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第83回ーPart4 日本児童文芸家協会会員・生涯学習インストラクター 川村優理さん

 

父のお手伝いができてよかった。

藤岡家住宅Part①~③では、うちのの館館長として、藤岡家住宅、藤岡長和、開館からこれまでについてのお話を聞かせていただきました。
Part④では、学芸員のほか、日本児童文芸家協会会員、生涯学習インストラクター、エッセイスト、ラジオパーソナリティと多数のお顔を持つ川村さんについて、また、児童文学作家の川村たかしさんのご長女として、お父様のお話も聞かせていただきました。

―プロフィールをお願いします。

五條幼稚園、五條小学校、五條中学校、五條高校・・・ずっと五條で居りましたが、タイの昔話の翻訳をしようと思って、大阪外語大学(現・大阪大学)のタイ語学科に進みました。 

―タイ語学科を選ばれたのは?

父と母の助言で。母は天理大学の英文科だったんですけど、同じ和歌山線で奈良学芸大学(現・奈良教育大学)に通う父らに英語を教えてたって(笑)。同じ路線で英文学科で女性自分ひとりだったし、何かすごい嬉しかったんだけど、いざ社会に出たら英語喋れる人がいっぱいいたんですって。だから「みんなができる語学は後でがっかりするから、誰もやってないのをやるといい。ちょっとくらい間違ってても分からへん」っていうのが母の意見でした(笑)。

父はタイの日本人町を取材に行ったら、タイの昔話が日本語に翻訳されてないからって。私は小説家になりたかったんですけど、父の創作する姿を見て育っていて、父みたいに命がけで書くのは無理だし、タイの昔話を翻訳したら、割とラクをして絵本にできるやんって思ったんです。そういう思いが重なってタイ語学科に行ったんですけど(笑)

 

―学芸員になられた経緯は?

父が「司馬遼太郎先生からの手紙」を五條の市立博物館にお貸ししてたときがあって、それを返しにきた学芸員の方に「私、学芸員になりたいんです」と言ったら「いや、無理ですね。」と言われました。「そうやんな・・・」って思ってたら、1年後、「今、お勤めしてる方の席が空いたので受付に来ませんか」とお声をかけていただいて。そこから博物館にお勤めしながら、玉川大学の通信教育で学芸員の資格を取りました。その頃父がストレスが原因の病気のためにペンが重くなってしまったり、取材に出かけることがきつくなっていました。それで父の手伝いをするようになって、五條の歴史や紀伊半島の資料を集めることになりました。それが結果的に、藤岡家住宅の話に繋がっていくことになりました。

 

―お父さま、川村たかしさんはどんな方だったんでしょうか?

私が知ってるときから書斎に居て、ずっと書き続けてたというイメージがあります。10年以上かけて執筆を続けた「新十津川物語」は、年齢や体調不良、物語の舞台が十津川村から北海道に移動することも重なり大変な労作となりました。享年80歳でしたが、父が作品をのこしてくれたおかげで、新十津川村では今も私達を大歓迎してくださいます。他にも「もりくいくじら」とか「サーカスのライオン」「山へいく牛」など、教科書に載ってる作品も多く、父の残してくれたものはとても大きいです。

 

―川村さんは童話作家、エッセイストということですが、やはりお父さまの影響が大きいのでしょうか?

大きいですね。子供のものであったり、エッセイのお仕事が多いんですが、やはり「書く」仕事に関わっているのは父の影響ですね。娘も論文とか文章を書く仕事ですが、時々「おじいちゃんが生きてたら、この論文についてどう言ってくれるだろう」とか「おじいちゃんに読んでほしいなぁ」などと言いますね。

 

―娘さんにとっても大きな存在だったんですね。

娘は小さい頃よく、父の書斎の隅っこでアンデルセン童話などを読んでいたんです。私が小さい頃は、父の書架にある本から読み始めたので「世界民謡の旅」とか「若草物語」とか。で、私、その頃からちょっと変わった子供で、幼稚園で給食の後、みんながおままごとを始める中、ずっと本を読んでて。それも、家から風呂敷に包んで持ってきた「東海道中膝栗毛 小学生版」とか「古事記 小学生版」とか。 なぜ、バッグに入れずに風呂敷だったのか。考えると不思議ですけど。

―お父さまの「命がけで書く」とは、どういうことでしょうか?

父は「新十津川物語(全10巻)」は1巻で終わるつもりだったんです。
紀伊半島を舞台の物語を書き続けていました。古式捕鯨や海賊、イノシシと戦う猟師の話などです。そしたら、「十津川村の方が苦労をして北海道に行って立派な町を作っていかれたことを五條の人はほとんど知らなくなっているから、これは書かなあかん」と思ったそうなんです。それで1冊目を書いたら好評で、「続きを書いてください」って、2冊目を書いたらそれが課題図書になって、そしたら3冊目も、と続くことになりました。
北海道の方も自分達のルーツや記録が欲しいってことで、これは史実じゃなく、物語だけども・・・とどんどん書き続けていくことになって全10巻。架空の物語、場所、町とかだったら何も言われないんですけど、だんだん資料が出てくると、これは史実と違っていた・・・というときには書き直しました。ときには1冊を全て書き直したこともあります。
この物語は9歳のフキという女の子が主人公、これは実は母がモデルだと思います。9歳で親を亡くした勝気な女の子が親戚に連れられて北海道に渡っていくんですね。

 

―主人公フキはお母さまがモデルなんですか!?

母は「お父さんは私のこと書いたことない」っていうんですけど、私は母がモデルだと思います。母と似て活発でがんばりやさんの女の子です。

 

―そうなんですね。

だんだん登場人物が増えて、取材も大変になって、例えば「吹雪」を書くために北海道に旅館をとったり、取材していくうちにいろんな繋がりが出てくる。書き続けるうちに不整合も出てくる。不整合に気づくと書き直すんです。純然たる小説10巻です。すると北海道新聞社がノンフィクションも出してくれということで、当時の資料で「十津川出国記」というのを1冊出して、合計11冊の大作になりました。

それを出したときに司馬遼太郎さんがすごくお褒めくださって、そのときにいただいた長い手紙を父はずっと大事にしていました。

 

