カテゴリー:美味しいお店

第66回 神戸屋靴店・喫茶神戸屋 中山純さん・中山裕湖さんご夫妻

音楽で人を幸せにできたら 神戸屋の暖簾を守りながら

 

シャッター街と化した寂しげな商店街に灯りがともり、心地よい音楽が流れてくる粋なお店がある。五條市で初めて靴屋を営んだという神戸屋靴店。2021年1月、喫茶神戸屋を併設リニューアルし、靴屋の四代目を受け継いだ裕湖さん(弥里朱華(みさとあやか)さん)は「美術教諭を経て青春時代をギリシャで過ごし、絵画の世界から転身した異色のラテン・ジャズシンガー」、そして喫茶マスターのご主人、中山純さんは音響のプロであり、サックスやベース、いくつもの楽器を演奏するミュージシャン。心地いいジャズの流れる店内で、興味深いお二人の人生のストーリーを裕湖さん(朱華さん)中心におうかがいしました。

引かれたレールから羽ばたいて

―まずは神戸屋靴店さんの創業について教えていただけますか
中山裕湖さん 以下裕湖さん)私のひいおばあちゃんの代からここで商売をしていて元々は雑貨屋だったと聞いてます。それが、時代が高度成長期手前、(履物が)下駄や草履の時代から靴へと変わる頃、店先に並べた靴が売れたので新しく出してきて並べる、そしたらまたすぐ売れる・・・そんな光景を目にした祖母が「これはいける!」と思ったのか、そこから「靴屋」を始めたそうです。
祖母はあの時代の女性にしてはとても精力的で、靴屋で儲けたお金で旅館を建て、その後も鰻寿司、スナック、薬屋、鍼灸院と先見の明で次々と商売を始め、ひとかたならぬ苦労をした人だったと思います。

―店名「神戸屋」というのは?
裕湖さん)創業当時から「神戸屋」という名前やったのかどうかはわからないのですが、祖母が靴屋を始めた頃、神戸市によく仕入れに行っていたそうです。仕入れては売れ、また仕入れ・・・ここと神戸市を何往復もしたと。そこから「神戸屋」になったんかもしれません。神戸は履物のまちやしね。当時は靴職人が靴を作る時代で、うちにも職人さんがいたそうです。その技術を祖父、そして父が受け継いで、学校から帰ってくると母はお店で靴の販売を、父は一日中仕事場でこつこつと作業している姿をよく見ました。父母共に人に施しをする気持ちを忘れたことのない人でした。それが今の商売へとつなげてくれているのだと日々感謝しています。

―4代目として靴屋を継がれたわけですが、いつ頃から継ぐという方向になったんでしょうか
裕湖さん)そんな両親は私を教師にさせたかったので子供の頃から、お絵かき、そろばん、ピアノ、お習字、日本舞踊・・・毎日いろんな習い事をさせました。中でも私はお絵かきと歌が大好きで、そこら中の壁に絵を描きまくっては怒られてました。でも小学校5年生の頃から、家にあった地球儀を眺めてるうちに、この丸い地球の裏側ってどうなってるんやろ?一体そこにはどんな人が住んでて、どんな言葉を喋って、どんなものを食べてるんやろ、ってものすごく興味深くてずっとその夢(もっと知りたい、他の国へ行ってみたい)を諦めずにいました。両親はとにかく商売は苦労するからと何としても私を教師にさせたかったので、まだ経済力もない私は家を飛び出すわけにもいかず、両親の望み通り教師になりました。だから継ぐことになったのはもっともっと後の話ですね。

 ―教師としてスタートをきった訳ですね
裕湖さん)はい。両親の教師になってほしいという思い、私は絵を描くことが大好きだったのでおのずと美術教師というレールが引かれました。21歳で採用試験に合格し初めて教壇に立ちましたが、やっぱり私に教師という地味な職業は向いてないと感じました。自分の人生、教師というレールの上を一生涯歩いていくことの息苦しさと何の変哲もない人生を送りたくないという思いで、精神的にも体力的にもきつかったですね。自分にそぐわない環境に身を置くとそうなりますよね。さらにはそのとき大失恋も経験し、身も心もボロボロになり、それで教師を辞め、スーツケースひとつでギリシャへ行くわけです。

 ーギリシャへ?!その経緯について詳しく聞かせてください
裕湖さん)教師を続けながらも、いつかは日本を出て未知の世界を見てみたいという気持ちは常にあって、23歳の時、画家達の集まりでヨーロッパ旅行に行きました。若い女性達はブランドに興味を持つ中、私は目もくれず、地図とスケッチブックを片手にひとりで街をウロウロ。映画「ローマの休日」で有名なスペイン広場の下で一日中絵を描いていました。その居心地の良さに引き込まれて帰りたくはなかった。翌年はインドネシア全土横断し、次に再びギリシャを訪れた時、拠点を見つけてきました。

 

 

 

 

↑20代の頃のヨーロッパの旅の絵
左からオンフルール・モンマルトルの丘・ベニス(オンフルールは入選作品)

 

―拠点?ですか
裕湖さん)そう、拠点。私が住める場所、頼れる人を見つけてきたんです。
ギリシャ旅行のエーゲ海クルーズで船酔いして何も食べれずしんどくてふらふらになっていた時に立ち寄った毛皮の店のセールスマネージャーに助けられ、私を見かねて現地の日本食レストランへ連れて行ってくださりその後自宅に招かれそこで彼の子供さんやお手伝いさんともお会いし、とても楽しい時間を過ごしました。彼はいつでも遊びに来てください、そして僕もまた、日本に行きたいですと。そのとき、ここは、この人は安心できる、拠点にいいなと思ったんです。その人が後々ビジネスパートナーになる訳です。
帰国してからも電話や手紙がたくさん来ました。私は恋愛感情は全くなかったのですが向こうがプロポーズをしに日本に来た訳です。これは日本を出るいい口実になると思いました。それが教師を辞めるきっかけになりました。母は「苦労するなら助けないけれど、幸せになるのなら助けてあげる」といって片道キップの20万を持たせてくれました。それで26歳のときスーツケース一つでギリシャへ旅立ちました。

 

ギリシャでの新しい自分

―ギリシャでの生活、まずどんなスタートだったんですか?
裕湖さん)現地での生活はまず私生活のギリシャ語、彼との共通語は英語でしたが現地人が全て英語を話せる訳ではなく戸惑いながらも家で一人で居る生活が始まり、生きがいを見つけらずにいました。私は何のためにギリシャに来たのか・・・考えながらも彼の仕事の手伝い、ギリシャ→日本への毛皮の発注の仕事を始めますが能率が上がらず、現地での自分の立ち位置を見つけられずにいました。彼に相談するとそれなら二人で店を運営しないかという誘いがありゼロからのスタートとなりました。

―お店とは?
裕湖さん)彼は毛皮や宝石を専門とした店で販売員としての仕事をしていました。お店は持ってなかったけれど、向こうでは何か国語を話せるかで5本の指に入るトップセールスマンになれるかが決まります。彼は8か国語を話せたので世界各国の客を相手に販売力と腕は確かで、信頼も厚かった。最初は小さい店から始めそれがうまくいったので、目抜き通りに店を出そうということで、私は両親から借りた資金を、彼は知恵とノウハウを出し、アテネの中心地は目抜き通りに2件目の店を出しました。小さいながらも自社工場も作りました。当時の人気テレビ番組「なるほど・ザ・ワールド」の取材も来ましたし、ちょうどバブルの時代で観光客によく売れ、売り上げは好調でした。父も日本から会いに来てくれて嬉しかったです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

↑裕湖さん自身がモデルをつとめた毛皮のパンフレットや店舗、
そして住んでいたアテネ市内(パルテノン神殿)の写真

 

―言葉はどうされてたんですか?やはり準備期間に勉強を?
裕湖さん)英語はずっと勉強してたから大丈夫でしたが、ギリシャ語は向こうに行ってから勉強しました。商売がら、まず数字を覚えないということでそこからでした。電話の応対、買い物、タクシーを利用したり、自分で車を運転したりと徐々に生活にも慣れて。彼の友人たちとの交流や語学がもともと好きだったこともあり、イタリア語やギリシャ語、英語、日本語のちゃんぽんしたようなとこから始まって徐々に話せるようになりました。言葉で垣根を越えられるなら努力次第で何とでもなると思って勉強しました。

 

―やはり日本とは全く違う世界でしたか?
裕湖さん)はい、私には向こうの地がすごく合ってたんでしょうね。華やかでキラキラした世界が好きなんですよね。日本では控え目が美徳とされ、出る杭は打たれますが、海外では出すぎるくらい出ないと逆にたたかれる。良い意味で言えば強烈な個性と表現力で豊かな人生を送れる訳です。周囲には競争店が多かったですし商売するとなるとなおさらです。ギリシャは世界一の海軍国です。世界中からお客様が入ってきます。日々、国際色豊かな色んな言葉が飛び交う中での生活は日本では味わえない経験でした。

―その後、お店は?
裕湖さん)その後、ローマ、スペイン広場周辺のコルソ通りに3件目のお店を出しました。でも結局は広げすぎたんですよね、後のバブル低迷期等でお客さんは減り、借金を抱えることになってしまって。一時帰国していた私は店をすべてたたんだことを彼からの電話で知らされました。私はその後ギリシャに戻ることもできず何もかも身の回りのものすべて向こうに置いたまま。その後それがどうなったのかもわかりません。飛び出したときもスーツケースひとつでしたが、帰ってくるときもスーツケースひとつやったっていう話(笑)

―最終的にはお店をたたんでしまいましたが、パートナーとの出会いがあって海外での生活、仕事を経験したんですね
裕湖さん)そうですね、出会いから移住、彼からビジネスやたくさんのことを学びました。ビジネスパートナーであり、共に戦ってきた戦友であり家族でもありました。彼は人生をとてもおもしろおかしく、ドラマティックに、破天荒に生きていました。もう亡くなってしまったんですが、一言では言い表せない波乱の道のりでした。

日本での再スタート  

―帰国してからについて聞かせてください
裕湖さん)向こうで店をたたみ今度は彼が私を頼って日本にやってきました。知り合いの紹介で宗衛門町で2人でギリシャレストラン・グリークバーを始めたもののうまくいくはずもなく・・・そりゃそうですよね、飲食業なんてやったこともない、毛皮を売ってた人間なんですから。それでその商売をやめ、パートナーとはそれを機に互いに別の人生を歩むことになり、私は35歳で大阪の時計宝石の卸の会社に就職しました。

―そこでまた一からスタートということですね
裕湖さん)その会社では15年間勤務しました。自社ブランド担当を任され、言葉ができたのもあって海外出張(ヨーロッパ各国、オランダ・ベルギー・ハンガリー・ドイツetc・・・)にも行きました。商売の基本からノウハウまで仕込んでいただきそれが後にこの靴屋を継ぐときに役に立ちました。営業で小売店回りや展示会の仕事も任され、芸能人をモデルにした企画等で有名な方とご一緒する機会もたくさんあり、仕事は通勤も含めて厳しかったですけれど、そういった華やかでキラキラした世界は私の性に合っていました。ところが、スイスのバーゼルで世界の時計・宝飾展があった日、雪深い山奥のホテルで過労で倒れレスキュー隊が来てヘリでスイス病院に運ばれることに・・・。過呼吸で大変でしたが、何とか回復し帰国しました。そのときも大失恋が重なりまたもや心身ともにボロボロ、最悪の状態でした。私っていつもそう、何に対してもとにかく突き詰めて全エネルギーを注いでしまう、それがプツッと切れたときはボロボロ。それでも身体が限界まで仕事を続けましたが、やはりどん底でした。そんなとき音楽が縁で今の主人に出会いました。主人はまさしく私の救世主となり、その後私の人生は大きく方向転換し、歌の道へと進む訳です。

―歌の道ですか?!その経緯についても聞かせてください
裕湖さん)歌は子供の頃から絵と同じくらい大好きで、学生の頃は合唱団に入っていてソプラノ(NHKに出演)の経験もありました。でもなかなか歌の道で生きていくそのチャンスに恵まれなかったので美術教諭になった訳です。主人と知り合ってからは、水を得た魚のように歌の道にのめり込んで行きました。私は会社を辞め、再び新しい第4の人生のスタートを切りました。教師~ギリシャへ~帰国後会社員を経て~歌の道へと、遠回りしたけどやっと夢が叶った気がしました。それからはバンドを結成して大阪を中心に関西エリアでライヴ活動を続けました。主人はサックスやベースの演奏を、また音響(PA)のプロなので私のキーに譜面を書きかえてくれたり・・・と、主人のおかげで私は救われ、今までとは違う安らぎを覚えました。紆余曲折ありましたが、やっと自分らしく生きていけると思いました。歌い手(Singer)としてやっていこうと決めたとき、これまでの窮屈な過去の自分に別れを告げ、生まれ変わるために、ある先生にお願いして「弥里朱華(みさとあやか)」という名前を付けて頂きました。弥里の弥は弥勒菩薩から一文字頂きました。ふるさとに根をおろしてゆったりとした心で人々に輝きと幸せを届けていけるなら・・・と。

『朱華&Bossa☆Boys』
ステージコンサートやライヴイベント等で活動

 

音楽が繋いだ縁

―純さんのこれまでの歩みについて聞かせてください
中山純さん 以下純さん)何もないで。音楽だけや。

―音楽は子供の頃から何かされてたんですか?
純さん)いや、幼稚園のとき、オルガン教室に無理やり通わされて。小学校3年生くらいまで続けとったんやけど遊ぶ方が楽しいから辞めて。うちも子供の頃から教師になるように言われ続けてきて・・・父が教師やったから、教師か公務員になれと。でも教師の道には進まなかった。

―サラリーマンとか?
純さん)音楽のできるサラリーマン笑 オーディオ機器とか好きやったから、レコードとかよく聞いたりしとって。最初レコード屋で店長として働いとってゆくゆくはそういう店しようと思ってたんやけど、とりあえず一流といわれる会社に入ろうと思って一念発起して35歳で保険会社に就職してん。それからはずっとサラリーマンしながらジャズのビッグバンド、ジャズオーケストラを立ち上げて。週末はずっと音響の仕事しとったな。僕にとって音楽は身体の一部やなぁ。

裕湖さん改め弥里朱華さん 以下朱華さん)
純ちゃん(主人)は橋本市で毎年、市の盆踊りとかのイベントの音響しててん。朝からトラックで現場まで機材運んで、設営、準備、本番、最後片付けして・・・って30年くらいやってきました。ほんま昔は毎週ほど仕事あったときもあったけど、今はコロナでイベントとか全部なくなってしまって。依頼のイベント以外は全部ボランティア精神で市に尽くして表彰されたことがあります。本人はそんなこと一言も言わない人ですが(笑)黙ってコツコツ型の人。

 PA(音響)の仕事の依頼で・・・活動中 

―お二人は出会ったときに互いにビビビと来た感じで?
朱華さん)いえ、最初はお互い全く笑 でもこの人ものすごい純粋で心が綺麗な人やなと思ってたら、ある日突然何かがおりてきてん。なぁ?純ちゃん! 

―そう言うてますけど、純さん?

純さん)笑・・・ま、なんとなくやな。
朱華さん)
この人、ほんま私と真逆で、喋らへんねん笑 お互いかまわれるの嫌うし笑 お互い干渉し合わないからうまくいってるねん私ら。なぁ?純ちゃん!

純さん)
・・・笑

ーそれが円満の秘訣?いいご関係ですね。
朱華さん)そうそう。いい感じの距離感と相手を敬い、思いやる心やね(笑)

 

喫茶店のカウンターに並べたもの

―いつ頃から靴屋の仕事をし始めたんですか?
純さん)10年くらい前からたまに手伝いさせてもらってて。入学時期とか忙しいときとか。
朱華さん)親も歳とってくるし、私も店のことがずっと気がかりで、主人と一緒にたまに帰ってきてましたので。 

―純さんにとって靴屋の仕事ってどうでした?
純さん)いや、別になんにも。手伝いできたらえぇなぁくらいで。お義父さんもお義母さんも歳いってくるし、力仕事でも何でも間に合うたらええわって。

―継ぐことになる経緯は?
朱華さん)主人と店の手伝いしてるときに母が「純ちゃん帰ってきて店してくれへんかな?」て言いだして。私自身、店のことどうしようかと気になりながらも、主人に言い出せずにいたから、それを言われたとき主人はどういう風に受け止めてるんかわからんかって。

―純さん、どうされたんですか?
純さん)その頃、保険会社って合併合併で、そのたびに息苦しさを感じとって。お義母さんから声かけてもろたとき、僕も定年まであと2年って時で。自分でもどうしよかなって思てた時とお義母さんからの声かかったタイミングが合うたというか。ほんだら、もう会社辞めるわってなって。

 

朱華さん)それで、仕事辞めてこっちに帰ってきてくれて。私も自分ひとりやったら店をどうしていこかと思てたけど、主人が一緒にやってくれるなら鬼に金棒やと思いました。 それで、主人は外回りや力仕事、私は事務的なことを引き継ぎ始めて。父ともほんま仲良くやってくれて。そのとき強く思ったんです。いつも世の為人の為と四方八方出かけてはその先々で人助けをしていた父。そんな背中を見ながら育ってきて父や母が祖父母の代から守ってきた神戸屋靴店をなくしてはいけない・・・。今まで好き勝手やって来たけど、これからは私がこの暖簾を守っていかなあかん、守っていきたいと!

―喫茶店を併設することになったきっかけというのは?
朱華さん)父が亡くなり、母も高齢になってきて・・・、母は90歳を過ぎても店番をしてくれて、凛として明るい人、商売上手で気丈夫、今はホームにいますが現役の頃は行動力のある人でした。やはり母の目の黒いうちは大がかりに店はいじれませんでした。ただ、主人にこの店をやってもらうにしてもここでじっと店番をしてもらうのはあまりにも酷だし、何か楽しみながら、居心地よく居てもらえる方法ないかなって考えたときに、喫茶店をしてコーヒーを出したら人が集まってきてくれて、それで音楽も流せたらええなって何となく思って。それで少しずつリフォームし始めたのが始まり。
純さん)
最初はこんなステージとか作る予定なかったんやけど。まず、ここ壊して片付けて綺麗にしょうかって壊したら、ここにこれこうしたらええんちがうやろか?そしたら、ここにこれ置いて・・・みたいにどんどんアイディア出てきて、その結果がこれ。笑
朱華さん)母も最初は喫茶のカウンターに靴並べだして・・・。「ちょっとちょっとお母さん!どこに置いてんの!」みたいなこともあって笑 「お母さん、私らちゃんとやっていくから、もう後は私らに任せて」って言うて笑 でもほんとにいい形で進んでいってくれてよかったなって、このままこうやって幸せに・・・って思ってたら今度は私に病気(ガン)が見つかって・・・。
ショックでした。今では心の整理もつき、いい先生にも巡り会えて治療を続けています。これは試練ですが、病気になって色々と考えさせられました。今ここにこうして自分がいるのは自分だけの力ではありません。生かされている命に感謝して、これからはこの経験を生かして微力ながらも誰かの役にたてればと思っています。病を乗り越え、元気に自分らしく歌を歌うことで少しでもみなさんに幸せを届けていくことができれば幸せ(喜び)です。今はその気持ちで頑張っています。

 

―純さん、喫茶店をすることになりましたが、何かご経験がおありだったんですか?
純さん)ない笑 コーヒーたてるのは好きで・・・。お義母さんが店番しとったとき、お義母さんの友達とか近所の人が店に来て、喋ってるの見とって。そのとき、美味しいコーヒーとか出したったらええなぁって思ってたから、それから一生懸命コーヒー豆の研究したんや・・・(笑)

朱華さん)今では年齢問わずですが、特に70~80代のお客様がいつもコーヒー飲みにきてくれて美味しいって言うてくれるのが主人の一番の喜びになっています。このコロナの時期やからお客さんが5人の日もあったら1人の日もある、でも毎日同じようにコーヒーを出し続けていけたら人が集まり町もにぎわうって思うし、それをしながら店番もしてくれる主人に感謝です。

 

 

―週末にはここでライヴをされているそうですね

純さん)そう、毎週土曜の夜にいろんなジャンルのミュージシャン達が集まって演奏して、それで楽しんでくれたら。それに、近所の人もにぎやかになってええって喜んでくれて。今後は新しくできた市役所などのイベント等で音楽を流して明るい街づくりとかできたらええなって。

―五條市で生まれ、一度は離れ、そしてまた五條に戻り、これからお商売もされていく・・・五條市についてのどのように感じてらっしゃいますか?
朱華さん)近所付き合いを大事にしたいなって思います。五條から離れてた期間が長かったので最初はほんとに五條のことを知らなかった。でも、こっちに帰ってきて徐々に五條の人との交流も増えて、そしてお店にくるご年配の方に「お母さんのことよー知っとるで」「お父さんには世話になってな」っていうてもらえるのがほんまに嬉しい。祖父母~父母の時代があっての神戸屋であり、今の私達やと思う。高齢化や過疎化、そしてデジタル化が進んでるけど、お年寄りがたくさんいるこの街ならやっぱり「人と人」のつながりがいちばん大事やなと思います。

 

昔、にぎわいを見せたこの商励会通りを少しでも取り戻したい気持ちで外のスピーカーから音楽を流しています。昭和の香りのするコーヒーの美味しい店として音楽が楽しめる明るい町づくりの何かお手伝いができたらと思っています。

―純さん、朱華さん、本日はありがとうございました。

※写真撮影時のみマスクを外していただきました。

 

 

長谷川画伯とギリシャのお酒でカンパイ

 

 

 

 

 

 

 

☆リニューアルオープン当日、毎日放送ちちんぷいぷい「とびだせ!えほん!」のコーナーの取材も☆

 

 

 

 

 

 

 

 

神戸屋靴店・喫茶神戸屋

営業時間 月~金:AM10時~PM5時
土  :AM10時~PM5時 ~LIVE
定 休 日 日曜日・第2・第4月曜日
駐 車 場 有(店の手前50m北)中矢青果店裏
住   所 〒637-0005
奈良県五條市須恵1丁目3-18
TEL(FAX) 0747-22-2289
※詳細はお問合せください
※コンサート・ライヴ・各種イベント音響(PA)
店舗等音響プランナー
 アドバイザー等 承ります

 


☆スタッフHのすぽっとwrite☆

コロナ禍で控えていたインタビューを1年ぶりに再開。
久々の取材の緊張とこんな素敵な方が五條にいらしたんだというワクワク感。
序盤から朱華さんのお話に引き込まれた・・・が、中盤あたりでうまく記事にまとめられるかと内心焦りだした。

「ちょっと休憩したら?」とコーヒーを出してくれた純さん。経験がないというのに板につきすぎている喫茶マスターのエプロン姿。そして足元はどこか見覚えのあるサンダル。「それって・・・?!」「そう・・・高校の生徒さんの校内用のやつ。これ、えーねん、きつ過ぎず緩すぎず、ほんまに」と、販売店主がというより、純さんが言うんだから間違いないと思わせる雰囲気がある。たててくれたコーヒーが美味しかったのも言うまでもない。

取材の緊張、集中と、昭和レトロな店内、ブレイクタイム。生演奏の迫力と音楽の心地よさ。刺激あり、癒しあり、安心感あり・・・きっとこれも「きつすぎず、緩すぎず」?なんですよね笑

トニカク素敵な神戸屋、そしてお二人に出会えたインタビューでした。

 

 

 

 

 

第65回 金閣園 久保 和生さん

  お客さんと向かい合う「お茶」へのこだわり

 

ー 本日はお忙しい中ありがとうございます。 金閣園さんはといえば、イオンさん(五條店)で長くお商売をされておられる、というイメージですが、お店を始められたきっかけは…? お茶が好きだった、もしくは元々お家がお茶屋さんをされておられた、というところでしょうか?

