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第79回 toto coffee 櫻本 末古登さん

喫茶店とカット専門店のお店をしたくて始めました。

五條駅の近くにオープンされました。おしゃれな喫茶店toto coffeeさん。
お店のリフォームは自分達でされたそうです。お店の中に入りますと、どこか懐かしい気持ちになります。こちらでお店をオープンされたきっかけを聞かせていただきました。

お店のオープンまでの道のり

こちらのお店はいつオープンされたんですか?
2023年4月14日にオープンさせていただきました。

―toto coffeeさんの名前の由来を教えて下さい
totoは、息子が僕の事を「とと」お父さんって意味で呼ぶので、後は覚えてもらいやすいとの事でこの名前にしました。

―この場所でカフェをしようと思ったきっかけは何ですか?
喫茶店はしたいと思っていたのと、前職が美容師をしておりまして、美容室とカフェを一緒に両立して出来る建物だと思ってここに決めました。

―おしゃれなお店ですよね?リフォームはご自身でされたんですか?
妻と二人でしました。2か月位かかりました。所々友人や姉にも少し手伝ってもらいました。
昔は禁煙ではなかったので、天井も汚れてましたのでペンキを塗って塗り替えました。窓枠も古くなってましたので、直しました。壁紙はそのままです。カウンターやテーブル、入口の棚は先代の樹里からの物です。椅子も何脚かは変えましたが、何脚かは磨いて再利用してます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

―業者は一切入ってないんですか?
水漏れだけは業者に直していただきました。

―カフェをするまでは美容師さんをされてましたよね?
個人的な考え方にはなるんですけども、香芝市で美容室を13年ほどしてまして、10年後自分が美容室を続けていけるかなと思った時に、考えにくかったので、コーヒーも好きでしたし、喫茶店も頭に浮かんでまして、美容師も続けたかったので、両立できる物件を探してました。いつかでてきたらいいなっと位に思ってましたが、急に物件が出てきたので10年を待たずに思い切って決めました。カフェとカット専門店です。
それがいい選択やったかどうか分かりませんけど。やらへんより今やった方がいいかなと。妻も賛成してくれましたので。出来たって感じですね。

―10年待たずにお店をオープンした事は後悔ないですか?
ないですね。

コーヒーのこだわり

―コーヒーの豆の種類は何種類位あるんですか?
そうですね。
1番日本人が飲みやすいのを選んでます。6.7カ国位の豆を仕入れてます。
焙煎した豆を買ってます。この国の豆は深入りで、この国の豆は浅いりにしてほしいとオーダー出来る問屋さんがあったので、焼き加減も注文して入れさせて頂いてます。

―取り寄せして味見をして豆を仕入れるんですか?
そうです。
美容師時代からしてました。コーヒーは好きでしたので。

―コーヒーに興味のない方いますやん?
基本コーヒーは苦いじゃないですか?苦くないようにどないしたらいいのか、そこは入れ方の違いだったり、豆によっては山の標高差や、土の状態で育ち方が変わると言われているので、精製法といって、豆を天日干ししたり、豆を洗ってから天日干ししたりするプロセスがあるのでその違いで味がごろっと変わるとも言われてます。試して飲むのも面白さがあると思います。
甘味が勝つような味、酸味が勝つような味、苦みがきつい味、癖のある味、それを上手い事ブレンドして飲みやすくしたり、正解がないっていえばないし自由な飲み物だと思います。
僕の生き方もそうなんです。自由に生きたいので、自由にもそれなりの責任もともなってきますけどね。好きな事を自由にできたらいいなといつも思っていますので、それがコーヒーに出て来てるかなって思います。コーヒーでもそれを楽しめるかなと、人それぞれの舌があるので・・・・

―毎月コーヒーの種類を変えてますか?
毎月変えてます。毎月違う味でお客様に楽しんでもらえるように。常連さんになってくれたら、この人は薄めがいいなとか、この人はホットしか飲まないんやなって、ホットでも濃いめとか覚えてくるので。濃いめは濃いめでもこっちの濃いめはどうやろうとか、またおすすめ出来たりするんでね。

 ―お客様でコーヒーの濃さで言わはる人はいますか?
います。います。
苦いのがいいとか?超ストロングがいいとかね。

―常連さんはよく来てくれるんですか?
オープンして1年位立つんで常連さんも付いてくれるようになって、次はこのコーヒーにするわとか、今月のお薦めは何とか聞いてくれるんです。コーヒータイムを純粋に楽しみたい方が多いですね。
美容師の時から培ってきたもので、生かされてきたものと思ってますが「何でも言ってくださいねって」言う感じで好みに合わせて作りますよって感じなんです。髪型をオーダーされる訳じゃないですか?それに答えるのが仕事だったので、それの延長線みたいな感じですね。昔ながらの頑固親父喫茶店ではなくてね。

