第65回 金閣園 久保 和生さん

  お客さんと向かい合う「お茶」へのこだわり

 

ー 本日はお忙しい中ありがとうございます。 金閣園さんはといえば、イオンさん(五條店)で長くお商売をされておられる、というイメージですが、お店を始められたきっかけは…? お茶が好きだった、もしくは元々お家がお茶屋さんをされておられた、というところでしょうか?

きっかけと言うか、僕自身は、大阪の和泉市の出でして、そこに大きなお茶屋さんがあって、「これからはお茶がよう売れるから」ということで親戚の人に口利きをしてもらって。それで中学校を出て、そこに奉公させてもらって… というのっが始まりかな?

ー お茶が好きだった、もしくは元々お家がお茶屋さんをされておられた、というところでしょうか?

いや、そんなんと違う。僕はとにかく勉強が嫌いで(笑)、そして特に好きなこともないし、親に、「みんな高校へ行くのに、あんたはどうすんの?」って言われて。僕の住んでた集落は60件ほど住んでて、その中で同級生が11人おった。それで同級生はみんな高校に行ったんやけど、僕だけが高校へは行かなかった。でも、しゃーないやんな?勉強嫌いなんやし(笑)

ー 中学校を出られてすぐにですか? 奉公… というのも、ご主人がお若い時代の当時の世相を感じますね。

そこの店で8年間おったけど、それはもうただ働きみたいな感じやった。でも、昔の奉公なんてものは皆そんな感じですよ。給料なんか小遣いみたいな感じで千円か二千円くれただけ。まあ、食事は奥さんがやってくれてたんやけど。

ー 住み込みでお勤めされておられた、ということですね。

そう。ただ一緒に住み込みで仕事をしとった仲間らは、ほとんどが皆、お茶屋さんの息子か何かで、ここへ修行に来とった。そしてそのお店は、大阪の南部ではそらもう売上1,2位を競うような大きなとこやった。そこのお店で、10年勤めたら、暖簾分けするっていうかたちで最初は行った。当時の親方さんも、手広くあちこちにお店を広げとったから、僕もやれこっちのお店、次はここ、みたいな感じで、だいぶいろんなところに回されたなあ。

ー それで、修行先で10年間勤められ独立… という流れなのでしょうか?

いや、でも見てたら、当時若かった僕の目から見ても、運営が上手くいってないのが分かった。特にお金の面で。自分たちのために貯めてくれていたお金も使い込まれて、このまま長いこと、ここにおっても暖簾分けどころの話やない、と感じてきたんで、当時の商売人の組合とかの役をしている人にいろいろ今後の相談とかもした。それで確か和歌山の人に、今度、「五條」って言うところに、「ニチイ(現イオン)※」が新しくできますよ、と。そこでお茶屋さんを募集しているんやけど誰も来ない… ということを言われまして。

※五條ニチイ  イオン五條店の前身。かつて五條市須恵に存在。

ー なるほど、そのいきさつが五條でお店を開くきっかけになったということなのですね。

いや、話をされた時点では、まだ(五條に)行くとも何とも言うてないのに、とにかくその人から早くしてくれとお話が進みまして… ニチイさんがオープンするまでもう2か月しかない、とにかく早く返事をくれと。確かにその話は当時の僕からすれば有難いお話やったんやけども、五條という土地なんて縁もゆかりもなければ行ったこともない。五條どころか奈良県というところも、奈良公園やったら知ってるけど、みたいな感じで。

ー 縁もゆかりもない土地でお店を開くこと… 最初の頃は大変だったのでしょうね。

お店を出すのにお金がなかった。だから、親に頼るほかがなかった。でも、私も兄弟が6人もおって、その下から2番目やったから、上の兄弟が苦労しているのを見てきてるから、そやけど背に腹は代えられない。自分でお店を持つ、今が千載一遇のチャンスやと思ってもう、こんなのもう2度とないことやと親を説得して、農協の定期預金を解約してまでして、手元に何とか50万円用意してくれた。

ー それで何とか、開店にこぎつけた感じで?

でも実際、そんな金額では、(開業には)全然足れへんかった。開業資金のほかに当時、お店を出すのに保証金なんかも要って、それがまた高かった。でもニチイがオープンするまで、もう2か月もなかったから、もうあるお金だけでいいよ、って堪えてもろた。

ー そうなんですね。いろいろな要素が重なって、いい方向に廻っていく感じですよね!

ただ、最初はお店に商品を陳列したりするのにお金も要って、それはもうみんな借金でした。とにかく巡ってきたチャンスを無駄にしたらあかんという思いで。それと商品のお茶は、奉公していた和泉市の親方から提供してもろた。それで何とか、お店の形ができた。

ー 私もこの企画で、昭和40~50年代に、起業やお店を開業された方たちのお話を何軒かお伺いしたのですが、世代の方は本当にいろいろと苦労なされたのですね。それでは、そのタイミングで(和泉市から)引っ越ししてこられた?