きっかけと言うか、僕自身は、大阪の和泉市の出でして、そこに大きなお茶屋さんがあって、「これからはお茶がよう売れるから」ということで親戚の人に口利きをしてもらって。それで中学校を出て、そこに奉公させてもらって… というのっが始まりかな?

ー お茶が好きだった、もしくは元々お家がお茶屋さんをされておられた、というところでしょうか?

いや、そんなんと違う。僕はとにかく勉強が嫌いで(笑)、そして特に好きなこともないし、親に、「みんな高校へ行くのに、あんたはどうすんの?」って言われて。僕の住んでた集落は60件ほど住んでて、その中で同級生が11人おった。それで同級生はみんな高校に行ったんやけど、僕だけが高校へは行かなかった。でも、しゃーないやんな?勉強嫌いなんやし(笑)

ー 中学校を出られてすぐにですか? 奉公… というのも、ご主人がお若い時代の当時の世相を感じますね。

そこの店で8年間おったけど、それはもうただ働きみたいな感じやった。でも、昔の奉公なんてものは皆そんな感じですよ。給料なんか小遣いみたいな感じで千円か二千円くれただけ。まあ、食事は奥さんがやってくれてたんやけど。

ー 住み込みでお勤めされておられた、ということですね。

そう。ただ一緒に住み込みで仕事をしとった仲間らは、ほとんどが皆、お茶屋さんの息子か何かで、ここへ修行に来とった。そしてそのお店は、大阪の南部ではそらもう売上1,2位を競うような大きなとこやった。そこのお店で、10年勤めたら、暖簾分けするっていうかたちで最初は行った。当時の親方さんも、手広くあちこちにお店を広げとったから、僕もやれこっちのお店、次はここ、みたいな感じで、だいぶいろんなところに回されたなあ。

ー それで、修行先で10年間勤められ独立… という流れなのでしょうか?

いや、でも見てたら、当時若かった僕の目から見ても、運営が上手くいってないのが分かった。特にお金の面で。自分たちのために貯めてくれていたお金も使い込まれて、このまま長いこと、ここにおっても暖簾分けどころの話やない、と感じてきたんで、当時の商売人の組合とかの役をしている人にいろいろ今後の相談とかもした。それで確か和歌山の人に、今度、「五條」って言うところに、「ニチイ(現イオン)※」が新しくできますよ、と。そこでお茶屋さんを募集しているんやけど誰も来ない… ということを言われまして。

※五條ニチイ  イオン五條店の前身。かつて五條市須恵に存在。

ー なるほど、そのいきさつが五條でお店を開くきっかけになったということなのですね。

いや、話をされた時点では、まだ(五條に)行くとも何とも言うてないのに、とにかくその人から早くしてくれとお話が進みまして… ニチイさんがオープンするまでもう2か月しかない、とにかく早く返事をくれと。確かにその話は当時の僕からすれば有難いお話やったんやけども、五條という土地なんて縁もゆかりもなければ行ったこともない。五條どころか奈良県というところも、奈良公園やったら知ってるけど、みたいな感じで。

ー 縁もゆかりもない土地でお店を開くこと… 最初の頃は大変だったのでしょうね。

お店を出すのにお金がなかった。だから、親に頼るほかがなかった。でも、私も兄弟が6人もおって、その下から2番目やったから、上の兄弟が苦労しているのを見てきてるから、そやけど背に腹は代えられない。自分でお店を持つ、今が千載一遇のチャンスやと思ってもう、こんなのもう2度とないことやと親を説得して、農協の定期預金を解約してまでして、手元に何とか50万円用意してくれた。

ー それで何とか、開店にこぎつけた感じで?

でも実際、そんな金額では、(開業には)全然足れへんかった。開業資金のほかに当時、お店を出すのに保証金なんかも要って、それがまた高かった。でもニチイがオープンするまで、もう2か月もなかったから、もうあるお金だけでいいよ、って堪えてもろた。

ー そうなんですね。いろいろな要素が重なって、いい方向に廻っていく感じですよね!

ただ、最初はお店に商品を陳列したりするのにお金も要って、それはもうみんな借金でした。とにかく巡ってきたチャンスを無駄にしたらあかんという思いで。それと商品のお茶は、奉公していた和泉市の親方から提供してもろた。それで何とか、お店の形ができた。

ー 私もこの企画で、昭和40~50年代に、起業やお店を開業された方たちのお話を何軒かお伺いしたのですが、世代の方は本当にいろいろと苦労なされたのですね。それでは、そのタイミングで(和泉市から)引っ越ししてこられた?

引っ越しやいうても、縁も何もあらへん五條には住むとこもなんも予定してなかった。まあそれでも、こうやって五條でお店を出して、ずっとやっていく訳やから、お店を出すことを世話してもらった人は、住居を紹介してくれた。昔、五條市新町にあった、「五條デパート」※っていうお店の2階が住居部分になっとって、そこを紹介してもらったんやけど、そこは、もちろん五條デパートで勤めとる人、当時は高度成長期で、これから独立しようとする人とかが所帯しとったから、ニチイでお店をしとる僕は、大変居心地が悪かったんやけど。

※五條デパート  かつて、五條市新町に存在していたスーパーマーケット。

ー でも、ご自身のお店をもって住居も用意いただける… とんとん拍子で事が運んだ感じで…

自分の親には、「そんなええ話、お前、騙されとんちゃうか?大丈夫か?」と言われたもんやけど、自分も若かったから、心配も何もなかったわ。やるだけやったるわ、って言う感じで。

ー では実際、オープンしてからの出だしは如何ほど?

最初のうちはもちろん売れへんかった。でもお客さんも段々つくようになって…ってなって来た頃、ニチイが移転※するっていう話になって、今の場所にね。店始めてまだ3年ほどで。それで陳列やら何やらまた一から。それでまた借金をすることになって。 ※五條ニチイ  現在のイオン五條店。かつては五條市須恵に存在。

ー 開業されて丁度お店が軌道に乗り始めた頃ですよね。それでまた一からとなると…。

ニチイがオープンする時は、五條デパートで商売しとった者も皆ニチイで店を出すいうことで、皆で場所を争うて。当然、隅っこのほうに売り場をやられたら、当たり前やけどお客さんなんて回って来へん。そんな中で、(ニチイで)店を出そうとする者みんな集まって、場所取りみたいな会合に行ったんやけど、周りも30代、40代の「大人」ばっかり。自分ははまだ23やったから、何にも分かれへん。そんなんやったから、存在も忘れられてしもとった。それで、会合も終わろうかという時に、ようやく存在に気付いてもろて、何とラッキーなことに、僕にも何でか分らんけど、一番ええ場所に置いてもろた。

ー そうなんですか! 当時の久保さんの若さに期待して… ということだったんでしょうか?

何でか分らん(笑)。 でも、ええとこに置いてもろたもんやから、敵対する人も少なくなかった。みんな生活かかっとるからね。気の荒い者もおったし、そういう者からもだいぶ難癖つけられた。

ー 昭和の時代、高度経済成長期の商売人のかたには、そういった方も多かったと聞きます。まだ当時若かった久保さんのような’’新参者’’にはことのほか厳しい時代だったのでしょうね…

そんな中でも粘り強く何とか頑張ってきて、一時はアルバイトを7人も雇うほど店も繁盛してきた。今から30年くらい前かな… その時は、お店(ニチイ)に来るお客さんも今よりもずっと多かったし、ほぼお茶一本で、何せよう売れた。一日に300本(茶葉の袋が)売れたときもあった。一人のお客さんでやで。あの時は忘れへんな… お店に普通に来て、300本って言うんやもんな。びっくりしたわ。でも、もうあんな売れることは、今後はないやろうな。ちなみに今はというと、当時の半分ぐらいの売り上げや。今はなんぼ努力しても報われへんというか…

お茶を販売される傍ら、「喫茶」のほうも。「金閣園ブレンド」が特にオススメ!

 

 

 

 

ー そうですね… 今は店頭販売以外にも、インターネットの通販を始めとして、茶葉一つとっても、モノの売り方、というのは相当に変化していますし… あと金閣園さんは、創業の頃より、一番最初のニチイさんに始まり、そして移転もあり、サティさん、そして現在のイオンさんとともに歩んでこられました。その中で、時代の流れを感じることは?

若者やね。今、お茶はペットボトルでも普通に売っとるやろ?でも初めのうちは、我々のようなお茶屋からすれば、そんなペットボトルに入っとるお茶になんかは絶対に負けへん、っていう自信があった。でも、飲料メーカーは研究して、若者の嗜好をとらえて、若い人でも飲みやすい、水に近いお茶を作った。水に近いから刺激もない、でもお茶の香りはするし色もついとる。そういう若者向けの売り方を徹底してきた飲料メーカーさんに、お茶屋さんは負けたよね。お茶屋さんは、お茶屋の玄人が飲んでおいしい、そんな商品しか置いてないやんかと。若い人にそんな(お茶が)苦いとか、甘いとか言うても普通は分からへんやん。

色とりどりの商品が、所狭しと並ぶお店は、とても賑やか!

ー そうですか、確かに、「急須で入れるお茶」というのは、若い世代のかたにはなかなか敷居が高いのでしょうね… 「急須」というものが、日本人の生活から次第に遠ざかるのは寂しい気もします。そんな時代にあって、長年お店を営まれてきて、大事にされてきた心がけなどは?

まあ、とにかくお客さんとのやり取り。お客さんの言う事を、よく聞いたることやろな。それを自分の中で分解して、お客さんの言うてることの真意を読んだうえで、自信をもって返事する。生半可な返事ではあかん。そやけど偉そうにだけはしたらあかん。なんぼええ品物売っとっても、当たり前かもしれへんけど、それは泉佐野で修業しとったころ、常に教えられてきた。これを今でも心がけるようにしとる。

ー ありがとうございます。 後、先ほどのお話しにも出ましたが、ペットボトル飲料等の競合する商品、そしてスーパーでも当然ながら茶葉も販売しています。そういったライバルに比べての、「金閣園さんならでは」とは?

うちは、スーパーとか小売店で扱わへんゾーン、所謂高級な品を使うようにしとる。昔はスーパーで90円で売ってたらうちは同じ品物を80円で売る、みたいなことをしてたけど、そのやり方ではスーパーとかには勝てない、というのが分かってきて。いい品物を売って、いいお客さんを掴まえる。それでついてきたお客さんは固い。そして人に紹介してくれる。もちろん高級品を売っていくのは大変やけど、それが、スーパーとかとの違いかな。

お店には、有名人のサインもチラホラ…こちらのサインはかの「尾野真千子」さん。

 

 

 

 

 

ー ありがとうございます。次に、商品のお話しなのですが、店頭にはたくさんの種類のお茶を販売されておられます。金閣園さんのお勧めするお茶といいましたら?

まあ… 5品くらいはよそでも負けへんのはある。笑 ただ、うちは実は遠方からのお客さんも多くて、「自分の住んでるとこの近くでも、同じようなお茶は売ってないんかな?」ってよう言われるけど。それは無いって。お茶っていうものは、産地や畑、それに品種、蒸し具合等とかで、特徴の違う茶葉を何種類も組み合わせて造るもの。お茶は単品で色、香り、味の三拍子が揃ったものなんかほとんどない。うちももちろん、全部自分とこでお茶を合組み※して、味見して、これは良いと思ったお茶を商品として出す。もちろん何べんもしながら。そないしたら、絶対おんなじお茶はないねん。それで「自分のお茶」というのができる。それはすなわち、「自分が好きな味の」お茶になってしまうんやけどな。

※ 合組(ごうぐみ)  産地や品種、蒸し具合などが異なる荒茶の特長を見極め、ブレンドすること。

ー 久保さんの、修業時代から長年培ってきた目利き、さぞ確かなのだと思います。他にお勧めのお茶などは?

番茶やろな。番茶言うたら、本来は規格外のお茶とか、低級のお茶を指すわけなんど、うちは逆。一番高いお茶にお茶にしとるねん。だからお客さんには「えらい高いなぁ」って言われる。「番茶」には「自家製のお茶」をまとめて言う意味もあるし、一番茶、二番茶を摘んだ後に収穫される「晩茶」という意味もあるからな。それで、金閣園さんの「番茶」えらい美味しいわ~、なんて言われる。

ー 「番茶」にはそういう意味合いもあったんですね!今初めて知りました。お茶を少しでも嗜んでいる方からすれば、意外に感じられて面白いところですよね。あと、お店の名前である「金閣園」さんの由来は?やはり「金閣寺」がルーツなのでしょうか?

さっきも言うたように、「上等」のお茶を「良いお客さん」に買ってもらう。京都のお茶は、所謂、「上等品」。それを京都で一番有名なお寺の「金閣寺」にちなんで。

ー そうなんですね!納得です。「金閣」っていう響きもいいですし、「高級嗜好」のイメージに納得です。それと最後の質問になるのですが、久保さんは店頭に立たれるときはいつも「赤いサンバイザー」を被っておられます。これには何か意味が?

それ、よういわれるねん 笑 まあ特に信念やら深い意味はないんやけど、やっぱり「若く見せる」為やな。やっぱり店に立って商売しとって、それはすごい重要なこと。いかにも齢いったもんが店に立っとっても、お客さんなんてそんな店なかなか来たがれへんやろ?それでちょっとでも若く見せるため。実際はそんなところかな。

ー なるほど!でも、もはやトレードマークにもなってますよね!これからも末永いご活躍を願っております。本日はどうもありがとうございました。

 

(編集後記)

高度経済成長のさなかの、今ほど皆が裕福でなかった昭和40年代。そんな中、豊かな生活を求めて独立を夢見る… 若かりし頃の久保さんも、もちろんそんな思いを持っていた一人の若者であったことでしょう。久保さんの話ぶりだけでも、当時の日本の、まだ活気のあった時代の情景が浮かんでくるような感じでした。そして「皆のおかげ」と事あるごとにお話しされていた感謝の気持ち、謙虚な心こそが、栄枯盛衰の激しい世界で、「金閣園」さんが今の今まで至っているという所以なのだと感じました。

第61回 割烹 山海里 養田勝紀さん

地元五條でお店ができる、最高です。

 

料理人になるきっかけから意識改革まで

―山海里さんがお店を始めた経緯について教えていただけますか?
親父が始めたお店を僕が継いだかたちです。親父が最初大川橋のたもとで店を始めまして、そっちで20年ほどして、で、ここに移ってきて22~23年なんで、もう、40年以上になりますね。

―最初はこの場所ではなかったんですね。移転することになったのはなぜですか?そうですね、前の店はテナントだったんで、自分の店が欲しかったんじゃないでしょうかね。

―養田さんは、やはりお父様の影響で料理人になりたいと?
いえ、僕、実は全くそのつもりなかったんですよ。大学に通ってるときに親父から継いでくれって言われて。それで大学卒業してから修行に出ました。

―何か他に志してたものがおありだったんですか?
特にそういう訳でもなかったんですけど、子供の頃から大学に入るまでずっと野球をやってきて、大学入ると同時に野球もしなくなって、なんて言うんでしょうか、燃え尽き症候群みたいな感じになってましたね。

―では、その道に進むことに迷いはなかったんですか?
そうですね、迷う理由がなかったというか、はい。

―心のどこかでは料理人としての道をちらっと考えたことは?
いや、なかったですね笑。ほんとに。だから、当然料理に対する知識や関心も薄く、キャベツとレタスの違いも分からないレベルでいきなり、修行に行きましたから笑

―修行はどちらに行かれたんですか?
京都祇園の日本料理店へ修行に行きました。

―何年くらい修行を?
6年です。

―修行へはどう挑みましたか?
ほんとに何も分からなすぎたせいか、楽な気持ちで行ったんですよね。

―え?!楽な気持ちで?!
あ~、僕、ずっと野球やってきたんで、厳しくされるってことに対しては特に抵抗がないというか当然だと思ってたので、そういう意味では楽な気持ちで行ったんです。親父も2年ほど修行してきたらええよって感じでしたし、ま、2年頑張ろうかみたいな。

―実際、どうでした?
厳しいどころじゃなかったですよ笑。もう箸の持ち方から怒られまして。ま、料理のことはもちろん、言われてしょうがないんですが、僕のあまりの無知さからか、「親はそんなことも教えてくれへんだんか!」みたいなこと言われて・・・。その時からです、何か僕の中で確実に意識が変わったのは。何で親のことまで言われやなあかんねん!みたいなね。

―厳しい世界だというのはよく聞きますが、意識改革のきっかけがそういう形で起こったんですね。
はい、それが起爆剤?じゃないですけど、そこからくっそ~、腹立つ~、ていう意識から仕事への向き合い方が変わったというか・・・。

―具体的にどんな風に変わったんですか?
それまでは、何でも言うことを聞いていればいいやと思ってたんです。言われたことに対してはい、はいと。でも、それからは「〇〇やっとけよ」って言われた時には、「もうできてます」と、先にやっておくようにしました。ま、それが修行の道で学ぶことなんでしょうけど、僕の内心は相手の穴をかいてやろうじゃないけど、とにかく相手に先に言われるのが嫌で嫌で、何か言われたくない一心ですよね笑。でもその意識が地元に帰って親父の店を継ぐときに、親父にも教えてもらいたくない、親父の仕事以上のことを覚えて帰らなあかん・・・そういうとこにつながっていったんですよね。それじゃ、2年じゃ絶対無理やなって思って、それで6年修行しました。

―修行中でうれしかった思い出は?
ないです笑 マジでないです笑

―きっかけはどうであれ、意識改革できたことが今の養田さんにつながっているということですね。それで戻ってこられて、お店を継いだということですね?
そうですね、親父と一緒にという感じで。でも3年ほど前、親父が体調崩してしまってから、昼間は僕と妻2人で、夜はアルバイトの方達に手伝ってもらいながらやってます。

人気の饅頭

―地元に戻ってこられた当初はどうでした?
厳しい修行を終えて帰ってきたら、このお店がとてもゆるく感じて笑
なんか、そのゆるさに流されてしまってはいけないって思いと、ここは親父の店なんだし、僕はサブとして、親父のサポートなんだから親父のやりたいように・・・、そういう2つの思いがありました。

―お父様とぶつかったりとか?
ありますあります、しょっちゅうですよ笑
親父の献立に、もうちょっとなんか足したほうがいいんじゃないかとか意見することもありましたし、他にもいろいろ。

―養田さんの1日のスケジュールは?
仕出しの予約があるときは朝は早いですけど、特に予約がなければ9時頃お店来て昼2時まで営業。そこからちょっと休憩して、夕方5時から夜10時まで営業してます。

―お魚の仕入れも養田さんが?
はい、漁港に(和歌山)に直接行って仕入れたり、市場に行って仕入れます。

―山海里のお店の特徴は?
僕が修行していたお店は京都祇園のカウンター割烹(カウンターのみの懐石料理店)だったんですけど、そのお店に比べたら、うちのお店はカウンターもあれば、個室もある、そして宴会場が2つあって規模が大きいんです。一品から懐石、そして京都で学んだ料理を取り入れたコース料理を楽しんでもらう、いろんな場面に対応できる、そして地域に密着したお店を目指してやっています。

―日本料理は特に四季を感じられる料理ですよね。やはり、こちらでも季節の食材を?

はい、季節に応じて取り入れてます。例えば、この時期だと夏野菜。冬瓜、ずいき、あと、さんど豆、オクラとか茄子を使ってちょっと変わった料理をお出ししています。

―人気のメニューは何ですか?
レンコン饅頭です。もともとコースメニューの中の一品だったんですが、単品でも出してほしいと言っていただいて出すようにしてます。餅米とレンコンをすり合わせたものを揚げ、その上にウナギをのせてあんをかけたものです。

―美味しそうですね。
はい、人気です。

―養田さんご自身も他のお店に食べに行かれたりするんですか?
はい、食べに行きます。インスタ見て美味しそうやなって思ったとこへ食べに行ったり。最近はちょっと行けてないですけど。

―ご自宅でもお料理されるんですか?
しないです笑 賄いではパスタとか作りますけどね。

―賄いパスタ!?それも興味あります。私、パスタが大好きなんです。
修行中にイタリアンのシェフと知り合いになって、パスタの茹で方とか教えてもらったことがあるんです。それで・・・。暑い時期には冷製パスタとかね。お客さんにもリクエストされて作ったこともあります笑 からすみなんかを使ったパスタですけど。

―養田さんの好きな食べ物って何ですか?
うどんです笑  毎日うどんでもいいです。だから、賄いメニューもうどんが多くて、バイトの子に「また、うどんですか?笑」って言われます笑

―お休みの日は何をされてますか?
ゆっくりしてます。たまに妻と食事に行ったり。

―趣味は何ですか?
釣りです、海釣り。自分で釣った魚も出したりします。

五條でお店ができる・・・それって最高じゃないですか。

―養田さんが料理でこだわっていることって何ですか?
もちろん出汁とか、味付けはこだわっているというか当然大事ですが、最終的な「盛り付け」ですかね。綺麗にかっこよく、かわいくっていうのを心掛けてますね。

 

 

 

 

―またお仕事するうえで大切にしていることは?
親父の代から来てくださっている常連のお客様を大事にして、新しく自分のお客様、ファンも増やしていって、このお店を守り続けていくことです。

―ご自身の料理人としての歩み、また地元に戻ってからの10年を振り返ってみていかがですか?
「料理人」といっても子供の頃からその道を志して中学校出てすぐ修行に出る人、あるいは高校を出て専門学校、そして修行に出る人、僕のような道を経て料理人になる人、皆それぞれ違う歩みがあると思うんです。好きだと思って進む人もいれば、そうでない人、諦めてしまう人もいます。入り口はそれぞれ違うし経てきた経験も違うと当然それぞれが違う料理人になります。

3年ほど前から自分が中心でお店をするようになって、これからはちょっとずつ「自分の色」を出していきたいなと思っています。親父のときは一品料理とあと鍋料理がメインでしたが、僕は京料理を取り入れたコース料理をメインにしていきたいと思っています。これだけの規模のお店を一からしようと思えは大変です。そう思うと、僕は恵まれてるなと思うんです。親父が始めたこのお店、地域の皆さんに大事にしてもらって続けてこれたこのお店を守っていきたい、守っていかないといけないなと思っています。

―五條市でお店をしてることについて、そして今後の夢は?
生まれた町でお店をさせてもらってる、それって最高じゃないですかね。
これからも地元で可愛がってもらえるお店になれるように頑張りたいです。大部屋を座敷スタイルから、椅子とテーブルスタイルに変更したりと少しずつですが、ニーズに合わせるように取り組んでいます。窓からもっと景色が見えたら・・・、個室を掘りごたつにした方が・・・と、まだまだ改装したいところはありますが、幅広い年齢、地域の方に、幅広い目的でご利用いただけるようなお店を目指していきたいです。そしてやっぱり「コース料理」を食べにきてもらいたいです。

 

ー養田さん、ありがとうございました。

 

 店  名  山海里
 住  所  五條市御山町1-2
 電  話  0747-22-1739
 営業時間  11:30~14:00  17:00~22:00
 定 休 日  火曜日
 駐 車 場  有

大部屋・個室(座敷部屋・テーブル部屋共に有)
コース料理は予約要。


☆スタッフHのすぽっとwrite☆

インタビューも終わりに近づき、五條でお店をしてることについての質問に
「地元で店ができる、そんな最高なことないでしょ」と養田さん。
「僕は恵まれてると思います」と続く言葉には、父から継いだお店、お客様への感謝、そして料理人として仕事に誇りを持って取り組んでいる様子が伝わりました。

自ら望んで進んだ道ではなかった・・・料理人への入口はそうであっても
こんな美味しい日本料理のコースを出してくれる料理人がいる、お店がある・・・
そんな五條市って・・・最高じゃないですか!(^^)!