たまにねエスプレッソを頼む方が居るんですが、日本人はブラックを飲めるのがかっこいいってのがあるんです。僕もそう思ってたんですがね。エスプレッソの飲み方ってあるんですよ。めちゃくちゃ濃いんですよ。
エスプレッソって小さいカップなんです。海外では砂糖をいっぱい入れて飲んでコップの底に残った砂糖を最後スプーンでかすってデザート感覚で食べるんですよ。ほとんどの日本人は知らないんです。エスプレッソを頼まれた時は説明しますと他の種類に変えますね。残されるのは嫌じゃないですか?美味しくなかったのかと思うので説明します。たまに海外のお客様で、ドイツやヨーロッパ系の方は、飲み方を知ってますのでその飲み方をしてます。外国人の方はお店の豆を一個一個匂いを嗅いでからコーヒーの種類を決める人もいます。

―コーヒーが苦手な人も多いですよね。
多いですよね。

―うちの娘もコーヒーは苦手で飲まないですけど、totoさんのコーヒーは美味しいと言ってましたよ。
お客様が良く言ってくれます。ブラックは、ミルク入れないと飲めないですけど、ここのは飲めますと言われます。心の中でガッツポーズしてます。
ブラックも抽出して時間がたつと酸味が出てきたり、えぐみが出てきたりするので胃もたれとかもしますからね。

―こだわりはありますか?
うちはハンドドリップでコーヒーを入れてます。お客様の要望にお応えやすいのでハンドドリップにしました。時間はかかってしまいますが続けていきたいです。

―おすすめは何ですか?
馴染みがあるのはブラジルのコーヒーとかなんですけど、グラテマラは、バランスが良くてほとんどのお客様が美味しいと言ってくれました。癖なく飲みやすいとおっしゃってくれました。単品で飲むんでしたらおすすめですね。パンチがあるのを飲みたいんでしたら、インドネシアのマンデリンとかがおすすめですけど。お客様が好む味に提供できるようにはしてますので。お客様にはどんな味が好きなのか聞きますが、めちゃくちゃ簡単に言うと、僕がブレンドしてますので、ブレンドコーヒーがおすすめですと言います。

―アイスコーヒー美味しいですよね?氷が解けても味変わらないですもんね?
特にアイスコーヒー・アイスカフェラテ・アイスカフェオレはドリップする時に氷の上に温かいコーヒーを抽出してるんです。
氷が解けながら丁度いい濃さになってくるんです。そういう所がハンドドリップのいい所なんです。最初は失敗続きでしたよ。改良を重ねて今です。色んな方に知ってほしいですけど時間がかかりますね

モーニングタイム・ランチタイム・カフェタイム

―メニューは変えていってるんですか?
実際お客様に提供して、反応を見てこうした方がいいよとかいう話を直接聞いて、取り入れる部分もありますし、それを自分なりに改良してます。一年お店を営業してきてある程度メニューは定着させて、後はおいおいその季節限定のメニューを出していけたらなと思ってます。

―モーニングのメニューはどんなメニューがあるんですか?
メニューは、一定はしてますが3種類から選べるようにはしてます。

―ランチタイムはどんなメニューがあるんですか?
ランチのメニューはカレーライス・ナポリタンのセットです。
サンドイッチは朝でも昼でも出せるようにしてます。カフェタイムって時間は区切ってはいますが、デザートみたいに、ちょっと食べたいな飲みたいなっていう風な感じにはしてます。遅めのランチの方も居てますので、ランチ時間を過ぎても食べれるように出せるようにはしてます。

―ホットサンドが人気なんですか?
そうですね。

―ホットサンドは五条ガスの従業員に人気ですよ
ありがとうございます。
サンドイッチも、試行錯誤して変えていって、ボリュームを付けまして今の形です。                           ボリュームが出たねと言われます。物足りないと言われるのが嫌なんですよ。

 

 

―人気のサンドイッチは?
照り焼きサンドと豚バラ焼肉サンドも人気がありますよ。
ホットミックスサンドが一番人気です。

―注文を聞いてから作りますよね?
そうなんですよ。早く出したいとは思ってますが、作りおきはちょとね・・・・

―出来立てが一番美味しいですよね?
そうですね。
なるべく作り置きはしたくないので。ただ、ワンオペなので注文が重なると注文を受けてからお出しするまで時間がかかります。なるべく早く出せるように頑張ります。頭の中フル回転でやってます。(笑)

―男性って1つの事しか出来ないじゃないですか?
いやー僕は出来るんですよ。

―女性脳ですね?
そうですかね。
美容室をしていた時も、この店をしてからも楽しいです。
一人は、大変ですがしんどいですが、しんどいのと楽しいのは別次元なんですよ。お客様から「美容室してる方が儲かったやろ?飲食になんで手を出したん」と言われますよ。でもやりたかった仕事なんでしてますと言いますけど。

―お弁当のテイクアウトしてるんですか?
してます。もう宣伝はしてないです。
ミックス弁当一択ですけど。取りに来ていただきましたら大丈夫です。お店をオープンして、来てくれてる始めのお客様は知ってくれてますが、知らない方が多いと思います。
たまにですが弁当、サンドイッチの注文が20個、30個とかあります。数が多い時は、前日までに連絡いただきましたら大丈夫です。数が多い時は、厨房が回らなくなりますので、昼まで店を閉めたりしてました。

一1番のこだわりのメニューは何ですか?

