カテゴリー:美味しいお店

第77回 池田精肉店 土谷輝生さん 土谷政恵さん

祖父の代から80年超
愛され続けるコロッケは毎日「手作り」

五條の名物・五條市民のごはんのお供、長年愛され続ける「池田のコロッケ」。
本陣交差点や大川橋、新町通りを目の前に、五條の歴史と共に歩んできた池田精肉店さんにインタビューしてきました。

歩みについて

―池田精肉店さんの歩みについて聞かせてください。
土谷政恵さん(つちやまさえさん 以下 政恵さん)祖父が大正時代に始めたのかな・・・最初は行商みたいな形態から始めたと思うんですよね。当時は電車もなくディーゼル?だったと思いますが、肉を仕入れてきて、リヤカーでここまで運んできて。その頃はお店はここじゃなかったみたいやけどね。
土谷輝生さん(つちやてるおさん 以下輝生さん)肉屋としてはね、ここの曾おじいちゃんがうちのおじいちゃんのと一緒に最初、商励会通りでやってたみたい。でも戦争で兄が亡くなってそれで弟(うちの祖父)が引き継いだのか、後に独立してお店を始めたみたいです。そのもっと大昔は牧場をやってたみたいで、牛を育てて、それを売ってた。昔はほら、耕運機のかわりに牛を使ってたやん。トラクター替わりね。その牛を育てて売ってたみたい。
政恵さん)牧場やりながらだんだん食用へと移っていったのかな。

政恵さんのお母さん 以下お母さん)おじいさんが肉屋始めたんは大正10年(1921年)やね。(82歳のおばあちゃんの記憶による)
輝生さん)じゃ、もう100年以上続いてるってことやね。一回、役所にも問い合わせたことあるんやけど、役所ができる前の事って調べるのが難しいらしくて。保健所も資料を持ち合わせてなくて、詳しいことは分からないんですよね。

―では輝生さん政恵さんは四代目?ということですね。
政恵さん)そうなりますね・・・、うーん、まぁ、でも実は今も店主は母で。高齢なので、これしてあれしてって感じで私達がやってるだけで、はっきりと今「誰が」とか「継いだ」とかっていう感覚はなくて、みんなで一緒にしてるって感じです。

―子供の頃、おうちがお店をしていることをどんな風に感じてらっしゃいましたか?
政恵さん)やっぱりね、よそのサラリーマン家庭のおうちに比べて、うちは従業員さんも居て毎日バタバタと忙しくしてて・・・。お友達が日曜日に家族とお出かけしたり、夏休みに旅行に行ったりしてるのをみて、うらやましいなと思ったことはありました。

―お手伝いなどもされてたんでしょうか?
政恵さん)高校生、大学生のときは手伝ったりしてましたね。

―卒業後はもうお店を手伝うかたちで?
政恵さん)
いえ、結婚して大阪に住んでました。普通にサラリーマンの嫁で。
で、主人がこっちでレンタルビデオ屋と漫画喫茶をやり始めて。その頃からお店を手伝い始め今に至ります。
輝生さん)当時肉屋の方には長年勤めてくれてた職人さんがいました。でもその方も高齢になり「これから池田(のお店)どないすんねん」と・・・。僕が引き継いでいかないと・・・と思っていたことではあったので、「はい。僕がさせてもらいます」と。それで、いろんなことを教えてもらったり覚えたりするのは当然片手間にできることではないのでビデオ屋や漫画喫茶の方はやめて、それからずっとここで家族と一緒にやっています

 

愛されるコロッケはすべて「てづくり」

―池田精肉店さんの一日はどんなことから始まりますか?
政恵さん)まずは、コロッケの芋を炊くところからですかね。芋を洗って皮をむいてそれを炊きます。それから次の工程、芋をつぶして・・・と進んでいきますが、それは私ではなくて、他の従業員さんが担当してくれてます。

―現在 何名でお店を切り盛りされてますか?
政恵さん)私達と息子、そして従業員さん・・・。シフトによって変わりますが、常に5名は必ずお店にいますね。

―1日どれくらいのお客様が来られますか?あと来店人数の多い曜日や、お客様の年齢層についてはいかがですか?
政恵さん)人数は分からないですが、土曜日は平日の倍近くのお客様が来られます。うちの定休日が日曜っていうのもあるかもしれないですね。今はスーパーでパック入りのお肉を買われる方多いと思いますが、土日の特別な日に買いに来てくださるのか、土曜日がお客様多いです。年齢層は揚げ物に関しては幅広い年齢のお客様に買っていただいてるのと、意外と男性客が多いですね。お肉の販売はご年配のお客様が多いという印象です。

―今や地域になくてはならない存在の池田精肉店さんですが、お店の特徴、強みは何ですか?
政恵さん)やはりそれはもう、祖父が作り上げたコロッケですね。肉屋さんがコロッケなどを販売するのは、仕入れたお肉に商品として使える部分とそうでない部分(提供可否)があって、その提供できない部分をコロッケとかミンチカツの材料として使えるからでもあるんです。ありがたいことに祖父が作ったコロッケは当店の名物みたいに皆さんに愛され、お買い求めいただき続けてるのはほんとに嬉しいですね。

―その大人気の「コロッケ」はいつ頃から始めたんですか?
輝生さん)おじいさんがこっち(現店舗)に来た時から始めたと思うけど、いつ頃この店に移ったんかな。
お母さん)昭和15年にこの店に移ったと思うよ。
輝生さん)あー、じゃあコロッケはもう80年以上前からや。
政恵さん)そんな前??その時代にフライヤーとかなかったでしょう?笑
輝生さん)そっか、違うか・・・うん?いや、お鍋とかで揚げてたんちゃう?辻さん(90代のお知り合い)が10代の後半にお店に来たときにはもうコロッケやってたって言ってたもん。それくらいの年代のおじいちゃんやおばあちゃんに聞かないとわからなくてね笑

―1日どれくらいの数を作られるんですか?
輝生さん)数というよりかね、ちょっとこっち来てみて。お芋さんを洗って皮をむく作業をこの機械がやってくれて、その後この釜でお芋さんを炊くんだけど、この釜に入る分の芋をつぶしてコロッケにしてるから何個っていうカウントしてないねん。この釜、一釜分、だいたいね、キロでいうと20キロくらいかな。

 

 

 

 

 

 

 

―20キロ・・・。ちょっとピンとこないです笑
輝生さん)そうだよね。で、結構知られてないのが毎日その日の分「手作り」してるってこと。逆に言えば、手作りじゃないと思ってる方が意外と多い・・・。

―え?
輝生さん)
冷凍のままちょうだいって言われたりするんで、ほら、スーパーとかで売ってるあんな状態で置いていると思ってる方もいるみたいで。

―いや、めちゃめちゃ手作りですよね。毎朝お芋を洗って皮をむいて茹でて・・・、それから・・・
輝生さん)つぶしてお肉と混ぜて味付けして、成型して冷まして衣つけて揚げて袋に入れて売る・・・80円。どう?笑

―すべて手作りでそのお値段!私達は嬉しい限りですが・・・
政恵さん)まぁね・・・。コロッケっていうのは市場的にはやっぱり庶民的?っていう感覚があるからそんなもんかなと思うですけどね。最近、芋も高いんですけどね笑 昔はスーパーでも一袋100円とかだったのに今そんな値段でないしょ?笑

―そうですよね!何もかも値上がりしてて。
輝生さん)油も3倍くらいになってるもん。
政恵さん)そうやねー。

―揚げる油も何か特定のものを使用されてるんですか?
輝生さん)うちはラードで揚げてる。

―家庭ではサラダ油が一般的かと思うのですが、ラードで揚げるとどう違うんですか?
輝生さん)揚がり方。サラダ油かヘッド(牛)かラード(豚)で同じものを揚げても仕上がりが全然違うやん?

―そ、そうなんですか?
輝生さん)サラダ油で揚げると時間経つとべちゃっとならへん?

―なりますなります。
輝生さん)ラードはなれへんねん。カラッとしてるねん。それを考えてラードにしたんだと思う。

―ラードで揚げるっていうのも祖父様の時代から?
政恵さん)そうです。それにサラダ油だと酸化するから捨てないといけないですけど、ラードとかヘッドはずっと継ぎ足しで使っていけるんです。

―重要な味付けは昔から受け継いだものなんですよね。
政恵さん)そうです。
輝生さん)極秘で。味付けはもうここ(政恵さんとお母さん)しか知らん笑。俺知らんもん笑
政恵さん)笑笑 まぁまぁまぁ・・・笑
輝生さん)一子相伝やで。
政恵さん)たまに味変わったなとか、ちっさなったなーとか言われることあるんですけど、「いや変わってないです!」って笑 昔から同じ型使って成型してますしね。お店によっては材料にマッシュポテト(つぶした状態のもの)を使うところがあるんですが、うちは先ほどからお話したように芋からなのでそこはやっぱり絶対にこだわって作ってると言いたいところですね。
輝生さん)芋は湯がくより、皮むきが大変。やったことある?笑

―ありますよー笑 いちおうこれでも主婦のハシクレなんで笑
輝生さん)めっちゃ大変やろ?皮むくの?

―はい。ま、ピーラーを使いますが笑
輝生さん)うちは機械でむくんやけどな、大変。

―お芋の種類は?
政恵さん)男爵です。
輝生さん)基本は北海道のお芋さん。春先から夏前の北海道の芋がなくなる2~3ケ月だけ別の新じゃがを使うけど、基本は北海道男爵。
政恵さん)重さもずっしりあって、甘味も味もしっかりしてて、ほくほくしてます。

―コロッケ作りで大切にしていることは何ですか?
輝生さん)毎日作ってるってこと。作り置きをせず毎日全部手作り。従業員さんたちは手がすいたら串カツ作ったり、ハムを切ったり。衣をつけたまま長時間置かないようにしてる。じゃないと衣が水分吸ってしまって揚げると真っ黒になるから。

―今日はコロッケ足りなくなった・・・って時は?
輝生さん)閉店・・・?笑
政恵さん)一日一釜(湯がく)って決めてるんで、もうそれ以上は作らないですね。ただお盆とか年末など帰省で皆が帰ってくる時期は2回炊いたりしますね。

 

池田精肉店広報担当

―2022年にLINE公式アカウントを開設されてますが、その経緯は?
政恵さん)どうやったかな?
輝生さん)電話かかってきて、今無料でこういうのできますけどどうですか?ってやり始めた。
奥さん)??・・・いやいやいやいや・・・ちゃうちゃうちゃう
輝生さん)そうだって。
政恵さん)違う・・・私、調べてん。自分で。無料でそういうサイト作られへんかなって。注文の予約をスムーズにできるサイト作れないかなって色々見てたら無料でできるサイトを見つけて。そこからLINEと連携できる事が分かって自分で全部やったもん。そんなん向こうからしませんかって電話かかってきてないで。
輝生さん)え!? ほんまに?

―まぁまぁまぁまぁ笑・・・ではもしかしてインスタグラムの投稿も・・・?
政恵さん)全部、私笑 誰もやってくれないもん笑

―投稿ネタの感じから、てっきり息子さんか誰かがされてると・・・笑
政恵さん)それよく言われます。だいぶしんどいんですよ、ネタ考えるのが笑 だからネタが尽きたら投稿ストップ笑
輝生さん)息子は息子で忙しいんでねー。
政恵さん)私も忙しいねん。だから家帰ってからやってるねん。

―まぁまぁまぁ笑  実際LINEでの注文はどうですか?お友達登録が1000名突破されてますよね。
政恵さん)はい、ありがとうございます。お客様も、LINEで注文するのが楽と言ってくださいます。こちらとしても電話での聞き間違いの解消や、時間の短縮もできてよかったです。

―インスタ投稿主が政恵さんだと判明したところでもう一点気になってたんですが・・・。以前、店舗前にマスク姿のかわいいぬいぐるみを見ましたが。あれは?
政恵さん)私。笑 コロナ禍にただアルコール消毒をボンと置くだけだと何か冷たい感じがするから、何かこう・・・、なめこちゃん(ぬいぐるみのキャラクター)
にマスクさせて、「ま、アルコール消毒やってちょうだいよ♪」みたいなね笑 うちの娘が持ってたぬいぐるみがあったんで。その頃はマスクさせてたから何か可愛かってんけど、マスク外してそのまま置くと何?って感じやから、その後、冬はニット帽被せてみたり?WBCのときはユニフォーム着せてみたり?しててんけどね。

―不二家のペコちゃんみたいな感じで?笑
政恵さん)違う違う

―今日は居なかったですけど?
政恵さん)ネタ切れ。笑

―そういう演出も全部政恵さんがされてたとは。ただただ驚きです笑
政恵さん)そうですよー全部私ー!笑

俺は「池田」で

―定休日は日曜日のみですね。池田精肉店さんにとっての貴重な休日は何されてますか?
政恵さん)ほんまにバッタバタです。週1回の休みやからちょっとゆっくりしてから・・じゃない。動かんと損!?て感じで買い物行って、喫茶店行ったり、それでまた何かして・・・。それはもう息子も同じで毎週日曜日、空いてる時ないですもん。山行ったり、海行ったり。旦那もテニス行ったり、みんなそれぞれです。

―息子さんが継いでくださるのは頼もしいですね。
政恵さん)はい、もうそれはありがたいことに。小学校のときから言うてましたよ。「俺はもう”池田で”」って笑

―何か今後とりいれてみたいこと、やってみたいことはありますか?
政恵さん)働き手もだんだん少なくなってきてるから、仮に大きくしようと思っても、無理がありますよね。今、海外の方を雇用されてるところ増えてきてるじゃないですか。そういう風にできるんであれば考えていけるかもしれないですけど、いまのところ家族経営プラス来てもらってる従業員さんのキャパでやっていける範囲でなので、まだちょっとわからないですね。

―お店は新町通りや大川橋も近く、付近でのいろんな行事や時代の移り変わりを目にしてきたかと思いますが、五條市についてどのように感じますか?
政恵さん)子供の頃は、新町通りもただの古い街並みっていうだけで特に何も思いませんでしたが、今は道も綺麗に整備されて、古民家を再生したお店とかも増えてきましたよね。観光客も少しずつ増え、そういった感じでこれからもお店や観光客が増えていけばいいなと思います。駐車場の整備などは取り組んでほしいですね。でも若い世代がいなくなってしまって、何かこう、若い世代が働いていける企業や工場の誘致とか、大学とかができれば違うんでしょうけど、五條にいてても・・・て、みんな出ていっちゃうじゃないですか実際。
中央公園には市外からも子供連れが大勢遊びに来るようで、帰りにお店に寄って買って帰ってくれます。そういう公園があるのはいいなと思いますね。やっぱり人が集まるようなものがないとってことですよね。

―輝生さん、政恵さん、お母さん、本日はありがとうございました。

住  所 五條市五條1丁目9-23
電話番号 0747-22-2437
営業時間 9:30~18:45
定 休 日 日曜日・臨時休業

 


☆スタッフHのすぽっとwrite☆

家でコロッケを作ったことありません。
冷凍を揚げても大失敗。なのでワタクシ、主婦のハシクレは今後も家でコロッケを作る気も揚げる気もありません笑。だってあんなに美味しい「てづくりコロッケ・ハムカツ・串カツ・・・」が池田さんにあるんですから。

お忙しい中、つたない取材に快くお応えいただき楽しいひとときでした。なのでワタクシ、インタビュアーのハシクレは、この記事を通してお店やコロッケのこと、そしてSNSやなめこちゃんディスプレイはぜーーんぶ、政恵さん発信なんだということを少しでも多くの皆様に知ってもらえたら嬉しいです笑。

店先の“幸せコロッケ香”に包まれ出迎えてくれたあのなめこちゃんにまた会えるのを楽しみにしています♪

 

第75回 カフェ新町ミント 松山幸藏さん 松山明美さん

きっかけはリノベーション
そこから始まり広がる新たな楽しさ

 

猛暑日が続く8月、新町通りでお店を始めたという「ミント」さんを取材。お店の軒先に吊られた風鈴が少しだけ暑さと緊張を和らげてくれました。暖簾をくぐると店内は開放感と趣ある素敵な空間。心地よい音楽が流れる中、出迎えてくださった店主の松山幸藏さんと奥様の明美さんにインタビューさせていただきました。

カウンターを置いてみたら

―こちらのお店はいつオープンされたんですか?
松山幸藏さん 以下 幸藏さん)去年の8月2日です。

―8月2日、今日?!、本日1周年ってことですか?!
幸藏さん)はい、そうです。

―おめでとうございます。
幸藏さん)ありがとうございます。

―現在、日曜日のみの営業ということですが、今日(水曜日)はわざわざお店を開けていただきありがとうございます。
幸藏さん)いえいえ。オープンから2か月ほどは私の仕事が休みの水曜と日曜にお店を開けてたんですが、そうすると、他の用事ができないんでね、例えば病院へ行ったりとか・・・。それで日曜日だけにしようってことになったんです。

―お仕事とおっしゃいますと?
幸藏さん)週5日、大阪の輸入車のディーラーさんへ回送係の仕事に行っています。
お客様の車を車検や修理のために引き取りに行って、工場へ持って行って、修理、点検が終わるとまたお客様のところへお届けする係です。京都や大阪、いろいろな地域へ行きます。

―長年そのお仕事をされてらっしゃるんですか?
幸藏さん)いえ、以前は輸入車メーカーで整備士として働いてたんですが、2009年に会社がこう・・・、パタッとなりまして。そこで、今の会社が回送係を募集していたので、派遣会社を通じて行かせてもらうようになりました。

―お勤めをされながらお店を始めることになった経緯を聞かせてください。
幸藏さん)この建屋がボロボロで雨漏りもしていて、もしこの先、台風や地震

があったときの事を考えると、子供達に負担がかかると思いリノベーションすることにしたんです。工務店の方と打ち合わせをして、とりあえず二階部分をなくして吹き抜けにしようということでご覧の様にどーんと吹き抜けにして。で、そのあと、このスペースを(現在のカウンター付近)どうしようか・・・ってときに、工務店さんから「ちょっとカウンターとかキッチンなんかを置いてもいいんじゃないですかね」って言われて。で、私も、まぁそんなんあってもえーかなくらいの気持ちで進めていったんです。

―喫茶店をしようと思ってリノベした訳ではなかったということですね。
幸藏さん)全く、そんなつもりはなかったんです。何かしたいなって言うのは多少はありましたけど、そんな強くは思ってなくて、車とかバイクが好きなんでそういうのをここでいじれたら・・・とか、そういうぼやっとしたイメージはありました。私の「何かしたい」構想と、工務店さんの「何かした方がいいですよ」が合わさっていったんですかね。でも実際カウンターと流しが入ると、あ、ここでコーヒー飲めて、好きなジャズも聞ける。なかなかいいなと思ったんですよ。で、こんなかたちになりました。

開店までの道のり

―構想が固まってからのスケジュールは?
幸藏さん)一昨年(2021年)12月に工事が始まって翌年4月に完成。そこから色々準備をして、7月に知り合いや親戚をよんでプレオープン。8月に正式に・・・といっても告知等は一切せずこそっとオープンしました笑  工事が終ってからの準備がね、結構大変で、全くの素人だったので何かを選ぶにしてもどれを選んでいいのか、どういう感じでいったらいいのか・・・。でもその後たまたま行った家具屋さんや電気屋さんで何かいい感じのものがあったので、これえぇやん、これもええやんって感じでとんとんと決まって揃えました。
コーヒーのマシンとかはね、もともと家にあったやつです。うち親戚も多くてお客様もたくさん来るんで、普段からよくコーヒーはいれてたんです。

―オープン当初の思い出は?
幸藏さん)やっぱり緊張しました。お客様が来られたらまず水とおしぼりを出して、動線をどうしてとか、豆をどうしてとかね。オープンの告知もしてなかったですし、通りがかりの人が気付いて入ってきてくれるって感じで、メニューもコーヒー、紅茶、コーラくらいに絞って何とかやれてたって感じでした。

―1年経った今、いかがですか?
幸藏さん)ま、ぼちぼちって感じです。常連さんもちょっとずつ増えてきました。車関係の仕事のお客さん、あと、毎朝の通勤で知り合った方がいて、こんなん(店)しますねんって言ったら来てくれたり、観光客の方も入ってくれるようになりました。

―手作りのケーキは、営業日の前日にご準備されるんですか?
松山明美さん 以下明美さん)土曜の晩から寝やんと焼きます。夜から作り始めて5~6種類くらいかな。

―寝やんと?! 5~6種類?! でもメニューにはケーキが載ってないですね?
幸藏さん)1年間はお試しで様子みてみよってことで、ドリンク注文のお客様にはケーキをいくつか無償でお出ししてたんです。
明美さん)そう、お試し中なんで。喜んでもらえたらそれでいいの。「いいんですか?!」ってびっくりされたりしますけど笑