 

 

第60回 【旬海茶屋 ふくだ】女将 福田 佳世子さん

おもてなしの流儀で歩んだ、夫婦『二人三脚』の道のり

 

おもてなしの「こころ」と、熟練の目で食材を見極め、美味しい日本料理を提供してくれる【旬海茶屋 ふくだ】。
目にも美しい至福の料理は、舌と脳裏に焼き付く絶品の数々と、それらを生み出す最高の厳選食材が自慢。

 

 

 

「鮮魚と料理への深い想い」にあらためて気づき、この五條の地で、夫婦二人三脚で歩んでこられた福田夫妻。
【旬海茶屋 ふくだ】では、落ち着いた雰囲気と居心地の良いカウンターで、新鮮な魚介を使った日本料理を、心を込めて提供してくれる数少ないお店です。
長くご夫婦でやってこられたゆえの夫婦円満の秘訣や、お店のことなど多岐にわたり、女将でもある福田さんにお話をお伺いしました。

 

 

 

お店の成り立ち

―どのようなお店の経緯をたどってこられましたか

20代の頃、大阪でスーパーの経営に乗り出し、鮮魚の仕入や、扱いを始めました。
58才を機にスーパーの経営をやめて、長い間の夢であった日本料理店をオープンしました。

今後の人生を考える中で、落ち着いた環境の地”五條”で皆様に喜んで頂ける、日本料理を提供出来るお店をオープンしたいと考えました。

 

お客様について

遠方からのリピーターのお客様もたくさんおられます。
おいしいお料理を食べに定期的に来られる方、常連のお客様、ご家族様のお食事、ゴルフ帰りにお友達と来られる方、ゴルフコンペの後の会食、お祝事、仏事、お友達とのランチやディナー等に利用して頂いております。

―その中でもうれしかったことは何かありますか?

帰られる時のお客様の笑顔と「おいしかった」という言葉がとてもうれしくはげみになります。

ご来店のお客様には満足して頂けるように、心をこめておもてなしをさせて頂いております。

―お店の様子はいかがですか?

カウンター席が10席、掘りごたつのテーブル席が3つ、4人掛けのテーブルが1つ、それと団体様もご利用頂ける離れには20人のお席を設けております。

 

 

自慢のメニュー

―メニューもたくさんあると思いますが特におすすめのメニューがあれば教えていただけますか

 

 

今でしたら鱧料理、冬でしたらふぐ料理です。
お造りは魚が新鮮なんで、来られた方は必ずお造りをたのまれます。
お造りの盛り合わせとか、必ず食べられますね。

おまかせのお造りはその時々のですか?

 

そうですね。その時に入った新鮮なお魚を使っています。
その他にも、お寿司、鍋もの、焼きもの、サラダや一品料理、会席まで全部揃っているので、ご予約なしで当日来られても、対応させて頂きます。

 

 

 

五條について

落ち着いた環境で、住んでおられる方も親切で親しみがある方ばかりで、最初からかわいがってもらいました。

とても溶け込みやすいと思います。

 

 

 

今後について

今後どんなふうにこのお店をしたいかとか、もっとこういう風にしたいとかありますか?

いつまでもお客様にかわいがって頂けるように努力してまいります。
これからは、お互いに健康管理を充分にして、仕事と遊びの両立を楽しんで行きたいと思っております。

 

 

 

福田さん本日はありがとうございました。

 

 

旬海茶屋 ふくだ

所在地 五條市田園3-9-7
TEL 0747-24-4129
営業時間 17:00~22:00
※ランチは予約のみ対応可
定休日 月・火

※団体予約あり:20人まで可能。会席のご予約は4日前までにお願いします。

 

 

 

 

☆スタッフ森子のつぶやき☆

季節を感じられる綺麗なお料理の数々。
旬の新鮮な活魚を毎日市場から仕入れ、ご主人の確かな腕で調理されるその食材は、鮮魚が苦手な私でも一度食べてみたいと思うほどのお料理。
もちろん”ツウ”の方なら納得の絶品料理を提供してくださいます。
お母さんがつくる、一品料理もどれも食べてみたいものばかり。
夫婦で営まれる、おもてなしの「ふくだ」さん。
これからも共通の趣味でリフレッシュされながら、お二人仲良く歩んで行ってほしいと思いました。

第58回 インドレストラン SHAKTI(シャクティ)五條店 店長 サポコタ カラナンダさん

インド料理をもっと身近に。カレーに秘められた思い

 

 

ー サポコタさん、本日はお忙しい中ありがとうございます。すみません、最初だけ少し、ネパール語でご挨拶させていただけたら…

राम्रो छ(ラムロチャ) いいですよ!

- नमस्कार सपोकोटा करानन्द  मेरो नाम माफ गर्नुहोस् नक्कली हो ナマスカール、サポコタ カラナンダ メロナーム ゴジョウガス フカセ ホ(こんにちは、サポコタ カラナンダさん、わたくしは五条ガスのフカセです。)

नमस्ते मेरो नाम सपोकोटा करानन्द हो ナマステ メロナーム サポコタ カラナンダ ホ(こんにちは。私の名前は「サポコタ カラナンダ」です)

तपाईंलाई भेटेर खुसी लाग्यो सन्चै हुनुहुन्छ タパイライベテラクシラギョ サンチャイ フヌフンチャ(お会いできて嬉しいです。お元気ですか?)

सन्चै छु サンチャイ チュ(とても元気です)

आज तातो छ  アジャ ニャーノ チャ(今日は本当に暖かいですね!)

हो । ホ!(そうですね!)

आजको लागि धन्यबाद アジャ ダンネバード (本日はどうもありがとうございます)

राम्रो छ धन्यवाद । ラムロ チャ ダンネバード(とってもお上手ですね!どうもありがとう)

 

ー ありがとうございます。それでは、最初の質問です。サプコタさんが、料理の道を目指された理由といたしましては?

う~んそうですね… 子供のころから単純に、「料理をすること」自体に興味がありまして、家族の食事も作ったりしてて、自然に料理人を目指していましたね。私はネパール出身なのですが、18歳で高校を出てすぐインドに渡り、11年間料理の修業をしました。

ー 11年もの修業を経てきたのですね。インドでの修業はやはり厳しかったですよね?

まあ… 仕事は確かに厳しかったでしょうか。どこの世界でもそうななのでしょうけれど、最初の1年間は苦労しました。でも、言葉の面については、母国語であるネパール語と、インドでの言語「ヒンディー語」とはそんなに違いはないので、戸惑いはありませんでしたね。

ー インドは「ヒンディー語」という言語なのですね。ネパール語とはよく似ているとのことですが…

ネパールではインド映画・テレビ・コマーシャルを見たり、インドのラジオを聞いたりするので、ネパールでヒンディー語を話せる人は多くいます。
ネパールではネパール語も、ヒンディー語も両方通じます。ただインドでは、ヒンディー語は通じても、ネパール語は通じません。

 

 

ー ネパール語はネパールだけで通じる言語なのですね。あと、世界地図でみれば、ネパールはインドの北に位置して、お隣同士なのですが、インドとの違いはといいますと?

おっしゃる通り、ネパールの位置はインドの北で陸続きです。歴史でいえば、ネパールは、インドやチベット、中国と近く、それらの国の文化の影響を受けてきたという背景があります。対してインドは古くから文明が起こり、その文明が他国に影響を与えてきたということ。ですから、ネパールは他の文化を吸収し、インドは自分たちの文化を広める… ということで両国は対照的なんですね。実はネパールとインドの間の国境を行き来するのには、ビザやパスポートの類は必要ないんです。ですから両国の人の行き来は盛んで、ネパールからインドへ出稼ぎに行っている人は多いですね。あと、国民性でいえば… やはり自分たちの文化を広めてきた、インドの人が、どちらかというと積極的な人が多いかな?

ー ありがとうございます。理解できました。それでは次のお話です。サポコタさんが、来日されたきっかけとは?

日本在住の友人からの紹介ですね。友人が、日本でインド料理店を運営している企業に、私を紹介してくれたんです。それで海を渡り、最初は福岡市にやってきました。2008年の2月頃ですね。

ー 最初は福岡県なのですね。サポコタさん自身は、日本行きは自分の意志で?

そうですね。私はネパールで働きたかったのですが、当時はネパールはインド料理店も少なく、料理の仕事もあまりありませんでした。今はそうではないのでしょうけれど… このままネパールにいても、おそらく仕事はないだろう、と。そして日本にいる友人にいろいろアドバイスをもらって、日本なら(インド料理の)仕事はある、ということと、それと私自身も来日前から、日本という国には興味があったからですね。

ー でも、祖国のネパールを離れるのに、寂しさはありませんでしたか? 

確かに最初は、寂しさとか、そういう思いはありましたが、もう慣れましたね。僕も、家族(奥さんと娘さん)と来ていますし。息子だけをネパールに残してですが。

ー 息子さんもいらっしゃる? では、サポコタさんは4人家族ということで?

そうです。ネパールにいる息子は医者を目指していて、医学の勉強をしています。あと3年で(学校を)卒業する予定です。

ー 医学を学んでいらっしゃる? 優秀な方なんですね!

いえいえ、ありがとうございます(笑)。

ー それでは、お話戻りますが、サポコタさんは来日されて今年で12年目になるということですが、日本のいいところ悪いところ、それぞれ思いはありますか?われわれ日本人にとっては普通でも、外国人のかたからすれば「?」と感じられることも多いとよく聞きます…

それはどうだろう?私が来日してから、日本の風習や常識を、そのように感じたことは、未だにないですね… 良いところばかりのような気がしますが(笑) でも、普段は仕事ばかりなので、あまり外へ出ていく機会がなく、日本についてここが変だとかここが悪いということを、そんなに意識していないだけかも知れないですけどね。

ー そうですか、なかなか今はそういったことを意識する間がないといった感じなのですね。では、次にお伺いしたいのですが、サポコタさんが、来日されたばかりのお話をお伺いできれば…

ネパールから来日して、福岡にいたころは、「シャクティ」ではない別のインド料理店で働いていました。今のように、店長という立場ではなくて。その当時は私も日本語が全く分からなくて、厨房の中でだけの仕事でした。

 

 

 

 

 

 

ネパールでの「ありがとう(ナマステ)」のポーズ。合掌。この、「ナマステ」は、ありがとうの感謝の意だけでなく、朝のおはようから、おやすみまでの挨拶も、全部「ナマステ」。まさに魔法の言葉なのです。

 

ー 最初は言葉の点でだいぶ苦労されたと思います。でもサポコタさん、外国人のかたにとっては難しいという日本語を、もうほとんどマスターしておられる感じなのですが… こうやって、インタビューもスムーズに進んでいますし。

私も勉強が苦手でしたので、特段、日本語についてじっくり勉強した、ということはなかったです。仕事も忙しくて勉強する時間もなかったですし。でも、仕事の幅を広げていくには日本語は絶対必要。そう意識して過ごしているうちに、自然に覚えていった感じですね。そして日本語を覚えるにつれ、厨房の仕事だけでなく、ホールの仕事もできるようになり、今、店長をするに至っている、という流れです。

ー すごいですね!でも「日本で仕事をしていく」という、サポコタさんの強い意識がなせた、ということですよね…

いやいや。まだまだ正確さには欠けますが(笑)。外国の人からすれば、日本語って、喋ったり聞いたりすることは、そんなに難しくはないですよ。でも、「書く」ということは難しくて、まだなかなかできない。どこの国の言葉でもそうじゃないですか?「書くこと」って。

ー でも、ネパール語と日本語とは、言語の体系が全く異なるでしょうし、本当にすごいことだと思います。あとサポコタさんは、英語も堪能だそうで。英語については、ネパールでいらっしゃった頃からマスターされておられるのでしょうか?

ネパールでは、ネパール語と英語を学びます。ネパールでは皆、ネパール語に加えて、英語も話すことができます。

ー そうなんですね!自分たちも学生の頃は確かに英語も学びましたが、サプコタさんのように、ペラペラしゃべるまでは到底いかないレベルです。そういう意味でも、ネパールのかたはとても優秀なのですね。

 

 

 

 

 

 

 

異国情緒溢れる、店内のポスターの数々。

 

 

 

 

この象さんたちのオブジェは… ガネーシャ?

 

 

 

ガネーシャ

ガネーシャとは、インド神話に出てくる4本の腕と象の頭を持つ神の名前。  日本では書籍「夢をかなえるゾウ」に登場することで有名です。インドでは数ある神の中でも最も有名かつ一番人気のある学問と商売繁盛の神様とされています。

 

 

そしてなぜか赤ちゃんの写真も。左上に見える数字の表?のような絵もカオス(笑)。でもこの「何でもあり感」好きです。

 

ー 次に、お店に関しての質問なのですが、この「シャクティ」という名前にはどういった意味があるのでしょうか?あと、奈良県内にも同じ「シャクティ」さんという名前のインド料理店も見かけたこともあるのですが、これらはいずれも系列店なのでしょうか?

「シャクティ」はネパール語で、「光」や「力」という意味があります。そして、同じ「シャクティ」という名前の、インド料理店のお店も、日本国内にはたくさんありますが、この五條のお店と、奈良の富雄、大阪の和泉府中店、この3店舗は運営している人物(社長)は同じですね。

ー 別に運営をしている社長さんがいらっしゃる… 自分はてっきり、サプコタさんがこちらのお店を経営されているものだと思っていました。

私はまだ、日本で永住権※を持っていませんので… ですから、お店の切り盛りは確かに私がしていますが、私が従業員を雇ってお店を経営する、ということはできません。でもいつかは… ということなんでしょうけど、まだまだ。

ー ありがとうございます。次に、カレーのお話をお伺いしたいのですが、ネパールとインドと言えばカレーですが、サポコタさんはどれくらいの頻度でカレーを食べていらっしゃる?

もちろん、ネパールもインドも、家庭でもごく普通にカレーはよく食べます。私も毎日カレーを食べています。お昼はご飯とカレー、夜はカレーとナン、というふうに。でも私が食べているカレーは、日本のカレーと違ってさらさらして水っぽいんです。

ー 本場のカレーは、日本のそれとは違って水っぽくてさらさらしている… ということはイメージにありました。では、ネパールとインドのカレー、両者の違いといえば?

そうですね… ネパールのカレーはインドカレーに比べて、香辛料が控えめで、どちらかといえば日本人の方にも食べやすいと思います。また、油も少ないので、インドカレーのような油っぽさはありません。インドカレーはその対極といって良いでしょうか。具材も、トマトやたまねぎといった野菜も多く、インドスパイスもふんだんに使います。あと、この、「シャクティ」ではナンをメインに、お客様に提供していますが、ネパールでは「ライス」を添えるのが中心です。

ー そうなんですね! ネパールではライスが中心… ということは、日本でいう、「カレーライス」のような感じなのですね。

ネパールのカレーにもナンを添える時はありますが、それは、特別な時においてだけで、普段はライスが中心ですね。

ー 次はこの「シャクティ」さんのお店についてお話をお伺いしたいと思います。私も何回も、シャクティさんをご利用させていただいているのですが、本当にメニューの種類が多いですよね!

シャクティでは、カレーは24種類、ナンは15種類のメニューがあります。それと日替わりカレーのランチセットに、あとは多人数向けのセットもありますね。あとは、おなじみのタンドリーチキンや、モモ(インド風餃子)や、チョーメン(インド風焼きそば)といった一品料理も多くあります。

 

 

お得と評判のランチメニュー。4種類から選べるカレーに、ライス、サラダ、そしてドリンクも選べるBセットは特にオススメ!(写真見にくくてスミマセン)

 

 

 

 

 

 

定番の「カレーライス」に、「お子様セット」と、小さなお子様向けのメニューもありますよ!

 

 

 

 

ー モモやチョーメンといった料理も、インド料理では有名なメニューなのですか?

いえ。ネパールは先程もお話ししたように、チベットや中国の影響を受けています。それは料理においても同じで、ネパール料理は、周囲の国の食べ物の影響を受けて、ネパール風にアレンジされたものなのですよ。ですから「モモ」はもともとチベットと関係が強かった、中国からの伝来で、「チョーメン」も元来は中国から伝わって、今はネパールではポピュラーな料理として親しまれています。

ー そうなのですね。自国風にアレンジするということは、日本の「カレーライス」や「ラーメン」も同じような感じなのでしょうね。では、シャクティさんの、数あるメニューの中で、サポコタさんのおすすめは?

まあ、すべてのメニューはおすすめなんですが(笑)、お客さんに人気があるのは、カレーでは「バターチキンカレー」、ナンは「チーズナン」ですね。それと、カレーに使っているターメリックやクミン、コリアンダーといったインドスパイスも、すべて現地から用意したものです。

ー バターチキンカレーはシャクティさんに来たらいつも食べています(笑)。クセがなくて、食べやすいカレーです。あと、チーズナンはまだ食べたことがないのですが、確かにシャクティさんの焼きたてのふっくらしたナンと、チーズの組み合わせは相性がバッチリでしょうね!

 

「カレーだけがメニューちゃうデ!」なぜか関西弁風(笑)。地味に笑いを誘います。

 

 

 

 

 

 

 あと、サラダのドレッシングが美味しいってよく言っていただいていますね。

ー そうなんですよね。インターネットのグルメに関するサイトでは、シャクティさんに実際に行かれた方の感想も、多々見かけたこともあるのですが、「美味しかったのでまた行きたい」という感想や「店員さんが優しかった」という好意的なものばかりでした。その中で、「ドレッシングが美味しかった」という感想が特に多い気がしましたが、その秘密は?

 あのドレッシングは、ベースは日本のごまドレッシングがベースなんですよ。ごまドレッシングに、少しだけ大根、玉ねぎ、にんじんをすりつぶして、それにパプリカを加えてインドスパイスで仕上げたものなんです。このドレッシングは、今までは(お店では)販売していませんでしたが、これからは販売していく予定です。

ー ドレッシング一つでも、手が込んでいるのですね。自分はあまり野菜は食べないのですが、このドレッシングを食べたかたからは、独特の香ばしい感じがしたとのことだったので、そういう秘密があったんですね!

 

某有名サイトでも評判の、インド風サラダドレッシング。野菜好きにはたまらない一品とのこと。

 

 

 

ー あと、「ナン」なのですが、シャクティさんのナンはとても大きいですよね!最初に見たとき、あまりの大きさに驚きました。自分もほかのインド料理店に何回か行ったことがあるのですが、どこもシャクティさんほどの大きさはなかったですね。

確かに、ナンは大きめだと思います。大阪や名古屋方面から来られた方も、うちのナンの大きさには驚かれていますね。でも大体日本のインド料理店のナンはあのぐらいの大きさが多いんです。もっと大きなナンを出しているお店もありますよ。

ー そうなんですか!シャクティさんのナンより大きなナン… 一度見てみたいです(笑)。でも、ナンが大きすぎるがために、カレーが足りなくなった、とかそういうこともないんですよね?

あまりそういう事も聞きませんね。ウチのお店は営業を始めて丸5年になるんですけど、1回だけ、カレーが足りなくなったかたがいました。まぁ、その方にはカレーをお代わりしていただきましたけど(笑)。

 

とにかく、「ナン」が大きいんです!食べ応えは抜群!

 

 

 

ー あと、サポコタさんは、「日本のカレーライス」についてどう思いますか?

 日本のカレーも美味しいです(笑)。でもネパールでは、日本のようにカレーをご飯にかけて食べません。ですからそこが、自分たちにとっては驚きですね。日本のカレーは、自分たちからすればちょっと甘いのですが、私は嫌いではないです。でも… 日本の料理は何でもおいしいですね!私は日本食では「ラーメン」が一番好きですね。あと、「スシ」や「テンプラ」なんかも好きです。でも、肉料理は食べられないんですよ。

ー そうなのですね。それは宗教上の理由で?

そうです。祖国のネパールにおいては牛は、ヒンドゥー教では神様のように崇められていまして、「牛肉」を食べるのは禁じられています。今でもネパール人の約8割は牛肉は食べません。

ー 豚肉やそのほかの肉もなんでしょうか?

いえ。牛肉以外は食べます。豚肉や鶏肉、マトン(羊の肉)なんかも食べます。

ー 確かに、シャクティさんだけでなく、他のインド料理店のメニューを見ても、「ポークカレー」や「チキンカレー」、「タンドリーチキン」などはあっても、「ビーフカレー」はありませんものね。

 

これは「タンドール」という、インド特有の「窯」。窯の中は480度もの高温になるのだそう。この「タンドール」で、ナンやタンドリーチキンを焼き上げます。

 

 

 

 

 

ー 次のお話なのですが、この日本で、インド料理店を営んでいる上で、気をつけておられることは?