引っ越しやいうても、縁も何もあらへん五條には住むとこもなんも予定してなかった。まあそれでも、こうやって五條でお店を出して、ずっとやっていく訳やから、お店を出すことを世話してもらった人は、住居を紹介してくれた。昔、五條市新町にあった、「五條デパート」※っていうお店の2階が住居部分になっとって、そこを紹介してもらったんやけど、そこは、もちろん五條デパートで勤めとる人、当時は高度成長期で、これから独立しようとする人とかが所帯しとったから、ニチイでお店をしとる僕は、大変居心地が悪かったんやけど。

※五條デパート  かつて、五條市新町に存在していたスーパーマーケット。

ー でも、ご自身のお店をもって住居も用意いただける… とんとん拍子で事が運んだ感じで…

自分の親には、「そんなええ話、お前、騙されとんちゃうか?大丈夫か?」と言われたもんやけど、自分も若かったから、心配も何もなかったわ。やるだけやったるわ、って言う感じで。

ー では実際、オープンしてからの出だしは如何ほど?

最初のうちはもちろん売れへんかった。でもお客さんも段々つくようになって…ってなって来た頃、ニチイが移転※するっていう話になって、今の場所にね。店始めてまだ3年ほどで。それで陳列やら何やらまた一から。それでまた借金をすることになって。 ※五條ニチイ  現在のイオン五條店。かつては五條市須恵に存在。

ー 開業されて丁度お店が軌道に乗り始めた頃ですよね。それでまた一からとなると…。

ニチイがオープンする時は、五條デパートで商売しとった者も皆ニチイで店を出すいうことで、皆で場所を争うて。当然、隅っこのほうに売り場をやられたら、当たり前やけどお客さんなんて回って来へん。そんな中で、(ニチイで)店を出そうとする者みんな集まって、場所取りみたいな会合に行ったんやけど、周りも30代、40代の「大人」ばっかり。自分ははまだ23やったから、何にも分かれへん。そんなんやったから、存在も忘れられてしもとった。それで、会合も終わろうかという時に、ようやく存在に気付いてもろて、何とラッキーなことに、僕にも何でか分らんけど、一番ええ場所に置いてもろた。

ー そうなんですか! 当時の久保さんの若さに期待して… ということだったんでしょうか?

何でか分らん(笑)。 でも、ええとこに置いてもろたもんやから、敵対する人も少なくなかった。みんな生活かかっとるからね。気の荒い者もおったし、そういう者からもだいぶ難癖つけられた。

ー 昭和の時代、高度経済成長期の商売人のかたには、そういった方も多かったと聞きます。まだ当時若かった久保さんのような’’新参者’’にはことのほか厳しい時代だったのでしょうね…

そんな中でも粘り強く何とか頑張ってきて、一時はアルバイトを7人も雇うほど店も繁盛してきた。今から30年くらい前かな… その時は、お店(ニチイ)に来るお客さんも今よりもずっと多かったし、ほぼお茶一本で、何せよう売れた。一日に300本(茶葉の袋が)売れたときもあった。一人のお客さんでやで。あの時は忘れへんな… お店に普通に来て、300本って言うんやもんな。びっくりしたわ。でも、もうあんな売れることは、今後はないやろうな。ちなみに今はというと、当時の半分ぐらいの売り上げや。今はなんぼ努力しても報われへんというか…

お茶を販売される傍ら、「喫茶」のほうも。「金閣園ブレンド」が特にオススメ!

 

 

 

 

ー そうですね… 今は店頭販売以外にも、インターネットの通販を始めとして、茶葉一つとっても、モノの売り方、というのは相当に変化していますし… あと金閣園さんは、創業の頃より、一番最初のニチイさんに始まり、そして移転もあり、サティさん、そして現在のイオンさんとともに歩んでこられました。その中で、時代の流れを感じることは?

若者やね。今、お茶はペットボトルでも普通に売っとるやろ?でも初めのうちは、我々のようなお茶屋からすれば、そんなペットボトルに入っとるお茶になんかは絶対に負けへん、っていう自信があった。でも、飲料メーカーは研究して、若者の嗜好をとらえて、若い人でも飲みやすい、水に近いお茶を作った。水に近いから刺激もない、でもお茶の香りはするし色もついとる。そういう若者向けの売り方を徹底してきた飲料メーカーさんに、お茶屋さんは負けたよね。お茶屋さんは、お茶屋の玄人が飲んでおいしい、そんな商品しか置いてないやんかと。若い人にそんな(お茶が)苦いとか、甘いとか言うても普通は分からへんやん。

色とりどりの商品が、所狭しと並ぶお店は、とても賑やか!

ー そうですか、確かに、「急須で入れるお茶」というのは、若い世代のかたにはなかなか敷居が高いのでしょうね… 「急須」というものが、日本人の生活から次第に遠ざかるのは寂しい気もします。そんな時代にあって、長年お店を営まれてきて、大事にされてきた心がけなどは?

