Tag Archives: すぽっとらい燈

第77回 池田精肉店 土谷輝生さん 土谷政恵さん

祖父の代から80年超
愛され続けるコロッケは毎日「手作り」

五條の名物・五條市民のごはんのお供、長年愛され続ける「池田のコロッケ」。
本陣交差点や大川橋、新町通りを目の前に、五條の歴史と共に歩んできた池田精肉店さんにインタビューしてきました。

歩みについて

―池田精肉店さんの歩みについて聞かせてください。
土谷政恵さん(つちやまさえさん 以下 政恵さん)祖父が大正時代に始めたのかな・・・最初は行商みたいな形態から始めたと思うんですよね。当時は電車もなくディーゼル?だったと思いますが、肉を仕入れてきて、リヤカーでここまで運んできて。その頃はお店はここじゃなかったみたいやけどね。
土谷輝生さん(つちやてるおさん 以下輝生さん)肉屋としてはね、ここの曾おじいちゃんがうちのおじいちゃんのと一緒に最初、商励会通りでやってたみたい。でも戦争で兄が亡くなってそれで弟(うちの祖父)が引き継いだのか、後に独立してお店を始めたみたいです。そのもっと大昔は牧場をやってたみたいで、牛を育てて、それを売ってた。昔はほら、耕運機のかわりに牛を使ってたやん。トラクター替わりね。その牛を育てて売ってたみたい。
政恵さん)牧場やりながらだんだん食用へと移っていったのかな。

政恵さんのお母さん 以下お母さん)おじいさんが肉屋始めたんは大正10年(1921年)やね。(82歳のおばあちゃんの記憶による)
輝生さん)じゃ、もう100年以上続いてるってことやね。一回、役所にも問い合わせたことあるんやけど、役所ができる前の事って調べるのが難しいらしくて。保健所も資料を持ち合わせてなくて、詳しいことは分からないんですよね。

―では輝生さん政恵さんは四代目?ということですね。
政恵さん)そうなりますね・・・、うーん、まぁ、でも実は今も店主は母で。高齢なので、これしてあれしてって感じで私達がやってるだけで、はっきりと今「誰が」とか「継いだ」とかっていう感覚はなくて、みんなで一緒にしてるって感じです。

―子供の頃、おうちがお店をしていることをどんな風に感じてらっしゃいましたか?
政恵さん)やっぱりね、よそのサラリーマン家庭のおうちに比べて、うちは従業員さんも居て毎日バタバタと忙しくしてて・・・。お友達が日曜日に家族とお出かけしたり、夏休みに旅行に行ったりしてるのをみて、うらやましいなと思ったことはありました。

―お手伝いなどもされてたんでしょうか?
政恵さん)高校生、大学生のときは手伝ったりしてましたね。

―卒業後はもうお店を手伝うかたちで?
政恵さん)
いえ、結婚して大阪に住んでました。普通にサラリーマンの嫁で。
で、主人がこっちでレンタルビデオ屋と漫画喫茶をやり始めて。その頃からお店を手伝い始め今に至ります。
輝生さん)当時肉屋の方には長年勤めてくれてた職人さんがいました。でもその方も高齢になり「これから池田(のお店)どないすんねん」と・・・。僕が引き継いでいかないと・・・と思っていたことではあったので、「はい。僕がさせてもらいます」と。それで、いろんなことを教えてもらったり覚えたりするのは当然片手間にできることではないのでビデオ屋や漫画喫茶の方はやめて、それからずっとここで家族と一緒にやっています

 

愛されるコロッケはすべて「てづくり」

―池田精肉店さんの一日はどんなことから始まりますか?
政恵さん)まずは、コロッケの芋を炊くところからですかね。芋を洗って皮をむいてそれを炊きます。それから次の工程、芋をつぶして・・・と進んでいきますが、それは私ではなくて、他の従業員さんが担当してくれてます。

―現在 何名でお店を切り盛りされてますか?
政恵さん)私達と息子、そして従業員さん・・・。シフトによって変わりますが、常に5名は必ずお店にいますね。

―1日どれくらいのお客様が来られますか?あと来店人数の多い曜日や、お客様の年齢層についてはいかがですか?
政恵さん)人数は分からないですが、土曜日は平日の倍近くのお客様が来られます。うちの定休日が日曜っていうのもあるかもしれないですね。今はスーパーでパック入りのお肉を買われる方多いと思いますが、土日の特別な日に買いに来てくださるのか、土曜日がお客様多いです。年齢層は揚げ物に関しては幅広い年齢のお客様に買っていただいてるのと、意外と男性客が多いですね。お肉の販売はご年配のお客様が多いという印象です。

―今や地域になくてはならない存在の池田精肉店さんですが、お店の特徴、強みは何ですか?
政恵さん)やはりそれはもう、祖父が作り上げたコロッケですね。肉屋さんがコロッケなどを販売するのは、仕入れたお肉に商品として使える部分とそうでない部分(提供可否)があって、その提供できない部分をコロッケとかミンチカツの材料として使えるからでもあるんです。ありがたいことに祖父が作ったコロッケは当店の名物みたいに皆さんに愛され、お買い求めいただき続けてるのはほんとに嬉しいですね。

―その大人気の「コロッケ」はいつ頃から始めたんですか?
輝生さん)おじいさんがこっち(現店舗)に来た時から始めたと思うけど、いつ頃この店に移ったんかな。
お母さん)昭和15年にこの店に移ったと思うよ。
輝生さん)あー、じゃあコロッケはもう80年以上前からや。
政恵さん)そんな前??その時代にフライヤーとかなかったでしょう?笑
輝生さん)そっか、違うか・・・うん?いや、お鍋とかで揚げてたんちゃう?辻さん(90代のお知り合い)が10代の後半にお店に来たときにはもうコロッケやってたって言ってたもん。それくらいの年代のおじいちゃんやおばあちゃんに聞かないとわからなくてね笑

―1日どれくらいの数を作られるんですか?
輝生さん)数というよりかね、ちょっとこっち来てみて。お芋さんを洗って皮をむく作業をこの機械がやってくれて、その後この釜でお芋さんを炊くんだけど、この釜に入る分の芋をつぶしてコロッケにしてるから何個っていうカウントしてないねん。この釜、一釜分、だいたいね、キロでいうと20キロくらいかな。

 

 

 

 

 

 

 

―20キロ・・・。ちょっとピンとこないです笑
輝生さん)そうだよね。で、結構知られてないのが毎日その日の分「手作り」してるってこと。逆に言えば、手作りじゃないと思ってる方が意外と多い・・・。

―え?
輝生さん)
冷凍のままちょうだいって言われたりするんで、ほら、スーパーとかで売ってるあんな状態で置いていると思ってる方もいるみたいで。

―いや、めちゃめちゃ手作りですよね。毎朝お芋を洗って皮をむいて茹でて・・・、それから・・・
輝生さん)つぶしてお肉と混ぜて味付けして、成型して冷まして衣つけて揚げて袋に入れて売る・・・80円。どう?笑

―すべて手作りでそのお値段!私達は嬉しい限りですが・・・
政恵さん)まぁね・・・。コロッケっていうのは市場的にはやっぱり庶民的?っていう感覚があるからそんなもんかなと思うですけどね。最近、芋も高いんですけどね笑 昔はスーパーでも一袋100円とかだったのに今そんな値段でないしょ?笑

―そうですよね!何もかも値上がりしてて。
輝生さん)油も3倍くらいになってるもん。
政恵さん)そうやねー。

―揚げる油も何か特定のものを使用されてるんですか?
輝生さん)うちはラードで揚げてる。

―家庭ではサラダ油が一般的かと思うのですが、ラードで揚げるとどう違うんですか?
輝生さん)揚がり方。サラダ油かヘッド(牛)かラード(豚)で同じものを揚げても仕上がりが全然違うやん?

