カテゴリー:趣味・教室

第75回 カフェ新町ミント 松山幸藏さん 松山明美さん

きっかけはリノベーション
そこから始まり広がる新たな楽しさ

 

猛暑日が続く8月、新町通りでお店を始めたという「ミント」さんを取材。お店の軒先に吊られた風鈴が少しだけ暑さと緊張を和らげてくれました。暖簾をくぐると店内は開放感と趣ある素敵な空間。心地よい音楽が流れる中、出迎えてくださった店主の松山幸藏さんと奥様の明美さんにインタビューさせていただきました。

カウンターを置いてみたら

―こちらのお店はいつオープンされたんですか?
松山幸藏さん 以下 幸藏さん)去年の8月2日です。

―8月2日、今日?!、本日1周年ってことですか?!
幸藏さん)はい、そうです。

―おめでとうございます。
幸藏さん)ありがとうございます。

―現在、日曜日のみの営業ということですが、今日(水曜日)はわざわざお店を開けていただきありがとうございます。
幸藏さん)いえいえ。オープンから2か月ほどは私の仕事が休みの水曜と日曜にお店を開けてたんですが、そうすると、他の用事ができないんでね、例えば病院へ行ったりとか・・・。それで日曜日だけにしようってことになったんです。

―お仕事とおっしゃいますと?
幸藏さん)週5日、大阪の輸入車のディーラーさんへ回送係の仕事に行っています。
お客様の車を車検や修理のために引き取りに行って、工場へ持って行って、修理、点検が終わるとまたお客様のところへお届けする係です。京都や大阪、いろいろな地域へ行きます。

―長年そのお仕事をされてらっしゃるんですか?
幸藏さん)いえ、以前は輸入車メーカーで整備士として働いてたんですが、2009年に会社がこう・・・、パタッとなりまして。そこで、今の会社が回送係を募集していたので、派遣会社を通じて行かせてもらうようになりました。

―お勤めをされながらお店を始めることになった経緯を聞かせてください。
幸藏さん)この建屋がボロボロで雨漏りもしていて、もしこの先、台風や地震

があったときの事を考えると、子供達に負担がかかると思いリノベーションすることにしたんです。工務店の方と打ち合わせをして、とりあえず二階部分をなくして吹き抜けにしようということでご覧の様にどーんと吹き抜けにして。で、そのあと、このスペースを(現在のカウンター付近)どうしようか・・・ってときに、工務店さんから「ちょっとカウンターとかキッチンなんかを置いてもいいんじゃないですかね」って言われて。で、私も、まぁそんなんあってもえーかなくらいの気持ちで進めていったんです。

―喫茶店をしようと思ってリノベした訳ではなかったということですね。
幸藏さん)全く、そんなつもりはなかったんです。何かしたいなって言うのは多少はありましたけど、そんな強くは思ってなくて、車とかバイクが好きなんでそういうのをここでいじれたら・・・とか、そういうぼやっとしたイメージはありました。私の「何かしたい」構想と、工務店さんの「何かした方がいいですよ」が合わさっていったんですかね。でも実際カウンターと流しが入ると、あ、ここでコーヒー飲めて、好きなジャズも聞ける。なかなかいいなと思ったんですよ。で、こんなかたちになりました。

開店までの道のり

―構想が固まってからのスケジュールは?
幸藏さん)一昨年(2021年)12月に工事が始まって翌年4月に完成。そこから色々準備をして、7月に知り合いや親戚をよんでプレオープン。8月に正式に・・・といっても告知等は一切せずこそっとオープンしました笑  工事が終ってからの準備がね、結構大変で、全くの素人だったので何かを選ぶにしてもどれを選んでいいのか、どういう感じでいったらいいのか・・・。でもその後たまたま行った家具屋さんや電気屋さんで何かいい感じのものがあったので、これえぇやん、これもええやんって感じでとんとんと決まって揃えました。
コーヒーのマシンとかはね、もともと家にあったやつです。うち親戚も多くてお客様もたくさん来るんで、普段からよくコーヒーはいれてたんです。

―オープン当初の思い出は?
幸藏さん)やっぱり緊張しました。お客様が来られたらまず水とおしぼりを出して、動線をどうしてとか、豆をどうしてとかね。オープンの告知もしてなかったですし、通りがかりの人が気付いて入ってきてくれるって感じで、メニューもコーヒー、紅茶、コーラくらいに絞って何とかやれてたって感じでした。

―1年経った今、いかがですか?
幸藏さん)ま、ぼちぼちって感じです。常連さんもちょっとずつ増えてきました。車関係の仕事のお客さん、あと、毎朝の通勤で知り合った方がいて、こんなん(店)しますねんって言ったら来てくれたり、観光客の方も入ってくれるようになりました。

―手作りのケーキは、営業日の前日にご準備されるんですか?
松山明美さん 以下明美さん)土曜の晩から寝やんと焼きます。夜から作り始めて5~6種類くらいかな。

―寝やんと?! 5~6種類?! でもメニューにはケーキが載ってないですね?
幸藏さん)1年間はお試しで様子みてみよってことで、ドリンク注文のお客様にはケーキをいくつか無償でお出ししてたんです。
明美さん)そう、お試し中なんで。喜んでもらえたらそれでいいの。「いいんですか?!」ってびっくりされたりしますけど笑

―はい、私もびっくりしてます笑 奥様は昔からケーキ作りをよくされてたんですか?
明美さん)はい、昔から食べるのも作るのも好きで笑 だからほんとはもっと若い時にお店をしたかったんですけど、この歳になって、これからゆっくりしようって思てたときにお店することになって・・・笑。それもコーヒーなんていれたことないお父さんがお店するって言うんやもん笑。でも何かお手伝いできるかなと思ってね。

―ご主人・・・、コーヒーいれたことなかったんですか?笑
幸藏さん)ないです笑 店するまでは仕事から帰ってきてご飯食べてお酒飲んで、しばらくしたら奥さんに「コーヒーいれて」って。しばらくしたら「何か甘いもんない?」って。そう・・・私「何もしない人」やったんです笑

―そのご主人が今は喫茶のマスター!
明美さん)そうそう笑
幸藏さん)コーヒー屋さんのHPやYouTubeを見て、豆の量、湯の量、温度、蒸らす時間等を研究して試行錯誤を繰り返し・・・の末、結構味にうるさい息子達も美味しいと言ってくれたんで、ま、何とかいけてるのかなと笑

―息子さん達はお店を始めるにあたってどのように?
幸藏さん)「ちゃんとやらなあかんで」って笑。もう、何かすごい怒られました笑 「何をどうして、どうするのか、ちゃんと決めたんか?」「ほんまに、ちゃんとできるんか?」と笑。ま、それまで何もしたことない・・・、飲食に関わる仕事なんてもちろん、それこそコーヒーなんていれたことない人間が急にそんなことできるのかって事だったんでしょうね。

―今、美味しいコーヒー、いただいております笑
幸藏さん)ありがとうございます笑。

バイク、ケーキ、あいみょん。

―奥様はケーキ作り、ご主人は車やバイク、ジャズがお好きとのことですが、「スイーツ」に関してはご夫婦で色々お店巡りをされてるそうですね。
明美さん)そうですね、ケーキ屋、パン屋巡りは結構しますね。私達、案外、食の好みが合うんですよ。嫌いな食べものも一緒やし、昔は信州までお蕎麦を食べに行ったりとかもしてたのよ。お父さんが車でどこへでも連れてってくれるからほんま嬉しい。
幸藏さん)車の運転は好きなんで、どこでも行きます。
明美さん)三田にスイーツの街があるんです。ケーキだけじゃなく、チョコレート専門店とかアイスの専門店とかいろんなお店が一帯にあって一日遊べそうな街。 そこへも朝早くから出かけて、並んでジェラート食べたり、子供に買って帰ったり、お父さんもほんまスイーツ好き。仕事のお昼休みにも色々買いに行って写真載せてるみたいで、それ(SNS)を見た友達が「幸藏さん、また何か買って食べてるで」って教えてくれるんです笑

―大阪だとたくさんお店もありますもんね?
幸藏さん)そうですね。今の職場のある大阪西区エリアも美味しいケーキ屋さんの激戦区で、よく昼休みに自転車で買いに行くんですよ。そのときディーラーのジャンパー着てるからお店の人がすぐ顔覚えてくれて笑。今から10年くらい前に、扇町のフランス菓子のお店に感動したのがきっかけで、それまでちょこちょこ買いに行く程度だったのが食べログとかで調べていろんなお店に頻繁に行くようになったんです。

―ジャズについては?
幸藏さん)ジャズはもうずっと昔から聞いてて。お店するにあたって何度も日本橋に行ってスピーカーを決めてきました。これはJBLっていうジャズにマッチしたアメリカのスピーカー。あと私の好きなアーティストのポスターを取り寄せて飾ったりしてここは、ま、私の趣味的なスペースでもある訳です。だから家に帰って食事を終えたらもうここに来て、コーヒーやお酒を飲みながらゆっくりジャズを聞きます。あと、中島みゆき、あいみょん

―あいみょんも聞くんですね!?
幸藏さん)聞きます聞きます。もう1個の方のスピーカーで聞くとね、ほんと、あいみょんがその場で歌ってるかのように聞こえるんですよ。初めてYouTubeであいみょんを聞いた時からこの子すごいなーって思ってて、そしたらその後ドーンと売れて笑

―食後もここに来て・・・。この場所を楽しんでらっしゃるんですね。
幸藏さん)はい。そこがいちばん大きいです笑 自分が楽しめてるこの場所に、お客さんが来てくれて、音楽とか、車、バイク、スイーツの話をできるのがとても楽しいです。このお店のこれが美味しいよとか、パンでも総菜系やハード系いろいろありますし、お酒だったら奈良の日本酒も色々飲んだので、お話できるかなと。教えてあげられること、逆に私もお客さんから教えてもらえることがうれしいんです。

―行く行くは平日のオープンもお考えですか?
幸藏さん)そうですね、私ももうすぐ70歳になるんで体力、視力、運転の技術の問題もでてきます。お客様の大切なお車、さらに輸入車は500~600万、中には1000万する車もありますからね。年々、より慎重に運転することを心掛けていますが、ディーラーさん側の判断もありますし、いつまで契約してもらえるのか、あるいは出勤日数を減らしてもらえるかなど相談していこうと思っています。少し余裕ができてきたら、だんだんこっちがメインになってお店開ける日も増やせるかと思います。

次は釜めし?クラフトビール?

―新町ミントという店名の由来は?
幸藏さん)店名は何がいいかっていろいろまぁ、家族会議で相談して・・・。で、私、虫が嫌いなんですよ。大阪って虫あんまりいないでしょ、こっちきたら、すぐそこが河原で、蚊、蜂、いろいろいてて。今はさすがに少しは慣れましたけどね。で、そこから、ミントって虫除けになるなっていうの新町通りで「新町ミント」。
あと、ミントってお菓子にも使うでしょ、奥さんもミントのケーキを作りますし、飾りにも使ってますので。

―「虫除け」の意味が含まれてたとは笑 五條市は自然豊かですからね、虫もたくさんいます笑
幸藏さん)私は元々大阪の人間でここには養子で来させてもらったんです。ずっと会社と家の往復で朝早く出て夜遅く帰ってくる生活が長かったですから、五條のことは最近ようやく色々分かって来た感じなんです。

―これからお店で取り入れたいことや考案中のものはありますか?
幸藏さん)かき氷ありますか?って来てくれるんで、それも考えようかなと。あと、ランチ的なものができればいいですね。

―ランチ、ぜひ♪ 奥様お料理好きとのことですし。
明美さん)いや~そんなん無理やわ~笑 主人が仕事辞めて完全にここってなったらまたそのとき考えよかな~。
幸藏さん)前に釜めしとか天ぷらとかだし巻とか色々作って親戚に食べてもらったりはしたんですよ。お試しで。

―釜めし、だし巻・・・ご主人、日本酒も色々ご存知とのことですし、奥様のお料理でお酒も進むのではないですか?
幸藏さん)はい。でも手術してからは控え目で・・・。私3年前に大病してね、それからいろんなことをぼちぼちしょうかなって考えになったんです。
明美さん)そう、病気してね。10キロくらい痩せたよね?お父さん、ここ(五條)に来てくれて今まで一生懸命、頑張ってくれたから、これからの人生は自分の好きなことしてくれたらいいと思ってね。
幸藏さん)病気してへんかったらこんなんしてへんだかもね笑
明美さん)
バイクで走り回ってたんちゃう?笑
幸藏さん)そうやな~
。休みならツーリングとか?
明美さん)偶然かもしれないけど、車好き、音楽好きな人が来てくれたり、あと今度カフェを始めたいって方が来てくれたことがあって、とっても話が弾んでお父さんも喜んでるのを見ると嬉しくて。だから私はちょっと出てきてお手伝いさせてもらってるだけ。
幸藏さん)今、クラフトビール巡りも楽しみのひとつで。私に資金力があったらねぇ、新町でクラフトビールのお店もしたいんですけど・・・笑

―ぜひ、クラフトビールのお店してください!その時はまた取材に来ます!笑
幸藏さん)そんなん無理無理~

―五條市についてどういったことを感じますか?
幸藏さん)大阪から最初来たときはなんて静かなとこなんだと。 風景や街並みも綺麗で大阪のガヤガヤが当たり前だった私にとっては静かだなーという印象でした。
明美さん)私はずっと暮らしてきたからそんなんも当たり前に思ってた。交通の便が不便やなと思ってましたけど。
幸藏さん)私が五條に来た頃は、まだ電車の本数も結構あったけど、今はかなり減ってるでしょ。
明美さん)雨とか風でよく電車停まってるでしょう?あれは困るよね、通勤、通学の人が難儀してるもん。そういうの改善策考えてあげてほしいよね。
幸藏さん)交通の便ね・・・ま、不便だからこそ、この風景が保ててるかもしれないですしね。大阪はやっぱり雑踏の中という感じですからね。今はアマゾンとか楽天でどこに居ても何でも買える時代だし、住むにはこういう街がいいかもしれませんね。

―幸藏さん、明美さん、本日はありがとうございました。

喫茶 新町ミント
  住      所 〒637-0043
奈良県五條市新町1丁目11-6
  営   業   日  日曜日
  営 業 時 間 10:00~17:00
  駐 車 場

☆スタッフHのすぽっとwrite☆

「お試し中なんで・・・。」そういって出してくださったケーキはどれも本格的。
なかでも初めて食べたミントのケーキが美味しくて印象に残りました。
美味しいコーヒーとケーキをいただきながら教えてもらったスイーツ、パン、お食事、たこ焼き・・・の美味しいお店など、おふたりのその情報量といったらほんとにすごくて、取材後もペンが走る走る笑 いや~お腹も心も情報も満たされました。

これから私も忙しくなりそうです。教えてもらったお店、「お試し」に行かないと♪

 

 

第71回 五條ドレスメーカー学院 平岡照子さん

洋裁一筋80年 全精力を生徒さんのために


今から80年前、16歳だった少女はある方の言葉に感銘を受ける。その言葉は少女にとってショックでもあったがいずれそれは彼女の原点となり夢となる。96歳になった今でもその夢と共に平岡照子さんは全精力を生徒さんのためにと今日も自宅の教室で洋裁を指導する。洋裁一筋80年、「天才で天然」と家族も認める照子さんが歩んできた天才への道、そして少し笑える天然なエピソードをお聞きしました。

衝撃的な言葉

―照子さんのお生まれの時からのお話を聞かせていただけますか?
昭和2年、大阪の末吉橋で4人兄弟の3番目として生れました。上が兄二人、私、そして妹。父は割とおしゃれな人でね、私と妹はいつもあつらえのお洋服を着せてもらってたの。そんなおしゃれな家庭で育った私は小学校を出て、茨木の女学校へ入ったの。今は小学校を出たら中学校へ行くでしょ。でもあの時代は女の子は女学校へ5年間行ったのね。その女学校時代に※田中千代先生という方が講習に来られたの。

※田中 千代(たなか ちよ、1906年〈明治39年〉8月9日 – 1999年〈平成11年〉6月28日)は、日本の教育者、服飾デザイナー。田中千代学園理事長、田中千代服飾専門学校校長。昭和初期に渡欧し欧米の文化・服飾を学び、日本に近代洋裁教育、服飾デザインの礎を作った。Wikipediaより引用)

―田中千代先生というのは洋裁の先生なんですか?
そうそう。洋裁学校の先生。神戸で洋裁学校を経営してらした方で、当時の皇后陛下のお洋服を担当したり、とても立派な先生だったの。女学校ではいろんな講習にいろんな先生が来られるんだけど、田中千代先生はその中のひとりだったんです。そこで先生がこうおっしゃったの。「スタイル画を見ただけでお洋服が作れます」って。え??スタイル画を見ただけでお洋服が作れるの??て不思議で不思議で、ショックだったんです。

―ショックを受けるほどだったんですね。
そうです。だからその後もずっとそのときのその言葉が頭にあってね、女学校を卒業した後は相愛女子短期大学の被服科へ行ったの。やっぱりお洋服を作る科を選んで行ったわけね。でもその頃から戦争がひどくなってきてね、どうしても大阪では居られなくなって。それで私の母の実家である五條へ疎開して、それから卒業までの間は五條から短大まで通ってたんです。短大を卒業してから、五條にある母の女学校時代の同級生がやってるお洋服を作るお店から「そんなに洋裁やお洋服作るのが好きやったら来たら?」って声をかけていただいて。それで行かせてもらうことになったんです。そしたらそこに息子がおりましてね、結婚したんです笑

―照子さん・・・、ちょっと話が進み過ぎたので少し巻き戻してお聞きします笑 
照子さんのお母様の同級生がお洋服のお店をされていたんですね。
そうです、その母の同級生というのが、(後に義母となる)平岡クマノです。クマノはもともと東京に住んでいて、ご主人は船の設計士だったんです。当時「鶴見丸」っていう船を設計しててね、それで息子である私の主人が産まれたときには「鶴見」って名前をつけたんです。でも鶴見が中学2年のときに急に亡くなったの。3人子供を残して。未亡人となったクマノはもともと和裁の先生でしたが、これからはお洋服の時代だと先を見越して、子供達を実家(五條)に預け、自分は東京に残り1年間※杉野芳子先生に就いて洋裁を勉強して、そして五條へ戻ってきてお店を開いたわけ。

※杉野 芳子(すぎの よしこ1892年3月2日 – 1978年7月24日)は、20世紀大正時代から昭和時代にかけて活動した日本ファッションデザイナーで、学校経営者。「ドレメ式洋裁」の創案者で、杉野女子大学学長、杉野学園ドレスメーカー学院創立者1926年(大正15年)、ドレスメーカー女学院(現在のドレスメーカー学院)を設立。洋服に仕立て服(オーダーメイド)しかなかった時代に、標準的な型紙を使った、セミオーダーメイドや既製服(レディメイド)といった効率的な製作方法を教育。安価で良質な洋服の普及を目指した。Wikipediaより引用)

平岡クマノさん

―クマノさんはたくましい女性だったんですね。そのクマノさんのお店で照子さんはさらに洋裁の勉強を続けてたんですね。
そうです。そうして習っているうちに、先生(クマノ)に認められたわけやね笑

―やっぱり照子さんに才能がおありだったんですよ。
そうかしらね笑 自分の息子のお嫁さんにして、私を後継ぎにしたいと思ってくれたんでしょうね笑

―先生だったクマノさんがお義母様になられて・・・ どんな方だったんですか?
怖かったですね~笑笑 先生で、義母で、とてもしっかりした方、尊敬する方でしたね。

 