「カレー」は日本でも国民食であることは知っています。もちろん、ネパール、インド料理でも代表的な存在です。だからといって、自分たちの好みは日本の方にそのまま当てはまるといえば絶対そんなことはない。特にこの五條では若い方は少なく、ご年配の方が多いです。ですから、「日本人に合わせる」それを一番のコンセプトとしています。それと老若男女みんなに召し上がっていただけるよう、カレーの辛さも細かくしています。インドカレーのお店なんだけど、「日本人の口に合うカレー」を提供させていただいていますね。

ー 「日本人の口に合うインドカレー」、サプコタさんは11年もの長い間、カレーの本場ともいえるインドで長らく修業をされた身から、いろいろ試行錯誤されたことだと思います。料理人にとって、自分のスタイルを変えていくのはとても難しいことでしょうしね。

 

 

ナマステ。

 

 

 

 

ー 最後の質問なのですが、目標や、シャクティさんをこういうお店にしたい、とかの展望はございますか?例えば、独立してお店の経営をお考えになっている… こと等は?

自分のお店をもって独立というのは、目標というよりかは… まあ、ちょっとずつ考えていきます。あと、「シャクティ」でお食事いただくことによって、五條のかたには、インド料理をもっと身近に感じていただけたら幸いです。

ー ありがとうございました。 それでは、最後にまた、ネパール語で少しお話させていただけたら…

 

 न्यवाद सपोकोटा करानन्द ダンネバード、サポコタ カラナンダ(サポコタ カラナンダさん、ありがとうございました)

ー धेरैराम्रो デレイラムロ(とても楽しかったです)

ー मलाई तपाईं मन पर्छ। फेरि भेटौला マライ タパイン マルパンチャ、フェリベトゥンラ(あなたのことが好きです、また会いましょう)

धन्यवाद। फेरि भेटौला ダンネバード、フェリベントゥンラ(ありがとう。また会いましょう!)

 

(編集後記)

ずっとずっと、インタビューに行こう!と思っていたのですが、なかなかインタビューに行けなかった今回の「シャクティ」さん。「すぽっとらい燈」初?の外国人のゲストさんともあって、最初と最後のごあいさつだけは、サプコタさんの母国語であるネパール語で!と意気込んで、付け焼刃で、ネパール語の勉強をしてみたのですが、やっぱり自分たちの慣れ親しんでいる平仮名やアルファベットでない言語体系(「デーヴァナーガリー」と言います)は難しい!サポコタさんも来日当初は、言葉の面で苦労されたとのことですが、今となっては日本語もほぼペラペラ、英語もマスターしているというバイリンガル。外国語を少しでも喋れるようになりたい… そう強く感じた今回のインタビューでした(笑)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第54回 フレンチレストラン「ラミ ダンファンス アラメゾン」オーナーシェフ 片山 英樹さん

 

”やり続けることに意味がある”
背中を押してくれ、励まし応援してくれた人たちがいたから・・・。

ノスタルジックな空間が織りなすフレンチの世界。その世界観をこの五條から発信できる喜び。

江戸の町並みが今も残る五條新町通りに、お店を構える古民家フレンチレストラン。どこか懐かしいような店内で、地元の農家さんがこだわって丹精込めて作ったお野菜を使った極上フレンチを提供されている、オーナーシェフ片山秀樹さんにお話しをお伺いしました。

 

 

この場所で・・

-この五條の新町でお店を始めようとしたきっかけは・・。

もともと五條の農家さんから直接お野菜を買わせて頂くお仕事をしてたんです。ここに来る前に、奈良県の郡山市にあるホテルの料理長をしてるときに紹介してもらって。五條の農家さんとかその近郊の農家さんから直接買わせてもらってたんです。

それで付き合いが長くなっていくと、だんだん直接農家さんの畑に遊びに行ったりとか、農家さんがお店に食べに来てくれたりとか、行き来をだんだんするようになって。そんな時にこの通りの「五條源兵衛」さんがオープンして、農家さんがそこにもお野菜を入れてはったんですけど、五條にこんな店ができたよって招待して頂いて。

源兵衛さんに?

第52回 五條源兵衛 料理長 中谷 曉人さんのインタビューはこちら

そうです。
オープンして1週間くらいの時かな?招待してもらって。

その時に大和社中の代表の中さんが立ち上げた、法人で運営してる会社があるんですけど、そこの社長でもあった中さんを紹介してもらって。ちょうどその時に”将来的に田舎でゆっくり店でもしてみたいな”という話を農家さんにしていたタイミングで中さんを紹介されて・・・。

”じゃあもしその気があるならいかかがですか?”って。

五條の新町に空き家もあるし・・ということで、前の持ち主の方から全然手つかずでほったらかしになっているので、もしよければと、お話をいただきました。

新町も東の入り口側はたくさんお店屋さんあるけど、西の入り口は少なくて人の流れも寂しいから、こっちで店をやって頂けたら有り難いな。というお話から、真剣に”じゃあやりましょか?”というのが店を始めるきっかけになったというか・・・。

重要伝統的建造物群なのですぐには工事も出来ないし、それに工事をする直前にちょうど東日本大震災があって・・・。

あれって2011年・・・?

そうですね。
ちょうどその時に重伝建(重要伝統的建造物群)の申請をしてたので・・・

じゅうでんけん・・?

重要伝統的建造物群です。
改装っていうんですか・・復元するときに文化庁に申請を出して許可を頂かないと建物を触れないんです。

それで出してたんですけどちょうど、東日本大震災とかぶってしまって。東日本、東北一円の重要文化財が傷んでしまったのでそちらの修復が優先になってしまって、五條とか西日本は後回しになって工事が遅れたりとかで・・。

五條に来て・・・オープンしたのは話あってから3年目くらいですかね。

結構かかってるんですね

そうですね。一番最初に話しがあってから3年くらい経ってるんで。重伝建の許可が下りなかったりとかそのほか資金面でも・・・。

そなこんなで話があってから3年・・五條に僕が来て話を進めてからでも丸1年以上かかってやっと、という感じですね。

じゃあもともと五條ではなかったけどこのお話を頂いて五條に・・・?

そうです。
僕はもともと大阪なんです。生まれも大阪で住まいも大阪市内だったので、そこから(前職場の)郡山に通っていたんですけど。

こっちでお店をということで引越もしたんですけど・・・そんなんでなかなか話も進まなくて・・。店をやるって言って申請してから1年半くらいかかったんかな?実際オープンするまで。

その時には五條に住まわれていたんですよね?

そうですね。もう五條に引っ越してきてたんで。
ただ、いつ許可が下りるのか不透明やったし・・。それが下りない限り工事も出来ないので、だいぶ遅れたんですけど・・・。それでやっとこさオープンに漕ぎ着けたという感じです。

そんなご苦労があったんですね。
それでそこからオープンはいつなんでしょう?

震災の次の・・2012年の7月・・なので今8年目ですね。

 

手つかずの空き家から古民家フレンチレストランへと変貌をとげるまで

-もともと空き家だったこの場所ですがここに来た時は家はどんな状態でしたか?

来た時はもうお化け屋敷くらいボロボロでした。聞いた話では40年近くずっと空き家で借り手もなく放置されていて、持ち主も戦後すぐ五條を離れたとかで・・今は神戸に住まわれてるんですけど。
不動産屋さんにまかせっきりで、全くこっちにかかわってなかったみたいで。

ここと、この2階と今、借りてる駐車場とガレージと、この裏に2軒くらいおうちがあるんですけど、それ全部その方の持ち物で。

重伝建に指定されると、売り買いがなかなかスムーズにいかなくて。ボロボロやけど更地にするのも許可がいるし、建替えにしてもこの現状を維持しないといけないっていうのがあって。

そんなことで持ち主の方が、それならもう寄付してもいいかな、ということで寄付をされて、今はNPOの持ち物になってるんです。

家も40年間ほったらかしだったので、柱と梁はそのままでしたけど壁は落ちている部分もあって。床も畳やったんですけど、腐ってなくなってたりとかシロアリにやられてたりとか。

雨漏りがして・・元々あったトイレの場所も崩れてたりとか、庭も木が生い茂ってジャングルみたいでした。

その時どうしようと思いました?

いや何とかなるやろなと思いました。
それより家ってほってたらこんな事になるねんなと思いましたね。

でもここにきて手を付けてからは早かったですか?

工事始まってからは割と早かったんですけど、申請とかにいろいろやっぱり時間がかかりましたね。だからオープンまではなかなか上手くいかなかったですね。

改装までに大変なご苦労があったわけですが、お一人でされていたのですか?

立ち上げからオープンまでその時のNPOの代表の中さんが、一緒に協力してやりましょうってことで・・。だから中さんにはだいぶ助けて頂いているんですけど。

まあ全く五條に縁もゆかりもないし、知り合いもいないし・・。
農家さん以外繋がりもないし・・。

それで中さんを主体にNPOの方に助けてもらいながらオープンした形ですね。中さんやNPOの方のバックアップがないと出来なかったし、ここ(五條)に来る事もなかったかなと・・・。

最初不安はなかったですか?知らない土地に来るって。

ああ、そうですね。若干ありましたけどね。
でも・・多分、田舎っていったら失礼ですけど、都会ほど人口の多い場所でもないしメジャーな観光地でもないし・・。

大阪にいてて「五條」って言われても「どこ?」っていう感じなので。そんな感じの場所なので。吉野とか十津川とか飛鳥って名前きいたら「あぁっ!」ってなるけど、その通り道にある五條ってみんな気づいてないだろなっていうのがあって。

だから、まあ最初からここですごく儲かるとは思わずに、店が維持出来たらいいかな、っていうくらいのスタンスでやってたんで・・。実際、全然儲かってないんですけど 笑

なので皆さんに助けてもらってばっかりなんです。

でもNPOの方も
「やり続ける事に意味があるから負けずに続けてください」って。励ましてもらって応援してもらってるので、これだけ続いてるのかなと・・・。そうでなかったら辞めてるかも知れません。

やっぱりそういうところも人との出会いがあってこそですか?

そうですね。最初のその縁があって・・「えにし」っていうんですかね。最初に繋がってたおかげで今があるって思ってますね。

素敵ですね。私もこうやって取材させてもらってお話聞かせてもらうとみなさん「縁」を大切にされている方ばかりで・・。

そうですね。結局こういう場所で商売しようと思ったらそれが大切になってきますよね。人が不特定多数来るところなら別にそんなに(集客を)気にしなくてもいいんですけど、そうじゃないんで。
誰かに助けてもらったり・・という事も多いんですよ。

あります?そういう助けられてるな?っていう実感

そうですね。
お客さんとかでも、お客さんがお客さんが呼んでくれたりするときですね。でも良い面もありますけどその分、難しい所もありますね。人間関係とかつきあいとか・・うまくやっていかないといけないというのはあるんで・・まあその両方あるんですけどね。

人間関係の大切さ・・・。
世界観が狭くなると窮屈になってくるかもしれませんが、だからこそ人と人との”つながり”が大切になってきますよね

そうですね。
それはある程度慣れっていうんですかね・・。大阪から引っ越して来て、ここで住んでるだけでも自治会とのつきあいとかがあって。大阪なんてマンションに住んでたらそんなのもないんですけど。自分がそこに入っていって、そこで何かしていないと地域とうまくやっていけないし・・・。

そうですね。
なにか困った時にコミニュケーションが薄いと難しいですもんね

 

料理人としてのこれまで

-以前郡山のお店で料理人をされていたわけですが
料理人を目指すきっかけを教えて下さい

きっかけ・・そうですね。
もうこの世界に入って40年超えましたから・・。

40年!

そうですね・・40年超えました。
だから、さかのぼること40ウン年前のことですけど。
僕が高校生の時に、ちょうど世間にファミリーレストランが初めてできた頃なんですが、そこでアルバイトをして。

ロイヤルホストとかが、初めて街に登場して増えだした頃・・ファミリーレストランが一番全盛期の頃ですね。できてみんながファミリーレストランに行って、いつも長打の列を作っていた時代に、高校の近くにあったファミリーレストランでアルバイトを始めたのがこの仕事の最初きっかけですね。

それは厨房でですか?

そうです。たまたま同級生のお兄さんがロイヤルホストの社員で、料理長として新しくできた店舗に赴任してきて。そのお店が高校から割と近い距離やったんで、「アルバイト探してるからいかへんか?」って言われて。
それで何人かでオープン前から準備したりビラ配ったりとかのアルバイトしてる時に、割と楽しいかなっていう思いがあって。

それとモノを創ったり・・そういうのも好きやったし。

・・・ぼくね・・・最近の言葉でいうと
実は「コミュ障」なんです。笑

えーーっ?そうなんですか?

大勢の中に自分から入っていくのが苦手で・・・。だから営業とか会社の中に入っていく仕事はしたくないなと。それと、個人的な問題ですけど、父親が居なくて家が貧乏だったので早く働かないといけないっていうのもあって・・。

まあこの職業は食べることに困らないんで 笑

そうですね 笑

というのもあって、ちょうど世間も高度成長期時代・・昭和50年代ですかね。バブル前の成長期時代に就職したんで、世の中すごく景気のいい右肩上がりの頃で、食べることにも困らないしで。だから高校出てすぐ料理人として働きました。

それにモノを作るのは楽しいしやり甲斐がありますよね。

今でこそ働き方改革で労働時間とか休みがどうとかって言いますけど、僕らの頃は職人やしっていう感覚も強くて・・。見習いのうちは長い時間、働かないといけないし、一日15時間とか当たり前やし・・ってそんな時代を経てきましたけど。

世の中の景気の波が良かったんでしょうね。高度成長期時代で世の中景気が良くて、飲食店もどんどん増えていって調理師になる子も多かったし。それに頑張れば頑張った分、出世できたみたいな時代ですしね。

やりたいことがあって、それを目標としてやって、やったらやるだけ評価される・・・ってうらやましいです

そうですね。でも何回もやってみて上の立場になって、頭打って苦労して頑張って・・。って繰り返しましたけど・・・早いうちから管理職になっていたので・・それは時代がよかったのかなって思います。でもその分アホほど働かされましたけど。

その管理職っていうのはロイヤルホストで?

いえ、ロイヤルホストには就職はしてなくて。長く働いていたのはホテルが多いですね。だからそうですね20代後半・・それこそバブルの真っ最中にはリゾート開発の会社に就職して。ゴルフ場とかスキー場が併設された、青森にある青森ロイヤルホテルっていうリゾートホテルの副料理長をやっていたりとかしました。

今でもそのホテルはありますけど、計画倒産して経営者が代わったりしたので大阪に帰って来て。その後、大阪ヒルトンホテルに行ってそのままの流れで管理職をしてました。ある程度・・ホテルを2件くらい働いて、最後は東京に本社がある郡山のホテルの料理長をしてました。

そのホテルを50歳の時にやめてここに来たんですけど。もともと50歳くらいでリセットしようと思っていて。長く管理職していたんで、もうそろそろいいかなって。子供達も20歳も過ぎてきたのでというところですね。そんなに欲もないので儲けを気にしないで、そろそろ田舎の方でお店をしようかな、って考えてた時にちょうどこの話を頂いたんで。

やっぱりタイミングが合ったのもあるしっていう

そうですね。その間にいろいろあったんですけどね。

本当はもうひとり一緒にしよかって人もいたんですけど。やりたいときにすぐ事業が始められなかったんで、2年も3年も先伸ばしになったんで。だからその子は今すぐしたかったんで、違うところで始めましたけど。

すぐに事業が始められていたらまた違う感じになっていたかもわかりませんね

そうですね。
店の雰囲気も変わっていたかもわかりません。僕は経営者に向いてないので、また二人でやってたら違う感じになったでしょうね。

いろいろ不安はあったと思いますけど・・不安と楽しみはどっちがおっきかったですか?

うーん・・。

・・って勝手に不安があったんじゃないかなって言ってますけど・・

いや不安はありますよ。お客さん来るかどうかわからへんし・・・。でもなんかいつもなんとかなるかなっていうような感じですかね。

そうですね
リスクばっかり考えてても絶対前向いて進まないですからね

そうですね。
だけどそれがあんまりよくなかったかなと。もう少し慎重にやってても良かったのかなと思いますけど。

でも行動って起こしてみないとわからないところはありますもんね

そうですね。やってみやなわからんところはありますね。
やってみていろんな問題点とかこうしたらよかったとか、ああしたらよかったとか見える所もありますしね。

だから、経営者として見る目と、僕らみたいな職人から見る目と違うじゃないですか。僕は長く創るサイドにいた人間なんで・・。
ホテルでも管理職はしてましたけど、創る方の管理職なので売る方の事はイマイチ得意じゃないので・・・その辺が苦労しましたね。まあそんなこんなで何とかここまで来てる感じですかね。

 

期待値が大きいほど「ありがとう」が価値のあるモノになるよろこび

-そんな中でも料理人としての喜びはどんな時に?

それはね単純にお客さんに喜んでもらった時ですかね。

モノを売る商売の中で、お金もらって「美味しかったよ」「ありがとう」って言ってもらえる職業ってそんなにたくさんないと思うんですよ。僕らはそれを言ってもらえるので。

でも料金が高ければ高いほど、お金払う人の期待値は高くなるじゃないですか。やっぱり1杯何百円のラーメンの期待値と、1万円のコースの期待値とでは全然違うと思うんです。

それに応えないといけないというのと、それが上手くいってお客さんがすごく喜んで頂いたときの達成感っていうのは特別なものがあるので・・・。

それが一番この仕事のやりがいっていうんですかね・・。
お客さんに喜んで頂けるっていう。

逆に料理人をやってて苦労されたことは

そうですね・・・苦労・・。

対お客さんっていうのはそうでもないんですけど、やっぱり人を使うっていうのはね、難しいところがありますよね。たくさん管理職を経験して人間を使っていく事の難しさというか・・。

私の勝手なイメージですが、料理人の方って寡黙な方が多くて「背中でついてこいよ」っていうような方が多いように思うんですけど・・

笑 そんなこともないんですけど。

ただ特に今の時代は、労働時間だなんだって難しい時代背景もあって。一律にじゃあみんな同じ事を教えて同じことができるかって、そうじゃないじゃないですか。1回言って出来る子もいれば、3回言っても出来ない子もいてるし・・じゃあその出来ない子はダメなのかって、そういうわけでもないし・・。

適材適所って言いますけど、やっぱり特性を見極めてあげて人を使わないと・・。ダメだからって切っていっても、次また人をどんどん入れられるっていう世の中でもないですからね。高度成長期時代みたいに子どももたくさんいてて、次から次へって採用出来る時代ではないですからね。

特に調理師も今は3Kっていわれて、労働時間が長いとかキツイとかしんどいと言われるので、なる子がすごく減ってるので。
だからいかに人をうまく育てていくか、ということに難しさを感じますね。

管理職っていうか上に立ってはる方やから、そういう悩みっていうか・・

絶対に人はいりますからね。モノを創るっていう事は。
大工さんとかも一緒ですけど、人の手が絶対いる職業なので。どんなに頑張ってもひとりの手は2本しかないですからね。だからそういうところは難しい所ですよね。

 

色彩ゆたかな地元の野菜を使った料理

-色とりどりのまるで絵画のようなフランス料理ですが特にこだわっていることはありますか

フランス料理だからっていうわけではないんですけど、料理を作る心構えって僕らも教えられたんですけど。

まずは安心安全ですよね。食材が安心安全って。それでいておいしい。そして見た目がきれい。まずそれが大原則ですね。
この3つ「安心安全」「おいしい」「きれい」っていうのを大事に料理をするっていう事ですよね。

その「安心・安全」とうことで、五條の農家さんを・・

そうですね。そういうことのひとつとして、地元の有機野菜、無農薬の野菜を使うとか・・。あとそうですね、その他の小麦粉とかも国産の小麦粉を使ってパンを作るとか、砂糖にしても国産の有機栽培のさとうきびだけの砂糖を使うとか・・。

砂糖って輸入品なんですか?

普通に売ってる上白糖は原材料はほとんど輸入ですね。砂糖を白くするには精製して漂白して白くしているんで。

そしたら三温糖みたいな色が本来の・・砂糖ってみんな白いものやと思ってると思うんですけど。

そうですね。

逆に砂糖を白くしなくてもいいのにな思うんですけど・・・
三温糖みたいな色をしていても・・

その理由はいろいろありますね。三温糖っていうかそれ以前の素精糖っていうんですけど、漂白する前の砂糖って混ぜものが結構入ってるんで、それがミネラルがあって健康に良いとされてますけどね。

何年か前に、中国の輸入食品に農薬が入っているっていう事件があってから国産熱が高くなりましたよね。その時に輸入を見直すところが出てきて、輸入に頼らず国産でという流れになってきて。
ただ国産となると値段も高くなりますけど、それでもあえて食べたい人達も増えてきてるので。

全然違うんですかね?安心安全の意味からでも、お味としても・・?

そうですね。味も違いますね。だから作り方にもよりますけど、食べてもらったらわかりますけどね。

特にここ最近は客層も二極化になってきてますよね。
高くてもそういうのを食べたい人と、極力安く買いたい人達に極端に分かれてきてますよね。

こういうところでも、そういうのを使って高く提供しているんですが、そういうのが良いといって来てくれる人もいますが、でも中にはここの値段を見ただけで高いからやめる、っていう人も実際何人もいてはるし。

でもそれにはちゃんと理由があるっていうことですもんね

まあその辺は価値観の問題で、極端に差があるっていう風に変わってきましたよね。ここのランチが最低が2800円・・これが高いか安いかって話ですもんね。

ほんとにそれは価値観の問題ですよね

だから、他府県とか関西圏関東圏、神戸や大阪、東京から来られた方はこの値段でビックリするくらい安い、って言われるし、この界隈の方はランチで2800円といったら来られなくなる方もおられますから。

でもそれは自分のモノサシじゃないですけど・・・

そうそう。
だからこのあたりの値段が割と安いので価値観というか・・・なかなか難しい所です。最初に農家さんがいってはったんですけど、奈良県全体が比較的そうなんですけど高いものが売れへんよ・・・って。

でも解ってくれはる方は一回食べたらわかってくれはるんでしょうけど・・

どちらかというと、五條以外のお客さんの方が多くなってきているのが確かですね。奈良県なら橿原とか高田、香芝とかのお客さんが多いですし、和歌山の方も多いですね。あと大阪の方も多いです。交通が割と便利になったんで。車で1時間くらい圏内の方は来てくださいますね。

ただ、こっち方面・・例えば西吉野の柿を買いに行きましょうとか、十津川に行きましょうとか、吉野、高野山に行きましょう、ってなってルートを検索した時に、どこでお昼ごはんを食べるか検索しますよね。そうした時にこのあたりは食べ物屋さんが少ないんで、時間的に五條の周辺とか橋本の周辺でごはんを食べようかっていう方もおられますよね。

それで気に入って頂けたらまた違う人と一緒に食べにきてもらったり・・って遠いお客さんが増えたりします。

お客さんがお客さんを呼ぶって事ですよね

たくさんのお客様が来られると思いますが、思い出深いお客さんとかおられますか?