―はい、私もびっくりしてます笑 奥様は昔からケーキ作りをよくされてたんですか?
明美さん)はい、昔から食べるのも作るのも好きで笑 だからほんとはもっと若い時にお店をしたかったんですけど、この歳になって、これからゆっくりしようって思てたときにお店することになって・・・笑。それもコーヒーなんていれたことないお父さんがお店するって言うんやもん笑。でも何かお手伝いできるかなと思ってね。

―ご主人・・・、コーヒーいれたことなかったんですか?笑
幸藏さん)ないです笑 店するまでは仕事から帰ってきてご飯食べてお酒飲んで、しばらくしたら奥さんに「コーヒーいれて」って。しばらくしたら「何か甘いもんない?」って。そう・・・私「何もしない人」やったんです笑

―そのご主人が今は喫茶のマスター!
明美さん)そうそう笑
幸藏さん)コーヒー屋さんのHPやYouTubeを見て、豆の量、湯の量、温度、蒸らす時間等を研究して試行錯誤を繰り返し・・・の末、結構味にうるさい息子達も美味しいと言ってくれたんで、ま、何とかいけてるのかなと笑

―息子さん達はお店を始めるにあたってどのように?
幸藏さん)「ちゃんとやらなあかんで」って笑。もう、何かすごい怒られました笑 「何をどうして、どうするのか、ちゃんと決めたんか?」「ほんまに、ちゃんとできるんか?」と笑。ま、それまで何もしたことない・・・、飲食に関わる仕事なんてもちろん、それこそコーヒーなんていれたことない人間が急にそんなことできるのかって事だったんでしょうね。

―今、美味しいコーヒー、いただいております笑
幸藏さん)ありがとうございます笑。

バイク、ケーキ、あいみょん。

―奥様はケーキ作り、ご主人は車やバイク、ジャズがお好きとのことですが、「スイーツ」に関してはご夫婦で色々お店巡りをされてるそうですね。
明美さん)そうですね、ケーキ屋、パン屋巡りは結構しますね。私達、案外、食の好みが合うんですよ。嫌いな食べものも一緒やし、昔は信州までお蕎麦を食べに行ったりとかもしてたのよ。お父さんが車でどこへでも連れてってくれるからほんま嬉しい。
幸藏さん)車の運転は好きなんで、どこでも行きます。
明美さん)三田にスイーツの街があるんです。ケーキだけじゃなく、チョコレート専門店とかアイスの専門店とかいろんなお店が一帯にあって一日遊べそうな街。 そこへも朝早くから出かけて、並んでジェラート食べたり、子供に買って帰ったり、お父さんもほんまスイーツ好き。仕事のお昼休みにも色々買いに行って写真載せてるみたいで、それ(SNS)を見た友達が「幸藏さん、また何か買って食べてるで」って教えてくれるんです笑

―大阪だとたくさんお店もありますもんね?
幸藏さん)そうですね。今の職場のある大阪西区エリアも美味しいケーキ屋さんの激戦区で、よく昼休みに自転車で買いに行くんですよ。そのときディーラーのジャンパー着てるからお店の人がすぐ顔覚えてくれて笑。今から10年くらい前に、扇町のフランス菓子のお店に感動したのがきっかけで、それまでちょこちょこ買いに行く程度だったのが食べログとかで調べていろんなお店に頻繁に行くようになったんです。

―ジャズについては?
幸藏さん)ジャズはもうずっと昔から聞いてて。お店するにあたって何度も日本橋に行ってスピーカーを決めてきました。これはJBLっていうジャズにマッチしたアメリカのスピーカー。あと私の好きなアーティストのポスターを取り寄せて飾ったりしてここは、ま、私の趣味的なスペースでもある訳です。だから家に帰って食事を終えたらもうここに来て、コーヒーやお酒を飲みながらゆっくりジャズを聞きます。あと、中島みゆき、あいみょん

―あいみょんも聞くんですね!?
幸藏さん)聞きます聞きます。もう1個の方のスピーカーで聞くとね、ほんと、あいみょんがその場で歌ってるかのように聞こえるんですよ。初めてYouTubeであいみょんを聞いた時からこの子すごいなーって思ってて、そしたらその後ドーンと売れて笑

―食後もここに来て・・・。この場所を楽しんでらっしゃるんですね。
幸藏さん)はい。そこがいちばん大きいです笑 自分が楽しめてるこの場所に、お客さんが来てくれて、音楽とか、車、バイク、スイーツの話をできるのがとても楽しいです。このお店のこれが美味しいよとか、パンでも総菜系やハード系いろいろありますし、お酒だったら奈良の日本酒も色々飲んだので、お話できるかなと。教えてあげられること、逆に私もお客さんから教えてもらえることがうれしいんです。

―行く行くは平日のオープンもお考えですか?
幸藏さん)そうですね、私ももうすぐ70歳になるんで体力、視力、運転の技術の問題もでてきます。お客様の大切なお車、さらに輸入車は500~600万、中には1000万する車もありますからね。年々、より慎重に運転することを心掛けていますが、ディーラーさん側の判断もありますし、いつまで契約してもらえるのか、あるいは出勤日数を減らしてもらえるかなど相談していこうと思っています。少し余裕ができてきたら、だんだんこっちがメインになってお店開ける日も増やせるかと思います。

次は釜めし?クラフトビール?

―新町ミントという店名の由来は?
幸藏さん)店名は何がいいかっていろいろまぁ、家族会議で相談して・・・。で、私、虫が嫌いなんですよ。大阪って虫あんまりいないでしょ、こっちきたら、すぐそこが河原で、蚊、蜂、いろいろいてて。今はさすがに少しは慣れましたけどね。で、そこから、ミントって虫除けになるなっていうの新町通りで「新町ミント」。
あと、ミントってお菓子にも使うでしょ、奥さんもミントのケーキを作りますし、飾りにも使ってますので。

―「虫除け」の意味が含まれてたとは笑 五條市は自然豊かですからね、虫もたくさんいます笑
幸藏さん)私は元々大阪の人間でここには養子で来させてもらったんです。ずっと会社と家の往復で朝早く出て夜遅く帰ってくる生活が長かったですから、五條のことは最近ようやく色々分かって来た感じなんです。

―これからお店で取り入れたいことや考案中のものはありますか?
幸藏さん)かき氷ありますか?って来てくれるんで、それも考えようかなと。あと、ランチ的なものができればいいですね。

―ランチ、ぜひ♪ 奥様お料理好きとのことですし。
明美さん)いや~そんなん無理やわ~笑 主人が仕事辞めて完全にここってなったらまたそのとき考えよかな~。
幸藏さん)前に釜めしとか天ぷらとかだし巻とか色々作って親戚に食べてもらったりはしたんですよ。お試しで。

―釜めし、だし巻・・・ご主人、日本酒も色々ご存知とのことですし、奥様のお料理でお酒も進むのではないですか?
幸藏さん)はい。でも手術してからは控え目で・・・。私3年前に大病してね、それからいろんなことをぼちぼちしょうかなって考えになったんです。
明美さん)そう、病気してね。10キロくらい痩せたよね?お父さん、ここ(五條)に来てくれて今まで一生懸命、頑張ってくれたから、これからの人生は自分の好きなことしてくれたらいいと思ってね。
幸藏さん)病気してへんかったらこんなんしてへんだかもね笑
明美さん)
バイクで走り回ってたんちゃう?笑
幸藏さん)そうやな~
。休みならツーリングとか?
明美さん)偶然かもしれないけど、車好き、音楽好きな人が来てくれたり、あと今度カフェを始めたいって方が来てくれたことがあって、とっても話が弾んでお父さんも喜んでるのを見ると嬉しくて。だから私はちょっと出てきてお手伝いさせてもらってるだけ。
幸藏さん)今、クラフトビール巡りも楽しみのひとつで。私に資金力があったらねぇ、新町でクラフトビールのお店もしたいんですけど・・・笑

―ぜひ、クラフトビールのお店してください!その時はまた取材に来ます!笑
幸藏さん)そんなん無理無理~

―五條市についてどういったことを感じますか?
幸藏さん)大阪から最初来たときはなんて静かなとこなんだと。 風景や街並みも綺麗で大阪のガヤガヤが当たり前だった私にとっては静かだなーという印象でした。
明美さん)私はずっと暮らしてきたからそんなんも当たり前に思ってた。交通の便が不便やなと思ってましたけど。
幸藏さん)私が五條に来た頃は、まだ電車の本数も結構あったけど、今はかなり減ってるでしょ。
明美さん)雨とか風でよく電車停まってるでしょう?あれは困るよね、通勤、通学の人が難儀してるもん。そういうの改善策考えてあげてほしいよね。
幸藏さん)交通の便ね・・・ま、不便だからこそ、この風景が保ててるかもしれないですしね。大阪はやっぱり雑踏の中という感じですからね。今はアマゾンとか楽天でどこに居ても何でも買える時代だし、住むにはこういう街がいいかもしれませんね。

―幸藏さん、明美さん、本日はありがとうございました。

喫茶 新町ミント
  住      所 〒637-0043
奈良県五條市新町1丁目11-6
  営   業   日  日曜日
  営 業 時 間 10:00~17:00
  駐 車 場

☆スタッフHのすぽっとwrite☆

「お試し中なんで・・・。」そういって出してくださったケーキはどれも本格的。
なかでも初めて食べたミントのケーキが美味しくて印象に残りました。
美味しいコーヒーとケーキをいただきながら教えてもらったスイーツ、パン、お食事、たこ焼き・・・の美味しいお店など、おふたりのその情報量といったらほんとにすごくて、取材後もペンが走る走る笑 いや~お腹も心も情報も満たされました。

これから私も忙しくなりそうです。教えてもらったお店、「お試し」に行かないと♪

 

 

第69回 Cafeことほぎ 桝田小百合さん 園田ひとみさん 森本早苗さん

ここが「繋がり」の場所であれる幸せ お客様も私達も

重伝建五條新町通りの起業家支援施設「大野屋」で前身の「町家カフェゆるり」を引き継ぎ再スタートした「caféことほぎ」。古民家を改装したお店は重厚で風格ある外観、梁や柱、また格子戸越しに入る光、見える眺め等、日本の伝統的な美しさがあふれている。そんなカフェを日替わりで?営業する3名の女性スタッフにインタビューさせていただきました。

 

来てみたらここでした

―「町家カフェ ゆるり」を引き継がれた経緯について聞かせてください
園田ひとみさん 以下 園田さん)「ゆるり」は社会福祉法人正和会が営業していました。5年間営業させてもらったんですが、正和会の本業の方が忙しくなってきたということもあり一旦5年という区切りで撤退しましょうということになりました。私達は正和会の「カフェ担当」で「ゆるり」の時からのスタッフだったんですが、撤退すると聞いてとても残念に思いました。顔馴染みのお客様もいてくださいましたし、ここがまた空き家(空きスペース)になってしまうな・・・って。そこで3人で話合って、正和会から離れて自分達だけでやってみようかということになり、正和会に相談し承諾いただきました。それで店名を「ことほぎ」と変えさせてもらって再スタートしました。

―では皆さんはもともと正和会の職員さんだったんですか?
桝田小百合さん 以下 桝田さん)いえ、私はハローワークで「カフェのスタッフ募集」という求人を見て応募したんです。そこで正和会というお名前を見たものの、正和会さん自身がカフェを始めるとか、場所がここだとも思ってなくて、多分、正和会の施設内にカフェがあって、そこで働くのかなって思ってて。それで来てみたらここで働くんだって分かって笑。

園田さん)
私もそんな感じだったような・・・笑。

ーでは、皆さんは「ゆるり」のスタッフ募集がきっかけでお知り合いになったんですね。以前からカフェのお仕事に興味があったんですか?
桝田さん)そうですね、みんな接客業の経験があるので。

―ゆるりのスタッフとして働き始めて、当時どんなことを感じましたか?
園田さん)あ、こういう形(起業家支援施設内での営業)の経営なんだと分かりました。今までの経験のあるカフェとは違って、色々制約がある(カフェスペースで提供できるメニューの制限、営業日が決まっている等)ことがわかりました。その中でも自分の今までの経験を生かしてお仕事させてもらおうと思いました。

―前身の「ゆるり」と現在の「ことほぎ」、何か違いはありますか?
皆さん)そんなに大きな違いはないですね。

園田さん)
自由にできる部分があることですね。今までは五條市の規約の中のさらに正和会の規約の中での営業でしたが、今は例えば、自分が今日はこのメニューにしようと思えばそれができるとか。それ以外は特に違いはなくて、だからこそといいますか「ゆるり」時代のお客様が引き続き来てくださるのでそれがとても有難いですね。「ゆるり」を始めた頃は観光客を含めそんなにお客様も来てくれなかったんですが、5年間でこのお店のことを知っていただけて徐々にお客様が増えてきました。「ゆるり」の5年間があったからです。名前は変わりましたが、以前と変わらずお馴染みのスタッフが引き続きお待ちしていますので・・・とお客様には伝えています。 

―「ことほぎ」という店名の由来は?
園田さん)3人で候補を出し合い、ずらっと並べた名前をいくつかに絞りました。その中で「ことほぎ」という言葉は「寿ぐ(ことほぐ)」というおめでたい言葉だし、響きも良いなと。おめでたい言葉で少しでも新町通りの活性化につながればってことで「ことほぎ」に決めました。

 

2つの顔

―ことほぎは「日によって店主が替わり、「meguruめぐる」と「musubiむすび」2つの顔をもつcafé」だとうかがいました。そのあたりについて聞かせてください。
桝田さん)「ことほぎ」として再スタートするにあたって、それぞれの両立していく仕事や家庭の事情を考えるとここの規約通りに(定休日(月曜日)以外は必ず開店)お店の営業を続ける自信がなかったんですよね。私は家が農園なのでその仕事と、このカフェの仕事、そして介護などもありますし・・・

森本早苗さん 以下森本さん)
私はお二人のサポートという形で働かせてもらっています。

桝田さん)
それぞれの事情を踏まえると、二人で交替制にすれば無理なく営業を続けられるんじゃないかってことで。でもどうしても無理な時は森本さんがサポートしてくれるので、3人で協力してこのスタイルでやっています。それと、それぞれがちょっと違ったメニューを出したいとか、多分そこも分かれてくると思ったので、お互いを高め合うため、また経営上や食材の管理等、別々にした方がやりやすいんじゃないかってことでこのスタイルにしました。

森本さん)お二人が急用でお店に出られないときのサポートというかたちでお手伝いさせてもらってるんですが、私はケーキ等を作る方の経験はないので、下準備しておいてくれたケーキにトッピングをしたり、飲み物を作ってお出ししたりしています。今日は桝田さん、園田さんいるかなと思ってお越しいただいた方には申し訳ないんですけどね。

―3人でフォローしあって営業されてるんですね。
桝田さん)そうですね。個人経営ではなく市の規約のもとの営業ということで、ここで一緒に働きそのあたりを理解、共有している私達で一緒にお店をやっていきませんかってとこからスタートしたので、互いにフォローしあえてるかなと思います。

―「musubiむすび」「meguruめぐる」のそれぞれの特徴や思いを聞かせてください。
桝田さん(musubiむすび)家業が柿・梅農家なのでそれを使ったものでいきたいなと思っています。ただ、柿、梅の時期は家業も当然収穫で一番忙しい時期なのでそこがネックでして・・・。
五條市の方って柿は生で食べるのがいちばんって思ってる方、多いと思うんです。五條市でも柿をメインにしたケーキや、スイーツを出されてるとこってあまりないんです。お店に来てくださる方には「ここら辺に柿売ってるとこないの?」って結構聞かれるんです。例えば駅からここまでの道中にはその案内をできるところがないので選果場を案内するんですが、そしたら選果場へ行った帰りにここへ寄って柿をつかったスイーツを食べてくれるんですよね。「柿を使ったものを食べれるお店がないのよ」って言われて、あ、それやったらここでそれをお出しして、その美味しさを分かってもらえるのがいちばんいいなぁって思って。五條市の人をはじめ多くの人に柿ってこうやって食べたら美味しいんだよってことを知ってもらいたいですし、五條市の活性化には柿をもっと宣伝したらいいんじゃないかと思っています。柿は割とご年配の方が好まれるので、若者にももっと知ってほしいなって思いますね。

―例えばどんな食べ方があるんですか?
桝田さん)生で食べるにしても、ヨーグルトに入れたりされる方はいらっしゃるかもしれないですけど、例えば、柿はクリームチーズとすごく相性がいいですし、あと、ここでは柿プリンや柿スムージーもお出ししています。生で食べるにしてもパフェにしてお出しするなど、五條の方にも知ってほしい美味しい食べ方を発信していきたいと思っています。

園田さん(meguruめぐる)私は柿や梅を桝田さんのところから分けてもらって、それをアレンジしたものをお出ししていますが、どうしてもよく似たものになってしまいます。ですので私は五條市で獲れる美味しいイチゴや桃、マスカットや梨といった果物を使ってちょっと違うものもやってみようと思っています。あと、栗なども取り入れたものも考案中です。桝田さんの「musubiむすび」とは違う特色をあえて出していきたいな・・・と思っています。

ー最近、モンブランなども話題になってますよね。ぜひ、栗を使ったスイーツも考案してほしいです。
桝田さん)柿農家の私は、廃棄されるような柿がいちばん美味しいと思っています。少し傷があるものはそこから甘味が増しますし、既に赤く色づき今から市場に出せない柿はその時が一番甘味みのピークだったりします。五條市の人は柿を袋や箱にいっぱいもらえたりってことも普通にあるので、それで十分って思ってしまうのかもしれません。広報で柿のスイーツを紹介させてもらってますが、どれだけの方に興味を持ってもらえてるんかなって思います。難しいですね。柿を五條市に発信したいのか、五條市以外の方に発信したいのか・・・、そこが揺れるところです。

園田さん)柿が大好きで毎年、柿の季節になると大阪からお越しになるリピーターさんもいらっしゃいますし、若い方でも柿が好きって言ってくださる方もいますけどね。やはり市外、県外から来ていただく方が多いです。

―定番のシフォンケーキの他に夏はかき氷も人気だったそうですね。
園田さん)奈良市の方でかき氷がブームになってきてましたし、年々夏の暑さが増してきたのもあってかき氷を始めました。シロップにこだわって特色を出していこうということで、柿、梅のほかに苺や桃のシロップを手作りし、徐々に種類を増やしていきました。すもものシロップもできて好評いただきました。

―柿や梅、すもものシロップのかき氷なんて、食べたことないです。よくある夏祭りとかのかき氷とは違うんですね。
桝田さん)そうですね。できたら五條産、できなくても奈良県産でいきたいというのがこだわりです。とっても美味しいのに廃棄されてしまう果実も、シロップ等、違ったかたちに加工することでまた美味しく食べていただくことができるので。

 

 ほっとする場所、ドキドキする場所

―日々の営業で感じることや、印象に残っていることなどはありますか
桝田さん)リピーターの方、ご近所のお年寄りの方がここでコーヒーを飲んでくれるとき、多分ホッとしに来てくれてるんだなって感じるんです。コロナでなかなか人と会えないとか、いろんな行事が中止になってるじゃないですか・・・。なので、ここに近所の人が集まって近況報告とか世間話とかしてるのを見るととても嬉しいんです。また、最近新町通りに新しくチョコレート屋さんができたり、ゲストハウスもできて人との繋がりをここでしてくれることが増えたんですよね。ここがあってよかったわ、ここでちょっとコーヒーが飲めてよかったわって言ってくださって、そういう人と人が繋がる場所として使ってもらえてるのが嬉しいです。

園田さん)先日、ご近所の方々が来られて「ここやったら感染対策ちゃんとしてるから安心やな」「近所の人と話するのってやっぱり楽しいな」「こうして1ケ月に1回集まれたら」「久しぶりにこんな感じで過ごせたわ」ってお話されてて。皆さん長引くコロナに飽きてしまってるんでしょうね。じっとしていることに我慢も限界なのかなって。ちょっとお出かけしたい、でも不安、あまり遠くにも行けない・・って感じですね。ここで集まって話ができたことにあんなに喜んでもらえるんなら、そういう場所としてこれからも使ってもらえたらなって思いました。

ー人との繋がりの大切さ、人と会える嬉しさを皆さん感じてるんですね。ご近所さんにとっても「ことほぎ」がほっとする場所として存在してる様子がわかります。園田さん)あと、観光客の方が、シフォンケーキやかき氷、柿ぷりんをお出しすると「わぁー!大きい!」とか「わぁー!かわいい!」って写真を撮って、インスタに投稿してくれたりするんです。そういった反応がとても嬉しいです。