どこまでも洋裁を突き詰めて

―ご結婚後はどのように過ごされてたんでしょうか?
長男ができてから、もう一度洋裁の勉強をしたいと東京の杉野芳子ドレスメーカー学院へ行かせてもらいました。

―杉野芳子さんて、クマノさんが洋裁を習ってたところですよね?そこでさらにどんなことを学ばれたんですか?
そうです。クマノが習ってたところです。私が勉強に行った当時も全国から大勢の生徒さんが来てましたよ。杉野芳子先生は、義母の事を覚えてくれてましたので、私には特別に元のパターンの方法や、製図の作り方を全部教えてくれたの。本科1年と師範科1年、ほんとは2年かけて学ぶんだけど、私は特別に1年でそれを勉強して帰ってきたの。今日は本科で明日は師範科というようにスケジュールはみっちりでしたけどね。

(写真左から杉野芳子先生・クマノさん・照子さん)

 

―東京に勉強に行ってどう感じましたか?
よかったですね、ほんとに。それが元になって、今もこうして続いてるから。

―お子さんもまだ小さい頃に、東京に勉強に行きたいと言ったとき、クマノさんやご主人は何とおっしゃいましたか?
反対はされませんでした。勉強したいという私の思いにはいつも快く行かせてくれました。途中、何度か行ったり来たりしながらでしたが、子供もみてくれましたので安心して行くことができました。

―当時の東京へ往復は大変だったのではありませんか?
夜行列車で行ったり、なかなか大変でしたよ。それでも好きな洋裁のためでしたので。

―東京から戻ってきてからはどのように?
次男もできまして、クマノの助手として毎日洋裁を勉強していました。その頃はまだ、自宅で教室をしてたんだけれども、郵便局が移転することになってその建物が空いたので、そこを買って五條ドレスメーカー学院にしました。(現在の五條1丁目戎神社横)その時分の女性はお勤めなんてなくて、女学校を出たら、洋裁か和裁を習ってそしてお嫁にいくっていう時代だったの。洋裁学校もあちこちにできてきてね。うちにも4月になったらたくさんの生徒さんが入学してきて忙しかったです。

―当時の貴重なお写真がたくさんありますね。当時の様子が伝わってきてとても興味深いです。
これは、その郵便局跡に学校を開いたときの記念で行った「ファッションショー」の写真ね。その後も定期的にファッションショーをしてました。

 

昭和23年4月 新しい校舎での第1回ファッションショーは大変な人気。服地の無い時代のため、着物をリフォームしたドレスばかりだったとの事

 

 

 

 

 

 

 

 

写真中央が照子さん

―これは照子さんが生徒さんに教えてる写真ですね。
そう、これは帽子の指導をしているところ。ファッションショーをするとお帽子をかぶるでしょ?だから洋裁だけじゃなくて、お帽子も教えないといけないんです。だから東京の「サロンドシャポー」で制帽を習ったり、ほかにも「布花」とか「刺繍」、名古屋に「立体裁断」も習いに行きました。

―立体裁断ってなんですか?
ボディーに布をあててね、そしてそれをハサミで切りながら形を作るの。そんな勉強を週に1回とか、あるいは月に1回とか行ってたの。勉強ばっかりでした。そのおかげで、今、何を持って来られても、スタイル画を見ただけですぐわかるんです。

 

そうめんの茹で方

―本日も先ほどまで生徒さんがたくさんいらっしゃいましたが、皆さんどんなものを制作されてるんですか?
今はね、着なくなった和服をお洋服にする、それが多いです。ある程度、生徒さんの希望を聞いて、その着物の柄とか特徴をいかに活かしてあげるかを考えて教えます。また外国のファッション雑誌を持ってきてとても斬新で新しいデザインのお洋服を作りたいって生徒さんもいらっしゃいます。そういうときはいつも以上に熱が入りますね笑 昔、ファッションショーでいろんなデザインに挑戦していた感覚が蘇るような・・・。どんなもの(スタイル画)を持ってこられても「できない」とは言えない、言わないですね笑

―照子さんの「洋裁魂」が沸き起こるんですね笑 
笑 もう仮縫いのときからワクワクしてきます。そうしてできあがったお洋服を生徒さんが着て来てくれるの。それがすごく似合ってるのね。そのとき「わぁ、いいわね」って。その瞬間がとても嬉しいです。

―照子さんは教えるだけでなくご自身も何か制作されたりするんですか?
はい、作ります。孫たちのウエディングドレスも作りました。これも(照子さんの当日着用されてたお洋服)そうです。これはもともと大きいスカーフだったの。それをインナー部分や袖口、あとアクセントにバイピングをして。いろんなところにスカーフをいかして、作りました。

 

 

 

 

 

 

 

 

―洋裁以外にご趣味などはありますか?
国際ソロプチミスト奈良あすかという奉仕活動団体で30年以上、奉仕活動をさせてもらってます。全国的な団体なんですが、奈良あすかで発足の時にお声かけていただいて、そこからずっとです。例えば、五條市の福祉施設や、こども園などへの奉仕活動をさせてもらっています。

―では、照子さんが苦手だったことってありますか?ご家族からはある情報を入手してるんですが笑 あの・・・そうめんを・・・?
ハハハ笑 何なの?そうめんにびっくり水を入れるのを知らなかったの笑笑 だって、そんなのしたことなかったから笑

―そ、そうなんですね・・・。もっとすごいことありませんでしたか??笑 
え?あったかな~??笑 あ、そうめんを湯がくときに、帯をした束のままお鍋に放り込んだの。

―そう、それです!笑 クマノさんもそれにはびっくりしたって笑 でもそこからはとっても上達してコロッケは得意料理に、そしておせちもとっても上手に作れるようになったって笑
恥ずかしいです。ハハハ~笑

―最後に照子さんにとって「洋裁」とはなんですか?
「夢」ですね。やっぱり、最初に聞いたあの言葉がショックだったけど、そういう(スタイル画を見ただけで洋服が作れる)人になりたかったのね。これからもここを続けて、全精力を生徒さんのために使いたいです。少し前、今井の教室から移転しないといけなくなったとき、家族は誰も「もう辞めたら?」って言わなかった。そしてこうしてこのお部屋を改装したり、そのほか何もかも全部、日頃からもすごく良くしてくれるの。移転しても生徒さんは習いに来てくださる。明日も皆さんが来てくれると思うと元気が出るんです。だからこれからもここで洋裁を教えていきたいです。

―照子さん、本日はありがとうございました。

五條ドレスメーカー学院
住  所 〒637-0004 奈良県五條市今井町1563番地2
電  話 0747-22-2398
月・水・金 第2・4土曜日 9:30~15:30

 

☆スタッフHのすぽっとwrite☆

ご家族の方からお聞きしたエピソードをもう少し。生前は一日何度も奥様の名を呼び、また奥様の話をされていたという愛妻家のご主人鶴見さん。介護が必要となった身でも最後まで照子さんの事を気にかけ、閉校しても自宅で洋裁を教えられるようにしてやってほしいと最後にご家族に伝えたそうです。「お義父さん、任せといて」その言葉を聞くと安らかに眠ったという鶴見さんの願い通り、照子さんは鶴見さんと過ごした自宅で今日も洋裁を教えています。
凛として、それでいてチャーミング、そして「スタイル画を見ただけでお洋服が作れる」照子さん、ありがとうございました。

第69回 Cafeことほぎ 桝田小百合さん 園田ひとみさん 森本早苗さん

ここが「繋がり」の場所であれる幸せ お客様も私達も

重伝建五條新町通りの起業家支援施設「大野屋」で前身の「町家カフェゆるり」を引き継ぎ再スタートした「caféことほぎ」。古民家を改装したお店は重厚で風格ある外観、梁や柱、また格子戸越しに入る光、見える眺め等、日本の伝統的な美しさがあふれている。そんなカフェを日替わりで?営業する3名の女性スタッフにインタビューさせていただきました。

 

来てみたらここでした

―「町家カフェ ゆるり」を引き継がれた経緯について聞かせてください
園田ひとみさん 以下 園田さん)「ゆるり」は社会福祉法人正和会が営業していました。5年間営業させてもらったんですが、正和会の本業の方が忙しくなってきたということもあり一旦5年という区切りで撤退しましょうということになりました。私達は正和会の「カフェ担当」で「ゆるり」の時からのスタッフだったんですが、撤退すると聞いてとても残念に思いました。顔馴染みのお客様もいてくださいましたし、ここがまた空き家(空きスペース)になってしまうな・・・って。そこで3人で話合って、正和会から離れて自分達だけでやってみようかということになり、正和会に相談し承諾いただきました。それで店名を「ことほぎ」と変えさせてもらって再スタートしました。

―では皆さんはもともと正和会の職員さんだったんですか?
桝田小百合さん 以下 桝田さん)いえ、私はハローワークで「カフェのスタッフ募集」という求人を見て応募したんです。そこで正和会というお名前を見たものの、正和会さん自身がカフェを始めるとか、場所がここだとも思ってなくて、多分、正和会の施設内にカフェがあって、そこで働くのかなって思ってて。それで来てみたらここで働くんだって分かって笑。

園田さん)
私もそんな感じだったような・・・笑。

ーでは、皆さんは「ゆるり」のスタッフ募集がきっかけでお知り合いになったんですね。以前からカフェのお仕事に興味があったんですか?
桝田さん)そうですね、みんな接客業の経験があるので。

―ゆるりのスタッフとして働き始めて、当時どんなことを感じましたか?
園田さん)あ、こういう形(起業家支援施設内での営業)の経営なんだと分かりました。今までの経験のあるカフェとは違って、色々制約がある(カフェスペースで提供できるメニューの制限、営業日が決まっている等)ことがわかりました。その中でも自分の今までの経験を生かしてお仕事させてもらおうと思いました。

―前身の「ゆるり」と現在の「ことほぎ」、何か違いはありますか?
皆さん)そんなに大きな違いはないですね。

園田さん)
自由にできる部分があることですね。今までは五條市の規約の中のさらに正和会の規約の中での営業でしたが、今は例えば、自分が今日はこのメニューにしようと思えばそれができるとか。それ以外は特に違いはなくて、だからこそといいますか「ゆるり」時代のお客様が引き続き来てくださるのでそれがとても有難いですね。「ゆるり」を始めた頃は観光客を含めそんなにお客様も来てくれなかったんですが、5年間でこのお店のことを知っていただけて徐々にお客様が増えてきました。「ゆるり」の5年間があったからです。名前は変わりましたが、以前と変わらずお馴染みのスタッフが引き続きお待ちしていますので・・・とお客様には伝えています。 

―「ことほぎ」という店名の由来は?
園田さん)3人で候補を出し合い、ずらっと並べた名前をいくつかに絞りました。その中で「ことほぎ」という言葉は「寿ぐ(ことほぐ)」というおめでたい言葉だし、響きも良いなと。おめでたい言葉で少しでも新町通りの活性化につながればってことで「ことほぎ」に決めました。

 

2つの顔

―ことほぎは「日によって店主が替わり、「meguruめぐる」と「musubiむすび」2つの顔をもつcafé」だとうかがいました。そのあたりについて聞かせてください。
桝田さん)「ことほぎ」として再スタートするにあたって、それぞれの両立していく仕事や家庭の事情を考えるとここの規約通りに(定休日(月曜日)以外は必ず開店)お店の営業を続ける自信がなかったんですよね。私は家が農園なのでその仕事と、このカフェの仕事、そして介護などもありますし・・・

森本早苗さん 以下森本さん)
私はお二人のサポートという形で働かせてもらっています。

桝田さん)
それぞれの事情を踏まえると、二人で交替制にすれば無理なく営業を続けられるんじゃないかってことで。でもどうしても無理な時は森本さんがサポートしてくれるので、3人で協力してこのスタイルでやっています。それと、それぞれがちょっと違ったメニューを出したいとか、多分そこも分かれてくると思ったので、お互いを高め合うため、また経営上や食材の管理等、別々にした方がやりやすいんじゃないかってことでこのスタイルにしました。

森本さん)お二人が急用でお店に出られないときのサポートというかたちでお手伝いさせてもらってるんですが、私はケーキ等を作る方の経験はないので、下準備しておいてくれたケーキにトッピングをしたり、飲み物を作ってお出ししたりしています。今日は桝田さん、園田さんいるかなと思ってお越しいただいた方には申し訳ないんですけどね。

―3人でフォローしあって営業されてるんですね。
桝田さん)そうですね。個人経営ではなく市の規約のもとの営業ということで、ここで一緒に働きそのあたりを理解、共有している私達で一緒にお店をやっていきませんかってとこからスタートしたので、互いにフォローしあえてるかなと思います。

―「musubiむすび」「meguruめぐる」のそれぞれの特徴や思いを聞かせてください。
桝田さん(musubiむすび)家業が柿・梅農家なのでそれを使ったものでいきたいなと思っています。ただ、柿、梅の時期は家業も当然収穫で一番忙しい時期なのでそこがネックでして・・・。
五條市の方って柿は生で食べるのがいちばんって思ってる方、多いと思うんです。五條市でも柿をメインにしたケーキや、スイーツを出されてるとこってあまりないんです。お店に来てくださる方には「ここら辺に柿売ってるとこないの?」って結構聞かれるんです。例えば駅からここまでの道中にはその案内をできるところがないので選果場を案内するんですが、そしたら選果場へ行った帰りにここへ寄って柿をつかったスイーツを食べてくれるんですよね。「柿を使ったものを食べれるお店がないのよ」って言われて、あ、それやったらここでそれをお出しして、その美味しさを分かってもらえるのがいちばんいいなぁって思って。五條市の人をはじめ多くの人に柿ってこうやって食べたら美味しいんだよってことを知ってもらいたいですし、五條市の活性化には柿をもっと宣伝したらいいんじゃないかと思っています。柿は割とご年配の方が好まれるので、若者にももっと知ってほしいなって思いますね。

―例えばどんな食べ方があるんですか?
桝田さん)生で食べるにしても、ヨーグルトに入れたりされる方はいらっしゃるかもしれないですけど、例えば、柿はクリームチーズとすごく相性がいいですし、あと、ここでは柿プリンや柿スムージーもお出ししています。生で食べるにしてもパフェにしてお出しするなど、五條の方にも知ってほしい美味しい食べ方を発信していきたいと思っています。

園田さん(meguruめぐる)私は柿や梅を桝田さんのところから分けてもらって、それをアレンジしたものをお出ししていますが、どうしてもよく似たものになってしまいます。ですので私は五條市で獲れる美味しいイチゴや桃、マスカットや梨といった果物を使ってちょっと違うものもやってみようと思っています。あと、栗なども取り入れたものも考案中です。桝田さんの「musubiむすび」とは違う特色をあえて出していきたいな・・・と思っています。

ー最近、モンブランなども話題になってますよね。ぜひ、栗を使ったスイーツも考案してほしいです。
桝田さん)柿農家の私は、廃棄されるような柿がいちばん美味しいと思っています。少し傷があるものはそこから甘味が増しますし、既に赤く色づき今から市場に出せない柿はその時が一番甘味みのピークだったりします。五條市の人は柿を袋や箱にいっぱいもらえたりってことも普通にあるので、それで十分って思ってしまうのかもしれません。広報で柿のスイーツを紹介させてもらってますが、どれだけの方に興味を持ってもらえてるんかなって思います。難しいですね。柿を五條市に発信したいのか、五條市以外の方に発信したいのか・・・、そこが揺れるところです。

園田さん)柿が大好きで毎年、柿の季節になると大阪からお越しになるリピーターさんもいらっしゃいますし、若い方でも柿が好きって言ってくださる方もいますけどね。やはり市外、県外から来ていただく方が多いです。

―定番のシフォンケーキの他に夏はかき氷も人気だったそうですね。
園田さん)奈良市の方でかき氷がブームになってきてましたし、年々夏の暑さが増してきたのもあってかき氷を始めました。シロップにこだわって特色を出していこうということで、柿、梅のほかに苺や桃のシロップを手作りし、徐々に種類を増やしていきました。すもものシロップもできて好評いただきました。

―柿や梅、すもものシロップのかき氷なんて、食べたことないです。よくある夏祭りとかのかき氷とは違うんですね。
桝田さん)そうですね。できたら五條産、できなくても奈良県産でいきたいというのがこだわりです。とっても美味しいのに廃棄されてしまう果実も、シロップ等、違ったかたちに加工することでまた美味しく食べていただくことができるので。

 

 ほっとする場所、ドキドキする場所

―日々の営業で感じることや、印象に残っていることなどはありますか
桝田さん)リピーターの方、ご近所のお年寄りの方がここでコーヒーを飲んでくれるとき、多分ホッとしに来てくれてるんだなって感じるんです。コロナでなかなか人と会えないとか、いろんな行事が中止になってるじゃないですか・・・。なので、ここに近所の人が集まって近況報告とか世間話とかしてるのを見るととても嬉しいんです。また、最近新町通りに新しくチョコレート屋さんができたり、ゲストハウスもできて人との繋がりをここでしてくれることが増えたんですよね。ここがあってよかったわ、ここでちょっとコーヒーが飲めてよかったわって言ってくださって、そういう人と人が繋がる場所として使ってもらえてるのが嬉しいです。

園田さん)先日、ご近所の方々が来られて「ここやったら感染対策ちゃんとしてるから安心やな」「近所の人と話するのってやっぱり楽しいな」「こうして1ケ月に1回集まれたら」「久しぶりにこんな感じで過ごせたわ」ってお話されてて。皆さん長引くコロナに飽きてしまってるんでしょうね。じっとしていることに我慢も限界なのかなって。ちょっとお出かけしたい、でも不安、あまり遠くにも行けない・・って感じですね。ここで集まって話ができたことにあんなに喜んでもらえるんなら、そういう場所としてこれからも使ってもらえたらなって思いました。

ー人との繋がりの大切さ、人と会える嬉しさを皆さん感じてるんですね。ご近所さんにとっても「ことほぎ」がほっとする場所として存在してる様子がわかります。園田さん)あと、観光客の方が、シフォンケーキやかき氷、柿ぷりんをお出しすると「わぁー!大きい!」とか「わぁー!かわいい!」って写真を撮って、インスタに投稿してくれたりするんです。そういった反応がとても嬉しいです。

森本さん)私は五條市で生まれ育ちましたが、今まで新町通りを通ることってなかったんですよね。それがここでお勤めさせてもらうようになって、あ、新町通りって久しぶり、あ、そういえば幼稚園の頃のお友達、この通りのこのおうちの・・・って色々思い出して、そういうのが個人的にはすごく懐かしいっていうのがありました。あと、趣味で日本中の重伝建を周ってらっしゃるご夫婦がお見えになって、「すごくいいですね」ってこの新町通りや五條市を褒めてくださるんです。私からすると、正直、すっかり錆びれてしまった・・・と思っていた場所を「いや、そこがいいんです。他の重伝建は観光地化されて、いろんなお店もあるんだけど、ここは静かに生活されてるそのままの様子がいいんです」って言ってくださって。自分の今までの間隔とは真逆の感じ方をされるそのご夫婦に、地元の者が関心なかったことに気づかせてくれた、あらためて地元を見つめるきっかけをいただけたことが印象に残っています。それから休みの日に、昔の通学路を歩いてみたり、路地に入ってみたりすると、”五條いいやん”って思いましたね。観光客の方がインスタにあげてる吉野川の写真を見ると、めちゃめちゃいいとこやんって思って笑

―新町通りはあらためて五條市を見つめる、魅力に気づかされるきっかけとなる場所ですね。
園田さん)2~3か月に1回東京から来てくださるお客様がいらっしゃるんですが、いつもカウンターに座られて、格子越しに外をながめゆったりとここでの時間を過ごしてくださいます。

