に対して正和会がすぐに反応、対応してくれたんです。検温、消毒をはじめ、ビニールカーテン、サーキュレーター、エアードッグ等の設置、徹底した感染対策のノウハウも教えてくださいました。その厳重な感染対策は、県の「感染防止等を行う飲食店等の認証制度の星三つ」をいただいています。ゆるりを引き継いだときからその感染対策の経験を大いに活かさせてもらっています。これからも正和会が築いてくださった感染対策の評価を維持しながら営業していきたいと思っています。

―何か困っていることはありますか
皆さん)駐車場・・・

園田さん)
お店の少し手前にあるんですが、「大野屋」と表示してるので「ことほぎ」という名前で来てくれる方にはわかりづらく、通り過ぎてから「駐車場どこですか?」って聞かれること、よくあるんです。この通りは一方通行でバックできないので1周まわってきてくださる方もいますが、諦める方もいらっしゃいます。大野屋は他の出店者様もおられて、それぞれの屋号がありますので仕方ないんですけどね。
桝田さん)新町通りにコインパーキングがあればなって思います。そしたら案内しやすいなって。皆さん観光地に出かけたときってお金払ってでも駐車場に車停めて観光しますよね。

―これからどういうお店にしていきたいですか?
桝田さん)皆さんに知ってもらって楽しんでもらえる空間にしたいですね。

園田さん)人と人との繋がりを増やしていけたら・・・その繋がりの場であれたらと思います。規模を大きくしてとかそういう野望は一切ないです笑。新町通りの活性化に少しでもお役にたてたらと思っています。ここはチャレンジショップの場所なので、いつまでも居座る訳にはいかないんですが、いつまでもいさせてもらえるようなお店になれたら嬉しいですね。

園田さん)五條市の方でも新町通りを通るのが初めてとか、滅多に通らないって方多くいらっしゃいます。24号線や京奈和もありここを通る用事がないっておっしゃるんですが・・・もしよければ、用事がなくても一度歩いてみてください。

桝田さん)ここは四季それぞれの風景を楽しめる場所でもあるのでウォーキングをされてる方、堤防沿いを散歩されてる方も、ちょっとこの新町通りをコースに入れてもらえてたら、何か楽しいんじゃないかなって思います。

―皆さん、本日はありがとうございました。

住所 奈良県五條市新町2丁目5-12(大野屋内)
電話 070-3313-9148
営業時間 10時~17時
駐車場 有 新町通り松本燃料店駐車場3台
定休日 毎週月曜日
※musubi・meguru各担当日についてはSNS、お電話等にて確認できます。

☆スタッフHのすぽっとwrite☆

新町通りを通る度、次のインタビューはここにしようと決めていながら、自称引っ込み思案?のため、外から様子をうかがうにとどまっていた私でしたが、インタビューが実現するまでに偶然にもお店へ行くきっかけをいただいたり、ご紹介いただける人との繋がりがありました。そう、私にとっても「ことほぎ」は繋がりの場でした。

インタビュー後は、もう慣れた様子でお茶しに行けるようになったのも、あの何ともいえない落ち着ける店内の雰囲気とスタッフの皆さんの温かさ・・・ことほぎがかもしだす雰囲気であることに他ありません。柿のスイーツも美味しかったですし、また新町通りを歩く機会が増えそうです。「いいやん、五條」♪

 

 

 

第67回 リカーショップいけがみ 池上輝雄さん

取り戻してほしい 活気ある五條市を

お店の前に並ぶ小さな自転車。中に入ると子供達が楽しそうに駄菓子を選ぶ賑やかな声。何だか懐かしい・・・そんな光景を目にしたのは田園の「リカーショップいけがみ」さん。田園という街ができていく頃からお店と共に地域を見守り続けてきた店主の池上輝雄さんに酒屋としての歩みから現在に至るまでのお話しをうかがいました。

実家は酒屋ではなく

―リカーショップいけがみさんはいつオープンしたんですか?
このお店は平成元年にオープンしました。それまでは五條2丁目の商励会通りの裏手のところにお店がありました。

―池上さんは何代目ですか?
私は初代です。

―初代なんですね。ご実家が酒屋さんではなかったんですか?
うちは八百屋やったんです。親父と兄が主に十津川の方に野菜を卸に行っていました。あの頃、ダム建設が始まって毎日多くの作業員が現場で工事をしていたので、その人達のための食堂とか寄宿舎にも野菜を卸すようになりました。

―池上さんも手伝ってたんですか?
そうやねぇ。親父がケガした時・・・、配達帰りに土砂崩れにあって谷へ落ちてしもて。何とか命は助かったもののしばらく仕事なんてできませんでしたので、その間1年くらい配達を手伝いました。

―そのまま、八百屋を継がなかったんですか?
親父も仕事に復帰してまた配達をしていると、こっち(池原)に(店舗ごと)来てくれへんかという話があったみたいで、それで親父から向こうで八百屋しようと思うんやけどお前も一緒に来てくれへんかと言われました。でも私は嫌だ、俺はここ(五條)に残ると言って親父達には付いていきませんでした。それで親父達は池原で八百屋を始め、私はそのまま五條に残りました。

―五條に残ってそこからどうされたんですか?
五條の「中和酒類販売㈱」というお酒の問屋の会社に就職しました。そこの社長と親父が知り合いで、うちの息子つこたってくれへんかな・・・とかそんな話を親父がしてくれたんでしょうね、そのあたりは私も詳しくは覚えてないんですけど。それで、私も八百屋は継がへんし、せっかく親父も頼んでくれたことやし、行かせてもらいますっていうことでその会社に就職しました。

運命の分かれ道

―それが酒屋を始める原点なんですね。
そうですね。でも数年働いた頃、もっと給料が高いタクシーの運転手になろうと思って退職を決めました。それで東京のタクシー会社まで面接に行きましたが、「こっち(東京)の道も知らない者は雇えない」と断られましてね。辞める決意は変わらないもののどうしようか・・・と思ってたとき・・・私が宿直をしていた夜でした。社長がお通夜に出かけた帰りにたまたま会社に立ち寄ったんです。そこで私と顔を合わすと「おまえ、何でうち辞めるねん」て話になって。正直に「今の給料安いから俺タクシー乗るねん・・・」と打ち明けました。色々話をすると社長が「給料安いって言うんやったら、嫁とここで共働きして、ほんでここに住んだらどうや。2人で働いて、家賃もいらんし、それやったらやっていけるんちゃうか?ここに残って頑張ってくれへんか?」って言うてくれて。どないしょう・・・と思いました。辞めるか、ここに残るか、運命の分かれ道ですやん。結局、社長が言うてくれたように嫁も同じ会社で事務の仕事させてもらって・・・。それが始まりです。

―奥様と共に歩んでこられたんですね。
私らは学生の頃からの付き合いで笑。俺から好きってゆーたんかな笑 いや、多分嫁からやわ笑。
昔は10年勤めないと酒類販売の免許って取れなかったんです。小売店でも問屋でも製造元でもとにかく10年の酒類の仕事の経験がないとだめやったんです。それで私も10年勤め、免許をもらいました。ようやく池上酒店としてお酒の販売ができますので、それからは会社勤めと自分の店をかけもちし、会社が終わった後の夜の時間や、土日祝日、正月も休みなしで市内や橋本へ配達・・・そんな生活を数年続けました。

 

―仕事終わってから配達、休みもなしで働いてたなんてすごいですね。
当時はまだ車社会ではなかったですし、ネットショッピングとかディスカウントショップもなかったのでお酒と言えば配達がメインでした。ビールも缶ではなく瓶ビールが24本、木の箱に入っていて運ぶのはなかなかの重労働でしたが、それがあったからうちの商売が成り立ってたといえますね。正月1日からお酢1本配達に行ったこともありますし、とにかくお得意さんを増やそうとコツコツ、コツコツ頑張りました。お得意さんが10件から30件、30件から100件と増えて、300件近くになった頃、池上酒店として何とか食べていけるようになったのでお世話になった中和酒類販売㈱を辞めさせてもらいました。

―「池上酒店」としてスタートした訳ですね。
そうですね。月曜の朝は野原方面、昼からは二見、夜は・・・と予定を組んで配達しました。店の前はとても道が狭く車を回転させる場所もなくてね。だから都度バックで車を入れてお酒を積んだり、下ろしたり・・・そんなんでしたね。
毎日配達を続けていると配達先のお隣さんが、うちにも来てよって言うてくれたり口コミもあって、最終的には1000件くらいお得意さんになっていただきました。
八百屋のときのままだった実家は自分でペンキを塗り、棚を作ってお酒を並べました。いつだったか、近所で大火事が起きて・・・。嫁はまだ小さかった娘をお風呂に入れてる最中で、近所の人が娘を抱いて連れ出してくれたんです。私も何を持って逃げようかと焦りましたが結局何も持たず、狭い道から車を出すのに精いっぱいでした。

―田園に移転したきっかけは?
うちのお隣に住んでた人が大和団地に勤めていて、あるとき、この田園地区の開発の話を聞いたんです。池上さん、土地買いませんか?と。先ほどから話したように店舗前の道が狭いということもありましたし、先を見据えてまず土地だけ買っておこうと思って買いました。しばらくは買ったままで、そのままにしてたんですが、ぼちぼちお店を新しく建てようかということで平成元年にここ(田園)にお店を建て現在に至ってるという訳です。

自慢の手作りカレー

―田園で新店舗としてスタートされた当時を振り返ってどうですか?
どんなお店にしようかとか、それはもう色々考えましたね。当時はまだこの辺りにお店が何もなかったので、魚から肉から何でも置いてる小さなスーパーみたいにしたんですが、肉や魚の仕入れなどしたことなかったのでそこからでした。いろんな人に聞いて紹介してもらいました。毎日たくさんのお客さんが来てくれて、パートさんも数人いて肉をパックに詰めたり、毎日大忙しでしたね。ヤマザキYショップに加盟してパンもほんとによく売れ店舗表彰もしてもらえました。

―ちょうど田園という街ができていく頃だったんですね。
そうですね。どんどん住宅が売り出されている時期でした。何年か経つと住民も増え、Aコープやお酒のディスカウントショップもできました。そうなると、やはりうちのお客さんは減ってきました。そんなときAコープの敷地内のテナントで何かしませんかと声かけがあって・・・。それで、お好み焼きと定食のお店「あかしや」を始めました。

―お好み焼き屋を?!池上さんが?!
そうです。大阪とかあちこち食べに行って研究して最初は見様見真似から始めました。中を改装して、新しく鉄板も入れました。鉄板も新品のうちは焦げてうまく焼けなかったり、失敗や試行錯誤の繰り返しでした。料理人も雇って、とんかつ定食、焼肉定食など定食メニューを作りました。そうそう、あかしやのカレー、そこそこ有名やったんやで!笑。ソフトクリームも人気やったなぁ。

―どんなカレーですか?食べてみたかったです。
最初は料理人から教えてもらったんやけど、そこに自分流のアレンジを加えて。玉ねぎをしっかり炒めてバナナとかりんご、果物を入れて、カレールー、ニンニク、ブイヨン、インスタントコーヒーとかいろいろ。レトルトではない長時間煮込んだ手間暇かけたカレーで、ほんま自慢じゃないけど、美味しかったんですよ。知り合いに出会ったら冗談やろうけどカレーしてよって言われるんです笑

活気のあった五條市をもう一度

―現在は田園地区の自治連合会と体協の会長もされているそうですが、なかでも田園公民館の設立について随分尽力されたと聞いております。
田園公民館がある場所は最初は小学校建設予定地だったんです。それが、保育所に変わり、最終的には中学校建設予定地になったんですが、それも現在の場所(五條西中学校)に建設され、詳しい説明もないまま住宅予定地になったと知らされました。その時は住民からかなり反対の意見があり、私達(北町自治会、最終的には私を含む5名)が代表として大和団地と話し合うことになりました。何度も何度も話し合いは続き、諦めかけたこともあって、私も最後はもう、「俺毎晩、あそこ(予定地)で寝るわ」て言うたこともありましたよ笑 随分長い時間がかかりましたが、最終的には大和団地が田園の住民のための公民館を建て五條市に寄付するかたちで落ち着きました。ですので、田園公民館が五條市の他の公民館と違うところは大和団地から寄付された建物だというところです。あのときはほんとに頑張りました。今でも田園公民館の運営委員長をさせてもらってます。