―確かに吹雪のシーンが何度かあり、そのすさまじい様子が伝わりました。
登場人物もどんどん増えていきましたね。

9巻くらいからは、ほんとにしんどそうで、手が動かなくなって。私が口述筆記をするんですけど、もうやめとけばいいのに・・・って思うんですが、また書き始めるんですね。最終的にはパーキンソン病と診断されましたが、先生によってはパーキンソン病症候群、ピュアなパーキンソン病の症状ではないという診断もあって、結局はストレスだと思うんですけど。昔の野球漫画に『野球狂の詩』というのがあって、そこに登場する投手は一球一球にまるで人生そのものを賭けるかのように全身の力を込めて投げるんです。父の晩年はその一作一作が全て真剣な剛直球でもあるかのように、命をかけるように作品を書きました。そばで手伝っていて、作品に登場させる人物像に自分の魂をふきこむかのようにも見えました。そんな父を見てきたので、私は父の様には書けない、でも「文章を書く人」にはなりたいなと思いました。

 

―「新十津川物語」は児童文学というジャンルなんですね。

児童文学であれだけの、ま、今は色々と素晴らしい作品も出てますが、直球で3歳から80歳、100歳になっても読んでほしいという文学は高い評価をいただき、今でも皆さん大事にしてくださいます。

 

破滅的な災害や度重なる試練、現代とはかけ離れた生活や貧困の様子など、読み進めるのが辛くなる場面も正直多かったです。

去年、奈良県立大学付属高校の生徒さん達が来て、「どうして川村たかし先生は戦争をあえて書いたんですか?」とか、「不倫みたいな場面がありましたが、娘(川村優理)さんはどう思いますか?」って質問されました。

 

―主人公フキの娘、あやが、夫亡き後、他の男性に心を寄せる場面ですね。

そうです。「別に書かなくても良かったんでじゃないですか」と、生徒さんの質問にありました。「父はとにかく時代に生きた人を正確に追いかけようとしたんだと思います」と答えたんですけど、生徒さん達は今、自分達が成長していく世界にいるので、苦難を乗り越えながら頑張る子供達の文学を真っ正直に読み込んで、朗読の舞台や動画作成をしてくれました。

 

―偉大な方を父に持たれ、葛藤のようなものはありましたか?

何もないです。超えようとか全然思ってないので。父のおかげで新十津川村に父のファンが居てくださってるし、父の場所があります。「サーカスのライオン」は今でも小学3年生が読んでくれた後、お手紙をたくさん送ってくれます。何か父からのメッセージがずっと届いてるような気がして、父が死んだ気がしないんですよね。父の最晩年まで病院の待合室で、「お父さん、こんなエッセイの依頼が来てます」って言ってパソコンを持ち込んで聞き取りして入力して父の創作を手伝いました。最初の頃はペンで記録してたんですが、そうするとこっちも手が動かなくなって、そのおかげでパソコンを始めたんです。父が居てくれたこと、一生懸命お手伝いできたことは、いいことしかありません。

 

―エッセイストとしてのお仕事はどのようなものをされてますか?

母が天理大学にいたこともあって、今は天理教道友社からご依頼を受けてエッセイを書かせてもらってます。第1期は新聞に12年間連載しました。近代文学に描かれた「家族」をテーマにという執筆依頼で書きました。第2期は日常の風景のひとこまです。タイや五條の昔話に取材した作品も書き続けています。
先日、藤岡家に私のエッセイを愛読しているというおふたりの女性が来られて、私の文章が掲載されている号を大切に透明の袋に入れて持って来られました。読者の方からお手紙を頂くこともあります。励まされます。

 

―五條市広報に掲載の「うちのの館から」は川村さんが担当されてるんですよね。

ここ(藤岡家住宅)にあることを五條の方に伝えないと・・・と思って。知らないことがたくさん出てきています。天誅組関連でも、新しい資料が出てきますので、それを今はご紹介しています。私は五條市史の文学文芸編を編集したので、そこから見える五條というのもテーマにしています。歴史書にはない、あるいは史実と少しずれているかもしれない、けれども「女性や母親、生活者の視点で書かれた文学」から、当時の人達が何を見ていたかというのをちょっとでも知ってほしいからです。

 

―FM五條では「川村優里の音楽でジャーニー」という番組を開局から継続されてますね。

音楽を通して五條で見つけたもの、たまに私の日常なんかも入ってしまいますが、それを伝えたり、音楽と一緒に体を動かしてほしい、そういうきっかけになってほしいなと思います。

―パーソナリティが紹介する音楽はもちろん、いろんな情報や、クスッと笑える話など、耳心地の良さは癒しにもなりますね。

こちら(藤岡家住宅)の館を見てほしいと思ってもなかなか見てもらえないです。「私、今日、こんなもの見つけたんですよ」ってお話をちょこっと入れたりします。「音楽と一緒に心の旅をしてください」というつもりで番組作りを楽しんでいます。

 

―だから、「音楽でジャーニー」なんですね。

はい。子供俳句教室で詠んでくれた俳句も紹介させてもらうんですが、以前、選句者全員の票を集めたのが『赤色の火花を散らす彼岸花』これ、すごくないですか?映像が浮かぶでしょ、パッと咲く、その瞬間。これをラジオで紹介するときにどんな曲を合わせようかと娘に相談したら、即座にLisaの「紅蓮華」。あ、なるほどな!って。若い人の句には若い人の感性で選んだ曲をぶつけて、五條の風景をお伝えしたいですね。他にも『赤とんぼ 緑の坂を超えていく』『天空に旅立つものは渡り鳥』などなど、これ、全部小学生が20~30分、俳句について学んだ後、3日間ほどの期間があって提出してきた句なんです。私ももっともっと勉強して俳句を詠み続けたいですね。

―五條市についてどのように感じますか?

古代から現代まで五條市は「通り抜ける場所」だったんです。都のある飛鳥や橿原や奈良や京都・大阪方面、紀州に行ったり、吉野、熊野に行ったり、あと山伏(山中で修行をする修験道の道者)さん達が往来する場所。空海も通って行けば、井上内親王も通って行った・・・、いろんな人が通り抜けていくので、そのたびに新しい風が入ってくるんです。「ザ・ゲートウェイ五條」だといつも私は考えていて、ここを皆通り過ぎて行って、土地の人々はそういった旅人たちを定点観測で眺めてるんだけど、そこに「物語」を見つけてきた土地です。だから五條はおもしろいですね。

 

―「ザ・ゲートウェイ五條」そんな風に考えたこともありませんでしたが、そう言われると五條はすごい、おもしろいところですね。

「ゲートウェイ高輪」ができる前から「ゲートウェイ五條!」って思っていましたので、決してマネしたのではありません(笑)

 

―川村さん、ありがとうございました。

 

川村優理さんの頁はこちらから

 


☆スタッフHのすぽっとwrite☆

小学生版とはいえ、東海道中膝栗毛や古事記を風呂敷に包んで登園する幼稚園児。
想像するとちょっと笑ってしまいますが(笑)