桝田さん)ちょっと時間ができたら1ケ月に1回来られるときもあります。

―東京からそんな頻度で五條にこられる目的は?
皆さん)ここ、五條なんです。

園田さん)
五條に来たら、必ずここへ寄ってくださいます。五條の事は私達よりよくご存じです。金剛寺のボタンが・・・とか生連寺のてるてる坊主が・・・とか。奈良が大好き、中でも五條が大好きな方なんです。

桝田さん)奈良や五條へのルート、交通手段なんかもすごい熟知されてて、私達が色々教えてもらってるくらいですよ。

森本さん)きっかけは吉野川のこいのぼりだそうです。吉野川でこいのぼりがたくさん泳ぐ写真を見て五條に行きたいと思ったのが最初だそうです。こいのぼりをあげるところを見たかったそうで、あげる日の前日から五條市に泊まって準備されて。ここを拠点にいろいろおでかけもされますが、1~2日は五條でゆったり過ごし、河原や新町通りを歩いたり散策しながらここで休憩してくださるんです。

―こちらには展示スペースや飲食ブースがありますが、そこへ展示や出店される方との繋がりなどは?
桝田さん)いろんな方と知り合えますし、展示等も見れて楽しいですね。先日、初出店の店主さんが来られたんですが、坊主頭で髭を生やした結構体格のいい方で、もう私達最初ドキドキで、どうしようっっ(汗)、ちょっと絡みにくいかも~って思ったんですが笑、その方はその方で、帰り際に「いいんですか、僕たちなんかがここに来ていいんですか?」みたいな感じで笑。

お店は盛況でバタバタした日は私と森本さんもそちらのお店を手伝って笑 最後には色々お話して、売り上げはどうでしたか?て聞くと、「いや、違うんです、僕は人のつながりが楽しいんです。ここに来ていろんな人との繋がれることが楽しいんです」っておっしゃって。ここで出店される方にはそういうことを楽しまれる方もいてるんだなって思いました。私達も刺激、勉強になりましたね。いや、でも毎回最初はほんっとにドキドキで。お互い様子をみながら絡み始めるみたいな笑

園田さん)ここでの出店を終えた後もSNSでお互いフォローし合って、今日はここで出店してますとか近況を教えてくれるので、あ、今日はそこで頑張ってるんやなとか、ここで私達と出店者の方たちとの繋がりもできています。

桝田さん)お店に来られた方にあのスペースは何?って聞かれることもあるので、(チャレンジショップの)説明をすると、一度やってみよかなっておっしゃる方もいらっしゃいます。

歩いてみませんか 

―コロナ禍での引継ぎ、そして今もまだその中での営業かと思いますがそのあたりについてはどう感じてらっしゃいますか?
園田さん)「ゆるり」のとき、コロナ感染予防対策に対して正和会がすぐに反応、対応してくれたんです。検温、消毒をはじめ、ビニールカーテン、サーキュレーター、エアードッグ等の設置、徹底した感染対策のノウハウも教えてくださいました。その厳重な感染対策は、県の「感染防止等を行う飲食店等の認証制度の星三つ」をいただいています。ゆるりを引き継いだときからその感染対策の経験を大いに活かさせてもらっています。これからも正和会が築いてくださった感染対策の評価を維持しながら営業していきたいと思っています。

―何か困っていることはありますか
皆さん)駐車場・・・

園田さん)
お店の少し手前にあるんですが、「大野屋」と表示してるので「ことほぎ」という名前で来てくれる方にはわかりづらく、通り過ぎてから「駐車場どこですか?」って聞かれること、よくあるんです。この通りは一方通行でバックできないので1周まわってきてくださる方もいますが、諦める方もいらっしゃいます。大野屋は他の出店者様もおられて、それぞれの屋号がありますので仕方ないんですけどね。
桝田さん)新町通りにコインパーキングがあればなって思います。そしたら案内しやすいなって。皆さん観光地に出かけたときってお金払ってでも駐車場に車停めて観光しますよね。

―これからどういうお店にしていきたいですか?
桝田さん)皆さんに知ってもらって楽しんでもらえる空間にしたいですね。

園田さん)人と人との繋がりを増やしていけたら・・・その繋がりの場であれたらと思います。規模を大きくしてとかそういう野望は一切ないです笑。新町通りの活性化に少しでもお役にたてたらと思っています。ここはチャレンジショップの場所なので、いつまでも居座る訳にはいかないんですが、いつまでもいさせてもらえるようなお店になれたら嬉しいですね。

園田さん)五條市の方でも新町通りを通るのが初めてとか、滅多に通らないって方多くいらっしゃいます。24号線や京奈和もありここを通る用事がないっておっしゃるんですが・・・もしよければ、用事がなくても一度歩いてみてください。

桝田さん)ここは四季それぞれの風景を楽しめる場所でもあるのでウォーキングをされてる方、堤防沿いを散歩されてる方も、ちょっとこの新町通りをコースに入れてもらえてたら、何か楽しいんじゃないかなって思います。

―皆さん、本日はありがとうございました。

住所 奈良県五條市新町2丁目5-12(大野屋内)
電話 070-3313-9148
営業時間 10時~17時
駐車場 有 新町通り松本燃料店駐車場3台
定休日 毎週月曜日
※musubi・meguru各担当日についてはSNS、お電話等にて確認できます。

☆スタッフHのすぽっとwrite☆

新町通りを通る度、次のインタビューはここにしようと決めていながら、自称引っ込み思案?のため、外から様子をうかがうにとどまっていた私でしたが、インタビューが実現するまでに偶然にもお店へ行くきっかけをいただいたり、ご紹介いただける人との繋がりがありました。そう、私にとっても「ことほぎ」は繋がりの場でした。

インタビュー後は、もう慣れた様子でお茶しに行けるようになったのも、あの何ともいえない落ち着ける店内の雰囲気とスタッフの皆さんの温かさ・・・ことほぎがかもしだす雰囲気であることに他ありません。柿のスイーツも美味しかったですし、また新町通りを歩く機会が増えそうです。「いいやん、五條」♪

 

 

 

第68回 田園公民館 館長 蔵永明美さん

好きで選んで来た街だから

人々が集い、学び、繋がる場所、公民館。そこで得られるものは知識、情報、仲間・・・ほかにもたくさんあります。「この街が好きだから」「お世話するのが好きだから」純粋にそれだけだと語る館長の蔵永明美さんに館長になられた経緯から現在の活動などを聞かせていただきました。

なくしたもの、増やしたもの

―蔵永さんが田園公民館館長になった経緯について聞かせてください
今から8年前に市役所の方からお声をかけていただいたのがきっかけです。で、何で私なのかって話になるんですけど、元々、私は街づくりとか地域のイベントみたいなことにとても興味があって、今まで色々なイベントの企画書や申請書の提出、打ち合わせ等で市役所へ行くことが多かったんです。である時、ここ(田園公民館)が館長不在の状態で誰かしてくれる人を探しているというお話から、「蔵永さん、館長してくれませんか」と声をかけていただいたんです。市役所の方達とは何年ものお付き合いでしたし、私が田園に住んでいることやこんな性格だというのも大体ご存知だったとは思うんですが笑、そのうえで声をかけてくださいました。

―館長のオファー、どうお答えに?
「いいですよ。わかりました。」ってお返事しました。

―その場で了承されたんですか?! 不安とか迷いとかは?
なかったですね。私からしたら嬉しかったんですよね。公民館っていろんな人が集まっていろんなことを知ったり学んだりするところでしょう?地域のことを多くの方に知ってもらうにはこういう場所って大切だと思ってましたし、私が今までやってきたこと(地域のイベントを企画していろんなことを知ってもらう)と、公民館活動(サークルを作って人々が集まって学んだり交流する)は、よく似てるし、私がしていることの延長線みたいだなと。新たな仕事が増えるという感覚はなく、私自身も色々教えてもらえる機会が増えるのでは?って感じで。だから、その場で承諾のお返事をさせてもらいました。後に自治会長さんとお会いして自治会の承認をいただき、館長をさせてもらうことになりました。

―いよいよ館長に。どんなスタートでしたか?
正直最初の3年間はたくさんの意見や要望、中には苦情、それにひとつひとつ対応するのに精一杯でした。館長不在の時期もあったからか、一気に来た・・・という感じで。

―例えばどんなことがありましたか?
公民館は基本的に飲食禁止なんですが、行事、企画で飲食を伴う場合は事前にご連絡いただいて状況に応じて許可しています。ですがその際のゴミの後始末ができていない、あるいはトイレのごみ箱におむつが捨てられていたというマナー、ルール違反の報告がありました。ゴミから悪臭や虫が発生し不快で不衛生なので、私は公民館内のすべてのごみ箱を撤去しました。ゴミ箱がなくなったことで、何でごみ箱ないねん、ごみ箱いるやろという意見がたくさんきましたが、ご理解いただけるよう経緯を説明しました。ほかにも高齢の方がつまずく原因だった玄関マットも危ないので撤去しました。公民館の利用は無料ですが、皆さんが安全に気持ちよく使っていただくためにはマナーとルールを守っていただくことはもちろん、気づきと対応、そして皆さんのご理解が必要なんです。私が女性ということで、いい意味でも悪い意味でも意見を言いやすいのかもしれないですが、むしろそのことでいろんな声が聞け、改善できるところは改善してきました。女性だからこそ気付けること、できることがあるんだと思っています。

―蔵永さんご自身は館長になる前からこの公民館を利用していたんですか?
はい。お花のサークルの講師として利用していました。私は普段はお花の仕事をしていますので。

―では蔵永さんご自身も利用者側として以前からこの公民館について感じていたことがあったんでしょうか?
ありました。正直、借りにくい公民館、だからあまり人が集まらないのかなと。住宅地の真ん中にあるのに利用者が少なく、サークルはほとんど高齢者向きのもので若者向きのものが少なかったです。大勢の人や子供が集まると騒がしいのではとか、利用頻度が多いと都度鍵の開閉や掃除等、管理が大変だという理由もあったかもしれませんね。サークルが終われば施錠のためすぐにここから出て、団らんの間もありませんでした。せっかく立派な公民館があるのに生かされてないと思っていました。

 

―では館長になってそのあたりに取り組まれたのでしょうか?
はい、利用者を増やすということに尽力しました。利用者が少ない、というのはサークル自体が少ないんです。当時、登録数は20くらいありましたが、実際に活動してるのは10くらいだったように思います。増やそうと思いましたね。子供さんから高齢の方、文化系から身体を使う体操等いろんなサークルを徐々に増やし、現在40近くのサークルがあります。

 

館長で会長。兼任でいいことばかり

―具体的にどうやってサークルを増やしてこられたんですか?
とにかく声をかけました。当時、私は子供の学校関係で多くの保護者の方達と交流があったので、その方達、ママ友ですね、に声をかけました。趣味とか何かしたいことがあったら、こんなかたちで始めてみない?って。サークル開講の説明とか今なら何曜日の何時から空いてるよと時間帯を教えてあげたり。そうやって続けていると、やってみたいと言ってサークルを作って、公民館を利用し始めてくれました。そこからは徐々に口コミで広がり、問合せや利用の申し出がくるようになりました。過去に断られたサークルも再度問合せをいただき、活動しています。

―やはり、利用しやすくなり、多種多様なサークルの開講により利用者が増えてきたということですね
そうですね。公民館をいろんな世代にいろんなサークルや用途で使ってもらって地域を活性化したいと思い取り組んできました。問合せがあれば最初に目的や詳細をお聞きしてからこちらのルールも説明し、ご理解いただいて利用してもらいます。騒がしいのでは?汚れるのでは?と最初からマイナス要素だけに目を向けるのではなく、まずは利用してもらってそれからの対応かなと。もしルール違反があればどうやったら皆さんが気持ちよく利用できるかを話し合います。無理なら利用をやめてもらうことになるかもしれませんが、それは仕方のないことです。でも今まで、そんなことは全然なく、皆さん継続して活動しています。

―蔵永さんが思い描く公民館がかたちになってきたんですね。対応に追われた最初の3年間等、辛かったり辞めたいと思ったことは?
私、そういうの一切ないんです。逆に燃えるタイプで笑 例えば、子供達がここで遊んでうるさい、ボールが飛んできたという苦情があっても、それを公民館や子供達のせいにして私がすぐにここで遊ぶのをやめさせることはできません。まず可能であれば直接お会いして苦情の詳細をうかがいます。そして館長としてできることの範囲を説明して、まずそれをご理解いただき、そこから先は内容に応じて学校や教育委員会等、相談先を伝えたり、一緒に付いて行くこともあります。そこで一緒に対応策を話し合い、学校と公民館、そして地域の方が繋がれることで今後、何かあったときの連携もスムーズです。私はただ純粋にこの公民館を使ってもらって地域を活性化したい、ただそれだけなのでどんなことでも真正面から対応する自信があるんですよね。

―田園公民館の特徴は?またやりがいは?
田園地区は他の地域とは違って、大阪とかいろんなとこからここへやってきた人達が集まった地域でもあるので、こういう交流の場を探しておられる方も多いんです。他の公民館に比べてサークル数も多く、コミュニケーションがすごくとれてるっていうのが特徴であり、その様子を感じたときがやりがいですね。私は田園地区の婦人会の会長もさせてもらってるんですが、コロナ禍でなかなか集まることができなかった時期、約40名の会員ひとりひとりをのお宅を訪ねました。そのときにも改めてコミュニティの強さを実感でき、やりがいを感じました。

―婦人会会長も?! それもオファーがあってですよね・・・兼任はさすがに大変では?
まっっったく笑  公民館活動で婦人会の皆さんとは既に知り合いでしたので、会長といっても引きつづき皆さんとご一緒させてもらうだけ・・・という感じで引き受けました。館長のとき同様、延長線のような感覚でしたし、婦人会の会合も館長で会長の私がここにいることで公民館の空き状況の把握ができ予定や連絡がスムーズにいくので、別々の人がするよりむしろ館長も婦人会会長も同じ人が兼任した方がいいことばかりだと思っています。

―そのバイタリティーとポジティブの秘訣は?
入り込まない、背負い過ぎない、そして私自身が世話好きなタイプ。お世話し過ぎもよくないけど、お世話すると頼ってくれるでしょ。学生の頃から「私に任せて!」みたいなタイプでした。これしたい!とか、しようよってなると、0から1、いや1以上のことをしたいし、困難であればあるほど燃えるのよね笑。で、立ち上げた後は執着しない、次やってもらえる人を探してすっと辞める笑。放置じゃないですよ笑 身体が丈夫で動ける間にいろんなことを立ち上げておいて、後は次の方に。できた!さぁ、次何しようみたいな笑 切り替えが早い?飽き性ともいうよね笑 出来上がったことは大事にしたいけど、後にそれがなくなったとしても何で?!とも思わない、仕方ないなくらいで。

―見習いたいです・・・
何でも楽しんでした方がいいでしょ?笑 私は館長といっても自分も仕事をしてますし、ここや自宅で一日ずっと居る訳ではないので、可能な範囲で各サークルの責任者の方に鍵の開閉をお任せしています。何かあればすぐ連絡くれるし、連絡事項をメモして机の上に置いといてくれるので、不具合箇所があればすぐに修理の手配をするなど早急な対応を心がけています。皆さんの携帯電話の連絡先を教えてもらったりなど、やはりお互いに信頼関係がないとできないことですし、皆さんがとても協力的だから助かっています。

―頼もしいですね。蔵永さんみたいな人がリーダーだと。
性格やね。自分でいうのもなんですが、きっちりし過ぎない、臨機応変?だからみんなやりやすいんじゃない?って勝手に思ってる笑笑 大変ですね~って言われるけど、そもそも何が大変なのかが分からへんねん笑。昔からPTAの役も引き受けてきたけど、やっぱりそういうのってその人の性格とか含めて向き不向きってあると思うねん。あ・・・私が向いてるとか、やりたいやりたい!ってことじゃなくて、私は別に役することが嫌じゃないから、私するよ、じゃあ、〇〇さん、〇〇係して、で、△△さんはこれしてなって指名するし、指示する笑 その方がうまくまわるし結束感も強くいいものができると思うんですよね。

―そうですね。でもなかなか蔵永さんレベルにはなれないです笑
まぁ、ある程度の年齢やからっていうのもあるかもしれへんね。人と人やからいろいろあったりするし。私は何か言われても冷静に受け止められるし、何なら直接聞いて、思ってること全部吐き出してもらうねん。上から言われたとしてもそもそも私より年上やから当然か・・・とか、尊敬する部分は尊敬し、毛嫌いせずに対応しているとその人の本質は見かけとは違うことが分かって、それからは普通に話するようになったりね。ここに来られる方は、皆さん最後にそれぞれの理由をちゃんと伝えてくれ、「ありがとう」と言ってやめていきます。8年間ここにいると、ご年配の方から退部届を受け取った時、その方の年老いていく様子も感じとれ、いろんな思いがこみ上げ涙が出そうになるんですよね。

 

なんとかなるでしょ

―最近ではどんなことに取り組んでいますか?
「ふれあいカフェ」という企画を3~4年前から始めました。ご高齢者さんを中心に、月1回ここでお茶を飲みながらお話しするというものですが、その実現が私にとってはすごくうれしかったというか、企画としてとてもよかったし、継続していきたいんです。特にコロナでこもりがちになったのもあって、やっぱり外に出て人と会って話してほしい、顔を見せに来てくれるだけでもいいんです。4月からは週1回の頻度に増やし、歌声サロンや卓球など他のサークルとのコミュニケーションもあるのでぜひ遊びに来てほしいと思います。

この日はウクレレ・手話サークルの方達を招いて 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

―何でも楽しんで取り組む蔵永さんですが、なかでも特に楽しかった思い出などありますか?
田園公民館のバス旅行かな。コロナ前は毎年行っていました。先着順とか、ご年配の方中心になってしまうんですが、サークル活動とはまた違ったプライベートな交流ができ、より繋がりが強くなってとても楽しかったです。

―当然、企画は蔵永さん?
もちろん!新聞広告のバスツアーのチラシをみて、絶対下見に行きます笑。京都とか神戸とか、他の役の方と一緒に。一番重要なのが食事・・・笑 だって食べてみないとわからないでしょ?で、他にも楽しいとこ下見して喜んでもらえるかを見極めてくる。下見も楽しみ、本番も楽しむ、いかに安くおさえるか・・・、そういうの自信あるねん笑

―今後の夢は?

「ふれあいカフェ」から「ふれあい食堂」にしたいです。子供からお年寄りまで利用できるふれあい食堂。これもなかなか道のりは険しいかもしれないですが、そこはさっきからお話ししてきた通り、困難であればあるほど燃えるので・・・笑

 

―五條市についてどうお考えですか?
五條市は私が好きで選んでやってきた街です。昔、大阪に住んでた頃、主人がここを通ってテクノパークへ仕事に来てたんです。ちょうどこの田園という街ができていくところでした。休日には子供達を連れて吉野川に遊びにきたりして、この自然に囲まれた街に住みたいと思ったんです。こんな田舎・・・ってみんないいますけど都会暮らしだった私はそこがいいんです。山や川、自然と調和できた都会じゃないところが好きなんです。不便さが町並みを守っていると思うし、古き良きものは残していってほしいと思います。私が新町通りで花嫁行列を企画したのはそういう思いからなんです。五條市だからできること、五條市のいいところを知ってもらいたいんです。地元の方はこの自然が当たり前かもしれないですが、これから私もどんどん歳とっていくし、こんな空気のいいところで住んでるなんて幸せですよ。不便でも、車が乗れなくなっても、この時代ですから何とかなるでしょ!