―田園地区では毎年お祭りをされてるそうですね。
はい。田園地区では毎年、秋祭りや運動会をしてましたが、コロナ禍でここ数年はすべて中止です。その話と関連してくるんですが、田園地区1,600世帯ある中で自治会加入世帯は現在883世帯です。特に最近、自治会を抜ける人が多くなったように思います。そもそも自治会加入や脱退について義務や規則もありません。自治会を抜ける原因としてはやはり役に当たるのが嫌だということに加え、コロナ禍でイベントが全て中止になり、自治会に入っていても何のメリットも楽しみもないという声をいくつか聞きました。イベント中止についてはやむを得ない判断でしたし、しなかったのではなくできなかったのだということ、今年は何かしらのイベントを復活させようと思っているということを田園ニュース(年2回発行)にて皆様にお伝えしました。

―皆さんお祭りや運動会を楽しみにされてたんですね。
そうですね。お祭りは各団体、体協、防災、婦人会、老人会、消防団・・・に手伝ってもらってやっています。それぞれが焼きそばやカレー、フライドポテトなどお店を出してくれ、抽選会もやってました。自治会加入者には空くじなしの抽選券を配布してましたし、子供さんもたくさん来てくれ賑わってました。やっぱり何かしら自治会に入っててよかったなと思うことや楽しみがないとね。
運動会も始めた頃は30代の方や小さい子供さんも多かったのでとても盛り上がったんですが、今では少子高齢化で選手集めが大変になりました。ですので体育館でのレクリエーション大会に変更してやってましたが、それもコロナで今はできていません。

―イベント復活の際は池上さんのカレーも復活させてはどうですか?笑
いや、ほんまにしょうかって冗談でゆーたことあったけど、他に色々運営やら準備せなあかんのに炊いてられへんわ笑。売れて売れてしゃなかったらどないするねん笑

―今後お店をどんな風にしていきたいですか?
時代は変わって安いお店や大手さんのお店もどんどんできてきます。うちとは仕入れの値段も数も全然違うので到底太刀打ちできません。タバコもお酒も何でも24時間コンビニで買えますし、うちが売り上げを伸ばすには他がどこもやってないことをやるしかないと思ってますが、なかなか・・・。何か考えないと・・・と思いつつ正直現状維持が精いっぱいですね。継ぐ者がいないからとお店を辞めるとこが多い中で、うちは息子が継いでくれて今でもお得意さんへ配達に行かせてもらってます。「池上酒店」の名前があるだけでもありがたいことだと思っています。

―駄菓子がたくさんありますね。懐かしいです。
そうやねん。学校が早く終わる水曜日は、午後から子供さんが大勢買いに来てくれワイワイと賑やかです笑 あと、手作りサンドイッチは昔からやってて今でも続けてるんですけど、人気でよく買っていただいてます。他にクリーニングは金、土は半額サービスなどよく利用いただいてます。

 

 

 

 

 

 

 

―田園地区、あるいは五條市についてどのように感じますか
田園地区ができていく頃からみてきて三十数年経ちましたので当然ですが年齢層が変わったということですね。高校までは五條にあるけど、そこから進学や就職となると多くの若者が五條から出ていきます。これまでは親が子供を連れてここに越してきて子育てをしていた時代でしたが、今度は大きくなった子供達が親を呼び寄せて大阪などに越して行きます。田園の街そのものが変わったなと実感しています。
京奈和ができて便利になったといいますけど、五條に来てもらうための便利な道ではなく、五條の人が外へ出ていくのに便利な道になってしまってるんです。五條へ来てもらうためにはもっと五條へ行こうと思ってもらえるもの、例えば名物の柿の葉寿司、柿も日本一、そこを活かした何かで人を引っ張らないと・・・と思いますね。

昔は新町通りの「かげろう座」が毎年すごい賑わってましたが、なくなっていましましたしね。他にも子供が少ないというならどうしたら子供が増える街になるのかを考え対策しないと。子供がいなくなると、学校がなくなり、文房具も食品も売れない、街が死んでいきます。もっと活気のあった昔の五條市を取り戻してほしいんですよね。

―最後にプライベートな質問ですが、池上さん、ご趣味は何ですか?
ずっと仕事ばかりで時間もなかったのもあって、これといった趣味はないんです。ゴルフもしないし、他のスポーツもできないし。でも「あかしや」ではカラオケもやってたので、歌は好きですね。歌手になろうかと思いましたが、やっぱりあかんだね、上には上がおるから笑 カラオケが好きやね。一度、私の歌、聞いてもらったらわかると思いますよ笑 ま、そのときはたいていマイクが悪いんやと思ってください笑

―池上さんの特製カレーと歌声、楽しみにしています笑。本日はありがとうございました。

※写真撮影時のみマスクを外していただきました

 

リカーショップいけがみ
住所 〒637-0093
奈良県五條市田園4丁目1-6
TEL/FAX 0747-22-2473
営業時間 8:00~21:00
定休日 日曜日
駐車場

☆スタッフHのすぽっとwrite☆

昔のことを振り返りながら、いろいろな話を聞かせてくれた池上さん。
聞いているうちに昔の商店街の様子や、そこで買い物をした思い出、「活気のあった五條市」を私も思い出しました。
時代の変化、少子高齢化、過疎化、さらにコロナ禍・・・インタビュー後半、ついつい話題が沈みがちになりましたが、地域のために日々忙しく活動されている池上さんは「今年は田園の秋祭り再開するよ!そろそろ準備で忙しくなるねん」とパワー全開でした。

第66回 神戸屋靴店・喫茶神戸屋 中山純さん・中山裕湖さんご夫妻

音楽で人を幸せにできたら 神戸屋の暖簾を守りながら

 

シャッター街と化した寂しげな商店街に灯りがともり、心地よい音楽が流れてくる粋なお店がある。五條市で初めて靴屋を営んだという神戸屋靴店。2021年1月、喫茶神戸屋を併設リニューアルし、靴屋の四代目を受け継いだ裕湖さん(弥里朱華(みさとあやか)さん)は「美術教諭を経て青春時代をギリシャで過ごし、絵画の世界から転身した異色のラテン・ジャズシンガー」、そして喫茶マスターのご主人、中山純さんは音響のプロであり、サックスやベース、いくつもの楽器を演奏するミュージシャン。心地いいジャズの流れる店内で、興味深いお二人の人生のストーリーを裕湖さん(朱華さん)中心におうかがいしました。

引かれたレールから羽ばたいて

―まずは神戸屋靴店さんの創業について教えていただけますか
中山裕湖さん 以下裕湖さん)私のひいおばあちゃんの代からここで商売をしていて元々は雑貨屋だったと聞いてます。それが、時代が高度成長期手前、(履物が)下駄や草履の時代から靴へと変わる頃、店先に並べた靴が売れたので新しく出してきて並べる、そしたらまたすぐ売れる・・・そんな光景を目にした祖母が「これはいける!」と思ったのか、そこから「靴屋」を始めたそうです。
祖母はあの時代の女性にしてはとても精力的で、靴屋で儲けたお金で旅館を建て、その後も鰻寿司、スナック、薬屋、鍼灸院と先見の明で次々と商売を始め、ひとかたならぬ苦労をした人だったと思います。

―店名「神戸屋」というのは?
裕湖さん)創業当時から「神戸屋」という名前やったのかどうかはわからないのですが、祖母が靴屋を始めた頃、神戸市によく仕入れに行っていたそうです。仕入れては売れ、また仕入れ・・・ここと神戸市を何往復もしたと。そこから「神戸屋」になったんかもしれません。神戸は履物のまちやしね。当時は靴職人が靴を作る時代で、うちにも職人さんがいたそうです。その技術を祖父、そして父が受け継いで、学校から帰ってくると母はお店で靴の販売を、父は一日中仕事場でこつこつと作業している姿をよく見ました。父母共に人に施しをする気持ちを忘れたことのない人でした。それが今の商売へとつなげてくれているのだと日々感謝しています。

―4代目として靴屋を継がれたわけですが、いつ頃から継ぐという方向になったんでしょうか
裕湖さん)そんな両親は私を教師にさせたかったので子供の頃から、お絵かき、そろばん、ピアノ、お習字、日本舞踊・・・毎日いろんな習い事をさせました。中でも私はお絵かきと歌が大好きで、そこら中の壁に絵を描きまくっては怒られてました。でも小学校5年生の頃から、家にあった地球儀を眺めてるうちに、この丸い地球の裏側ってどうなってるんやろ?一体そこにはどんな人が住んでて、どんな言葉を喋って、どんなものを食べてるんやろ、ってものすごく興味深くてずっとその夢(もっと知りたい、他の国へ行ってみたい)を諦めずにいました。両親はとにかく商売は苦労するからと何としても私を教師にさせたかったので、まだ経済力もない私は家を飛び出すわけにもいかず、両親の望み通り教師になりました。だから継ぐことになったのはもっともっと後の話ですね。

 ―教師としてスタートをきった訳ですね
裕湖さん)はい。両親の教師になってほしいという思い、私は絵を描くことが大好きだったのでおのずと美術教師というレールが引かれました。21歳で採用試験に合格し初めて教壇に立ちましたが、やっぱり私に教師という地味な職業は向いてないと感じました。自分の人生、教師というレールの上を一生涯歩いていくことの息苦しさと何の変哲もない人生を送りたくないという思いで、精神的にも体力的にもきつかったですね。自分にそぐわない環境に身を置くとそうなりますよね。さらにはそのとき大失恋も経験し、身も心もボロボロになり、それで教師を辞め、スーツケースひとつでギリシャへ行くわけです。

 ーギリシャへ?!その経緯について詳しく聞かせてください
裕湖さん)教師を続けながらも、いつかは日本を出て未知の世界を見てみたいという気持ちは常にあって、23歳の時、画家達の集まりでヨーロッパ旅行に行きました。若い女性達はブランドに興味を持つ中、私は目もくれず、地図とスケッチブックを片手にひとりで街をウロウロ。映画「ローマの休日」で有名なスペイン広場の下で一日中絵を描いていました。その居心地の良さに引き込まれて帰りたくはなかった。翌年はインドネシア全土横断し、次に再びギリシャを訪れた時、拠点を見つけてきました。

 

 

 

 

↑20代の頃のヨーロッパの旅の絵
左からオンフルール・モンマルトルの丘・ベニス(オンフルールは入選作品)

 

―拠点?ですか
裕湖さん)そう、拠点。私が住める場所、頼れる人を見つけてきたんです。
ギリシャ旅行のエーゲ海クルーズで船酔いして何も食べれずしんどくてふらふらになっていた時に立ち寄った毛皮の店のセールスマネージャーに助けられ、私を見かねて現地の日本食レストランへ連れて行ってくださりその後自宅に招かれそこで彼の子供さんやお手伝いさんともお会いし、とても楽しい時間を過ごしました。彼はいつでも遊びに来てください、そして僕もまた、日本に行きたいですと。そのとき、ここは、この人は安心できる、拠点にいいなと思ったんです。その人が後々ビジネスパートナーになる訳です。
帰国してからも電話や手紙がたくさん来ました。私は恋愛感情は全くなかったのですが向こうがプロポーズをしに日本に来た訳です。これは日本を出るいい口実になると思いました。それが教師を辞めるきっかけになりました。母は「苦労するなら助けないけれど、幸せになるのなら助けてあげる」といって片道キップの20万を持たせてくれました。それで26歳のときスーツケース一つでギリシャへ旅立ちました。

 

ギリシャでの新しい自分

―ギリシャでの生活、まずどんなスタートだったんですか?
裕湖さん)現地での生活はまず私生活のギリシャ語、彼との共通語は英語でしたが現地人が全て英語を話せる訳ではなく戸惑いながらも家で一人で居る生活が始まり、生きがいを見つけらずにいました。私は何のためにギリシャに来たのか・・・考えながらも彼の仕事の手伝い、ギリシャ→日本への毛皮の発注の仕事を始めますが能率が上がらず、現地での自分の立ち位置を見つけられずにいました。彼に相談するとそれなら二人で店を運営しないかという誘いがありゼロからのスタートとなりました。

―お店とは?
裕湖さん)彼は毛皮や宝石を専門とした店で販売員としての仕事をしていました。お店は持ってなかったけれど、向こうでは何か国語を話せるかで5本の指に入るトップセールスマンになれるかが決まります。彼は8か国語を話せたので世界各国の客を相手に販売力と腕は確かで、信頼も厚かった。最初は小さい店から始めそれがうまくいったので、目抜き通りに店を出そうということで、私は両親から借りた資金を、彼は知恵とノウハウを出し、アテネの中心地は目抜き通りに2件目の店を出しました。小さいながらも自社工場も作りました。当時の人気テレビ番組「なるほど・ザ・ワールド」の取材も来ましたし、ちょうどバブルの時代で観光客によく売れ、売り上げは好調でした。父も日本から会いに来てくれて嬉しかったです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

↑裕湖さん自身がモデルをつとめた毛皮のパンフレットや店舗、
そして住んでいたアテネ市内(パルテノン神殿)の写真

 