カレーライスですね。
レトルトのルーを2種類ブレンドするんですよ。
その前に、フルーツのリンゴや玉ねぎや色んな野菜を煮だししただし汁にルーを2種類入れて、コーヒーを入れて、トリュフソースを入れて味を調整しながらしてます。
ある日、大阪の岸和田の方でカレー専門店をしてるママさんが寺巡りで五條市に来てまして、お店でカレーを注文されて、美味しいとおっしゃってくれました。食事をされた後に「私大阪の岸和田でカレー専門店してんねん、ここのお店は、ちゃんとやってんねんなって」言われまして。めちゃ嬉しかったですよ。

子供食堂

供食堂はしてるんですか?
してますよ。
毎日してますのでいつでも来てください。中学3年生まで無料ですよ。月に20~30人位来ます。3人位でしたらカレーのストックとご飯はいけますが4,5人以上になるとストックがない時があるので。そうならないようにはしてますが。重なる時は重なるんですよ。食品ロスを無くすのと、食中毒とかには安心なんでレトルトカレーでしてます。
子供食堂の詳細は五條市の広報に掲載しております。

 

―この辺の子供さんが来るんですか?
野原とか二見から自転車で来てますよ。この前は大淀から家族で来てましたよ。たまに五條高校の子達が来ます。高校生とかも来てくれたらいいんですけどね。高校生は代金300円ですので、その分で子供食堂にまわせますので。

― 私が高校生の時は元樹里さんにはよく行ってましたけどね?
元樹里さんに当時の金額を聞いて同じ位の金額で商品を提供してるんですがね?
なかなかですわ。

―土日にカットはしてるんですか?
予約が入ればしてます。

―出張カットもしてるんですか?
お客様から依頼が来ましたらお家に伺ってしてます。
基本、身体が不自由な方やお年寄りです。意外と出張カットはないらしくて、土日に都合がつかない方は、平日にお店を閉めて行く時もあります。エリアは限定してますが、市内でお店から車で10~15分位で予約を受けてます。

子供食堂にしても、カットにしても初めは宣伝してましたが、最近は宣伝してないです。体はひとつじゃないですか?ここに来てくれるお客様から知ってくれて少しづつ広がってくれたらいいなと思いまして。

―フリーマーケットに出店してるんですね?
フリマで他店の方と知り合いに慣れたりするので楽しくていいですよ。フリーマーケットは今後も参加していきたいです。

―五條市で商売をして思う事はありますか?
市自体がやる気がないですね。人を集める事をアピールしてほしいです。奈良県で五條市が最下位から2位なんですって!何で下から2位かはよく知りませんけど。
最下位の宇陀市が奈良テレビでアピールする為にCMしてましたよ。五條市のイベントや祭りの時期だけでもいいのでCMを作ってアピールしたらいいのになって思います。カッキー君とゴーカスターのいいキャラクターがあるのに宣伝したらいいのになと思います。五條市でお金をおとしてほしいです。
五條市民も、もっと五條を好きになって五條でしっかりお金が回るように使って活性化していってほしいですね。
1番ショックやったのが、五條で商売させてもらうようになって、ある日お客様で来店された方が五條で商売されてる方やったんですが「五條でお金使う気がない」と言ってました。それだけ五條に魅力がないって事なんです。もっと市も市民も元気な町にしたいですね。toto coffeeもカット専門店も子供食堂も五條にとってまわりの人達にとって必要とされるように頑張っていきたいです。

―櫻本さん本日はお忙しい中ありがとうございました。

                      toto coffee
         住所                          五條市須恵3-8-2
          営業時間  AM8:00~PM6:00 AM8:00~PM5:00(土曜日のみ)
        定休日                         日曜日
        駐車場                       有

お店をオープンしたきっかけを聞かせていただきましたが、やりたい事をしたいと決めたら実行に移す姿は凄いなと思いました。実行されても、色々とお店の事を考えて行動を起こしてるので感心します。
毎日楽しいですとおっしゃっておられてました姿が、羨ましいなと思ってしまいました。私自身も楽しい人生を送れるように毎日笑顔で過ごしていきたいです。