森本さん)私は五條市で生まれ育ちましたが、今まで新町通りを通ることってなかったんですよね。それがここでお勤めさせてもらうようになって、あ、新町通りって久しぶり、あ、そういえば幼稚園の頃のお友達、この通りのこのおうちの・・・って色々思い出して、そういうのが個人的にはすごく懐かしいっていうのがありました。あと、趣味で日本中の重伝建を周ってらっしゃるご夫婦がお見えになって、「すごくいいですね」ってこの新町通りや五條市を褒めてくださるんです。私からすると、正直、すっかり錆びれてしまった・・・と思っていた場所を「いや、そこがいいんです。他の重伝建は観光地化されて、いろんなお店もあるんだけど、ここは静かに生活されてるそのままの様子がいいんです」って言ってくださって。自分の今までの間隔とは真逆の感じ方をされるそのご夫婦に、地元の者が関心なかったことに気づかせてくれた、あらためて地元を見つめるきっかけをいただけたことが印象に残っています。それから休みの日に、昔の通学路を歩いてみたり、路地に入ってみたりすると、”五條いいやん”って思いましたね。観光客の方がインスタにあげてる吉野川の写真を見ると、めちゃめちゃいいとこやんって思って笑

―新町通りはあらためて五條市を見つめる、魅力に気づかされるきっかけとなる場所ですね。
園田さん)2~3か月に1回東京から来てくださるお客様がいらっしゃるんですが、いつもカウンターに座られて、格子越しに外をながめゆったりとここでの時間を過ごしてくださいます。

桝田さん)ちょっと時間ができたら1ケ月に1回来られるときもあります。

―東京からそんな頻度で五條にこられる目的は?
皆さん)ここ、五條なんです。

園田さん)
五條に来たら、必ずここへ寄ってくださいます。五條の事は私達よりよくご存じです。金剛寺のボタンが・・・とか生連寺のてるてる坊主が・・・とか。奈良が大好き、中でも五條が大好きな方なんです。

桝田さん)奈良や五條へのルート、交通手段なんかもすごい熟知されてて、私達が色々教えてもらってるくらいですよ。

森本さん)きっかけは吉野川のこいのぼりだそうです。吉野川でこいのぼりがたくさん泳ぐ写真を見て五條に行きたいと思ったのが最初だそうです。こいのぼりをあげるところを見たかったそうで、あげる日の前日から五條市に泊まって準備されて。ここを拠点にいろいろおでかけもされますが、1~2日は五條でゆったり過ごし、河原や新町通りを歩いたり散策しながらここで休憩してくださるんです。

―こちらには展示スペースや飲食ブースがありますが、そこへ展示や出店される方との繋がりなどは?
桝田さん)いろんな方と知り合えますし、展示等も見れて楽しいですね。先日、初出店の店主さんが来られたんですが、坊主頭で髭を生やした結構体格のいい方で、もう私達最初ドキドキで、どうしようっっ(汗)、ちょっと絡みにくいかも~って思ったんですが笑、その方はその方で、帰り際に「いいんですか、僕たちなんかがここに来ていいんですか?」みたいな感じで笑。

お店は盛況でバタバタした日は私と森本さんもそちらのお店を手伝って笑 最後には色々お話して、売り上げはどうでしたか?て聞くと、「いや、違うんです、僕は人のつながりが楽しいんです。ここに来ていろんな人との繋がれることが楽しいんです」っておっしゃって。ここで出店される方にはそういうことを楽しまれる方もいてるんだなって思いました。私達も刺激、勉強になりましたね。いや、でも毎回最初はほんっとにドキドキで。お互い様子をみながら絡み始めるみたいな笑

園田さん)ここでの出店を終えた後もSNSでお互いフォローし合って、今日はここで出店してますとか近況を教えてくれるので、あ、今日はそこで頑張ってるんやなとか、ここで私達と出店者の方たちとの繋がりもできています。

桝田さん)お店に来られた方にあのスペースは何?って聞かれることもあるので、(チャレンジショップの)説明をすると、一度やってみよかなっておっしゃる方もいらっしゃいます。

歩いてみませんか 

―コロナ禍での引継ぎ、そして今もまだその中での営業かと思いますがそのあたりについてはどう感じてらっしゃいますか?
園田さん)「ゆるり」のとき、コロナ感染予防対策に対して正和会がすぐに反応、対応してくれたんです。検温、消毒をはじめ、ビニールカーテン、サーキュレーター、エアードッグ等の設置、徹底した感染対策のノウハウも教えてくださいました。その厳重な感染対策は、県の「感染防止等を行う飲食店等の認証制度の星三つ」をいただいています。ゆるりを引き継いだときからその感染対策の経験を大いに活かさせてもらっています。これからも正和会が築いてくださった感染対策の評価を維持しながら営業していきたいと思っています。

―何か困っていることはありますか
皆さん)駐車場・・・

園田さん)
お店の少し手前にあるんですが、「大野屋」と表示してるので「ことほぎ」という名前で来てくれる方にはわかりづらく、通り過ぎてから「駐車場どこですか?」って聞かれること、よくあるんです。この通りは一方通行でバックできないので1周まわってきてくださる方もいますが、諦める方もいらっしゃいます。大野屋は他の出店者様もおられて、それぞれの屋号がありますので仕方ないんですけどね。
桝田さん)新町通りにコインパーキングがあればなって思います。そしたら案内しやすいなって。皆さん観光地に出かけたときってお金払ってでも駐車場に車停めて観光しますよね。

―これからどういうお店にしていきたいですか?
桝田さん)皆さんに知ってもらって楽しんでもらえる空間にしたいですね。

園田さん)人と人との繋がりを増やしていけたら・・・その繋がりの場であれたらと思います。規模を大きくしてとかそういう野望は一切ないです笑。新町通りの活性化に少しでもお役にたてたらと思っています。ここはチャレンジショップの場所なので、いつまでも居座る訳にはいかないんですが、いつまでもいさせてもらえるようなお店になれたら嬉しいですね。

園田さん)五條市の方でも新町通りを通るのが初めてとか、滅多に通らないって方多くいらっしゃいます。24号線や京奈和もありここを通る用事がないっておっしゃるんですが・・・もしよければ、用事がなくても一度歩いてみてください。

桝田さん)ここは四季それぞれの風景を楽しめる場所でもあるのでウォーキングをされてる方、堤防沿いを散歩されてる方も、ちょっとこの新町通りをコースに入れてもらえてたら、何か楽しいんじゃないかなって思います。

―皆さん、本日はありがとうございました。

住所 奈良県五條市新町2丁目5-12(大野屋内)
電話 070-3313-9148
営業時間 10時~17時
駐車場 有 新町通り松本燃料店駐車場3台
定休日 毎週月曜日
※musubi・meguru各担当日についてはSNS、お電話等にて確認できます。

☆スタッフHのすぽっとwrite☆

新町通りを通る度、次のインタビューはここにしようと決めていながら、自称引っ込み思案?のため、外から様子をうかがうにとどまっていた私でしたが、インタビューが実現するまでに偶然にもお店へ行くきっかけをいただいたり、ご紹介いただける人との繋がりがありました。そう、私にとっても「ことほぎ」は繋がりの場でした。

インタビュー後は、もう慣れた様子でお茶しに行けるようになったのも、あの何ともいえない落ち着ける店内の雰囲気とスタッフの皆さんの温かさ・・・ことほぎがかもしだす雰囲気であることに他ありません。柿のスイーツも美味しかったですし、また新町通りを歩く機会が増えそうです。「いいやん、五條」♪

 

 

 

第67回 リカーショップいけがみ 池上輝雄さん

取り戻してほしい 活気ある五條市を

お店の前に並ぶ小さな自転車。中に入ると子供達が楽しそうに駄菓子を選ぶ賑やかな声。何だか懐かしい・・・そんな光景を目にしたのは田園の「リカーショップいけがみ」さん。田園という街ができていく頃からお店と共に地域を見守り続けてきた店主の池上輝雄さんに酒屋としての歩みから現在に至るまでのお話しをうかがいました。

実家は酒屋ではなく

―リカーショップいけがみさんはいつオープンしたんですか?
このお店は平成元年にオープンしました。それまでは五條2丁目の商励会通りの裏手のところにお店がありました。

―池上さんは何代目ですか?
私は初代です。

―初代なんですね。ご実家が酒屋さんではなかったんですか?
うちは八百屋やったんです。親父と兄が主に十津川の方に野菜を卸に行っていました。あの頃、ダム建設が始まって毎日多くの作業員が現場で工事をしていたので、その人達のための食堂とか寄宿舎にも野菜を卸すようになりました。

―池上さんも手伝ってたんですか?
そうやねぇ。親父がケガした時・・・、配達帰りに土砂崩れにあって谷へ落ちてしもて。何とか命は助かったもののしばらく仕事なんてできませんでしたので、その間1年くらい配達を手伝いました。

―そのまま、八百屋を継がなかったんですか?
親父も仕事に復帰してまた配達をしていると、こっち(池原)に(店舗ごと)来てくれへんかという話があったみたいで、それで親父から向こうで八百屋しようと思うんやけどお前も一緒に来てくれへんかと言われました。でも私は嫌だ、俺はここ(五條)に残ると言って親父達には付いていきませんでした。それで親父達は池原で八百屋を始め、私はそのまま五條に残りました。

―五條に残ってそこからどうされたんですか?
五條の「中和酒類販売㈱」というお酒の問屋の会社に就職しました。そこの社長と親父が知り合いで、うちの息子つこたってくれへんかな・・・とかそんな話を親父がしてくれたんでしょうね、そのあたりは私も詳しくは覚えてないんですけど。それで、私も八百屋は継がへんし、せっかく親父も頼んでくれたことやし、行かせてもらいますっていうことでその会社に就職しました。

運命の分かれ道

―それが酒屋を始める原点なんですね。
そうですね。でも数年働いた頃、もっと給料が高いタクシーの運転手になろうと思って退職を決めました。それで東京のタクシー会社まで面接に行きましたが、「こっち(東京)の道も知らない者は雇えない」と断られましてね。辞める決意は変わらないもののどうしようか・・・と思ってたとき・・・私が宿直をしていた夜でした。社長がお通夜に出かけた帰りにたまたま会社に立ち寄ったんです。そこで私と顔を合わすと「おまえ、何でうち辞めるねん」て話になって。正直に「今の給料安いから俺タクシー乗るねん・・・」と打ち明けました。色々話をすると社長が「給料安いって言うんやったら、嫁とここで共働きして、ほんでここに住んだらどうや。2人で働いて、家賃もいらんし、それやったらやっていけるんちゃうか?ここに残って頑張ってくれへんか?」って言うてくれて。どないしょう・・・と思いました。辞めるか、ここに残るか、運命の分かれ道ですやん。結局、社長が言うてくれたように嫁も同じ会社で事務の仕事させてもらって・・・。それが始まりです。

―奥様と共に歩んでこられたんですね。
私らは学生の頃からの付き合いで笑。俺から好きってゆーたんかな笑 いや、多分嫁からやわ笑。
昔は10年勤めないと酒類販売の免許って取れなかったんです。小売店でも問屋でも製造元でもとにかく10年の酒類の仕事の経験がないとだめやったんです。それで私も10年勤め、免許をもらいました。ようやく池上酒店としてお酒の販売ができますので、それからは会社勤めと自分の店をかけもちし、会社が終わった後の夜の時間や、土日祝日、正月も休みなしで市内や橋本へ配達・・・そんな生活を数年続けました。

 

―仕事終わってから配達、休みもなしで働いてたなんてすごいですね。
当時はまだ車社会ではなかったですし、ネットショッピングとかディスカウントショップもなかったのでお酒と言えば配達がメインでした。ビールも缶ではなく瓶ビールが24本、木の箱に入っていて運ぶのはなかなかの重労働でしたが、それがあったからうちの商売が成り立ってたといえますね。正月1日からお酢1本配達に行ったこともありますし、とにかくお得意さんを増やそうとコツコツ、コツコツ頑張りました。お得意さんが10件から30件、30件から100件と増えて、300件近くになった頃、池上酒店として何とか食べていけるようになったのでお世話になった中和酒類販売㈱を辞めさせてもらいました。

―「池上酒店」としてスタートした訳ですね。
そうですね。月曜の朝は野原方面、昼からは二見、夜は・・・と予定を組んで配達しました。店の前はとても道が狭く車を回転させる場所もなくてね。だから都度バックで車を入れてお酒を積んだり、下ろしたり・・・そんなんでしたね。
毎日配達を続けていると配達先のお隣さんが、うちにも来てよって言うてくれたり口コミもあって、最終的には1000件くらいお得意さんになっていただきました。
八百屋のときのままだった実家は自分でペンキを塗り、棚を作ってお酒を並べました。いつだったか、近所で大火事が起きて・・・。嫁はまだ小さかった娘をお風呂に入れてる最中で、近所の人が娘を抱いて連れ出してくれたんです。私も何を持って逃げようかと焦りましたが結局何も持たず、狭い道から車を出すのに精いっぱいでした。

―田園に移転したきっかけは?
うちのお隣に住んでた人が大和団地に勤めていて、あるとき、この田園地区の開発の話を聞いたんです。池上さん、土地買いませんか?と。先ほどから話したように店舗前の道が狭いということもありましたし、先を見据えてまず土地だけ買っておこうと思って買いました。しばらくは買ったままで、そのままにしてたんですが、ぼちぼちお店を新しく建てようかということで平成元年にここ(田園)にお店を建て現在に至ってるという訳です。

自慢の手作りカレー

―田園で新店舗としてスタートされた当時を振り返ってどうですか?
どんなお店にしようかとか、それはもう色々考えましたね。当時はまだこの辺りにお店が何もなかったので、魚から肉から何でも置いてる小さなスーパーみたいにしたんですが、肉や魚の仕入れなどしたことなかったのでそこからでした。いろんな人に聞いて紹介してもらいました。毎日たくさんのお客さんが来てくれて、パートさんも数人いて肉をパックに詰めたり、毎日大忙しでしたね。ヤマザキYショップに加盟してパンもほんとによく売れ店舗表彰もしてもらえました。

―ちょうど田園という街ができていく頃だったんですね。
そうですね。どんどん住宅が売り出されている時期でした。何年か経つと住民も増え、Aコープやお酒のディスカウントショップもできました。そうなると、やはりうちのお客さんは減ってきました。そんなときAコープの敷地内のテナントで何かしませんかと声かけがあって・・・。それで、お好み焼きと定食のお店「あかしや」を始めました。

―お好み焼き屋を?!池上さんが?!
そうです。大阪とかあちこち食べに行って研究して最初は見様見真似から始めました。中を改装して、新しく鉄板も入れました。鉄板も新品のうちは焦げてうまく焼けなかったり、失敗や試行錯誤の繰り返しでした。料理人も雇って、とんかつ定食、焼肉定食など定食メニューを作りました。そうそう、あかしやのカレー、そこそこ有名やったんやで!笑。ソフトクリームも人気やったなぁ。

―どんなカレーですか?食べてみたかったです。
最初は料理人から教えてもらったんやけど、そこに自分流のアレンジを加えて。玉ねぎをしっかり炒めてバナナとかりんご、果物を入れて、カレールー、ニンニク、ブイヨン、インスタントコーヒーとかいろいろ。レトルトではない長時間煮込んだ手間暇かけたカレーで、ほんま自慢じゃないけど、美味しかったんですよ。知り合いに出会ったら冗談やろうけどカレーしてよって言われるんです笑

活気のあった五條市をもう一度

―現在は田園地区の自治連合会と体協の会長もされているそうですが、なかでも田園公民館の設立について随分尽力されたと聞いております。
田園公民館がある場所は最初は小学校建設予定地だったんです。それが、保育所に変わり、最終的には中学校建設予定地になったんですが、それも現在の場所(五條西中学校)に建設され、詳しい説明もないまま住宅予定地になったと知らされました。その時は住民からかなり反対の意見があり、私達(北町自治会、最終的には私を含む5名)が代表として大和団地と話し合うことになりました。何度も何度も話し合いは続き、諦めかけたこともあって、私も最後はもう、「俺毎晩、あそこ(予定地)で寝るわ」て言うたこともありましたよ笑 随分長い時間がかかりましたが、最終的には大和団地が田園の住民のための公民館を建て五條市に寄付するかたちで落ち着きました。ですので、田園公民館が五條市の他の公民館と違うところは大和団地から寄付された建物だというところです。あのときはほんとに頑張りました。今でも田園公民館の運営委員長をさせてもらってます。

―田園地区では毎年お祭りをされてるそうですね。
はい。田園地区では毎年、秋祭りや運動会をしてましたが、コロナ禍でここ数年はすべて中止です。その話と関連してくるんですが、田園地区1,600世帯ある中で自治会加入世帯は現在883世帯です。特に最近、自治会を抜ける人が多くなったように思います。そもそも自治会加入や脱退について義務や規則もありません。自治会を抜ける原因としてはやはり役に当たるのが嫌だということに加え、コロナ禍でイベントが全て中止になり、自治会に入っていても何のメリットも楽しみもないという声をいくつか聞きました。イベント中止についてはやむを得ない判断でしたし、しなかったのではなくできなかったのだということ、今年は何かしらのイベントを復活させようと思っているということを田園ニュース(年2回発行)にて皆様にお伝えしました。

―皆さんお祭りや運動会を楽しみにされてたんですね。
そうですね。お祭りは各団体、体協、防災、婦人会、老人会、消防団・・・に手伝ってもらってやっています。それぞれが焼きそばやカレー、フライドポテトなどお店を出してくれ、抽選会もやってました。自治会加入者には空くじなしの抽選券を配布してましたし、子供さんもたくさん来てくれ賑わってました。やっぱり何かしら自治会に入っててよかったなと思うことや楽しみがないとね。
運動会も始めた頃は30代の方や小さい子供さんも多かったのでとても盛り上がったんですが、今では少子高齢化で選手集めが大変になりました。ですので体育館でのレクリエーション大会に変更してやってましたが、それもコロナで今はできていません。

―イベント復活の際は池上さんのカレーも復活させてはどうですか?笑
いや、ほんまにしょうかって冗談でゆーたことあったけど、他に色々運営やら準備せなあかんのに炊いてられへんわ笑。売れて売れてしゃなかったらどないするねん笑

―今後お店をどんな風にしていきたいですか?
時代は変わって安いお店や大手さんのお店もどんどんできてきます。うちとは仕入れの値段も数も全然違うので到底太刀打ちできません。タバコもお酒も何でも24時間コンビニで買えますし、うちが売り上げを伸ばすには他がどこもやってないことをやるしかないと思ってますが、なかなか・・・。何か考えないと・・・と思いつつ正直現状維持が精いっぱいですね。継ぐ者がいないからとお店を辞めるとこが多い中で、うちは息子が継いでくれて今でもお得意さんへ配達に行かせてもらってます。「池上酒店」の名前があるだけでもありがたいことだと思っています。

―駄菓子がたくさんありますね。懐かしいです。
そうやねん。学校が早く終わる水曜日は、午後から子供さんが大勢買いに来てくれワイワイと賑やかです笑 あと、手作りサンドイッチは昔からやってて今でも続けてるんですけど、人気でよく買っていただいてます。他にクリーニングは金、土は半額サービスなどよく利用いただいてます。

 

 

 

 

 

 

 

―田園地区、あるいは五條市についてどのように感じますか
田園地区ができていく頃からみてきて三十数年経ちましたので当然ですが年齢層が変わったということですね。高校までは五條にあるけど、そこから進学や就職となると多くの若者が五條から出ていきます。これまでは親が子供を連れてここに越してきて子育てをしていた時代でしたが、今度は大きくなった子供達が親を呼び寄せて大阪などに越して行きます。田園の街そのものが変わったなと実感しています。
京奈和ができて便利になったといいますけど、五條に来てもらうための便利な道ではなく、五條の人が外へ出ていくのに便利な道になってしまってるんです。五條へ来てもらうためにはもっと五條へ行こうと思ってもらえるもの、例えば名物の柿の葉寿司、柿も日本一、そこを活かした何かで人を引っ張らないと・・・と思いますね。

昔は新町通りの「かげろう座」が毎年すごい賑わってましたが、なくなっていましましたしね。他にも子供が少ないというならどうしたら子供が増える街になるのかを考え対策しないと。子供がいなくなると、学校がなくなり、文房具も食品も売れない、街が死んでいきます。もっと活気のあった昔の五條市を取り戻してほしいんですよね。