―言葉はどうされてたんですか?やはり準備期間に勉強を?
裕湖さん)英語はずっと勉強してたから大丈夫でしたが、ギリシャ語は向こうに行ってから勉強しました。商売がら、まず数字を覚えないということでそこからでした。電話の応対、買い物、タクシーを利用したり、自分で車を運転したりと徐々に生活にも慣れて。彼の友人たちとの交流や語学がもともと好きだったこともあり、イタリア語やギリシャ語、英語、日本語のちゃんぽんしたようなとこから始まって徐々に話せるようになりました。言葉で垣根を越えられるなら努力次第で何とでもなると思って勉強しました。

 

―やはり日本とは全く違う世界でしたか?
裕湖さん)はい、私には向こうの地がすごく合ってたんでしょうね。華やかでキラキラした世界が好きなんですよね。日本では控え目が美徳とされ、出る杭は打たれますが、海外では出すぎるくらい出ないと逆にたたかれる。良い意味で言えば強烈な個性と表現力で豊かな人生を送れる訳です。周囲には競争店が多かったですし商売するとなるとなおさらです。ギリシャは世界一の海軍国です。世界中からお客様が入ってきます。日々、国際色豊かな色んな言葉が飛び交う中での生活は日本では味わえない経験でした。

―その後、お店は?
裕湖さん)その後、ローマ、スペイン広場周辺のコルソ通りに3件目のお店を出しました。でも結局は広げすぎたんですよね、後のバブル低迷期等でお客さんは減り、借金を抱えることになってしまって。一時帰国していた私は店をすべてたたんだことを彼からの電話で知らされました。私はその後ギリシャに戻ることもできず何もかも身の回りのものすべて向こうに置いたまま。その後それがどうなったのかもわかりません。飛び出したときもスーツケースひとつでしたが、帰ってくるときもスーツケースひとつやったっていう話(笑)

―最終的にはお店をたたんでしまいましたが、パートナーとの出会いがあって海外での生活、仕事を経験したんですね
裕湖さん)そうですね、出会いから移住、彼からビジネスやたくさんのことを学びました。ビジネスパートナーであり、共に戦ってきた戦友であり家族でもありました。彼は人生をとてもおもしろおかしく、ドラマティックに、破天荒に生きていました。もう亡くなってしまったんですが、一言では言い表せない波乱の道のりでした。

日本での再スタート  

―帰国してからについて聞かせてください
裕湖さん)向こうで店をたたみ今度は彼が私を頼って日本にやってきました。知り合いの紹介で宗衛門町で2人でギリシャレストラン・グリークバーを始めたもののうまくいくはずもなく・・・そりゃそうですよね、飲食業なんてやったこともない、毛皮を売ってた人間なんですから。それでその商売をやめ、パートナーとはそれを機に互いに別の人生を歩むことになり、私は35歳で大阪の時計宝石の卸の会社に就職しました。

―そこでまた一からスタートということですね
裕湖さん)その会社では15年間勤務しました。自社ブランド担当を任され、言葉ができたのもあって海外出張(ヨーロッパ各国、オランダ・ベルギー・ハンガリー・ドイツetc・・・)にも行きました。商売の基本からノウハウまで仕込んでいただきそれが後にこの靴屋を継ぐときに役に立ちました。営業で小売店回りや展示会の仕事も任され、芸能人をモデルにした企画等で有名な方とご一緒する機会もたくさんあり、仕事は通勤も含めて厳しかったですけれど、そういった華やかでキラキラした世界は私の性に合っていました。ところが、スイスのバーゼルで世界の時計・宝飾展があった日、雪深い山奥のホテルで過労で倒れレスキュー隊が来てヘリでスイス病院に運ばれることに・・・。過呼吸で大変でしたが、何とか回復し帰国しました。そのときも大失恋が重なりまたもや心身ともにボロボロ、最悪の状態でした。私っていつもそう、何に対してもとにかく突き詰めて全エネルギーを注いでしまう、それがプツッと切れたときはボロボロ。それでも身体が限界まで仕事を続けましたが、やはりどん底でした。そんなとき音楽が縁で今の主人に出会いました。主人はまさしく私の救世主となり、その後私の人生は大きく方向転換し、歌の道へと進む訳です。

―歌の道ですか?!その経緯についても聞かせてください
裕湖さん)歌は子供の頃から絵と同じくらい大好きで、学生の頃は合唱団に入っていてソプラノ(NHKに出演)の経験もありました。でもなかなか歌の道で生きていくそのチャンスに恵まれなかったので美術教諭になった訳です。主人と知り合ってからは、水を得た魚のように歌の道にのめり込んで行きました。私は会社を辞め、再び新しい第4の人生のスタートを切りました。教師~ギリシャへ~帰国後会社員を経て~歌の道へと、遠回りしたけどやっと夢が叶った気がしました。それからはバンドを結成して大阪を中心に関西エリアでライヴ活動を続けました。主人はサックスやベースの演奏を、また音響(PA)のプロなので私のキーに譜面を書きかえてくれたり・・・と、主人のおかげで私は救われ、今までとは違う安らぎを覚えました。紆余曲折ありましたが、やっと自分らしく生きていけると思いました。歌い手(Singer)としてやっていこうと決めたとき、これまでの窮屈な過去の自分に別れを告げ、生まれ変わるために、ある先生にお願いして「弥里朱華(みさとあやか)」という名前を付けて頂きました。弥里の弥は弥勒菩薩から一文字頂きました。ふるさとに根をおろしてゆったりとした心で人々に輝きと幸せを届けていけるなら・・・と。

『朱華&Bossa☆Boys』
ステージコンサートやライヴイベント等で活動

 

音楽が繋いだ縁

―純さんのこれまでの歩みについて聞かせてください
中山純さん 以下純さん)何もないで。音楽だけや。

―音楽は子供の頃から何かされてたんですか?
純さん)いや、幼稚園のとき、オルガン教室に無理やり通わされて。小学校3年生くらいまで続けとったんやけど遊ぶ方が楽しいから辞めて。うちも子供の頃から教師になるように言われ続けてきて・・・父が教師やったから、教師か公務員になれと。でも教師の道には進まなかった。

―サラリーマンとか?
純さん)音楽のできるサラリーマン笑 オーディオ機器とか好きやったから、レコードとかよく聞いたりしとって。最初レコード屋で店長として働いとってゆくゆくはそういう店しようと思ってたんやけど、とりあえず一流といわれる会社に入ろうと思って一念発起して35歳で保険会社に就職してん。それからはずっとサラリーマンしながらジャズのビッグバンド、ジャズオーケストラを立ち上げて。週末はずっと音響の仕事しとったな。僕にとって音楽は身体の一部やなぁ。

裕湖さん改め弥里朱華さん 以下朱華さん)
純ちゃん(主人)は橋本市で毎年、市の盆踊りとかのイベントの音響しててん。朝からトラックで現場まで機材運んで、設営、準備、本番、最後片付けして・・・って30年くらいやってきました。ほんま昔は毎週ほど仕事あったときもあったけど、今はコロナでイベントとか全部なくなってしまって。依頼のイベント以外は全部ボランティア精神で市に尽くして表彰されたことがあります。本人はそんなこと一言も言わない人ですが(笑)黙ってコツコツ型の人。

 PA(音響)の仕事の依頼で・・・活動中 

―お二人は出会ったときに互いにビビビと来た感じで?
朱華さん)いえ、最初はお互い全く笑 でもこの人ものすごい純粋で心が綺麗な人やなと思ってたら、ある日突然何かがおりてきてん。なぁ?純ちゃん! 

―そう言うてますけど、純さん?

純さん)笑・・・ま、なんとなくやな。
朱華さん)
この人、ほんま私と真逆で、喋らへんねん笑 お互いかまわれるの嫌うし笑 お互い干渉し合わないからうまくいってるねん私ら。なぁ?純ちゃん!

純さん)
・・・笑

ーそれが円満の秘訣?いいご関係ですね。
朱華さん)そうそう。いい感じの距離感と相手を敬い、思いやる心やね(笑)

 

喫茶店のカウンターに並べたもの

―いつ頃から靴屋の仕事をし始めたんですか?
純さん)10年くらい前からたまに手伝いさせてもらってて。入学時期とか忙しいときとか。
朱華さん)親も歳とってくるし、私も店のことがずっと気がかりで、主人と一緒にたまに帰ってきてましたので。 

―純さんにとって靴屋の仕事ってどうでした?
純さん)いや、別になんにも。手伝いできたらえぇなぁくらいで。お義父さんもお義母さんも歳いってくるし、力仕事でも何でも間に合うたらええわって。

―継ぐことになる経緯は?
朱華さん)主人と店の手伝いしてるときに母が「純ちゃん帰ってきて店してくれへんかな?」て言いだして。私自身、店のことどうしようかと気になりながらも、主人に言い出せずにいたから、それを言われたとき主人はどういう風に受け止めてるんかわからんかって。

―純さん、どうされたんですか?
純さん)その頃、保険会社って合併合併で、そのたびに息苦しさを感じとって。お義母さんから声かけてもろたとき、僕も定年まであと2年って時で。自分でもどうしよかなって思てた時とお義母さんからの声かかったタイミングが合うたというか。ほんだら、もう会社辞めるわってなって。

 

朱華さん)それで、仕事辞めてこっちに帰ってきてくれて。私も自分ひとりやったら店をどうしていこかと思てたけど、主人が一緒にやってくれるなら鬼に金棒やと思いました。 それで、主人は外回りや力仕事、私は事務的なことを引き継ぎ始めて。父ともほんま仲良くやってくれて。そのとき強く思ったんです。いつも世の為人の為と四方八方出かけてはその先々で人助けをしていた父。そんな背中を見ながら育ってきて父や母が祖父母の代から守ってきた神戸屋靴店をなくしてはいけない・・・。今まで好き勝手やって来たけど、これからは私がこの暖簾を守っていかなあかん、守っていきたいと!

―喫茶店を併設することになったきっかけというのは?
朱華さん)父が亡くなり、母も高齢になってきて・・・、母は90歳を過ぎても店番をしてくれて、凛として明るい人、商売上手で気丈夫、今はホームにいますが現役の頃は行動力のある人でした。やはり母の目の黒いうちは大がかりに店はいじれませんでした。ただ、主人にこの店をやってもらうにしてもここでじっと店番をしてもらうのはあまりにも酷だし、何か楽しみながら、居心地よく居てもらえる方法ないかなって考えたときに、喫茶店をしてコーヒーを出したら人が集まってきてくれて、それで音楽も流せたらええなって何となく思って。それで少しずつリフォームし始めたのが始まり。
純さん)
最初はこんなステージとか作る予定なかったんやけど。まず、ここ壊して片付けて綺麗にしょうかって壊したら、ここにこれこうしたらええんちがうやろか?そしたら、ここにこれ置いて・・・みたいにどんどんアイディア出てきて、その結果がこれ。笑
朱華さん)母も最初は喫茶のカウンターに靴並べだして・・・。「ちょっとちょっとお母さん!どこに置いてんの!」みたいなこともあって笑 「お母さん、私らちゃんとやっていくから、もう後は私らに任せて」って言うて笑 でもほんとにいい形で進んでいってくれてよかったなって、このままこうやって幸せに・・・って思ってたら今度は私に病気(ガン)が見つかって・・・。
ショックでした。今では心の整理もつき、いい先生にも巡り会えて治療を続けています。これは試練ですが、病気になって色々と考えさせられました。今ここにこうして自分がいるのは自分だけの力ではありません。生かされている命に感謝して、これからはこの経験を生かして微力ながらも誰かの役にたてればと思っています。病を乗り越え、元気に自分らしく歌を歌うことで少しでもみなさんに幸せを届けていくことができれば幸せ(喜び)です。今はその気持ちで頑張っています。

 

―純さん、喫茶店をすることになりましたが、何かご経験がおありだったんですか?
純さん)ない笑 コーヒーたてるのは好きで・・・。お義母さんが店番しとったとき、お義母さんの友達とか近所の人が店に来て、喋ってるの見とって。そのとき、美味しいコーヒーとか出したったらええなぁって思ってたから、それから一生懸命コーヒー豆の研究したんや・・・(笑)

朱華さん)今では年齢問わずですが、特に70~80代のお客様がいつもコーヒー飲みにきてくれて美味しいって言うてくれるのが主人の一番の喜びになっています。このコロナの時期やからお客さんが5人の日もあったら1人の日もある、でも毎日同じようにコーヒーを出し続けていけたら人が集まり町もにぎわうって思うし、それをしながら店番もしてくれる主人に感謝です。

 

 