―そ、そうなんですか?
輝生さん)サラダ油で揚げると時間経つとべちゃっとならへん?

―なりますなります。
輝生さん)ラードはなれへんねん。カラッとしてるねん。それを考えてラードにしたんだと思う。

―ラードで揚げるっていうのも祖父様の時代から?
政恵さん)そうです。それにサラダ油だと酸化するから捨てないといけないですけど、ラードとかヘッドはずっと継ぎ足しで使っていけるんです。

―重要な味付けは昔から受け継いだものなんですよね。
政恵さん)そうです。
輝生さん)極秘で。味付けはもうここ(政恵さんとお母さん)しか知らん笑。俺知らんもん笑
政恵さん)笑笑 まぁまぁまぁ・・・笑
輝生さん)一子相伝やで。
政恵さん)たまに味変わったなとか、ちっさなったなーとか言われることあるんですけど、「いや変わってないです!」って笑 昔から同じ型使って成型してますしね。お店によっては材料にマッシュポテト(つぶした状態のもの)を使うところがあるんですが、うちは先ほどからお話したように芋からなのでそこはやっぱり絶対にこだわって作ってると言いたいところですね。
輝生さん)芋は湯がくより、皮むきが大変。やったことある?笑

―ありますよー笑 いちおうこれでも主婦のハシクレなんで笑
輝生さん)めっちゃ大変やろ?皮むくの?

―はい。ま、ピーラーを使いますが笑
輝生さん)うちは機械でむくんやけどな、大変。

―お芋の種類は?
政恵さん)男爵です。
輝生さん)基本は北海道のお芋さん。春先から夏前の北海道の芋がなくなる2~3ケ月だけ別の新じゃがを使うけど、基本は北海道男爵。
政恵さん)重さもずっしりあって、甘味も味もしっかりしてて、ほくほくしてます。

―コロッケ作りで大切にしていることは何ですか?
輝生さん)毎日作ってるってこと。作り置きをせず毎日全部手作り。従業員さんたちは手がすいたら串カツ作ったり、ハムを切ったり。衣をつけたまま長時間置かないようにしてる。じゃないと衣が水分吸ってしまって揚げると真っ黒になるから。

―今日はコロッケ足りなくなった・・・って時は?
輝生さん)閉店・・・?笑
政恵さん)一日一釜(湯がく)って決めてるんで、もうそれ以上は作らないですね。ただお盆とか年末など帰省で皆が帰ってくる時期は2回炊いたりしますね。

 

池田精肉店広報担当

―2022年にLINE公式アカウントを開設されてますが、その経緯は?
政恵さん)どうやったかな?
輝生さん)電話かかってきて、今無料でこういうのできますけどどうですか?ってやり始めた。
奥さん)??・・・いやいやいやいや・・・ちゃうちゃうちゃう
輝生さん)そうだって。
政恵さん)違う・・・私、調べてん。自分で。無料でそういうサイト作られへんかなって。注文の予約をスムーズにできるサイト作れないかなって色々見てたら無料でできるサイトを見つけて。そこからLINEと連携できる事が分かって自分で全部やったもん。そんなん向こうからしませんかって電話かかってきてないで。
輝生さん)え!? ほんまに?

―まぁまぁまぁまぁ笑・・・ではもしかしてインスタグラムの投稿も・・・?
政恵さん)全部、私笑 誰もやってくれないもん笑

―投稿ネタの感じから、てっきり息子さんか誰かがされてると・・・笑
政恵さん)それよく言われます。だいぶしんどいんですよ、ネタ考えるのが笑 だからネタが尽きたら投稿ストップ笑
輝生さん)息子は息子で忙しいんでねー。
政恵さん)私も忙しいねん。だから家帰ってからやってるねん。

―まぁまぁまぁ笑  実際LINEでの注文はどうですか?お友達登録が1000名突破されてますよね。
政恵さん)はい、ありがとうございます。お客様も、LINEで注文するのが楽と言ってくださいます。こちらとしても電話での聞き間違いの解消や、時間の短縮もできてよかったです。

―インスタ投稿主が政恵さんだと判明したところでもう一点気になってたんですが・・・。以前、店舗前にマスク姿のかわいいぬいぐるみを見ましたが。あれは?
政恵さん)私。笑 コロナ禍にただアルコール消毒をボンと置くだけだと何か冷たい感じがするから、何かこう・・・、なめこちゃん(ぬいぐるみのキャラクター)
にマスクさせて、「ま、アルコール消毒やってちょうだいよ♪」みたいなね笑 うちの娘が持ってたぬいぐるみがあったんで。その頃はマスクさせてたから何か可愛かってんけど、マスク外してそのまま置くと何?って感じやから、その後、冬はニット帽被せてみたり?WBCのときはユニフォーム着せてみたり?しててんけどね。

―不二家のペコちゃんみたいな感じで?笑
政恵さん)違う違う

―今日は居なかったですけど?
政恵さん)ネタ切れ。笑

―そういう演出も全部政恵さんがされてたとは。ただただ驚きです笑
政恵さん)そうですよー全部私ー!笑

俺は「池田」で

―定休日は日曜日のみですね。池田精肉店さんにとっての貴重な休日は何されてますか?
政恵さん)ほんまにバッタバタです。週1回の休みやからちょっとゆっくりしてから・・じゃない。動かんと損!?て感じで買い物行って、喫茶店行ったり、それでまた何かして・・・。それはもう息子も同じで毎週日曜日、空いてる時ないですもん。山行ったり、海行ったり。旦那もテニス行ったり、みんなそれぞれです。

―息子さんが継いでくださるのは頼もしいですね。
政恵さん)はい、もうそれはありがたいことに。小学校のときから言うてましたよ。「俺はもう”池田で”」って笑

―何か今後とりいれてみたいこと、やってみたいことはありますか?
政恵さん)働き手もだんだん少なくなってきてるから、仮に大きくしようと思っても、無理がありますよね。今、海外の方を雇用されてるところ増えてきてるじゃないですか。そういう風にできるんであれば考えていけるかもしれないですけど、いまのところ家族経営プラス来てもらってる従業員さんのキャパでやっていける範囲でなので、まだちょっとわからないですね。

―お店は新町通りや大川橋も近く、付近でのいろんな行事や時代の移り変わりを目にしてきたかと思いますが、五條市についてどのように感じますか?
政恵さん)子供の頃は、新町通りもただの古い街並みっていうだけで特に何も思いませんでしたが、今は道も綺麗に整備されて、古民家を再生したお店とかも増えてきましたよね。観光客も少しずつ増え、そういった感じでこれからもお店や観光客が増えていけばいいなと思います。駐車場の整備などは取り組んでほしいですね。でも若い世代がいなくなってしまって、何かこう、若い世代が働いていける企業や工場の誘致とか、大学とかができれば違うんでしょうけど、五條にいてても・・・て、みんな出ていっちゃうじゃないですか実際。
中央公園には市外からも子供連れが大勢遊びに来るようで、帰りにお店に寄って買って帰ってくれます。そういう公園があるのはいいなと思いますね。やっぱり人が集まるようなものがないとってことですよね。