第66回 神戸屋靴店・喫茶神戸屋 中山純さん・中山裕湖さんご夫妻

音楽で人を幸せにできたら 神戸屋の暖簾を守りながら

 

シャッター街と化した寂しげな商店街に灯りがともり、心地よい音楽が流れてくる粋なお店がある。五條市で初めて靴屋を営んだという神戸屋靴店。2021年1月、喫茶神戸屋を併設リニューアルし、靴屋の四代目を受け継いだ裕湖さん(弥里朱華(みさとあやか)さん)は「美術教諭を経て青春時代をギリシャで過ごし、絵画の世界から転身した異色のラテン・ジャズシンガー」、そして喫茶マスターのご主人、中山純さんは音響のプロであり、サックスやベース、いくつもの楽器を演奏するミュージシャン。心地いいジャズの流れる店内で、興味深いお二人の人生のストーリーを裕湖さん(朱華さん)中心におうかがいしました。

引かれたレールから羽ばたいて

―まずは神戸屋靴店さんの創業について教えていただけますか
中山裕湖さん 以下裕湖さん)私のひいおばあちゃんの代からここで商売をしていて元々は雑貨屋だったと聞いてます。それが、時代が高度成長期手前、(履物が)下駄や草履の時代から靴へと変わる頃、店先に並べた靴が売れたので新しく出してきて並べる、そしたらまたすぐ売れる・・・そんな光景を目にした祖母が「これはいける!」と思ったのか、そこから「靴屋」を始めたそうです。
祖母はあの時代の女性にしてはとても精力的で、靴屋で儲けたお金で旅館を建て、その後も鰻寿司、スナック、薬屋、鍼灸院と先見の明で次々と商売を始め、ひとかたならぬ苦労をした人だったと思います。

―店名「神戸屋」というのは?
裕湖さん)創業当時から「神戸屋」という名前やったのかどうかはわからないのですが、祖母が靴屋を始めた頃、神戸市によく仕入れに行っていたそうです。仕入れては売れ、また仕入れ・・・ここと神戸市を何往復もしたと。そこから「神戸屋」になったんかもしれません。神戸は履物のまちやしね。当時は靴職人が靴を作る時代で、うちにも職人さんがいたそうです。その技術を祖父、そして父が受け継いで、学校から帰ってくると母はお店で靴の販売を、父は一日中仕事場でこつこつと作業している姿をよく見ました。父母共に人に施しをする気持ちを忘れたことのない人でした。それが今の商売へとつなげてくれているのだと日々感謝しています。

―4代目として靴屋を継がれたわけですが、いつ頃から継ぐという方向になったんでしょうか
裕湖さん)そんな両親は私を教師にさせたかったので子供の頃から、お絵かき、そろばん、ピアノ、お習字、日本舞踊・・・毎日いろんな習い事をさせました。中でも私はお絵かきと歌が大好きで、そこら中の壁に絵を描きまくっては怒られてました。でも小学校5年生の頃から、家にあった地球儀を眺めてるうちに、この丸い地球の裏側ってどうなってるんやろ?一体そこにはどんな人が住んでて、どんな言葉を喋って、どんなものを食べてるんやろ、ってものすごく興味深くてずっとその夢(もっと知りたい、他の国へ行ってみたい)を諦めずにいました。両親はとにかく商売は苦労するからと何としても私を教師にさせたかったので、まだ経済力もない私は家を飛び出すわけにもいかず、両親の望み通り教師になりました。だから継ぐことになったのはもっともっと後の話ですね。

 ―教師としてスタートをきった訳ですね
裕湖さん)はい。両親の教師になってほしいという思い、私は絵を描くことが大好きだったのでおのずと美術教師というレールが引かれました。21歳で採用試験に合格し初めて教壇に立ちましたが、やっぱり私に教師という地味な職業は向いてないと感じました。自分の人生、教師というレールの上を一生涯歩いていくことの息苦しさと何の変哲もない人生を送りたくないという思いで、精神的にも体力的にもきつかったですね。自分にそぐわない環境に身を置くとそうなりますよね。さらにはそのとき大失恋も経験し、身も心もボロボロになり、それで教師を辞め、スーツケースひとつでギリシャへ行くわけです。

 ーギリシャへ?!その経緯について詳しく聞かせてください
裕湖さん)教師を続けながらも、いつかは日本を出て未知の世界を見てみたいという気持ちは常にあって、23歳の時、画家達の集まりでヨーロッパ旅行に行きました。若い女性達はブランドに興味を持つ中、私は目もくれず、地図とスケッチブックを片手にひとりで街をウロウロ。映画「ローマの休日」で有名なスペイン広場の下で一日中絵を描いていました。その居心地の良さに引き込まれて帰りたくはなかった。翌年はインドネシア全土横断し、次に再びギリシャを訪れた時、拠点を見つけてきました。

 

 

 

 