―週末にはここでライヴをされているそうですね

純さん)そう、毎週土曜の夜にいろんなジャンルのミュージシャン達が集まって演奏して、それで楽しんでくれたら。それに、近所の人もにぎやかになってええって喜んでくれて。今後は新しくできた市役所などのイベント等で音楽を流して明るい街づくりとかできたらええなって。

―五條市で生まれ、一度は離れ、そしてまた五條に戻り、これからお商売もされていく・・・五條市についてのどのように感じてらっしゃいますか?
朱華さん)近所付き合いを大事にしたいなって思います。五條から離れてた期間が長かったので最初はほんとに五條のことを知らなかった。でも、こっちに帰ってきて徐々に五條の人との交流も増えて、そしてお店にくるご年配の方に「お母さんのことよー知っとるで」「お父さんには世話になってな」っていうてもらえるのがほんまに嬉しい。祖父母~父母の時代があっての神戸屋であり、今の私達やと思う。高齢化や過疎化、そしてデジタル化が進んでるけど、お年寄りがたくさんいるこの街ならやっぱり「人と人」のつながりがいちばん大事やなと思います。

 

昔、にぎわいを見せたこの商励会通りを少しでも取り戻したい気持ちで外のスピーカーから音楽を流しています。昭和の香りのするコーヒーの美味しい店として音楽が楽しめる明るい町づくりの何かお手伝いができたらと思っています。

―純さん、朱華さん、本日はありがとうございました。

※写真撮影時のみマスクを外していただきました。

 

 

絵本作家の長谷川義史さんとギリシャのお酒でカンパイ

 

 

 

 

 

 

 

☆リニューアルオープン当日、毎日放送ちちんぷいぷい「とびだせ!えほん!」のコーナーの取材も☆

 

 

 

 

 

 

 

 

神戸屋靴店・喫茶神戸屋

営業時間 火~土:10:00~17:00
金・土:18:00~ライヴ ※ライヴスケジュールはお問合せください
定 休 日 日曜日・月曜日
駐 車 場 有(店の手前50m北)中矢青果店裏
住   所 〒637-0005
奈良県五條市須恵1丁目3-18
TEL(FAX) 0747-22-2289
※詳細はお問合せください
※コンサート・ライヴ・各種イベント音響(PA)
店舗等音響プランナー
 アドバイザー等 承ります

 


☆スタッフHのすぽっとwrite☆

コロナ禍で控えていたインタビューを1年ぶりに再開。
久々の取材の緊張とこんな素敵な方が五條にいらしたんだというワクワク感。
序盤から朱華さんのお話に引き込まれた・・・が、中盤あたりでうまく記事にまとめられるかと内心焦りだした。

「ちょっと休憩したら?」とコーヒーを出してくれた純さん。経験がないというのに板につきすぎている喫茶マスターのエプロン姿。そして足元はどこか見覚えのあるサンダル。「それって・・・?!」「そう・・・高校の生徒さんの校内用のやつ。これ、えーねん、きつ過ぎず緩すぎず、ほんまに」と、販売店主がというより、純さんが言うんだから間違いないと思わせる雰囲気がある。たててくれたコーヒーが美味しかったのも言うまでもない。

取材の緊張、集中と、昭和レトロな店内、ブレイクタイム。生演奏の迫力と音楽の心地よさ。刺激あり、癒しあり、安心感あり・・・きっとこれも「きつすぎず、緩すぎず」?なんですよね笑

トニカク素敵な神戸屋、そしてお二人に出会えたインタビューでした。

 

 

 

 

 

第65回 金閣園 久保 和生さん

  お客さんと向かい合う「お茶」へのこだわり

 

ー 本日はお忙しい中ありがとうございます。 金閣園さんはといえば、イオンさん(五條店)で長くお商売をされておられる、というイメージですが、お店を始められたきっかけは…? お茶が好きだった、もしくは元々お家がお茶屋さんをされておられた、というところでしょうか?

きっかけと言うか、僕自身は、大阪の和泉市の出でして、そこに大きなお茶屋さんがあって、「これからはお茶がよう売れるから」ということで親戚の人に口利きをしてもらって。それで中学校を出て、そこに奉公させてもらって… というのっが始まりかな?

ー お茶が好きだった、もしくは元々お家がお茶屋さんをされておられた、というところでしょうか?

いや、そんなんと違う。僕はとにかく勉強が嫌いで(笑)、そして特に好きなこともないし、親に、「みんな高校へ行くのに、あんたはどうすんの?」って言われて。僕の住んでた集落は60件ほど住んでて、その中で同級生が11人おった。それで同級生はみんな高校に行ったんやけど、僕だけが高校へは行かなかった。でも、しゃーないやんな?勉強嫌いなんやし(笑)

ー 中学校を出られてすぐにですか? 奉公… というのも、ご主人がお若い時代の当時の世相を感じますね。

そこの店で8年間おったけど、それはもうただ働きみたいな感じやった。でも、昔の奉公なんてものは皆そんな感じですよ。給料なんか小遣いみたいな感じで千円か二千円くれただけ。まあ、食事は奥さんがやってくれてたんやけど。

ー 住み込みでお勤めされておられた、ということですね。

そう。ただ一緒に住み込みで仕事をしとった仲間らは、ほとんどが皆、お茶屋さんの息子か何かで、ここへ修行に来とった。そしてそのお店は、大阪の南部ではそらもう売上1,2位を競うような大きなとこやった。そこのお店で、10年勤めたら、暖簾分けするっていうかたちで最初は行った。当時の親方さんも、手広くあちこちにお店を広げとったから、僕もやれこっちのお店、次はここ、みたいな感じで、だいぶいろんなところに回されたなあ。

ー それで、修行先で10年間勤められ独立… という流れなのでしょうか?

いや、でも見てたら、当時若かった僕の目から見ても、運営が上手くいってないのが分かった。特にお金の面で。自分たちのために貯めてくれていたお金も使い込まれて、このまま長いこと、ここにおっても暖簾分けどころの話やない、と感じてきたんで、当時の商売人の組合とかの役をしている人にいろいろ今後の相談とかもした。それで確か和歌山の人に、今度、「五條」って言うところに、「ニチイ(現イオン)※」が新しくできますよ、と。そこでお茶屋さんを募集しているんやけど誰も来ない… ということを言われまして。

※五條ニチイ  イオン五條店の前身。かつて五條市須恵に存在。

ー なるほど、そのいきさつが五條でお店を開くきっかけになったということなのですね。

いや、話をされた時点では、まだ(五條に)行くとも何とも言うてないのに、とにかくその人から早くしてくれとお話が進みまして… ニチイさんがオープンするまでもう2か月しかない、とにかく早く返事をくれと。確かにその話は当時の僕からすれば有難いお話やったんやけども、五條という土地なんて縁もゆかりもなければ行ったこともない。五條どころか奈良県というところも、奈良公園やったら知ってるけど、みたいな感じで。

ー 縁もゆかりもない土地でお店を開くこと… 最初の頃は大変だったのでしょうね。

お店を出すのにお金がなかった。だから、親に頼るほかがなかった。でも、私も兄弟が6人もおって、その下から2番目やったから、上の兄弟が苦労しているのを見てきてるから、そやけど背に腹は代えられない。自分でお店を持つ、今が千載一遇のチャンスやと思ってもう、こんなのもう2度とないことやと親を説得して、農協の定期預金を解約してまでして、手元に何とか50万円用意してくれた。

ー それで何とか、開店にこぎつけた感じで?

でも実際、そんな金額では、(開業には)全然足れへんかった。開業資金のほかに当時、お店を出すのに保証金なんかも要って、それがまた高かった。でもニチイがオープンするまで、もう2か月もなかったから、もうあるお金だけでいいよ、って堪えてもろた。

ー そうなんですね。いろいろな要素が重なって、いい方向に廻っていく感じですよね!

ただ、最初はお店に商品を陳列したりするのにお金も要って、それはもうみんな借金でした。とにかく巡ってきたチャンスを無駄にしたらあかんという思いで。それと商品のお茶は、奉公していた和泉市の親方から提供してもろた。それで何とか、お店の形ができた。

ー 私もこの企画で、昭和40~50年代に、起業やお店を開業された方たちのお話を何軒かお伺いしたのですが、世代の方は本当にいろいろと苦労なされたのですね。それでは、そのタイミングで(和泉市から)引っ越ししてこられた?

引っ越しやいうても、縁も何もあらへん五條には住むとこもなんも予定してなかった。まあそれでも、こうやって五條でお店を出して、ずっとやっていく訳やから、お店を出すことを世話してもらった人は、住居を紹介してくれた。昔、五條市新町にあった、「五條デパート」※っていうお店の2階が住居部分になっとって、そこを紹介してもらったんやけど、そこは、もちろん五條デパートで勤めとる人、当時は高度成長期で、これから独立しようとする人とかが所帯しとったから、ニチイでお店をしとる僕は、大変居心地が悪かったんやけど。

※五條デパート  かつて、五條市新町に存在していたスーパーマーケット。

ー でも、ご自身のお店をもって住居も用意いただける… とんとん拍子で事が運んだ感じで…

自分の親には、「そんなええ話、お前、騙されとんちゃうか?大丈夫か?」と言われたもんやけど、自分も若かったから、心配も何もなかったわ。やるだけやったるわ、って言う感じで。

ー では実際、オープンしてからの出だしは如何ほど?

最初のうちはもちろん売れへんかった。でもお客さんも段々つくようになって…ってなって来た頃、ニチイが移転※するっていう話になって、今の場所にね。店始めてまだ3年ほどで。それで陳列やら何やらまた一から。それでまた借金をすることになって。 ※五條ニチイ  現在のイオン五條店。かつては五條市須恵に存在。

ー 開業されて丁度お店が軌道に乗り始めた頃ですよね。それでまた一からとなると…。

ニチイがオープンする時は、五條デパートで商売しとった者も皆ニチイで店を出すいうことで、皆で場所を争うて。当然、隅っこのほうに売り場をやられたら、当たり前やけどお客さんなんて回って来へん。そんな中で、(ニチイで)店を出そうとする者みんな集まって、場所取りみたいな会合に行ったんやけど、周りも30代、40代の「大人」ばっかり。自分ははまだ23やったから、何にも分かれへん。そんなんやったから、存在も忘れられてしもとった。それで、会合も終わろうかという時に、ようやく存在に気付いてもろて、何とラッキーなことに、僕にも何でか分らんけど、一番ええ場所に置いてもろた。

ー そうなんですか! 当時の久保さんの若さに期待して… ということだったんでしょうか?

何でか分らん(笑)。 でも、ええとこに置いてもろたもんやから、敵対する人も少なくなかった。みんな生活かかっとるからね。気の荒い者もおったし、そういう者からもだいぶ難癖つけられた。

ー 昭和の時代、高度経済成長期の商売人のかたには、そういった方も多かったと聞きます。まだ当時若かった久保さんのような’’新参者’’にはことのほか厳しい時代だったのでしょうね…

そんな中でも粘り強く何とか頑張ってきて、一時はアルバイトを7人も雇うほど店も繁盛してきた。今から30年くらい前かな… その時は、お店(ニチイ)に来るお客さんも今よりもずっと多かったし、ほぼお茶一本で、何せよう売れた。一日に300本(茶葉の袋が)売れたときもあった。一人のお客さんでやで。あの時は忘れへんな… お店に普通に来て、300本って言うんやもんな。びっくりしたわ。でも、もうあんな売れることは、今後はないやろうな。ちなみに今はというと、当時の半分ぐらいの売り上げや。今はなんぼ努力しても報われへんというか…

お茶を販売される傍ら、「喫茶」のほうも。「金閣園ブレンド」が特にオススメ!

 

 

 

 

ー そうですね… 今は店頭販売以外にも、インターネットの通販を始めとして、茶葉一つとっても、モノの売り方、というのは相当に変化していますし… あと金閣園さんは、創業の頃より、一番最初のニチイさんに始まり、そして移転もあり、サティさん、そして現在のイオンさんとともに歩んでこられました。その中で、時代の流れを感じることは?

若者やね。今、お茶はペットボトルでも普通に売っとるやろ?でも初めのうちは、我々のようなお茶屋からすれば、そんなペットボトルに入っとるお茶になんかは絶対に負けへん、っていう自信があった。でも、飲料メーカーは研究して、若者の嗜好をとらえて、若い人でも飲みやすい、水に近いお茶を作った。水に近いから刺激もない、でもお茶の香りはするし色もついとる。そういう若者向けの売り方を徹底してきた飲料メーカーさんに、お茶屋さんは負けたよね。お茶屋さんは、お茶屋の玄人が飲んでおいしい、そんな商品しか置いてないやんかと。若い人にそんな(お茶が)苦いとか、甘いとか言うても普通は分からへんやん。

色とりどりの商品が、所狭しと並ぶお店は、とても賑やか!