―輝生さん、政恵さん、お母さん、本日はありがとうございました。

住  所 五條市五條1丁目9-23
電話番号 0747-22-2437
営業時間 9:30~18:45
定 休 日 日曜日・臨時休業

 


☆スタッフHのすぽっとwrite☆

家でコロッケを作ったことありません。
冷凍を揚げても大失敗。なのでワタクシ、主婦のハシクレは今後も家でコロッケを作る気も揚げる気もありません笑。だってあんなに美味しい「てづくりコロッケ・ハムカツ・串カツ・・・」が池田さんにあるんですから。

お忙しい中、つたない取材に快くお応えいただき楽しいひとときでした。なのでワタクシ、インタビュアーのハシクレは、この記事を通してお店やコロッケのこと、そしてSNSやなめこちゃんディスプレイはぜーーんぶ、政恵さん発信なんだということを少しでも多くの皆様に知ってもらえたら嬉しいです笑。

店先の“幸せコロッケ香”に包まれ出迎えてくれたあのなめこちゃんにまた会えるのを楽しみにしています♪

 

第73回 山本美容室 原谷裕子さん・山本智子さん / Lash fully 岡佳苗さん

求められる間は続けたい「美と癒しのお手伝い」
それが私達の活力

左:原谷裕子さん 右:山本智子さん

重伝建の街並みに溶け込む店先に暖簾が揺れる。何屋さん?興味から中の様子を伺う方も・・・と話す2代目裕子さん智子さん姉妹のお店は一見「美容室らしくない」。が、取材後には一転、外観も暖簾も全て「山本美容室らしさ」に感じられる。
まつ毛エクステ「Lash fully」を併設する裕子さんの長女佳苗さんと共に営む山本美容室は、歴代ワンコと新入りニャンコ、ここに居る方、訪れる方が癒し癒され歩んできた場所。これまでの歩みや思い出、ご趣味や楽しいトークを聞かせていただきました。

それぞれの思い出

―山本美容室の歩みについて聞かせていただけますか
長女、原谷裕子さん:以下裕子さん)母が美容師の免許取ってすぐにお店を始めたんじゃないかな。母の修行先でもあった3件隣の小林美容室さん(現在は駐車場)の移転をきっかけに、その店舗を引き継いで昭和24年に開業しました。ここに移転したのは昭和33年・・・、その翌年に伊勢湾台風の災害にあったんです。

―移転した翌年に・・・。そのときのこと覚えてらっしゃいますか?
裕子さん)覚えてます。そのとき私は小学校1年生で、それはもうすごかったことを覚えています。ほんとにすごかった・・・。上まで浸かって。だから壁に浸かった跡の筋がついてたよね?
次女、山本智子さん:以下智子さん)そう・・・、そのときにお雛さんが流れてしまってね。だから、うち三人姉妹なんだけど、お雛さんの思い出がないんです。

―その後ずっとお店を守り続けてるんですね。とても素敵なお店ですが、改装を?
裕子さん)新町通りが重伝建に指定されたとき(2010年)に改装しました。改装中、壁を一旦取っ払ったときは焼け跡のような真っ黒な骨組みが出てきてびっくりしました。当時で築160年くらいだと聞きました。
智子さん)隣と奥の建物は昔はつながっていて、ここは料亭だった様です。この辺りは宿場町だったので舟から上がって来た方達が利用してたんじゃないでしょうか。

―宿場町でとても賑わってたんでしょうね。
裕子さん)そうですね。河原に舟がとまってた風景を覚えてます。
智子さん)上の方から木を組んで筏にして流れてくるのね。トラックじゃなく当時は川を流して運んできて。その先の川端二見の貯木場に集まった木を今度は汽車に積んで・・・。ほんとに昔ですね、昭和30年代かな。この通りにも魚屋さんとかすごくたくさんのお店があったよね。
裕子さん)そうそう、お風呂屋さんとかもあったよね。

―裕子さんがお店を引き継いだのはいつ頃ですか?
裕子さん)平成10年に、母が引退するタイミングでお店を継ぎました。

―裕子さんはやはり小さい頃から美容師を目指してたんですか?
裕子さん)もうずっと洗脳されて育ったって感じですよね笑 高校出て美容学校行ってインターン行って2年ほど大阪に居て22~23歳くらいに帰って来たのかな・・・。子供の頃、お店がすごく忙しくて、私が小学校2~3年の時から家事、ご飯作りとか結構言われてね笑。
智子さん)年末とか、季節の行事のときはほんとに忙しかったから、私の小学校の入学式はこの人(裕子さん当時4年生)が付き添いしてくれましたから笑
裕子さん)しっかり覚えてるな~笑 私があんたの入学式の付き添い行ったの?笑
智子さん)そうやで笑

―智子さんは美容の道へは進まなかったんですか?
智子さん)はい。お店は姉が継ぐもんだ、私は外へ出るもんだみたいな感じで、自然とそうなりましたね。高校出てから京都に居てて、そこで色々して、いつこっちに帰って来たんだろ?そうそう、平成7年に帰ってきたんです。父親の具合が悪くなったのもあって戻って来て。そのときは継ぐ気も何もなかったんですけど、母も父に付きっきりになりましたので、お店を手伝ったり雑用係みたいな感じで。
裕子さん)そうやったね、旦那も連れて帰って来たのよね笑
智子さん)そうそう笑

―時代と共に美容室のスタイルも変化しましたか?
裕子さん)母の時代は結い上げ、アップといったセットの時代ですよね。当時はまだお正月に着物を着る習慣が残ってましたので、そのセットとかね。
智子さん)花嫁さんがお家から嫁いでいった時代なのでお家にお邪魔して着付けや化粧、かづらのセットもしてましたね。
裕子さん)徐々にセットのスタイルはなくなって、パーマでもこういう中に入るっていうのもなくなりましたよね。今では当たり前ですが、予約制を取り入れた当初はお客様に怒られたり。「すぐ行かれへん」とかって。
智子さん)昔は美容院て、何だろな・・・文化というか一種の社交場だったんですよね。ここへ来て順番待ちながらお話して、そこで息抜きするみたいな場所。だから予約制にすると、ここで近所の方と会う機会がなくなってしまったんですよね。こちらとしては効率化も考えて取り入れたんですが、お客さんにとっては寂しかったのかもしれませんね。

趣味と癒し

―智子さんは鞄作家とお聞きしましたが?
智子さん)いえいえ、作家ではないですないです。趣味でしているだけです。ただ編み物が好きなことから始めたんです。

―セーターとかではなくて鞄を編むって難しくないですか?
智子さん)笑笑 セーターだと、前身ごろと後身ごろと袖を編まないといけないじゃないですか・・・それめっちゃ苦手で笑 一発で作り上げたい・・・それが理由です笑 だいたいのイメージで作ってるんだけどイメージ通りいった試しがない笑 以前は大きいバッグを作ってたんですけど、最近は小さいバッグをいろいろ挑戦しています。セーターだと主に毛糸で編みますけど、鞄だといろんな素材で編めますからね。
裕子さん)これなんかは和紙でできた紐で編んでます。だからすごく軽いんです。何回もほどいては考え・・・ってやってるよね。