2月半ばに乗船してからひと月半。私にとって「心が豊かになった旅」は、最後に川村船長にこの記事をお渡しして、無事終了です。

旅の余韻と少々の疲れ?もございますが(笑)、またいつか、今度は、クルーとして?乗船できたらいいな。

第83回ーPart3 登録有形文化財 藤岡家住宅     NPO法人うちのの館 館長 川村優理さん 

見せたいものがまだまだいっぱい

「古民家は未来へ進んでいく船」・・・だとか。ならば目指す目的地はどこ?船をテーマパークに?川村船長はどんな仕掛けを?。
長和が残した大切なもの、五條にこんな素晴らしい方がいたことを知れた「藤岡家住宅」インタビューの最終章。

全部あるやん、藤岡家。

―現在は資料に特化されているということですね。

そうですね。古民家って1軒の家なんですけど、実はメディア。情報の宝庫なんです。何百年も前からのメディアをどう生かして今に繋いでいくかという最中にいるんです。廃屋になってしまう古い建物や古民家をどうしていくかというのは日本中、世界中が困っていることだと思います。

―そうですね。こうして保存、公開されずに取り壊されれば、貴重な資料や文化も同時に失われるということですよね。

それで私が考えたことがあって、娘が大学で言語文化学をやっているんですが、テーマが一貫して「ディズニー」なんです。それで実際のミュージカルをみようと、一緒にアメリカで「ライオンキング」を見たんですが、その時、「なぜディズニーってこれだけ人を惹きつけるんやろ」って思ったんです。みんなすごく楽しそうでしょ?ディズニーランド、ディズニーシー、ディズニーワールド全て。私は娘とは違う「古民家というメディアをやらせてもらってる」視点で見るんです。

それで気づいたのがディズニーランドの「ホーンテッドマンション(世界各国のディズニーパークにあるライド型お化け屋敷のアトラクション)」。お化け屋敷なんですが、乗り込んだライドが真っ暗の中を進んで「この廊下・・・夏は暑くて、冬は寒くて恐ろしい・・・」ってアナウンスが流れたとき、「あ、藤岡家と一緒!」と思ったんです。作り物の蜘蛛の巣・・・「藤岡家に本物あるやん」、本を積み上げて作ったクリスマスツリーや、プーさんが覗き込んでる古い辞書や絵本・・・、「これ藤岡家にあるやん!これはいける!」って思ったんです。みんながこれだけ来たい場所にある要素を藤岡家は持ってる、「そうや!ここをディズニーにしよう!」と思ったんです。

―エンターテイメントってことですね。

そうですそうです。 


―実際、藤岡家でディズニー化しているところがあったりしますか?

100年前のピアノがあるんですが、この周辺を「美女と野獣」みたいにしたいと思って。バラのステンドグラスやハシゴがあったり・・・。展示してたら、動物の爪痕を見つけて、ほんとに美女と野獣みたいだと思いました(笑) 五條の子がもし修学旅行とかでディズニーに行って、「美女と野獣」を見たときに、「あ、これ藤岡家にあったやつ」って思うかもしれないでしょ(笑) だからディズニー化を目指そうかなと。

このピアノは長和の長女、瑠璃子さんのものなんです。英語やピアノを習って、お父様が転勤の時にはピアノとお手伝いさん付で一緒に引っ越されたほど、長和溺愛のお嬢様でしたが、小さな子供を残して24歳の若さで亡くなっています。その後ピアノはご親戚のもとで大切にされてましたが、ここを開館するときにお返しくださったんです。ピアノが帰ってきて瑠璃子さんも長和も喜んでると思います。

―ただ古いピアノだというだけでなく、それにまつわるお話やディズニー化があると、ご覧になる方の感じ方も様々ですね。

成長された瑠璃子さんのお子さんは、その後英語の先生になるために北宇智中学校に教育実習に来られます。そのときの担当がうちの母だったみたいで。まだ玉骨夫妻も居られた頃で、私に、といって、何か外国製の膨らますロバのお人形、多分ロディだと思うんですけど、それをくださったそうなんです。その方からは今も藤岡家に電話がかかってきてニューヨーク時代のお話などを聞かせてもらっています。

 

―やはり川村さんと藤岡家はご縁があったんですね。ピアノ以外にもいろんなものがありますが来館者はどのようなところに興味をもたれますか?

ここに来て何を見るかっていうのはその方の過去、現在、未来を反映していて、お人形が好きな方、絵が好きな方、建築をなさってる方、お庭に流れている川の石が全部お薬の石でできていると教えてくれた方は岩石を見る方、薬学をやる方、皆さん視点が違います。見る方によって得る情報が違うのは、古い建築物のもつメディア性のひとつだなと思います。

 

―私も初めての藤岡家でしたが、説明を聞くことでより興味が深まりました。当時の商売道具や贅をこらした屋敷等、藤岡家の繁栄ぶりや人物像などがわかり面白かったです。

江戸時代や戦前戦後、その当時の最先端のものがあるのでそれをみてもらいたいとも思いますし、この方は何がお好きなのかなって想像するのも楽しくて。子供さんの場合はここで絵を描いたり句を詠んでもらうと何が好きなのかがだいたい見えておもしろいです。五條中学の生徒さんがスケッチに来てくれたとき、絵の勉強ではなく、ここにあるもの何でもいいからひとつだけ好きなものを描いてもらったんです。温度計を描いた生徒さんもいれば、木組みを写した生徒さん、掛軸の絵を模写した生徒さんもいました。「自分」を見る機会になってもらえればと思います。

 

―かなりたくさんのものがあふれるように展示されてるので見どころ満載でした

私がここで感じたのは、私はまず母親なので、女の人は江戸が明治になっていようと、まず子供に何を食べさせようかと考えたのではないかということです。生活から覚えていく、生活や道具の変化などを追いかけるのが好きなんだと感じました。大和名所図絵や、木曽街道六十九次(歌川広重の作品)は、今だと普通、広重の絵=「美術」なんですけど、当時の旅の情報誌なんですよね。ここは橋が危ないとか、谷が深いとか、そういう生活者の視点で歴史を見るのが私は今、面白いのかもしれません。

―確かに、生活の視点で教わると「歴史苦手」意識が和らぎます。それにここはディズニーの要素を持ってるんですものね。また違った視点で見学できそうです。

そう言ってもらえると嬉しいです。修復する前に調査に来てた大学生さん達はここがただひたすら怖かったって言ってました。私も怖かったんです。怖いんで写真もパッと撮ってすぐ戸を閉めてみたいな・・・。そしたら写真がブレてる。でもそこには歴史のもつ重さと強さも感じることができました。田中さんが思い切って一歩踏み出してくれなかったら・・・と思うと、田中さんの踏み出された最初の一歩はすごく大きかったですね。