ー そうですか、確かに、「急須で入れるお茶」というのは、若い世代のかたにはなかなか敷居が高いのでしょうね… 「急須」というものが、日本人の生活から次第に遠ざかるのは寂しい気もします。そんな時代にあって、長年お店を営まれてきて、大事にされてきた心がけなどは?

まあ、とにかくお客さんとのやり取り。お客さんの言う事を、よく聞いたることやろな。それを自分の中で分解して、お客さんの言うてることの真意を読んだうえで、自信をもって返事する。生半可な返事ではあかん。そやけど偉そうにだけはしたらあかん。なんぼええ品物売っとっても、当たり前かもしれへんけど、それは泉佐野で修業しとったころ、常に教えられてきた。これを今でも心がけるようにしとる。

ー ありがとうございます。 後、先ほどのお話しにも出ましたが、ペットボトル飲料等の競合する商品、そしてスーパーでも当然ながら茶葉も販売しています。そういったライバルに比べての、「金閣園さんならでは」とは?

うちは、スーパーとか小売店で扱わへんゾーン、所謂高級な品を使うようにしとる。昔はスーパーで90円で売ってたらうちは同じ品物を80円で売る、みたいなことをしてたけど、そのやり方ではスーパーとかには勝てない、というのが分かってきて。いい品物を売って、いいお客さんを掴まえる。それでついてきたお客さんは固い。そして人に紹介してくれる。もちろん高級品を売っていくのは大変やけど、それが、スーパーとかとの違いかな。

お店には、有名人のサインもチラホラ…こちらのサインはかの「尾野真千子」さん。

 

 

 

 

 

ー ありがとうございます。次に、商品のお話しなのですが、店頭にはたくさんの種類のお茶を販売されておられます。金閣園さんのお勧めするお茶といいましたら?

まあ… 5品くらいはよそでも負けへんのはある。笑 ただ、うちは実は遠方からのお客さんも多くて、「自分の住んでるとこの近くでも、同じようなお茶は売ってないんかな?」ってよう言われるけど。それは無いって。お茶っていうものは、産地や畑、それに品種、蒸し具合等とかで、特徴の違う茶葉を何種類も組み合わせて造るもの。お茶は単品で色、香り、味の三拍子が揃ったものなんかほとんどない。うちももちろん、全部自分とこでお茶を合組み※して、味見して、これは良いと思ったお茶を商品として出す。もちろん何べんもしながら。そないしたら、絶対おんなじお茶はないねん。それで「自分のお茶」というのができる。それはすなわち、「自分が好きな味の」お茶になってしまうんやけどな。

※ 合組(ごうぐみ)  産地や品種、蒸し具合などが異なる荒茶の特長を見極め、ブレンドすること。

ー 久保さんの、修業時代から長年培ってきた目利き、さぞ確かなのだと思います。他にお勧めのお茶などは?

番茶やろな。番茶言うたら、本来は規格外のお茶とか、低級のお茶を指すわけなんど、うちは逆。一番高いお茶にお茶にしとるねん。だからお客さんには「えらい高いなぁ」って言われる。「番茶」には「自家製のお茶」をまとめて言う意味もあるし、一番茶、二番茶を摘んだ後に収穫される「晩茶」という意味もあるからな。それで、金閣園さんの「番茶」えらい美味しいわ~、なんて言われる。

ー 「番茶」にはそういう意味合いもあったんですね!今初めて知りました。お茶を少しでも嗜んでいる方からすれば、意外に感じられて面白いところですよね。あと、お店の名前である「金閣園」さんの由来は?やはり「金閣寺」がルーツなのでしょうか?

さっきも言うたように、「上等」のお茶を「良いお客さん」に買ってもらう。京都のお茶は、所謂、「上等品」。それを京都で一番有名なお寺の「金閣寺」にちなんで。

ー そうなんですね!納得です。「金閣」っていう響きもいいですし、「高級嗜好」のイメージに納得です。それと最後の質問になるのですが、久保さんは店頭に立たれるときはいつも「赤いサンバイザー」を被っておられます。これには何か意味が?

それ、よういわれるねん 笑 まあ特に信念やら深い意味はないんやけど、やっぱり「若く見せる」為やな。やっぱり店に立って商売しとって、それはすごい重要なこと。いかにも齢いったもんが店に立っとっても、お客さんなんてそんな店なかなか来たがれへんやろ?それでちょっとでも若く見せるため。実際はそんなところかな。

ー なるほど!でも、もはやトレードマークにもなってますよね!これからも末永いご活躍を願っております。本日はどうもありがとうございました。

 

(編集後記)

高度経済成長のさなかの、今ほど皆が裕福でなかった昭和40年代。そんな中、豊かな生活を求めて独立を夢見る… 若かりし頃の久保さんも、もちろんそんな思いを持っていた一人の若者であったことでしょう。久保さんの話ぶりだけでも、当時の日本の、まだ活気のあった時代の情景が浮かんでくるような感じでした。そして「皆のおかげ」と事あるごとにお話しされていた感謝の気持ち、謙虚な心こそが、栄枯盛衰の激しい世界で、「金閣園」さんが今の今まで至っているという所以なのだと感じました。

第 56 回  小松産業株式会社 代表  小松 潤さん

 「現状」にとどまらない、たゆまぬチャレンジ精神

 

ー 本日はお忙しい中、お時間いただきましてありがとうございます。早速なのですが、お店を始められたきっかけを教えていただければと思うのですが…

 先代からのお話なのですが、元々は祝箸を作っていたことが、商売の始まりとされてるんですよ。ほら、あの丸い、お正月とかに使う箸があるじゃないですか。

ー 箸… ですか? とても意外です。

台湾で(箸の)工場も建てていたそうなんです。でも、その業績や、箸の業界も景気が悪かったのもあり… その後も箸を続けていたのかというと、続けていなかったそうなので、失敗したんでしょうね(笑)。それで、他にできることはないかと、その当時、先代は「竹の耳かき」を仕入れてきたそうなんですけど、それを粗品として、郵便局さんや銀行さん相手に通販を始めたのが現在の商売のきっかけだとされていますね。

それで、その商材を広めるために、ギフトや粗品を扱っている問屋さんと出会って、その問屋がたまたま、店売りというか、一般個人向けのギフトをやり始めていた時で、先代に、それ(一般個人向けのギフト)をしないかと声をかけられたことから、冠婚葬祭のギフトを始めた、という流れになりますね。その問屋さんが、「シャディ」さんなわけです。

ー 海を渡って工場まで建てて、それでも上手くいかず… ということで、やはりいろいろと苦労を重ねられて、ようやくこの現在の「ギフト屋さん」に辿り着いたのですね…

ー あと、「ギフト」の取り扱いを始められてから。何年くらいになるのでしょうか?

40数年かな… 会社として設立されたのが、西暦でいうと1977年なので、43年目になりますね。

ー 大体自分たちと近い年代ですね(笑) (今回のインタビュアー スタッフF:1980年生まれ  スタッフM:1976年生まれ)

ー 1977年、現在の会社が設立された当時は、先代が社長を務めておられたのでしょうか?

そうですね。当時、まだ自分は中学生でしたので。当時のお店はといいますと、今のこの社屋(店舗)にはプレハブが建っていました。仕入れた品物をプレハブに入れてあって、その一角に、商品を少しばかり並べて、自分の母親が店番をしていて… というところまでは、記憶にあります(笑)。

ー 次の質問なのですが、先代からお店を始められたとのことですが、社長自身は、お店「継ぐ」という考えはございましたか?

高校の時はなかったかな… その後、大学に進学するときに、(親から)経済学を勉強しろと言われたんですけど、自分は工学系を志していたんです。経済学とは畑違いですよね。その時に親子ゲンカをしまして(笑)… その結果でもないですが、「大学を出たら親の言うことを聞く」ということで、後を継いだんです。ですから、大学を出るまでは、自分の好きなこと勉強したい、と。

― 学生時代は、どのような分野を学んでこられたのですか?

機械工学です。でも、「商売を継ぐ」ということを意識し始めたのは、大学の頃ですかね。大学を卒業してからは、まずは問屋さん(シャディ)で4年間お世話になって、こちらへ帰ってきたという感じで…

ー 工学部で機械工学を学ばれたけどギフトの道へ… 畑違いと言えば畑違い…

そうですね。ですから(今の仕事は)あまり向いてないんかなと思います(笑)。

ー 次に、お店に関してのお話をお伺いさせていただきたいのですが、現在、世間においてはギフト屋さんも多数ある中、「小松産業」さんでしかできない、そういった「強み」はございますか?

ウチにしかできないこと… 基本的に「ギフト屋さん」って問屋から仕入れて販売しますので、商品については当然ながら似通った感じで… 何が違うかと言ったらそれはもう、サービスの内容になりますね。そういった点では、ウチはお中元や、お歳暮のカタログを自社で製作している、というところでしょうか。それと、「年間の推奨品」というカタログもあるのですが、それも自社で製作していますね。

ー そうなんですね!私も新聞の折り込みチラシに小松産業さんのカタログが入っているのを見かけたことがあるのですが、あちらは自社で製作されていたのですね。

ええ。チラシとかの印刷物は、基本的に自社で製作しています。そうすることで、ウチで買っていただいたお客様に、特典を打ち出せますので… 問屋さんの既製のカタログやチラシだと、そうはいきませんよね。それ位ですかね… ほかのお店様と違うところと聞かれると。

― でも、その取り組みは大きなことだと思います。私どもも、ガス器具等のPRのチラシを製作する機会も多いのですが、メーカーの既製品だと、その販売店の独自性がなくなりますからね。

 

あと、一昨年から始めているのは、お中元やお歳暮を買っていただいたお客様には、野菜をお渡ししています。昨年でしたら、お中元の時は玉ねぎ、お歳暮の時には白菜をお渡ししましたね。

― そのアイデアも、社長が考案されたのでしょうか?

考案、と言いますか、うちは畑が余っているので(笑)、そこで作った野菜をお客様に提供、ということで。

― いいアイディアだと思います。でもなかなか、自家製で野菜を育てていく、というのも大変なことではないでしょうか?

そうですね(笑)。休みの日なんかはほとんど1日が畑仕事で潰れてしまいますし。

 

小松産業さんの、自社製作のチラシです。写真右、お歳暮チラシの「お鍋」のインパクトが大(笑)

 

 

 

― あと、次の質問なのですが、現在このお仕事(ギフト店)をされて、大切にしておられる、信念であったり心がけ等… そういったものはございますでしょうか?

やはり、「感謝」の気持ちですね。あとは、お客様にはまず、喜んでいただけるようことを、これからもやっていきたい。とにかくお客様には「感謝」です。

― あと、御社のホームページを拝見させていただきまして、その中で、ネットショッピングも運営されておられるということなのですが、現在、インターネット通販全盛の時代において、御社におけるウエイトは、どの程度占めておられるものなのでしょうか?

その分野での売り上げは少ないですね。やはり店頭販売が今なお中心です。

ー そうなんですね。自分の中では、ギフトの販売も、インターネット通販が多くなってきているというイメージがありましたが…

確かに最近は、出産などの内祝いは、他のネット通販さんの業者にとられているというのは事実ですね。でも、うちの店では、うちのネット通販と、店頭で販売している商品の価格は同じなんですよ。でも大概、ネット通販のほうが安いでしょ?ですから「値段」だけで比較されてしまうと、ネットでは売れない。一時期、4年ほど前かな… うちも「楽天」にも出店していまして。その当時は、うちも月200~300万円くらいの売り上げがあったんですけど、結局売るために値引きのさらに値引きとなってしまって、赤字で採算がとれない、ということがありましたので、それ(楽天)は一切やめて、そこから半年くらいはネットショッピング自体も全面的に停止していましたね。

ー 売れたとしても採算が合わない… ネット通販全盛の時代といえど、なかなか一筋縄ではいかないですよね。

その後、ネット通販も再開したさいは、商品の価格は、店頭販売もネット販売も同じにしたのです。近所のお客様も、遠方のお客様も同じ条件で商売をさせていただく、ということですね。

― では、やはり中心は「店頭販売」になる、ということですね。

ー あと、小松産業さんの、ネット上におけるお話をもう少しお伺いさせていただきたいのですが、御社のホームページ上に「冠婚捜査の豆知識」というコンテンツがあったのですが、拝見させていただいたところ、すごく細やかなところまで解説があって、自分も恥ずかしながら、冠婚葬祭のルールやマナーには疎いところがあるのですが(笑)、個人的にはすごく助かります。

― そうですね。あちらは結構細かく編集をしていますね。運営には結構お金がかかっているんですけど(笑)。

驚きました。でも、今の若い方もなかなか冠婚葬祭のルールやマナーを習得することも難しいと思いますので、ギフト店という、冠婚葬祭と密接した事業として、インターネットを通じてそういったことを発信していくのも、大切なことだ思います。

 

 

広く開放感がある店内。数々のギフトが整然と陳列されています。

 

 

こちらは社用車。社長自ら、荷物を積んで配達!