そうですね。
やっぱりね回数もそうですし、特別な会話とかをすると頭に残りますよね。特別な料理を注文していただいたりとか・・。1回目は覚えてなくても2回目来た時に思いだして会話したりとか・・。その中で気に入ってもらえて、しょっちゅう来てもらえたりとかもします。

この近くの辯天宗の大祭の時に他府県から来られる方がよく利用したりもされますね。

そうなんですね
逆に奈良県外のお客さんに来てもらって五條の野菜を知ってもらうっていう事もできますよね

そうですね。それもひとつの目的っていったら偉そうなんですけど・・。

奈良県って商売下手くそなんですよね。野菜にしても商品にしても・・。奈良県産の野菜とかに大和野菜とかネーミング付けて販売してますけど、他府県であんまり見かけなかったりとか知名度低かったりとか・・。

京都の京野菜とか石川県の加賀野菜とかに比べて、全然表舞台であんまり名前を聞かない。でもちゃんと農業も盛んやし、モノも作ってるし・・。

つくね芋なんて御所で作っていて御所が発祥で特産品やけど、そんなん御所以外の人誰も知らんかったりとか・・・。

私、御所ですけど知らないです・・

郡山もいちじくの産地で、西日本でも有数なんですけど誰も知らなかったりとか。そういうのがあんまり上手じゃないので、そういう事も含めて、五條の野菜とか奈良の野菜の美味しさをわかってもらえたらいいなと。

なかなか自分たちが知ってることをどうやって発信していいのかって、いうのも奈良県の方っていうかこの辺の人たちは苦手なのかと思ったりもしますが・・。

そうですね。
・・・あんまり商売っ気ないっていうか・・。

そうですね 笑
商売っ気はほんまにないですね

飲食店にしても何にしても、ちょっとねマイナス思考のところが奈良県はあって・・。なんかイベントがあっても、どうせあんまり人なんかけーへんやろとか。そういうモノサシの人が多いので。

そんなこともないんですけどね。
それこそやってみないと分からないのにね・・

そうなんですけどね。なんかそういうところが根強いんですよね。

僕が思うに、奈良県でも奈良市とかでも飲食店が発展しないんですけど、そもそも奈良から京都に都が移って、京都は発展したけど奈良は忘れられてる、みたいな感じが強いじゃないですか。そういう”負け犬根性”みたいなのがあって、何百年の間に染み付いているような雰囲気がありますよね。

奈良に残っている人達の考え方がそうですよね。
前に平城京遷都1300年の時も、直前まで奈良の人って動かないんですよ。どうせ人がけーへんからなんかやってもあれやろ、っていって全然企画が進まなくて。

それよりも先にセブンイレブンが奈良限定で、遷都1300年祭を記念して、大和肉鶏と大和ポークのお弁当を販売したんですよ。3月から始まるので1月くらいから。

それを見てはじめて「なんか俺らもせんなあかんのちゃうの?」みたいな感じで、そっから重い腰を上げて動き出して、後手後手にまわったっていう話ですけど・・笑

1300年ってそうそう来るものじゃないのに・・次の区切りの1400年って100年後じゃないですか。そんな一大チャンスを逃す方が・・・って思いますけどね

どうせそんなけーへんやろうという考えで・・だから平城京跡の店舗が少なかったでしょ。

私も行きましたけど、ただ、だだっ広いだけで、何かちょっとわからへん感じでしたけど・・笑

実際、フタ開けたらすごい人が集まって、みんな慌ててしまって。奈良県知事がテレビで「奈良県の人は土日に行かないように。他府県の人がたくさん来られるので協力して下さい」っていうような事をテレビで言ってましたからね。

だからそういうところが下手くそなんですよね。最近はね、ちょっとイベントとかしたりして変わって来たりしましたけど・・・その辺が弱いところかなと。

このあたりの奈良県の南和地区でもそうやと思うんですけど、なかなか観光で伸び悩んでいますけどね。吉野は世界遺産になって桜があるんで人集まりますけどそれ以外のところがね・・。

そういう話になったら五條はすぐ交通の便がってまっさきに上がってくるんですけど、交通の便がっていうんやったら吉野だって一緒ですもんね。ものすごく不便じゃないですか。でも桜っていうひとつの名所があってっていう・・

そうですね。克服していく方法を考えて・・。言い訳でしょ。・・交通の便がって。人が集まるようになれば、交通機関も考えるわけじゃないですか。吉野だって近鉄線が桜のシーズンになれば増発したりするじゃないですか。

そうですね観光バスもありますしね

だからここらも観光地になって人が増えればJRも増やすかも知れないし。だからそういう事でやっていかないと何も始まらないと思うんですけどね。

私もそれは強く思います

一部の人はみんなそれを心配してはるみたいですけど。
柿の葉すしのたなかさんにも話を聞くと、京奈和道路が出来てどんどん便利になるけどそれでは五條が忘れられる、通り過ぎられてしまうじゃないですか。前までは交通の分岐点で、みんな五條通って吉野行ったり十津川行ったり高野山行ったりだったけど、高速道路がどんどん出来て良くなって、高野山行くのにも五條や橋本通らないじゃないですか。

十津川へ行くにも高速が出来て、どんどん早くなって直接目的地に行くから五條に寄らなくなってますよね。そうなったら五條に立ち寄ってもらう理由を作らないといけなくなりますよね。

高野山行くのにも橋本を通らないから国道沿いの店が閉める所が多くなってきますよね。特に営業車やトラックとかは燃費が全然違うから絶対乗りますよね。特に今は無料やから絶対乗りますよね。
前やったらご飯食べたりジュース買ったりと、コンビ二とか利用したりしてましたけど利用しないでしょ。休憩するのも道の駅とかサービスエリアとかを利用したり。

私も通勤で24号線を利用していますけど、京奈和が開通するまでは通勤時間帯がすごく混んでいたんですよ。だから通勤している方からすると、それが無くなったので喜んでいたんですけど・・・でもそう考えれば、交通量が少なくなる=利用客も減るっていう事ですもんね。お店にとっては死活問題ですよね・・。

そういう事ですね。

良い面の側面も考えないといけないですね・・

だからここ(五條)に人を呼べる方法を考えないと厳しいですよね・・。住んでる人も高齢化が進んでいて若い人が少ないし、子供も少ないし・・。

まぁ私もお隣の御所ですけど同じような状況ですけど・・でもなかなかそれをどうしたらいいんだろうって・・・

うーん。
だから自治体の取り組みの仕方やと思うんですけどね。

五條市は福祉が充実していなかったり・・未就学に対する手当・・
例えば医療費補助が充実していないとなかなか人が寄ってこないですね。子どもが減るからって学校減らしていったら余計不便になるでしょ。

そうですねまさに悪循環ですね

 

これからの五條に思うこと

-いくらかマイナスな面が出てしまいましたが良い面で・・

そうですね・・良さはたくさんあると思うんですよ。
特に農業とかだと有機栽培やったりとか頑張ってはるところもあったりとか。

やっぱり水が良いし土地も良いし。

この吉野川の川沿いっていうのは肥沃な土地が多いそうなんで食べ物もおいしいし。逆に金剛山系の山麓線のあたりは湧水が綺麗なんでお米もおいしいいし、野菜もおいしいし・・。

そういう良い環境があるんで、もっとそういうのをアピールすればいいなと思います。

観光にしても、住むにしても・・もっとそういうことをアピールする努力をしていかないといけないのかな、と思いますね。

それを実現させるってなったら、もちろん市だけでの活動では難しいやろうし、自治体の方やいろんな団体の方と手を組んで・・ってなってきますね。

五條市もやってるんですけど、それぞれが繋がってないですんですよね。それをうまくひとつにして、活性化させる事ができればもうちょっとよくなるのかなって・・。

 

 

みんなが懐かしむ そんな場所であれば

-最後になりましたがこのお店の「ラミ ダンファンス アラメゾン」の名前の由来は?

”ラミ ダンファンス”ってフランス語の熟語なんです。”ラミ”っていうのが友達なんです。”ダンファンス”っていうが子供時代っていう意味で。それで熟語で仲の良い友達・・おさななじみっていうような意味の熟語なんです。

それで”アラメゾン”っていうのが家っていう意味なんです。だからこの家が古くて古民家でって、この街並みとか雰囲気が、日本人のDNAにそういうのが焼きついていると思うんです。行ったことないけど、そういう田園風景とか見るとなんか懐かしく感じることってあるじゃないですか。

こんなとこに住んだこともないのになんだか懐かしく思うって・・・そういうイメージで「懐かしい家に帰って来た」っていう思いで名前を付けました。

 

すてきなお名前ですね。みんなが懐かしい家に帰る・・・まさにそんな場所にここがなればいいですね。

 

ところで片山さんの趣味とかは・・休日は何を?

趣味はバイクと釣りです。

コミュ障なんで 笑 一人で遊べる遊びが好きなんです。 笑

 

そんなコミュ障だとおっしゃる片山さんですがこれからどんなふうに?

そうですね。
今まで通り、地元の野菜とかを使って情報発信しながら、頑張っていくっていう感じですかね。

 

 

 

 

自身をコミュ障だと謙遜されながらも五條の良さを伝えていってくださる片山さん。
ここが五條の発信元になればと願うばかりです。

 

 

片山さん本日はありがとうございました!

 

Lami Denfance ala maison(ラミ ダンファンス アラメゾン)

所在地  〒637-0071
奈良県五條市二見1-9-28
TEL   0747-24-2205
営業時間  11:30~15:00(L.O. 13:30)
18:00~22:00(L.O. 20:30) ※要予約
定休日  水曜日
アクセス  JR和歌山線「大和二見」駅より徒歩5分
駐車場
※当店の駐車場は店と少し離れています。カーナビが乗用車の通り抜けできない道を案内することがあります。店も駐車場通りに面しており、狭い路地を通ることはありませんのでお気を付けください

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☆森子のつぶやき☆
初めて訪れたとき、あまりにもフレンチと長屋とのミスマッチさに驚き、でも店内に入りそれが払拭されるほどのベストマッチングにさらに驚き・・。
”和”と”洋”の融合と調和。
そこに誰もが持ち合わせている”郷愁”が織り重なって生まれる空間。
フランス料理というとどこか格式ばった感じがし、かしこまって身構えてしまいがち。
でもここは”幼馴染の家”のように・・。
そんな想いが込められた、懐かしい佇まいの古民家でついつい長居をしてしまいそうな・・そんなノスタルジックな空間で、温厚なシェフが創るお料理を頂く時間は格別でした。

第52回 五條源兵衛 料理長 中谷 曉人さん

伝えたい、残したい「五條の宝物」
そのために僕ができること

重要伝統的建造物群保存地区である五條新町通り。そこにはタイムスリップしたかのように江戸時代の町並みが残されている。店名を当時の庄屋「中屋源兵衛」から拝借したという「五條源兵衛」は、築250年の古民家を改装し、地元の野菜がメインの日本料理店として2010年5月にオープンした。隣接の築100年の一棟貸しの宿「やなせ屋」共に、2017年ミシュランガイド奈良で一つ星を獲得し注目を集めるこのお店の料理長兼管理人の中谷曉人さんにインタビューさせていただきました。

 

憧れた鉄人

―中谷さんはいつ頃から「料理人」になりたいと?
小学生の頃ですね。文集にも書いてました、将来アメリカで日本料理のお店をしたいって。とにかく早く料理人になりたくて、6年生の時、両親に言いました、「中学校に行きたくない」って。もちろん両親には「いやいや・・・、中学校は行かないと。義務教育なんだから」と言われましたけどね・・・笑。

―中学校に行くことよりも、早く「料理人」になりたい・・・。そんな風に思うきっかけや、出来事のようなことがあったんですか?
特に決定的な何かがあったという訳ではないんですが・・・、多分ですけど、昔、テレビで「料理の鉄人」ってあったでしょう?あの番組を見て、次々と作り出される料理とか、料理人のすごさ、煌びやかさみたいなものに何か強いものを感じたんでしょうね。両親が共働きだったので、自分で料理するとか、魚をさばいてみるとか、そういうのが割と早い時期からあって、でもそう簡単にうまくできないじゃないですか。その悔しさっていうのかな、できるようになりたいという思いがテレビの中の料理人への興味や憧れにつながっていったんでしょうね、それがきっかけだったのかなと。

見てました!「料理の鉄人」。色とりどりのたくさんの材料とか、料理の実況中継、おもしろかったですよね。

―中学校へ進学された後も「料理人になりたい」は変わりなく
そうですね、変わりませんでしたね。勉強が好きな訳でもなく、スポーツが得意な訳でもない、他に得意分野もない、早く料理人になりたい・・・もうそれだけでしたね。料理界の厳しさとか、その頃は全く知らなかったですけど、ただ、なりたい、それだけの思いで、また両親に言いました。「高校行きたくない、働きたいねん」て。

―二度目の進学拒否?!ご両親は何と?
「いまはその気持ちが高まってるかもしれない、でももし、将来の夢、職業が『調理師』じゃなくなったときはどうすんの?」と言われました。「その時はその時で考えたらいいやん」っていう僕の答えに、「いやそんな考えなら高校卒業まで行けばいいじゃない」と。「料理人になりたいのはよく分かった。でもそんなに慌てず、まずひとつひとつ自分がやらないといけないことからしていきなさい。急がば回れやで」ということを教えられました。

―高校生活はどんな感じでしたか?
やっぱり勉強は好きじゃないし、しない毎日。料理人になるんやし、別に勉強しなくても・・・って内心思ってました。家から一番近いし、ゆっくり寝れる・・・正直そんな理由で高校も選びました。
ところが、まわりはみんな猛勉強、進学率も高くて。3年生・・・中谷進路はどうするんだ?って話になりまして。そんな時先生が、働きながら料理の勉強ができるとこがあるけど、どうする?と「奈良調理短期大学」を紹介してくれたんです。僕は早く働きたかったこともあってそこに進みました。卒業後も奈良の料亭で修行させていただき、それが「奈良」との御縁の始まりです。

 

「源兵衛ストーリー」は突然に・・・

―中谷さんが「源兵衛」で働くことになったきっかけは?
今から11~12年前、以前働いていたお店(五條市内居酒屋)に、たまたま県の職員の方が来られて、面識もない僕に「君ここのお店辞めて、ちょっと新しい企画があるんやけど、どう?」みたいな話をされまして。そこからですね。

―突然そんなお話をされた時どう思いました?
この人は一体何を言ってるんだ?!と思いました。県の職員さんが、何で僕にそんなこと言ってくるんだろうって。でも人生の中でこんな僕にお声を掛けてくださったんだからお応えするのもいいことではないかと思って、二つ返事とまではいかなかったですけど、2回目お会いした時には、やらせてくださいとお返事しました。

―どういった計画だったのでしょう?
この歴史町並みを残し、活用しようという動きから、地元の有志により会社が立ち上げられていて、そこに地域、市、県、国が関わった計画でした。ですが、当初それぞれが思う町並み保存や活用、要望が違っていて、地域としては集える「居酒屋」を、市は地域のランドマークとして表だって出せるものを、県や国は対外的なものを創ってほしいといった感じで、三者三様の意見が飛び交い、なかなか話もまとまらず、おとしどころが難しいという状態のときに、何かできないかなと僕にお声をかけてくださったそうなんです。

―では、中谷さんがそのまとめ役のようなポジションということですか?
いえいえいえ・・・。当時僕は居酒屋をしていたので、地域の人は、中谷なら居酒屋をしてくれるだろうと、市は地域でお店をやってた人なら市のことは分かってくれているだろう、県や国としては自分達の声かけで僕が参加するんであれば当然自分達の思いに賛同してくれるはず・・・という感じで、それぞれが納得してもらえる部分があったことで僕は参加させてもらえただけです。

―企画に携わることになって、例えば決意とかイメージ・・・なにかありましたか?
いやもう正直、えらいもん引き受けてしもたなって(笑)こういう古い建物をリノベーションしてやっていくとか、計画の詳細を聞いた訳ですが、僕はその頃、「新町通り」のことさえそんな詳しく知らなかったですし、歴史的町並み、重要伝統的建造物・・・、何かすごいところみたいだし・・・。ほんと、えらいもん引き受けてしもた・・・って思いましたね。

―それぞれの要望、描くものがちがう、そこからのスタートだったんですね。
地域の方には「100席のランチのお店」、夜は居酒屋にして生ビールを飲みながら巨大モニターで阪神巨人戦を観戦する。そういう構想がありました。いや、それはないでしょう・・・と県・国。私も「100席・・・五條で100人来ますかね・・・」。「いや来るよ・・・」「来ますかねぇ・・・」。そんなやりとりでした。
また、この建物(取り壊しの危機に瀕していたところを町並み保存のため柿の葉すし本舗たなかの創業者、田中修司さんが買い取られて所有)は、アレックス・カーさん※の監修のもと、細部まで話し合いを重ね約1年かけて改修しました。

その過程において、世代の違う方達と計画を進めていくことの難しさ、経験値や考え方も違う方達と対話しながら進めていくことの難しさ、そういった壁がありましたね。

 

―どうやって乗り越えたんでしょうか?
知識や経験もおありの方達ばかり、皆それぞれのお考えや思いがあります。そこで意見を否定したり、ぶつけあいすぎて、争いになっても困ります。どうしたら・・・って思った時、「それぞれ意見は違えど、この計画・・・五條にいいお店を、地域のランドマークに、要するに成功させたいっていうゴールはみんな一緒。ならばゴールに向かうためのプロセス(過程)を変えれば・・・」と思ったんです。

それぞれが納得できる部分を探り、提案し共感を得る、それを共有しながら進めるような仕組みづくり、それが僕の役目じゃないかと思いました。せっかく同じゴールを目指しているのに争っては元も子もないですし、思いだけを先走らせてしまうと計画は実現できないんだと勉強になりました。

―本当ですね。皆さん、「いいものをつくりたい」という思いは一緒ですものね。
そうです。でも考え方に距離があり過ぎたことも今思えばその距離があったからこそ、実現できた「源兵衛」だとも思っています。思いを全て実現するのは不可能だけど、いまこうやって源兵衛があるのは携わってくださった皆さんの思いの証、目指していたゴールですよね。

 

実はプレミアムで宝物。

―いよいよオープン・・・。どんな感じでしたか?
オープンに関しても、チラシをまこうか、部数はどうする・・・といろんな意見が出ましたが、最終的にオープンは大題的にせず、プロジェクトに携わっていただいた方皆さんのお知り合い、ご友人を招待しておもてなしをするという意味で静かに開店、「サイレントオープン」という形で、ゆっくりと始まりました。

 

 

 

―オープン当初の思い出といえば?
「料理を出せなかった・・・」この思い出が真っ先に思い浮かびます。
お店に行って、料理を注文する・・・なかなか料理が出てこないって経験ありませんか?そういう状態でした。サイレントオープンしたにもかかわらず、お客様に対してスムーズに料理を出せなかったんです。予約をとる人、料理をする人、出す人、経営陣・・・がうまく連携できなかったというか。予約はたくさん入るが料理人はキャパオーバー。そういったところからサービス面にも影響が出たり・・・といった状態になり、開店後しばらくして、ちょっとこれは考えなきゃと思いましたね。

―その課題にどういう風に取り組みましたか?
まずは原因追究ですよね。「源兵衛」のコンセプトをしっかり見直し、どんどんお客様をいれて、とりあえず席に案内する、そういうスタイルを止め予約制にしました。お客様の意見も取り入れ、料理の説明をするなどサービス面を見直しました。農家さんから直接分けていただく野菜は最も食べごろで新鮮なものばかり。

 

「今日しか味わえない限られたもの」なんです。それを召し上がっていただき、どういうものなのかをお伝えする・・・そういったことを重視して徐々に今の「源兵衛」の状態に近づけてきたように思います。

 

―今お話にありましたが源兵衛の料理は「五條の野菜」がメインですよね。そのあたりについてお話しを聞かせてください。
メニューについての話を進める中、「五條の宝物」って何だろうって話になりました。わざわざ五條に来て食べたいと思う価値のあるもの・・・海の幸より山の幸?じゃお肉は?いろいろ意見は出ました。「五條にしかできないもの」僕は奈良ならではの野菜を作る農家さんの採れたて野菜ほど贅沢なものはないと思いました。知り合った農家さんの畑で知った野菜の本来の味。未知の野菜や、農家さんの苦労、勉強になることや驚きの連続でした。こんな素晴らしい「五條の野菜」を発表できる場があれば・・・、少量だけど多品目、これなら充分コースが組めると思いました。肉も魚ももちろん美味しい、ですがあえて野菜だけの「野菜のフルコース」でいきましょうと提案しました。大反発の意見もありましたが実現しました。

 

―「野菜のフルコース」反響は?
いや、もう・・・。「葉っぱしか出ぇへん」みたいな・・・。
「野菜だけやで。お腹いっぱいになれへんわ。」そんな声が・・・。

―そうだったんですか・・・。ですがこうして今、源兵衛は「野菜がメイン」のお店であるということ、それは、そういう声を耳にしても「野菜のフルコース」を続けてきたということですよね?それはなぜですか?