先日、自転車で小6の男の子が2人来てくれました。外で何か話し声が聞こえるんで表に出ると、近所の奥さんが「遠くから来たみたいなんやけど、見せたってくれる?」って。「いえ、僕、どうしても気になることがあって」って言うんです。もう「どうぞどうぞ」って。嬉しかったですね。それで見終わったとき「気になっていたことは解決しましたか?」って聞いたら「はい」って、帰って行きました。「子供さん達が何度も来てみたくなる。知りたいことがあるだけでなく、楽しんでもらえる。こういう場所でありたいなぁ」と思いました。

―それは嬉しいですね。「どうしても気になるもの」何だったんでしょうね・・・


ー現在、展示しているものや次に企画しているものをご紹介ください。

今は「天誅組の手紙」という展示で天誅組から藤岡家に届いた書状などを展示しています。3カ月毎に展示を変えていて、4月からは「明治天皇の誕生」を展示します。江戸時代から明治文化に近代化していく時代の日本の画像のかけらのようなものがいろいろありますので。明治天皇というのはまた偉大な天皇なんですよね。いきなり近代化していくわけですが、10代でものすごいことをしていくんです。中山忠光、天誅組との関連など、明治のものが結構ありますので4月からはそのタイトルで。

これからの展示で目指していくのは、今江戸時代の庭を掘りだしていってるんですけど。ますますディズニーフィケーションで、若い人たちが古いものにどれだけオシャレ、すごいって思ってくれるか・・・、私は皆さんにビックリしてほしいので。

 

―長い間、この藤岡家住宅で研究や調査をされてきた川村さんにとって「藤岡家住宅」「藤岡長和」とは?

基本ね、ミーハーなんで(笑) 藤岡家住宅は「発見できるドキドキの場所」です(笑) 直にその空間に居て、自分がふと開けて「えー!!」って驚くものがある。それを「見て見て!」って皆さんに見てもらう、そうすると、ご覧になった方から「これはこうで・・・」って教えてもらえる。ほんとドキドキ、発見の連続、ここは「発見」のテーマパークなんです。

 

―テーマパーク? やっぱりディズニーですね!

あー!そこにきましたね(笑)(笑)

長和については、あれほど華やかなエリート官僚であったのに、よくこれだけ静かに・・・辛いことを乗り越えた方だなと。私達の今の平和や繁栄の陰にはすごいしんどい思いをされた方がいて・・・、そんな思いをされた方が実際ここに居たってことにもろに出会った訳です。句集を見て勉強していくうちにその苦しさがどんどん分かっていったので、何ていうんでしょう、尊敬とかを超えて感謝するしかないというか。この土地や先人、ご縁に一生懸命感謝していく、そのひとつの象徴が長和だと思っています。私が女性であり母であることに特化するのであれば、静かに平和を祈るだけではなく何かを伝えていきたい、俳句でもいい、こういう人がここにいたということを伝える、そして心に感じ入ることのできる人をつくる、ある意味、教育機関でありたいと思っています。

 

―今後の課題はありますか?

 

目標がディズニー、テーマパークなもんですから(笑) テーマパークを楽しんで頂くためには厨子二階を探検できる場所にしたいです。厨子二階へのハシゴを登ってあそこを探検してほしい。そして見つけてほしいです。
金剛山の自然石を作った石組でできた庭も散策できるようにしたいです。

見せたいものがまだまだいっぱいあるの。だから課題、とういうか目標は「さらなるテーマパーク、さらなるディズニーフィケーション」。(笑)

 

 

―川村さん、本日はありがとうございました。

つづきはPart④文芸員、エッセイスト、ラジオパーソナリティと多方面でご活躍の川村優理さんについてのインタビューです。

 

■開館時間
9:00~16:00
貸会場の開館閉館時間はご要望に応じます。

■休館日
毎週月曜日
(月曜が祝日の場合は翌日)

■入館料(維持管理協力金)
大人300円
6歳~中学生200円
20人以上は20%の団体割引有

■アクセス
〒637-0016
奈良県五條市近内町526
TEL / FAX:0747-22-4013
☆JR和歌山線北宇智駅から徒歩約20分(1.3km)
☆京奈和自動車道 五條北インターから5分(側道を国道310号の方向に進み藤岡家住宅の看板で右折。金剛山の方向へ道なりに進む。)

NPO法人 うちのの館 登録有形文化財 藤岡家住宅のホームページはこちらから

 

 

 


☆スタッフHのすぽっとwrite☆

森鴎外、与謝野晶子、高浜虚子・・・教科書で見た人物。
天誅組、北宇智駅スイッチバック・・・、五條市の歴史。
取材してそれらと藤岡家との関わりを知ったとき
思いました。「えらいこっちゃ!」と。

玉骨の書斎で、机に向かって座ってみました。
窓から、梅の木や金剛山が見え、そこで一句・・・詠めるはずもないですが、
同じようにここに玉骨が座ってたんだと思うと「ゾクっ」。
私はこの「ゾクっと」フェチなんです。

第83回ーPart2 登録有形文化財 藤岡家住宅     NPO法人うちのの館 館長 川村優理さん

見えない何かに引っ張られてる気がして

30年の長い眠りから目覚めようとする藤岡家。かつての偉人の家を蘇らせようと船出します。積まれた宝の存在を知らぬまま進み出した船は、驚き、発見、忍耐、不安、感動・・・と、まさに航海そのもの。さてどうなるのでしょうか。

 びっくり! と えらいこっちゃ・・・。

―藤岡家がこのように公開されるようになった経緯について教えていただけますか?

覚えてる方も多いと思いますが、平成10年の台風です。神社の木もなぎ倒されたりと多くの被害が出る中、ここは幸い屋根で済んだといえば済んだんですけど、瓦や煙出しが飛ばされ、ひどい雨漏りで、ご当主が慌てて帰ってこられました。応急処置で屋根にブルーシートをかけ、さてこれからどうしようということになりました。ご当主は「これまで管理は近くに住む方々にお願いしてきた。でもこんな状況のまま迷惑をかけてはいけない」と、この家の今後の何かヒントや答えが見つかればとネット検索したところ「山本本家(五條市の酒造)」さんのページにたどりつき相談します。山本さんは五條で一番最初にインターネットを始めたり、五條のまちおこしをされてきた方で、相談内容から長和と山本さんのお父様がロータリークラブでお知り合いだったことも判り、すぐに五條市役所に繋いでくださいました。
話が進む中、「修理は全て私が(ご当主)がしますから、建物は市に寄付したい」と申し出られるんですが、他にもたくさん古い建物がある五條市がこの先それらを全て管理するのかという意見もあり、市への寄付のお話は進みませんでした。

 

―市への寄付が叶わず、その後、どうなったんでしょうか?