―蔵永さんなら大丈夫です!今日から私も「蔵永魂?」を見習いたいと思います笑
本日はありがとうございました。

五條市田園公民館
住  所 五條市田園4丁目14-3
電  話 0747-23-1511

☆スタッフHのすぽっとwrite☆

圧倒的なリーダー気質とポジティブ精神。その行動力と人柄に思わず、頼れる「兄貴」みたいです・・・と言ってしまい(汗)でもそれはとてもサバサバしていて付いていきたくなる大先輩という意味を伝えたかった訳で。(シツレイシマシタ)

「ふれあいカフェ」当日、おひとりで受付から司会進行、サプライズ企画、お茶出し、その合間にはおひとりおひとりに声をかけ会話もしっかり楽しんでおられた蔵永さん。その合間にコソっと私にみせてくれたのは早くも次回の企画案。やっぱりすごい方ですね、兄貴・・・いえ、蔵永さん。

 

第66回 神戸屋靴店・喫茶神戸屋 中山純さん・中山裕湖さんご夫妻

音楽で人を幸せにできたら 神戸屋の暖簾を守りながら

 

シャッター街と化した寂しげな商店街に灯りがともり、心地よい音楽が流れてくる粋なお店がある。五條市で初めて靴屋を営んだという神戸屋靴店。2021年1月、喫茶神戸屋を併設リニューアルし、靴屋の四代目を受け継いだ裕湖さん(弥里朱華(みさとあやか)さん)は「美術教諭を経て青春時代をギリシャで過ごし、絵画の世界から転身した異色のラテン・ジャズシンガー」、そして喫茶マスターのご主人、中山純さんは音響のプロであり、サックスやベース、いくつもの楽器を演奏するミュージシャン。心地いいジャズの流れる店内で、興味深いお二人の人生のストーリーを裕湖さん(朱華さん)中心におうかがいしました。

引かれたレールから羽ばたいて

―まずは神戸屋靴店さんの創業について教えていただけますか
中山裕湖さん 以下裕湖さん)私のひいおばあちゃんの代からここで商売をしていて元々は雑貨屋だったと聞いてます。それが、時代が高度成長期手前、(履物が)下駄や草履の時代から靴へと変わる頃、店先に並べた靴が売れたので新しく出してきて並べる、そしたらまたすぐ売れる・・・そんな光景を目にした祖母が「これはいける!」と思ったのか、そこから「靴屋」を始めたそうです。
祖母はあの時代の女性にしてはとても精力的で、靴屋で儲けたお金で旅館を建て、その後も鰻寿司、スナック、薬屋、鍼灸院と先見の明で次々と商売を始め、ひとかたならぬ苦労をした人だったと思います。

―店名「神戸屋」というのは?
裕湖さん)創業当時から「神戸屋」という名前やったのかどうかはわからないのですが、祖母が靴屋を始めた頃、神戸市によく仕入れに行っていたそうです。仕入れては売れ、また仕入れ・・・ここと神戸市を何往復もしたと。そこから「神戸屋」になったんかもしれません。神戸は履物のまちやしね。当時は靴職人が靴を作る時代で、うちにも職人さんがいたそうです。その技術を祖父、そして父が受け継いで、学校から帰ってくると母はお店で靴の販売を、父は一日中仕事場でこつこつと作業している姿をよく見ました。父母共に人に施しをする気持ちを忘れたことのない人でした。それが今の商売へとつなげてくれているのだと日々感謝しています。

―4代目として靴屋を継がれたわけですが、いつ頃から継ぐという方向になったんでしょうか
裕湖さん)そんな両親は私を教師にさせたかったので子供の頃から、お絵かき、そろばん、ピアノ、お習字、日本舞踊・・・毎日いろんな習い事をさせました。中でも私はお絵かきと歌が大好きで、そこら中の壁に絵を描きまくっては怒られてました。でも小学校5年生の頃から、家にあった地球儀を眺めてるうちに、この丸い地球の裏側ってどうなってるんやろ?一体そこにはどんな人が住んでて、どんな言葉を喋って、どんなものを食べてるんやろ、ってものすごく興味深くてずっとその夢(もっと知りたい、他の国へ行ってみたい)を諦めずにいました。両親はとにかく商売は苦労するからと何としても私を教師にさせたかったので、まだ経済力もない私は家を飛び出すわけにもいかず、両親の望み通り教師になりました。だから継ぐことになったのはもっともっと後の話ですね。

 ―教師としてスタートをきった訳ですね
裕湖さん)はい。両親の教師になってほしいという思い、私は絵を描くことが大好きだったのでおのずと美術教師というレールが引かれました。21歳で採用試験に合格し初めて教壇に立ちましたが、やっぱり私に教師という地味な職業は向いてないと感じました。自分の人生、教師というレールの上を一生涯歩いていくことの息苦しさと何の変哲もない人生を送りたくないという思いで、精神的にも体力的にもきつかったですね。自分にそぐわない環境に身を置くとそうなりますよね。さらにはそのとき大失恋も経験し、身も心もボロボロになり、それで教師を辞め、スーツケースひとつでギリシャへ行くわけです。

 ーギリシャへ?!その経緯について詳しく聞かせてください
裕湖さん)教師を続けながらも、いつかは日本を出て未知の世界を見てみたいという気持ちは常にあって、23歳の時、画家達の集まりでヨーロッパ旅行に行きました。若い女性達はブランドに興味を持つ中、私は目もくれず、地図とスケッチブックを片手にひとりで街をウロウロ。映画「ローマの休日」で有名なスペイン広場の下で一日中絵を描いていました。その居心地の良さに引き込まれて帰りたくはなかった。翌年はインドネシア全土横断し、次に再びギリシャを訪れた時、拠点を見つけてきました。

 

 

 

 

↑20代の頃のヨーロッパの旅の絵
左からオンフルール・モンマルトルの丘・ベニス(オンフルールは入選作品)

 

―拠点?ですか
裕湖さん)そう、拠点。私が住める場所、頼れる人を見つけてきたんです。
ギリシャ旅行のエーゲ海クルーズで船酔いして何も食べれずしんどくてふらふらになっていた時に立ち寄った毛皮の店のセールスマネージャーに助けられ、私を見かねて現地の日本食レストランへ連れて行ってくださりその後自宅に招かれそこで彼の子供さんやお手伝いさんともお会いし、とても楽しい時間を過ごしました。彼はいつでも遊びに来てください、そして僕もまた、日本に行きたいですと。そのとき、ここは、この人は安心できる、拠点にいいなと思ったんです。その人が後々ビジネスパートナーになる訳です。
帰国してからも電話や手紙がたくさん来ました。私は恋愛感情は全くなかったのですが向こうがプロポーズをしに日本に来た訳です。これは日本を出るいい口実になると思いました。それが教師を辞めるきっかけになりました。母は「苦労するなら助けないけれど、幸せになるのなら助けてあげる」といって片道キップの20万を持たせてくれました。それで26歳のときスーツケース一つでギリシャへ旅立ちました。

 

ギリシャでの新しい自分

―ギリシャでの生活、まずどんなスタートだったんですか?
裕湖さん)現地での生活はまず私生活のギリシャ語、彼との共通語は英語でしたが現地人が全て英語を話せる訳ではなく戸惑いながらも家で一人で居る生活が始まり、生きがいを見つけらずにいました。私は何のためにギリシャに来たのか・・・考えながらも彼の仕事の手伝い、ギリシャ→日本への毛皮の発注の仕事を始めますが能率が上がらず、現地での自分の立ち位置を見つけられずにいました。彼に相談するとそれなら二人で店を運営しないかという誘いがありゼロからのスタートとなりました。

―お店とは?
裕湖さん)彼は毛皮や宝石を専門とした店で販売員としての仕事をしていました。お店は持ってなかったけれど、向こうでは何か国語を話せるかで5本の指に入るトップセールスマンになれるかが決まります。彼は8か国語を話せたので世界各国の客を相手に販売力と腕は確かで、信頼も厚かった。最初は小さい店から始めそれがうまくいったので、目抜き通りに店を出そうということで、私は両親から借りた資金を、彼は知恵とノウハウを出し、アテネの中心地は目抜き通りに2件目の店を出しました。小さいながらも自社工場も作りました。当時の人気テレビ番組「なるほど・ザ・ワールド」の取材も来ましたし、ちょうどバブルの時代で観光客によく売れ、売り上げは好調でした。父も日本から会いに来てくれて嬉しかったです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

↑裕湖さん自身がモデルをつとめた毛皮のパンフレットや店舗、
そして住んでいたアテネ市内(パルテノン神殿)の写真

 

―言葉はどうされてたんですか?やはり準備期間に勉強を?
裕湖さん)英語はずっと勉強してたから大丈夫でしたが、ギリシャ語は向こうに行ってから勉強しました。商売がら、まず数字を覚えないということでそこからでした。電話の応対、買い物、タクシーを利用したり、自分で車を運転したりと徐々に生活にも慣れて。彼の友人たちとの交流や語学がもともと好きだったこともあり、イタリア語やギリシャ語、英語、日本語のちゃんぽんしたようなとこから始まって徐々に話せるようになりました。言葉で垣根を越えられるなら努力次第で何とでもなると思って勉強しました。

 

―やはり日本とは全く違う世界でしたか?
裕湖さん)はい、私には向こうの地がすごく合ってたんでしょうね。華やかでキラキラした世界が好きなんですよね。日本では控え目が美徳とされ、出る杭は打たれますが、海外では出すぎるくらい出ないと逆にたたかれる。良い意味で言えば強烈な個性と表現力で豊かな人生を送れる訳です。周囲には競争店が多かったですし商売するとなるとなおさらです。ギリシャは世界一の海軍国です。世界中からお客様が入ってきます。日々、国際色豊かな色んな言葉が飛び交う中での生活は日本では味わえない経験でした。

―その後、お店は?
裕湖さん)その後、ローマ、スペイン広場周辺のコルソ通りに3件目のお店を出しました。でも結局は広げすぎたんですよね、後のバブル低迷期等でお客さんは減り、借金を抱えることになってしまって。一時帰国していた私は店をすべてたたんだことを彼からの電話で知らされました。私はその後ギリシャに戻ることもできず何もかも身の回りのものすべて向こうに置いたまま。その後それがどうなったのかもわかりません。飛び出したときもスーツケースひとつでしたが、帰ってくるときもスーツケースひとつやったっていう話(笑)

―最終的にはお店をたたんでしまいましたが、パートナーとの出会いがあって海外での生活、仕事を経験したんですね
裕湖さん)そうですね、出会いから移住、彼からビジネスやたくさんのことを学びました。ビジネスパートナーであり、共に戦ってきた戦友であり家族でもありました。彼は人生をとてもおもしろおかしく、ドラマティックに、破天荒に生きていました。もう亡くなってしまったんですが、一言では言い表せない波乱の道のりでした。

日本での再スタート  

―帰国してからについて聞かせてください
裕湖さん)向こうで店をたたみ今度は彼が私を頼って日本にやってきました。知り合いの紹介で宗衛門町で2人でギリシャレストラン・グリークバーを始めたもののうまくいくはずもなく・・・そりゃそうですよね、飲食業なんてやったこともない、毛皮を売ってた人間なんですから。それでその商売をやめ、パートナーとはそれを機に互いに別の人生を歩むことになり、私は35歳で大阪の時計宝石の卸の会社に就職しました。

―そこでまた一からスタートということですね
裕湖さん)その会社では15年間勤務しました。自社ブランド担当を任され、言葉ができたのもあって海外出張(ヨーロッパ各国、オランダ・ベルギー・ハンガリー・ドイツetc・・・)にも行きました。商売の基本からノウハウまで仕込んでいただきそれが後にこの靴屋を継ぐときに役に立ちました。営業で小売店回りや展示会の仕事も任され、芸能人をモデルにした企画等で有名な方とご一緒する機会もたくさんあり、仕事は通勤も含めて厳しかったですけれど、そういった華やかでキラキラした世界は私の性に合っていました。ところが、スイスのバーゼルで世界の時計・宝飾展があった日、雪深い山奥のホテルで過労で倒れレスキュー隊が来てヘリでスイス病院に運ばれることに・・・。過呼吸で大変でしたが、何とか回復し帰国しました。そのときも大失恋が重なりまたもや心身ともにボロボロ、最悪の状態でした。私っていつもそう、何に対してもとにかく突き詰めて全エネルギーを注いでしまう、それがプツッと切れたときはボロボロ。それでも身体が限界まで仕事を続けましたが、やはりどん底でした。そんなとき音楽が縁で今の主人に出会いました。主人はまさしく私の救世主となり、その後私の人生は大きく方向転換し、歌の道へと進む訳です。

―歌の道ですか?!その経緯についても聞かせてください
裕湖さん)歌は子供の頃から絵と同じくらい大好きで、学生の頃は合唱団に入っていてソプラノ(NHKに出演)の経験もありました。でもなかなか歌の道で生きていくそのチャンスに恵まれなかったので美術教諭になった訳です。主人と知り合ってからは、水を得た魚のように歌の道にのめり込んで行きました。私は会社を辞め、再び新しい第4の人生のスタートを切りました。教師~ギリシャへ~帰国後会社員を経て~歌の道へと、遠回りしたけどやっと夢が叶った気がしました。それからはバンドを結成して大阪を中心に関西エリアでライヴ活動を続けました。主人はサックスやベースの演奏を、また音響(PA)のプロなので私のキーに譜面を書きかえてくれたり・・・と、主人のおかげで私は救われ、今までとは違う安らぎを覚えました。紆余曲折ありましたが、やっと自分らしく生きていけると思いました。歌い手(Singer)としてやっていこうと決めたとき、これまでの窮屈な過去の自分に別れを告げ、生まれ変わるために、ある先生にお願いして「弥里朱華(みさとあやか)」という名前を付けて頂きました。弥里の弥は弥勒菩薩から一文字頂きました。ふるさとに根をおろしてゆったりとした心で人々に輝きと幸せを届けていけるなら・・・と。

『朱華&Bossa☆Boys』
ステージコンサートやライヴイベント等で活動

 

音楽が繋いだ縁

―純さんのこれまでの歩みについて聞かせてください
中山純さん 以下純さん)何もないで。音楽だけや。

―音楽は子供の頃から何かされてたんですか?
純さん)いや、幼稚園のとき、オルガン教室に無理やり通わされて。小学校3年生くらいまで続けとったんやけど遊ぶ方が楽しいから辞めて。うちも子供の頃から教師になるように言われ続けてきて・・・父が教師やったから、教師か公務員になれと。でも教師の道には進まなかった。

―サラリーマンとか?
純さん)音楽のできるサラリーマン笑 オーディオ機器とか好きやったから、レコードとかよく聞いたりしとって。最初レコード屋で店長として働いとってゆくゆくはそういう店しようと思ってたんやけど、とりあえず一流といわれる会社に入ろうと思って一念発起して35歳で保険会社に就職してん。それからはずっとサラリーマンしながらジャズのビッグバンド、ジャズオーケストラを立ち上げて。週末はずっと音響の仕事しとったな。僕にとって音楽は身体の一部やなぁ。

裕湖さん改め弥里朱華さん 以下朱華さん)
純ちゃん(主人)は橋本市で毎年、市の盆踊りとかのイベントの音響しててん。朝からトラックで現場まで機材運んで、設営、準備、本番、最後片付けして・・・って30年くらいやってきました。ほんま昔は毎週ほど仕事あったときもあったけど、今はコロナでイベントとか全部なくなってしまって。依頼のイベント以外は全部ボランティア精神で市に尽くして表彰されたことがあります。本人はそんなこと一言も言わない人ですが(笑)黙ってコツコツ型の人。

 PA(音響)の仕事の依頼で・・・活動中 

―お二人は出会ったときに互いにビビビと来た感じで?
朱華さん)いえ、最初はお互い全く笑 でもこの人ものすごい純粋で心が綺麗な人やなと思ってたら、ある日突然何かがおりてきてん。なぁ?純ちゃん! 

―そう言うてますけど、純さん?

純さん)笑・・・ま、なんとなくやな。
朱華さん)
この人、ほんま私と真逆で、喋らへんねん笑 お互いかまわれるの嫌うし笑 お互い干渉し合わないからうまくいってるねん私ら。なぁ?純ちゃん!

純さん)
・・・笑

ーそれが円満の秘訣?いいご関係ですね。
朱華さん)そうそう。いい感じの距離感と相手を敬い、思いやる心やね(笑)

 

喫茶店のカウンターに並べたもの

―いつ頃から靴屋の仕事をし始めたんですか?
純さん)10年くらい前からたまに手伝いさせてもらってて。入学時期とか忙しいときとか。
朱華さん)親も歳とってくるし、私も店のことがずっと気がかりで、主人と一緒にたまに帰ってきてましたので。 

―純さんにとって靴屋の仕事ってどうでした?
純さん)いや、別になんにも。手伝いできたらえぇなぁくらいで。お義父さんもお義母さんも歳いってくるし、力仕事でも何でも間に合うたらええわって。

―継ぐことになる経緯は?
朱華さん)主人と店の手伝いしてるときに母が「純ちゃん帰ってきて店してくれへんかな?」て言いだして。私自身、店のことどうしようかと気になりながらも、主人に言い出せずにいたから、それを言われたとき主人はどういう風に受け止めてるんかわからんかって。

―純さん、どうされたんですか?
純さん)その頃、保険会社って合併合併で、そのたびに息苦しさを感じとって。お義母さんから声かけてもろたとき、僕も定年まであと2年って時で。自分でもどうしよかなって思てた時とお義母さんからの声かかったタイミングが合うたというか。ほんだら、もう会社辞めるわってなって。

 

朱華さん)それで、仕事辞めてこっちに帰ってきてくれて。私も自分ひとりやったら店をどうしていこかと思てたけど、主人が一緒にやってくれるなら鬼に金棒やと思いました。 それで、主人は外回りや力仕事、私は事務的なことを引き継ぎ始めて。父ともほんま仲良くやってくれて。そのとき強く思ったんです。いつも世の為人の為と四方八方出かけてはその先々で人助けをしていた父。そんな背中を見ながら育ってきて父や母が祖父母の代から守ってきた神戸屋靴店をなくしてはいけない・・・。今まで好き勝手やって来たけど、これからは私がこの暖簾を守っていかなあかん、守っていきたいと!