それはもう「農家さんの思い」があったからです。

あの素晴らしい野菜達、その鮮烈な味をもっと知ってほしい、世に出したい、じゃどうすればいいのか?僕ができることは何なのか?「料理人」を通すことでアイディアや工夫を加えてカッコよくできれば・・・そんな思いでした。

 

 

―私自身、地元五條の野菜について、あまり知りませんでした。
そうなんです。五條の方にとって五條の野菜はスタンダード(標準)です。だから、「野菜だけ、葉っぱしか・・・」みたいなお声は当然で、あえて地元の野菜を食べに行こうとは思わなかったんだと思います。が、逆に他府県からの来店者が増え始め・・・というのも、ちょうどその頃時代が「健康志向」ブーム。「野菜」に注目が集まるようになったんです。他からわざわざ野菜を食べに五條に来ている様子に地元の方は「五條の野菜」ってそんなにすごいものなの?と疑問や意識を持ち始めてくれたと思います。「ドーナツ化現象」みたいに、他からの受け入れが結果的に地元にも影響するみたいな。そういうことで五條はこんないいものがある町なんだということをわかってもらえたらと思いました。せっかくの「地域の宝」、五條の方にとってのスタンダードは実はプレミアムなんだということを掘り下げていかないと淘汰されてなくなってしまいますから。

―課題や壁を乗り越え、源兵衛が軌道にのりだしたのは?
開店から5年経ったころですかね。私自身、スタッフの気持ちを理解できず、自分よがりになってしまってた時期もありました。「意識を一緒に」ということの大切さに気付き、それぞれの仕事ひとつひとつ、あなたの仕事があるから僕達もこうやって仕事ができる、そしてお客様に初めて料理を出せるんだってことをちゃんと言える様になりました。いろんな壁に当たる度に、気付かされたこと、勉強になったことがあります。どんな時もまわりの方達に支えてもらえたから源兵衛があり、僕がいると思っています。

願いを叶えるために

―お忙しそうな中谷さんですが、一日のスケジュールは?
朝は6時頃起きて店に来て準備を始めます。そこから、スタッフと手分けして材料をわけてもらいに畑へ行ったりします。10時~14時のランチタイムの営業後、夜の予約があればそれに合わせて、また畑に行きます。スケジュールはできるだけゆったり組むようにしています。僕達料理人は「五感」がとても大事で、特に味覚に顕著にあらわれます。タイトスケジュールで五感が鈍ると思わぬ事故を引き起こし、せっかくの素材を自らの手で台無しにしてしまいます。料理人に限らず、他の職業においても同じことが言えると思いますが、やはり疲れるとどこかにひづみが出ますので。

―仕事をするうえでのモットー、大切にしていることは?
「思えば叶う」です。そして思いをできるだけ「人に話す」ということです。叶うまで思い、話し続け、自分にも言い聞かせる・・・とあるとき突然お話をいただいたり、声をかけてもらえたり、そういったご縁にたくさん恵まれてきました。例えば、仕事ではないんですけど、奈良に身を置くようになって「男たるもの大峰山に登れ」という話を昔聞きました。ずっと登りたい登りたいと思い続けて、去年登ったんです。経験したことで、僕自身がこうだったよとか、人にお話できるし、会話になったり、また仕事につながったりもします。

―今「思い続けていること」は?
いろいろありますけど、実はそのひとつがもうすぐ叶うんですよ。

―何ですか?
「断食」です。

―「断食」ってあの「断食」!?
そうですよ。断食です。人生で断食することってあります?ないでしょ?したくないですか?笑

―いえ・・・私はちょっと無理かも・・・笑 断食、何日間ですか?
2日間です。

―なぜ「断食」?
断食すると「第六感」が生まれるそうなんです。すごく敏感になり、研ぎ澄まされるとか・・・。もし僕も第六感を得たら、何かいいひらめきが浮かぶかもしれない。いろんな面で何か違うものが見えてくるかもしれないじゃないですか。それって経験しないと分からないことなので、「断食したいんです、断食したいんです」って話してたら、あるお坊さんから声かけていただいて。今、準備で精進・・・肉食を絶っていてるんですが、断食が決まった今も「断食するんです、断食するんです」と人に話してます。話すことで、肉食べたらあかんと自分に言い聞かせてます笑

 

―こもるんですか?
こもります。お寺に。

―いろんなことに対してそんな風に中谷さんを突き動かす原動力って一体何でしょう?
農家さんです
。あんな大変なことを愚直にまじめにお天気相手の神頼みで仕事をする姿、バイタリティには屈服します。農家さんは出荷することでひとまず安心、満足します。そこからさらにその価値を倍増させるための仕組み作りが僕の使命かと。そのひとつが「あべのハルカス」での物産展への出店です。さらに秋にはドバイに柿を持っていきます。その企画もずっと思って思って人に話してたら声をかけていただけたんです。そうやって少しでも五條の農産物が広まり、少しでも農家さんの収入につながれば、肥料や農機具が買えたり、僕達が直接農作業のお手伝いをし続けることはできなくても、間接的なお手伝いはできるんじゃないかなと思っています。僕たち仲間でよく口にするのが「五條から世界に世界から五條に」です。

―中谷さんは和歌山県橋本市出身、在住だそうですね。ですがとても「五條愛」を感じます。五條市についてどのように感じますか?
文化を大事にし、あるものをそのまま残しながらゆっくりと一歩ずつ歩んでいる、ほかとは時間軸が違う感じが好きですね。僕は別の土地で暮らしているからこそ思うんですが、いいものがたくさんあるのにそれに気付いてない人が多いなって。不便だ、何も(遊ぶところなどが)ない・・・と耳にすることもありますが、僕としては何もないのがいいと思うんですよね。何もないから自然が残っている、何もないところに人がきて、心を綺麗にして帰ってもらう、心のヒーリングができる町なんていうのも素敵だと思います。過疎化の問題などもあると思いますが、現状をふまえたうえでこういった町並み保存を続け、その思いを継承していってほしいなと思います。あえて「変わらずそのまま」が、住んでてよかったと思える町につながればいいなと思います。

―「源兵衛」そして中谷さんの今後の夢は?
まずはこのお店を守っていくこと、そして、この源兵衛のように地域に何かを残すプロジェクトを他でも伝えていきたいですね。僕が子供の頃から料理人になりたかったように、この先そういう夢を抱く若者の登竜門のような、料理の勉強や経験、単なる職業体験ではなく実際に仕事ができる場所にしたいなと思っています。 そのときこの建物が築300年、400年・・・600年くらいまで残っててくれたらいいかなって!自分の10年後もどうなってるかわからへんのに何言うてんねんっていわれるかもしれないですけど、600年!です笑。

僕にいろんなものを与えつづけてくれた五條市に何か恩返しができたらなと思っています。

―ご趣味は?
特にないんですよね、いろんなことに興味はありますよ、だから断食とかするんでしょうね笑。あ、でも「人間観察」が好きですね。それが趣味かも笑。

―好きな食べ物は?
マヨネーズ。

―えー!意外です笑 キューピー派?それとも味の素派?
キューピーマヨネーズの赤キャップのスタンダードなやつです。けど、ここ何年も食べてないです。

―どうしてですか?!
話せば長くなりますが・・・

オープン前、器の相談で、ある陶芸家の方を紹介いただきました。打ち合わせ直前、お手洗いに行きたくなり、お会いしてからトイレに立つのも失礼かと思い、お宅近くの山中で用をたしました。その後お会いすると「今日は紹介ということだからあなたとはお出会いさせてもらいます。」と何かとても無愛想で。「はい、よろしくお願いします」と答えつつ、内心、なんでやろ・・・と思っていると、「ところであなた、先ほど外で用を足されてましたね」と。

「はい・・・」

陶芸家「なぜ、そういうことをするのですか?うちにもね、お手洗いがあるんです。気持ちはわかりますけど、やはりお手洗い貸してくださいっていえばいいんじゃないですか?君は人間性がまずダメですね」

と大人になって立小便でお叱りを受けるという何とも恥ずかしいことがありまして。

陶芸家「君は人生の中で何か我慢してるものは?」
  「特にないです」
陶芸家「なら、願いも叶うことはないです。
やりたいことがあっても成功することはないでしょう。」
  「先生は何か我慢を?」
陶芸家「僕は肉は食べない」
  「肉はお好きじゃないんですか?」
陶芸家「大好きだよ」

「好きなものを我慢して何かに打ち込むから価値がある」そういうことかと思いました。自分を律するということでしょうか。絶っておけば成功もあるかもしれないっていう心の支えにもなる、そんな出来事があって小学生のころから白ごはんにマヨネーズをかけて食べるほど大のマヨネーズ好きな僕ですが、今もマヨネーズを絶っています。ま、たまたま注文したメニューにマヨネーズがかかってたら、食べますが。

 

―マヨネーズ解禁の予定は?
後々その方とお出会いすることがあったら、解禁するかもしれないですけど、まだ、いまのところお出会いしてないので、まだ解禁の時期ではないのかなと思ってます。

―中谷さんは、お話しがお上手ですね。
学生時代から話すことは得意ではなくて、こうやって自然にお話しできるようになったのはここ数年です。僕は営業マンじゃないので、セールストークをする訳ではない、でも「良いものは良いって言ったらいいじゃないか」っていうのが根本です。それをいろんな方、いろんな場面で伝えていくうちに話せるようになりましたね。あ、余談ですが、そういえば、子供の頃、「笑点」を見て落語家になりたいって思ってた時期、ありました笑

―「落語家」の中谷さん・・・違和感ないですね 笑
あと、最後になりましたが・・・お店で注文した料理にたっぷりマヨネーズが!
内心ラッキー?
それはまぁ・・・笑

ありがとうございました。

□五條源兵衛のHPはこちらから

□やなせ屋HPはこちらから

住  所 五條市本町2丁目5-17
電  話 0747-23-5566
お昼の営業 11:00~12:30(1部)(予約優先制)
12:30~14:00(2部)(  〃  )
完全予約制ではございませんが、 予約を頂いた方に確実にお席をお取りし スムーズにお食事頂く為、お早目のご予約が望ましいかと思います。
夜の営業 17:30~20:30(完全予約制)
夜のお食事は完全予約制となっております。
ご予約に関してましては2日前迄にはご連絡を御願い致します。
駐車場

 


☆スタッフHのすぽっとwrite☆

五條で生まれ育ち、五條に住んだ私自身、五條の何かに特に関心やプレミアム感を感じたことはなかったように思います。でも、他市に住む知人や恩師は、会う度に言ってくれます、五條はとてもいい町だと。
取材をはじめて4年、52回目の取材先となった源兵衛 中谷さん。地元五條の素晴らしさに気づかせてくれるプレミアムな出会い、取材でした。そしてこんな方達がたくさんおられる五條はやはりプレミアムです!これからも五條で輝く人を紹介し続け、「五條から世界に」の何かお手伝いができればと思います。

中谷さんの第六感ゲット、マヨネーズかけごはんをお腹いっぱい食べる日を願って!笑

 

第49回 和風レストランよしの川・別館撫石庵   専務取締役 田中公崇さん

 

受け継ぐものを大切に、自分の味を出していきたい

栄山寺にもほど近い吉野川のほとりに佇む和風レストランよしの川と別館撫石庵。
専務取締役の田中公崇さんにお話しを伺いました。

 

祖父への尊敬、両親の背中を見てこの世界へ

ー「レストランよしの川」はいつオープンされたんですか。
昭和46年にオープンしました。

ーオープンに至る経緯について聞かせてください。
祖父(柿の葉すし本舗たなか創業者)が、柿の葉すしの商売が軌道に乗り始めた頃、今度は「地元の景色の良い所で、柿の葉すしをおいしく食べていただきたい」という思いからこの場所にお店を建てたと聞いています。

※第34回 柿の葉すし本舗たなか様インタビュー記事はこちら

 

ーまさにその思いが詰まったお店ですね!
「川の見えるレストラン」「自然対話 レストラン」と表現されてますが、店内に入ると目の前に広がるこの景色、ほんとに素敵です。

窓越しに吉野川を眺められるような良い場所がないだろうかと探していたとき、栄山寺に近い川のほとりのこの土地を見つけたそうです。

その頃この辺りは全く整備されてなかったそうです。道路の舗装もされていないうえ、五条駅から4キロ近く離れている、など厳しい条件や不安材料はたくさんあったと思います。それでも祖父がこの場所にこのお店を建て、この景観をたくさんのお客様に見てほしいという思い、時代の先を見る考えはすごいと思います。来ていただいたお客様に大変喜んでいただき写真を撮られる方も多いです。

「川」のことを聞かれることも多いのでわからないことは調べるようになりました。
「なんで、川の水はあんな色なの?」とか・・・調べると深さや太陽の角度などが影響しているんだと知りました。
「あの鳥は何ていう鳥?」鳥のことも!?笑 って思いましたけど、そういう問いかけにもお答えできたらまた会話も弾みますよね。

※このあたりの吉野川は「音無川」とも呼ばれています。栄山寺(奈良時代建立の八角堂がある)で修行中の空海が川の音があまりにもうるさいので怒って筆を投げ入れたところ、ぴたりと音がやんだという伝説に基づく呼び名だそうです。

―別館撫石庵とは?
撫石庵は昭和57年にオープンしました。同窓会や勉強会、商談や新年会など幅広く多目的に利用いただけます。予約制ですが、懐石料理をお出ししています。
撫石庵からは一段と良い景色をお楽しみいただけます。

ー「撫石庵」という名前の由来は?
当店の夏のメニューにあります「たらいそうめん」はその名の通りたらいの中に素麺、そして石が入っています。その石に素麺を撫でつけ、水気を切って食べるというところから祖父の恩師である書家の先生が命名してくださったそうです。

 

 

 

 

ー田中さんはこちらで働いて何年になるんですか?
ここで働きだしたのは最近です。学校出てから、大阪の方で13年ほど修行してまして、1年半くらい前にこっち(五條)に帰ってきました。

ー小さい頃からこの道に進もうと決めていたんですか?
そうですね。保育園の卒業アルバムには「料理人になりたい」と書いてましたね。

―それはやはりご両親の働く姿をずっと見てきて・・・ということでしょうか。
はい、そうですね、そういうことだと思います。

―たとえばどんなことを感じていましたか?また思い出などありましたら・・・。
こういう仕事ですので父も母も毎晩帰りは遅いですし、土日はもちろん仕事。まわりの子が休みの日に遊びに連れて行ってもらってるのを見て、そこは子供心にいいなぁと思ったことはありましたね。そんな中でも水曜日(定休日)には家族で外食に行ったことは覚えてまして、それはもう嬉しかったですね。祖父母はよくどこか遊びに連れていってくれましたし、このお店に来れば、従業員の皆さんがかわいがってくれましたので寂しいと感じたことはなかったですね。大きくなってからここ(お店)に来たときも昔と変わりなく孫のようにかわいがってくれて・・・。 今、自分も父親になってこの仕事をするようになって、あの頃の両親の思いがよくわかるようになりました。その反面、子供達はどう感じているのかな・・と思ったりもしますが、休みの日に子供達と遊んでいることが少しでも思い出になってくれたらなと思います。

ーその後、迷うことなくこの道へ・・・?
いえ、ちょっと迷った時期はありましたね。家族全員が飲食関係という環境で育ちましたので、何か違う業種への興味のようなものを感じた時期がありました。でも料理人になりたいという思いはありましたし、料理の道というのは若いうちからの修行や勉強が必要ということも分かっていましたので、学校を出てすぐにこの道に進みました。

「どうすれば」の問いかけ「こうしてみよう」の挑戦の毎日

―こちらでは四季を通じて地元産の新鮮食材を味わえるそうですが、例えばどんな食材を?
春は筍、夏は天然鮎、秋は柿、冬は大和肉鶏といった地産地消に取り組んだ五條ならではの食材を生かした料理を提供しています。「四季」を景観と季節料理と共に感じてほしいと思います。常に旬の食材に触れることができるのは料理人という仕事の魅力でもあると思っています。

 

 

 

 

―ではこれからの季節は「鮎」ですね。
そうですね。「天然鮎」です。お好きな方はおひとりで数匹召し上がります。
塩焼きはもちろんお造りにしても美味しいです。

 

ー最も忙しい時期はいつですか?
五條は柿の生産日本一の市でもありますし、シーズンの11月はいちばん忙しいですね。
また、春の「賀名生梅林」のシーズンにお越しいただくお客様も多いですね。

―お仕事をするうえで大切にしていることはどんなことですか?
お客様に満足してもらえることです。来てよかった、また来たいと思ってもらえるように。そのためには料理、接客等いろんなことに気を配り、対応していかないといけないなと思います。

―今、考案中のメニューはありますか?やはり試作、またいろんな工夫などされているんですか?
常に頭の中にありますね。五條、奈良の食材を使った料理を今考えています。季節によって使う食材が違うのでそこが難しいところですね。
試作はもちろんしています。料理って同じように作ってもいつも少し違うんです。火加減、材料、少しのことで変わってくる・・・それが難しいところであり、楽しいところでもあると思います。
肉じゃがを作るときは、自分は砂糖をあまり入れずに作ります。その方がその素材の持っている美味しさをより活かせるんです。
また、中華、洋食などの料理、雑誌などからも何かヒントを探し、料理で使えないかなとずっと考えてます。

ー家でも料理するんですか?
はい、しています。休日にオムライスやハンバーグなど子供が好きなものを作ります。ですがつい仕事場と同じ感覚で作るので、作り過ぎたり、床やキッチンまわりを汚してしまって妻に怒られます笑

ー料理以外のことについても「どうすれば・・・」や「してみたい」があるんですか?
それはもう沢山ありますね!笑
お客様のニーズにお応えできることや、もっとお店に、五條に足を運んでもらえるような何か、いろんな案を考え中です。
例えば春、対岸に桜が見れたらいいなぁとか、夜に花火やライトアップ・・・などいろいろ考えています。

桜、素敵ですね!

 

性格変わったんじゃ・・・?

―生まれ育った五條に帰ってこられお店を継いでいく・・・今どんなことを感じていますか?
帰ってきてまだ日は浅いですが、いろんな方と知り合い、お話しさせていただくことが増えました。それが私の中ではとても大きいですね。

「奈良のうまいもの会」に入らせていただき、より奈良の食材を扱うこと、勉強することが増えました。例えば「大和当帰葉(ヤマトトウキバ)」など、まだまだ知らない奈良の食材、調理法があるんだと勉強になります。そして農家の方、生産者の方と直接会話できるっていうのがとてもいいんです。こんな料理の仕方あるよと教えてもらえるんです。店内でお話するお客様の中にも野菜を作っておられる方がいらっしゃるので、そこでまた情報交換、広がり繋がりといった感じがとてもおもしろいんです。

今までは生産者と話す機会なんてなかったですけど、話してみて作ってる側のことを知るってこんな素晴らしいことなんだと思いましたね。大阪にいたときには体験できなかったことです。おもしろい、楽しい、自然いっぱいだし、帰ってきてよかったなって。やっぱり、私、五條、奈良が好きなんですね。

―店内でお客様と会話をされたりするんですね。
はい。できるだけ厨房から出てお客様とお話しするようにしてますね。やはり父から継いでいくということ、顔を覚えていただければと。どちらかというと人とあまり話すタイプではなかったんですけど、五條に帰ってきてからは話す機会が増えたこともあり、性格変わったんじゃ?と思うほど話すようになりましたね。私自身がお客様の好みを聞きたいと思うようになりましたし、勉強になることがたくさんあるんで。昔はこんなに人と話すタイプじゃなかったんですけどねぇ笑

ー大変なこと、課題はありますか?
やはり経営者としての仕事、先ほども話しましたように、新メニューはどうしようか、どうしたらお客様に喜んでいただけるか、夜の営業について、従業員のこと、建物や、メンテナンス関係・・・すべてにおいて考えていかないといけません。今までは経営とか考えずに厨房内で決められたメニューを作り料理することだけに打ち込んできましたが、これから「経営」に携わるうえで全体をみていくこと、それを引き継ぎながら取り組んでいきたいと思っています。こっちに帰ってきてまだ間もない私にいろいろと教えてくださる皆さんに本当に感謝しています。

あらためて気づいた存在

―五條市について感じることはどんなことですか?
昔の楽しかった思い出がまず浮かびます。子供の頃、川で魚を釣ったり、ザリガニ捕ったり・・・あるいは何気なく通っていた新町通りや五新鉄道跡。県外で過ごしていた時、五條市がTVでとりあげられていると嬉しかったです。
しばらく五條を離れ、再び地元に帰ってきたとき、子供の数も減り、過疎化が進んだ現状にやはり寂しいなって思いましたね。この歴史ある町、五條のことをもっと知ってほしい、この町に住みたいと思ってもらえるような環境があればいいなと思います。私の同級生も何人か五條にユーターンしてます。そういった感じでもっと人口が増えればいいなと思いますね。

―これからの夢、展望を聞かせてください。
古きを残しつつ新しいことに挑戦していきたいです。常に新しいものを求めるのではなく、祖父から父、そして父から僕へと受け継いでいくものを大切にしつつ自分の味を出していきたいです。

調理場の僕の位置からちょうど川が見えるんです。大阪ではビルに囲まれた中で仕事してましたけど、川を見ながら仕事できるって気持ちいいんです。忙しくて調理場でバタバタしてる時でも窓から見える川を目にすると、ふっと気持ちが落ち着くというか・・・。なんともいえない感じ。時にはカヌーをやってる姿がみえたり、笑い声がきこえてきたり。川の存在が知らず知らず大きいことに気付きました。
この川のほとりで地元に愛される 来ていただいたお客様に愛される・・・そういうお店、人になりたいですね。

田中さん、本日はありがとうございました。

レストランよしの川 別館撫石庵のHPはこちらから

 

和風レストランよしの川  別館撫石庵

 

 

 

 

住 所:    奈良県五條市小島町449-1
電   話:    0120-367-105(0747-23-0123)
F A X:       0747-25-0518
営業時間: 平 日      11:00~15:00
土・日・祝  11:00~15:00
17:00~19:30
定休日:   水曜日・第3火曜日(祝日の場合は翌日に振替)
駐車場:   完備(30台)

 


☆スタッフHのすぽっとwrite☆

川にかかる赤い橋を渡る度、自然とレストランに目がいきます。
何度かお食事をさせていただいたことはありますが、取材後、営業時間が終わった店内で目の前に広がる景観を静かにそしてゆっくりと眺めたとき、あらためて感動しました。
「音無川」の伝説、この場所へお店を建てられた経緯、受け継いでいかれる思い、田中さんの夢・・・対岸に咲く桜。吉野川のほとりで、すばらしい景観と共にまたひとりの五條で輝く人、素敵なストーリーに出会えたこと、とても嬉しく思います。

「帰ってきてよかった」「やっぱり私、五條が好きなんですよね」という田中専務の言葉。とても印象的でした。
そんな言葉がもっとあふれるような街になればいいなと思った今回のインタビューでした。

 

 

第48回 石窯ナポリピッツァLUMBERMILL(ランバーミル)新子耕平さん 栄美さんご夫妻

一歩前へ踏み出せたこと。すべてはそこから・・・

この度、五條市住川町の木材団地で石窯ナポリピッツァのお店「LUMBERMILL」を2019年4月13日にオープンされます株式会社 玉木材の新子耕平さん、栄美さんご夫妻にお話を伺ってきました。

日々の筋トレ?と仕事終わりのお酒の美味さは人一倍

―まずは新子さんのご職業の林業についてですが、どういうお仕事をされているんですか?

(新子耕平さん 以下耕平さん)主に山へ行って木を切りそれを市場で売るっていうのが僕たちの仕事です。買ってもらった木はその後、製材所さんや建築業者さん達によって柱や梁など用途に応じて加工され使われます。そして、木を切れば当然、山に木はなくなっていきますので、植林していかないといけません。植林し、それを大きく成長させるために、草を刈ったり枝打ちしたりといった手入れ、そういったことも仕事のひとつです。

―植林してから柱などに使えるようになるまで成長するにはかなりの年月がかかりますよね?