―最後にプライベートな質問ですが、池上さん、ご趣味は何ですか?
ずっと仕事ばかりで時間もなかったのもあって、これといった趣味はないんです。ゴルフもしないし、他のスポーツもできないし。でも「あかしや」ではカラオケもやってたので、歌は好きですね。歌手になろうかと思いましたが、やっぱりあかんだね、上には上がおるから笑 カラオケが好きやね。一度、私の歌、聞いてもらったらわかると思いますよ笑 ま、そのときはたいていマイクが悪いんやと思ってください笑

―池上さんの特製カレーと歌声、楽しみにしています笑。本日はありがとうございました。

※写真撮影時のみマスクを外していただきました

 

リカーショップいけがみ
住所 〒637-0093
奈良県五條市田園4丁目1-6
TEL/FAX 0747-22-2473
営業時間 8:00~21:00
定休日 日曜日
駐車場

☆スタッフHのすぽっとwrite☆

昔のことを振り返りながら、いろいろな話を聞かせてくれた池上さん。
聞いているうちに昔の商店街の様子や、そこで買い物をした思い出、「活気のあった五條市」を私も思い出しました。
時代の変化、少子高齢化、過疎化、さらにコロナ禍・・・インタビュー後半、ついつい話題が沈みがちになりましたが、地域のために日々忙しく活動されている池上さんは「今年は田園の秋祭り再開するよ!そろそろ準備で忙しくなるねん」とパワー全開でした。

第66回 神戸屋靴店・喫茶神戸屋 中山純さん・中山裕湖さんご夫妻

音楽で人を幸せにできたら 神戸屋の暖簾を守りながら

 

シャッター街と化した寂しげな商店街に灯りがともり、心地よい音楽が流れてくる粋なお店がある。五條市で初めて靴屋を営んだという神戸屋靴店。2021年1月、喫茶神戸屋を併設リニューアルし、靴屋の四代目を受け継いだ裕湖さん(弥里朱華(みさとあやか)さん)は「美術教諭を経て青春時代をギリシャで過ごし、絵画の世界から転身した異色のラテン・ジャズシンガー」、そして喫茶マスターのご主人、中山純さんは音響のプロであり、サックスやベース、いくつもの楽器を演奏するミュージシャン。心地いいジャズの流れる店内で、興味深いお二人の人生のストーリーを裕湖さん(朱華さん)中心におうかがいしました。

引かれたレールから羽ばたいて

―まずは神戸屋靴店さんの創業について教えていただけますか
中山裕湖さん 以下裕湖さん)私のひいおばあちゃんの代からここで商売をしていて元々は雑貨屋だったと聞いてます。それが、時代が高度成長期手前、(履物が)下駄や草履の時代から靴へと変わる頃、店先に並べた靴が売れたので新しく出してきて並べる、そしたらまたすぐ売れる・・・そんな光景を目にした祖母が「これはいける!」と思ったのか、そこから「靴屋」を始めたそうです。
祖母はあの時代の女性にしてはとても精力的で、靴屋で儲けたお金で旅館を建て、その後も鰻寿司、スナック、薬屋、鍼灸院と先見の明で次々と商売を始め、ひとかたならぬ苦労をした人だったと思います。

―店名「神戸屋」というのは?
裕湖さん)創業当時から「神戸屋」という名前やったのかどうかはわからないのですが、祖母が靴屋を始めた頃、神戸市によく仕入れに行っていたそうです。仕入れては売れ、また仕入れ・・・ここと神戸市を何往復もしたと。そこから「神戸屋」になったんかもしれません。神戸は履物のまちやしね。当時は靴職人が靴を作る時代で、うちにも職人さんがいたそうです。その技術を祖父、そして父が受け継いで、学校から帰ってくると母はお店で靴の販売を、父は一日中仕事場でこつこつと作業している姿をよく見ました。父母共に人に施しをする気持ちを忘れたことのない人でした。それが今の商売へとつなげてくれているのだと日々感謝しています。

―4代目として靴屋を継がれたわけですが、いつ頃から継ぐという方向になったんでしょうか
裕湖さん)そんな両親は私を教師にさせたかったので子供の頃から、お絵かき、そろばん、ピアノ、お習字、日本舞踊・・・毎日いろんな習い事をさせました。中でも私はお絵かきと歌が大好きで、そこら中の壁に絵を描きまくっては怒られてました。でも小学校5年生の頃から、家にあった地球儀を眺めてるうちに、この丸い地球の裏側ってどうなってるんやろ?一体そこにはどんな人が住んでて、どんな言葉を喋って、どんなものを食べてるんやろ、ってものすごく興味深くてずっとその夢(もっと知りたい、他の国へ行ってみたい)を諦めずにいました。両親はとにかく商売は苦労するからと何としても私を教師にさせたかったので、まだ経済力もない私は家を飛び出すわけにもいかず、両親の望み通り教師になりました。だから継ぐことになったのはもっともっと後の話ですね。

 ―教師としてスタートをきった訳ですね
裕湖さん)はい。両親の教師になってほしいという思い、私は絵を描くことが大好きだったのでおのずと美術教師というレールが引かれました。21歳で採用試験に合格し初めて教壇に立ちましたが、やっぱり私に教師という地味な職業は向いてないと感じました。自分の人生、教師というレールの上を一生涯歩いていくことの息苦しさと何の変哲もない人生を送りたくないという思いで、精神的にも体力的にもきつかったですね。自分にそぐわない環境に身を置くとそうなりますよね。さらにはそのとき大失恋も経験し、身も心もボロボロになり、それで教師を辞め、スーツケースひとつでギリシャへ行くわけです。

 ーギリシャへ?!その経緯について詳しく聞かせてください
裕湖さん)教師を続けながらも、いつかは日本を出て未知の世界を見てみたいという気持ちは常にあって、23歳の時、画家達の集まりでヨーロッパ旅行に行きました。若い女性達はブランドに興味を持つ中、私は目もくれず、地図とスケッチブックを片手にひとりで街をウロウロ。映画「ローマの休日」で有名なスペイン広場の下で一日中絵を描いていました。その居心地の良さに引き込まれて帰りたくはなかった。翌年はインドネシア全土横断し、次に再びギリシャを訪れた時、拠点を見つけてきました。

 

 

 

 

↑20代の頃のヨーロッパの旅の絵
左からオンフルール・モンマルトルの丘・ベニス(オンフルールは入選作品)

 

―拠点?ですか
裕湖さん)そう、拠点。私が住める場所、頼れる人を見つけてきたんです。
ギリシャ旅行のエーゲ海クルーズで船酔いして何も食べれずしんどくてふらふらになっていた時に立ち寄った毛皮の店のセールスマネージャーに助けられ、私を見かねて現地の日本食レストランへ連れて行ってくださりその後自宅に招かれそこで彼の子供さんやお手伝いさんともお会いし、とても楽しい時間を過ごしました。彼はいつでも遊びに来てください、そして僕もまた、日本に行きたいですと。そのとき、ここは、この人は安心できる、拠点にいいなと思ったんです。その人が後々ビジネスパートナーになる訳です。
帰国してからも電話や手紙がたくさん来ました。私は恋愛感情は全くなかったのですが向こうがプロポーズをしに日本に来た訳です。これは日本を出るいい口実になると思いました。それが教師を辞めるきっかけになりました。母は「苦労するなら助けないけれど、幸せになるのなら助けてあげる」といって片道キップの20万を持たせてくれました。それで26歳のときスーツケース一つでギリシャへ旅立ちました。

 

ギリシャでの新しい自分

―ギリシャでの生活、まずどんなスタートだったんですか?
裕湖さん)現地での生活はまず私生活のギリシャ語、彼との共通語は英語でしたが現地人が全て英語を話せる訳ではなく戸惑いながらも家で一人で居る生活が始まり、生きがいを見つけらずにいました。私は何のためにギリシャに来たのか・・・考えながらも彼の仕事の手伝い、ギリシャ→日本への毛皮の発注の仕事を始めますが能率が上がらず、現地での自分の立ち位置を見つけられずにいました。彼に相談するとそれなら二人で店を運営しないかという誘いがありゼロからのスタートとなりました。

―お店とは?
裕湖さん)彼は毛皮や宝石を専門とした店で販売員としての仕事をしていました。お店は持ってなかったけれど、向こうでは何か国語を話せるかで5本の指に入るトップセールスマンになれるかが決まります。彼は8か国語を話せたので世界各国の客を相手に販売力と腕は確かで、信頼も厚かった。最初は小さい店から始めそれがうまくいったので、目抜き通りに店を出そうということで、私は両親から借りた資金を、彼は知恵とノウハウを出し、アテネの中心地は目抜き通りに2件目の店を出しました。小さいながらも自社工場も作りました。当時の人気テレビ番組「なるほど・ザ・ワールド」の取材も来ましたし、ちょうどバブルの時代で観光客によく売れ、売り上げは好調でした。父も日本から会いに来てくれて嬉しかったです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

↑裕湖さん自身がモデルをつとめた毛皮のパンフレットや店舗、
そして住んでいたアテネ市内(パルテノン神殿)の写真

 

―言葉はどうされてたんですか?やはり準備期間に勉強を?
裕湖さん)英語はずっと勉強してたから大丈夫でしたが、ギリシャ語は向こうに行ってから勉強しました。商売がら、まず数字を覚えないということでそこからでした。電話の応対、買い物、タクシーを利用したり、自分で車を運転したりと徐々に生活にも慣れて。彼の友人たちとの交流や語学がもともと好きだったこともあり、イタリア語やギリシャ語、英語、日本語のちゃんぽんしたようなとこから始まって徐々に話せるようになりました。言葉で垣根を越えられるなら努力次第で何とでもなると思って勉強しました。

 

―やはり日本とは全く違う世界でしたか?
裕湖さん)はい、私には向こうの地がすごく合ってたんでしょうね。華やかでキラキラした世界が好きなんですよね。日本では控え目が美徳とされ、出る杭は打たれますが、海外では出すぎるくらい出ないと逆にたたかれる。良い意味で言えば強烈な個性と表現力で豊かな人生を送れる訳です。周囲には競争店が多かったですし商売するとなるとなおさらです。ギリシャは世界一の海軍国です。世界中からお客様が入ってきます。日々、国際色豊かな色んな言葉が飛び交う中での生活は日本では味わえない経験でした。

―その後、お店は?
裕湖さん)その後、ローマ、スペイン広場周辺のコルソ通りに3件目のお店を出しました。でも結局は広げすぎたんですよね、後のバブル低迷期等でお客さんは減り、借金を抱えることになってしまって。一時帰国していた私は店をすべてたたんだことを彼からの電話で知らされました。私はその後ギリシャに戻ることもできず何もかも身の回りのものすべて向こうに置いたまま。その後それがどうなったのかもわかりません。飛び出したときもスーツケースひとつでしたが、帰ってくるときもスーツケースひとつやったっていう話(笑)

―最終的にはお店をたたんでしまいましたが、パートナーとの出会いがあって海外での生活、仕事を経験したんですね
裕湖さん)そうですね、出会いから移住、彼からビジネスやたくさんのことを学びました。ビジネスパートナーであり、共に戦ってきた戦友であり家族でもありました。彼は人生をとてもおもしろおかしく、ドラマティックに、破天荒に生きていました。もう亡くなってしまったんですが、一言では言い表せない波乱の道のりでした。

日本での再スタート  

―帰国してからについて聞かせてください
裕湖さん)向こうで店をたたみ今度は彼が私を頼って日本にやってきました。知り合いの紹介で宗衛門町で2人でギリシャレストラン・グリークバーを始めたもののうまくいくはずもなく・・・そりゃそうですよね、飲食業なんてやったこともない、毛皮を売ってた人間なんですから。それでその商売をやめ、パートナーとはそれを機に互いに別の人生を歩むことになり、私は35歳で大阪の時計宝石の卸の会社に就職しました。

―そこでまた一からスタートということですね
裕湖さん)その会社では15年間勤務しました。自社ブランド担当を任され、言葉ができたのもあって海外出張(ヨーロッパ各国、オランダ・ベルギー・ハンガリー・ドイツetc・・・)にも行きました。商売の基本からノウハウまで仕込んでいただきそれが後にこの靴屋を継ぐときに役に立ちました。営業で小売店回りや展示会の仕事も任され、芸能人をモデルにした企画等で有名な方とご一緒する機会もたくさんあり、仕事は通勤も含めて厳しかったですけれど、そういった華やかでキラキラした世界は私の性に合っていました。ところが、スイスのバーゼルで世界の時計・宝飾展があった日、雪深い山奥のホテルで過労で倒れレスキュー隊が来てヘリでスイス病院に運ばれることに・・・。過呼吸で大変でしたが、何とか回復し帰国しました。そのときも大失恋が重なりまたもや心身ともにボロボロ、最悪の状態でした。私っていつもそう、何に対してもとにかく突き詰めて全エネルギーを注いでしまう、それがプツッと切れたときはボロボロ。それでも身体が限界まで仕事を続けましたが、やはりどん底でした。そんなとき音楽が縁で今の主人に出会いました。主人はまさしく私の救世主となり、その後私の人生は大きく方向転換し、歌の道へと進む訳です。

―歌の道ですか?!その経緯についても聞かせてください
裕湖さん)歌は子供の頃から絵と同じくらい大好きで、学生の頃は合唱団に入っていてソプラノ(NHKに出演)の経験もありました。でもなかなか歌の道で生きていくそのチャンスに恵まれなかったので美術教諭になった訳です。主人と知り合ってからは、水を得た魚のように歌の道にのめり込んで行きました。私は会社を辞め、再び新しい第4の人生のスタートを切りました。教師~ギリシャへ~帰国後会社員を経て~歌の道へと、遠回りしたけどやっと夢が叶った気がしました。それからはバンドを結成して大阪を中心に関西エリアでライヴ活動を続けました。主人はサックスやベースの演奏を、また音響(PA)のプロなので私のキーに譜面を書きかえてくれたり・・・と、主人のおかげで私は救われ、今までとは違う安らぎを覚えました。紆余曲折ありましたが、やっと自分らしく生きていけると思いました。歌い手(Singer)としてやっていこうと決めたとき、これまでの窮屈な過去の自分に別れを告げ、生まれ変わるために、ある先生にお願いして「弥里朱華(みさとあやか)」という名前を付けて頂きました。弥里の弥は弥勒菩薩から一文字頂きました。ふるさとに根をおろしてゆったりとした心で人々に輝きと幸せを届けていけるなら・・・と。

『朱華&Bossa☆Boys』
ステージコンサートやライヴイベント等で活動

 

音楽が繋いだ縁

―純さんのこれまでの歩みについて聞かせてください
中山純さん 以下純さん)何もないで。音楽だけや。

―音楽は子供の頃から何かされてたんですか?
純さん)いや、幼稚園のとき、オルガン教室に無理やり通わされて。小学校3年生くらいまで続けとったんやけど遊ぶ方が楽しいから辞めて。うちも子供の頃から教師になるように言われ続けてきて・・・父が教師やったから、教師か公務員になれと。でも教師の道には進まなかった。

―サラリーマンとか?
純さん)音楽のできるサラリーマン笑 オーディオ機器とか好きやったから、レコードとかよく聞いたりしとって。最初レコード屋で店長として働いとってゆくゆくはそういう店しようと思ってたんやけど、とりあえず一流といわれる会社に入ろうと思って一念発起して35歳で保険会社に就職してん。それからはずっとサラリーマンしながらジャズのビッグバンド、ジャズオーケストラを立ち上げて。週末はずっと音響の仕事しとったな。僕にとって音楽は身体の一部やなぁ。

裕湖さん改め弥里朱華さん 以下朱華さん)
純ちゃん(主人)は橋本市で毎年、市の盆踊りとかのイベントの音響しててん。朝からトラックで現場まで機材運んで、設営、準備、本番、最後片付けして・・・って30年くらいやってきました。ほんま昔は毎週ほど仕事あったときもあったけど、今はコロナでイベントとか全部なくなってしまって。依頼のイベント以外は全部ボランティア精神で市に尽くして表彰されたことがあります。本人はそんなこと一言も言わない人ですが(笑)黙ってコツコツ型の人。

 PA(音響)の仕事の依頼で・・・活動中 

―お二人は出会ったときに互いにビビビと来た感じで?
朱華さん)いえ、最初はお互い全く笑 でもこの人ものすごい純粋で心が綺麗な人やなと思ってたら、ある日突然何かがおりてきてん。なぁ?純ちゃん! 

―そう言うてますけど、純さん?

純さん)笑・・・ま、なんとなくやな。
朱華さん)
この人、ほんま私と真逆で、喋らへんねん笑 お互いかまわれるの嫌うし笑 お互い干渉し合わないからうまくいってるねん私ら。なぁ?純ちゃん!

純さん)
・・・笑

ーそれが円満の秘訣?いいご関係ですね。
朱華さん)そうそう。いい感じの距離感と相手を敬い、思いやる心やね(笑)

 

喫茶店のカウンターに並べたもの

―いつ頃から靴屋の仕事をし始めたんですか?
純さん)10年くらい前からたまに手伝いさせてもらってて。入学時期とか忙しいときとか。
朱華さん)親も歳とってくるし、私も店のことがずっと気がかりで、主人と一緒にたまに帰ってきてましたので。 

―純さんにとって靴屋の仕事ってどうでした?
純さん)いや、別になんにも。手伝いできたらえぇなぁくらいで。お義父さんもお義母さんも歳いってくるし、力仕事でも何でも間に合うたらええわって。

―継ぐことになる経緯は?
朱華さん)主人と店の手伝いしてるときに母が「純ちゃん帰ってきて店してくれへんかな?」て言いだして。私自身、店のことどうしようかと気になりながらも、主人に言い出せずにいたから、それを言われたとき主人はどういう風に受け止めてるんかわからんかって。

―純さん、どうされたんですか?
純さん)その頃、保険会社って合併合併で、そのたびに息苦しさを感じとって。お義母さんから声かけてもろたとき、僕も定年まであと2年って時で。自分でもどうしよかなって思てた時とお義母さんからの声かかったタイミングが合うたというか。ほんだら、もう会社辞めるわってなって。

 

朱華さん)それで、仕事辞めてこっちに帰ってきてくれて。私も自分ひとりやったら店をどうしていこかと思てたけど、主人が一緒にやってくれるなら鬼に金棒やと思いました。 それで、主人は外回りや力仕事、私は事務的なことを引き継ぎ始めて。父ともほんま仲良くやってくれて。そのとき強く思ったんです。いつも世の為人の為と四方八方出かけてはその先々で人助けをしていた父。そんな背中を見ながら育ってきて父や母が祖父母の代から守ってきた神戸屋靴店をなくしてはいけない・・・。今まで好き勝手やって来たけど、これからは私がこの暖簾を守っていかなあかん、守っていきたいと!