天誅組関連の町おこしもされてた田中修司さん(㈱柿の葉すし本舗たなか創業者 以下 田中さん)が、藤岡家に天誅組三総裁の一人である松本奎堂が書いた額があるという情報をきっかけにここを訪れます。鑑定の結果、松本奎堂のものではなかったんですが、このお屋敷の立派さに「保存の価値がある」と、田中さんはその後も行政や地域の方、そして私の父(児童文学作家 川村たかし)にもお声がけいただき再び藤岡家を訪れます。私は当時、父の運転手で同行してたんですが、ご当主を交えた話し合い等も重ねた結果、田中さんがこの建物をみんなが集まり食事や談話ができる場所として活用しようという提案をしてくださいました。ご当主も活用してもらえるならと修理してくださることになり、その時は、誰もここにたくさんの貴重なものが眠っているとは知らずに船出するわけです。

 

―ご当主も貴重な資料などの存在を知らなかったんでしょうか?

ご当主は「当家に残る文化を地域の文化のために活用してください」と明言しておられました。

―川村さんがこちらの館長となられた経緯は?

田中さんが、父の書いた『新十津川物語』などに深く興味をもって下さっていたことから、地域おこしと文学の結びつきに着目なさったのだと思います。以来、土地に残るストーリーを五條の将来への発展に結びつけたいと思っています。

―田中さんがここを訪れたとき、お目当てのものが天誅組関連ではなかったところで終わらなかったことが今に繋がってますね。

そうなんです。こちらのお話を田中さんからいただいたときに父に相談すると「私は14歳の頃に玉骨先生のところに俳句を習いに行ってたから、それはもうぜひ行ってお手伝いしてきなさい」って言うんです。 横で聞いてた母も「お父さん、玉骨先生から「玉蝶(ぎょくちょう)」って俳号もらってるねん」って言うんです。そんな話、初めて聞いたんですよね。「玉蝶って」・・・、父のお酒のアテを作ったりしながら「お父さん、文学って何ですか」って恐る恐る話しかけてた怖い父と「蝶」というイメージがつながらなくて(笑)

 

―藤岡家での最初の「お宝発見」はどんなものだったんですか?

母屋で資料整理をしている時、柱時計の下を通りかかった棟梁の柴田正輝さん(以下 棟梁)が「これメイドインUSAって知ってるか?」って言うんです。おばあちゃん家にあったような時計だと特に気に留めてなかったんですが、振り子箱を開けて見てみると、江戸末期頃のアメリカ、セス・トーマス社製の時計(米国でも最古の時計)だったんです。もうびっくりして。その時ですね、もしかしたら、ここはすごいお家かもしれんって思ったのは。

 

 

 

棟梁が率いる修理工事の方達が、「川村さん、色々出てくる。まず何が必要や?」て聞いてくれて、「どうも、ここは『大坂屋』という屋号みたいなので、『大坂屋』と書いてるものがあったらとにかくそれをください」って言いましたら、次来た時には色々机の上に置いてくれてあるんです。母屋や米倉に使われていた鉄釘1本も大切に「この鉄釘が貴重やった」と。この建物、建築に対するリスペクトがあり、昔の建築の素晴らしいところを崩さず、できるだけ残そうと、各分野の職人さん達が協力し3年半かかって修理してくださいました。

 

―開館に向けて最初にした「お仕事」は何ですか?

「玉骨句集」のデータ化です。玉骨は俳人として有名だったのに句集を1冊しか出してないんです。その句集もたった1冊しか残っていませんでした。これをまずデータとして保存しなければとコピーを持ち帰り子供が寝た後、作業をする訳ですが・・・、えらいこっちゃです。難しいんです!(笑)

昭和33年に出た句集なら私と同い年、大丈夫だわ・・・と、偉そうに持ち帰ったものの上質で非常に難解な俳句ばかりでした。

 

―どういう俳句だったのでしょうか?

小さな命をものすごく大事に、子供や鳥、虫の様子、命を詠む句がたくさんあるんですね。敗戦後、五條で俳句を教えながら静かに暮らして、大勢のお弟子さんがいながら結社も立ち上げないし句集も1冊しか出さない。目立たずとにかく人を育てようとしていたのがわかりました。私の父が児童文学を始めたきっかけは昭和30年代、小学校教師だった父は「子供の読むもの」がないって思ったらしいんです。童謡や昔話はありましたが、「児童文学」というジャンルはその頃まだ育ってなかったんですね。
父は「児童文学は3歳の子供でも80歳の方が読んでも同じように価値があるもの。世代を超えて全ての人に伝えられる、新しい時代を作る子供達の児童文学を書きたい」と思い始めるんです。そのとき父が言った「子供は未来やから」っていう言葉が子供ながらに、すごいこと言うなって思ってたんです。文化が充実し生活が豊かになることで相手を思いやる心や、戦わずに問題を解決する力が養われる、そのためのエネルギーは未来をつくる子供達の教育だということを、父はここにきて玉骨先生から学んだんじゃないかと思いました。

 

スターバックスで噴き出してしまって

―長い修理期間を経ていよいよ開館。当日はどんな様子でしたか?またその後の反響はどうだったんでしょうか?

平成20年11月11日、11時11分開館のセレモニーは、華やかで、テープカットもあり多くの人やテレビ局、新聞社が来られました。お神楽やお琴、藤岡家のご親戚のシャンソン歌手奥田真祐美さんの歌の披露がありました。12月まで無料ご招待で大勢の方がお越しくださり、年明けからの有料入館では年間12,000人の方が来てくださいました。梅を見に、お雛様を見に、先のお客様をご案内して戻るともう次のグループが待ってる・・・みたいな状態。田中さんが工夫を凝らしたお料理や地域のお店の出張ランチなど、1日100人の入館、というような日も時にはありました。

 

―華々しいオープニングとその後も盛況だったんですね。

はい。でも、いざ入館料を頂戴するとなったら果たして皆さん来てくださるのかというのは実はすごく心配でした。「お食事処」とは別に私は「見てもらう部分」を作る立場だったので大丈夫かな・・・って。そしたら、10時頃坂道を登ってくるひとりの男性がいらして、どうも雰囲気的にこちらに向かってるんです。セーターを着て飄々と歩いて来られて、通り過ぎずに入口に向かって曲がってくれたときは心の中で「やった!有料入館第一号のお客様が来てくれた」と思いました。その方はなんと、阿波野青畝(奈良県高取の俳人 以下 阿波野青畝)先生の長男、阿波野健次さんだったんです。こんな方が第一号で来てくれるというのは、これから「俳句の館」という方向で進むのかなとも感じました。

 

―これまで行われた企画などをご紹介いただけますか?