耕平さん)そうです。野菜や米の様に春植えて秋に収穫という訳にはいかない・・・、僕達の場合はスパンがとても長いんですよね。樹齢100年の木を切れば、同じような木が育つには当然100年かかる訳ですからね。

僕が今植えている木々は自分の代では絶対切れないですし、逆に言えば僕らが今切ってる木も50年前100年前に植え、手入れしてくれた人がいたから切って出せるっていうことですからね。ありがたく思っています。

 

―山へは毎日?やはり天候によって左右されますよね?また山へ行かれると1日、作業ですか?

耕平さん)斜面での仕事、そしてチェーンソーなどを扱いますので、足元の悪い中での作業は非常に危険です。ですから、基本的に雨の日は行かないですね。
朝は8時くらいから作業始められる様に現場へ行って、暗くなる前に降りてきます。明るい間での作業ですので、「残業」はないですね。 

―ご主人の仕事を日々支えてらっしゃる奥様、毎日、お弁当を?

(奥様、新子栄美さん 以下栄美さん)
はい、山にはもちろんお店もないですから、朝起きて必ずお弁当だけは作って、あと夏場は特に水分を切らすことのない様にお茶やスポーツドリンクなどたっぷり準備します。やはり、危ない仕事なので、常に心配はしていますね。

 

―何歳頃から現場へ?また当時の思い出などありますか?

耕平さん)山へ行って「仕事の手伝い」をするようになったのは中学生の頃からですね。ま、夏休みになると、連れて行かれた・・・ていう感じですかね、その頃は。
なんせ、しんどかった・・・。車を降りてから30~40分、チェーンソー等の道具20キロ近くを担いで現場まで登ることもありますので、なんてしんどい仕事やろう・・・とは思ってましたね。杉の皮むき(杉皮は屋根下に敷いたりして使われる)とそれを運ぶ作業、これはもうかなりのもんでしたね。夏だと1日4キロくらいは普通に体重が減りますから。担いで降りてはまた登るの繰り返しで、真夏はもうほぼ熱中症ですよ。

―その当時山へ行きたくないとか、またその後辞めたいとか思ったことは?

耕平さん)うーん・・・どこかで、山の仕事なんだし、そんなもんだろうと思う気持ちがあったんでしょうか、辞めたいとは思わなかったですね・・・何故でしょうね・・・。

そうそう、ある時、これを筋トレやと思ったらえぇかなと、しんどいしんどいって思い始めたらほんまにしんどくなるんで、筋トレと思うか、20歳超えてからは、帰ってからのお酒が人一倍美味しく飲めるなっていう風に切り替えていこうと思ってやってましたね。ま、そう言い聞かせてたんでしょうね、自分に(笑)

 

―仕事をする中で、やりがいを感じるときはどんなときですか?

耕平さん)切った木が価格に反映するとやっぱり嬉しいですね。
傷を付けずにうまく切る・・・。200年製とか、過去に390年製の木を切ったことがあるんです。そのときはやっぱり緊張しますし、上手に切れたときは嬉しいし、達成感があります。 木を切る時にはどこに倒してもいいという訳ではなく、必ず倒す方向を決めます。決めないとダメなんです。これがあそこに倒れるから、それに対しどこにいれば安全かを見極め、狙ったスポット向けて倒すんです。斜面での仕事ですし、重心などの把握はもちろんケガだけはしないように気をつけないといけないんです。

 

将来なりたかったものにもうすぐなれる・・・もうなれた・・・?

―家業を継ぐことに対しての迷いや他になりたかった職業があったりとか?

耕平さん)僕は長男で、妹がいるんですけど、好きなことしてえぇよって育ててもらっても結局はそういう訳にはいかんっていうか・・・継がなあかんもんやと思ってましたね。祖父から父へ、そして従業員さん達もいてくれてる・・・。そこで僕はこの仕事したくないのでやりません、じゃ、責任感なさすぎるなと。
小さい頃から父と従業員の方達の姿をずっと見て育ってきましたので。
長男だからという理由はもちろんありますけど、継ぐのが当たり前、そういうもんだと思ってましたし、かといってやらされてるとか、嫌々やってるってことは全くないですね。

―林業をされてきた新子さんがこの度、ピザのお店「ランバーミル」を始めるということですが、どういった経緯から?また店名の意味も教えてください。

耕平さん)木を植えてから30年後、50年後、70年後にならないと価値が出ないって状況が続く中で、材木だけでは正直厳しい、他にも何かやっていかないと・・・何かできないかと考えてきた中のひとつが「きこりが作るナポリのピッツァ」です。
ランバーミルは、ランバー(木材)をミルする(ひく)要するに「製材所」という意味です。

―なぜピザを?

栄美さん)元々夫婦でピッツァが好きっていうのはあったんですけど、「製材所の敷地内にあるピッツェリア」という、木、製材所、ピッツァの組み合わせのめずらしさ、あと窯に入れる薪なども製材所だからすぐに補給できるといったいろんな意味での「融合」みたいな、何かおもしろいお店ができるんじゃないかなと思ったんです。

耕平さん)そう、基本的にはピッツァが好きだから・・・ですけどね。美味しいピッツァを食べたいけどなかなか近くに美味しいお店がない、でも食べたい・・・じゃ、自分達でできないかな・・・、やってみようか・・・ということで。話を聞いた永井製材さんがこの製材所で場所を貸してくれるってことになったんです。

―奥様は飲食関係のお仕事をされてたとか?それでピザを焼かれるということでしょうか?

栄美さん)はい、昔アルバイトをしていた時代からずっと飲食業に携わってまして、カフェでも働いていました。飲食、そして接客を通してお客様と触れ合える空間というのがとても好きなんです。ピッツァは主人が焼いて、私は接客と調理補助です。

―えっ!ご主人が!?
耕平さん)僕が作って焼きます。

―では、ご主人、ピザ作りを習いに?
耕平さん)ええ、そりゃもう、イタリアには毎年・・・笑笑 ていうのは冗談で、イタリアで修行してきた方に教えていただいたりしてます。1年以上前から生地作りの練習を始めて、友達がイタリアから取り寄せた窯で焼くピッツァの移動販売をやってるんです。それで生地を作ってはその友人のところへ持っていって焼いてもらったりしました。

―ピザの生地を?イタリア製の窯で?
耕平さん)僕らがやりたいのは「ピザ」じゃなくて「ピッツァ」なんです。

―「ピッツァ」ですね! すみません笑 ここからはピッツァと・・・笑
耕平さん)ま、僕はイタリア人なので(笑)、必然的にそう発音してしまうだけで・・・笑。宅配ピザのようなアメリカのピザをやりたいわけではなくてナポリのピッツァをやりたいんです。

―ピザではなくピッツァ、そしてお店はピッツェリアですね。

そうですよ~。ま、僕はイタリア人なので意識しなくても必然的にそんな感じですけどね笑

栄美さん)笑笑、結婚してから主人の部屋掃除してたら「イタリア人になる方法」っていう本が出てきて笑 びっくりしました!笑 なんちゅう本見てるねん!って、本気なんや、この人!って笑

耕平さん)昔からイタリアが好きで。サッカーも好きですし、車なんかもイタリアのが好き・・・新婚旅行もイタリア行きましたしね。

栄美さん)その頃はピッツェリアをするとは全然思ってもみなかったですけど。

耕平さん)漠然とイタリアが好きだったんです。イタリア人に憧れてる?なりたい?というか・・・何故でしょうね~

栄美さん)こういう形でイタリア人になれるとはね~笑

一歩前へ踏み出せて本当によかった・・・

ーこれまでどんな準備を進めてこられたんですか?

耕平さん)ピッツァは窯が重要なんです。窯の温度が重要。ナポリピッツァを作るには400℃から500℃くらいの温度が必要なんです。1年くらい前、自分達で窯造りに挑戦したものの結局思い通りのものができず、かといってイタリアから取り寄せる(大体、日本のピッツェリアではイタリア製の窯を輸入して使ってるんです)とかなりの費用がかかる上に、炉床が割れるといった今後必ず起こり得る故障時の修理業者がいないんです。どうしようかと思っていた時、日本でピッツァ専門の窯を造っているというすごい方を紹介してもらえることになって・・・。

―それで窯を造ってもらえることになったんですね。

耕平さん)はい。ただ、注文して完成後納品・・・ではなく、僕は、その窯のレンガを自分自身で組んでみたかったんです。どんな風にできていくのかという工程を見たかったし、あのドーム状になってるところだけもさせてほしいとお願いし、愛知県に泊まり込みで行って教えてもらい作ってきました。 それが今ここにある窯です。僕は本当に運がよかったです。

 

 

 

 

 

栄美さん)私達だけでは到底できなかったことがたくさんありましたけど、いろんな方に助けてもらってお店ができていってるって感じです。窯造りもそう、お店のインテリア関係や、材料の仕入れ先、本当にたくさんの方とのめぐり合わせに感謝しています。

―窯、温度が重要・・・ピッツァは生地が決め手ということですか?ピッツァはチーズっていうイメージもあるんですけど・・・。
耕平さん)はい。生地が命、生地で決まります。材料は小麦粉、水、イースト菌、あと塩。基本的に使ってる材料はそれだけですけど、混ぜ方や配分、種類によって仕上がりは全然違ってきます。好きなものができるかどうか・・・。そこでもうひとつ重要なのがミキサー。これも取寄せると高額。スパイラルミキサーが多いなか、手で練ってるような動きをするダブルアームミキサーを格安で買ってきてばらし全部オーバーホールして組み上げました。 

栄美さん)生地はほんと大事ですから、こだわってます。実は私達が好きでよく食べるのがチーズ無しの、トマトソース、にんにく、オレガノのピッツァなんです。生地の美味しさがとてもよく分かるんです。美味しいですよ、ほんと。うちのお店でもメニューに取り入れます。

―いろんなピッツェリアに食べに行かれたり?

耕平さん)行きます行きます。必ずオープン前に行くか、予約して窯の前の席をとって、それでお店の人とお話ししたり教えてもらったり・・・。気さくにお話ししてくださる方が多くて、いろいろ勉強になりました。

―どんな種類のメニューをお考えですか?

耕平さん)わざわざこの五條に食べにきてもらうんですから、他のピッツェリアとは違う「らしさ」というか、やはり五條産、地元の食材を使ったものにしたいですね。地元には水、小麦粉、豚、ジビエ、野菜や果物・・・すばらしいいろんな食材がありますので食事やお酒のあてとしても楽しんでもらえる様なものを、思考錯誤を繰り返し作ってきました。そしてだいだい完成しました。

 

栄美さん)季節限定メニュー、ドリンクやトッピングで梅や柿、フルーツも取りいれたいと思っています。フルーツはピッツァと相性がいいんですよ。

 

―五條市に、そして製材所にピッツェリアができる・・・とても楽しみです。

耕平さん)ピッツァを食べに来てもらうこと、美味しかったって言ってもらうのが一番ですが、食べてすぐ帰るのではなく、敷地内には倭人の家建築のモデルハウスもありますし、木を見て触れてもらいたい、知ってもらえたらという思いがあります。他にも例えば木工教室を開いたり、家を建てる時やリフォームの参考になるようなこと、木のテーブルや椅子を見てもらう、そして買っていただくこともできる・・・理想ですけど、やりたいなって思ってることはたくさんあります。

※倭人の家建築とは

―五條市についてどんなことを感じてらっしゃいますか?

耕平さん)僕らが小さい頃は隣の橋本市より五條市の方が発展してると思っていたんですが、今は逆転。残念ながら正直どんどん寂れてきてる感じがします。
そういうのも含めて五條市に足を運んでもらえるきっかけになればと色々考えてきた中の第一弾がこのピッツェリアなんです。大きく言えば人の流れも変えたいって思ってます。まだまだ第二弾、三弾、四弾・・・としていきたいです。

栄美さん)おもしろい場所・・・こだわった店とか、流行りを取り入れたり、なんか生き生きしてるのが伝わる・・・そういうお店が五條市にあったらなって常々思ってました。なので、これからお店を始めるにあたって、常に好奇心をもってアンテナをはって、若い子たちやいろんな方にきてもらえるように、そして来てもらったお客さん達からも刺激をうけたいなって思っています。

―今までの道のりを振り返っていかがですか?

耕平さん)お店をやろうと思ってから2年・・・。ずっとこの街で育ってきて材木だけを扱ってきて・・・やっぱり1歩踏み出すのは怖かったんですよね。
最初は怖くて何もできなかったんですけど、人間て前に歩こうと思ったらちょっとでも足を前に出さないと歩けないじゃないですか・・・ちょっと踏み出せばあとは惰性で動きだし歩幅も大きくなる・・・そんな感じで僕も一歩前に踏み出したことによっていろんな人とつながれたし、その後はパズルのピースがうまくはまるように物事がどんどん進んでいったり・・・本当に踏み出してよかったなって今、思っています。

栄美さん)めぐり合わせ、ご縁、つながり・・・、お店づくりが進む中で、つまづいたり、悩んだりしたときもたくさんの方に助けてもらって完成できたこと、本当にありがたいなって思います。

―これからの目標や夢は?

耕平さん)とりあえずは来年もお店があること、ですね。

栄美さん)五條で食べる場所といえば「ランバーミル」ってくらい、ここに来たら美味しいピッツァとおもしろい、楽しいことがあるって思ってもらえるお店にしたいですね。

 

本日はありがとうございました。

 

石窯ナポリピッツァ ランバーミル  

住  所 五條市住川町888-22
電  話 0747-22-1461
営業時間 11:00~18:00(火~木・日)
11:00~21:00(金・土)※
定休日 毎週月曜日・第3日曜日
駐車場
☆テイクアウトOK☆

※しばらくの間18時までの営業となっています。(2019/4/16現在)

 


☆スタッフHのすぽっとwrite☆

一歩前へ踏み出すこと。

その一歩がものすごく勇気がいることだけど、踏み出さなければ始まらない。
踏み出せば、必ず経験する失敗やつまづき・・・でも踏み出したからこそ
得られる、踏み出した者しか得られないものがある。
そんなことを教えてもらった今回のインタビューでした。

 

 

 

 

 

 

第47回 株式会社 山本本家 山本 隆さん

 

古き良き時代の流れを感じられる・・・そんな歴史のつまった伝統ある酒屋さん

創業300年以上を誇る老舗酒造。
時の流れがここだけ実にゆっくりと流れているような雰囲気の、酒蔵兼酒造所の10代目ご主人にお話しをお伺いしました。

伝統と技術 確かなものを

―ずいぶん歴史があると思いますが、まずはお店の歴史を教えてください。

うちは創業300年を越えておりまして、江戸時代の宝永年間・・、はっきりとはしないのですが、宝永7年の1710年創業と聞いております。

そのころに、奈良県の當麻町の當麻寺近くに、うちの先祖と言いますか、元々のルーツがありまして、そちらの方からこの五條の新町に出てきたのが始まりですね。

なので当時はその當麻町の名前を取って『當麻屋七兵衛』っていう名前でここで商いを始めたんです。

初代の方が當麻屋七兵衛・・?  

そうですね。
それから酒造りを始めまして今日に至るわけですね。

そうなんですね。1710年から創業300年ていうのはすごいですね。

そうですね、まあ、300年経っている蔵はそこそこあるんで、特別自分のところが古いとは思ってないんですけど・・。

ただまあ、江戸時代からずっと商売をしておりまして、今でも商売が出来ているということは有り難い事やと思ってます。

最初、當麻からこちらに来られたとのことですが、それは初代の方がこちらに蔵を作られたということですか?

当時こちらが、江戸時代の中期くらいで、商業的にもここはかなり栄えていた時期で、二見にお城があったそうです。今は城跡で看板が立っているくらいなんですけど。

城下町だったという事ですか?

天領という、幕府の直轄地だったそうです。伊勢街道がここ通っておりまして・・。

本陣のところに石碑がありますよね?

ありますね。

江戸時代っていったら私なんて教科書レベルの歴史なので、そこからっていうのがほんとにすごいなと思います。

今はご主人で何代目ですか?

今の社長が9代目で私がその息子にあたるんですけど、次10代目になる予定ですね。

まあこのあたりで酒蔵を始めたのも、物流が結構よくて、川も流れておりますし、今でこそ小さな町ですけど田んぼも多かったところなんで、米と水が良い所で物流もあると言う事で酒蔵を始めたと思います。

お酒をを造るに適した条件がそろっていたという事ですね。

当時は川の水でしたが、現在は井戸を掘って地下水を使っております。この辺だと金剛山の伏流水の系列になるんじゃないかなと思っています

会社を設立されたのが昭和25年となっていますが・・。

「株式会社」として設立したのが昭和25年なんです。
それ以前にお酒の製造、販売という事で商いを続けておりまして、そこで株式会社になったということですね。

お店の名前の由来は?

ここで300年近く商いと暮らしをしておりますと、親戚ができまして、親戚からは本家と呼ばれますので、『山本本家』とそのまま付けたのではないかと聞いております。

ここで生活も仕事もしていく上で自然についた名前じゃないかなと思います。

この名前は創業300年前から?

當麻から出てきたときは『當麻屋七兵衛』と名乗っておりまして、『七兵衛』を襲名して個人名で商いをしておりました。明治の『七九郎』の代から襲名しなくなったと聞いております。『山本本家』になったのはその後だと思います。

 

従業員の方は何人くらいおられますか?

3名です。

杜氏(とうじ)と呼ばれる方もいらっしゃる?ということですよね?

そうです。

HPを拝見させて頂いたら事業部が分かれていましたが・・・。
酒造部と林業とINET事業部となっていますが?

お酒がメインなんですけど・・・まあ林業の方は、昔はお酒の方でかなり蓄えができたので、副業とういうことで山も買いましょうという事で・・先に酒が始まり林業もする事になったんです。

西吉野の方に少し山林がありますのでそちらの方でちょっと山の仕事もしております。

現在も?

昔から山守と呼んでいる地元の方に、管理を委託しております。
必要な時には山に入って作業をいたします。

主に酒造部メインと言う事ですよね?

そうですね。
後はインターネットの方は今は社長の趣味で・・・。

そうなんですね

はい、パソコンをよく昔からやっておりまして。

今はインターネットのプロバイダーって大手さんがたくさんありますけど、インターネットが始まったころの初歩の方はあんまりサービスがなくて。
だったら自分で立ち上げましょうってとういことで・・・五條のローカルのプロバイダーをやっておりまして。それが今も続いているということですね。

プロバイダー・・・というのは?

大手さんから回線を借りて来て、それで五條でユーザーさんを集めて運営していると言うところですね。だからHPのサーバーは自社にあります。

委託していないと言う事ですね・・それをお父さんがしてらしゃっると言う事ですね?

そうです。
あとは他の会社のHPだったりもうちのサーバーにありますね。

へー!すごいですね!

HPの管理とか、メールサーバーもあってメールの管理もうちでやってますね。それがこのINET事業部なんですね。

楽天でのネット販売もやっておられる・・・?

しております。今はネット販売も主流という中で、去年から楽天も開設いたしまして販売しております。

それはやっぱり全国から注文ありますか?

そうですね。主に関東の方からが多いですね。
比較的柿ワインがよく出ます。

そうなんですね。でもネット販売となるとなかなかお客さまの顔が見えないですが、そう言ったところで特に気を付けていらっしゃる事はありますか?

やっぱりネットだと口に出して言うわけじゃないので、書いたことがそのまま向うに伝わってしまうので。だいたいメールなどの返信の内容は決まっていますが、失礼なところがないかっていうのは気をつけてますね。

そうですね、文面だけではニュアンス違ったりしますからね。

その辺は手直ししたりしますが、直接連絡取ることもありますね。

お客様が直接買いに来られる事もありますか?

ありますね。今はネットで調べて遠方からも買いに来られますね。

先程ネット販売で柿ワインがよくでますと言う事でしたが、「柿ワイン」はどういった経緯で作られたんでしょうか?

だいたい今から・・・平成が始まったくらいですかね・・30年弱くらい前から奈良県の方で”柿の副産物をいろいろ作りましょう”ということで、パートナーを探されていて。
五條は柿がたくさん採れるもんですから、”その柿でお酒を作りませんか?”ということでうちに共同開発をというオファーがありまして。それで3年間研究して商品化したのが始めですね。

それに携わられたののは・・?

県の工業試験場っていうところがありまして・・今は工業技術センターていうところなんですが。そちらの方とうちと共同で研究して柿ワインを造ったと言う事ですね。

どんなお味ですか?

味としましてはどちらかというと、白ワインに近い感じですね。白ワインに近くて、ちょっと酸味と渋味がありますね

やっぱり渋味があるんですね

そうですね。柿の渋味だと思うんですけど、その辺は柿の特徴をうまく使った柿ワインとしての特徴ですね。

ただ柿の果実を食べた時の味とはちょっと違います。だからどっちかっていうと白ワインに近いと言う感じですね。

商品のお話がでましたが、お店の看板商品でもある「松の友」について教えてください。

うちは「松の友」という銘柄でずっとやっておりまして、昔はもっと銘柄もあったんですが、今はメインが「松の友」ですね。

”松”っていうのは年柄年中、緑の葉っぱがつきますよね?
あとは”松竹梅”で言いますと縁起の良い樹木の”松”でもありますし・・。
そういったところから「松の友」っていう名前を付けたと聞いております。

あとは先ほども申しあげましたが、山も少し持っておりますので、そういった関係で山と関係のある”松”と付けたと聞いております。

「松の友」以外にも種類は・・?

あとは、「神代杉」っていう銘柄のお酒を、十津川村にある世界遺産の熊野古道の一部になっている玉置神社っていう神社があるんですが、そちらでも「神代杉」というお酒をお神酒として扱って頂いてます。

そこにも”杉”の樹木が名前として使われていますね。

玉置神社さんにはそのまま「神代杉」っていう名前の御神木がたくさんあるんですけど、樹齢が1000年を超えるような木がありまして。そちらの名前をいただいて「神代杉」ということで、お神酒を納めさせて頂いてます。

ほかにもそういう風に納められている神社もありますか?

頻繁に納めさせて頂いているのは、玉置神社さんが一番なんですけど、年に数回くらいでしたら橿原神宮の御祭りにも出させて頂いておりますし、あとは野原の霊安寺町の御霊神社にもうちのお酒を使って頂いております。あと辯天さんの会合にもお酒を使って頂いております。

そうなんですね。歴史が古いから信頼があってそれだけの繋がりがあるんでしょうね。でも長く続けると言う事は、すごく難しいじゃないですか?