―喫茶店を併設することになったきっかけというのは?
朱華さん)父が亡くなり、母も高齢になってきて・・・、母は90歳を過ぎても店番をしてくれて、凛として明るい人、商売上手で気丈夫、今はホームにいますが現役の頃は行動力のある人でした。やはり母の目の黒いうちは大がかりに店はいじれませんでした。ただ、主人にこの店をやってもらうにしてもここでじっと店番をしてもらうのはあまりにも酷だし、何か楽しみながら、居心地よく居てもらえる方法ないかなって考えたときに、喫茶店をしてコーヒーを出したら人が集まってきてくれて、それで音楽も流せたらええなって何となく思って。それで少しずつリフォームし始めたのが始まり。
純さん)
最初はこんなステージとか作る予定なかったんやけど。まず、ここ壊して片付けて綺麗にしょうかって壊したら、ここにこれこうしたらええんちがうやろか?そしたら、ここにこれ置いて・・・みたいにどんどんアイディア出てきて、その結果がこれ。笑
朱華さん)母も最初は喫茶のカウンターに靴並べだして・・・。「ちょっとちょっとお母さん!どこに置いてんの!」みたいなこともあって笑 「お母さん、私らちゃんとやっていくから、もう後は私らに任せて」って言うて笑 でもほんとにいい形で進んでいってくれてよかったなって、このままこうやって幸せに・・・って思ってたら今度は私に病気(ガン)が見つかって・・・。
ショックでした。今では心の整理もつき、いい先生にも巡り会えて治療を続けています。これは試練ですが、病気になって色々と考えさせられました。今ここにこうして自分がいるのは自分だけの力ではありません。生かされている命に感謝して、これからはこの経験を生かして微力ながらも誰かの役にたてればと思っています。病を乗り越え、元気に自分らしく歌を歌うことで少しでもみなさんに幸せを届けていくことができれば幸せ(喜び)です。今はその気持ちで頑張っています。

 

―純さん、喫茶店をすることになりましたが、何かご経験がおありだったんですか?
純さん)ない笑 コーヒーたてるのは好きで・・・。お義母さんが店番しとったとき、お義母さんの友達とか近所の人が店に来て、喋ってるの見とって。そのとき、美味しいコーヒーとか出したったらええなぁって思ってたから、それから一生懸命コーヒー豆の研究したんや・・・(笑)

朱華さん)今では年齢問わずですが、特に70~80代のお客様がいつもコーヒー飲みにきてくれて美味しいって言うてくれるのが主人の一番の喜びになっています。このコロナの時期やからお客さんが5人の日もあったら1人の日もある、でも毎日同じようにコーヒーを出し続けていけたら人が集まり町もにぎわうって思うし、それをしながら店番もしてくれる主人に感謝です。

 

 

―週末にはここでライヴをされているそうですね

純さん)そう、毎週土曜の夜にいろんなジャンルのミュージシャン達が集まって演奏して、それで楽しんでくれたら。それに、近所の人もにぎやかになってええって喜んでくれて。今後は新しくできた市役所などのイベント等で音楽を流して明るい街づくりとかできたらええなって。

―五條市で生まれ、一度は離れ、そしてまた五條に戻り、これからお商売もされていく・・・五條市についてのどのように感じてらっしゃいますか?
朱華さん)近所付き合いを大事にしたいなって思います。五條から離れてた期間が長かったので最初はほんとに五條のことを知らなかった。でも、こっちに帰ってきて徐々に五條の人との交流も増えて、そしてお店にくるご年配の方に「お母さんのことよー知っとるで」「お父さんには世話になってな」っていうてもらえるのがほんまに嬉しい。祖父母~父母の時代があっての神戸屋であり、今の私達やと思う。高齢化や過疎化、そしてデジタル化が進んでるけど、お年寄りがたくさんいるこの街ならやっぱり「人と人」のつながりがいちばん大事やなと思います。

 

昔、にぎわいを見せたこの商励会通りを少しでも取り戻したい気持ちで外のスピーカーから音楽を流しています。昭和の香りのするコーヒーの美味しい店として音楽が楽しめる明るい町づくりの何かお手伝いができたらと思っています。

―純さん、朱華さん、本日はありがとうございました。

※写真撮影時のみマスクを外していただきました。

 

 

絵本作家の長谷川義史さんとギリシャのお酒でカンパイ

 

 

 

 

 

 

 

☆リニューアルオープン当日、毎日放送ちちんぷいぷい「とびだせ!えほん!」のコーナーの取材も☆

 

 

 

 

 

 

 

 

神戸屋靴店・喫茶神戸屋

営業時間 火~土:10:00~17:00
金・土:18:00~ライヴ ※ライヴスケジュールはお問合せください
定 休 日 日曜日・月曜日
駐 車 場 有(店の手前50m北)中矢青果店裏
住   所 〒637-0005
奈良県五條市須恵1丁目3-18
TEL(FAX) 0747-22-2289
※詳細はお問合せください
※コンサート・ライヴ・各種イベント音響(PA)
店舗等音響プランナー
 アドバイザー等 承ります

 


☆スタッフHのすぽっとwrite☆

コロナ禍で控えていたインタビューを1年ぶりに再開。
久々の取材の緊張とこんな素敵な方が五條にいらしたんだというワクワク感。
序盤から朱華さんのお話に引き込まれた・・・が、中盤あたりでうまく記事にまとめられるかと内心焦りだした。

「ちょっと休憩したら?」とコーヒーを出してくれた純さん。経験がないというのに板につきすぎている喫茶マスターのエプロン姿。そして足元はどこか見覚えのあるサンダル。「それって・・・?!」「そう・・・高校の生徒さんの校内用のやつ。これ、えーねん、きつ過ぎず緩すぎず、ほんまに」と、販売店主がというより、純さんが言うんだから間違いないと思わせる雰囲気がある。たててくれたコーヒーが美味しかったのも言うまでもない。

取材の緊張、集中と、昭和レトロな店内、ブレイクタイム。生演奏の迫力と音楽の心地よさ。刺激あり、癒しあり、安心感あり・・・きっとこれも「きつすぎず、緩すぎず」?なんですよね笑

トニカク素敵な神戸屋、そしてお二人に出会えたインタビューでした。

 

 

 

 

 

第65回 金閣園 久保 和生さん

  お客さんと向かい合う「お茶」へのこだわり

 

ー 本日はお忙しい中ありがとうございます。 金閣園さんはといえば、イオンさん(五條店)で長くお商売をされておられる、というイメージですが、お店を始められたきっかけは…? お茶が好きだった、もしくは元々お家がお茶屋さんをされておられた、というところでしょうか?

きっかけと言うか、僕自身は、大阪の和泉市の出でして、そこに大きなお茶屋さんがあって、「これからはお茶がよう売れるから」ということで親戚の人に口利きをしてもらって。それで中学校を出て、そこに奉公させてもらって… というのっが始まりかな?

ー お茶が好きだった、もしくは元々お家がお茶屋さんをされておられた、というところでしょうか?

いや、そんなんと違う。僕はとにかく勉強が嫌いで(笑)、そして特に好きなこともないし、親に、「みんな高校へ行くのに、あんたはどうすんの?」って言われて。僕の住んでた集落は60件ほど住んでて、その中で同級生が11人おった。それで同級生はみんな高校に行ったんやけど、僕だけが高校へは行かなかった。でも、しゃーないやんな?勉強嫌いなんやし(笑)

ー 中学校を出られてすぐにですか? 奉公… というのも、ご主人がお若い時代の当時の世相を感じますね。

そこの店で8年間おったけど、それはもうただ働きみたいな感じやった。でも、昔の奉公なんてものは皆そんな感じですよ。給料なんか小遣いみたいな感じで千円か二千円くれただけ。まあ、食事は奥さんがやってくれてたんやけど。

ー 住み込みでお勤めされておられた、ということですね。

そう。ただ一緒に住み込みで仕事をしとった仲間らは、ほとんどが皆、お茶屋さんの息子か何かで、ここへ修行に来とった。そしてそのお店は、大阪の南部ではそらもう売上1,2位を競うような大きなとこやった。そこのお店で、10年勤めたら、暖簾分けするっていうかたちで最初は行った。当時の親方さんも、手広くあちこちにお店を広げとったから、僕もやれこっちのお店、次はここ、みたいな感じで、だいぶいろんなところに回されたなあ。

ー それで、修行先で10年間勤められ独立… という流れなのでしょうか?

いや、でも見てたら、当時若かった僕の目から見ても、運営が上手くいってないのが分かった。特にお金の面で。自分たちのために貯めてくれていたお金も使い込まれて、このまま長いこと、ここにおっても暖簾分けどころの話やない、と感じてきたんで、当時の商売人の組合とかの役をしている人にいろいろ今後の相談とかもした。それで確か和歌山の人に、今度、「五條」って言うところに、「ニチイ(現イオン)※」が新しくできますよ、と。そこでお茶屋さんを募集しているんやけど誰も来ない… ということを言われまして。

※五條ニチイ  イオン五條店の前身。かつて五條市須恵に存在。

ー なるほど、そのいきさつが五條でお店を開くきっかけになったということなのですね。

いや、話をされた時点では、まだ(五條に)行くとも何とも言うてないのに、とにかくその人から早くしてくれとお話が進みまして… ニチイさんがオープンするまでもう2か月しかない、とにかく早く返事をくれと。確かにその話は当時の僕からすれば有難いお話やったんやけども、五條という土地なんて縁もゆかりもなければ行ったこともない。五條どころか奈良県というところも、奈良公園やったら知ってるけど、みたいな感じで。

ー 縁もゆかりもない土地でお店を開くこと… 最初の頃は大変だったのでしょうね。

お店を出すのにお金がなかった。だから、親に頼るほかがなかった。でも、私も兄弟が6人もおって、その下から2番目やったから、上の兄弟が苦労しているのを見てきてるから、そやけど背に腹は代えられない。自分でお店を持つ、今が千載一遇のチャンスやと思ってもう、こんなのもう2度とないことやと親を説得して、農協の定期預金を解約してまでして、手元に何とか50万円用意してくれた。

ー それで何とか、開店にこぎつけた感じで?

でも実際、そんな金額では、(開業には)全然足れへんかった。開業資金のほかに当時、お店を出すのに保証金なんかも要って、それがまた高かった。でもニチイがオープンするまで、もう2か月もなかったから、もうあるお金だけでいいよ、って堪えてもろた。

ー そうなんですね。いろいろな要素が重なって、いい方向に廻っていく感じですよね!

ただ、最初はお店に商品を陳列したりするのにお金も要って、それはもうみんな借金でした。とにかく巡ってきたチャンスを無駄にしたらあかんという思いで。それと商品のお茶は、奉公していた和泉市の親方から提供してもろた。それで何とか、お店の形ができた。

ー 私もこの企画で、昭和40~50年代に、起業やお店を開業された方たちのお話を何軒かお伺いしたのですが、世代の方は本当にいろいろと苦労なされたのですね。それでは、そのタイミングで(和泉市から)引っ越ししてこられた?

引っ越しやいうても、縁も何もあらへん五條には住むとこもなんも予定してなかった。まあそれでも、こうやって五條でお店を出して、ずっとやっていく訳やから、お店を出すことを世話してもらった人は、住居を紹介してくれた。昔、五條市新町にあった、「五條デパート」※っていうお店の2階が住居部分になっとって、そこを紹介してもらったんやけど、そこは、もちろん五條デパートで勤めとる人、当時は高度成長期で、これから独立しようとする人とかが所帯しとったから、ニチイでお店をしとる僕は、大変居心地が悪かったんやけど。

※五條デパート  かつて、五條市新町に存在していたスーパーマーケット。

ー でも、ご自身のお店をもって住居も用意いただける… とんとん拍子で事が運んだ感じで…

自分の親には、「そんなええ話、お前、騙されとんちゃうか?大丈夫か?」と言われたもんやけど、自分も若かったから、心配も何もなかったわ。やるだけやったるわ、って言う感じで。

ー では実際、オープンしてからの出だしは如何ほど?

最初のうちはもちろん売れへんかった。でもお客さんも段々つくようになって…ってなって来た頃、ニチイが移転※するっていう話になって、今の場所にね。店始めてまだ3年ほどで。それで陳列やら何やらまた一から。それでまた借金をすることになって。 ※五條ニチイ  現在のイオン五條店。かつては五條市須恵に存在。

ー 開業されて丁度お店が軌道に乗り始めた頃ですよね。それでまた一からとなると…。

ニチイがオープンする時は、五條デパートで商売しとった者も皆ニチイで店を出すいうことで、皆で場所を争うて。当然、隅っこのほうに売り場をやられたら、当たり前やけどお客さんなんて回って来へん。そんな中で、(ニチイで)店を出そうとする者みんな集まって、場所取りみたいな会合に行ったんやけど、周りも30代、40代の「大人」ばっかり。自分ははまだ23やったから、何にも分かれへん。そんなんやったから、存在も忘れられてしもとった。それで、会合も終わろうかという時に、ようやく存在に気付いてもろて、何とラッキーなことに、僕にも何でか分らんけど、一番ええ場所に置いてもろた。

ー そうなんですか! 当時の久保さんの若さに期待して… ということだったんでしょうか?

何でか分らん(笑)。 でも、ええとこに置いてもろたもんやから、敵対する人も少なくなかった。みんな生活かかっとるからね。気の荒い者もおったし、そういう者からもだいぶ難癖つけられた。

ー 昭和の時代、高度経済成長期の商売人のかたには、そういった方も多かったと聞きます。まだ当時若かった久保さんのような’’新参者’’にはことのほか厳しい時代だったのでしょうね…

そんな中でも粘り強く何とか頑張ってきて、一時はアルバイトを7人も雇うほど店も繁盛してきた。今から30年くらい前かな… その時は、お店(ニチイ)に来るお客さんも今よりもずっと多かったし、ほぼお茶一本で、何せよう売れた。一日に300本(茶葉の袋が)売れたときもあった。一人のお客さんでやで。あの時は忘れへんな… お店に普通に来て、300本って言うんやもんな。びっくりしたわ。でも、もうあんな売れることは、今後はないやろうな。ちなみに今はというと、当時の半分ぐらいの売り上げや。今はなんぼ努力しても報われへんというか…

お茶を販売される傍ら、「喫茶」のほうも。「金閣園ブレンド」が特にオススメ!

 

 

 

 

ー そうですね… 今は店頭販売以外にも、インターネットの通販を始めとして、茶葉一つとっても、モノの売り方、というのは相当に変化していますし… あと金閣園さんは、創業の頃より、一番最初のニチイさんに始まり、そして移転もあり、サティさん、そして現在のイオンさんとともに歩んでこられました。その中で、時代の流れを感じることは?

若者やね。今、お茶はペットボトルでも普通に売っとるやろ?でも初めのうちは、我々のようなお茶屋からすれば、そんなペットボトルに入っとるお茶になんかは絶対に負けへん、っていう自信があった。でも、飲料メーカーは研究して、若者の嗜好をとらえて、若い人でも飲みやすい、水に近いお茶を作った。水に近いから刺激もない、でもお茶の香りはするし色もついとる。そういう若者向けの売り方を徹底してきた飲料メーカーさんに、お茶屋さんは負けたよね。お茶屋さんは、お茶屋の玄人が飲んでおいしい、そんな商品しか置いてないやんかと。若い人にそんな(お茶が)苦いとか、甘いとか言うても普通は分からへんやん。

色とりどりの商品が、所狭しと並ぶお店は、とても賑やか!

ー そうですか、確かに、「急須で入れるお茶」というのは、若い世代のかたにはなかなか敷居が高いのでしょうね… 「急須」というものが、日本人の生活から次第に遠ざかるのは寂しい気もします。そんな時代にあって、長年お店を営まれてきて、大事にされてきた心がけなどは?

まあ、とにかくお客さんとのやり取り。お客さんの言う事を、よく聞いたることやろな。それを自分の中で分解して、お客さんの言うてることの真意を読んだうえで、自信をもって返事する。生半可な返事ではあかん。そやけど偉そうにだけはしたらあかん。なんぼええ品物売っとっても、当たり前かもしれへんけど、それは泉佐野で修業しとったころ、常に教えられてきた。これを今でも心がけるようにしとる。

ー ありがとうございます。 後、先ほどのお話しにも出ましたが、ペットボトル飲料等の競合する商品、そしてスーパーでも当然ながら茶葉も販売しています。そういったライバルに比べての、「金閣園さんならでは」とは?

うちは、スーパーとか小売店で扱わへんゾーン、所謂高級な品を使うようにしとる。昔はスーパーで90円で売ってたらうちは同じ品物を80円で売る、みたいなことをしてたけど、そのやり方ではスーパーとかには勝てない、というのが分かってきて。いい品物を売って、いいお客さんを掴まえる。それでついてきたお客さんは固い。そして人に紹介してくれる。もちろん高級品を売っていくのは大変やけど、それが、スーパーとかとの違いかな。

お店には、有名人のサインもチラホラ…こちらのサインはかの「尾野真千子」さん。

 

 

 

 

 

ー ありがとうございます。次に、商品のお話しなのですが、店頭にはたくさんの種類のお茶を販売されておられます。金閣園さんのお勧めするお茶といいましたら?

まあ… 5品くらいはよそでも負けへんのはある。笑 ただ、うちは実は遠方からのお客さんも多くて、「自分の住んでるとこの近くでも、同じようなお茶は売ってないんかな?」ってよう言われるけど。それは無いって。お茶っていうものは、産地や畑、それに品種、蒸し具合等とかで、特徴の違う茶葉を何種類も組み合わせて造るもの。お茶は単品で色、香り、味の三拍子が揃ったものなんかほとんどない。うちももちろん、全部自分とこでお茶を合組み※して、味見して、これは良いと思ったお茶を商品として出す。もちろん何べんもしながら。そないしたら、絶対おんなじお茶はないねん。それで「自分のお茶」というのができる。それはすなわち、「自分が好きな味の」お茶になってしまうんやけどな。

※ 合組(ごうぐみ)  産地や品種、蒸し具合などが異なる荒茶の特長を見極め、ブレンドすること。

ー 久保さんの、修業時代から長年培ってきた目利き、さぞ確かなのだと思います。他にお勧めのお茶などは?

番茶やろな。番茶言うたら、本来は規格外のお茶とか、低級のお茶を指すわけなんど、うちは逆。一番高いお茶にお茶にしとるねん。だからお客さんには「えらい高いなぁ」って言われる。「番茶」には「自家製のお茶」をまとめて言う意味もあるし、一番茶、二番茶を摘んだ後に収穫される「晩茶」という意味もあるからな。それで、金閣園さんの「番茶」えらい美味しいわ~、なんて言われる。

ー 「番茶」にはそういう意味合いもあったんですね!今初めて知りました。お茶を少しでも嗜んでいる方からすれば、意外に感じられて面白いところですよね。あと、お店の名前である「金閣園」さんの由来は?やはり「金閣寺」がルーツなのでしょうか?

さっきも言うたように、「上等」のお茶を「良いお客さん」に買ってもらう。京都のお茶は、所謂、「上等品」。それを京都で一番有名なお寺の「金閣寺」にちなんで。

ー そうなんですね!納得です。「金閣」っていう響きもいいですし、「高級嗜好」のイメージに納得です。それと最後の質問になるのですが、久保さんは店頭に立たれるときはいつも「赤いサンバイザー」を被っておられます。これには何か意味が?

それ、よういわれるねん 笑 まあ特に信念やら深い意味はないんやけど、やっぱり「若く見せる」為やな。やっぱり店に立って商売しとって、それはすごい重要なこと。いかにも齢いったもんが店に立っとっても、お客さんなんてそんな店なかなか来たがれへんやろ?それでちょっとでも若く見せるため。実際はそんなところかな。

ー なるほど!でも、もはやトレードマークにもなってますよね!これからも末永いご活躍を願っております。本日はどうもありがとうございました。

 

(編集後記)

高度経済成長のさなかの、今ほど皆が裕福でなかった昭和40年代。そんな中、豊かな生活を求めて独立を夢見る… 若かりし頃の久保さんも、もちろんそんな思いを持っていた一人の若者であったことでしょう。久保さんの話ぶりだけでも、当時の日本の、まだ活気のあった時代の情景が浮かんでくるような感じでした。そして「皆のおかげ」と事あるごとにお話しされていた感謝の気持ち、謙虚な心こそが、栄枯盛衰の激しい世界で、「金閣園」さんが今の今まで至っているという所以なのだと感じました。

第61回 割烹 山海里 養田勝紀さん

地元五條でお店ができる、最高です。

 

料理人になるきっかけから意識改革まで

―山海里さんがお店を始めた経緯について教えていただけますか?
親父が始めたお店を僕が継いだかたちです。親父が最初大川橋のたもとで店を始めまして、そっちで20年ほどして、で、ここに移ってきて22~23年なんで、もう、40年以上になりますね。

―最初はこの場所ではなかったんですね。移転することになったのはなぜですか?そうですね、前の店はテナントだったんで、自分の店が欲しかったんじゃないでしょうかね。

―養田さんは、やはりお父様の影響で料理人になりたいと?
いえ、僕、実は全くそのつもりなかったんですよ。大学に通ってるときに親父から継いでくれって言われて。それで大学卒業してから修行に出ました。

―何か他に志してたものがおありだったんですか?
特にそういう訳でもなかったんですけど、子供の頃から大学に入るまでずっと野球をやってきて、大学入ると同時に野球もしなくなって、なんて言うんでしょうか、燃え尽き症候群みたいな感じになってましたね。

―では、その道に進むことに迷いはなかったんですか?
そうですね、迷う理由がなかったというか、はい。

―心のどこかでは料理人としての道をちらっと考えたことは?
いや、なかったですね笑。ほんとに。だから、当然料理に対する知識や関心も薄く、キャベツとレタスの違いも分からないレベルでいきなり、修行に行きましたから笑

―修行はどちらに行かれたんですか?
京都祇園の日本料理店へ修行に行きました。

―何年くらい修行を?
6年です。

―修行へはどう挑みましたか?
ほんとに何も分からなすぎたせいか、楽な気持ちで行ったんですよね。

―え?!楽な気持ちで?!
あ~、僕、ずっと野球やってきたんで、厳しくされるってことに対しては特に抵抗がないというか当然だと思ってたので、そういう意味では楽な気持ちで行ったんです。親父も2年ほど修行してきたらええよって感じでしたし、ま、2年頑張ろうかみたいな。