―喫茶店を併設することになったきっかけというのは?
朱華さん)父が亡くなり、母も高齢になってきて・・・、母は90歳を過ぎても店番をしてくれて、凛として明るい人、商売上手で気丈夫、今はホームにいますが現役の頃は行動力のある人でした。やはり母の目の黒いうちは大がかりに店はいじれませんでした。ただ、主人にこの店をやってもらうにしてもここでじっと店番をしてもらうのはあまりにも酷だし、何か楽しみながら、居心地よく居てもらえる方法ないかなって考えたときに、喫茶店をしてコーヒーを出したら人が集まってきてくれて、それで音楽も流せたらええなって何となく思って。それで少しずつリフォームし始めたのが始まり。
純さん)
最初はこんなステージとか作る予定なかったんやけど。まず、ここ壊して片付けて綺麗にしょうかって壊したら、ここにこれこうしたらええんちがうやろか?そしたら、ここにこれ置いて・・・みたいにどんどんアイディア出てきて、その結果がこれ。笑
朱華さん)母も最初は喫茶のカウンターに靴並べだして・・・。「ちょっとちょっとお母さん!どこに置いてんの!」みたいなこともあって笑 「お母さん、私らちゃんとやっていくから、もう後は私らに任せて」って言うて笑 でもほんとにいい形で進んでいってくれてよかったなって、このままこうやって幸せに・・・って思ってたら今度は私に病気(ガン)が見つかって・・・。
ショックでした。今では心の整理もつき、いい先生にも巡り会えて治療を続けています。これは試練ですが、病気になって色々と考えさせられました。今ここにこうして自分がいるのは自分だけの力ではありません。生かされている命に感謝して、これからはこの経験を生かして微力ながらも誰かの役にたてればと思っています。病を乗り越え、元気に自分らしく歌を歌うことで少しでもみなさんに幸せを届けていくことができれば幸せ(喜び)です。今はその気持ちで頑張っています。

 

―純さん、喫茶店をすることになりましたが、何かご経験がおありだったんですか?
純さん)ない笑 コーヒーたてるのは好きで・・・。お義母さんが店番しとったとき、お義母さんの友達とか近所の人が店に来て、喋ってるの見とって。そのとき、美味しいコーヒーとか出したったらええなぁって思ってたから、それから一生懸命コーヒー豆の研究したんや・・・(笑)

朱華さん)今では年齢問わずですが、特に70~80代のお客様がいつもコーヒー飲みにきてくれて美味しいって言うてくれるのが主人の一番の喜びになっています。このコロナの時期やからお客さんが5人の日もあったら1人の日もある、でも毎日同じようにコーヒーを出し続けていけたら人が集まり町もにぎわうって思うし、それをしながら店番もしてくれる主人に感謝です。

 

 

―週末にはここでライヴをされているそうですね

純さん)そう、毎週土曜の夜にいろんなジャンルのミュージシャン達が集まって演奏して、それで楽しんでくれたら。それに、近所の人もにぎやかになってええって喜んでくれて。今後は新しくできた市役所などのイベント等で音楽を流して明るい街づくりとかできたらええなって。

―五條市で生まれ、一度は離れ、そしてまた五條に戻り、これからお商売もされていく・・・五條市についてのどのように感じてらっしゃいますか?
朱華さん)近所付き合いを大事にしたいなって思います。五條から離れてた期間が長かったので最初はほんとに五條のことを知らなかった。でも、こっちに帰ってきて徐々に五條の人との交流も増えて、そしてお店にくるご年配の方に「お母さんのことよー知っとるで」「お父さんには世話になってな」っていうてもらえるのがほんまに嬉しい。祖父母~父母の時代があっての神戸屋であり、今の私達やと思う。高齢化や過疎化、そしてデジタル化が進んでるけど、お年寄りがたくさんいるこの街ならやっぱり「人と人」のつながりがいちばん大事やなと思います。

 

昔、にぎわいを見せたこの商励会通りを少しでも取り戻したい気持ちで外のスピーカーから音楽を流しています。昭和の香りのするコーヒーの美味しい店として音楽が楽しめる明るい町づくりの何かお手伝いができたらと思っています。

―純さん、朱華さん、本日はありがとうございました。

※写真撮影時のみマスクを外していただきました。

 

 

絵本作家の長谷川義史さんとギリシャのお酒でカンパイ

 

 

 

 

 

 

 

☆リニューアルオープン当日、毎日放送ちちんぷいぷい「とびだせ!えほん!」のコーナーの取材も☆

 

 

 

 

 

 

 

 

神戸屋靴店・喫茶神戸屋

営業時間 火~土:10:00~17:00
金・土:18:00~ライヴ ※ライヴスケジュールはお問合せください
定 休 日 日曜日・月曜日
駐 車 場 有(店の手前50m北)中矢青果店裏
住   所 〒637-0005
奈良県五條市須恵1丁目3-18
TEL(FAX) 0747-22-2289
※詳細はお問合せください
※コンサート・ライヴ・各種イベント音響(PA)
店舗等音響プランナー
 アドバイザー等 承ります

 


☆スタッフHのすぽっとwrite☆

コロナ禍で控えていたインタビューを1年ぶりに再開。
久々の取材の緊張とこんな素敵な方が五條にいらしたんだというワクワク感。
序盤から朱華さんのお話に引き込まれた・・・が、中盤あたりでうまく記事にまとめられるかと内心焦りだした。

「ちょっと休憩したら?」とコーヒーを出してくれた純さん。経験がないというのに板につきすぎている喫茶マスターのエプロン姿。そして足元はどこか見覚えのあるサンダル。「それって・・・?!」「そう・・・高校の生徒さんの校内用のやつ。これ、えーねん、きつ過ぎず緩すぎず、ほんまに」と、販売店主がというより、純さんが言うんだから間違いないと思わせる雰囲気がある。たててくれたコーヒーが美味しかったのも言うまでもない。

取材の緊張、集中と、昭和レトロな店内、ブレイクタイム。生演奏の迫力と音楽の心地よさ。刺激あり、癒しあり、安心感あり・・・きっとこれも「きつすぎず、緩すぎず」?なんですよね笑

トニカク素敵な神戸屋、そしてお二人に出会えたインタビューでした。

 

 

 

 

 

第51回  クラフト館(有限会社 扇屋) 代表 今井 勲 さん

 

 

    「地域になくてはならない」お店を目指して

ー 本日はお忙しい中、ありがとうございます。まず、お店を始められたきっかけなのですが…

僕の家は、元々は、五條の商店街通りで、「扇屋」という毛糸店を営んでおりまして、まあ言わば、家業を継承した、という感じですね。それで、平成6年の6月に現在の場所に移転させていただいたんですけど、それまで、大阪の大手毛糸メーカーの代理店に、卸売をするという営業回りの仕事をしていたのですけど、そこで9年ほど勤めまして、家庭の事情でこっち(五條)に戻ることとなって、当時まだ商励会通りにあったお店を継がせていただいたんです。そして、お店をやりかけた時、その当時、僕は五條市のボランティアのお手伝いもしていたのですが、その中で、現在のこの建物の、オーナーさんと出会って、お店をやってみないか、ということが現在のお店の始まりなんですが、その当時の商店街のお店は、駐車場もなく、車社会になっていく中、(商励通りのお店は)ちょっと違うな?と思いまして…  ただ、「扇屋」のお店はたたむのではなく残したままで。

ー その意図はどのような?

イメージとしては、業態が以前までの、「扇屋」さんと同じだと、決まった客層のかたばかりに固まってしまうので、「扇屋」が、毛糸と婦人服を扱っていたのを、こちら(新しいお店)では、「手芸店」という専門的な趣で、ということでですよね。「扇屋」では扱っていなかった布、トールペイント※やパッチワーク… そういったものを新たに広めていきたいという思いで、平成6年からですから… もうこちらにお店を構えて、もう丸25年になりますね。ですから、きっかけと言われましたら、元々の家業の継承、ということですかね。ただ、新しく今の場所でお店をオープンするにあたり、「さあ頑張ろうか!!」という強い志で最初は始めたわけではなくて、軽い気持ちで控えめに、やってみようかな?という感じが25年間続いてきたという感じかな。

※ 家具などの木製品に、絵具を塗る手芸のひとつ。

ー ありがとうございます。次のご質問なのですが、元々、代理店へ毛糸の卸売の営業をされていた、というお話をお伺いさせていただいたのですが、元来家業が、毛糸店をされておられたので、自然とそちらの方向へ、という感じででしょうか?

微妙ですね(笑)。高校を卒業してからは、大学、という選択もあったのですけど、そんなに勉強がしたい、という訳ではなくて、漠然と就職しようかな… という感じで。ただ、出身が普通高校で、そんなに求人とかもなくて、当時の僕は、こういうことがやりたい、という事もありませんでしたし、まあ… あんまり何も考えてませんでしたね(笑)。働いてみることも大切かな… と思っただけで、それでたまたま、勤めていた会社(毛糸の卸売の会社)から声がかかって、という感じですね。ですから、当時もし、五条ガスさんから(社員の)募集があったのなら、もしかして、今頃五条ガスさんの社員になっていたのかもしれませんし(笑)。

何らかの形で商売を

でも、会社員として9年間働いて、こちらに帰ってくる頃には、人に雇われるよりも、「商売がしたい」という考えがあったんかな?今はこういう商売をしているのですけど、もしそうでなかったとしても、違う何かの形で、商売してるんやろなぁ、って。ずっと会社勤めをするタイプじゃないと自分でも思っていますし。何ていうかな… ルート販売のような、同じお客さんのところをずっと、というよりは、今のような商売をしていると、新たなお客さんとの出会いや、その人との繋がりというものがありますよね。結局今日のこの出会い(インタビュー)というのは、今のような商売をさせていただいているからだと思いますし、ですから、同じようなメンバー、お客さんでずっと、という事が、自分にとってはあまり向かなかった、好きじゃなかったんかな… と感じますね。

ー では「お店を継ぐ」という考えは、当時はあまりなかった、ということなのですね。

全然なかったです(笑)。祖母が寝たきりになって、店番をする手が足りなくなって、その都合で帰ってきただけですから。ですから、もし祖母が元気でいてたなら、そのまま大阪にいたかもしれませんね。

お店の名前「クラフト館」込められた思い

「作る」という思いですね。「クラフト」って「CRAFT」と「KRAFT」と2つ綴りがあるのはご存知でしたか?頭が「K」で始まると、「紙」のクラフトなんですよ。これが、「C」だと、「(指先の)技能」とか、「技能士さん」の意味合いになるんです。ですから、うちは「CRAFT」の作業や、技能といった意味で。他に、いろいろ考えたんですけどね…「夢工房」とか…でも、近所見てたら意外と似たような名前があって(笑)。かといって、「扇屋」という名前をそのまま持ってくると、「扇屋」そのままのものが来てるんちゃうんかなって。ですから、心機一転という気持ちや、「扇屋」とは趣が違いますよ、という意味も込められていますよね。当時、お店を新しくオープンする時、やはり何もかも変えたいな、という思いもありまして。でも、この「クラフト館」っていうお店の名前も、だいぶといろいろ考えた結果なんですけど(笑)。

ー そうなんですね。私も、え?「クラフト」って紙とか工作とか… そういったイメージがございましたので、品目は刺繍や、手芸品なのに、どうして「クラフト館」なんだろうな… って。いまのお話しで、ようやく理解できました。

ー 平成6年に、こちらにお店をオープンされたということをお伺いさせていただいた訳ですが、オープンされた当初は、いろいろ苦労もされてこられたと思います。その当時のお話をお伺いできれば…

やっぱり、単純にお店の「売上」ですよね。やはりみなさんウチの事なんて全く知らないわけですよ。オープンした頃は、(お店の)近くにホームセンターがあって、今でこそ五條にはホームセンターさんも何件かありますけど、その当時はというと、五條にはホームセンターは、その1件しかなかったんです。ですからホームセンターに来られるお客さんも、それなりにいたんですけれど、そのお客さんが、うちに流れてくるわけではないんですよね。そのホームセンターさんと、うちとの距離はというと、たかだか20~30メートルほどなんですけど、(うちには)来ないんですよ。入ってもらいにくさ、とっつきにくさ、というのもあったのかも知れませんでしたけど。そして、お店の間口も、今のこのお店の隣だったんです。それも15坪ほどの小さなお店だったので商品もあんまり多く並べられない。ですから、苦労した、というのはそういうお店の売り上げ、という点でしょうね。それと、立地(国道沿いではない)から、お店の知名度ということはいかんともし難いものでした。ですからオープンして数年間は、チラシで告知して、それを5年10年やってきて、ようやく「クラフト館」というものが認知され始めて… 経費もそれなりにかかりましたね。でも、以前と比べて、「告知」ということは難しくなりましたね。昔は、「打てば響く」という感じで、チラシを打てば、それなりに反響がありましたけど、今の時代は、チラシをまいても、まぁ反応がないですよ。

ー それは私どもとて同じです。もはやチラシのみの告知は、本当に反響がない時代ですよね。

ですから、今の時代は、SNSとかそういったものをうまく利用しなければならないんでしょうけど、昔とは本当に告知方法が違いますよね。もはやチラシでは「打てば響く」というものは望めないですね。でも、チラシだけじゃなくて、消費者の考え方もですね。一昔前は、物を「貯めておく」という考えがあったんですけど、今はもう、「余分なもの」は本当に買わなくなりましたね。そこがまったく今とは異なると思います。でも、昔の時代のほうが良かったですよ。たとえ売り上げが悪くとも、チラシを出せばお客さんに響く…  という風にね。

若いころは「ガムシャラに」

お店をやり始めたのは27歳のころからで、開店当初は、先ほどもお話しした通り、確かに、売り上げを工面していくことに苦心したんですけど、齢も気持ちも若かった時なんで、「苦労」よりも「楽しい」という感覚のほうが強かったですね。逆に、後になればなるほど、苦労してる感じかな…(笑)。お店の営業時間だって、今は朝10時から夜7時までなんですけど、初期のころは朝9時から夜8時までやってましたね。とにかくがむしゃらに。ですから、そういったことも含めて、お店がオープンした、初期のころはとにかく「楽しかった」ですね。それと、オープンから(お店の)運営が軌道に乗り出した頃、休みを取っていろいろ遊びに行ったりもしました。当時は、幸いにも優秀なスタッフさんがいたお蔭で、自分がいなくてもお店がある程度回せたんです。確かに、忙しい時代ではあったんですけれど、忙しい時ほど取る「休み」というのが楽しくて仕方がなかった。ほら、暇なときに仕事を休んだって、虚無感というか、なにも楽しくないでしょ?

ー そうですね。我々サラリーマンと、お店を運営されていらっしゃる社長。立場は違いますが、同感でございます。

 

こんなとこにも「LINE FRIENDS」が!(詳しくは弊社ブログ「ぱわーすぽっ燈」7/9UP分参照)

 

 

 

ー さて、次の質問なのですが、大手スーパーさん、チェーン店等、量販店にない、「クラフト館」さんの良いところとは?

ご存知かどうかは分かりませんが、「手芸屋さん」って奈良県に限れば、数えるほどしかないんですよ。お店をやっていたかたが高齢になって、継承できなくなったお店は、実際のところはみんな(お店)をたたんでしまっていますね。でもこの「手芸」という業種は、僕自身、地域ではなくてはならない存在ではあると思うのですが、うちが、奈良県の南の「防波堤」くらいに思っています。「手芸専門」としては、(和歌山の)岩出くらいにしかお店がないですからね。

専門店としての役割

僕自身、生まれた時から家が毛糸屋さんなもんで、お店を継ぐとか興味があるないに関わらず、毛糸や手芸に自然となじんで来ているんですよ。小学生のころから店番もしていましたし、色の見方とかもその時代から、ボタンを選ぶのなんかも、本職の方がやっているのを傍で見ていました。

 

とても几帳面に陳列されている商品や生地。「繊細さ」が問われる手芸に通じます。

 

 

 

 

 

 

 

中学生にもなると、実際に毛糸を売ったりもしていましたしね(笑)。ですから、毛糸や手芸にまつわる知識も、昔からの積み重ねで、いる知識もいらない知識も自然と刷り込まれてくる。量販店だと、お客さんが本を持ち込んで、「ここをこの本のようにこういう風に編みたいんだけど?」というような相談にはなかなか乗ってもらえないですよね。でもうちは、もしお客さんが求めるものがなかったとしても、「この毛糸は扱ってないんですが、でもこの毛糸ならいかが?」のような提案ができるんです。そういったことが、「専門店としての役割」だと思いますし、時代は変わろうと、そういうお店でありたいなと思っています。たとえば、ズボンのファスナー1つとっても、落ちてこないように、ストッパーがついていたり、あと、ズボンのファスナーって、大概右手で下ろすでしょ?だから基本的にズボンのファスナーって、右にカーブがついてついているんです。この間、たまたまズボンのファスナーを付け直したっていう友人に会ったんです。量販店で付け直してもらったそうなんですけど、見事にカバン用のファスナーがついてました(笑)。友人が「付け直してもらったんだけど、よく落ちてくるねん、」って、そら落ちるやろ、って(笑)。だから、僕たちからすれば、量販店をけなす、というわけではないんですけど、専門的なことがわからずに、ズボンのファスナーを例として、付け替えたりしてることが不思議というか怖いです。ですから、量販店さんでは届かない部分をお手伝いする、それが「専門店としての役割」ではないかと考えます。

地域になくてはならない存在として

ただ、今はインターネット通販も普及し、同じような商品でも、インターネットのほうが安い場合も多いです。そういった場面では、もう正直にお客さんに伝えますね。あくまでうちの特徴、利点をお客様に伝え、ただ値段の差はありますよ、という風に。例えば、100円ショップが多くできてきた頃、一番売れなくなったものは「ゴムひも」なんですよ。でも、(お客さんが)一番早く帰ってきたのも、ゴムひもなんですよ。100円ショップの、ゴムひもの手軽さは魅力なんですけど、でもそれでは十分でない場合、じゃあどこでゴムひもを買うの?となれば、やはり専門的なお店になってくるんですよ。品ぞろえの点から見てもね。今でも多いのは、(専門的に)洋裁や、着物の仕立てなんかをしていらっしゃる方たち。そこに使うゴム1つ取っても、やはりうちに来ないと置いていない。仮にもしうちがなかったとしたら… そういうことを考えれば、「地域にとってなくてはならない存在」になってきたのかな… と思っています。「専門的なもの」を、置くことができるよう努力を続けている… お店の在り方とは、今はそんな感じです。

ー では、つぎのご質問なのですが、お店を続けていく中で、大切にしていることはございますか?例えば、ここだけは譲れない信念のようなものなど…

商売って、僕らが「売ってあげてる」とかお客さんが「買ってあげてる」とかそんなのではなくて、「50/50(フィフティフィフティ)」の関係ですよね。売り手とお客さんが同じ目線になる。どういうことかと言えば、お客さんの利益になるよう、僕らがお客さんに適切なアドバイスをして、その結果、僕らも利益をいただく。安ければよい、のではなくて、お客さんの立場に立って、これが信念なのかな?どうなのかな?とは自分でも思いますけど、でもまあ実際の話、そういうことですよね。

どんなかたにも楽しく手芸を

あと、我々はただ「物を売る」だけではなくて、その後を、手芸をどんな方にも楽しんでいただきたい。最近、手芸を、福祉的な観点、ということも考えるようになりました。手芸ってやはり手先を細かく動かす作業なんで、それによって痴呆やボケ防止にも一役買うことがあるんですよ。お年寄りに優しく、ということは別に信念でもない訳ですけど、手芸とはいつまで経ってもできるようなもの、また、手芸はどんな方にも楽しんでいただけるもの、その「楽しむ」ということのお手伝いをさせていただきたい。(うちに)買い物に来られるかたは、手芸を楽しんでやっている方ばかりなんで、あと、99%のお客さんは「目的買い」のお客様ばかりですね。目的のものを買って、そのついでにほかの品物を買ってくれる場合もあるのですが、すでに、手芸を楽しんでおられるかたに、如何に新たな情報発信をしていくか。ということも、今、大切にしていることですね。

ー ありがとうございます。お取扱いされておられる品目は、毛糸や手芸品のほか、ミシンも取り扱っておられるとのことですが、店頭におきまして、ミシンの販売においての需要は、実際どのくらいのものなのでしょうか?

今のお店をオープンさせた当時は、全国で、ミシンの売り上げがとても大きかったんです。ミシン自体の単価も高かったですし、一家に1台、といった需要もあったのでしょうね。数はさすが少なくなりましたが、今ももちろん買いに来てくれています。しかし悲しいかな、「ミシンを使えない」お母さんが多いですよね(笑)。ミシンが家にない、というご家庭も多いと思います。今、小学生~高校生くらいの子供がおられるお母さんは、家にミシンがない、というのが多いんではないでしょうか。でも、その世代のお母さんの世代ともなれば、ミシンを使うかたも多くいますね。(インタビュアーの)親御さんもそうではないでしょうか?