 

 

 

 

― 次の質問なのですが、1977年にこちらにお店を構えられ、ギフト店を営まれておられる立場から、「時代の移り変わり」というのを感じることはございますか?

もう… 十二分すぎるほどにございます(笑)。ギフトのお返し自体も変わってきていますしね。昔は、年忌のときには20~30人、親戚の方が集まったものですが、今でしたら4~5人の身内だけで行う、という風に変わってきていますし、結婚式もいわゆる「地味婚」が多くなりましたね。

ー 最近はそうですね。 自分の周りでも、「盛大に結婚式を行った」というお話はあまり聞きませんしね…

ですから、そういったことが縮小している分、お返しもその分減ってきて…という感じですね。それと、ウチでは扱っていないのですが、お返し等においては、商品券の比率が高くなって、その分商品の比率が落ちてきている、というところで。一時は良かった時代もあったんですけど今は… いわゆる「斜陽産業」であることは否めないといった状況ですね。表現はよろしくないですが。

― そうですか… 「冠婚葬祭」という場面に長年携わっておられて、そういった場面に対する価値観や重みが変化してきているのは、先程もお話しされたように、十二分にお感じになっていると思います。

― 次の質問なのですが、ギフト店は、「冠婚葬祭」の場面においてのお仕事ということで、やはり神経を遣われると思いますが、社長自身はその部分に関しましては?

そうですね… 神経を遣うといえば、これも当たり前のことなのですが、「のし」の文字ですね。出産の場面においては、お子さんの名前、これは「点」がひとつあるないとでは大変なことになりますから。あと、最近の親御さんで多いのは、例えば奥さん側の実家からお返しをする場合、例えば奥さん側の旧姓が「小松」さん、そして結婚されて、現在の姓が「佐藤」さんだとします。この場合、内祝いの名前は「佐藤」でなければならないのですね。でも、「実家から」お祝いをしているので、のしの名前は「小松」と伝票に書いてしまうんです。そして命名札を付けて贈ってしまう… これだと、子供さんの名前は「小松〇〇さん」になってしまいますので(笑)。

ー 結構ややこしい場面もあるのですね。しかも結婚や出産といった、人生の一大イベントですし…

あとは、お葬式の満中陰志でしたら、「喪主から見た続柄」を書かなければならないのですが、伝票にはよく「長男」と書かれるんです。これだと、喪主さんの子供が亡くなったことになってしまいますので… こういう場面だと、その人が本当に長男かどうか確認しますね。続柄の違うものができてしまうこともありますので。そのあたりは十分注意しています。

― 他に気を遣うところは…

納期ですね。年忌とか、結婚の引き出物などは、「その日」でしか役に立たないものですので… 「決まった日にきっちりと届けなければならない」という点では神経を遣いますね。早め早めに(問屋に)注文をかけるんですが、その品物の生産が追いつかない、ということは過去にもありました。最近は「ヒット商品」的なものはあまりないので、そういったこともないですけど、今は「輸入品」に気をつけていますね。これらは問屋に品物がなくなると、納期が普通に1か月以上かかったりしますから。

― 「決まった日にきっちりと」というのは当たり前にできるように思えるのですが、それが人生の一大イベントに関することをお願いされるとなると… とても気を使っておられるのだと思います。

 

壁には掛け時計がいっぱい! ん?このフレーズ、どこかで聞いたような…      https://gojo-gas.co.jp/spotlight/etc/3601

 

― あと、お店に関してなのですが、一日当たりの来客者数はどれ位なのでしょうか?

少ないですよ(笑)。平日なんて、5~10人くらいで、お中元やお歳暮のシーズン時でも、20~30人来たら良いほうではないかな?お客様の出入りだけで見れば、いつ潰れてもおかしくはない、ギフト屋というはそうなんです。中には店舗に来られて、商品を1個単位で買ってくださるお客様もいて、客単価が2,3千円くらいになるのですが、結婚・出産の内祝いや、満中陰志の依頼は、数がまとまって注文をいただければ、その場合は(客単価が)数十万円にもなります。一昔前であれば、満中陰志でしたら、100万円近いお買い上げをいただいたこともありました。ですから、自分たちの商売は、「客単価が多くて、客数が少ない」というものなんです。

― そうですね、スーパー等の小売りのやりかたとはまた趣は違いますよね。

ギフト屋さんは店舗を構えているのですけれど、「お客さんの数」ではないという世界ですね。

― あと、御社のホームページのお話に戻るのですが、「虹の架け橋」という、結婚相談所も、インターネット上で運営されておられるとのことですが、この事業を始められたきっかけはどのような?

先代のゴルフ友達の奥さんが、結婚相談の事業をやっていて、おたくもギフト屋さんやっているんなら、(結婚相談を)やってみたら?ということが始まりですね。

― ギフト屋さんって、冠婚葬祭と密接している業種だけに、結婚相談の事業と一緒に行っているところも多いイメージもあるのですが、そのあたりは?

いや、少ないですよ。自分が知っているのは1件、滋賀にあるくらいかなぁ…

― 意外と少ないのですね!では、小松産業さんは貴重な存在かと… あと、社長自身がそのカウンセラーも務めておられるということなのですが、結婚相談についてのカウンセリングについて、社長自身、経験がおありだったということでしょうか?

いや、ないですね(笑)。そのあたりは、先程お話しさせていただいた、結婚相談の事業を紹介してくれたかたから、いろいろ勉強させていただいてからですね。あと、あと、ウチは「全国結婚相談事業者連盟※」というところに加盟していまして、そちらでも月1回の勉強会がありますので、同業者からのアドバイスや、いろいろ教えてもらいながら、運営させていただいております。

※全国結婚相談事業者連盟(旧 仲人ネットコム)
 
 結婚相談所連盟・仲人連盟とは、中小の結婚相談所が互いに会員情報を共有することで、他の結婚相談所に所属している会員を相互に紹介できる仕組みの事です。そういった団体の中でも、全国結婚相談事業者連盟(旧 仲人ネットコム)は、西日本(近畿と九州)に強い結婚相談所連盟で、加盟店は定期的に法令や成婚率アップのための研修を受けており、勉強熱心な方が多く在籍しています。

― 社長自身もまだまだご研鑽を… というところですね。恐れ入りました。

昔の「仲人さん」といえば、私が結婚した当時の仲人さんはと言えば、仲人さんが、この人とこの人をくっつけたら、ということを、仲人さんが決めて見合いをさせる、という感じでした。でも、今させていただいているのは、入会していただいたかたが相手を探して、お見合いをしたい人を選んで、相手がOKならばお見合いを進めていく… といったスタイルですね。

― このサービスの、反響はどのような感じなのでしょうか?あと、御社のホームページにおきましては、会員数が1万5千人とのことなのですが…

その数字は「全国結婚相談事業者連盟」の加盟店すべての会員数ですね。あとそれと、ホームページの数字は更新前ものなので、会員さんの数は今は恐らく、その倍くらいになっていると思います。

― でも、万単位の会員のかたがいらっしゃるということで、本当に真剣に、結婚をお考えの方が一定数おられるということなのですね。でも、そのお手伝いをする事業って、もちろん大変ではあると思いますし、その一方ですごくやりがいのあるお仕事だと思います。

今は「全国結婚相談事業者連盟」のエリアも関西圏から関東圏へも広がって、会員数も増えてきましたけど、五條だけのエリアに絞って、見合いをしようというのはというのは正直言って無理ですね(笑)。

― えっ、そうなんですか?

やっぱり何といっても人数が少ないですし、人数が少ないだけに、「あの人、どこかで見たことがある」とか、そうなってしまうで、避けられるというケースが多いですね。ですから、離れた土地のかたとお見合いをして、というほうが、最終的に成立しやすいでしょうね。

― そうですね(笑)。五條だけで絞れば、どこかで見たことがある、的なことは必ずあるでしょうしね。あと、社長自身、お見合いのセッティングや段取りを行うこともあるのでしょうか?

いや、そういう事はしなくて、会員同士が、お互い見合いはOKですよ、となった場合、会場のセッティングを行うだけです。そのさいは、どちらかと言えば女性側に便利な立地で、ホテルのロビーで待ち合わせて、ラウンジでお茶をしてもらって、あとは会員さんたちにお任せする… といった流れですね。あと、交際の返事をするのも、昔は仲人さんを通じてでしたが、今はパソコンで、「〇」か「×」をするだけです。

― えっ、何だか味気ない感じ?ですね… でもインターネット上でのやり取りでありば、仕方のないことなのかもしれないですね。あと、当サービスで、成婚までたどり着いた事例はどれくらいあるのでしょうか?

言えるほどもないんですけど(笑)、この3月に成婚されるかたが1組いますね。2月末に最終、(成婚が)決まって、3月にウチを退会することが決まっています。そして9月に挙式… という予定ですね。

― でも、人と人とを結びつけて幸せを見届ける… 本当にうれしいですよね。こういったお話をお伺いさせていただいただけでも、なんだか嬉しくなってきました。自分も十数年前、小松産業さんのこういったサービスを知る機会があったなら…(笑)。

― あと、今後のお店の展開はどのような?あと、どのようなお店を目指していきたいとお考えでしょうか?

これも難しいですね(笑) ただ… 「お客様に愛されるお店」として生き延びたいと。今はそれしかない。でも、「冠婚葬祭」というのはなくなることはないですよね。しかし縮小化の一途を辿っている… そこで何とか新しいことをしながら、今までやってきた事業と並行して行いながら、継続していきたいと考えています。

― そうですね。我々ガス事業も、今の五條市の「人口減・過疎化」の影響に直結する産業なだけに、現在の事業から離れず、社長が今おっしゃられた「新事業」にもチャレンジしていくことも考えなくては… というまさによく似た状況にございます。

 その「新しいこと」のさきがけとして、3/14(土)より、土日祝日限定で、「持ち帰り専用ピザ」を始めます(当インタビュー実施は3/12)。

― えっ!「ピザ」ですか? 今日お店に到着したとき、お店のガレージに置かれていたあの黄色いオブジェ、あれはいったい何だろうな、と。「ひょっとしてピザ窯ちゃうんかな?」思っていたのですがやっぱり!

あちらは元々、ウチの周年事業のときに、お客様に楽しんでもらえることとか、サービスできることはないかな?というのを考えていた時なのですが、ほら、こういったイベントごとって、大概たこ焼きとかそのあたりの提供になるじゃないですか。でも、「たこ焼きじゃオモロないなぁ」ってなりまして、同じ提供をするんなら、何か違うもの… その末、ピザを焼くことに決めて、そしてこの窯を作ったんです。

― 自作… されたのですね。すごい!

 

小松産業さんの秘蔵っ子「ネコ型ピザ焼き窯」。

ちょっとカワイイ?かな?

 

 

「ネコ君ピザ焼き窯」を裏から。本格的な「石窯」のそれです。なんとこのピザ窯を「自作」されたというのだから驚き!

 

でも当初は、「売るため」に製作した窯ではないので、窯のサイズは小さめなんです。でも、ピザも満足に焼けますので、土日だけ始めようかなと。まあウチは元々店頭に来られるお客様も少ないので(笑)。

― あちらのピザ窯、「ネコ」をモチーフとしていますよね?

そのつもりで作りました(笑)。

―「ものの製作」、流石にそのあたりは、大学で機械工学を学ばれていた所以ですよね。

いえいえ、そういう訳でもないんですが(笑)。

 あと、土日限定なのは、平日はやはり本業の配達が混んでいますので… でも、この「ピザ」をとっかかりにお客さんに実際に店舗に来てもらって、「こんな所にもギフト屋さんってあるんやで」ということを知ってもらえれば、ということで「本業のPR」というところも期待しています。

 

ピザのメニューです。定番のマルゲリータからミートソースにジェノベーゼ… 貴方はどれがお好み?

 

ー あと、先程お話に出ましたが、社長自身も配達に出られる?

もちろん。昔は数多くの従業員のかたに来ていただいておりましたけど、業態を変えてきたのと、お話させていただいたように、「お返し」の文化が様変わりしてきて、縮小の道を辿っている… ということから売り上げも落ちているので、正直「人」は雇えない状況です。

― そうですね… やはり「人件費」というのは膨大ですからね…

― あと、次の質問なのですが、五條で長くこうやってお店を営まれてこられた視点から、五條の今後であるとか、こういうところが心配… というお話はございますか?