五條ロータリークラブさん主宰(玉骨は初代ロータリークラブ会長)で「子供俳句教室」をずっとしています。子供達は上辻先生(奈良県俳句協会理事)に俳句を教えてもらう前に、私が「誰でも上手になれる俳句」っていうのを教えるんですけれど、もうね、子供達の俳句が素晴らしくて。子供ならではの視点というか、大人が助言していたらちょっと違ったものになると思うんですが、子供独自の目線でこそ詠める句だなっていうのが寄せられてくるんです。こんな素晴らしい句が詠める子供達が五條の未来にあると思うと嬉しくて。ただ問題は「誰でも上手になれる」ので私が追い抜かれそうなこと(笑) ここがほんと問題(笑) 今は五條東小学校の子供さんに参加してもらってるんですけど、私の望みは五條市の全小学生に俳句を教えさせてもらうこと。これは野望です(笑)

 

―川村さんはいつから俳句を始めたんですか?

開館のときに何を展示するか・・・で、私はちょうどその年、生誕1000年と世間で話題になっていた「源氏物語」をしたいと言ったんです。与謝野晶子直筆の「源氏物語礼讃歌」っていう長い巻物があって、これこそ開館記念展示にふさわしい資料と思ったんです。でも上辻先生が「いや最初は俳句や」っておっしゃるんです。確かに立派な俳人たちの短冊はたくさんありましたが、私は「俳句より与謝野晶子や源氏物語の方が有名やん」と内心思ったんです。ですが、「ここには俳句の世界ではびっくりするような方々の短冊が残されてるんやからやっぱり最初は俳句」と決まりました。それでもまだ「何で・・・」と思うほど俳句を分かってなかったんです。

先生方のおっしゃる通り、俳句で大勢の方が来てくださいました。となると、私もこれから短冊を詠めないといけないんですよね。阿波野青畝の短冊はめちゃめちゃあるし、加えて、青畝のお弟子さんからの短冊や本が寄付されてくるんです。「阿波野青畝展」をすることになり、「阿波野青畝句集」をちゃんと読み始めたんです。そしたら、句の中に画像がいきいきと浮かんできます。橿原のスターバックスで読んでいて、とうとう噴き出してしまいました。

  

―句集で噴き出したとはどういうことでしょうか?

一見ぶっきらぼうな句などがあります。青畝は耳がご不自由なのですが、聞こえないというご自身の辛さを高いところから俯瞰して笑ってしまっている。すごいなって思いました。句の中に「おかしみ」があります。心の辛さや困難なことが、俳句で客観写生することによって笑いに変わっているのですね。『枕草子』の「いとおかし」の境地にも届く深さがあります。そこからです。俳句を勉強しようと思ったのは。

 

―川村さんは俳誌「ホトトギス」の同人ですね。

はい。普通ならどこか結社に入らせてもらったらいいんですけど、そうすると吟行や俳句会に出席しないといけないんです。となると仕事があるし子供もいるし、父母の手伝い等もあって時間的にとても無理なのでNHKの俳句添削講座を始めました。右も左もわからないままのスタートでしたが、ひとつの自信は玉骨句集のデータ化と阿波野青畝句集や、後藤夜半らの句集などの読み込みでした。もしかしたら何とかなるかなと。それで2年間くらい添削を続けて、ある程度見えてきたところで、すごいハードルは高かったですが、思い切って「ホトトギス」にと投句したら稲畑汀子先生(虚子の孫)の「天地有情」にまず一句が掲載されたんです。もう嬉しくて!小さい字だったんですけど、ここに持ってきてみんなに「見て見て!」って言ってね。こんなの一生に一回かもしれないと思いました。その後主宰の稲畑浩太郎先生選の「雑詠」に毎号載るようになり、その後も投句をずっと続けてたら何年か前に「左の人を同人に推薦します」ってとこに私の名前があって!もうこんな嬉しかったことはなかったですね。

 

―その後の藤岡家はどのように進んできたのでしょうか?

田中さんの構想でたくさんの方にここを知ってもらうことができましたが、その後、田中さんが御年齢の事もあってキッチンを辞められます。開館から1~2年は月に1回のランチサロンやお琴の会など地元のいろんなものを生かしてイベントを行っていましたが、徐々に、厨房スタッフの常駐、お客様が来られなかった場合の食材の廃棄の問題等、色々な意見が出てきました。そしてコロナ禍の時代が来て、飲食を中止しました。

 

―美味しいものと見学するもの、どちらもあるのは魅力ですが、運営側としてはそういった事情もおありだったのですね。

田中さんが退かれ厨房の方も一旦休止し、今後どういった運営をしていくかというお話で、ご当主がおっしゃったのは「自分が英国などに行くと古いお家のものをいっぱい資料として展示しているところがあり、それは次の文化にとって、ものすごい力になっている。外国を旅した時にそれを強く感じる。英国なんかは入館料も結構高い。これからもしかしたらここも入館料を値上げすることになるかもしれないけれど、もっと資料に特化してもいいんじゃないでしょうか」ということでした。ほっとしたというのが正直な気持ちでした。その後、天誅組関連やたくさんの資料がどんどん出てきて、いろんな展示もさせていただいてきましたが、この先、ここをどうしていくのか、どうなっていくのか。進む方向はこのお家を守ってこられたご先祖様が決めてくれるでしょうって、私はどこか気楽に思っています。でも精一杯の努力は日々続けています。

 

―進んでみてわかることもありますものね。

こんな素敵なところでいただく季節の料理。すごい楽しい時間でしたね。「地域を大事に、みんなが楽しめる場所」っていうのは田中さんから学びましたし、ご当主は今も、維持管理費をずっと送ってくださってます。「いつもありがとうございます」とメールすると、「ありがとうはいらないですよ」って。

 

―台風被害の後、取り壊されてもおかしくないはず。ご当主が「修理、保存」という選択肢をお持ちだったこと、そして山本さんのHPにたどりついた奇遇など、藤岡家の船出は導かれてたんですね。

ほんとにそうです。ご当主は「更地にしようかとも思った」とおっしゃってました。先代当主も同じご意見だったそうですが、最終的な判断はご当主に委ねられたそうです。ご当主のお考えと、山本さんや田中さんはじめ、五條を引っ張ってきてくれた方々が集まって力を貸してくださいました。藤岡家住宅の開館は、五條ロータリークラブの発足50周年の記念でもあり、クラブの方も邸内に句碑を建立してくれたり、俳句会の開催をご支援くださるなどご尽力くださっています。

 

Part③につづく

 

第83回ーPart1 登録有形文化財 藤岡家住宅     NPO法人うちのの館 館長 川村優理さん

ここはテーマパーク 発見できるドキドキの場所

五條市近内にある「藤岡家住宅」。聞いたことあるけど行ったことない・・・という方は五條市民でも多いのではないでしょうか。かくいう私もそのひとり。
開館から既に16年。館内を案内してくださった館長川村優理さんにインタビューさせていただきました。

藤岡家住宅について

―まずはじめに「藤岡家住宅」とはどういったものなのか教えていただけますか?