ーそうですね。古いタオルで、ミシンで雑巾を作ってもらってたりしていました

その世代以降となると、今の若いお母さんの世代ですね、女性の社会進出とともに、家で、ミシンを使って何かを作る、そういったことが減ってきたんです。女性にも働き口が広がり、自身で稼ぐことができたので、作らなくても(お店で)買えばいい、という感覚でですね。ですから、ミシンは買いに来るお客さんは一定数いらっしゃるんですが、よっぽど好きな方か、(仕事を)定年された方ですよね。あと今では、インターネットのメルカリで売るために、自分で服とかを作るかたですね。でも、ミシンの販売に関して、うちが自信をもっているところは、値段ではないんです。値段だけを求めるのなら、間違いなくインターネットで買ってください、と伝えます。でも、うちは、(ミシンを)買っていただく際は、時間をかけて、そのミシンで、制作ができるようになるまで、説明を行います。そういう時間がないお客さんに対しても、20~30分くらいの説明を行ったり、さらにそれも無理な方には、説明書のこの部分だけでも見ておいてください、ということを最低伝えるようにしています。値段だけを求められる場合は、どうぞインターネットで、でもうちは、その「信頼」というか、購入後の修繕や、アドバイスといった、アフターの部分ですよね。いわば、うちは「保守契約」付のミシンを売っている感じです。

ー そうですね。我々の商売においても同じことだと思います。続きまして、またお取扱されておられる品目のお話ばかりで恐縮なのですが、ネームの刺繍や、Tシャツへのプリント等も行っておられる、とのお話ですが、個人の以来のほかに、スポーツクラブ等、団体さんからの依頼もあるのでしょうか?

Tシャツへのプリント依頼や、刺繍といった依頼はよくいただきます。うちはそのTシャツ等の販売はしていないので、お客様の持ち込みで。ただ、今一番需要が多いのは、今五条ガスさんが着ていらっしゃるような、作業着への刺繍の依頼ですね。まあ、刺繍の依頼は、量販店等でもやっていることがあるのですが、字数が多いとできないそうなので、そういった類はうちに持って来られますね。あとは、自分が来ているこのポロシャツなんですが、これも普通に売っているものなんですけど、「クラフト館」と、ローマ字で刺繍を入れています。普通にポロシャツだけだと、何か安っぽく見えてしまいがちなんですが、こうやって刺繍を少し入れるだけでも、アクセントになると思いませんか?

ー そうですね。社長が着ておられる、胸の、「クラフト館」の刺繍の下に刺繍してあるのは、ウサギのキャラクターですかね?

はい(笑)。このキャラクターは、こちらでお店をオープンした際、作ってもらったんですけど、最初、買い物袋を作ってもらう時、僕が、袋にデザインする絵を考えてよ、とお願いした時、作ってきてくれたのがこのキャラクター(ウサギ)なんですよ。そこからずっと今まで… ということですね。自分も元々、こういった、布製品にに刺繍をする、ということをやってみたかったこともあって、この分野に関しては、いろいろお客さんのお手伝いを、楽しくさせていただいてます。そして、刺繍のほか、Tシャツ等にプリントする、プリンターもあるんですよ。

ー それは、アイロンのような方式ですか?

いや、これは「プリンター」なんですよ。まずは生地にアイロンをして、それをプリンターに入れて刷っていく、インクジェット方式ですね。これはA4サイズまでなら写真や文字のプリントも何でも簡単にできます。ただし、吹きつけのような感じなので、そんなに長持ちはしないんです。ただこのプリンターは持ち運びもできますし、1回きりのイベント等には適してますね。刺繍をやってると、お客さんから「プリントもできるの?」という問い合わせもよくいただくんです。ですから、「プリント」に関しても、今は幅広いお客さん(官公庁や企業など)から依頼をいただいております。やはりいろいろと新しいことにチャレンジしていかないと、ということですね。

 

布製品への、イラスト、写真のプリントはこのマシンにおまかせ!仕上がった製品は記念品にぜひ!

 

 

 

 

 

 

 

 

ー 私どもも、以前のように「ガスを売っているだけ」では厳しい時代になりましたですからね。

そこもやはり、「人口減」ですよね。僕がここにお店をオープンした平成6年と今の時代と比べても、すごい減ってるんです。ですから、このままの商売を続けていくだけでは、必ずいつか先細りになる。うちは、毛糸と手芸だけではダメだと思っていたところに、たまたま中学校の体操服の販売に上手く入り込むことができて、さらに今、プリントとかの新しい事業にも取り組んでいるところです。

「糸」からは離れない

あと、インターネットで出店、ということも最近はやっているんですが、でも値段競争が激しくて、今のところは在庫処分、といった感じでしかなく、なかなか主力にはなりえないですね。あくまで、店頭販売というのが中心で在り続けることは、これから先も変わらないと思います。また、単純に業種を増やす、ということもこの先大事なことなんですけど、毛糸、刺繍、絹… 「糸」または「糸へん」からあまり離れたくないですね。さっき紹介した、プリントの分野だって「布」に印刷するものですし。ですから、なにか他のものを売ろう、というところにはまだまだ達していないかな?あくまで今をベースに、徐々に広げていくことからですね。

ー ありがとうございます。次の質問なのですが、毎週火曜日に、「編み物教室」をされていらっしゃるとのことですが、受講生の方はどれ位いらっしゃるのでしょうか? 

 そちらに関しては姉が昔からやっております。ここのお店以 外にも、橋本へ2件ほど、出張という形で教室を開いています。人数に関してはそうですね… 朝と昼の部に分けて開講しているのですが、朝の部が9名ほど、昼の部は5名程度、というぐあいですね。うちで糸を買っていただければ基本的には無料で参加できます。ただ、やはり年配の方が多いです。「余暇を楽しむ」という趣旨で、作ったものを着る、というよりは、あくまで「編むこと」自体を楽しんでおられます。あとはお孫さんに自分の編んだ服などをプレゼントするとか… 多い方で年間10着くらい作るんとちゃうかな…

ー 10着もですか!でも、どこにも売っていない、自分だけのオリジナルって本当に貴重ですよね!

ただ難しいのは、毛糸の値段も高くなっているのですけど、毛糸って、デザインで売るものではないんですよね。「素材」で売るものですからね。完成した服ではなくて、服にする前の「糸」を売っているわけですから。触り心地や編みやすさ、そういったところをPRして売るので、服を売ることとは全く異なるんですよ。

ー 毛糸から作った作品のイメージなんて、人それぞれですしね。

でも、うち(編み物教室)に来ておられる方は、結構上手な方ばかりなんですよ。ベテランぞろいで、それはもう上手に編んでくれます(笑)。

ー あと、お店のことについてもう少しお聞かせください。1日平均、どれくらいのお客さんが来られますか?

そうですね… いい時は1日80人くらい来てくれましたね。今はそんなに(お客さんが)来ることはないですね。いまはもう良くて30人くらいでしょうかねぇ… そして今は売り出しをしようが、何をしようが大して変わりませんしね。まあ、学校の入学シーズンになると少し増えますけどね。

ー 市外からも、お客さんは来られますか?

あまり大きな声では言えないのですが、市内、市外のお客様の割合でいえば、3:7、いや4:6くらいかな?いややっぱり3:7かな(笑)。

ー そうなんですね!それは意外です…

それはただ単に、手芸の専門店が、橋本にないことと、あとは人口の割合ですね。橋本は五條の倍近く人口がいますよね、ただそれだけの話なんですよ。

「繋がり」を大切に

でも、考えれば「扇屋」のバックボーンから、商売が続けていけるのも、仕入れ先にも恵まれてこそ、とのことですし、ですから、仕入れ業者さんとは、仲よく和気藹々と… 業者さんに対しては「買ってあげてる」ではなくて「売っていただいている」という謙虚な気持ちでですね。業者さんに対して「買ってあげてる」という気持ちだと、業者さんには、どうしても「売ったってあげてるのに」という気持ちになる。ですから、そういう考えは絶対に持たないようにしています。大阪の卸売業者で勤めていた経験からも、仕入れ業者さんの立場からすれば、いい商品を持っていくとしたら、やっぱり和気藹々と良いお付き合いをしているお店に持っていきますよね。仲よくしているところに先に声をかけようか、ってなりますね。だから、繋がり、という事はすごく大事にしています。業者さんだけでなくお客さん、こういった、五条ガスさんのこういった取り組みでお話しさせていただいていることも「繋がり」ですし、他に友人との繋がり… 「信頼関係」と「繋がり」というのは常に大事にしていかないといけないでしょうね。

ー おっしゃる通りです。「信頼関係」はどんなお商売をされるのにも、重要なキーワードですよね。続いてのご質問なのですが、お店のこれからの展望、この先こういうことがやってみたい、ということはございますか?

まあ、これから先も、お客さんの要望に応えることができるような品ぞろえは、どんどんしていきたいと思いますし、他店との競争ではなく、「共存共栄」ということを考えていきたいですね。最近、橿原市のイオンモールにも大きな手芸店ができたのですが、そのお店には、いい意味で頑張ってほしいなと思います。お話ししたように、手芸専門店が少なくなってきて、(お店を)する人もいない。業界自体も縮小していく中、そこで新しいお店に「種まき」してもらえれば、自分たちのお店にも戻ってきてくれるかもしれない。遠くまで行かなくても、こんなに近くにあったんだ、という感じにね。うちの店だけでは、ブームは生まれない。そこで新しい大きなチェーン店等すべて含めて、ブームというものが生み出されると思いますので、そういう部分においては、新しい同業のお店には頑張ってほしいですね。そういう動きからうちも頑張れるような感じで、業界全体の願いとしまして。

社長の考える「今後」とは

あとは、オリジナルの品物を制作して売る、ということですね。製造販売に近いことも将来できれば、と思っています。今、「布きれの見本」として制作した作品も、売るようにしています。昔はあくまで布きれの「見本」なので売ることはしなかった。でも、ミシンがないから作れない、そういったお客さんにはそれを買ってもらうという、製造販売のようなやりかたですね。そして、今までは見本の品物ひとつひとつに値段は書いていなかったんですけど、かばんやがま口や、ちょっと手軽に買っていただける品物には、たとえ製作したばかりでも、値札をつけています。製作した品物というのは、よそには売っていない一品ものばかりなので、そういった「出来合い」のものをもう少し伸ばしていきたいというところです。先ほどお話しした「糸」からはブレることがないように、「オリジナリティ溢れるものづくり」ということをこれからも取り組んでいかなければならないことでしょうね。ただ単に材料を売るだけではなくて。それが上手くいけば、たくさん製作して、それこそインターネットで売りさばける。仕入れたものを売る、ということだけではどうしても利益を上げるのは難しい。ですから、仕入れたものを売るのではなく、それを加工して売る、ということですね。それが実現できたなら、うちの今行っているインターネットでの商売の在り方も大いに変わってくるでしょうね。

 

 カラフルな生地に囲まれて、はしゃぐ、同行のスタッフ森子さん。思わず、「カワイイ」を連発(笑)

 

 

ー ありがとうございます。我々サラリーマンとは立場も違いますが、今のお話をお伺いして、通ずる点は多々あったと思います。大変勉強になりました。

 我々の商売もガス器具でもなんでも、販売の際のお客様への対応、ということはみな同じだと思います。五条ガスさんなら、ガスの知識を間違いのないようにお伝えすることが仕事であり、使命だと思いますし…

ー そうですね。それも私たちの大事な「使命」ですね。その「使命」を今一度かみしめて、日々まい進したいと思います。社長、本日はお忙しい中、貴重なお時間ありがとうございました。

(あとがき)

 国道沿いではないお店の立地、そして「手芸専門」という極めて限定されたジャンル。量販店やインターネット通販等、お客様の選択肢も多い中、「選ばれ続けるお店」として長く愛される「クラフト館」さん。なぜ選ばれ続けるのか。今回の取材を通して、社長の「地域にならなくてはならないお店になるため」をという志を目指してきた、そういう高い志が、20数年間もここでお店を続けられてきた所以なのだと感じました。そして、これからもその志は、「現在進行形」として継続されて行く事でしょう。

 

クラフト館

五條市五條3-1-23

営業時間 AM 10:00 ~ PM 7:00

定休日  日曜日

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第48回 石窯ナポリピッツァLUMBERMILL(ランバーミル)新子耕平さん 栄美さんご夫妻

一歩前へ踏み出せたこと。すべてはそこから・・・

この度、五條市住川町の木材団地で石窯ナポリピッツァのお店「LUMBERMILL」を2019年4月13日にオープンされます株式会社 玉木材の新子耕平さん、栄美さんご夫妻にお話を伺ってきました。

日々の筋トレ?と仕事終わりのお酒の美味さは人一倍

―まずは新子さんのご職業の林業についてですが、どういうお仕事をされているんですか?

(新子耕平さん 以下耕平さん)主に山へ行って木を切りそれを市場で売るっていうのが僕たちの仕事です。買ってもらった木はその後、製材所さんや建築業者さん達によって柱や梁など用途に応じて加工され使われます。そして、木を切れば当然、山に木はなくなっていきますので、植林していかないといけません。植林し、それを大きく成長させるために、草を刈ったり枝打ちしたりといった手入れ、そういったことも仕事のひとつです。

―植林してから柱などに使えるようになるまで成長するにはかなりの年月がかかりますよね?

耕平さん)そうです。野菜や米の様に春植えて秋に収穫という訳にはいかない・・・、僕達の場合はスパンがとても長いんですよね。樹齢100年の木を切れば、同じような木が育つには当然100年かかる訳ですからね。

僕が今植えている木々は自分の代では絶対切れないですし、逆に言えば僕らが今切ってる木も50年前100年前に植え、手入れしてくれた人がいたから切って出せるっていうことですからね。ありがたく思っています。

 

―山へは毎日?やはり天候によって左右されますよね?また山へ行かれると1日、作業ですか?

耕平さん)斜面での仕事、そしてチェーンソーなどを扱いますので、足元の悪い中での作業は非常に危険です。ですから、基本的に雨の日は行かないですね。
朝は8時くらいから作業始められる様に現場へ行って、暗くなる前に降りてきます。明るい間での作業ですので、「残業」はないですね。 

―ご主人の仕事を日々支えてらっしゃる奥様、毎日、お弁当を?

(奥様、新子栄美さん 以下栄美さん)
はい、山にはもちろんお店もないですから、朝起きて必ずお弁当だけは作って、あと夏場は特に水分を切らすことのない様にお茶やスポーツドリンクなどたっぷり準備します。やはり、危ない仕事なので、常に心配はしていますね。

 

―何歳頃から現場へ?また当時の思い出などありますか?

耕平さん)山へ行って「仕事の手伝い」をするようになったのは中学生の頃からですね。ま、夏休みになると、連れて行かれた・・・ていう感じですかね、その頃は。
なんせ、しんどかった・・・。車を降りてから30~40分、チェーンソー等の道具20キロ近くを担いで現場まで登ることもありますので、なんてしんどい仕事やろう・・・とは思ってましたね。杉の皮むき(杉皮は屋根下に敷いたりして使われる)とそれを運ぶ作業、これはもうかなりのもんでしたね。夏だと1日4キロくらいは普通に体重が減りますから。担いで降りてはまた登るの繰り返しで、真夏はもうほぼ熱中症ですよ。

―その当時山へ行きたくないとか、またその後辞めたいとか思ったことは?

耕平さん)うーん・・・どこかで、山の仕事なんだし、そんなもんだろうと思う気持ちがあったんでしょうか、辞めたいとは思わなかったですね・・・何故でしょうね・・・。

そうそう、ある時、これを筋トレやと思ったらえぇかなと、しんどいしんどいって思い始めたらほんまにしんどくなるんで、筋トレと思うか、20歳超えてからは、帰ってからのお酒が人一倍美味しく飲めるなっていう風に切り替えていこうと思ってやってましたね。ま、そう言い聞かせてたんでしょうね、自分に(笑)

 

―仕事をする中で、やりがいを感じるときはどんなときですか?

耕平さん)切った木が価格に反映するとやっぱり嬉しいですね。
傷を付けずにうまく切る・・・。200年製とか、過去に390年製の木を切ったことがあるんです。そのときはやっぱり緊張しますし、上手に切れたときは嬉しいし、達成感があります。 木を切る時にはどこに倒してもいいという訳ではなく、必ず倒す方向を決めます。決めないとダメなんです。これがあそこに倒れるから、それに対しどこにいれば安全かを見極め、狙ったスポット向けて倒すんです。斜面での仕事ですし、重心などの把握はもちろんケガだけはしないように気をつけないといけないんです。

 

将来なりたかったものにもうすぐなれる・・・もうなれた・・・?

―家業を継ぐことに対しての迷いや他になりたかった職業があったりとか?

耕平さん)僕は長男で、妹がいるんですけど、好きなことしてえぇよって育ててもらっても結局はそういう訳にはいかんっていうか・・・継がなあかんもんやと思ってましたね。祖父から父へ、そして従業員さん達もいてくれてる・・・。そこで僕はこの仕事したくないのでやりません、じゃ、責任感なさすぎるなと。
小さい頃から父と従業員の方達の姿をずっと見て育ってきましたので。
長男だからという理由はもちろんありますけど、継ぐのが当たり前、そういうもんだと思ってましたし、かといってやらされてるとか、嫌々やってるってことは全くないですね。

―林業をされてきた新子さんがこの度、ピザのお店「ランバーミル」を始めるということですが、どういった経緯から?また店名の意味も教えてください。

耕平さん)木を植えてから30年後、50年後、70年後にならないと価値が出ないって状況が続く中で、材木だけでは正直厳しい、他にも何かやっていかないと・・・何かできないかと考えてきた中のひとつが「きこりが作るナポリのピッツァ」です。
ランバーミルは、ランバー(木材)をミルする(ひく)要するに「製材所」という意味です。

―なぜピザを?

栄美さん)元々夫婦でピッツァが好きっていうのはあったんですけど、「製材所の敷地内にあるピッツェリア」という、木、製材所、ピッツァの組み合わせのめずらしさ、あと窯に入れる薪なども製材所だからすぐに補給できるといったいろんな意味での「融合」みたいな、何かおもしろいお店ができるんじゃないかなと思ったんです。

耕平さん)そう、基本的にはピッツァが好きだから・・・ですけどね。美味しいピッツァを食べたいけどなかなか近くに美味しいお店がない、でも食べたい・・・じゃ、自分達でできないかな・・・、やってみようか・・・ということで。話を聞いた永井製材さんがこの製材所で場所を貸してくれるってことになったんです。

―奥様は飲食関係のお仕事をされてたとか?それでピザを焼かれるということでしょうか?

栄美さん)はい、昔アルバイトをしていた時代からずっと飲食業に携わってまして、カフェでも働いていました。飲食、そして接客を通してお客様と触れ合える空間というのがとても好きなんです。ピッツァは主人が焼いて、私は接客と調理補助です。

―えっ!ご主人が!?
耕平さん)僕が作って焼きます。

―では、ご主人、ピザ作りを習いに?
耕平さん)ええ、そりゃもう、イタリアには毎年・・・笑笑 ていうのは冗談で、イタリアで修行してきた方に教えていただいたりしてます。1年以上前から生地作りの練習を始めて、友達がイタリアから取り寄せた窯で焼くピッツァの移動販売をやってるんです。それで生地を作ってはその友人のところへ持っていって焼いてもらったりしました。

―ピザの生地を?イタリア製の窯で?
耕平さん)僕らがやりたいのは「ピザ」じゃなくて「ピッツァ」なんです。

―「ピッツァ」ですね! すみません笑 ここからはピッツァと・・・笑
耕平さん)ま、僕はイタリア人なので(笑)、必然的にそう発音してしまうだけで・・・笑。宅配ピザのようなアメリカのピザをやりたいわけではなくてナポリのピッツァをやりたいんです。

―ピザではなくピッツァ、そしてお店はピッツェリアですね。

そうですよ~。ま、僕はイタリア人なので意識しなくても必然的にそんな感じですけどね笑

栄美さん)笑笑、結婚してから主人の部屋掃除してたら「イタリア人になる方法」っていう本が出てきて笑 びっくりしました!笑 なんちゅう本見てるねん!って、本気なんや、この人!って笑

耕平さん)昔からイタリアが好きで。サッカーも好きですし、車なんかもイタリアのが好き・・・新婚旅行もイタリア行きましたしね。

栄美さん)その頃はピッツェリアをするとは全然思ってもみなかったですけど。

耕平さん)漠然とイタリアが好きだったんです。イタリア人に憧れてる?なりたい?というか・・・何故でしょうね~

栄美さん)こういう形でイタリア人になれるとはね~笑

一歩前へ踏み出せて本当によかった・・・

ーこれまでどんな準備を進めてこられたんですか?