↑20代の頃のヨーロッパの旅の絵
左からオンフルール・モンマルトルの丘・ベニス(オンフルールは入選作品)

 

―拠点?ですか
裕湖さん)そう、拠点。私が住める場所、頼れる人を見つけてきたんです。
ギリシャ旅行のエーゲ海クルーズで船酔いして何も食べれずしんどくてふらふらになっていた時に立ち寄った毛皮の店のセールスマネージャーに助けられ、私を見かねて現地の日本食レストランへ連れて行ってくださりその後自宅に招かれそこで彼の子供さんやお手伝いさんともお会いし、とても楽しい時間を過ごしました。彼はいつでも遊びに来てください、そして僕もまた、日本に行きたいですと。そのとき、ここは、この人は安心できる、拠点にいいなと思ったんです。その人が後々ビジネスパートナーになる訳です。
帰国してからも電話や手紙がたくさん来ました。私は恋愛感情は全くなかったのですが向こうがプロポーズをしに日本に来た訳です。これは日本を出るいい口実になると思いました。それが教師を辞めるきっかけになりました。母は「苦労するなら助けないけれど、幸せになるのなら助けてあげる」といって片道キップの20万を持たせてくれました。それで26歳のときスーツケース一つでギリシャへ旅立ちました。

 

ギリシャでの新しい自分

―ギリシャでの生活、まずどんなスタートだったんですか?
裕湖さん)現地での生活はまず私生活のギリシャ語、彼との共通語は英語でしたが現地人が全て英語を話せる訳ではなく戸惑いながらも家で一人で居る生活が始まり、生きがいを見つけらずにいました。私は何のためにギリシャに来たのか・・・考えながらも彼の仕事の手伝い、ギリシャ→日本への毛皮の発注の仕事を始めますが能率が上がらず、現地での自分の立ち位置を見つけられずにいました。彼に相談するとそれなら二人で店を運営しないかという誘いがありゼロからのスタートとなりました。

―お店とは?
裕湖さん)彼は毛皮や宝石を専門とした店で販売員としての仕事をしていました。お店は持ってなかったけれど、向こうでは何か国語を話せるかで5本の指に入るトップセールスマンになれるかが決まります。彼は8か国語を話せたので世界各国の客を相手に販売力と腕は確かで、信頼も厚かった。最初は小さい店から始めそれがうまくいったので、目抜き通りに店を出そうということで、私は両親から借りた資金を、彼は知恵とノウハウを出し、アテネの中心地は目抜き通りに2件目の店を出しました。小さいながらも自社工場も作りました。当時の人気テレビ番組「なるほど・ザ・ワールド」の取材も来ましたし、ちょうどバブルの時代で観光客によく売れ、売り上げは好調でした。父も日本から会いに来てくれて嬉しかったです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

↑裕湖さん自身がモデルをつとめた毛皮のパンフレットや店舗、
そして住んでいたアテネ市内(パルテノン神殿)の写真

 

―言葉はどうされてたんですか?やはり準備期間に勉強を?
裕湖さん)英語はずっと勉強してたから大丈夫でしたが、ギリシャ語は向こうに行ってから勉強しました。商売がら、まず数字を覚えないということでそこからでした。電話の応対、買い物、タクシーを利用したり、自分で車を運転したりと徐々に生活にも慣れて。彼の友人たちとの交流や語学がもともと好きだったこともあり、イタリア語やギリシャ語、英語、日本語のちゃんぽんしたようなとこから始まって徐々に話せるようになりました。言葉で垣根を越えられるなら努力次第で何とでもなると思って勉強しました。

 

―やはり日本とは全く違う世界でしたか?
裕湖さん)はい、私には向こうの地がすごく合ってたんでしょうね。華やかでキラキラした世界が好きなんですよね。日本では控え目が美徳とされ、出る杭は打たれますが、海外では出すぎるくらい出ないと逆にたたかれる。良い意味で言えば強烈な個性と表現力で豊かな人生を送れる訳です。周囲には競争店が多かったですし商売するとなるとなおさらです。ギリシャは世界一の海軍国です。世界中からお客様が入ってきます。日々、国際色豊かな色んな言葉が飛び交う中での生活は日本では味わえない経験でした。

―その後、お店は?
裕湖さん)その後、ローマ、スペイン広場周辺のコルソ通りに3件目のお店を出しました。でも結局は広げすぎたんですよね、後のバブル低迷期等でお客さんは減り、借金を抱えることになってしまって。一時帰国していた私は店をすべてたたんだことを彼からの電話で知らされました。私はその後ギリシャに戻ることもできず何もかも身の回りのものすべて向こうに置いたまま。その後それがどうなったのかもわかりません。飛び出したときもスーツケースひとつでしたが、帰ってくるときもスーツケースひとつやったっていう話(笑)