―実際、どうでした?
厳しいどころじゃなかったですよ笑。もう箸の持ち方から怒られまして。ま、料理のことはもちろん、言われてしょうがないんですが、僕のあまりの無知さからか、「親はそんなことも教えてくれへんだんか!」みたいなこと言われて・・・。その時からです、何か僕の中で確実に意識が変わったのは。何で親のことまで言われやなあかんねん!みたいなね。

―厳しい世界だというのはよく聞きますが、意識改革のきっかけがそういう形で起こったんですね。
はい、それが起爆剤?じゃないですけど、そこからくっそ~、腹立つ~、ていう意識から仕事への向き合い方が変わったというか・・・。

―具体的にどんな風に変わったんですか?
それまでは、何でも言うことを聞いていればいいやと思ってたんです。言われたことに対してはい、はいと。でも、それからは「〇〇やっとけよ」って言われた時には、「もうできてます」と、先にやっておくようにしました。ま、それが修行の道で学ぶことなんでしょうけど、僕の内心は相手の穴をかいてやろうじゃないけど、とにかく相手に先に言われるのが嫌で嫌で、何か言われたくない一心ですよね笑。でもその意識が地元に帰って親父の店を継ぐときに、親父にも教えてもらいたくない、親父の仕事以上のことを覚えて帰らなあかん・・・そういうとこにつながっていったんですよね。それじゃ、2年じゃ絶対無理やなって思って、それで6年修行しました。

―修行中でうれしかった思い出は?
ないです笑 マジでないです笑

―きっかけはどうであれ、意識改革できたことが今の養田さんにつながっているということですね。それで戻ってこられて、お店を継いだということですね?
そうですね、親父と一緒にという感じで。でも3年ほど前、親父が体調崩してしまってから、昼間は僕と妻2人で、夜はアルバイトの方達に手伝ってもらいながらやってます。

人気の饅頭

―地元に戻ってこられた当初はどうでした?
厳しい修行を終えて帰ってきたら、このお店がとてもゆるく感じて笑
なんか、そのゆるさに流されてしまってはいけないって思いと、ここは親父の店なんだし、僕はサブとして、親父のサポートなんだから親父のやりたいように・・・、そういう2つの思いがありました。

―お父様とぶつかったりとか?
ありますあります、しょっちゅうですよ笑
親父の献立に、もうちょっとなんか足したほうがいいんじゃないかとか意見することもありましたし、他にもいろいろ。

―養田さんの1日のスケジュールは?
仕出しの予約があるときは朝は早いですけど、特に予約がなければ9時頃お店来て昼2時まで営業。そこからちょっと休憩して、夕方5時から夜10時まで営業してます。

―お魚の仕入れも養田さんが?
はい、漁港に(和歌山)に直接行って仕入れたり、市場に行って仕入れます。

―山海里のお店の特徴は?
僕が修行していたお店は京都祇園のカウンター割烹(カウンターのみの懐石料理店)だったんですけど、そのお店に比べたら、うちのお店はカウンターもあれば、個室もある、そして宴会場が2つあって規模が大きいんです。一品から懐石、そして京都で学んだ料理を取り入れたコース料理を楽しんでもらう、いろんな場面に対応できる、そして地域に密着したお店を目指してやっています。

―日本料理は特に四季を感じられる料理ですよね。やはり、こちらでも季節の食材を?

はい、季節に応じて取り入れてます。例えば、この時期だと夏野菜。冬瓜、ずいき、あと、さんど豆、オクラとか茄子を使ってちょっと変わった料理をお出ししています。

―人気のメニューは何ですか?
レンコン饅頭です。もともとコースメニューの中の一品だったんですが、単品でも出してほしいと言っていただいて出すようにしてます。餅米とレンコンをすり合わせたものを揚げ、その上にウナギをのせてあんをかけたものです。

―美味しそうですね。
はい、人気です。

―養田さんご自身も他のお店に食べに行かれたりするんですか?
はい、食べに行きます。インスタ見て美味しそうやなって思ったとこへ食べに行ったり。最近はちょっと行けてないですけど。

―ご自宅でもお料理されるんですか?
しないです笑 賄いではパスタとか作りますけどね。

―賄いパスタ!?それも興味あります。私、パスタが大好きなんです。
修行中にイタリアンのシェフと知り合いになって、パスタの茹で方とか教えてもらったことがあるんです。それで・・・。暑い時期には冷製パスタとかね。お客さんにもリクエストされて作ったこともあります笑 からすみなんかを使ったパスタですけど。

―養田さんの好きな食べ物って何ですか?
うどんです笑  毎日うどんでもいいです。だから、賄いメニューもうどんが多くて、バイトの子に「また、うどんですか?笑」って言われます笑

―お休みの日は何をされてますか?
ゆっくりしてます。たまに妻と食事に行ったり。

―趣味は何ですか?
釣りです、海釣り。自分で釣った魚も出したりします。

五條でお店ができる・・・それって最高じゃないですか。

―養田さんが料理でこだわっていることって何ですか?
もちろん出汁とか、味付けはこだわっているというか当然大事ですが、最終的な「盛り付け」ですかね。綺麗にかっこよく、かわいくっていうのを心掛けてますね。

 

 

 

 

―またお仕事するうえで大切にしていることは?
親父の代から来てくださっている常連のお客様を大事にして、新しく自分のお客様、ファンも増やしていって、このお店を守り続けていくことです。

―ご自身の料理人としての歩み、また地元に戻ってからの10年を振り返ってみていかがですか?
「料理人」といっても子供の頃からその道を志して中学校出てすぐ修行に出る人、あるいは高校を出て専門学校、そして修行に出る人、僕のような道を経て料理人になる人、皆それぞれ違う歩みがあると思うんです。好きだと思って進む人もいれば、そうでない人、諦めてしまう人もいます。入り口はそれぞれ違うし経てきた経験も違うと当然それぞれが違う料理人になります。

3年ほど前から自分が中心でお店をするようになって、これからはちょっとずつ「自分の色」を出していきたいなと思っています。親父のときは一品料理とあと鍋料理がメインでしたが、僕は京料理を取り入れたコース料理をメインにしていきたいと思っています。これだけの規模のお店を一からしようと思えは大変です。そう思うと、僕は恵まれてるなと思うんです。親父が始めたこのお店、地域の皆さんに大事にしてもらって続けてこれたこのお店を守っていきたい、守っていかないといけないなと思っています。

―五條市でお店をしてることについて、そして今後の夢は?
生まれた町でお店をさせてもらってる、それって最高じゃないですかね。
これからも地元で可愛がってもらえるお店になれるように頑張りたいです。大部屋を座敷スタイルから、椅子とテーブルスタイルに変更したりと少しずつですが、ニーズに合わせるように取り組んでいます。窓からもっと景色が見えたら・・・、個室を掘りごたつにした方が・・・と、まだまだ改装したいところはありますが、幅広い年齢、地域の方に、幅広い目的でご利用いただけるようなお店を目指していきたいです。そしてやっぱり「コース料理」を食べにきてもらいたいです。

 

ー養田さん、ありがとうございました。

 

 店  名  山海里
 住  所  五條市御山町1-2
 電  話  0747-22-1739
 営業時間  11:30~14:00  17:00~22:00
 定 休 日  火曜日
 駐 車 場  有

大部屋・個室(座敷部屋・テーブル部屋共に有)
コース料理は予約要。


☆スタッフHのすぽっとwrite☆

インタビューも終わりに近づき、五條でお店をしてることについての質問に
「地元で店ができる、そんな最高なことないでしょ」と養田さん。
「僕は恵まれてると思います」と続く言葉には、父から継いだお店、お客様への感謝、そして料理人として仕事に誇りを持って取り組んでいる様子が伝わりました。

自ら望んで進んだ道ではなかった・・・料理人への入口はそうであっても
こんな美味しい日本料理のコースを出してくれる料理人がいる、お店がある・・・
そんな五條市って・・・最高じゃないですか!(^^)!

 

 

第60回 【旬海茶屋 ふくだ】女将 福田 佳世子さん

おもてなしの流儀で歩んだ、夫婦『二人三脚』の道のり

 

おもてなしの「こころ」と、熟練の目で食材を見極め、美味しい日本料理を提供してくれる【旬海茶屋 ふくだ】。
目にも美しい至福の料理は、舌と脳裏に焼き付く絶品の数々と、それらを生み出す最高の厳選食材が自慢。

 

 

 

「鮮魚と料理への深い想い」にあらためて気づき、この五條の地で、夫婦二人三脚で歩んでこられた福田夫妻。
【旬海茶屋 ふくだ】では、落ち着いた雰囲気と居心地の良いカウンターで、新鮮な魚介を使った日本料理を、心を込めて提供してくれる数少ないお店です。
長くご夫婦でやってこられたゆえの夫婦円満の秘訣や、お店のことなど多岐にわたり、女将でもある福田さんにお話をお伺いしました。

 

 

 

お店の成り立ち

―どのようなお店の経緯をたどってこられましたか

20代の頃、大阪でスーパーの経営に乗り出し、鮮魚の仕入や、扱いを始めました。
58才を機にスーパーの経営をやめて、長い間の夢であった日本料理店をオープンしました。

今後の人生を考える中で、落ち着いた環境の地”五條”で皆様に喜んで頂ける、日本料理を提供出来るお店をオープンしたいと考えました。

 

お客様について

遠方からのリピーターのお客様もたくさんおられます。
おいしいお料理を食べに定期的に来られる方、常連のお客様、ご家族様のお食事、ゴルフ帰りにお友達と来られる方、ゴルフコンペの後の会食、お祝事、仏事、お友達とのランチやディナー等に利用して頂いております。

―その中でもうれしかったことは何かありますか?

帰られる時のお客様の笑顔と「おいしかった」という言葉がとてもうれしくはげみになります。

ご来店のお客様には満足して頂けるように、心をこめておもてなしをさせて頂いております。

―お店の様子はいかがですか?

カウンター席が10席、掘りごたつのテーブル席が3つ、4人掛けのテーブルが1つ、それと団体様もご利用頂ける離れには20人のお席を設けております。

 

 

自慢のメニュー

―メニューもたくさんあると思いますが特におすすめのメニューがあれば教えていただけますか

 

 

今でしたら鱧料理、冬でしたらふぐ料理です。
お造りは魚が新鮮なんで、来られた方は必ずお造りをたのまれます。
お造りの盛り合わせとか、必ず食べられますね。

おまかせのお造りはその時々のですか?

 

そうですね。その時に入った新鮮なお魚を使っています。
その他にも、お寿司、鍋もの、焼きもの、サラダや一品料理、会席まで全部揃っているので、ご予約なしで当日来られても、対応させて頂きます。

 

 

 

五條について

落ち着いた環境で、住んでおられる方も親切で親しみがある方ばかりで、最初からかわいがってもらいました。

とても溶け込みやすいと思います。

 

 

 

今後について

今後どんなふうにこのお店をしたいかとか、もっとこういう風にしたいとかありますか?

いつまでもお客様にかわいがって頂けるように努力してまいります。
これからは、お互いに健康管理を充分にして、仕事と遊びの両立を楽しんで行きたいと思っております。

 

 

 

福田さん本日はありがとうございました。

 

 

旬海茶屋 ふくだ

所在地 五條市田園3-9-7
TEL 0747-24-4129
営業時間 17:00~22:00
※ランチは予約のみ対応可
定休日 月・火

※団体予約あり:20人まで可能。会席のご予約は4日前までにお願いします。

 

 

 

 

☆スタッフ森子のつぶやき☆

季節を感じられる綺麗なお料理の数々。
旬の新鮮な活魚を毎日市場から仕入れ、ご主人の確かな腕で調理されるその食材は、鮮魚が苦手な私でも一度食べてみたいと思うほどのお料理。
もちろん”ツウ”の方なら納得の絶品料理を提供してくださいます。
お母さんがつくる、一品料理もどれも食べてみたいものばかり。
夫婦で営まれる、おもてなしの「ふくだ」さん。
これからも共通の趣味でリフレッシュされながら、お二人仲良く歩んで行ってほしいと思いました。

第58回 インドレストラン SHAKTI(シャクティ)五條店 店長 サポコタ カラナンダさん

インド料理をもっと身近に。カレーに秘められた思い

 

 

ー サポコタさん、本日はお忙しい中ありがとうございます。すみません、最初だけ少し、ネパール語でご挨拶させていただけたら…

राम्रो छ(ラムロチャ) いいですよ!

- नमस्कार सपोकोटा करानन्द  मेरो नाम माफ गर्नुहोस् नक्कली हो ナマスカール、サポコタ カラナンダ メロナーム ゴジョウガス フカセ ホ(こんにちは、サポコタ カラナンダさん、わたくしは五条ガスのフカセです。)

नमस्ते मेरो नाम सपोकोटा करानन्द हो ナマステ メロナーム サポコタ カラナンダ ホ(こんにちは。私の名前は「サポコタ カラナンダ」です)

तपाईंलाई भेटेर खुसी लाग्यो सन्चै हुनुहुन्छ タパイライベテラクシラギョ サンチャイ フヌフンチャ(お会いできて嬉しいです。お元気ですか?)

सन्चै छु サンチャイ チュ(とても元気です)

आज तातो छ  アジャ ニャーノ チャ(今日は本当に暖かいですね!)

हो । ホ!(そうですね!)

आजको लागि धन्यबाद アジャ ダンネバード (本日はどうもありがとうございます)

राम्रो छ धन्यवाद । ラムロ チャ ダンネバード(とってもお上手ですね!どうもありがとう)

 

ー ありがとうございます。それでは、最初の質問です。サプコタさんが、料理の道を目指された理由といたしましては?

う~んそうですね… 子供のころから単純に、「料理をすること」自体に興味がありまして、家族の食事も作ったりしてて、自然に料理人を目指していましたね。私はネパール出身なのですが、18歳で高校を出てすぐインドに渡り、11年間料理の修業をしました。

ー 11年もの修業を経てきたのですね。インドでの修業はやはり厳しかったですよね?

まあ… 仕事は確かに厳しかったでしょうか。どこの世界でもそうななのでしょうけれど、最初の1年間は苦労しました。でも、言葉の面については、母国語であるネパール語と、インドでの言語「ヒンディー語」とはそんなに違いはないので、戸惑いはありませんでしたね。

ー インドは「ヒンディー語」という言語なのですね。ネパール語とはよく似ているとのことですが…

ネパールではインド映画・テレビ・コマーシャルを見たり、インドのラジオを聞いたりするので、ネパールでヒンディー語を話せる人は多くいます。
ネパールではネパール語も、ヒンディー語も両方通じます。ただインドでは、ヒンディー語は通じても、ネパール語は通じません。

 

 

ー ネパール語はネパールだけで通じる言語なのですね。あと、世界地図でみれば、ネパールはインドの北に位置して、お隣同士なのですが、インドとの違いはといいますと?

おっしゃる通り、ネパールの位置はインドの北で陸続きです。歴史でいえば、ネパールは、インドやチベット、中国と近く、それらの国の文化の影響を受けてきたという背景があります。対してインドは古くから文明が起こり、その文明が他国に影響を与えてきたということ。ですから、ネパールは他の文化を吸収し、インドは自分たちの文化を広める… ということで両国は対照的なんですね。実はネパールとインドの間の国境を行き来するのには、ビザやパスポートの類は必要ないんです。ですから両国の人の行き来は盛んで、ネパールからインドへ出稼ぎに行っている人は多いですね。あと、国民性でいえば… やはり自分たちの文化を広めてきた、インドの人が、どちらかというと積極的な人が多いかな?

ー ありがとうございます。理解できました。それでは次のお話です。サポコタさんが、来日されたきっかけとは?

日本在住の友人からの紹介ですね。友人が、日本でインド料理店を運営している企業に、私を紹介してくれたんです。それで海を渡り、最初は福岡市にやってきました。2008年の2月頃ですね。

ー 最初は福岡県なのですね。サポコタさん自身は、日本行きは自分の意志で?

そうですね。私はネパールで働きたかったのですが、当時はネパールはインド料理店も少なく、料理の仕事もあまりありませんでした。今はそうではないのでしょうけれど… このままネパールにいても、おそらく仕事はないだろう、と。そして日本にいる友人にいろいろアドバイスをもらって、日本なら(インド料理の)仕事はある、ということと、それと私自身も来日前から、日本という国には興味があったからですね。

ー でも、祖国のネパールを離れるのに、寂しさはありませんでしたか? 

確かに最初は、寂しさとか、そういう思いはありましたが、もう慣れましたね。僕も、家族(奥さんと娘さん)と来ていますし。息子だけをネパールに残してですが。

ー 息子さんもいらっしゃる? では、サポコタさんは4人家族ということで?

そうです。ネパールにいる息子は医者を目指していて、医学の勉強をしています。あと3年で(学校を)卒業する予定です。

ー 医学を学んでいらっしゃる? 優秀な方なんですね!

いえいえ、ありがとうございます(笑)。

ー それでは、お話戻りますが、サポコタさんは来日されて今年で12年目になるということですが、日本のいいところ悪いところ、それぞれ思いはありますか?われわれ日本人にとっては普通でも、外国人のかたからすれば「?」と感じられることも多いとよく聞きます…

それはどうだろう?私が来日してから、日本の風習や常識を、そのように感じたことは、未だにないですね… 良いところばかりのような気がしますが(笑) でも、普段は仕事ばかりなので、あまり外へ出ていく機会がなく、日本についてここが変だとかここが悪いということを、そんなに意識していないだけかも知れないですけどね。

ー そうですか、なかなか今はそういったことを意識する間がないといった感じなのですね。では、次にお伺いしたいのですが、サポコタさんが、来日されたばかりのお話をお伺いできれば…

ネパールから来日して、福岡にいたころは、「シャクティ」ではない別のインド料理店で働いていました。今のように、店長という立場ではなくて。その当時は私も日本語が全く分からなくて、厨房の中でだけの仕事でした。

 

 

 

 

 

 

ネパールでの「ありがとう(ナマステ)」のポーズ。合掌。この、「ナマステ」は、ありがとうの感謝の意だけでなく、朝のおはようから、おやすみまでの挨拶も、全部「ナマステ」。まさに魔法の言葉なのです。

 

ー 最初は言葉の点でだいぶ苦労されたと思います。でもサポコタさん、外国人のかたにとっては難しいという日本語を、もうほとんどマスターしておられる感じなのですが… こうやって、インタビューもスムーズに進んでいますし。

私も勉強が苦手でしたので、特段、日本語についてじっくり勉強した、ということはなかったです。仕事も忙しくて勉強する時間もなかったですし。でも、仕事の幅を広げていくには日本語は絶対必要。そう意識して過ごしているうちに、自然に覚えていった感じですね。そして日本語を覚えるにつれ、厨房の仕事だけでなく、ホールの仕事もできるようになり、今、店長をするに至っている、という流れです。

ー すごいですね!でも「日本で仕事をしていく」という、サポコタさんの強い意識がなせた、ということですよね…

いやいや。まだまだ正確さには欠けますが(笑)。外国の人からすれば、日本語って、喋ったり聞いたりすることは、そんなに難しくはないですよ。でも、「書く」ということは難しくて、まだなかなかできない。どこの国の言葉でもそうじゃないですか?「書くこと」って。

ー でも、ネパール語と日本語とは、言語の体系が全く異なるでしょうし、本当にすごいことだと思います。あとサポコタさんは、英語も堪能だそうで。英語については、ネパールでいらっしゃった頃からマスターされておられるのでしょうか?

ネパールでは、ネパール語と英語を学びます。ネパールでは皆、ネパール語に加えて、英語も話すことができます。

ー そうなんですね!自分たちも学生の頃は確かに英語も学びましたが、サプコタさんのように、ペラペラしゃべるまでは到底いかないレベルです。そういう意味でも、ネパールのかたはとても優秀なのですね。

 

 

 

 

 

 

 

異国情緒溢れる、店内のポスターの数々。

 

 

 

 

この象さんたちのオブジェは… ガネーシャ?

 

 

 

ガネーシャ

ガネーシャとは、インド神話に出てくる4本の腕と象の頭を持つ神の名前。  日本では書籍「夢をかなえるゾウ」に登場することで有名です。インドでは数ある神の中でも最も有名かつ一番人気のある学問と商売繁盛の神様とされています。

 

 

そしてなぜか赤ちゃんの写真も。左上に見える数字の表?のような絵もカオス(笑)。でもこの「何でもあり感」好きです。

 

ー 次に、お店に関しての質問なのですが、この「シャクティ」という名前にはどういった意味があるのでしょうか?あと、奈良県内にも同じ「シャクティ」さんという名前のインド料理店も見かけたこともあるのですが、これらはいずれも系列店なのでしょうか?