―裕子さんも鞄を作ってるんですか?
裕子さん)はい。私はミシンで作るタイプの鞄です。20年ほど前はこういう人形を作ってたんですよ。それが何で鞄になったん?て皆に言われるんですけど、細かい作業が大変になって。でも、こういう何か作るっていうのが好きで時間があったらひたすらミシンを踏んでます。


―作品は展示や販売などされてるんですか?
裕子さん)はい、今は月に1回のイベントによんでいただいて販売しています。
智子さん)近くに刺繍作家の方がいらして、その方のイベントに参加させていただいたり、以前は高野山で開催されるクラフト作家のイベントにもよんでいただきました。

―ほんとにお好きなんですね。そしてお二人とも器用でいらっしゃいますね。
裕子さん)いえいえ、そんなことないです。やっぱり、極めてないのよね笑
智子さん)そうそう、器用貧乏っていうのかな笑。
裕子さん)もうほんと、楽しんでるだけで結果はついてきてないんです笑。いろんなお客さん来てくれて出会うのが楽しい・・・そんな感じですね。うちってお客様を待つ商売じゃないですか。その待ち時間とかお昼休み、合間合間の時間を使って編んだり、ミシン踏んだりしてるんです。

―ワンちゃんのお写真がたくさんありますが?
裕子さん)うちの歴代犬の写真です。この子が去年の夏に亡くなって。いつもここで一緒に居た子だったからお客様も「あれ?わんちゃんは?」って気にしてくれて。20年くらいずっとうちにはわんこが居ましたから。うちの美容室=犬だったんです。 

―大きくて存在感があって、癒しですよね。
裕子さん)そう、すごい癒しです。すごくおとなしくて、じっと見守ってくれてる感じで。

―今は猫ちゃんがいるとか?
智子さん)そうなんです。生まれてすぐ親猫がいなくなってしまったのか一晩中鳴いてたのを保護したんです。
裕子さん)冷たくなっててもう助からないと思ったけど、もうほんとに小さくて、87gだったかな、なのにしっかり鳴いてて。夜中2時間おきにスポイドでミルクあげて無事大きくなってくれました。
智子さん)すごいやんちゃで、仏壇が好きで暇さえあれば仏壇に入ってる笑
裕子さん)あれ、狭いから落ち着くのかな笑
智子さん)位牌は倒すし、線香立てはひっくり返して灰まみれにするしでもう大変・・・笑

 ―でもかわいいですよね。
裕子さん智子さん)はい笑

まつ毛エクステ「Lash fully」
岡佳苗さん

私ができた旅立ちのお手伝い

―佳苗さんが美容の道へ進まれた経緯についてお聞かせください。
私はもう決まっているかのように、ここで母と一緒に働くんだと子供の頃から思ってたんです。祖母にも子供の頃から、あんたが継ぐんやで~ 代々そうやっていくんやで~みたいにずっと言われてて笑 母がめちゃくちゃ忙しかったんで、祖母が母親変わりだったんですよね。美容の仕事が好きというのは大前提ですけど、私は髪の毛よりもまつ毛とかエステとかの方が好きだったんで、美容師免許取得後、ずっとまつ毛のお仕事をしています。美容室には既に母にお客さんがついてましたし、私は何か違う方でお客さんを広げようと思ったんです。

―美容師免許取得後すぐにこちらでお店を?
いえ、大阪のエステサロンで勤めていて、そこでまつ毛エクステと出会いました。いつかは独立しようと思ってたんですけど、そうですね・・・、そのタイミングが26歳の時にきて、ここでお店を始めました。早い独立だったので色々心配もありましたし、まわりから田舎では失敗するやろう・・・とか言われたりもしたんですが、ちょうどマツエクが流行り出した頃というのあって、お客様も来てくださって、結構こっち(五條)でも需要があるんだって思いましたね。

―都会でされてたときと比べてどうですか?
そうですね。流行りを追う都会に比べると、髪が伸びたら切るのと同じ感覚というか、マツエクが外れたら行くって感じで生活の一部として考えてくれてますので、「定番」の気に入ってもらったものをつける、っていうスタイルでさせてもらっています。

―店名「Lashfully」の由来は?
ニューヨークの「Lashfully」というお店をネットで見つけて何かいいなって思って。Lash(まつ毛)がfull(フル)ってことで。若い頃、ニューヨークへ旅行して以来、ニューヨークが大好きなんです。

―どういったお客様が多いですか?
高校生から上は80,90代の方まで、幅広い年齢層の方に来ていただいてます。都会では来店客の年齢層が割と区切られてたんですけど、こっちではいろんな年代のお客さんと接することができるのでそこがいちばん楽しいというかいいところだなと思っています。

―お店の紹介は主にSNSですか?
SNS、めっちゃ頑張りました笑 ブログ書いたり、リーフ作って駅で配ったり、ポスティングしたり。でも一番強かったのは新聞でしたね。当時新聞に載せるのがこの辺りではいちばんいいって聞いて、ちょうど何かのキャンペーンだったかな?母の方の美容室を掲載する時に一緒に載せてもらったら、それが一番反響があって。時代や地域性だったのかもしれないですけど、新聞をみていただいて広まったって感じですね。

―1日どれくらいのお客様を施術されますか?
今は子育て中なので1日に3組と決めさせてもらって、週5日しています。

―今までで印象に残った出来事はありますか?
もう亡くなられた方なんですが、ちょっと遠いところからずっと歩いて通ってくださってた80代後半のお客様がいらしたんです。最後にいらしたときは施術ベッドからひとりで起き上がれなくて、初めて「タクシーよんで」っておっしゃったんです。その1週間後にその方は亡くなられたんですけど、そのとき「美」って女性にとってすごい大事なんだなってほんとに思ったんです。私、お葬式に行かせていただいたんですけど、後に、最後の旅立ちに立ち会った方から、死に顔がとても綺麗だったよ、良かったねって言っていただいて、何か嬉しいって言ったら言葉が違うかもしれないですけど、このお仕事してて、何か自分にもできることがあるんだなって。お客様が亡くなられた後のお話まで聞かせてもらって、お役に立てたことがあるんだなって思いました。

―佳苗さんのところに綺麗にしてもらいに行くことが気力、楽しみだったんでしょうね。
そうですね、うれしいです。

―施術中はお客様とどんなお話をされますか?
今日の夕飯何作るんですか?とかそんな話ですよ笑。主婦の会話です。白菜あるんですけど、どう(調理)します?とか笑 最近流行ってる美容の話をしたり、海外ドラマの話とか色々・・・ほんと普通の女子トークです。寝はる人はすぐ寝ますね笑

―どういったお店にしていきたいですか?
求められる間はずっと続けたいなって思ってます。今来ていただいてるお客様もほんと長く来ていただいてる方多いので。あとは有資格者の方に技術のレクチャーもしていきたいです。

―お母さまは鞄作りがご趣味でしたが、佳苗さんは?
私は結構アウトドア派なんですよね。海行ったりとか、そっちの方が好きです。自然に癒されに行きます。今は子育て中なのでなかなか行けないですが、休みの日は公園に行ったりします。