そうですね。

途絶えてしまいがちな歴史ですが、300年という本当に長い期間続けてこられた秘訣といいますか・・?

今はそんなにお酒にしても山林にしても、昔のようにはそんなに景気が良いと言うわけではありませんので、なるべくその時代時代にあったものを作っていって、少しでもお客様に良い商品を届けるように・・・と考えております。

酒の味にしましても、昔は主に奈良県の南部で林業が結構盛んだった時期がありまして。その方達のためにかなり甘いお酒を造っていたそうです。

今は時代としてそんなに甘いお酒ではなくて、どっちかっていうとちょっと辛口のお酒の方が人気ですね。

今、うちの主力商品の「松の友」はやや辛口ですね。だから味もちょっとずつ変わっておりますね。

時代に合わせてと言う事ですね。

なかなか難しいですけどね。

働いている環境とか時代の流れも考えて、ちょっとずつ変えてこられたと言う事ですけども、特に”これだけは守ってきたよ”っていう何か教えというかあれば・・・。

まあ社訓というかそういうのは特にないんですけども。
やっぱり長く続けていく上で、こだわっていいものを作っていきたいっていうのは当たり前の事で、それはうちの方ではよく言っておりまして。
いろんな商品がありますけども、ひとつひとつこだわって良いものを作りたいと思ってやっております。

そうですね。こだわる条件として、お酒造りに欠かせないお水やお米もすごく大事だと思うんですけど、その辺も五條は恵まれていますよね?

そうだと思います。

先程、杉の木のお話が出てきましたが、いっぱい吊ってありますよね?杉玉。表に飾ってないから、ないと思ってましたが中にこんなにたくさんあるんですね!数とか大きさは何か意味があるんですか?

特にないです。
でも、あの明るいちょっと緑色の杉玉・・わかりますか?あれが一番新しい杉玉でいつも毎年11月に桜井の三輪明神様から杉玉を頂くんですけど、他の蔵でしたらだいたい軒先に吊るしているんですが、うちはなんでか入ったところに吊るすような習わしというか・・。

この部屋もいっぱいありますよね。

私が思うに、せっかく三輪さんから頂いた有り難い杉玉なんで、すぐに捨ててしまうのは忍びないと思って、かける所をどんどん増やしていったらこういう風になっていったんじゃないかなと。

杉玉は毎年もらえるんですか?

いつもだいたいお酒のシーズンが11月12月、なので11月の頭くらいに頂きます。三輪明神はお酒の神様なので良いお酒が出来ます様にとお祈りをして頂くんですが、その後にそれぞれの蔵にひとつずつ頂いて・・。しるしの杉玉ということで毎年必ずひとつ頂きます。

じゃあどんどん増えていきますね!

そうなんです!
もうすでにかける所がこれ以上増やせない状態になっておりますんで・・。
実はここの敷居が外れてフォークリフトが家の中を通れるようになっているんですが、これ以上増やすとフォークリフトにひっかかって危ないので・・・だけどこの部屋もこれ以上梁に穴を開けたくないので、まあだいたい20数個くらいはかかってると思うんですけど・・。
「こんなにたくさん杉玉あるところはめずらしい」とよく言って頂けます。

最初は緑色ですが、枯れてきてだんだん茶色になっていきます。
三輪さんの境内にもたくさん杉の木があるんですけども、その杉の葉っぱから作られているらしいです。

だからだいたい新酒ができた頃は緑色で・・新酒が出来る頃は実際は12月頃ですが、新酒が出来るときに青々としてまして、熟成の具合を表しているんだと・・そういうふうに言われることもありますね。

(しんまち通りに)手まりも吊っていましたよね?
それと相まってさらに雰囲気が良い通りになってましたよね。

そうですね。なにか楽しめる事はないか?っていう事で、しんまち通りで「手まり街道」をやってました。夏は風鈴を吊ったりすることもありますね。

 

お酒を造る工程について

私も実家の近くに酒蔵がありまして、冬場はいつも忙しそうだなと思いながら小学生の頃は通学しておりましたが・・

寒い方がお酒は造りやすいので、冬場は適していますね。といいますのは、お酒を造る上で温度管理が大切なところでございまして。温める方は楽なんすけれども、冷やすのはなかなか難しいです。

お酒って造る上でだんだんと熱を持って温度が上がってくるので、暑い時期にお酒を造ってしまうとお酒の温度が上がりすぎてしまって、美味しくないお酒になってしまうんです。

作る工程で味が決まってしまうと言う事ですか?

そうですね。
ご存知のとおり、お酒はお米を蒸してそれにお米を糖分に変える麹というものを付けまして、それからその糖分をアルコールに変える酵母という菌を付けまして、それでお酒が出来ていくわけなんですけども・・。

麹も今すごくブームですよね?

そうですね。いろんな麹がありますね。
最近は塩麹とか甘酒も結構でておりますし、やっぱり化学薬品とかではなくて天然の微生物で甘味を作ったり、人の体に役に立つものを作っていく、ということで今すごく注目されているんだと思います。

塩麹も時々買いますけど、お肉に塗るだけで焼いても柔らかくなったりしますよね。
余談ですが「こうじ」って二つの漢字ありますよね?
米(編)に花と書いて「糀」の漢字もありますが、麹を作る段階で花が咲いているように見えるから、米(編)に花って書く糀があると聞きましたが・・・

ああそうですね。元々のお米に麹がだんだん増えていきまして、増えていく段階で米の表面に麹菌がついて「もさっ」とした感じになるんですよ。それが麹の花が咲くといったりします。
だいたい酒造りは米のついた「糀」を使う事が多いんですけどね。

杜氏さんの手や肌がきれいなのは麹が関係しているからだと聞いた事がありますが?

あれは麹を触っていると、麹って手に付いたら結構さらさらした感じになるんですけど、そのあと水で手を洗うと”ぬるっ”とした美容液とか乳液とかを付けたような感じになるんです。

それは麹の持っている力・・?

そうですね、麹は色んな酵素を持っているので、実際甘酒が出来るのも麹菌がでんぷんを分解して糖にするっていう働きもありますし、麹菌が持っている酵素の働きでどんどん甘くなっていくらしいんです。
だいたい麹菌自体は、40℃超えると動けなくなるんですけど、実際甘酒を作るときは60℃近くまで上げるんでその場合は酵素の働きで60℃まで上げていいと聞いてますね。

なんか微生物とか酵素とか聞くとすごく美容にも良い感じしますが・・
ついつい選ぶときも「米ぬか」とか「麹・・」っていう『酒』というワードが入っている商品は絶対買いますね!

実際に体に良い成分ですし・・。
ただまぁね、杜氏さんの手が綺麗なのは雑用していないからだと思いますね・・笑

冬場に盛んに造られるという事ですが、年間のスケジュールを教えて頂けたら・・

だいたい秋の・・10月くらいまでにまず米が入って来ます。

それは新米ですか?

そうです。その春に作付をして秋に収穫したお米・・・一般の食べるお米ではなくてお酒専用のお米があるんですけれども、それを精米してそれが蔵にやって来ます。それがだいたい10月11月くらいですね。

そこから酒造りが始まるわけなんですけども、蔵によって色々ありますけど、だいたい10月、11月から3月、4月くらいまでが酒造りのシーズンです。

そうなんですね。

結構今は長く造られているところもあります。蔵によっては4月までのところもありますね。やっぱり寒い時期のほうが造りやすいのでメインになるのは12月、1月、2月位ですね。

だいたい、ひとつのお酒を造るのにひと月くらいかかるんですよ。ですので、酒造りのシーズンでたくさん造りますので、11月くらいから始めて同じ様な工程をそのシーズンで何回も繰り返す事になります。

入ってきたお米でそのシーズンのお酒を造るんでしょうか?

お米が入ってきてお米を蒸します。蒸したら麹米と掛米というものを蒸すんですけど、それは元々同じ物なんです。蒸したお米に麹を付けて、麹を繁殖させて麹の花が咲いたものが糀ですね。

麹米を作りまして仕込むタンクですが・・・昔は木の桶でしたが、今はだいたいホーローの大きいタンクになるんですけども、そちらの方にまず、仕込みの水を入れまして、先ほどの麹の花が咲いたものを入れまして、掛米と言って麹を付けない米ですね、それを入れて、温度の管理をすると酒になっていくんです。

 

2種類のお米を入れると言う事ですね?

そうですね。

じゃあ、何で種類を変えたりするんでしょうか?
アルコール度数とか・・・。

おおまかに言うと米だけで造ったお酒と、その米だけで造ったお酒に、後から調整のためにアルコールをいれた純米じゃないお酒の二つに分かれるんです。

あと純米の細かい話を致しますと、お米の種類によって変わって来ます。最初入ってきたお米は精米してと言いましたが、そのお米がどれだけ削られてるかっていう事によって変わって来ます。

お酒って冷たいまま飲むお酒と、燗で温かくして飲むお酒があると思うんですけど、燗で飲むお酒の場合はだいたい、元々とれたお米の形が100だとすると3割くらいを削ったお米で作る事が多いです。
それはただの純米酒として出てきますけれども、それをもう4割くらいに削ると、純米の「吟醸」だったりになります。
4割削るとなると結構お金のかかる事ですので、特別な純米と言う事で「特別純米」ていう名前を付けたりしますね。

さらにお米を5割だったりもっと削って6割削ったり・・ほとんど半分以上捨ててしまうと言う状態になりますと「大吟醸」になってきます。

たくさん削る方がいいお酒に・・?

そうですね。
お米っていうのは、もともとこういうラグビーボールのような形をしてますが、中心の方が純粋というか、お米が詰まっておりまして、真ん中の方が澄んだ味のお酒が出来るんですよ。

外側の方を使いますと、まあ雑味というか、いろんな味が混ざると言うふうに考えてもらうと分かりやすいんですけども。真ん中の中心部を使えば使うほど澄んだ良いお酒ができると言われております。

じゃあお米の削り方で種類も変わってくるということですね。

そうですね。
削れば削るほど高いお酒になるっていう・・・。

手間掛かる分だけっていう事ですね。

では1日のスケジュールはどんな感じでしょうか?

だいたいお米を蒸す場合は、朝起きてすぐに蒸します。9時くらいからとかですね。その蒸しあがった後は、お米をまず冷やしまして、だいたいお昼くらいまでに冷やして、昼から麹室っていう麹を作る為のあったかい部屋があるんですけどそちらの方に米を入れて作業します。

後はその麹とかが出来上がって、次の仕込みという作業でタンクに原料を入れるのは午後にすることが多いですね。

なんか朝が早いイメージだったんですが。

それは蔵によっていろいろあるんですが、早い所だと朝の4時とか5時くらいから・・たくさん造るところだとやっぱり昼までに終わらないので朝は早いですね。

あとは麹が出来て来ますと、麹の状態を常に見ながら麹を増やして行かないといけないので、場合によっては寝ずの番をすることもありますね。2時間とか3時間おきに麹の状態をみながら、ちゃんと麹が増えているかどうか確認して、それでまたちょっと仮眠して又起きるっていうこともありますね。そういう場合は3時間4時間おきくらいに麹の状態を見て、それが朝の6時くらいまで続いたりとかします・・。

新生児と一緒ですね!

そうですね!笑
やっぱりちゃんと見てあげないといけないもんで、・・と言いますのも
麹も増えるのに適した温度・・それも温度管理なんですけども麹を増やすのに使う部屋が「麹室(こうじむろ)」っていったり「室(むろ)」っていったりするんですけど、麹も増えてる時にだんだん温度が上がってくるんで、温度が上がりすぎると逆にその麹がダメになってしまうんですよ。

だからギリギリ高い所まで温度が上がるようにして、そこを越えたらゆっくりと冷やすという・・原料を入れた後もそうですし麹を増やす段階でも温度管理が非常に繊細な作業になりますね。

適している温度は何度くらいですか?

場合によっていろいろ違いますね。

その温度管理についてですが、サッカーの元日本代表の中田英寿さんも日本酒の会社を設立されていて、マイナス5℃の低温で管理ができる”世界初の日本酒セラー”を開発されたということですが、家での温度管理も大切でしょうか?

そうですね。
出来上がった後でもやっぱり温度管理は大切ですね。
マイナス5℃と言いますのは、だいたい冷凍が出来るくらいの温度なんですね。お酒の品質が変わらずに一定の品質でずっと置いておけるので、マイナス5℃が良いと言われていますね。

だいたいそのお酒が出来まして、たとえば大吟醸とかのすごく高いお酒だったりすると、絞ってからすぐにビンに入る訳ではなくて、いったん大きいガラスの「とびん」と言われるビンに入れまして、しばらく低温で・・・それこそさっきの中田さんの話みたいに、マイナス5℃やったり、氷点下の温度だったりするくらいの低い温度でしばらく寝かせて置くと・・・そういった造り方をするお酒もあります。

温度を下げるっていうのは、お酒の品質を保ったまま保管するために重要なことで、逆に低ければ良いというわけでもなく・・難しいといいますか、すごく繊細なところなんですけども・・。

それと普通その酒を絞ったばかりを新酒と言うのですが、日本では新酒が人気があってよく出るんですけど。新酒が出来てその後、新酒ではない・・と言うとちょっと語弊がありますけれども、古酒と言って漢字にしますと古いお酒って書くのでイメージが悪いっていえば悪いんですが・・。

逆にいうと、今熟成肉とかあるじゃないですか?

ワインとかも熟成ワインっていいますよね?

日本酒でもある程度熟成したほうが美味しくなるお酒がございまして。
どんなお酒でもそうなんですけど、新しいときは新しい時の美味しさがあって、熟成するとまた味が熟成されてきて、一般的に味が丸くなってきて・・。

深みがでたり・・。

そうですね、コクが出たりしておいしくなるっていうのはありますね。

結局は温度管理なんですけれども、温度管理をしていかに美味しい状態でお客さんに飲んで頂くか、っていうところを気をつけているような業界ですね。

鮮度を重視するお酒と、熟成させてっていうお酒もあるよっていう事ですね。

そうですね。うちではしてませんが逆に加熱させて熟成させて出すような蔵もありますね。

中田英寿さんも日本酒のイベントを開催されてますが、そういった日本酒のイベントへの参加は?

地元でイベントがあるときに、たまに出させていただいておりますし、イベントによって行ったり行かなかったりはあるんですけど・・。
年に1回、10月1日に「日本酒で乾杯」っていうイベントが奈良市の近鉄奈良駅前であるんですけど、それは必ず出ておりますね。
一般にどれだけ認知されているかわからないですが、10月1日に”日本酒で乾杯しましょう”っていうのを業界で謳っていてPRしているんです。
そのときは近鉄奈良駅前でハッピ着て、みなさんにお酒を配ってますね。

出店数も多いですか?

県の酒蔵は29件あるんですけども、だいたいほとんどの蔵はいらっしゃいますね。

先程、日本酒の種類をたくさん教えていただいたんですが、私は全く飲めなくて・・・。味は種類によって違いますか?

かなり違います。

違うんですか?

高いお酒は香りが良いお酒が多いですね。お米をたくさん削ってその芯の部分だけを使っている方が、独特の果実に例えられる事が多いんですが、メロンであったり、桃であったりっていうふうに例えられることが多いですね。

じゃあ甘さが強いという事ですか?

甘味はお酒によって違いますね。香りは強いお酒の方が多いですけども、辛くしたり甘くしたりっていうのは蔵によって違います。

うちの大吟醸の「一献」っていうお酒はうちの代表の銘柄ではあるんですけども、少し甘い目に仕上げてあります。

そうなんですね。
では日本酒の美味しい飲み方があれば教えていただきたいのですが。

そうですね・・・。

山本さんはお酒は飲まれますか・・?

それなりに・・・そうですね、いろんな飲み方があるとは思うんですけど、よく言われるのはあっさりした日本食と一緒に、ちょっと冷やして頂いて吟醸だったり香りの良いお酒を飲んで頂くっていうのが良いですね。

それこそお酒の種類もいろいろありますので・・もう温かくなってきましたので、燗で温かくして飲むと言う事もあんまりないのかなと思うんですが、温かくして飲んで頂くとお酒の香りがすごく立つようになりまして、もともとあんまり香りが強くないお酒でも香りがすごく立って美味しく飲んで頂けます。

あっさりした日本食とあうよ!と教えて頂きましたが、日本酒とベストマッチイングな食べ物はありますか?

焼き魚とかですね。あんまり塩をしていないちょっとあっさり目の物だったりすると香りの強いお酒にはすごく合いますね。逆に、みそ漬けだったり味が濃い魚だったりすると、純米の燗にして飲んで頂くとすごく合います。

 

魅力ある五條市について

五條市の魅力について教えて頂ければと。
特にこの辺は「しんまち通り」という五條を代表する場所にお店を構えていらっしゃいますが・・・。

やっぱり、雰囲気がとてものんびりしているところがいいなぁと思いますね。

私も学生の頃、外にいたことがあるんですけど、子供の頃からずっと五條におりますので、外の方からはちょっとのんびりしすぎだって言われる事はあるんですけれども・・・。

よく観光の方に言われるのは、地元の方はとてもフレンドリーだって言われます。しんまち通りは古い町並みで、ちょっと昔の街並みとのんびりとした雰囲気がとても暮らしやすい所だなと思います。

私も大好きなんです、この通り。
しんまち通りから盛り上げて五條市を盛り上げていこう、っていう風に私は感じるんですが、しんまち通りについてはどう思うわれていますか?

しんまち通りはおかげさまで、観光地として認められるようになってきまして、うちの社長もかなり力を入れてきまして今のような感じになって・・・。すごく頑張ってもらってありがたいなと思ってるんですけど、一番難しいのが古い建物を保存するのが一番難しいですよね。

おかげさまで”重要伝統的建造物”・・・たまに噛むんですけど 笑。
そちらの方に指定されまして、これ以上はそんなに建物は減らないように保存されてはいますけども、私が子どもの頃はもっと古いお宅もいっぱいありましたし、その頃に比べるとそのお宅がなくなって、空地になったり駐車場になったりして寂しい思いはありますね。

なので古いのもを守っていって・・・。
今ね都会の方はこういう古民家が好きな方が多いので・・・。
今はこの通りもあまり観光化はされていないと思うのですけれども、逆にそれが良い所だと思いますね。のんびりした古い町並みがあって、のんびり歩いていただけますよ、っていうところをアピールしていきたいですね。

もちろん商売の事を考えるともっとお店が増えてにぎわいが出て来てくれた方が・・・。昔かげろう座やっていた頃みたいに人が集まってもらえると商売としてはこの上なく有り難いんですけどね。

バランスが難しいですね。

私は今の、のんびりした雰囲気も好きなので・・・。

そうですね、今日みたいなお天気の時にこの通りを歩くだけでも・・ね。

そうですね。

これからのビジョンを教えてい頂ければ。

さっきもお客さんを呼んで、っていう話をしましたが、うち自身がお客さんを呼べるような所に変わらないといけない、と思っていますし変わって行きたいと思ってます。今はここ(店の)の入り口だけしか見て頂けないんですけど。春から秋の間は、蔵の見学自体も申込みがあって、まとまった人数であればしております。

うち単体でお客さんを呼べるようになろうと思えば、売店だけだとなかなか難しいと思いますけども、お客さんに蔵の見学もしやすい様に変えていけたらと・・・。後はこの通りって駐車場も少なくて、車で来る方には結構不便な思いをさせていたり、交通機関もJRしかなくて1時間に1本もないという難点はありますね。

先程おっしゃった”のんびりしたところも残しつつ”というところで、バスツアーなんかの観光客が増えてしまっても意に反するのかなって思ったりしますし・・。

そうですね。今だと、春と秋は結構ツアーのお客さんも多くて・・多かったら・・どうでしょう・・?その全部がうちに寄って頂ける訳じゃないんけど・・一番多かった時で20人が3、4組くらい前の通りを通る事がありましたね。

酒蔵の見学もされているとのことですが、蔵はここからは見えないんですよね?

(この通りの)後ろ側になります。江戸時代の街並みにはよくある事なんですけども、昔は税金が間口の広さで決まっておりましたんで入口って結構狭いんです。だからずっと後ろの川を越えて蔵があるんです。今は川の向こうの蔵はあんまり稼働していないんですけど・・。

この通りからは蔵が見えることもなく「どこにあるんやろう?」って思って歩いてたんですけど・・・煙突・・ありますよね?

煙突があるあたりから奥の方にありますね。

蔵はいつ頃建てられたんですか?

改築を繰り返してまして正確にはいつ建てたかわからないんです。うちは300年を越えてここにおりますけれども、うちの母屋の住居はだいたい250年前らしいです。蔵は・・古い所で100年くらいですかね?一番新しい所だと昭和になってからのところもあるんで3、40年くらいなんですけれども・・。

250年!すごいですね!
やはり、歴史が深いです!

 

最後に山本さんが思う日本酒の魅力とは?

なんといっても米を使っているので、ごはんに合うっていうのが一番いいところだと思います。私達が普段食べているお米で造っているお酒なんで日本の食文化にすごく合っているのだと思いますね。

 

 

江戸時代中期から現存するどこかなつかしい町並みと、それに合わせたかのようなお店の佇まい。
ある意味タイムスリップしたかのような・・・そんな雰囲気さえ感じられる空間でした。
山本さん、本日はありがとうございました。

 

 

株式会社 山本本家

☆ 住所 ☆  奈良県五條市五條1-2-19
☆ TEL ☆   0747-22-1331
☆ FAX ☆     0747-22-3366
☆ 営業時間 ☆ 8:00~17:00
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☆スタッフ森子のつぶやき☆
300年前・・・元号は『宝永』。
今春、元号が改正されることが決まり新しい元号が『令和』と発表された。
今や元号は日本独自のものとなったが、新しい元号の発表はやはりみんなが注目し待ちわびていた・・・そんな日本独自の元号。
とはいえ、『宝永』とはどんな時代だったのか興味が湧き調べてみると、”江戸時代初期の頃で宝永年間の江戸幕府の将軍は徳川綱吉(5代)、徳川家宣(6代)。生類憐みの令や、貨幣改鋳による物価高騰など混乱が続く中、幕政の刷新を行った” とある。
江戸時代・・・わたしも数十年前の学校の勉強でしか知り得ない知識の中の話。
そんな300年以上経つ時代の空間を少しでも感じられる『山本本家』さん。
時間軸がそこだけやけにゆっくりと流れているような・・・とても穏やかな空間。
そんな穏やかな空間の店先を訪れた時は、たくさんの観光客の方が訪問されていました。
『宝永』から『平成』まで元号改正という、新たな時代の幕開けを27回も繰り返してきた『山本本家』さん。
この『令和』の時代をどのような空間にしていくのか・・・楽しみである。

 

 

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