「シャクティ」はネパール語で、「光」や「力」という意味があります。そして、同じ「シャクティ」という名前の、インド料理店のお店も、日本国内にはたくさんありますが、この五條のお店と、奈良の富雄、大阪の和泉府中店、この3店舗は運営している人物(社長)は同じですね。

ー 別に運営をしている社長さんがいらっしゃる… 自分はてっきり、サプコタさんがこちらのお店を経営されているものだと思っていました。

私はまだ、日本で永住権※を持っていませんので… ですから、お店の切り盛りは確かに私がしていますが、私が従業員を雇ってお店を経営する、ということはできません。でもいつかは… ということなんでしょうけど、まだまだ。

ー ありがとうございます。次に、カレーのお話をお伺いしたいのですが、ネパールとインドと言えばカレーですが、サポコタさんはどれくらいの頻度でカレーを食べていらっしゃる?

もちろん、ネパールもインドも、家庭でもごく普通にカレーはよく食べます。私も毎日カレーを食べています。お昼はご飯とカレー、夜はカレーとナン、というふうに。でも私が食べているカレーは、日本のカレーと違ってさらさらして水っぽいんです。

ー 本場のカレーは、日本のそれとは違って水っぽくてさらさらしている… ということはイメージにありました。では、ネパールとインドのカレー、両者の違いといえば?

そうですね… ネパールのカレーはインドカレーに比べて、香辛料が控えめで、どちらかといえば日本人の方にも食べやすいと思います。また、油も少ないので、インドカレーのような油っぽさはありません。インドカレーはその対極といって良いでしょうか。具材も、トマトやたまねぎといった野菜も多く、インドスパイスもふんだんに使います。あと、この、「シャクティ」ではナンをメインに、お客様に提供していますが、ネパールでは「ライス」を添えるのが中心です。

ー そうなんですね! ネパールではライスが中心… ということは、日本でいう、「カレーライス」のような感じなのですね。

ネパールのカレーにもナンを添える時はありますが、それは、特別な時においてだけで、普段はライスが中心ですね。

ー 次はこの「シャクティ」さんのお店についてお話をお伺いしたいと思います。私も何回も、シャクティさんをご利用させていただいているのですが、本当にメニューの種類が多いですよね!

シャクティでは、カレーは24種類、ナンは15種類のメニューがあります。それと日替わりカレーのランチセットに、あとは多人数向けのセットもありますね。あとは、おなじみのタンドリーチキンや、モモ(インド風餃子)や、チョーメン(インド風焼きそば)といった一品料理も多くあります。

 

 

お得と評判のランチメニュー。4種類から選べるカレーに、ライス、サラダ、そしてドリンクも選べるBセットは特にオススメ!(写真見にくくてスミマセン)

 

 

 

 

 

 

定番の「カレーライス」に、「お子様セット」と、小さなお子様向けのメニューもありますよ!

 

 

 

 

ー モモやチョーメンといった料理も、インド料理では有名なメニューなのですか?

いえ。ネパールは先程もお話ししたように、チベットや中国の影響を受けています。それは料理においても同じで、ネパール料理は、周囲の国の食べ物の影響を受けて、ネパール風にアレンジされたものなのですよ。ですから「モモ」はもともとチベットと関係が強かった、中国からの伝来で、「チョーメン」も元来は中国から伝わって、今はネパールではポピュラーな料理として親しまれています。

ー そうなのですね。自国風にアレンジするということは、日本の「カレーライス」や「ラーメン」も同じような感じなのでしょうね。では、シャクティさんの、数あるメニューの中で、サポコタさんのおすすめは?

まあ、すべてのメニューはおすすめなんですが(笑)、お客さんに人気があるのは、カレーでは「バターチキンカレー」、ナンは「チーズナン」ですね。それと、カレーに使っているターメリックやクミン、コリアンダーといったインドスパイスも、すべて現地から用意したものです。

ー バターチキンカレーはシャクティさんに来たらいつも食べています(笑)。クセがなくて、食べやすいカレーです。あと、チーズナンはまだ食べたことがないのですが、確かにシャクティさんの焼きたてのふっくらしたナンと、チーズの組み合わせは相性がバッチリでしょうね!

 

「カレーだけがメニューちゃうデ!」なぜか関西弁風(笑)。地味に笑いを誘います。

 

 

 

 

 

 

 あと、サラダのドレッシングが美味しいってよく言っていただいていますね。

ー そうなんですよね。インターネットのグルメに関するサイトでは、シャクティさんに実際に行かれた方の感想も、多々見かけたこともあるのですが、「美味しかったのでまた行きたい」という感想や「店員さんが優しかった」という好意的なものばかりでした。その中で、「ドレッシングが美味しかった」という感想が特に多い気がしましたが、その秘密は?

 あのドレッシングは、ベースは日本のごまドレッシングがベースなんですよ。ごまドレッシングに、少しだけ大根、玉ねぎ、にんじんをすりつぶして、それにパプリカを加えてインドスパイスで仕上げたものなんです。このドレッシングは、今までは(お店では)販売していませんでしたが、これからは販売していく予定です。

ー ドレッシング一つでも、手が込んでいるのですね。自分はあまり野菜は食べないのですが、このドレッシングを食べたかたからは、独特の香ばしい感じがしたとのことだったので、そういう秘密があったんですね!

 

某有名サイトでも評判の、インド風サラダドレッシング。野菜好きにはたまらない一品とのこと。

 

 

 

ー あと、「ナン」なのですが、シャクティさんのナンはとても大きいですよね!最初に見たとき、あまりの大きさに驚きました。自分もほかのインド料理店に何回か行ったことがあるのですが、どこもシャクティさんほどの大きさはなかったですね。

確かに、ナンは大きめだと思います。大阪や名古屋方面から来られた方も、うちのナンの大きさには驚かれていますね。でも大体日本のインド料理店のナンはあのぐらいの大きさが多いんです。もっと大きなナンを出しているお店もありますよ。

ー そうなんですか!シャクティさんのナンより大きなナン… 一度見てみたいです(笑)。でも、ナンが大きすぎるがために、カレーが足りなくなった、とかそういうこともないんですよね?

あまりそういう事も聞きませんね。ウチのお店は営業を始めて丸5年になるんですけど、1回だけ、カレーが足りなくなったかたがいました。まぁ、その方にはカレーをお代わりしていただきましたけど(笑)。

 

とにかく、「ナン」が大きいんです!食べ応えは抜群!

 

 

 

ー あと、サポコタさんは、「日本のカレーライス」についてどう思いますか?

 日本のカレーも美味しいです(笑)。でもネパールでは、日本のようにカレーをご飯にかけて食べません。ですからそこが、自分たちにとっては驚きですね。日本のカレーは、自分たちからすればちょっと甘いのですが、私は嫌いではないです。でも… 日本の料理は何でもおいしいですね!私は日本食では「ラーメン」が一番好きですね。あと、「スシ」や「テンプラ」なんかも好きです。でも、肉料理は食べられないんですよ。

ー そうなのですね。それは宗教上の理由で?

そうです。祖国のネパールにおいては牛は、ヒンドゥー教では神様のように崇められていまして、「牛肉」を食べるのは禁じられています。今でもネパール人の約8割は牛肉は食べません。

ー 豚肉やそのほかの肉もなんでしょうか?

いえ。牛肉以外は食べます。豚肉や鶏肉、マトン(羊の肉)なんかも食べます。

ー 確かに、シャクティさんだけでなく、他のインド料理店のメニューを見ても、「ポークカレー」や「チキンカレー」、「タンドリーチキン」などはあっても、「ビーフカレー」はありませんものね。

 

これは「タンドール」という、インド特有の「窯」。窯の中は480度もの高温になるのだそう。この「タンドール」で、ナンやタンドリーチキンを焼き上げます。

 

 

 

 

 

ー 次のお話なのですが、この日本で、インド料理店を営んでいる上で、気をつけておられることは?

「カレー」は日本でも国民食であることは知っています。もちろん、ネパール、インド料理でも代表的な存在です。だからといって、自分たちの好みは日本の方にそのまま当てはまるといえば絶対そんなことはない。特にこの五條では若い方は少なく、ご年配の方が多いです。ですから、「日本人に合わせる」それを一番のコンセプトとしています。それと老若男女みんなに召し上がっていただけるよう、カレーの辛さも細かくしています。インドカレーのお店なんだけど、「日本人の口に合うカレー」を提供させていただいていますね。

ー 「日本人の口に合うインドカレー」、サプコタさんは11年もの長い間、カレーの本場ともいえるインドで長らく修業をされた身から、いろいろ試行錯誤されたことだと思います。料理人にとって、自分のスタイルを変えていくのはとても難しいことでしょうしね。

 

 

ナマステ。

 

 

 

 

ー 最後の質問なのですが、目標や、シャクティさんをこういうお店にしたい、とかの展望はございますか?例えば、独立してお店の経営をお考えになっている… こと等は?

自分のお店をもって独立というのは、目標というよりかは… まあ、ちょっとずつ考えていきます。あと、「シャクティ」でお食事いただくことによって、五條のかたには、インド料理をもっと身近に感じていただけたら幸いです。

ー ありがとうございました。 それでは、最後にまた、ネパール語で少しお話させていただけたら…

 

 न्यवाद सपोकोटा करानन्द ダンネバード、サポコタ カラナンダ(サポコタ カラナンダさん、ありがとうございました)

ー धेरैराम्रो デレイラムロ(とても楽しかったです)

ー मलाई तपाईं मन पर्छ। फेरि भेटौला マライ タパイン マルパンチャ、フェリベトゥンラ(あなたのことが好きです、また会いましょう)

धन्यवाद। फेरि भेटौला ダンネバード、フェリベントゥンラ(ありがとう。また会いましょう!)

 

(編集後記)

ずっとずっと、インタビューに行こう!と思っていたのですが、なかなかインタビューに行けなかった今回の「シャクティ」さん。「すぽっとらい燈」初?の外国人のゲストさんともあって、最初と最後のごあいさつだけは、サプコタさんの母国語であるネパール語で!と意気込んで、付け焼刃で、ネパール語の勉強をしてみたのですが、やっぱり自分たちの慣れ親しんでいる平仮名やアルファベットでない言語体系(「デーヴァナーガリー」と言います)は難しい!サポコタさんも来日当初は、言葉の面で苦労されたとのことですが、今となっては日本語もほぼペラペラ、英語もマスターしているというバイリンガル。外国語を少しでも喋れるようになりたい… そう強く感じた今回のインタビューでした(笑)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第54回 フレンチレストラン「ラミ ダンファンス アラメゾン」オーナーシェフ 片山 英樹さん

 

”やり続けることに意味がある”
背中を押してくれ、励まし応援してくれた人たちがいたから・・・。

ノスタルジックな空間が織りなすフレンチの世界。その世界観をこの五條から発信できる喜び。

江戸の町並みが今も残る五條新町通りに、お店を構える古民家フレンチレストラン。どこか懐かしいような店内で、地元の農家さんがこだわって丹精込めて作ったお野菜を使った極上フレンチを提供されている、オーナーシェフ片山秀樹さんにお話しをお伺いしました。

 

 

この場所で・・

-この五條の新町でお店を始めようとしたきっかけは・・。

もともと五條の農家さんから直接お野菜を買わせて頂くお仕事をしてたんです。ここに来る前に、奈良県の郡山市にあるホテルの料理長をしてるときに紹介してもらって。五條の農家さんとかその近郊の農家さんから直接買わせてもらってたんです。

それで付き合いが長くなっていくと、だんだん直接農家さんの畑に遊びに行ったりとか、農家さんがお店に食べに来てくれたりとか、行き来をだんだんするようになって。そんな時にこの通りの「五條源兵衛」さんがオープンして、農家さんがそこにもお野菜を入れてはったんですけど、五條にこんな店ができたよって招待して頂いて。

源兵衛さんに?

第52回 五條源兵衛 料理長 中谷 曉人さんのインタビューはこちら

そうです。
オープンして1週間くらいの時かな?招待してもらって。

その時に大和社中の代表の中さんが立ち上げた、法人で運営してる会社があるんですけど、そこの社長でもあった中さんを紹介してもらって。ちょうどその時に”将来的に田舎でゆっくり店でもしてみたいな”という話を農家さんにしていたタイミングで中さんを紹介されて・・・。

”じゃあもしその気があるならいかかがですか?”って。

五條の新町に空き家もあるし・・ということで、前の持ち主の方から全然手つかずでほったらかしになっているので、もしよければと、お話をいただきました。

新町も東の入り口側はたくさんお店屋さんあるけど、西の入り口は少なくて人の流れも寂しいから、こっちで店をやって頂けたら有り難いな。というお話から、真剣に”じゃあやりましょか?”というのが店を始めるきっかけになったというか・・・。

重要伝統的建造物群なのですぐには工事も出来ないし、それに工事をする直前にちょうど東日本大震災があって・・・。

あれって2011年・・・?

そうですね。
ちょうどその時に重伝建(重要伝統的建造物群)の申請をしてたので・・・

じゅうでんけん・・?

重要伝統的建造物群です。
改装っていうんですか・・復元するときに文化庁に申請を出して許可を頂かないと建物を触れないんです。

それで出してたんですけどちょうど、東日本大震災とかぶってしまって。東日本、東北一円の重要文化財が傷んでしまったのでそちらの修復が優先になってしまって、五條とか西日本は後回しになって工事が遅れたりとかで・・。

五條に来て・・・オープンしたのは話あってから3年目くらいですかね。

結構かかってるんですね

そうですね。一番最初に話しがあってから3年くらい経ってるんで。重伝建の許可が下りなかったりとかそのほか資金面でも・・・。

そなこんなで話があってから3年・・五條に僕が来て話を進めてからでも丸1年以上かかってやっと、という感じですね。

じゃあもともと五條ではなかったけどこのお話を頂いて五條に・・・?

そうです。
僕はもともと大阪なんです。生まれも大阪で住まいも大阪市内だったので、そこから(前職場の)郡山に通っていたんですけど。

こっちでお店をということで引越もしたんですけど・・・そんなんでなかなか話も進まなくて・・。店をやるって言って申請してから1年半くらいかかったんかな?実際オープンするまで。

その時には五條に住まわれていたんですよね?

そうですね。もう五條に引っ越してきてたんで。
ただ、いつ許可が下りるのか不透明やったし・・。それが下りない限り工事も出来ないので、だいぶ遅れたんですけど・・・。それでやっとこさオープンに漕ぎ着けたという感じです。

そんなご苦労があったんですね。
それでそこからオープンはいつなんでしょう?

震災の次の・・2012年の7月・・なので今8年目ですね。

 

手つかずの空き家から古民家フレンチレストランへと変貌をとげるまで

-もともと空き家だったこの場所ですがここに来た時は家はどんな状態でしたか?

来た時はもうお化け屋敷くらいボロボロでした。聞いた話では40年近くずっと空き家で借り手もなく放置されていて、持ち主も戦後すぐ五條を離れたとかで・・今は神戸に住まわれてるんですけど。
不動産屋さんにまかせっきりで、全くこっちにかかわってなかったみたいで。

ここと、この2階と今、借りてる駐車場とガレージと、この裏に2軒くらいおうちがあるんですけど、それ全部その方の持ち物で。

重伝建に指定されると、売り買いがなかなかスムーズにいかなくて。ボロボロやけど更地にするのも許可がいるし、建替えにしてもこの現状を維持しないといけないっていうのがあって。

そんなことで持ち主の方が、それならもう寄付してもいいかな、ということで寄付をされて、今はNPOの持ち物になってるんです。

家も40年間ほったらかしだったので、柱と梁はそのままでしたけど壁は落ちている部分もあって。床も畳やったんですけど、腐ってなくなってたりとかシロアリにやられてたりとか。

雨漏りがして・・元々あったトイレの場所も崩れてたりとか、庭も木が生い茂ってジャングルみたいでした。

その時どうしようと思いました?

いや何とかなるやろなと思いました。
それより家ってほってたらこんな事になるねんなと思いましたね。

でもここにきて手を付けてからは早かったですか?

工事始まってからは割と早かったんですけど、申請とかにいろいろやっぱり時間がかかりましたね。だからオープンまではなかなか上手くいかなかったですね。

改装までに大変なご苦労があったわけですが、お一人でされていたのですか?

立ち上げからオープンまでその時のNPOの代表の中さんが、一緒に協力してやりましょうってことで・・。だから中さんにはだいぶ助けて頂いているんですけど。

まあ全く五條に縁もゆかりもないし、知り合いもいないし・・。
農家さん以外繋がりもないし・・。

それで中さんを主体にNPOの方に助けてもらいながらオープンした形ですね。中さんやNPOの方のバックアップがないと出来なかったし、ここ(五條)に来る事もなかったかなと・・・。

最初不安はなかったですか?知らない土地に来るって。

ああ、そうですね。若干ありましたけどね。
でも・・多分、田舎っていったら失礼ですけど、都会ほど人口の多い場所でもないしメジャーな観光地でもないし・・。

大阪にいてて「五條」って言われても「どこ?」っていう感じなので。そんな感じの場所なので。吉野とか十津川とか飛鳥って名前きいたら「あぁっ!」ってなるけど、その通り道にある五條ってみんな気づいてないだろなっていうのがあって。

だから、まあ最初からここですごく儲かるとは思わずに、店が維持出来たらいいかな、っていうくらいのスタンスでやってたんで・・。実際、全然儲かってないんですけど 笑

なので皆さんに助けてもらってばっかりなんです。

でもNPOの方も
「やり続ける事に意味があるから負けずに続けてください」って。励ましてもらって応援してもらってるので、これだけ続いてるのかなと・・・。そうでなかったら辞めてるかも知れません。

やっぱりそういうところも人との出会いがあってこそですか?

そうですね。最初のその縁があって・・「えにし」っていうんですかね。最初に繋がってたおかげで今があるって思ってますね。

素敵ですね。私もこうやって取材させてもらってお話聞かせてもらうとみなさん「縁」を大切にされている方ばかりで・・。

そうですね。結局こういう場所で商売しようと思ったらそれが大切になってきますよね。人が不特定多数来るところなら別にそんなに(集客を)気にしなくてもいいんですけど、そうじゃないんで。
誰かに助けてもらったり・・という事も多いんですよ。

あります?そういう助けられてるな?っていう実感

そうですね。
お客さんとかでも、お客さんがお客さんが呼んでくれたりするときですね。でも良い面もありますけどその分、難しい所もありますね。人間関係とかつきあいとか・・うまくやっていかないといけないというのはあるんで・・まあその両方あるんですけどね。

人間関係の大切さ・・・。
世界観が狭くなると窮屈になってくるかもしれませんが、だからこそ人と人との”つながり”が大切になってきますよね

そうですね。
それはある程度慣れっていうんですかね・・。大阪から引っ越して来て、ここで住んでるだけでも自治会とのつきあいとかがあって。大阪なんてマンションに住んでたらそんなのもないんですけど。自分がそこに入っていって、そこで何かしていないと地域とうまくやっていけないし・・・。

そうですね。
なにか困った時にコミニュケーションが薄いと難しいですもんね

 

料理人としてのこれまで

-以前郡山のお店で料理人をされていたわけですが
料理人を目指すきっかけを教えて下さい

きっかけ・・そうですね。
もうこの世界に入って40年超えましたから・・。

40年!

そうですね・・40年超えました。
だから、さかのぼること40ウン年前のことですけど。
僕が高校生の時に、ちょうど世間にファミリーレストランが初めてできた頃なんですが、そこでアルバイトをして。

ロイヤルホストとかが、初めて街に登場して増えだした頃・・ファミリーレストランが一番全盛期の頃ですね。できてみんながファミリーレストランに行って、いつも長打の列を作っていた時代に、高校の近くにあったファミリーレストランでアルバイトを始めたのがこの仕事の最初きっかけですね。

それは厨房でですか?

そうです。たまたま同級生のお兄さんがロイヤルホストの社員で、料理長として新しくできた店舗に赴任してきて。そのお店が高校から割と近い距離やったんで、「アルバイト探してるからいかへんか?」って言われて。
それで何人かでオープン前から準備したりビラ配ったりとかのアルバイトしてる時に、割と楽しいかなっていう思いがあって。

それとモノを創ったり・・そういうのも好きやったし。

・・・ぼくね・・・最近の言葉でいうと
実は「コミュ障」なんです。笑

えーーっ?そうなんですか?