ー佳苗さんありがとうございました。

 

お客様と共に歳を重ねて

―これまでの人生を振り返ってみていかかですか?
裕子さん)とにかく忙しすぎて駆け抜けてきた感じ。だからほんと子育てとかあまり覚えてないのよね笑 ご飯作りはずっと妹がしてくれてたし、習い事も全部母が連れて行ってくれて。上靴とか私、洗ったことなくて笑。ほんとみんなに助けられて、ただただ感謝です。今度は私が娘の子育てを手伝ってあげないとね。

―五條市についてどのように感じますか?
裕子さん)そうですね、閉鎖的だなと思います。
智子さん)人口も減ってきてるし交通のアクセスも悪い。最近新町通りでも増えてきた空き家問題。それでも何かできることはあるんじゃないかなと思います。何か新しいことを始めるときにはもっと女性の意見を取り入れてほしいなと思います。昔、新町の良さを発信したくてかげろう座の前身『ワンデーズギャラリー』を立ち上げました。その後数年間はかげろう座でにぎわいを見せましたが、いつしかそれもなくなり、あれほどのにぎわいは未だないですよね。かげろう座はとてもいいイベントでしたので、ああいうのをまた考えてほしいなと思いますね。
裕子さん)かげろう座では、ここも喫茶店にしたんですよ。たくさんの方が来てくれて、楽しかったってみんな言ってくれました。たった1日だったけどすごく楽しかったって。

―お二人姉妹とても仲が良いですね。
智子さん)親が忙しかったから昔から何でも自分達女3人でやってきてたからかな。
裕子さん)彼女(智子)は真ん中で一番しっかりしてて、私は長女でなんかずっとぼーっとしてましたけどね笑
智子さん)歳取ってくると特に、お互いしかいないしって感じですよね。何となく流れで私が山本の姓を継いでますし、何となくそうなっちゃったんです笑。だから、私の方が「お姉ちゃん?」ってよく言われます笑 

 ―そして、お二人ともとってもおしゃれで素敵です!
智子さん)いえいえ・・・そんなことないですよ。ただ好きなんです。お洋服とか。
裕子さん)元気になりますやん。お洋服の力っていうのかな。

 ―ではお洋服などお買い物は一緒に?
裕子さん)はい、鞄作りの材料を仕入れに本町(大阪)へ行って、そのついでに。でも好みのお店のお洋服もだんだん似合わなくなってくるのよね、体型がほら、下がってくるでしょ笑

 ―お料理なんかもお好きで?
裕子さん)この人(智子)はね。だから18日はお味噌作り。二人で毎年仕込むの。今度、18日やんな?
智子さん)そう、18日。

―今後はどういったお店にしていきたいですか?
裕子さん)私も70歳なのであと10年はできるかな・・・ていうかしたいなって。といって、もうちょっと頑張ってるかもしれないし、早めに引退してるかもしれないし。今でも目が見えにくくなったり、ブローしながらの会話が聞こえにくくなったり・・・いろいろありますけど笑
智子さん)お客様がいらっしゃる限りはやっぱり続けていきたいですね、たとえ一人になってもしようなっていつも話してんねんな?
裕子さん)そうそう。吉行あぐり※みたいに生涯現役で笑

※90歳を過ぎても、馴染み客限定で美容師として仕事を続けていたが、2005年(平成17年)に閉店。日本の美容師免許所持者最高齢だった。

智子さん)お客様も高齢化で、最近お顔見ないなと思ったら施設に入られたとか、「入院してたの」「骨折して・・・」そういうの最近増えてきました。仕事が先細りになるのは確かですが、我々も歳とっていきますんで、お客様と一緒に歳を重ねていくって感じですね。

 裕子さん・智子さん)長引いたコロナ禍で、久々にカットに来られたお客様は何となく元気がなく、疲れたご様子なんですよね。お出かけできなかったり、人と会う機会が減ってしまったからでしょうか。でもヘアを整えると驚くほど元気になって帰られるんです。そういった姿を見ることで私達も元気になれるし活力なんですよね。これからもお客様の美と癒しのお手伝いができればと思っています。

―裕子さん、智子さん、佳苗さん、本日はありがとうございました。

 

山本美容室  
住所 五條市新町1丁目10-14
電話 0747-22-5421
営業時間 8:30~17:00 (予約優先)
定休日 毎週月曜日・第2月・火曜日・第3日・月曜日
駐車場 有 (店舗横)

☆スタッフHのすぽっとwrite☆

「鞄作家」「子猫の保護」すぽっとらい燈ファン?の方から山本美容室についてこの2つの情報を入手しました。一旦持ち帰ることなくその場で取材の取り次ぎを依頼したのは、取材歴8年のワタクシの直感とでもいいましょうか?笑 でも、ほら的中。こんな素敵な方達と出会えました。おふたりが作った鞄はもちろん素敵で取材時一目惚れした大きなバックは買い物に旅行にと大活躍中です。

まわりから姐さん姐さんと呼ばれている私ですが兄弟は兄二人。女姉妹、特に姉が欲しかったんですよねー。姉妹で買い物、姉妹で味噌作り、鞄作り。ほんとうらやましい。裕子さん、智子さん、どうか「姐さん」と呼ばせてください。そしてこんな私を「妹」だと思って?(笑)これからもよろしくお願いします(⌒∇⌒)

 

第66回 神戸屋靴店・喫茶神戸屋 中山純さん・中山裕湖さんご夫妻

音楽で人を幸せにできたら 神戸屋の暖簾を守りながら

 

シャッター街と化した寂しげな商店街に灯りがともり、心地よい音楽が流れてくる粋なお店がある。五條市で初めて靴屋を営んだという神戸屋靴店。2021年1月、喫茶神戸屋を併設リニューアルし、靴屋の四代目を受け継いだ裕湖さん(弥里朱華(みさとあやか)さん)は「美術教諭を経て青春時代をギリシャで過ごし、絵画の世界から転身した異色のラテン・ジャズシンガー」、そして喫茶マスターのご主人、中山純さんは音響のプロであり、サックスやベース、いくつもの楽器を演奏するミュージシャン。心地いいジャズの流れる店内で、興味深いお二人の人生のストーリーを裕湖さん(朱華さん)中心におうかがいしました。

引かれたレールから羽ばたいて

―まずは神戸屋靴店さんの創業について教えていただけますか
中山裕湖さん 以下裕湖さん)私のひいおばあちゃんの代からここで商売をしていて元々は雑貨屋だったと聞いてます。それが、時代が高度成長期手前、(履物が)下駄や草履の時代から靴へと変わる頃、店先に並べた靴が売れたので新しく出してきて並べる、そしたらまたすぐ売れる・・・そんな光景を目にした祖母が「これはいける!」と思ったのか、そこから「靴屋」を始めたそうです。
祖母はあの時代の女性にしてはとても精力的で、靴屋で儲けたお金で旅館を建て、その後も鰻寿司、スナック、薬屋、鍼灸院と先見の明で次々と商売を始め、ひとかたならぬ苦労をした人だったと思います。