耕平さん)ピッツァは窯が重要なんです。窯の温度が重要。ナポリピッツァを作るには400℃から500℃くらいの温度が必要なんです。1年くらい前、自分達で窯造りに挑戦したものの結局思い通りのものができず、かといってイタリアから取り寄せる(大体、日本のピッツェリアではイタリア製の窯を輸入して使ってるんです)とかなりの費用がかかる上に、炉床が割れるといった今後必ず起こり得る故障時の修理業者がいないんです。どうしようかと思っていた時、日本でピッツァ専門の窯を造っているというすごい方を紹介してもらえることになって・・・。

―それで窯を造ってもらえることになったんですね。

耕平さん)はい。ただ、注文して完成後納品・・・ではなく、僕は、その窯のレンガを自分自身で組んでみたかったんです。どんな風にできていくのかという工程を見たかったし、あのドーム状になってるところだけもさせてほしいとお願いし、愛知県に泊まり込みで行って教えてもらい作ってきました。 それが今ここにある窯です。僕は本当に運がよかったです。

 

 

 

 

 

栄美さん)私達だけでは到底できなかったことがたくさんありましたけど、いろんな方に助けてもらってお店ができていってるって感じです。窯造りもそう、お店のインテリア関係や、材料の仕入れ先、本当にたくさんの方とのめぐり合わせに感謝しています。

―窯、温度が重要・・・ピッツァは生地が決め手ということですか?ピッツァはチーズっていうイメージもあるんですけど・・・。
耕平さん)はい。生地が命、生地で決まります。材料は小麦粉、水、イースト菌、あと塩。基本的に使ってる材料はそれだけですけど、混ぜ方や配分、種類によって仕上がりは全然違ってきます。好きなものができるかどうか・・・。そこでもうひとつ重要なのがミキサー。これも取寄せると高額。スパイラルミキサーが多いなか、手で練ってるような動きをするダブルアームミキサーを格安で買ってきてばらし全部オーバーホールして組み上げました。 

栄美さん)生地はほんと大事ですから、こだわってます。実は私達が好きでよく食べるのがチーズ無しの、トマトソース、にんにく、オレガノのピッツァなんです。生地の美味しさがとてもよく分かるんです。美味しいですよ、ほんと。うちのお店でもメニューに取り入れます。

―いろんなピッツェリアに食べに行かれたり?

耕平さん)行きます行きます。必ずオープン前に行くか、予約して窯の前の席をとって、それでお店の人とお話ししたり教えてもらったり・・・。気さくにお話ししてくださる方が多くて、いろいろ勉強になりました。

―どんな種類のメニューをお考えですか?

耕平さん)わざわざこの五條に食べにきてもらうんですから、他のピッツェリアとは違う「らしさ」というか、やはり五條産、地元の食材を使ったものにしたいですね。地元には水、小麦粉、豚、ジビエ、野菜や果物・・・すばらしいいろんな食材がありますので食事やお酒のあてとしても楽しんでもらえる様なものを、思考錯誤を繰り返し作ってきました。そしてだいだい完成しました。

 

栄美さん)季節限定メニュー、ドリンクやトッピングで梅や柿、フルーツも取りいれたいと思っています。フルーツはピッツァと相性がいいんですよ。

 

―五條市に、そして製材所にピッツェリアができる・・・とても楽しみです。

耕平さん)ピッツァを食べに来てもらうこと、美味しかったって言ってもらうのが一番ですが、食べてすぐ帰るのではなく、敷地内には倭人の家建築のモデルハウスもありますし、木を見て触れてもらいたい、知ってもらえたらという思いがあります。他にも例えば木工教室を開いたり、家を建てる時やリフォームの参考になるようなこと、木のテーブルや椅子を見てもらう、そして買っていただくこともできる・・・理想ですけど、やりたいなって思ってることはたくさんあります。

※倭人の家建築とは

―五條市についてどんなことを感じてらっしゃいますか?

耕平さん)僕らが小さい頃は隣の橋本市より五條市の方が発展してると思っていたんですが、今は逆転。残念ながら正直どんどん寂れてきてる感じがします。
そういうのも含めて五條市に足を運んでもらえるきっかけになればと色々考えてきた中の第一弾がこのピッツェリアなんです。大きく言えば人の流れも変えたいって思ってます。まだまだ第二弾、三弾、四弾・・・としていきたいです。

栄美さん)おもしろい場所・・・こだわった店とか、流行りを取り入れたり、なんか生き生きしてるのが伝わる・・・そういうお店が五條市にあったらなって常々思ってました。なので、これからお店を始めるにあたって、常に好奇心をもってアンテナをはって、若い子たちやいろんな方にきてもらえるように、そして来てもらったお客さん達からも刺激をうけたいなって思っています。

―今までの道のりを振り返っていかがですか?

耕平さん)お店をやろうと思ってから2年・・・。ずっとこの街で育ってきて材木だけを扱ってきて・・・やっぱり1歩踏み出すのは怖かったんですよね。
最初は怖くて何もできなかったんですけど、人間て前に歩こうと思ったらちょっとでも足を前に出さないと歩けないじゃないですか・・・ちょっと踏み出せばあとは惰性で動きだし歩幅も大きくなる・・・そんな感じで僕も一歩前に踏み出したことによっていろんな人とつながれたし、その後はパズルのピースがうまくはまるように物事がどんどん進んでいったり・・・本当に踏み出してよかったなって今、思っています。

栄美さん)めぐり合わせ、ご縁、つながり・・・、お店づくりが進む中で、つまづいたり、悩んだりしたときもたくさんの方に助けてもらって完成できたこと、本当にありがたいなって思います。

―これからの目標や夢は?

耕平さん)とりあえずは来年もお店があること、ですね。

栄美さん)五條で食べる場所といえば「ランバーミル」ってくらい、ここに来たら美味しいピッツァとおもしろい、楽しいことがあるって思ってもらえるお店にしたいですね。

 

本日はありがとうございました。

 

石窯ナポリピッツァ ランバーミル  

住  所 五條市住川町888-22
電  話 0747-22-1461
営業時間 11:00~18:00(火~木・日)
11:00~21:00(金・土)※
定休日 毎週月曜日・第3日曜日
駐車場
☆テイクアウトOK☆

※しばらくの間18時までの営業となっています。(2019/4/16現在)

 


☆スタッフHのすぽっとwrite☆

一歩前へ踏み出すこと。

その一歩がものすごく勇気がいることだけど、踏み出さなければ始まらない。
踏み出せば、必ず経験する失敗やつまづき・・・でも踏み出したからこそ
得られる、踏み出した者しか得られないものがある。
そんなことを教えてもらった今回のインタビューでした。

 

 

 

 

 

 

第30回 社会福祉法人 祥水園 理事長(園長兼務)塩崎万規子さん

チャレンジすることを諦めない
私の大切な人 街 祥水園のために。

―「祥水園」が開設されたのはいつですか?

(理事長(園長兼務)塩崎万規子さん 以下園長)昭和51年2月1日に特別養護老人ホームと軽費老人ホームが同時に開設されたのが始まりです。

 

―園長ご自身がこのお仕事に携わるようになった経緯について聞かせてください。

私が子育ても落ち着いてきた頃、前園長(私の主人なんですが)に、「働いてみては?これからは女性も活躍する時代だし、福祉の仕事は女性ならではの良さを活かせる仕事だからやってみてはどう?」という話を持ちかけられたんです。私自身それまで、福祉の仕事はもちろん、本格的に仕事に取り組んだという経験がありませんでしたから、私には無理かも・・・?もし無理だったらすぐ辞めよう・・・というのが当時の正直な気持ちでした。そして初めて配属されたのが軽費老人ホームでした。軽費というのは自立されているそれぞれの利用者さんの各お部屋があって、そこから買い物に出かけたり、畑に行ったりといった感じで過ごされているところです。

 

―初めての現場、お仕事、どうだったんですか?

それがね・・・のめり込んでしまったんです、この仕事に。主人も勧めてはみたが果たして3ケ月もつだろうかと内心思っていたらしいんですが(笑)
もう仕事するのが楽しくて楽しくて。知らない事、分からないことも当然ありましたので、「高齢者福祉」についてひたすら勉強し、いろんな資格をとり、そうすればそうするほど、またどんどんとのめり込んでいくといった感じでしたね。利用者さんや、そのご家族、今度新しく入所したいという方達と触れ合ううちに、より一層この世界に入ってよかったなと思う気持ちが強まっていったんです。

 

祥水園 野原西Villageについて

―本日お邪魔しましたこの祥水園野原西ビレッジは昨年度新規移転、それを機に施設規模と内容が大きく拡大され「閉ざされた老人福祉施設ではなく地域の方達に開かれた空間」だとうかがっています。その内容等について詳しく聞かせていただければと思います。

以前、京都のある老人福祉施設に研修に行かせていただいた時、衝撃を受けたんです。その施設は街の真ん中にありました。周りには住宅地や保育園があり、たくさんのボランティアが施設を訪れ、利用者さんと将棋をしたり、トランプをしたり、絵を描いたり、併設された食堂で一緒に食事もしていました。食堂は一般の方にもご利用いただけ、皆さんごく自然に食事を楽しんでおられました。何だかものすごい衝撃でしたね。

移転前の祥水園は小高い丘の上にあり、地域とは離れた場所にありました。その見学を終えてから、もしいつか自分が施設を建て替えるときにはこういう施設を、街の中に、地域に溶け込んだ施設を作りたい、地域の方達が自由に出入りできる、そして我々もそれを受け入れられる、そんな施設を作りたいとずっと思っていました。

 

―その思いが実現したんですね。

ここは旧野原小学校の跡地だったそうです。吉野川や金剛山が一望できる広い敷地を見渡して、もしこの場所で事業を展開できるのなら、いろんなことをやろうと・・・ずっと今まで私が思い続けてきたこと、こういうことをやりたい、ああいうことをああしてこうして・・・イメージが頭の中に浮かび膨らみました。ずっと思い続けてきた熱い思いに設計士さん達も賛同してくださって、利用者の方、そして地域の方々にとって快適に過ごせる、憩える空間が実現でき、とてもうれしく感謝しています。

 

―施設内はとても明るく、インテリアひとつひとつも素敵ですね。

老人福祉施設というと、イメージ的にですが、暗くて、閉鎖的で、世間とは遮断されたような・・・という印象があります。そして何かを諦める・・・そんな気持ちでここに入所される方もいます。ですが、「そうじゃない」ってことをアピールしたかったんです。壁の色や柄、カーテン、家具など、いかにも老人福祉施設というあつらえはやめたかったんです。それはこの祥水園の特徴でもあると言えますね。

 

―ではどのような施設があるのか詳しく聞かせてもらえますか?

カフェ 澪の街 

吉野川を眺められるこの場所を見た時、まずここ(川に面した場所)にカフェを作ろうと思いました。利用者さんとそのご家族、そして地域の方も憩える地域食堂、地域カフェを作りたいと思いました。今カフェはお休みしてるんですが・・・「食べ物がからだをつくる」「美味しくて健康的なものを食していただきたい」という思いから、薬膳、オーガニック、地産地消をコンセプトに管理栄養士と共にメニュー、企画を構想中です。7月のFMの開局と同時に再オープンしたいと思っています。

―澪の街というネーミングは?

カフェを始めるにあたり、バリスタの資格をとりに行ったんです。周りはほぼ若い方、立ったままの授業も多くてね・・・必死でしたよ~(笑)試験にも何とか合格できて、さぁどんな名前にしようかと・・・。
「私」。誰もがそれぞれの思いを持っている・・・私は、私が、私の・・・といったように。そこで、じゃあ「私」の大切なものって何だろうか・・・
「祥水園」その祥水園を支えてくれているのは・・・「この街」
「私の」はイタリア語でMio(ミオ) ミオか・・・うーん、ミオねぇ・・・みお・・・「澪」
「澪」を調べると運河、川の流れの路って意味があったんですよね。
川・・・「吉野川」
「澪の街!」資格をとりに通う電車の中で思いつきました。

深イイですね!すばらしいネーミングだと思います。


←吉野川と沈む夕日。ロケーションが最高です。

 

 

 

 

リラグゼーションスペースJADE  

利用者さんを始め、とにかく皆さん肩が凝ってるんですよね。何とかそれを改善、癒してあげられる空間をつくれないかと。そして女性はいくつになっても綺麗でいたいという思いをお持ちです。だからこそ美容に対しての悩みもよく耳にします。JADEは美容と健康をテーマにオイルマサージやエステで疲れや悩みを取り除き、心身共にリラックスしていただけるような空間です。


 

 

 

JADEでは、美肌エステ、オイルボディケアをはじめ
まつ毛エクステ、ネイルサロン、美容室、プライベートヨガスタジオなど、美容、健康、メンタル、トータルビューティを展開されているそうです。

 

スポーツジムMiracle 

利用者さんのリハビリとして、そして一般の方もご利用いただけます。理学療法士、スタッフが高齢者や初心者の方、それぞれの体力、ご希望に応じた筋肉トレーニングやプログラムを提案、サポートします。

 

さらに血流がよくなり、高血圧や心臓病にも効果があるといわれる炭酸浴泉もあり、特に女性の方に喜んでいただいています。現在、カフェ澪の街とのコラボ企画でデトックスコースも考案中です。他にも、ヨガ、フラダンス、子供のダンス教室などもこのミラクルが主体となってやっています。

 

 

 

 

 

 

 

託児室 楽柿(らくがき)

五條市の名産の柿と、子供達が楽しくらくがきをしているイメージを合体させてネーミングしました。
以前の施設で、小さい子供さんを持つ職員がどんどんと辞めていきました。育児休暇もありましたが、やっぱり無理・・・、託児所があったら続けられるのに・・・と言って辞めていった職員もいました。その経験から絶対作ろう!と、託児所は。
働くお母さんを応援し、雇用を生んでいくという点からも託児所はマストでした。現在、5~6人の職員のお子さんをお預かりしています。そして、JADE(マッサージ、エステ)やミラクル(スポーツジム)をご利用の会員さんの子供さんも一時預かりしていますので、子供連れでお越しいただいても安心してご利用いたけるようになっています。

 

野原ダイニング

野原ダイニングは以前からありました宅配弁当サービスの部門なんですが、以前の祥水園では特養、軽費、それぞれに厨房がありましたので、効率、リスク・・・それぞれに厨房をもつことのメリット、デメリット色々考えた末、セントラルキッチンとして、ここに集約することにしたんです。再度見直し改善したこと、新しく取り入れたサービス等、祥水園の台所としてはもちろん、地域のお弁当の台所としてお役に立てればと思っています。

―見直したところ、取り入れたサービスとは?

配食サービスとはいえ、独居老人のお宅などへの当初一日一食だった宅配に疑問を感じたんです。夜一食のみの宅配・・・。果たしてそれでいいのか・・・自分は三食食べてるじゃないか、本当に困っている人が一食でいいのか、いや違う・・・。年末年始は宅配休み?じゃ、その長い休みの間、何を食べているのだろう?年末年始だって、やっぱり三食食べるでしょう。お正月にはおせちやちょっと違ったもの食べたいじゃない?そう考えると胸がいっぱいになってしまって・・・。やろう!!と思いました。「三食、年中無休、電話1本でお届けします。」を。

そして、高齢者だけではなく、働くお母さんや、体調が悪くて今日はご飯が作れない、買い物に行けない、夏休み中の子供のお昼ご飯に、そして、企業さんの毎日のお昼ごはんにとご利用いただいています。管理栄養士と共に栄養バランスのとれたメニューを考え、薬膳や旬の食材を取り入れたお弁当は、すべての皆様に安心して食べていただけます。

私も子供が小さい時、家事に育児にクタクタになった時がありました。そんな時「そうだ!野原ダイニング!」と思いついてもらえるようになればと思っています。

←ある日のメニュー♪

園長はたくさんのメニューの中でもメンチカツが大好きということで、献立表にも「園長大好きメンチカツ」笑
その他にも、「フレッシュマンを応援!たけのこご飯」

「俺の愛した豚カツ」「孤独のグルメ黒炒飯」等々、ユニークなネーミングが(笑)メニューを見て、「俺の・・・豚カツ」って、どんな豚カツですか?と問い合わせがあったとか・・・
私も気になります、「俺の愛した豚カツ」 愛された豚カツを食べてみたいですね♪

 

―すべての施設が母体である老人福祉施設とうまくマッチしていますね。

そうですね、やはり、方向性が全く違うものを目指しても仕方がないですよね。主軸である老人福祉施設とうまく融合できるものを作り、我々の方からお越しくださいという声をあげられる施設を作りたかったんです。皆さん、とても楽しんでくださり、ここで一日居られるとおっしゃってくださったご家族さんもいました。今までは面会に来られてもどこか気忙しく帰っていかれた様子もありました。ゆっくりしてもらうスペース、居場所がなかったからかもしれません。ですが、今では家族さんの面会が非常に多くなりました。本当に良かったと思っています。

 

FM五條 

FM五條は、まず第一に防災情報、そして県政、市政だよりやイベント、ニュース、福祉、医療、健康、学校、施設、企業、他にも音楽や体操など、奈良県や和歌山県のラジオ局さんと連携をとりながら、たくさんの情報をお伝えしていきます。

現在、取材に出かけたり、ゲストをお招きしたりして、収録をしています。周波数は78MHz 7月8日開局します。

―なぜFMを?

台風により五條市にも甚大な被害をもたらした平成23年の紀伊半島大水害。その時、祥水園は何もできなかったんです。社会福祉法人 祥水園として、五條市の皆様に大切にしてもらってきたのに、何もできなかったんです。あの時、施設は今にも窓が割れそうなほどの強風と、ひどい雨漏り・・・。二次災害の恐れもあることから、とても避難してきてもらえる状態ではありませんでした。その時の体験から思ったこと気づいたことがずっと胸にありました。だから、防災情報を流せる局としてスペースだけはとっておきたかったんです。もし私の代で実現しなくても、その意志を引き継いでやってもらえる時の為にと。それが、市制60周年という記念の年に、開局できることになりました。 過疎化、少子化、人口減といった暗いニュースを耳にしますが、歴史あるこの五條市で、がんばっている人たち、企業さん、元気な子供達の声を電波にのせてお届けし、五條を元気にしたいんです。

 

―ひとつひとつに園長の思いのつまった祥水園であることが、とてもよくわかりました。最後にこれからの思いなどをお聞かせください。

チャレンジすることを忘れず生きていきたいんです。 前園長は主人であり、私にこの仕事をいちから教えてくれた師でもありました。56歳でこの世を去って、私にはいつもそばで教えてくれ、相談できた人はいなくなりました。でも、だからといって下を向いているのではなく、何かを始めようとか、問題にぶつかった時や、決断する時、常にもう一人の自分に問いかけるようにしています。「本当にそれでいいの?私」と。そうすることで、気づかなかったことや、アイデア、違った考え方に気づくこともあります。

生きたかったのに生きれなかった主人。でも私は生きているじゃないかと。その根本を忘れず、いろんなことにチャレンジし続け、この祥水園と共に歩んでいきたいと思っています。

園長、本日はありがとうございました。

社会福祉法人 祥水園のHPはこちら

 

社会福祉法人 祥水園 野原西Village

住所 五條市野原西3丁目3番41号
電話 0747-23-0615(代表)

 

 

 

 


スタッフHのすぽっとwrite☆

「チャレンジすることを忘れない」その言葉がとても印象的でした。バリスタの資格の他にも、JADEを担当されているお嬢様と一緒にオイルマッサージの資格も取りに行ったそうです。そして、お二人ともX-JAPANのYOSHIKIの大ファンだそうで!彼に対する熱い思いも最後には聞かせていただきました♪
JADE、Miracleも実はYOSHIKIの楽曲にあるそうで、そこからネーミングしたそうです。FM五條の周波数78MHz。沖縄の那覇と千葉のFMも78MHzだそうです。
千葉といえば、YOSHIKIの出身地だそうで、そんな繋がりをたどって、いつかYOSHIKIが五條に来てくれないかと夢を語られ、お話をきいているうちに、何だか、その夢も実現するんじゃないかと、そんなパワーも感じさせてくれる園長でした。

 

第28回 雑貨&ウェア アップルハウス 北谷 和江さん

雑貨との出会い、人との出会い、すべてはこのログハウスから

Q.「アップルハウス」さんのオープンは?