―最終的にはお店をたたんでしまいましたが、パートナーとの出会いがあって海外での生活、仕事を経験したんですね
裕湖さん)そうですね、出会いから移住、彼からビジネスやたくさんのことを学びました。ビジネスパートナーであり、共に戦ってきた戦友であり家族でもありました。彼は人生をとてもおもしろおかしく、ドラマティックに、破天荒に生きていました。もう亡くなってしまったんですが、一言では言い表せない波乱の道のりでした。

日本での再スタート  

―帰国してからについて聞かせてください
裕湖さん)向こうで店をたたみ今度は彼が私を頼って日本にやってきました。知り合いの紹介で宗衛門町で2人でギリシャレストラン・グリークバーを始めたもののうまくいくはずもなく・・・そりゃそうですよね、飲食業なんてやったこともない、毛皮を売ってた人間なんですから。それでその商売をやめ、パートナーとはそれを機に互いに別の人生を歩むことになり、私は35歳で大阪の時計宝石の卸の会社に就職しました。

―そこでまた一からスタートということですね
裕湖さん)その会社では15年間勤務しました。自社ブランド担当を任され、言葉ができたのもあって海外出張(ヨーロッパ各国、オランダ・ベルギー・ハンガリー・ドイツetc・・・)にも行きました。商売の基本からノウハウまで仕込んでいただきそれが後にこの靴屋を継ぐときに役に立ちました。営業で小売店回りや展示会の仕事も任され、芸能人をモデルにした企画等で有名な方とご一緒する機会もたくさんあり、仕事は通勤も含めて厳しかったですけれど、そういった華やかでキラキラした世界は私の性に合っていました。ところが、スイスのバーゼルで世界の時計・宝飾展があった日、雪深い山奥のホテルで過労で倒れレスキュー隊が来てヘリでスイス病院に運ばれることに・・・。過呼吸で大変でしたが、何とか回復し帰国しました。そのときも大失恋が重なりまたもや心身ともにボロボロ、最悪の状態でした。私っていつもそう、何に対してもとにかく突き詰めて全エネルギーを注いでしまう、それがプツッと切れたときはボロボロ。それでも身体が限界まで仕事を続けましたが、やはりどん底でした。そんなとき音楽が縁で今の主人に出会いました。主人はまさしく私の救世主となり、その後私の人生は大きく方向転換し、歌の道へと進む訳です。

―歌の道ですか?!その経緯についても聞かせてください
裕湖さん)歌は子供の頃から絵と同じくらい大好きで、学生の頃は合唱団に入っていてソプラノ(NHKに出演)の経験もありました。でもなかなか歌の道で生きていくそのチャンスに恵まれなかったので美術教諭になった訳です。主人と知り合ってからは、水を得た魚のように歌の道にのめり込んで行きました。私は会社を辞め、再び新しい第4の人生のスタートを切りました。教師~ギリシャへ~帰国後会社員を経て~歌の道へと、遠回りしたけどやっと夢が叶った気がしました。それからはバンドを結成して大阪を中心に関西エリアでライヴ活動を続けました。主人はサックスやベースの演奏を、また音響(PA)のプロなので私のキーに譜面を書きかえてくれたり・・・と、主人のおかげで私は救われ、今までとは違う安らぎを覚えました。紆余曲折ありましたが、やっと自分らしく生きていけると思いました。歌い手(Singer)としてやっていこうと決めたとき、これまでの窮屈な過去の自分に別れを告げ、生まれ変わるために、ある先生にお願いして「弥里朱華(みさとあやか)」という名前を付けて頂きました。弥里の弥は弥勒菩薩から一文字頂きました。ふるさとに根をおろしてゆったりとした心で人々に輝きと幸せを届けていけるなら・・・と。

『朱華&Bossa☆Boys』
ステージコンサートやライヴイベント等で活動

 

音楽が繋いだ縁

―純さんのこれまでの歩みについて聞かせてください
中山純さん 以下純さん)何もないで。音楽だけや。

―音楽は子供の頃から何かされてたんですか?
純さん)いや、幼稚園のとき、オルガン教室に無理やり通わされて。小学校3年生くらいまで続けとったんやけど遊ぶ方が楽しいから辞めて。うちも子供の頃から教師になるように言われ続けてきて・・・父が教師やったから、教師か公務員になれと。でも教師の道には進まなかった。

―サラリーマンとか?
純さん)音楽のできるサラリーマン笑 オーディオ機器とか好きやったから、レコードとかよく聞いたりしとって。最初レコード屋で店長として働いとってゆくゆくはそういう店しようと思ってたんやけど、とりあえず一流といわれる会社に入ろうと思って一念発起して35歳で保険会社に就職してん。それからはずっとサラリーマンしながらジャズのビッグバンド、ジャズオーケストラを立ち上げて。週末はずっと音響の仕事しとったな。僕にとって音楽は身体の一部やなぁ。