こちらは江戸時代の庄屋のお屋敷で、薬屋、そして薬の材料を売る薬種商というのをなさっておりました。もっとさかのぼると、いちばん最初は大阪の夏の陣で敗れた豊臣方のお武家さんが金剛山を超えてこちらの土地に逃れて来られ、最初傘屋を始めたとあります。

 

―豊臣方の武家が?

大坂屋の「大」の屋号が入った鬼瓦

はい。どこのどなたかという記録は何もなくて、地元では「かさ屋」と呼ばれてたそうです。そのあたりからの記録がしばらくなく、次の記録が元禄年間、「大坂屋長兵衛」と名乗る方で、家業は薬商、薬種商、両替商となっています。最初の方の記録がほんとにわずかしかないですが、続々と文書類が出てきていますので、今後それがわかる資料が出てくるかもしれません。
建物は一番古いもので江戸時代寛政年間、新しいものだと明治45年の建物なので、平均して築200年くらいの建物が残っています。

 

―藤岡家住宅は藤岡長和(俳人 藤岡玉骨(ぎょっこつ))の生家と紹介されていますが、「藤岡長和」について教えていただけますか?

長和さん(以下 長和または玉骨)は明治21年、11人兄弟(四男七女)の長男として生まれます。お父様(長二郎)は江戸時代からの庄屋と薬屋を継いでおられましたが、明治期になると、北宇智村の初代村長を務めるほか、殖産興業の時代に農業だけでは立ち行かないことに目をつけ、村に製糸工場を引っ張ってきたり、この山麓に鉄道を敷設し、スイッチバック式の北宇智駅を設置するために多額の寄付をするなど、江戸から明治への変革期に地域に随分貢献した方のようです。その後、南都銀行の前身の吉野銀行の創設にも参加し、吉野銀行五条支店の支店長も務めておられました。

 

―北宇智駅やあのスイッチバックも、藤岡家の貢献があってこそだったんですね。

そうですね。藤岡家には長男の長和をはじめ4人の息子がいる訳ですが、お父様は息子達にこの屋敷を継ぐのではなくて、特に長男の長和には「官僚になれ」と命じられたそうです。長和は五條中学、京都三高(現在の京大)、そして東京帝国大学(現在の東大)に進まれ、学生の時に高等文官(現在の国家試験)の試験に合格、卒業と同時に官僚として愛知県に赴任しておられます。もうキラキラ官僚というんでしょうか、エリートコースをたどっていかれます。

 

 

―命ぜられた道をとても優秀に進まれていったんですね。

次男さんも五條中学、京都三高、東京帝大に進まれまして、播州の石井家という大きな庄屋に御養子に行かれます。大学では応用化学科をトップで卒業したという全く理科畑の方ですが、兄(長和)が京都三高時代に与謝野晶子・寛夫妻主宰の「明星」に加わった影響から、自分も夫妻の元で短歌を詠むようになり、歌人、石井龍男として活躍しました。
三男さんは、五條中学から京大法学部に進まれ、内務官僚となりました。後に官選知事にもなりますが、この方が有名になったのは車の左側通行を決めたということでテレビ局が取材に来られたこともあります。
四男さんは阪大医学部に進まれ、ドイツに留学後、富田林で藤岡医院を開業なさいます。その方を初代として玄孫の方まで歴代医院を継いでおられます。そうして藤岡家の男子4人はみんな五條を出て、女のお子さん7人も五條以外へ嫁がれ、このお家に住まいする直系の子孫の方がおられなくなりました。

 

―11人もお子さんがおられたのに、代々繁栄していた藤岡家を誰かに継がそうとはしなかったんですね。

江戸時代の薬屋は診療もしていたので四男さんが医者になっているという意味ではお継ぎになってるんですけど、ここではなく富田林で開業しておられます。長和も戦後は五條に戻って南都銀行の取締役をされてるので結果的には継いでることになるのかなと。ですけどそう言われるとほんとに、子供が11人おられたら、例えばお嬢さんに御養子さんをもらって、薬屋、あるいは両替商、銀行を継ぐこともできたでしょうに、当時お父様はそれを考えなかったんでしょうね。

 

―息子がいつか戻ってきたり、遠い先の何かを見据えていたとか?

あー、もっのすごい先見でね(笑) それはそうかもしれないですね。確かに藤岡家の方は皆、活躍して、森鴎外や与謝野夫妻、南方熊楠らと交流を深め、当時の先進的な文化や考え方を持ってきておられます。まだ中学、高校の制度がない江戸時代生まれのお父様は算盤で微分も解析もできたほど頭が良く、貨幣経済が転換していく頃、この土地にはどういう産業が似合うか、例えば製糸工場を誘致して農業と製糸を繋ぐように、農業から近代産業への道筋を随分色々考えた人だと思います。明治期は近代国家としていろんな戦争があったり、新しい法律ができたりと国際化していく時代。ここは山に囲まれ静かで、あまり変化を好まなくていい、結局豊かだってことなんですけど、もしかすると、そういった場所に、もうひとつ向こうに出て俯瞰する視点を子供達に持ち込んでほしかったんですかね。

 

長和の生涯

―長和はその後どういった人生を歩むのでしょうか。

時代の変革期をエリートとして進まれます。31歳で和歌山理事官をされてたとき(大正8年)の演説では「これからは自治の時代です」と言っています。「地方から何が大事かを考えよう、そのために必要なのは教育だ」と。当時は小学校へ行くのも大変な時代でしたが、「もっともっと子供達と地域住民の教育を充実させ、地方の自治をしましょう」と。その後、「地方自治法」が制定され、70周年のときには私達が総務大臣表彰をいただいたんです。地方自治頑張りましたねってことで。私達は先人の方達の恩恵で、ただここを管理させてもらってるだけなのに、ご当主の藤岡宇太郎さん(長和の孫、茨城県在住 以下 ご当主)も「爺さんは地方自治の進歩を目指して頑張ってたからね」って。すごい方だったんだなって改めて感じるのと同時に、ぬくぬくと平和な時代で、ちょっと勉強したら偉そうなことを言いたくなる・・・そんな世界にいる私達は、先人達がいた時代があって、それで次の平和を探していかないといけない、まだまだ勉強しないとって思いますね。