大勢の中に自分から入っていくのが苦手で・・・。だから営業とか会社の中に入っていく仕事はしたくないなと。それと、個人的な問題ですけど、父親が居なくて家が貧乏だったので早く働かないといけないっていうのもあって・・。

まあこの職業は食べることに困らないんで 笑

そうですね 笑

というのもあって、ちょうど世間も高度成長期時代・・昭和50年代ですかね。バブル前の成長期時代に就職したんで、世の中すごく景気のいい右肩上がりの頃で、食べることにも困らないしで。だから高校出てすぐ料理人として働きました。

それにモノを作るのは楽しいしやり甲斐がありますよね。

今でこそ働き方改革で労働時間とか休みがどうとかって言いますけど、僕らの頃は職人やしっていう感覚も強くて・・。見習いのうちは長い時間、働かないといけないし、一日15時間とか当たり前やし・・ってそんな時代を経てきましたけど。

世の中の景気の波が良かったんでしょうね。高度成長期時代で世の中景気が良くて、飲食店もどんどん増えていって調理師になる子も多かったし。それに頑張れば頑張った分、出世できたみたいな時代ですしね。

やりたいことがあって、それを目標としてやって、やったらやるだけ評価される・・・ってうらやましいです

そうですね。でも何回もやってみて上の立場になって、頭打って苦労して頑張って・・。って繰り返しましたけど・・・早いうちから管理職になっていたので・・それは時代がよかったのかなって思います。でもその分アホほど働かされましたけど。

その管理職っていうのはロイヤルホストで?

いえ、ロイヤルホストには就職はしてなくて。長く働いていたのはホテルが多いですね。だからそうですね20代後半・・それこそバブルの真っ最中にはリゾート開発の会社に就職して。ゴルフ場とかスキー場が併設された、青森にある青森ロイヤルホテルっていうリゾートホテルの副料理長をやっていたりとかしました。

今でもそのホテルはありますけど、計画倒産して経営者が代わったりしたので大阪に帰って来て。その後、大阪ヒルトンホテルに行ってそのままの流れで管理職をしてました。ある程度・・ホテルを2件くらい働いて、最後は東京に本社がある郡山のホテルの料理長をしてました。

そのホテルを50歳の時にやめてここに来たんですけど。もともと50歳くらいでリセットしようと思っていて。長く管理職していたんで、もうそろそろいいかなって。子供達も20歳も過ぎてきたのでというところですね。そんなに欲もないので儲けを気にしないで、そろそろ田舎の方でお店をしようかな、って考えてた時にちょうどこの話を頂いたんで。

やっぱりタイミングが合ったのもあるしっていう

そうですね。その間にいろいろあったんですけどね。

本当はもうひとり一緒にしよかって人もいたんですけど。やりたいときにすぐ事業が始められなかったんで、2年も3年も先伸ばしになったんで。だからその子は今すぐしたかったんで、違うところで始めましたけど。

すぐに事業が始められていたらまた違う感じになっていたかもわかりませんね

そうですね。
店の雰囲気も変わっていたかもわかりません。僕は経営者に向いてないので、また二人でやってたら違う感じになったでしょうね。

いろいろ不安はあったと思いますけど・・不安と楽しみはどっちがおっきかったですか?

うーん・・。

・・って勝手に不安があったんじゃないかなって言ってますけど・・

いや不安はありますよ。お客さん来るかどうかわからへんし・・・。でもなんかいつもなんとかなるかなっていうような感じですかね。

そうですね
リスクばっかり考えてても絶対前向いて進まないですからね

そうですね。
だけどそれがあんまりよくなかったかなと。もう少し慎重にやってても良かったのかなと思いますけど。

でも行動って起こしてみないとわからないところはありますもんね

そうですね。やってみやなわからんところはありますね。
やってみていろんな問題点とかこうしたらよかったとか、ああしたらよかったとか見える所もありますしね。

だから、経営者として見る目と、僕らみたいな職人から見る目と違うじゃないですか。僕は長く創るサイドにいた人間なんで・・。
ホテルでも管理職はしてましたけど、創る方の管理職なので売る方の事はイマイチ得意じゃないので・・・その辺が苦労しましたね。まあそんなこんなで何とかここまで来てる感じですかね。

 

期待値が大きいほど「ありがとう」が価値のあるモノになるよろこび

-そんな中でも料理人としての喜びはどんな時に?

それはね単純にお客さんに喜んでもらった時ですかね。

モノを売る商売の中で、お金もらって「美味しかったよ」「ありがとう」って言ってもらえる職業ってそんなにたくさんないと思うんですよ。僕らはそれを言ってもらえるので。

でも料金が高ければ高いほど、お金払う人の期待値は高くなるじゃないですか。やっぱり1杯何百円のラーメンの期待値と、1万円のコースの期待値とでは全然違うと思うんです。

それに応えないといけないというのと、それが上手くいってお客さんがすごく喜んで頂いたときの達成感っていうのは特別なものがあるので・・・。

それが一番この仕事のやりがいっていうんですかね・・。
お客さんに喜んで頂けるっていう。

逆に料理人をやってて苦労されたことは

そうですね・・・苦労・・。

対お客さんっていうのはそうでもないんですけど、やっぱり人を使うっていうのはね、難しいところがありますよね。たくさん管理職を経験して人間を使っていく事の難しさというか・・。

私の勝手なイメージですが、料理人の方って寡黙な方が多くて「背中でついてこいよ」っていうような方が多いように思うんですけど・・

笑 そんなこともないんですけど。

ただ特に今の時代は、労働時間だなんだって難しい時代背景もあって。一律にじゃあみんな同じ事を教えて同じことができるかって、そうじゃないじゃないですか。1回言って出来る子もいれば、3回言っても出来ない子もいてるし・・じゃあその出来ない子はダメなのかって、そういうわけでもないし・・。

適材適所って言いますけど、やっぱり特性を見極めてあげて人を使わないと・・。ダメだからって切っていっても、次また人をどんどん入れられるっていう世の中でもないですからね。高度成長期時代みたいに子どももたくさんいてて、次から次へって採用出来る時代ではないですからね。

特に調理師も今は3Kっていわれて、労働時間が長いとかキツイとかしんどいと言われるので、なる子がすごく減ってるので。
だからいかに人をうまく育てていくか、ということに難しさを感じますね。

管理職っていうか上に立ってはる方やから、そういう悩みっていうか・・

絶対に人はいりますからね。モノを創るっていう事は。
大工さんとかも一緒ですけど、人の手が絶対いる職業なので。どんなに頑張ってもひとりの手は2本しかないですからね。だからそういうところは難しい所ですよね。

 

色彩ゆたかな地元の野菜を使った料理

-色とりどりのまるで絵画のようなフランス料理ですが特にこだわっていることはありますか

フランス料理だからっていうわけではないんですけど、料理を作る心構えって僕らも教えられたんですけど。

まずは安心安全ですよね。食材が安心安全って。それでいておいしい。そして見た目がきれい。まずそれが大原則ですね。
この3つ「安心安全」「おいしい」「きれい」っていうのを大事に料理をするっていう事ですよね。

その「安心・安全」とうことで、五條の農家さんを・・

そうですね。そういうことのひとつとして、地元の有機野菜、無農薬の野菜を使うとか・・。あとそうですね、その他の小麦粉とかも国産の小麦粉を使ってパンを作るとか、砂糖にしても国産の有機栽培のさとうきびだけの砂糖を使うとか・・。

砂糖って輸入品なんですか?

普通に売ってる上白糖は原材料はほとんど輸入ですね。砂糖を白くするには精製して漂白して白くしているんで。

そしたら三温糖みたいな色が本来の・・砂糖ってみんな白いものやと思ってると思うんですけど。

そうですね。

逆に砂糖を白くしなくてもいいのにな思うんですけど・・・
三温糖みたいな色をしていても・・

その理由はいろいろありますね。三温糖っていうかそれ以前の素精糖っていうんですけど、漂白する前の砂糖って混ぜものが結構入ってるんで、それがミネラルがあって健康に良いとされてますけどね。

何年か前に、中国の輸入食品に農薬が入っているっていう事件があってから国産熱が高くなりましたよね。その時に輸入を見直すところが出てきて、輸入に頼らず国産でという流れになってきて。
ただ国産となると値段も高くなりますけど、それでもあえて食べたい人達も増えてきてるので。

全然違うんですかね?安心安全の意味からでも、お味としても・・?

そうですね。味も違いますね。だから作り方にもよりますけど、食べてもらったらわかりますけどね。

特にここ最近は客層も二極化になってきてますよね。
高くてもそういうのを食べたい人と、極力安く買いたい人達に極端に分かれてきてますよね。

こういうところでも、そういうのを使って高く提供しているんですが、そういうのが良いといって来てくれる人もいますが、でも中にはここの値段を見ただけで高いからやめる、っていう人も実際何人もいてはるし。

でもそれにはちゃんと理由があるっていうことですもんね

まあその辺は価値観の問題で、極端に差があるっていう風に変わってきましたよね。ここのランチが最低が2800円・・これが高いか安いかって話ですもんね。

ほんとにそれは価値観の問題ですよね

だから、他府県とか関西圏関東圏、神戸や大阪、東京から来られた方はこの値段でビックリするくらい安い、って言われるし、この界隈の方はランチで2800円といったら来られなくなる方もおられますから。

でもそれは自分のモノサシじゃないですけど・・・

そうそう。
だからこのあたりの値段が割と安いので価値観というか・・・なかなか難しい所です。最初に農家さんがいってはったんですけど、奈良県全体が比較的そうなんですけど高いものが売れへんよ・・・って。

でも解ってくれはる方は一回食べたらわかってくれはるんでしょうけど・・

どちらかというと、五條以外のお客さんの方が多くなってきているのが確かですね。奈良県なら橿原とか高田、香芝とかのお客さんが多いですし、和歌山の方も多いですね。あと大阪の方も多いです。交通が割と便利になったんで。車で1時間くらい圏内の方は来てくださいますね。

ただ、こっち方面・・例えば西吉野の柿を買いに行きましょうとか、十津川に行きましょうとか、吉野、高野山に行きましょう、ってなってルートを検索した時に、どこでお昼ごはんを食べるか検索しますよね。そうした時にこのあたりは食べ物屋さんが少ないんで、時間的に五條の周辺とか橋本の周辺でごはんを食べようかっていう方もおられますよね。

それで気に入って頂けたらまた違う人と一緒に食べにきてもらったり・・って遠いお客さんが増えたりします。

お客さんがお客さんを呼ぶって事ですよね

たくさんのお客様が来られると思いますが、思い出深いお客さんとかおられますか?

そうですね。
やっぱりね回数もそうですし、特別な会話とかをすると頭に残りますよね。特別な料理を注文していただいたりとか・・。1回目は覚えてなくても2回目来た時に思いだして会話したりとか・・。その中で気に入ってもらえて、しょっちゅう来てもらえたりとかもします。

この近くの辯天宗の大祭の時に他府県から来られる方がよく利用したりもされますね。

そうなんですね
逆に奈良県外のお客さんに来てもらって五條の野菜を知ってもらうっていう事もできますよね

そうですね。それもひとつの目的っていったら偉そうなんですけど・・。

奈良県って商売下手くそなんですよね。野菜にしても商品にしても・・。奈良県産の野菜とかに大和野菜とかネーミング付けて販売してますけど、他府県であんまり見かけなかったりとか知名度低かったりとか・・。

京都の京野菜とか石川県の加賀野菜とかに比べて、全然表舞台であんまり名前を聞かない。でもちゃんと農業も盛んやし、モノも作ってるし・・。

つくね芋なんて御所で作っていて御所が発祥で特産品やけど、そんなん御所以外の人誰も知らんかったりとか・・・。

私、御所ですけど知らないです・・

郡山もいちじくの産地で、西日本でも有数なんですけど誰も知らなかったりとか。そういうのがあんまり上手じゃないので、そういう事も含めて、五條の野菜とか奈良の野菜の美味しさをわかってもらえたらいいなと。

なかなか自分たちが知ってることをどうやって発信していいのかって、いうのも奈良県の方っていうかこの辺の人たちは苦手なのかと思ったりもしますが・・。

そうですね。
・・・あんまり商売っ気ないっていうか・・。

そうですね 笑
商売っ気はほんまにないですね

飲食店にしても何にしても、ちょっとねマイナス思考のところが奈良県はあって・・。なんかイベントがあっても、どうせあんまり人なんかけーへんやろとか。そういうモノサシの人が多いので。

そんなこともないんですけどね。
それこそやってみないと分からないのにね・・

そうなんですけどね。なんかそういうところが根強いんですよね。

僕が思うに、奈良県でも奈良市とかでも飲食店が発展しないんですけど、そもそも奈良から京都に都が移って、京都は発展したけど奈良は忘れられてる、みたいな感じが強いじゃないですか。そういう”負け犬根性”みたいなのがあって、何百年の間に染み付いているような雰囲気がありますよね。

奈良に残っている人達の考え方がそうですよね。
前に平城京遷都1300年の時も、直前まで奈良の人って動かないんですよ。どうせ人がけーへんからなんかやってもあれやろ、っていって全然企画が進まなくて。

それよりも先にセブンイレブンが奈良限定で、遷都1300年祭を記念して、大和肉鶏と大和ポークのお弁当を販売したんですよ。3月から始まるので1月くらいから。

それを見てはじめて「なんか俺らもせんなあかんのちゃうの?」みたいな感じで、そっから重い腰を上げて動き出して、後手後手にまわったっていう話ですけど・・笑

1300年ってそうそう来るものじゃないのに・・次の区切りの1400年って100年後じゃないですか。そんな一大チャンスを逃す方が・・・って思いますけどね

どうせそんなけーへんやろうという考えで・・だから平城京跡の店舗が少なかったでしょ。

私も行きましたけど、ただ、だだっ広いだけで、何かちょっとわからへん感じでしたけど・・笑

実際、フタ開けたらすごい人が集まって、みんな慌ててしまって。奈良県知事がテレビで「奈良県の人は土日に行かないように。他府県の人がたくさん来られるので協力して下さい」っていうような事をテレビで言ってましたからね。

だからそういうところが下手くそなんですよね。最近はね、ちょっとイベントとかしたりして変わって来たりしましたけど・・・その辺が弱いところかなと。

このあたりの奈良県の南和地区でもそうやと思うんですけど、なかなか観光で伸び悩んでいますけどね。吉野は世界遺産になって桜があるんで人集まりますけどそれ以外のところがね・・。

そういう話になったら五條はすぐ交通の便がってまっさきに上がってくるんですけど、交通の便がっていうんやったら吉野だって一緒ですもんね。ものすごく不便じゃないですか。でも桜っていうひとつの名所があってっていう・・

そうですね。克服していく方法を考えて・・。言い訳でしょ。・・交通の便がって。人が集まるようになれば、交通機関も考えるわけじゃないですか。吉野だって近鉄線が桜のシーズンになれば増発したりするじゃないですか。

そうですね観光バスもありますしね

だからここらも観光地になって人が増えればJRも増やすかも知れないし。だからそういう事でやっていかないと何も始まらないと思うんですけどね。

私もそれは強く思います

一部の人はみんなそれを心配してはるみたいですけど。
柿の葉すしのたなかさんにも話を聞くと、京奈和道路が出来てどんどん便利になるけどそれでは五條が忘れられる、通り過ぎられてしまうじゃないですか。前までは交通の分岐点で、みんな五條通って吉野行ったり十津川行ったり高野山行ったりだったけど、高速道路がどんどん出来て良くなって、高野山行くのにも五條や橋本通らないじゃないですか。

十津川へ行くにも高速が出来て、どんどん早くなって直接目的地に行くから五條に寄らなくなってますよね。そうなったら五條に立ち寄ってもらう理由を作らないといけなくなりますよね。

高野山行くのにも橋本を通らないから国道沿いの店が閉める所が多くなってきますよね。特に営業車やトラックとかは燃費が全然違うから絶対乗りますよね。特に今は無料やから絶対乗りますよね。
前やったらご飯食べたりジュース買ったりと、コンビ二とか利用したりしてましたけど利用しないでしょ。休憩するのも道の駅とかサービスエリアとかを利用したり。

私も通勤で24号線を利用していますけど、京奈和が開通するまでは通勤時間帯がすごく混んでいたんですよ。だから通勤している方からすると、それが無くなったので喜んでいたんですけど・・・でもそう考えれば、交通量が少なくなる=利用客も減るっていう事ですもんね。お店にとっては死活問題ですよね・・。

そういう事ですね。

良い面の側面も考えないといけないですね・・

だからここ(五條)に人を呼べる方法を考えないと厳しいですよね・・。住んでる人も高齢化が進んでいて若い人が少ないし、子供も少ないし・・。

まぁ私もお隣の御所ですけど同じような状況ですけど・・でもなかなかそれをどうしたらいいんだろうって・・・

うーん。
だから自治体の取り組みの仕方やと思うんですけどね。

五條市は福祉が充実していなかったり・・未就学に対する手当・・
例えば医療費補助が充実していないとなかなか人が寄ってこないですね。子どもが減るからって学校減らしていったら余計不便になるでしょ。

そうですねまさに悪循環ですね

 

これからの五條に思うこと

-いくらかマイナスな面が出てしまいましたが良い面で・・

そうですね・・良さはたくさんあると思うんですよ。
特に農業とかだと有機栽培やったりとか頑張ってはるところもあったりとか。

やっぱり水が良いし土地も良いし。

この吉野川の川沿いっていうのは肥沃な土地が多いそうなんで食べ物もおいしいし。逆に金剛山系の山麓線のあたりは湧水が綺麗なんでお米もおいしいいし、野菜もおいしいし・・。

そういう良い環境があるんで、もっとそういうのをアピールすればいいなと思います。

観光にしても、住むにしても・・もっとそういうことをアピールする努力をしていかないといけないのかな、と思いますね。

それを実現させるってなったら、もちろん市だけでの活動では難しいやろうし、自治体の方やいろんな団体の方と手を組んで・・ってなってきますね。

五條市もやってるんですけど、それぞれが繋がってないですんですよね。それをうまくひとつにして、活性化させる事ができればもうちょっとよくなるのかなって・・。

 

 

みんなが懐かしむ そんな場所であれば

-最後になりましたがこのお店の「ラミ ダンファンス アラメゾン」の名前の由来は?

”ラミ ダンファンス”ってフランス語の熟語なんです。”ラミ”っていうのが友達なんです。”ダンファンス”っていうが子供時代っていう意味で。それで熟語で仲の良い友達・・おさななじみっていうような意味の熟語なんです。

それで”アラメゾン”っていうのが家っていう意味なんです。だからこの家が古くて古民家でって、この街並みとか雰囲気が、日本人のDNAにそういうのが焼きついていると思うんです。行ったことないけど、そういう田園風景とか見るとなんか懐かしく感じることってあるじゃないですか。

こんなとこに住んだこともないのになんだか懐かしく思うって・・・そういうイメージで「懐かしい家に帰って来た」っていう思いで名前を付けました。

 

すてきなお名前ですね。みんなが懐かしい家に帰る・・・まさにそんな場所にここがなればいいですね。

 

ところで片山さんの趣味とかは・・休日は何を?

趣味はバイクと釣りです。

コミュ障なんで 笑 一人で遊べる遊びが好きなんです。 笑

 

そんなコミュ障だとおっしゃる片山さんですがこれからどんなふうに?

そうですね。
今まで通り、地元の野菜とかを使って情報発信しながら、頑張っていくっていう感じですかね。

 

 

 

 

自身をコミュ障だと謙遜されながらも五條の良さを伝えていってくださる片山さん。
ここが五條の発信元になればと願うばかりです。

 

 

片山さん本日はありがとうございました!

 

Lami Denfance ala maison(ラミ ダンファンス アラメゾン)

所在地  〒637-0071
奈良県五條市二見1-9-28
TEL   0747-24-2205
営業時間  11:30~15:00(L.O. 13:30)
18:00~22:00(L.O. 20:30) ※要予約
定休日  水曜日
アクセス  JR和歌山線「大和二見」駅より徒歩5分
駐車場
※当店の駐車場は店と少し離れています。カーナビが乗用車の通り抜けできない道を案内することがあります。店も駐車場通りに面しており、狭い路地を通ることはありませんのでお気を付けください

HPはこちら

レストラン ラミ ダンファンス アラメゾン

 

 

 

 

☆森子のつぶやき☆
初めて訪れたとき、あまりにもフレンチと長屋とのミスマッチさに驚き、でも店内に入りそれが払拭されるほどのベストマッチングにさらに驚き・・。
”和”と”洋”の融合と調和。
そこに誰もが持ち合わせている”郷愁”が織り重なって生まれる空間。
フランス料理というとどこか格式ばった感じがし、かしこまって身構えてしまいがち。
でもここは”幼馴染の家”のように・・。
そんな想いが込められた、懐かしい佇まいの古民家でついつい長居をしてしまいそうな・・そんなノスタルジックな空間で、温厚なシェフが創るお料理を頂く時間は格別でした。