やはり… 企業をもっと誘致することが必要でしょうね。大学まで出られて、企業がなければ、どうしても学生は外に目を向けざるをえない。五條市の給与水準も他府県等のそれとは比べようもなく… 働き口がないので人口が減っていく。ですから、それなりの企業を誘致して、五條でも働ける場を創っていかないと… 私どもではどうしようもない課題なのですが。ですから我々も、先程お話しした、今までの事業に加えて、何か違うことをしていかないと… ということで。

― そうですね。さらに雇用情勢が、企業の「買い手」市場から、求職者の「売り手」市場へと傾きつつある現在は、やはり求職者の目先が都市部へと向きますからね…  しかし、新しい事業への取り組みに関しては、結婚相談や先程のピザ屋さんの開業… それに向かって一歩踏み出して実行された社長の心意気、そして同じ五條で商売をしている、という点では当社も同じくして、ということで、今回のお話を通じ、いろいろと勉強させていただいたと思います。本日はどうもありがとうございました。

 

(編集後記)

一昔前に比べ「冠婚葬祭」の意味合いが薄れつつある現代。「冠婚葬祭」に密接した事業である「ギフト店」は、当然ながら昔のやり方ではこの先難しい。そんな中で、結婚相談、そしてピザ屋さんへの挑戦。その穏やかなたたずまいながらも、小松社長の「新しいことへ挑戦」していく熱い思いが伝わってきたように思います。当社も小松産業さんと同じく「五條」という地域に根差してお客様へサービスをお届けさせていただいている… 我々の立場からもいろいろ考えさせられた、今回のインタビューでした。

 

  小松産業 ㈱

 〒 637-0036

奈良県五條市野原西4丁目10-28

 TEL  0747-24-2351

 営業時間 9:00~18:30

 定休日    水曜日

 

(おまけ)

新事業」の一つとして、「持ち帰りピザ」の販売を始められたという小松産業さん。早速ではございますが、試食レポをさせていただきます!(既出なのですが…)

 

ピザ」といえば野菜(?)しかしここは野菜の苦手なスタッフ深瀬(;´Д`)  はたして今回チョイスしたのは…

 

 

 

 

 

 

 

 

 さてさて、持ち帰りするとこまでお話が飛びまして(笑)…  箱!「piccolo pino(ピッコロピーノ (お店の名前)」ロゴはもちろん小松産業さんのオリジナル!

 

 

おもむろに箱を開けると… そこにはピザ(当たり前 笑) ということで今回チョイスしたのは「ミートソース」!

 

 

ピザの淵の部分もしっかりと焦げ目が!食欲そそります。ここで雑学。ピザの耳(端っこ)の部分っていろいろな呼び方がありますよね!「ピザの耳」とか「淵」とか「かたい部分」とか…

これって、正式名称があるようなんです。

 

… そこで、ピザの本場イタリアで何というのか調べてみたところ…

cornicione(コルニチョーネ)というそうです。corincione(コルニーチェ・額縁)からできた言葉みたいです。

ですから、ピザを食べてて、「このピザ、コルニチョーネが美味しい!」とか、「ここのピザ、コルニチョーネがちょっと固めやな!」とか言ってみれば、「は?(・_・)」と返されることウケアイ! 

 

ということで、、美味しくいただきました! ネコ窯さんありがとう(^^♪

 

 

 

 

 

当ブログをごらんの皆様も、一度是非ご賞味を! お手軽感も半端ないです!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第34回 柿の葉すし本舗たなか五條本店 店長 北川美香さん

この仕事だからこそ経験できたお客さまとの出会いやご縁。その喜びを胸にこれからも「柿の葉すし」を皆様に・・・

柿の葉すし本舗たなかに入社されて25年
五條本店店長 北川美香さんにお話しを聞かせていただきました。

―柿の葉すし本舗たなかの歴史について聞かせてください。

明治時代後期だそうですが、当時、職人を多く抱えていた大工棟梁の田中徳松さん(現相談役田中修二さんの祖父)の奥さんが、職人さん達の日々の食事をまかなっていたことが講じて五条駅前で食堂をしていたそうです。そこで夏場だけ出していた「柿の葉すし」が当社の「柿の葉すし」の始まりだそうです。

―なぜ夏場だけなんですか?

柿の葉は夏にしかとれませんので、もともと夏限定の食べ物だったんです。

あ、そうですよね・・・今では年中いつでも食べれますので気づきませんでした・・・

そうですね、年中食べていただけますね・・・。
後にその食堂を現相談役が引き継ぎまして、奥さん(タカさん)が作る柿の葉すしが地元の名物となったそうです。遠方からのお客様も増えたことから、柿の葉すしだけを売ってはどうかということになりまして・・・。ですが、夏場だけしか作れないというのでは商売になりません。そこで、柿の葉を塩漬け保存すること、おすしの量産化も実現しまして、昭和48年当社が設立されたということです。

―百貨店でも売り場を見かけますが、現在店舗数は?

現在直営店としては32店舗です。昔はわざわざ遠方から五條までお越しいただいておりましたが、現在は市外、県外各地でお買い上げいただけます。お店は関西中心ですが、東京の方にもございます。また、百貨店内期間限定の催事販売などは全国各地でさせてもらっています。

―社名の前に「献上」とありますが・・・

昭和54年に昭和天皇、皇后両陛下が奈良県にいらした折、中宮寺門跡様より当社の柿の葉すしを献上させていただきました。

―「たなかの柿の葉すし」のこだわりとは?

すし飯、鯖、柿の葉・・・それぞれの素材すべてにこだわりはもちろんありますが、お米に関しては滋賀県の「日本晴」という品種を使っています。柿の葉すしは重石をかけて作るので、その重石で味が決まるというくらい「押す」というところに大きな意味をもっています。

 

そういえば昔、祖母が柿の葉すしを作っていたとき、大きな石を上に乗せていました!

柿の葉すしは握りが特徴の江戸前のおすしとは違って魚の旨味がしみ込んだ「ごはんを味わうすし」なんです。重石をすることで余分な空気を抜いて発酵を促し、鯖や鮭のうまみ、くるんだ葉っぱの香りをごはんに閉じ込めるんです。というところから、その押しに強いなど総合的なバランスの良さから「日本晴」という品種にこだわっています。

 

―では、あらためてなんですが、「柿の葉すし」についてきかせてください。

関西の人はだいたいご存じいただいてますが、関東の方では知らない方も多く、葉っぱごと召し上がられたりってこともあるんです。

「地域のお土産品」として先に浸透したこともあって、それ以外の部分でまだまだ知らない方が多いので、「柿の葉すし」の特徴・・・「熟成、日持ち」することや、また、既にご存じの方には新たな楽しみ方の提案をしていきたいです。柿の葉すしはシンプルですが、多様性がありますので、いろんな特徴を生かしたご提案をさせていただいてます。

―例えばどんな特徴、提案でしょうか?

季節毎、シーン毎の「柿の葉すしの愉しみ方」としてご紹介しています。
春はお花見、夏はアウトドアなど、屋外でもお箸やお皿を使うことなく召しがっていただける「手軽さ」ですとか、夏の食卓にさっぱりとしたそうめんと柿の葉すしという地元の食べ方の「慣わし、定番」。ハロウィンやクリスマスなどのパーティーメニューに、お鍋を囲む席でのサイドメニューに「プラス柿の葉すし」。特別なシーンでも日常でも、幅広い場面、年齢層に使っていただけるようにアピールしています。

―お聞きするとほんとに多種多様ですね。夏の定番、そうめん+柿の葉すしは我が家もします。

 あとこれは裏メニューですが、寒い時季、冷えて固くなってしまった柿の葉すしをオーブントースターで葉っぱごとじっくり焼いてみてください。ご飯はふっくら、鯖の脂が溶け出して「炙り柿の葉すし」を楽しんでいただけます。

おすしを温める?温かいおすし?・・・初めてです!

そうですよね・・・以前に「秘密のケンミンSHOW」という番組で、柿の葉すしが紹介されたんですが、番組内で「炙り柿の葉すし」を食べたタレントさんの中には、炙った方が美味しいという方もいたんです。

あ、でもいいかもしれないですね!?やってみたいです!

ぜひぜひ! オーブントースターで5分くらいです。鯖がおすすめです!

―季節限定商品があるそうですが、今でしたらどんなものがあるのでしょうか?

今の季節でしたら「さんまの柿の葉すし」ですね。先月でしたら「ウナギ」、他にも「しぐれ巻き」ですとか、季節によって違ったお味のおすしをお勧めしています。

 

 

―次に店舗についてですが、こちらは「五條本店」ということですが・・・

はい。普段は他市、他県で購入されているお客様も、五條に来られた時には「本店」があるということで立ち寄ってくださいますし、地元の方もたくさんお越しくださいます。お越しいただいたお客様をがっかりさせることのないよう、本店独自のおもてなしとサービスでお迎えし、また来ていただけるお店づくりをしています。

―例えばどういったことをされていますか?

玄関横にあります大ショーウィンドウはお店の特徴のひとつです。四季を感じていただけるようなディスプレイをしています。また、古い街並みが残る新町通りを散策されるお客様や、地元の方のちょっとした休憩にもご利用いただける様、イートインスペースで柿の葉すしおひとつから食べていただけるような小皿メニューを、ほうじ茶と一緒にご用意しています。柿の葉すし以外にも奈良の名産品や、目の前にあります天誅組にちなんで、縁のお酒なども置いています。

←年に約10回は変更するという大ショーウインドウは車で通りかかるときにも目に入ります。
季節を感じる大迫力のディスプレイ。次はいつごろ、どんな風に変わるのでしょうか♪

 

 

 

―たなかさんの他店には行ったことあるのですが、こちらの本店・・・実は今日初めてなんです。。何となく敷居が高い感じがしてしまって・・・

そういうイメージをお持ちの方もいらっしゃると思います。ですので、もっと身近な存在、気軽にご来店いただける店づくりは課題のひとつですね。今年、オープンした香芝店は、柿の葉カフェやフリースペースでの月いちイベント企画もあり若い世代のご来店も多いんです。小さな子供さんが自転車で柿の葉すし2個買いにきてくれたり・・・ってこともあるようです。そんな感じできてもらえたらうれしいですね。こちら五條本店でもおひとつから買っていただけますのでぜひ・・・笑

―「柿の葉すし手作り講習会」もされてるそうですね。

 はい。親子での参加、地元の方、他府県の方、何度も参加される方もいらして、大変人気です。「体験」て記憶や思い出に残りますよね。作り方を覚えてもらって家庭でも作ってもらいたいですし、大人になった時思い出してもらったりして「柿の葉すし」がより多くの方に、そして次世代へと繋がっていってもらえたらうれしいなと思います。
他にもハロウィンやクリスマスなどに向けて「簡単レシピで作る料理と柿の葉すしでテーブルコーディネート講座」、母の日であれば「フラワーアレンジメントと柿の葉すしプレゼント」等々、他の接点から柿の葉すしを知っていただく「きっかけ作り」となるイベントを企画開催しています。ぜひ参加してみてください。

―給食に「柿の葉すし」が出るって子供から聞きました。

そうなんです。子供が給食で食べて美味しかった・・・と言ってお母さんが買いにきてくださいます。初めて食べる子もいるかもしれないですし、知っているけど普段は食べないのかもしれないですね。それでも、給食に出ると抵抗なく食べてくれたり、あと、海外のお客様もこちらが思っているほど抵抗なく食べてくれます。ですので、地元も含めてまだまだいろんなアピールの要素、余地はあるんじゃないかと思っています。

―25年間を振り返っていかがですか?

過ぎてしまうとあっという間ですね・・・。私自身その間結婚、出産、産休も取らせていただきました。当時の社長(現会長)や上司、そして現社長も女性ということもあり、すぐ近くでお手本となる存在や励ましがありました。「女性が働きやすい職場づくり」をしていただいたおかげで、子供が小さく家庭と仕事の両立が難しい時も乗り越えることができましたし、こんなに長く働かせてもらえてるんだなと思っています。

―印象に残っている出来事などありますか?

いろいろありますけど、今までたくさんのお客様と接し、いろんなお話しを聞かせていただきました。お客様でお花の先生をされてる方がいらして、話を興味深く聞かせていただくうちに習いに行くことになって・・・。その時学んだお花が、今ここでお花を生けたりするのに役立っています。お客様とのたくさんの出会いやご縁は大切な宝物ですね。

―お仕事をしていてやりがいを感じるのは、また今後の課題は?