―店名「神戸屋」というのは?
裕湖さん)創業当時から「神戸屋」という名前やったのかどうかはわからないのですが、祖母が靴屋を始めた頃、神戸市によく仕入れに行っていたそうです。仕入れては売れ、また仕入れ・・・ここと神戸市を何往復もしたと。そこから「神戸屋」になったんかもしれません。神戸は履物のまちやしね。当時は靴職人が靴を作る時代で、うちにも職人さんがいたそうです。その技術を祖父、そして父が受け継いで、学校から帰ってくると母はお店で靴の販売を、父は一日中仕事場でこつこつと作業している姿をよく見ました。父母共に人に施しをする気持ちを忘れたことのない人でした。それが今の商売へとつなげてくれているのだと日々感謝しています。

―4代目として靴屋を継がれたわけですが、いつ頃から継ぐという方向になったんでしょうか
裕湖さん)そんな両親は私を教師にさせたかったので子供の頃から、お絵かき、そろばん、ピアノ、お習字、日本舞踊・・・毎日いろんな習い事をさせました。中でも私はお絵かきと歌が大好きで、そこら中の壁に絵を描きまくっては怒られてました。でも小学校5年生の頃から、家にあった地球儀を眺めてるうちに、この丸い地球の裏側ってどうなってるんやろ?一体そこにはどんな人が住んでて、どんな言葉を喋って、どんなものを食べてるんやろ、ってものすごく興味深くてずっとその夢(もっと知りたい、他の国へ行ってみたい)を諦めずにいました。両親はとにかく商売は苦労するからと何としても私を教師にさせたかったので、まだ経済力もない私は家を飛び出すわけにもいかず、両親の望み通り教師になりました。だから継ぐことになったのはもっともっと後の話ですね。

 ―教師としてスタートをきった訳ですね
裕湖さん)はい。両親の教師になってほしいという思い、私は絵を描くことが大好きだったのでおのずと美術教師というレールが引かれました。21歳で採用試験に合格し初めて教壇に立ちましたが、やっぱり私に教師という地味な職業は向いてないと感じました。自分の人生、教師というレールの上を一生涯歩いていくことの息苦しさと何の変哲もない人生を送りたくないという思いで、精神的にも体力的にもきつかったですね。自分にそぐわない環境に身を置くとそうなりますよね。さらにはそのとき大失恋も経験し、身も心もボロボロになり、それで教師を辞め、スーツケースひとつでギリシャへ行くわけです。

 ーギリシャへ?!その経緯について詳しく聞かせてください
裕湖さん)教師を続けながらも、いつかは日本を出て未知の世界を見てみたいという気持ちは常にあって、23歳の時、画家達の集まりでヨーロッパ旅行に行きました。若い女性達はブランドに興味を持つ中、私は目もくれず、地図とスケッチブックを片手にひとりで街をウロウロ。映画「ローマの休日」で有名なスペイン広場の下で一日中絵を描いていました。その居心地の良さに引き込まれて帰りたくはなかった。翌年はインドネシア全土横断し、次に再びギリシャを訪れた時、拠点を見つけてきました。

 

 

 

 

↑20代の頃のヨーロッパの旅の絵
左からオンフルール・モンマルトルの丘・ベニス(オンフルールは入選作品)

 

―拠点?ですか
裕湖さん)そう、拠点。私が住める場所、頼れる人を見つけてきたんです。
ギリシャ旅行のエーゲ海クルーズで船酔いして何も食べれずしんどくてふらふらになっていた時に立ち寄った毛皮の店のセールスマネージャーに助けられ、私を見かねて現地の日本食レストランへ連れて行ってくださりその後自宅に招かれそこで彼の子供さんやお手伝いさんともお会いし、とても楽しい時間を過ごしました。彼はいつでも遊びに来てください、そして僕もまた、日本に行きたいですと。そのとき、ここは、この人は安心できる、拠点にいいなと思ったんです。その人が後々ビジネスパートナーになる訳です。
帰国してからも電話や手紙がたくさん来ました。私は恋愛感情は全くなかったのですが向こうがプロポーズをしに日本に来た訳です。これは日本を出るいい口実になると思いました。それが教師を辞めるきっかけになりました。母は「苦労するなら助けないけれど、幸せになるのなら助けてあげる」といって片道キップの20万を持たせてくれました。それで26歳のときスーツケース一つでギリシャへ旅立ちました。

 

ギリシャでの新しい自分

―ギリシャでの生活、まずどんなスタートだったんですか?
裕湖さん)現地での生活はまず私生活のギリシャ語、彼との共通語は英語でしたが現地人が全て英語を話せる訳ではなく戸惑いながらも家で一人で居る生活が始まり、生きがいを見つけらずにいました。私は何のためにギリシャに来たのか・・・考えながらも彼の仕事の手伝い、ギリシャ→日本への毛皮の発注の仕事を始めますが能率が上がらず、現地での自分の立ち位置を見つけられずにいました。彼に相談するとそれなら二人で店を運営しないかという誘いがありゼロからのスタートとなりました。

―お店とは?
裕湖さん)彼は毛皮や宝石を専門とした店で販売員としての仕事をしていました。お店は持ってなかったけれど、向こうでは何か国語を話せるかで5本の指に入るトップセールスマンになれるかが決まります。彼は8か国語を話せたので世界各国の客を相手に販売力と腕は確かで、信頼も厚かった。最初は小さい店から始めそれがうまくいったので、目抜き通りに店を出そうということで、私は両親から借りた資金を、彼は知恵とノウハウを出し、アテネの中心地は目抜き通りに2件目の店を出しました。小さいながらも自社工場も作りました。当時の人気テレビ番組「なるほど・ザ・ワールド」の取材も来ましたし、ちょうどバブルの時代で観光客によく売れ、売り上げは好調でした。父も日本から会いに来てくれて嬉しかったです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

↑裕湖さん自身がモデルをつとめた毛皮のパンフレットや店舗、
そして住んでいたアテネ市内(パルテノン神殿)の写真

 

―言葉はどうされてたんですか?やはり準備期間に勉強を?
裕湖さん)英語はずっと勉強してたから大丈夫でしたが、ギリシャ語は向こうに行ってから勉強しました。商売がら、まず数字を覚えないということでそこからでした。電話の応対、買い物、タクシーを利用したり、自分で車を運転したりと徐々に生活にも慣れて。彼の友人たちとの交流や語学がもともと好きだったこともあり、イタリア語やギリシャ語、英語、日本語のちゃんぽんしたようなとこから始まって徐々に話せるようになりました。言葉で垣根を越えられるなら努力次第で何とでもなると思って勉強しました。

 

―やはり日本とは全く違う世界でしたか?
裕湖さん)はい、私には向こうの地がすごく合ってたんでしょうね。華やかでキラキラした世界が好きなんですよね。日本では控え目が美徳とされ、出る杭は打たれますが、海外では出すぎるくらい出ないと逆にたたかれる。良い意味で言えば強烈な個性と表現力で豊かな人生を送れる訳です。周囲には競争店が多かったですし商売するとなるとなおさらです。ギリシャは世界一の海軍国です。世界中からお客様が入ってきます。日々、国際色豊かな色んな言葉が飛び交う中での生活は日本では味わえない経験でした。

―その後、お店は?
裕湖さん)その後、ローマ、スペイン広場周辺のコルソ通りに3件目のお店を出しました。でも結局は広げすぎたんですよね、後のバブル低迷期等でお客さんは減り、借金を抱えることになってしまって。一時帰国していた私は店をすべてたたんだことを彼からの電話で知らされました。私はその後ギリシャに戻ることもできず何もかも身の回りのものすべて向こうに置いたまま。その後それがどうなったのかもわかりません。飛び出したときもスーツケースひとつでしたが、帰ってくるときもスーツケースひとつやったっていう話(笑)