裕湖さん改め弥里朱華さん 以下朱華さん)
純ちゃん(主人)は橋本市で毎年、市の盆踊りとかのイベントの音響しててん。朝からトラックで現場まで機材運んで、設営、準備、本番、最後片付けして・・・って30年くらいやってきました。ほんま昔は毎週ほど仕事あったときもあったけど、今はコロナでイベントとか全部なくなってしまって。依頼のイベント以外は全部ボランティア精神で市に尽くして表彰されたことがあります。本人はそんなこと一言も言わない人ですが(笑)黙ってコツコツ型の人。

 PA(音響)の仕事の依頼で・・・活動中 

―お二人は出会ったときに互いにビビビと来た感じで?
朱華さん)いえ、最初はお互い全く笑 でもこの人ものすごい純粋で心が綺麗な人やなと思ってたら、ある日突然何かがおりてきてん。なぁ?純ちゃん! 

―そう言うてますけど、純さん?

純さん)笑・・・ま、なんとなくやな。
朱華さん)
この人、ほんま私と真逆で、喋らへんねん笑 お互いかまわれるの嫌うし笑 お互い干渉し合わないからうまくいってるねん私ら。なぁ?純ちゃん!

純さん)
・・・笑

ーそれが円満の秘訣?いいご関係ですね。
朱華さん)そうそう。いい感じの距離感と相手を敬い、思いやる心やね(笑)

 

喫茶店のカウンターに並べたもの

―いつ頃から靴屋の仕事をし始めたんですか?
純さん)10年くらい前からたまに手伝いさせてもらってて。入学時期とか忙しいときとか。
朱華さん)親も歳とってくるし、私も店のことがずっと気がかりで、主人と一緒にたまに帰ってきてましたので。 

―純さんにとって靴屋の仕事ってどうでした?
純さん)いや、別になんにも。手伝いできたらえぇなぁくらいで。お義父さんもお義母さんも歳いってくるし、力仕事でも何でも間に合うたらええわって。

―継ぐことになる経緯は?
朱華さん)主人と店の手伝いしてるときに母が「純ちゃん帰ってきて店してくれへんかな?」て言いだして。私自身、店のことどうしようかと気になりながらも、主人に言い出せずにいたから、それを言われたとき主人はどういう風に受け止めてるんかわからんかって。

―純さん、どうされたんですか?
純さん)その頃、保険会社って合併合併で、そのたびに息苦しさを感じとって。お義母さんから声かけてもろたとき、僕も定年まであと2年って時で。自分でもどうしよかなって思てた時とお義母さんからの声かかったタイミングが合うたというか。ほんだら、もう会社辞めるわってなって。

 

朱華さん)それで、仕事辞めてこっちに帰ってきてくれて。私も自分ひとりやったら店をどうしていこかと思てたけど、主人が一緒にやってくれるなら鬼に金棒やと思いました。 それで、主人は外回りや力仕事、私は事務的なことを引き継ぎ始めて。父ともほんま仲良くやってくれて。そのとき強く思ったんです。いつも世の為人の為と四方八方出かけてはその先々で人助けをしていた父。そんな背中を見ながら育ってきて父や母が祖父母の代から守ってきた神戸屋靴店をなくしてはいけない・・・。今まで好き勝手やって来たけど、これからは私がこの暖簾を守っていかなあかん、守っていきたいと!

―喫茶店を併設することになったきっかけというのは?
朱華さん)父が亡くなり、母も高齢になってきて・・・、母は90歳を過ぎても店番をしてくれて、凛として明るい人、商売上手で気丈夫、今はホームにいますが現役の頃は行動力のある人でした。やはり母の目の黒いうちは大がかりに店はいじれませんでした。ただ、主人にこの店をやってもらうにしてもここでじっと店番をしてもらうのはあまりにも酷だし、何か楽しみながら、居心地よく居てもらえる方法ないかなって考えたときに、喫茶店をしてコーヒーを出したら人が集まってきてくれて、それで音楽も流せたらええなって何となく思って。それで少しずつリフォームし始めたのが始まり。
純さん)
最初はこんなステージとか作る予定なかったんやけど。まず、ここ壊して片付けて綺麗にしょうかって壊したら、ここにこれこうしたらええんちがうやろか?そしたら、ここにこれ置いて・・・みたいにどんどんアイディア出てきて、その結果がこれ。笑
朱華さん)母も最初は喫茶のカウンターに靴並べだして・・・。「ちょっとちょっとお母さん!どこに置いてんの!」みたいなこともあって笑 「お母さん、私らちゃんとやっていくから、もう後は私らに任せて」って言うて笑 でもほんとにいい形で進んでいってくれてよかったなって、このままこうやって幸せに・・・って思ってたら今度は私に病気(ガン)が見つかって・・・。
ショックでした。今では心の整理もつき、いい先生にも巡り会えて治療を続けています。これは試練ですが、病気になって色々と考えさせられました。今ここにこうして自分がいるのは自分だけの力ではありません。生かされている命に感謝して、これからはこの経験を生かして微力ながらも誰かの役にたてればと思っています。病を乗り越え、元気に自分らしく歌を歌うことで少しでもみなさんに幸せを届けていくことができれば幸せ(喜び)です。今はその気持ちで頑張っています。