まあ、とにかくお客さんとのやり取り。お客さんの言う事を、よく聞いたることやろな。それを自分の中で分解して、お客さんの言うてることの真意を読んだうえで、自信をもって返事する。生半可な返事ではあかん。そやけど偉そうにだけはしたらあかん。なんぼええ品物売っとっても、当たり前かもしれへんけど、それは泉佐野で修業しとったころ、常に教えられてきた。これを今でも心がけるようにしとる。

ー ありがとうございます。 後、先ほどのお話しにも出ましたが、ペットボトル飲料等の競合する商品、そしてスーパーでも当然ながら茶葉も販売しています。そういったライバルに比べての、「金閣園さんならでは」とは?

うちは、スーパーとか小売店で扱わへんゾーン、所謂高級な品を使うようにしとる。昔はスーパーで90円で売ってたらうちは同じ品物を80円で売る、みたいなことをしてたけど、そのやり方ではスーパーとかには勝てない、というのが分かってきて。いい品物を売って、いいお客さんを掴まえる。それでついてきたお客さんは固い。そして人に紹介してくれる。もちろん高級品を売っていくのは大変やけど、それが、スーパーとかとの違いかな。

お店には、有名人のサインもチラホラ…こちらのサインはかの「尾野真千子」さん。

 

 

 

 

 

ー ありがとうございます。次に、商品のお話しなのですが、店頭にはたくさんの種類のお茶を販売されておられます。金閣園さんのお勧めするお茶といいましたら?

まあ… 5品くらいはよそでも負けへんのはある。笑 ただ、うちは実は遠方からのお客さんも多くて、「自分の住んでるとこの近くでも、同じようなお茶は売ってないんかな?」ってよう言われるけど。それは無いって。お茶っていうものは、産地や畑、それに品種、蒸し具合等とかで、特徴の違う茶葉を何種類も組み合わせて造るもの。お茶は単品で色、香り、味の三拍子が揃ったものなんかほとんどない。うちももちろん、全部自分とこでお茶を合組み※して、味見して、これは良いと思ったお茶を商品として出す。もちろん何べんもしながら。そないしたら、絶対おんなじお茶はないねん。それで「自分のお茶」というのができる。それはすなわち、「自分が好きな味の」お茶になってしまうんやけどな。

※ 合組(ごうぐみ)  産地や品種、蒸し具合などが異なる荒茶の特長を見極め、ブレンドすること。

ー 久保さんの、修業時代から長年培ってきた目利き、さぞ確かなのだと思います。他にお勧めのお茶などは?

番茶やろな。番茶言うたら、本来は規格外のお茶とか、低級のお茶を指すわけなんど、うちは逆。一番高いお茶にお茶にしとるねん。だからお客さんには「えらい高いなぁ」って言われる。「番茶」には「自家製のお茶」をまとめて言う意味もあるし、一番茶、二番茶を摘んだ後に収穫される「晩茶」という意味もあるからな。それで、金閣園さんの「番茶」えらい美味しいわ~、なんて言われる。

ー 「番茶」にはそういう意味合いもあったんですね!今初めて知りました。お茶を少しでも嗜んでいる方からすれば、意外に感じられて面白いところですよね。あと、お店の名前である「金閣園」さんの由来は?やはり「金閣寺」がルーツなのでしょうか?

さっきも言うたように、「上等」のお茶を「良いお客さん」に買ってもらう。京都のお茶は、所謂、「上等品」。それを京都で一番有名なお寺の「金閣寺」にちなんで。

ー そうなんですね!納得です。「金閣」っていう響きもいいですし、「高級嗜好」のイメージに納得です。それと最後の質問になるのですが、久保さんは店頭に立たれるときはいつも「赤いサンバイザー」を被っておられます。これには何か意味が?

それ、よういわれるねん 笑 まあ特に信念やら深い意味はないんやけど、やっぱり「若く見せる」為やな。やっぱり店に立って商売しとって、それはすごい重要なこと。いかにも齢いったもんが店に立っとっても、お客さんなんてそんな店なかなか来たがれへんやろ?それでちょっとでも若く見せるため。実際はそんなところかな。

ー なるほど!でも、もはやトレードマークにもなってますよね!これからも末永いご活躍を願っております。本日はどうもありがとうございました。

 

(編集後記)

高度経済成長のさなかの、今ほど皆が裕福でなかった昭和40年代。そんな中、豊かな生活を求めて独立を夢見る… 若かりし頃の久保さんも、もちろんそんな思いを持っていた一人の若者であったことでしょう。久保さんの話ぶりだけでも、当時の日本の、まだ活気のあった時代の情景が浮かんでくるような感じでした。そして「皆のおかげ」と事あるごとにお話しされていた感謝の気持ち、謙虚な心こそが、栄枯盛衰の激しい世界で、「金閣園」さんが今の今まで至っているという所以なのだと感じました。