平成4年12月です。


Q.雑貨屋さんを始めた経緯を聞かせてください

主人が「ログハウス」が好きで、どうしても自分で建ててみたいと言いまして、それでこのログハウスを建てたんです。そこから、じゃあ、何かお店をしたいなということで。最初頭にあったのは服屋さんだったんですけど、その当時来ていただいてた東京のメーカーさんが五條市内をずっと見渡して、洋服だけじゃなく、雑貨を置いた方がいいと。そしたら雑貨の方が増えてきて(笑)今にいたるという訳です。

Q.このログハウスはご主人が建てられたんですか?!

はい。元々主人は土木建築業の仕事をしてまして、一時期ミニログの販売をしたりしてたんですけど、自分で建てたいという思いから、材料をフィンランドから取り寄せ、ここを建てたんです。

Q.フィンランドから材料を?!

ログハウスを建てるには木を加工しないとだめなんです。そうすると加工代や色々とかかってくるんですよね。ですが、向こうだと、それ用に加工した状態で送ってきてくれるんです。だから、材料が到着するとすぐに組み立てられるんです。だから、今日は3段、次の日も3段と積み上げて1ケ月ほどで完成したんじゃないかな。材料が届くまでは時間がかかりましたけどね(笑)木の香りや温もり、それにとても丈夫で、地震に強いというのも実感しました。

Q.奥さんは雑貨や、洋服関係のお仕事の経験が?

全然。全くです。何も分からずに飛び込んだようなものです。昔は保険会社の事務をしてました。でも、雑貨は好きでしたね。

 

 

 

Q.では分からないところからのスタート・・・。開店の準備、そしてオープン、どんな感じでしたか?

もう訳が分からないまま突っ走ったような感じで(笑)素人が始めたようなもんですから、最初はもうとりあえず雑貨ブック、カタログなんかを見て人気のありそうなメーカーさんに片っ端から電話して取引させてください・・・って感じでしたね。

Q.今は厳選された雑貨をとりそろえておられて、ファンの方も多いのではないですか?

ありがとうございます。お店を始めてから今までの積み重ねでいろいろ勉強になりました。20年ほど前、カントリーのブームがあったんです。最近ではナチュラル系などの雑貨、インテリアが人気ですが、やはりカントリーも根強く人気です。今、雑貨屋さん自体、少なくなってきてるということもあり、遠方からもご来店くださいます。フレンチ雑貨がお好きな方や、アメリカン雑貨は男性の方に人気ですね。

店内には素敵な雑貨や食器類がたくさん♪
こちらは「アントステラ」
「アントステラ」の雑貨やソファはテレビドラマのセットなどにもよく登場するそうです。↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓

 

 

 

 

フレンチカントリーで人気のマニーローズ ステンシル調のバラの絵柄が特徴的で素敵ですね。↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓


 

 

 

 


 

 

 

 

 

←私も持ってますブレッドケース。たくさんの種類がありました。

 

 

 

←タオルや手ぬぐいもたくさん。これからの季節に、または贈り物にも喜ばれそうですね。↓

 

 

 

 

 

 

 

Q.アップルハウスという店名は?

一番最初に扱っていた洋服のメーカー名が「アップルハウス」だったんです。それにこの建物の木の雰囲気とアップルハウスという名前がマッチしているようにも思ったんです。

 

 

 

 

Q.お客様はやはり女性の方が多いですか?

そうですね。そして、年齢層も幅広いですね。20代の方から、60代、70代の方までお越しいただいてます。 洋服の価格も幅広く千円代のものもあれば2万円前後のものまであり、日本製のものは展示会やメーカーで仕入れ、それ以外のものは、問屋で仕入れるんですが、基本的に一点物で、少し変わったデザイン、そして人とかぶらないことが喜ばれます。

ほぼ毎週大阪に仕入に行き、入荷したウェアや、バッグ、靴、帽子などをブログでいち早くお伝えするようにしています。ブログを見てすぐ気に入っていただきお取り置きさせてもらうこともよくあります。

Q.お店をやってきて悩んだことはどんなことですか?

集客をどうやっていけばいいのか、どんなお店なのかを知ってもらうには・・・PR方法等、日々考えますね。チラシを作ってカフェに置いてもらったり、店先にディスプレイする洋服を変えてみたり。そうするとチラシを見て来ましたとか、通りがかりに見かけた洋服が気になって・・・と車を引き返してお店に来てくれたりと少しずつ反響が出始めてきました。あと、ネット販売の方は息子にまかせてるんですが、徐々に売り上げも伸びてきました。時代の流れで世の中はネットショッピングの占める割合が大きくなってきてますので、そちらの方も力を入れて充実した良い商品を取りそろえていきたいと思っています。

Q.では嬉しかったことや、思い出に残っていることは?

80代くらいのおばあちゃんに、お孫さんの結婚式に出るのでその時に着る洋服を選んできてほしいっていわれたことがあったんです。ちょっとおしゃれな感じのワンピースをみてきてほしいって。それで私が選んできたものをとても喜んでくださってね・・・。その時は嬉しかったですね。結構そういう注文もあるんですよ、今度、仕入れに行ったらこうゆう服をみてきて、こんな感じの○○をみてきてとか。

Q.本当にたくさんの雑貨があるんですね。見てるだけで楽しいし飽きないです。

そう言って1時間くらいお店にいて雑貨を楽しんでくださる方もいますよ。そして、このログハウスが癒されると言ってくれます。人気の作家さんのオリジナルのデザインのもの、職人さんの手がけた陶器であったり、カントリーやフレンチ特有の絵柄、コピーとは違うホーローの重さなど、やはり本物を見ていただきたいというのがあります。ゆっくりじっくり店内を見てもらえたら嬉しいです。

ガラスの容器。

 

アメリカン雑貨

 

キッズ・ベビーグッズもたくさんありました♪最近ベビーに接する機会がないのでベビーグッズ見ただけで癒されました。

 

 

 

 

↑入園・入学シーズンでしたので、グッズもたくさんそろってました。シーズンや行事に先駆けて商品を仕入れお店に並べてるそうです。

 

Q.今まで振り返ってみて、またこの場所でお店をやってきて思うことは?

私自身は北九州市出身で、結婚して吉野の方に住んでたんです。昔、どこだったか出かけた帰りに、乗るバスを間違えて到着した場所が五條市。その時は初めて降りた町の見知らぬ風景に、一体そこがどこなのかわからず慌てて主人に電話して迎えにきてもらった事がありました笑。それから数年後には五條市でお店を始め今ではここで暮らして・・・何か五條市とは縁があったんでしょうかね笑

お店に来られるお客様には大阪、和歌山方面からの方も多くて、数人のグループで月に一度、五條に来て、コースを決めてお店を回るそうです。野菜を買ったり、ランチしたりと一日楽しむそうです。そうやってお話を聞かせてもらったり、立ち寄ってくださるお客様と出会える度にここでお店をやってよかったなと思っています。

←看板犬のエース君。(グレートピレニーズ)50キロほどあるそうです。大きいけれどとっても優しいワンちゃんです。

 

 

北谷さん、本日はありがとうございました。

☆アップルハウスのHPはこちら☆

 

 

 

 

 

アップルハウス

住 所     奈良県五條市田園4-50-1
TEL・FAX 0747-24-0345
営業時間  AM10:30~PM6:00
定休日       水曜日
駐車場   有

 


☆スタッフHのすぽっとwrite☆

キッチン用品、日用品、インテリア雑貨・・・、フレンチ、アジアン、北欧、カントリー、・・・雑貨の種類、ジャンルはほんとうにたくさん。いつも行く店でも、ふと立ち寄った店でも目についたり、手にとると、妄想が膨らみます。これをあの部屋に飾って、、、この食器があれば、、、これを贈ると喜ぶかな、、、それからは迷い、物欲、予算の葛藤。これもいいけど、こっちも、、、でも・・いやちょっと待てよ・・・
でもいいですよね、雑貨って。妄想時間も楽しい?けれど、買った後もそれを飾る、使う、思い出す・・・他にも集める楽しさや、自分で作ることに挑戦したり、どんどん広がっていきます。「生活必需品」ではないかもしれない、だけど私にとって雑貨は、精神安定剤的「なくてはならないもの」なのです。アップルハウスさんはそんな雑貨がたくさんの素敵なお店でした♪

 

 

 

 

 

 

 

第22回 BALI MAGIC(バリマジック)セラピスト スクール講師 長谷川 弥生さん 

心に届く癒しを皆様に届けたい

 

s-長谷川先生2ハーブやたくさんの植物に囲まれてとても素敵ですね。こちらではどんなことをされているのですか?

ありがとうございます。BALI MAGICはバリニーズマッサージをはじめ、ホットストーン、クリスタルセラピー、シンギングボウルセラピー、タイ式マッサージなどを行うリラグゼーションサロンです。

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他にもいくつかのボディケアや、カラーセラピーで心身を開放しリラックスしたゆるやかな時間をお楽しみいただけます。また、それぞれを楽しく学べるレッスンも行っておりリラグゼーションスクールとしてセラピストを目指す方の育成、もっと深めたい方のサポートをしています。

 

 

―いろんな種類のマッサージをされているんですね。バリニーズマッサージとはどんなものなのですか?あと、ホットストーン、シンギングボウルとは?

バリニーズマッサージはバリの香りとアジアンヒーリング音楽の中で足先から頭までのゆっくりした全身マッサージをします。自律神経に刺激を与え心身のバランスを整え深いリラックスを味わっていただきます。

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ホットストーンセラピーはネイティブアメリカンの伝統的なセラピーです。学ぶなら、やはり発祥の地でと思い、アメリカへも数回行き、ストーンやヒーリングについて勉強しました。55℃~60℃に温めた石を使いリンパの流れに沿って顔や体をマッサージします。

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このシンギングボウルはチベット密教に伝わる法具です。 シンギングボウルの音色は、リラックス効果があり、その倍音は体の細胞を活性化させる効果があります。チャクラのバランスを整えていくので、セラピーにはいつも使っています。

 

―チャクラって何ですか?

チャクラというのは、人間の体にある「気」、エネルギーの出入り口です。

s-DSC01306主なチャクラは7つあり、人それぞれのチャクラが弱い部分により直感が鈍ったり、決断できなかったり、ふさぎこんだり・・・といった症状が出るんです。7つのチャクラを整えることで心身の安らぎとバランスが保てるんです。

 

 

 

―BALI MAGICを始められたのはいつからですか?またその経緯を教えてください。

BALI MAGICを始めたのは今から9年前、2007年です。

私は小学校の教師をしていました。昔、友人と初めて訪れたバリの魅力に引き込まれてからというもの、毎年夏休みには必ずバリに行ってました。マッサージをしてもらったり、大好きなマリンスポーツを楽しんだり、風景や、触れ合う人々・・・バリには私の大好きなものがすべて詰まっていました。

s-バリイメージそしてある年、いつものようにバリを満喫していたその時、ハッと気づいたんです。こんな気持ちいいマッサージや癒しをいつも自分だけが体感している、こんな心地いいリラックスを家族や友人もぜひ感じてほしい・・・と。今度来るときには、このマッサージを教わろう!と思ったんですよね。そう思ってからは、楽しむ以外に学ぶという新たな目的を持ってバリに行くようになったんです。学ぶというより、大好きだから趣味の延長のような感じでアロマやいろんな癒しを習いました。教師をしながら、休暇にはバリに行き・・・そんなスタイルを数年続けながら、1年生、2年生と持ち上がりで担任をした年がありまして・・・何かその2年間のクラスの結束、充実感、といいますか、丁度その頃早期英語教育というテーマで、奈良県の発表などがあったこと、他にも色々なことが重なって、ほんとにいい子供達、保護者の方々や先生方に囲まれて過ごしてきた教師生活の中でも特にその年度末、「やりきった感」のようなものすごくあったんですよね。そこから教師を辞めてセラピストに転職するまではそう長くはかからなかったですね。

 

―迷いや不安などはありませんでしたか? 

子供達に何て説明しようか・・新学期、私がいないことを子供達はどう思うかなというのは悩みました。でもセラピストに転身するということに関しては特に大きな決意をしたという訳でもなくまわりの方があまりにも驚くことに驚きましたね。「好き」というのは力になるんですよね。バリを訪れる度にパワーをもらえ、現地の人達はいつも「人の為に当たり前に動いている」そういうバリのすべてに魅かれてセラピストになろうと思ったんです。みんなにこの癒しを与えてあげられたらきっと喜んでくれるはずだと。少しの迷いもありませんでした。

 

―セラピストに転身後、どんな感じでしたか?

 

s-DSC01288BALI MAGICを始めると来てくださったのは、教職員時代の保護者の方であったり、先生方でした。皆さん、知ってる方でしたが、セラピストとしてその方達と改めて1対1で向き合うとその人のことをさらに深く見たり知ったりできてそれが自分にとっても大変リラックスできたんです。

教職員時代は、授業参観や発表会にプレッシャーを感じることもありました。それとは逆に1対1でお話しできる家庭訪問は大好きでね(笑)今こちらに来ていただいた方とはその時間その人だけを見て話やマッサージをして向き合え、さらには来てもらってるのに「ありがとう」とお礼の言葉までいただけることで自分も癒されるんですよね。自分に合っている仕事だなと思ったんですよね。

なので、私自身が仕事をしていて全く疲れないですし、ほんとにおもしろくて、ゆったりと仕事ができるんです。 

―今までで嬉しかった思い出などは?

いろいろありますね。たくさんの方々に支えられて日々幸せです。

ちょうどマッサージを始めたころ、主人の父が入院していたんです。私のマッサージを楽しみに待っていてくれて・・・。家族にも癒しを体験してもらいたいという思いから習い始めたバリニーズマッサージ。父にマッサージをしてあげることができて本当によかったです。

それから、私が20代の頃の教え子が、セラピストを目指し、私がスクールをしていることをSNSで知り来てくれたんです。現在人気セラピストとして京都で活躍されてます。とても嬉しいです。

 

―子供の頃は何になりたかったんですか?

小学校の教師です。幼稚園の頃から先生になるのが夢で絵に書いたりしてました。
低学年を担任させてもらうことが多く、それが私にとってはとても合ってたんでしょうかね・・・楽しく、子供達が喜んでくれるのがうれしくて、私のクラスだけ、給食を外で食べたり、屋上に行ったりなんかしてね・・・好き勝手してたんですよね・・・笑、校長先生や他の先生も困ってたんじゃないかな(笑)

でも、楽しそうですよね(笑)

 

―スクール生はどんな方達ですか?また卒業後はみなさんどうされてるんですか?

私がそうだったように始めは自分が体験し、それを習得したい、深めたいと思われたのがきっかけの方、また既に自宅でエステやネイルサロンをされてる方が、アロマやマッサージと組み合わせていく方も多いですね。いろいろ不安だったり、これからどうしていこうと悩んでた方達も修了する頃にはいきいきとした感じで、輝いてるんですよね。

s-DSC01312スクール生には北は青森、南は沖縄から来てくれた方もいて、バリニーズマッサージ、ホットストーン、他にタイ式マッサージやボディケアのコースを含めると修了生は500人ほどになります。

←長谷川先生とタイ式マッサージセラピスト アンポンさん

 

卒業後はほとんどの方がプロとして活躍され、自宅サロンを開業される方が多いです。卒業で終わりではなく、復習レッスンに来てもらいやすいようアフターフォローもしっかり大事にしたいと思っています。ですので修了生の皆さんとは卒業後もずっと繋がりがあって、その方たちがそれぞれのスタイルで活躍され、その情報を聞いたり体験させてもらったり。卒業後はセラピスト同志として相談にのってもらったり、一緒に食事を楽しんだりと、さらに深い繋がりがあります。

 

―ご自宅以外でのいろんな活動もされているんですよね?

s-powerstone s-color講座はい。施設へのボランティアマッサージ、アロマセラピー、イオンモールでのカラー講座など。ほかにもパワーストーン講座でJAさんや小学校、公民館、いろんなところに行っています。ストーン講座では自分の好きな石を選んでブレスレットを作ったりするんですが、びっくりするくらいみなさん楽しんで、喜んでくださいます。笑顔があふれます。たくさんの出会いもありますし、癒しの世界が広がっていきます。

 

―先生はズンバもされてるとか?

はい(笑)これは、BALIMAGICとはちょっとかけ離れるかもしれないんですけど、私が健康の為に始めた趣味みたいなもので・・・最初はハンドマッサージで訪問したのがきっかけだった高齢者施設でしたが、先日はズンバのインストラクターとして訪問しました。

ラテンの曲に合わせて踊るのがズンバなんですが、曲のテンポが速いので大丈夫かなと思いましたが、高齢者の方達、リズム感バッチリでハンドタッチしたり、体を動かしたりしてましたよ。いろんなかたちで皆さんが「楽しい」や「癒し」を感じてくれたらうれしいです。

 

―今でも定期的にバリに? 

はい。行ってます。
もし、バリに行かれることがあったら、いろんな情報教えますよ♪

―今、気になっていること、今後の課題などありますか? 

マッサージの予約でいつ空いてるの?とよく聞かれるので、ホームページをもう少し見直し、予約状況などが一目でわかるようにしたいなと思っています。
卒業生の復習レッスンを定期的に行い、自身も一緒に気持ちをアップしていきたいです。

 

 

―最後にメッセージなどがあれば

バリは私にいろんなものを与えてくれました。
私自身が感じた素晴らしさをみなさんにも感じていただけるよう、心に届くトリートメントを提供できるセラピストでありたいと思っています。

s-salon_image4自分がこうしたいな、こうなりたいなと思うことは大切にしていつもそれを思い感じてほしいと思いますね。否定してしまうのではなく、なりたい自分をイメージし、それをちょっと書いてみたり、小さくても少しずつの成功体験を積み重ねたり・・・。私自身もなりたい自分をイメージしてこれからもやっていきたいと思っています。

 

長谷川先生、本日はありがとうございました。

BALI MAGICのHPはこちらから

BALI MAGIC

s-DSC01313 s-DSC01308住所 奈良県五條市田園3-7-1
電話 0747-22-6126
open 10:00~19:00/日曜休
完全予約制
メールアドレス
info@bali-magic.org


☆スタッフHのすぽっとwrite☆

ハーブやいろんな植物に囲まれたお宅に伺い、玄関の扉を開けると漂ういい香り。ところどころに素敵なインテリア、さりげなく流れるBGM、美味しいざくろティー、初めて聞いたシンギングボウルの心地いい音色と体験した振動。そこにいるだけで何だか癒される・・・仕事を忘れ?!楽しい時間でした。