―最終的にはお店をたたんでしまいましたが、パートナーとの出会いがあって海外での生活、仕事を経験したんですね
裕湖さん)そうですね、出会いから移住、彼からビジネスやたくさんのことを学びました。ビジネスパートナーであり、共に戦ってきた戦友であり家族でもありました。彼は人生をとてもおもしろおかしく、ドラマティックに、破天荒に生きていました。もう亡くなってしまったんですが、一言では言い表せない波乱の道のりでした。

日本での再スタート  

―帰国してからについて聞かせてください
裕湖さん)向こうで店をたたみ今度は彼が私を頼って日本にやってきました。知り合いの紹介で宗衛門町で2人でギリシャレストラン・グリークバーを始めたもののうまくいくはずもなく・・・そりゃそうですよね、飲食業なんてやったこともない、毛皮を売ってた人間なんですから。それでその商売をやめ、パートナーとはそれを機に互いに別の人生を歩むことになり、私は35歳で大阪の時計宝石の卸の会社に就職しました。

―そこでまた一からスタートということですね
裕湖さん)その会社では15年間勤務しました。自社ブランド担当を任され、言葉ができたのもあって海外出張(ヨーロッパ各国、オランダ・ベルギー・ハンガリー・ドイツetc・・・)にも行きました。商売の基本からノウハウまで仕込んでいただきそれが後にこの靴屋を継ぐときに役に立ちました。営業で小売店回りや展示会の仕事も任され、芸能人をモデルにした企画等で有名な方とご一緒する機会もたくさんあり、仕事は通勤も含めて厳しかったですけれど、そういった華やかでキラキラした世界は私の性に合っていました。ところが、スイスのバーゼルで世界の時計・宝飾展があった日、雪深い山奥のホテルで過労で倒れレスキュー隊が来てヘリでスイス病院に運ばれることに・・・。過呼吸で大変でしたが、何とか回復し帰国しました。そのときも大失恋が重なりまたもや心身ともにボロボロ、最悪の状態でした。私っていつもそう、何に対してもとにかく突き詰めて全エネルギーを注いでしまう、それがプツッと切れたときはボロボロ。それでも身体が限界まで仕事を続けましたが、やはりどん底でした。そんなとき音楽が縁で今の主人に出会いました。主人はまさしく私の救世主となり、その後私の人生は大きく方向転換し、歌の道へと進む訳です。

―歌の道ですか?!その経緯についても聞かせてください
裕湖さん)歌は子供の頃から絵と同じくらい大好きで、学生の頃は合唱団に入っていてソプラノ(NHKに出演)の経験もありました。でもなかなか歌の道で生きていくそのチャンスに恵まれなかったので美術教諭になった訳です。主人と知り合ってからは、水を得た魚のように歌の道にのめり込んで行きました。私は会社を辞め、再び新しい第4の人生のスタートを切りました。教師~ギリシャへ~帰国後会社員を経て~歌の道へと、遠回りしたけどやっと夢が叶った気がしました。それからはバンドを結成して大阪を中心に関西エリアでライヴ活動を続けました。主人はサックスやベースの演奏を、また音響(PA)のプロなので私のキーに譜面を書きかえてくれたり・・・と、主人のおかげで私は救われ、今までとは違う安らぎを覚えました。紆余曲折ありましたが、やっと自分らしく生きていけると思いました。歌い手(Singer)としてやっていこうと決めたとき、これまでの窮屈な過去の自分に別れを告げ、生まれ変わるために、ある先生にお願いして「弥里朱華(みさとあやか)」という名前を付けて頂きました。弥里の弥は弥勒菩薩から一文字頂きました。ふるさとに根をおろしてゆったりとした心で人々に輝きと幸せを届けていけるなら・・・と。

『朱華&Bossa☆Boys』
ステージコンサートやライヴイベント等で活動

 

音楽が繋いだ縁

―純さんのこれまでの歩みについて聞かせてください
中山純さん 以下純さん)何もないで。音楽だけや。

―音楽は子供の頃から何かされてたんですか?
純さん)いや、幼稚園のとき、オルガン教室に無理やり通わされて。小学校3年生くらいまで続けとったんやけど遊ぶ方が楽しいから辞めて。うちも子供の頃から教師になるように言われ続けてきて・・・父が教師やったから、教師か公務員になれと。でも教師の道には進まなかった。

―サラリーマンとか?
純さん)音楽のできるサラリーマン笑 オーディオ機器とか好きやったから、レコードとかよく聞いたりしとって。最初レコード屋で店長として働いとってゆくゆくはそういう店しようと思ってたんやけど、とりあえず一流といわれる会社に入ろうと思って一念発起して35歳で保険会社に就職してん。それからはずっとサラリーマンしながらジャズのビッグバンド、ジャズオーケストラを立ち上げて。週末はずっと音響の仕事しとったな。僕にとって音楽は身体の一部やなぁ。

裕湖さん改め弥里朱華さん 以下朱華さん)
純ちゃん(主人)は橋本市で毎年、市の盆踊りとかのイベントの音響しててん。朝からトラックで現場まで機材運んで、設営、準備、本番、最後片付けして・・・って30年くらいやってきました。ほんま昔は毎週ほど仕事あったときもあったけど、今はコロナでイベントとか全部なくなってしまって。依頼のイベント以外は全部ボランティア精神で市に尽くして表彰されたことがあります。本人はそんなこと一言も言わない人ですが(笑)黙ってコツコツ型の人。

 PA(音響)の仕事の依頼で・・・活動中 

―お二人は出会ったときに互いにビビビと来た感じで?
朱華さん)いえ、最初はお互い全く笑 でもこの人ものすごい純粋で心が綺麗な人やなと思ってたら、ある日突然何かがおりてきてん。なぁ?純ちゃん! 

―そう言うてますけど、純さん?

純さん)笑・・・ま、なんとなくやな。
朱華さん)
この人、ほんま私と真逆で、喋らへんねん笑 お互いかまわれるの嫌うし笑 お互い干渉し合わないからうまくいってるねん私ら。なぁ?純ちゃん!