 

―純さん、喫茶店をすることになりましたが、何かご経験がおありだったんですか?
純さん)ない笑 コーヒーたてるのは好きで・・・。お義母さんが店番しとったとき、お義母さんの友達とか近所の人が店に来て、喋ってるの見とって。そのとき、美味しいコーヒーとか出したったらええなぁって思ってたから、それから一生懸命コーヒー豆の研究したんや・・・(笑)

朱華さん)今では年齢問わずですが、特に70~80代のお客様がいつもコーヒー飲みにきてくれて美味しいって言うてくれるのが主人の一番の喜びになっています。このコロナの時期やからお客さんが5人の日もあったら1人の日もある、でも毎日同じようにコーヒーを出し続けていけたら人が集まり町もにぎわうって思うし、それをしながら店番もしてくれる主人に感謝です。

 

 

―週末にはここでライヴをされているそうですね

純さん)そう、毎週土曜の夜にいろんなジャンルのミュージシャン達が集まって演奏して、それで楽しんでくれたら。それに、近所の人もにぎやかになってええって喜んでくれて。今後は新しくできた市役所などのイベント等で音楽を流して明るい街づくりとかできたらええなって。

―五條市で生まれ、一度は離れ、そしてまた五條に戻り、これからお商売もされていく・・・五條市についてのどのように感じてらっしゃいますか?
朱華さん)近所付き合いを大事にしたいなって思います。五條から離れてた期間が長かったので最初はほんとに五條のことを知らなかった。でも、こっちに帰ってきて徐々に五條の人との交流も増えて、そしてお店にくるご年配の方に「お母さんのことよー知っとるで」「お父さんには世話になってな」っていうてもらえるのがほんまに嬉しい。祖父母~父母の時代があっての神戸屋であり、今の私達やと思う。高齢化や過疎化、そしてデジタル化が進んでるけど、お年寄りがたくさんいるこの街ならやっぱり「人と人」のつながりがいちばん大事やなと思います。

 

昔、にぎわいを見せたこの商励会通りを少しでも取り戻したい気持ちで外のスピーカーから音楽を流しています。昭和の香りのするコーヒーの美味しい店として音楽が楽しめる明るい町づくりの何かお手伝いができたらと思っています。

―純さん、朱華さん、本日はありがとうございました。

※写真撮影時のみマスクを外していただきました。

 

 

絵本作家の長谷川義史さんとギリシャのお酒でカンパイ

 

 

 

 

 

 

 

☆リニューアルオープン当日、毎日放送ちちんぷいぷい「とびだせ!えほん!」のコーナーの取材も☆

 

 

 

 

 

 

 

 

神戸屋靴店・喫茶神戸屋

営業時間 火~土:10:00~17:00
金・土:18:00~ライヴ ※ライヴスケジュールはお問合せください
定 休 日 日曜日・月曜日
駐 車 場 有(店の手前50m北)中矢青果店裏
住   所 〒637-0005
奈良県五條市須恵1丁目3-18
TEL(FAX) 0747-22-2289
※詳細はお問合せください
※コンサート・ライヴ・各種イベント音響(PA)
店舗等音響プランナー
 アドバイザー等 承ります

 


☆スタッフHのすぽっとwrite☆

コロナ禍で控えていたインタビューを1年ぶりに再開。
久々の取材の緊張とこんな素敵な方が五條にいらしたんだというワクワク感。
序盤から朱華さんのお話に引き込まれた・・・が、中盤あたりでうまく記事にまとめられるかと内心焦りだした。

「ちょっと休憩したら?」とコーヒーを出してくれた純さん。経験がないというのに板につきすぎている喫茶マスターのエプロン姿。そして足元はどこか見覚えのあるサンダル。「それって・・・?!」「そう・・・高校の生徒さんの校内用のやつ。これ、えーねん、きつ過ぎず緩すぎず、ほんまに」と、販売店主がというより、純さんが言うんだから間違いないと思わせる雰囲気がある。たててくれたコーヒーが美味しかったのも言うまでもない。

取材の緊張、集中と、昭和レトロな店内、ブレイクタイム。生演奏の迫力と音楽の心地よさ。刺激あり、癒しあり、安心感あり・・・きっとこれも「きつすぎず、緩すぎず」?なんですよね笑

トニカク素敵な神戸屋、そしてお二人に出会えたインタビューでした。