やりがいはやはり美味しかったよ・・・と言ってもらったとき、ありがとう、また来るよ・・・と喜んでお帰りいただいたときですね。 おすしは工場の方で心を込めてお作りしています。私達はそれに付加価値といいますか、笑顔やサービス、感謝を込めて販売致します。出会いやご縁がたくさんあるのは接客という仕事ならではですから。
課題としては、先ほどからもありましたようにもっと柿の葉すしを知っていただくためのアピール、店づくりですね。そしていろんなご意見に対して店長としてお応えできるよう、まだまだ勉強していくことですね。意見をいただけるということはありがたいこと。日々感謝の気持ちを忘れずこれからも「柿の葉すし本舗たなか」でお客様をお待ち致しております。

 

北川店長、本日はありがとうございました。

柿の葉すし本舗たなかさんのHPはこちらから

柿の葉すし本舗たなか五條本店

住  所 五條市新町1-1-5
電  話 0747-25-1010
営業時間 AM7:30~PM7:30
駐車場  有

 

 

 


☆スタッフHのすぽっとwrite☆

取材日前夜、給食に「柿の葉すし」が出ていることを娘から初めて聞きました。献立表には割と目を通していたつもりでしたが、そのことは知りませんでした・・・。
娘は数年前に小学校の授業で、柿の葉すしについて学んだり見学をさせてもらったことから、なぜ、柿の葉すしは柿の葉に包まれているのか・・・などひと通りの説明と取材頑張ってきぃやと励ましてくれました。
25年間という長い間、頑張ってこられた北川店長を見習って、私もまたたくさんの方と仕事や取材を通じて出会い、頑張っていけたらと思います。

第32回 柿の葉ずしヤマト 代表取締役 宮倉靖幸さん

次世代にいいかたちでのこしていきたい「柿の葉寿司」
ヤマトの個性とポジションを生み出しながら・・・

―まずは柿の葉ずしヤマトさんの歴史についてですが、創業されたのはいつですか?

昭和44年に、私の父が給食専門店「ヤマト給食」として創業しました。

―創業の経緯について聞かせていただけますか?

父の実家は大阪で、今でいうアパレル・・・婦人服や子供服、靴下など下着類、学校の制服などを扱う衣料雑貨のお店を営んでいました。そして母の実家は富貴(伊都郡)で、主に山林業を仕事とするかたわら鉄工所もやっていて、その関係のクレーン工場が黒駒(五條)にあったんです。あるとき、その工場の社員食堂をする人を探しているという話を聞いた父が、料理などしたこともないのにですよ・・・「私やります」と手をあげたんです。

そうやって工場の食堂を始めたんですが、なかなかそれだけではやっていけなくて、五條市内の会社などに給食弁当をするようになったのが「ヤマト給食」のはじまりです。

その後、仕出し料理などもやり始め、社名を「仕出し ヤマト」に変更しました。ですので、「ヤマト給食」「仕出しヤマト」の名前で今でも親しんでくださってる方がたくさんいらっしゃいます。

―では最初から柿の葉ずしヤマトさんとして創業されたのではなかったんですね。

そうなんです。じゃ、どの時点で「柿の葉寿司ヤマト」になるかって話になるんですけど・・・ 「仕出し」を生業としていた時期もそれなりにありまして、昭和50年代、全国的にお米がたくさん余り、学校給食に米飯給食を導入しようという動きがあり、五條市でもどこか請け負ってくれるところがないかという話があったんです。そこで、また父が手をあげたんです。「私、やります」と。

そして、銀行からお金を借りて、建物を建て、連続炊飯器の導入をするなどして、米飯給食を請け負ってやり始めたんですが、採算が追いつかなくなりもっと売上を増やす方法はないかということで考えたのが「柿の葉寿司」。まず「柿の葉寿司」ありきで始めたのではなく、やむにやまれず始めた「柿の葉寿司」だったんです。

―お父様はいろんなことにチャレンジされた方ですね。

父は生まれながら商売をやっている環境で育ちいろんなことに興味をもつ人でした。生まれてからずっと大阪で育ち、家族や友達などほとんどのつながりは大阪だったはずなのに、ある日突然、家を飛び出し、何も分からない五條で食堂を始めたことは大きな転機であり、それが創業のきっかけとなったんですからいろんな意味ですごいことだなと思いますね。

 

―宮倉社長ご自身は子供の頃、家の仕事をどんな風に捉えていましたか?またどんな少年だったのでしょう?

朝早くから夜遅くまで本当によく働く両親の背中を見て育ちました。お店も忙しかったですし、盛り付けをしたりエビフライを揚げたり、自然と手伝いはしていましたね。弟はだし巻き焼いてから野球の練習に行ったりしてましたしね。子供でありながら「一従業員」でしたし、「働かざる者食うべからず」といった感じでしたね。そんな中でも子供心に自分は大きくなったらお弁当屋さんするんやなって思ってました。

 

―継ぐことを本格的に意識されたのは?またその頃、他にやりたい仕事などはありましたか?

大学を卒業する頃、父に「これからどないするねん」って言われたんです。
当時私は不動産業に興味があって、その道に進みたいと言ったんです。そしたら、父は自分の進みたい道ならそないせぇと。ただ、途中で尻を割って家の仕事手伝う・・・というようなことは絶対言うなよと釘を刺されたんです。

その頃、会社としては第1号店の吉野店もあり、売上も順調にきていたころでしたので父親としては息子に継がせたい想いも強かったんじゃないでしょうか。そして、もし継ぐ気があるなら、若いうちに修行に行けというアドバイスもありました。衣料の仕事から異業種の飲食業を始めた父は、当然知識も技術もなく・・・、職人さんに教わりながら職人さんを使っていく苦労なども経験したからか、息子にはそういう思いをさせたくないと思いからの助言だったと思います。そういった父の思いも感じて、私は継ぐことを決心し、調理師の専門学校に通いながら住み込みで料理旅館で7年~8年修行しました。

 

―二代目として継がれた頃を振り返っていかがですか?

修行から帰ってきた28~29歳頃、それなりに料理の仕事もできるようになって、さぁやるぞと思うんですがなかなか事が進まない・・・。教わりながらの毎日でした。不安は当然ありましたね。自分にできるんだろうか、人を使っていくということ、経営的なこと、日々悩むことは多かったですね。そして今でも、本当にこれでいいのか、親の期待に応えられているのかなど不安がなくなることはないですよ。

 

―色々な経験の中で印象に残っていることはありますか?

新しくお店を出店したときの喜びは深く印象に残っていますね。
あと、父親とはいろんな考え方、意見を戦わせてきたというところですかね・・・

ひとつ例を言えば・・・「柿の葉ずしヤマト」という社名については大分意見を戦わせてきましたねぇ。私の意見は、なんでうち、カタカナやねんってとこなんです。和食の勉強、修業で色々見てきましたが、やっぱり、和○○、料亭○○といったお店の名前はほぼ漢字かひらがななんですよね。だから私は「柿の葉ずし 大和」もしくは「柿の葉ずし やまと」にしたかったんです。ところが、父としては「ヤマト給食」「仕出しヤマト」時代から慣れ親しんでかわいがってきてもらった「ヤマト」を変えることなどあってはならんと・・・。いやいや、何いうてんねん、これからの長い先を考えたら、今変えた方がいいと・・・。すごく意見がぶつかりましたねぇ。

 

―それで、どうなったんですか?

それで結局は「ヤマト」のままに残しておくことになったんです。そのかわり、何か風合いのあるロゴを作ろうというところで双方納得しまして、榊獏山先生にお願いして書いていただいたものをロゴとして使うことで親子間ではおさまったというところです。

 

―「夢宗庵(むそうあん)」というお店の名前はどういうところから?

その父である「宗次郎(そうじろう)」が夢だった店というところからです。

 

 

お店としての特徴は?

今日も間もなく観光バスが到着し、食事をしてくださいますが、特徴としては、柿の葉寿司の販売もそうですが、まずは食べていただく機会を設けるというコンセプトが最初からこの店にはありました。こちら方面に来られた観光客の方が、この地で、その風や空気を感じながら食べていただけたらと思っています。

あるお客様から後にご丁寧にお礼のお手紙をいただいたことがありました。自分がもしどこかの街に観光に行き食事をし、後日手紙を書くかなと考えた時、わざわざペンをとっていただいたと思うと本当に嬉しいですね。

あるいは近辺の方が食事に来られると、「元気にしてた?」「○○さん最近見かけへんけど、どないしてる?」といった会話をよく耳にします。そういった意味では地域のコミュニティ的な場所になっているなとうれしく感じます。

 

―自身の会社にはどのような良さがあると思いますか?

商品でいえば、素材にこだわっているというところですね。お米でいえば、新潟産コシヒカリを自社で精米していますし、厳選された素材、状況により変わったりはしますが、北海道産の紅鮭や国産の鯖を使ったりというところですね。

あと、社内の雰囲気としては、結構明るいですね。スタッフは物事をプラス思考に考え、明るい人が本当に多いですね。先日も全社員、パート、アルバイトで神戸に遠足に行ってきました。楽しかったですよ。

 


ユニフォーム選びは難しいんです・・・と宮倉社長。素敵なユニフォームですね。スタッフも気に入ってくれてるそうです。

―逆に課題として気づかれた点、取り組んでいる点は?

さきほどの話もありましたが、喜んでいただいたりお手紙までいただけたりする反面、お叱りのご意見もあります。そういった点をひとつひとつ改善していくことですね。

五條市というところに目を向ければ、やはり人口減という問題もあり、人口が減ればお客様も減る、となるとやはり売上の問題にもつながります。課題は山ほどありますよ。
会社としては50年近くの歴史があるとはいえ、「柿の葉寿司」としてはうちはまだまだ新参者なので、「ヤマト」としてのポジションや、個性を生み出していくことも今後の課題ですね。

 

―これからの思いを

思いとしては、次世代にいい形で柿の葉寿司を残していけたらなと思います。

五條の名物って何?って言われたとき、柿もそうですけど、やっぱり「柿の葉寿司」って出てくると思うんです。地域の食文化の代表するものなので、それを扱うメーカーとしてはいい形で残していくことが大事なことだと思っています。

 

では最後にプライベートな質問をいくつかさせていただいてもよろしいでしょうか・・・

―お休みの日は何をしていますか?
うーん、何してるかなぁ まぁいろんなことしてますけどねぇ。毎週何曜日休みって決まってないんですけど時間が空いたら、買い物に行ったり、美味しいもの食べに行ったり、まぁじっとしてることはないですね。

―最近の楽しみは?
ボートの免許取ったんですよ。だから、船に乗りに行くこと。西宮ヨットハーバーから淡路島までぐるーっと。

―ゴルフは?
ゴルフ・・・ゴルフねぇ・・・ゴルフ歴は長いんですよ、でもまぁ私ほどうまくならん人間おらんわってくらいです笑笑笑 大体は最下位をキープですね。 真剣に、まじめにやってるんですよ、私は・・・。でもね、うまくならんのです。でもゴルフ行くのは好きなんです。仲のいい友達としょうもないこと言いながらワイワイとするゴルフが好きです。

―他に趣味などは?
趣味ねぇ・・・広く浅くってタイプなんで笑
「旅行行こか?」「うん、行く行く」ゴルフもそう、誘われたら「うん、行く行く」「ご飯食べに行こか?」「うん、行く行く」どこでも行きたいし、何でもやりたいんですけど、深く求めないタイプです。

―好きなミュージシャンは?
浜田省吾の大ファンです。コンサートはチケット発売を待って申込みます。この前はひとりで鹿児島まで行ってきました。あとBIGINやサザンのコンサートも行きました。

―好きな食べ物は?
赤福 (甘いもの)

―もし魔法が使えたら?
悪用することしか思いつきません・・・笑

―誰に似ていると言われますか?
彦麻呂

本日はありがとうございました。

柿の葉ずしヤマトさんのHPはこちらから

柿の葉ずしヤマト五條本店
大和鮨 夢宗庵

住  所  五條市五條3丁目2-2
電話番号  0747-23-1955

 


営業時間

店 頭  8:00~21:00
夢宗庵 11:00~21:30(L.O.21:00)
定 休 日  年中無休
駐 車 場  有


☆スタッフHのすぽっとwrite☆

五條市の観光協会会長もされているという宮倉社長。たくさんのお話と最後にはプライベートな質問にも笑顔でお答えくださいました。なかでも、浜田省吾の大ファンというところでは私も学生時代ファンクラブに入っていたこともあり、とても楽しく話を聞かせていただきました。
わたくし、いまだに毎回緊張のインタビューではありますが、お仕事の話はもちろん、知らなかった歴史や、歩み、体験談や、夢や希望の話・・・そして、趣味や特技、プライベートな話まで・・・勉強になること、驚くことなど、その都度たくさんのことを吸収させていただいております。この日は帰って、浜省、聞きました。
やっぱりよかったです!浜省!