純さん)
・・・笑

ーそれが円満の秘訣?いいご関係ですね。
朱華さん)そうそう。いい感じの距離感と相手を敬い、思いやる心やね(笑)

 

喫茶店のカウンターに並べたもの

―いつ頃から靴屋の仕事をし始めたんですか?
純さん)10年くらい前からたまに手伝いさせてもらってて。入学時期とか忙しいときとか。
朱華さん)親も歳とってくるし、私も店のことがずっと気がかりで、主人と一緒にたまに帰ってきてましたので。 

―純さんにとって靴屋の仕事ってどうでした?
純さん)いや、別になんにも。手伝いできたらえぇなぁくらいで。お義父さんもお義母さんも歳いってくるし、力仕事でも何でも間に合うたらええわって。

―継ぐことになる経緯は?
朱華さん)主人と店の手伝いしてるときに母が「純ちゃん帰ってきて店してくれへんかな?」て言いだして。私自身、店のことどうしようかと気になりながらも、主人に言い出せずにいたから、それを言われたとき主人はどういう風に受け止めてるんかわからんかって。

―純さん、どうされたんですか?
純さん)その頃、保険会社って合併合併で、そのたびに息苦しさを感じとって。お義母さんから声かけてもろたとき、僕も定年まであと2年って時で。自分でもどうしよかなって思てた時とお義母さんからの声かかったタイミングが合うたというか。ほんだら、もう会社辞めるわってなって。

 

朱華さん)それで、仕事辞めてこっちに帰ってきてくれて。私も自分ひとりやったら店をどうしていこかと思てたけど、主人が一緒にやってくれるなら鬼に金棒やと思いました。 それで、主人は外回りや力仕事、私は事務的なことを引き継ぎ始めて。父ともほんま仲良くやってくれて。そのとき強く思ったんです。いつも世の為人の為と四方八方出かけてはその先々で人助けをしていた父。そんな背中を見ながら育ってきて父や母が祖父母の代から守ってきた神戸屋靴店をなくしてはいけない・・・。今まで好き勝手やって来たけど、これからは私がこの暖簾を守っていかなあかん、守っていきたいと!

―喫茶店を併設することになったきっかけというのは?
朱華さん)父が亡くなり、母も高齢になってきて・・・、母は90歳を過ぎても店番をしてくれて、凛として明るい人、商売上手で気丈夫、今はホームにいますが現役の頃は行動力のある人でした。やはり母の目の黒いうちは大がかりに店はいじれませんでした。ただ、主人にこの店をやってもらうにしてもここでじっと店番をしてもらうのはあまりにも酷だし、何か楽しみながら、居心地よく居てもらえる方法ないかなって考えたときに、喫茶店をしてコーヒーを出したら人が集まってきてくれて、それで音楽も流せたらええなって何となく思って。それで少しずつリフォームし始めたのが始まり。
純さん)
最初はこんなステージとか作る予定なかったんやけど。まず、ここ壊して片付けて綺麗にしょうかって壊したら、ここにこれこうしたらええんちがうやろか?そしたら、ここにこれ置いて・・・みたいにどんどんアイディア出てきて、その結果がこれ。笑
朱華さん)母も最初は喫茶のカウンターに靴並べだして・・・。「ちょっとちょっとお母さん!どこに置いてんの!」みたいなこともあって笑 「お母さん、私らちゃんとやっていくから、もう後は私らに任せて」って言うて笑 でもほんとにいい形で進んでいってくれてよかったなって、このままこうやって幸せに・・・って思ってたら今度は私に病気(ガン)が見つかって・・・。
ショックでした。今では心の整理もつき、いい先生にも巡り会えて治療を続けています。これは試練ですが、病気になって色々と考えさせられました。今ここにこうして自分がいるのは自分だけの力ではありません。生かされている命に感謝して、これからはこの経験を生かして微力ながらも誰かの役にたてればと思っています。病を乗り越え、元気に自分らしく歌を歌うことで少しでもみなさんに幸せを届けていくことができれば幸せ(喜び)です。今はその気持ちで頑張っています。

 

―純さん、喫茶店をすることになりましたが、何かご経験がおありだったんですか?
純さん)ない笑 コーヒーたてるのは好きで・・・。お義母さんが店番しとったとき、お義母さんの友達とか近所の人が店に来て、喋ってるの見とって。そのとき、美味しいコーヒーとか出したったらええなぁって思ってたから、それから一生懸命コーヒー豆の研究したんや・・・(笑)

朱華さん)今では年齢問わずですが、特に70~80代のお客様がいつもコーヒー飲みにきてくれて美味しいって言うてくれるのが主人の一番の喜びになっています。このコロナの時期やからお客さんが5人の日もあったら1人の日もある、でも毎日同じようにコーヒーを出し続けていけたら人が集まり町もにぎわうって思うし、それをしながら店番もしてくれる主人に感謝です。

 

 

―週末にはここでライヴをされているそうですね

純さん)そう、毎週土曜の夜にいろんなジャンルのミュージシャン達が集まって演奏して、それで楽しんでくれたら。それに、近所の人もにぎやかになってええって喜んでくれて。今後は新しくできた市役所などのイベント等で音楽を流して明るい街づくりとかできたらええなって。

―五條市で生まれ、一度は離れ、そしてまた五條に戻り、これからお商売もされていく・・・五條市についてのどのように感じてらっしゃいますか?
朱華さん)近所付き合いを大事にしたいなって思います。五條から離れてた期間が長かったので最初はほんとに五條のことを知らなかった。でも、こっちに帰ってきて徐々に五條の人との交流も増えて、そしてお店にくるご年配の方に「お母さんのことよー知っとるで」「お父さんには世話になってな」っていうてもらえるのがほんまに嬉しい。祖父母~父母の時代があっての神戸屋であり、今の私達やと思う。高齢化や過疎化、そしてデジタル化が進んでるけど、お年寄りがたくさんいるこの街ならやっぱり「人と人」のつながりがいちばん大事やなと思います。

 

昔、にぎわいを見せたこの商励会通りを少しでも取り戻したい気持ちで外のスピーカーから音楽を流しています。昭和の香りのするコーヒーの美味しい店として音楽が楽しめる明るい町づくりの何かお手伝いができたらと思っています。

―純さん、朱華さん、本日はありがとうございました。

※写真撮影時のみマスクを外していただきました。

 

 

絵本作家の長谷川義史さんとギリシャのお酒でカンパイ

 

 

 

 

 

 

 

☆リニューアルオープン当日、毎日放送ちちんぷいぷい「とびだせ!えほん!」のコーナーの取材も☆

 

 

 

 

 

 

 

 

神戸屋靴店・喫茶神戸屋

営業時間 火~土:10:00~17:00
金・土:18:00~ライヴ ※ライヴスケジュールはお問合せください
定 休 日 日曜日・月曜日
駐 車 場 有(店の手前50m北)中矢青果店裏
住   所 〒637-0005
奈良県五條市須恵1丁目3-18
TEL(FAX) 0747-22-2289
※詳細はお問合せください
※コンサート・ライヴ・各種イベント音響(PA)
店舗等音響プランナー
 アドバイザー等 承ります

 


☆スタッフHのすぽっとwrite☆

コロナ禍で控えていたインタビューを1年ぶりに再開。
久々の取材の緊張とこんな素敵な方が五條にいらしたんだというワクワク感。
序盤から朱華さんのお話に引き込まれた・・・が、中盤あたりでうまく記事にまとめられるかと内心焦りだした。

「ちょっと休憩したら?」とコーヒーを出してくれた純さん。経験がないというのに板につきすぎている喫茶マスターのエプロン姿。そして足元はどこか見覚えのあるサンダル。「それって・・・?!」「そう・・・高校の生徒さんの校内用のやつ。これ、えーねん、きつ過ぎず緩すぎず、ほんまに」と、販売店主がというより、純さんが言うんだから間違いないと思わせる雰囲気がある。たててくれたコーヒーが美味しかったのも言うまでもない。

取材の緊張、集中と、昭和レトロな店内、ブレイクタイム。生演奏の迫力と音楽の心地よさ。刺激あり、癒しあり、安心感あり・・・きっとこれも「きつすぎず、緩すぎず」?なんですよね笑

トニカク素敵な神戸屋、そしてお二人に出会えたインタビューでした。