 

―大正時代、31歳で、その時既に地方自治や子供への教育の重要性を発信されてたんですね。

お父様の先見性を継いでおられたと思います。戦前ですから国が命令して政治を行う時代でしたので、当時はそれを発言するのもしんどい思いをされたと思います。

地方官時代、各地を転々とした長和愛用のイニシャル入のかばん

その後、官僚として各府県を歴任した長和でしたが、まさかあんな大きな戦争が起こることを予想もしなかったと思います。とんとん拍子に出世していく一方で、世の中はどんどんと戦争へと突っ走っていく・・・。官僚としての職を崩す訳にはいかないけれども、このままではだめなんじゃないか・・・という複雑な思いがあったんでしょうね。
昭和14年、知事を退官前、熊本県知事の時代に奥様と一緒にハンセン病施設「菊池恵楓園」を訪れます。当時はまだハンセン病への理解が進んでなくて、公職にある者は絶対に立ち入ってはならないという法律まであったそうですが、ドイツ語の本なども読まれてた長和は、罹患しない、日本のハンセン病に対する考え方は間違っているという確信が、その時既におありだったのかもしれません。

 

―公職のお立場で自らの意志でハンセン病施設に立ち入り、何をされたんですか?

長和は「皆さんを慰めに来たのではない。一緒に俳句を詠みに来ました」と言うんです。施設の中に八角堂、これが栄山寺の八角堂に影響されたかどうかは分からないのですが、匿名で八角形の文芸堂を建てまして「言志堂(げんしどう)」と名付けるんです。「ここで一緒に俳句を詠みましょう」と言って、俳句会を続けていくんですね。現在、その言志堂は建物は国に寄付され看板しか残ってないそうですが、長和の退官後も菊池恵楓園では俳句活動が続いていて冊子が送られてきていました。多分、その訪問をきっかけに知事をお辞めになったと思うんですが、熊本から出るときには知事の報酬を全て寄付し、その後は紡績会社の取締役となり文芸活動もされてました。昭和20年、大阪の宰相山にお住まいの時、家が戦火に合い五條へ帰ってきています。

 

―五條に帰ってきてからはどのような暮らしをされてたんでしょうか?

知事時代は、どこへ行くのもお付きの者を連れて・・・そういう生活でしたが、こちらに帰ってきてからは銀行にお勤めのかたわら、地域の方々に俳句の指導をし「ホトトギス」派の俳人として毎日新聞の選者を務め、俳誌「かつらぎ」で初学の方に指導をするなど文化人として活躍しました。昭和37年6月には俳句の活動によって奈良県文化賞を受賞しています。74歳でした。
俳号は藤岡玉骨、栄山寺には玉骨の句碑が建てられています。

 

Part②へ続く

 

第76回 総合卸サクラ 櫻本浩士さん

 

まだまだやりたい仕事があります。

 

田園で飲食店・農家さん向けの卸売業、運送業、他にも色んなお仕事をされてます。色んな仕事の内容の幅にびっくりの連発でした。お仕事の内容を楽しそうにお話される櫻本さんにインタビューさせていただきました。

会社を初めたきっかけ

―会社の名前の由来をお聞かせ下さい。

私の出身が吉野郡で名前が櫻本なので、奈良と言えば1300年の歴史がある吉野の桜ということと、会社が長きに繁栄していくようにと名前をサクラにしました。

ーお店を経営するまではどのような仕事をされてたんですか?

今の仕事と似たような仕事の営業をしてました。

ーお店を経営しようと思ったきっかけはなんですか?

自分は経営するつもりはなかったんですよ。お客様に進められて始めました。39歳で始めて、25年間してます。自営を始める時は、親には陶器なんて売って今から厄年の年に入るのにと言われました。ただ私自身育った南和の地で頑張っておられる飲食店や農家の方々に少しでも役に立てるように地域の町づくりに協力出来たらいいなと思い今も続けております。

―どんなお仕事から始めたんですか?

業務用の陶器から初めました。窒元の有田に行って有田焼の勉強もしました。それから、印刷関係の仕事を始めまして農家さんのパンフレットや飲食店のメニュー表も始めました。1日の営業として朝3時位に起きて飲食店やキャンプ場に食器や制服のカタログをポスティングしてました。ただ新しく仕入れの取引をしてもらいたいんですが取引してくれないんですよ・・・とにかく最初はお金がなくて苦労しました。

総合卸サクラ(卸業)とは

ーどのような内容のお仕事をされてます?
新しいお店を開店する時に必要な、看板、名刺、パンフレット、名刺、のぼり、暖簾、食器、お盆、スプーン、ラップ、洗剤、冷蔵庫、ゴミ袋、制服、事務用品、レジ等必要な物をすべてを揃えさしていただいております。

高野山のお寺などに行ったら精進料理などが出てくると思うのですが、その際に使用する机や椅子をメーカーに発注して納品しております。最初は仕入れ先が少なかったですが、今では全国から色んな産地の漆器、陶器、木製品が取り扱い出来るようになりました。

 

 

 

 

 

 

 

 

さくら五條トランスポート(運送業)

ーどのような仕事なんですか?
スポットチャーター便・軽バン・チルドです。365日定期的な仕事や当日に引取に行って即日納品の仕事もあります。時間は早朝朝からというのが多いですね。

ー駐車場の車は冷凍車なんですか?
そうですよ。アイスクリームやおもに冷凍食品を冷凍車で運んでます。会社の倉庫からお客様の倉庫や配送センターにに納品しております。
また、飲食店のセントラルキッチンに出向き焼肉屋さんの各店舗に食材を配送しております。個人宅の配送ではなく業者間の配送ですね。
朝早いのが多いです。京都から白浜までの配達でしたら、朝1:00五條を出て朝3:00に倉庫で荷物を積んでお客様の所に朝7:00納品という依頼が来ます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

災害の時が一番忙しいです。

ー災害の場所に行くんですか?
コンビニの商品がなくなりますので、商品を倉庫に取りに行って運びます。高速道路で雪や事故で、冷凍食品を積んだ大型車が渋滞に巻き込まれた時は、その場所まで軽の冷凍車で取りに行きまして積み替えて各地に振り分けてもらうこともありますね。

ー大変ですね?
仕事をいただけるだけでありがたいです。
介護施設の配送の仕事が入ってきまして、愛知や三重に運ぶようになってました食材を冷凍車に積み替えて私達が下の道を使って運びます。
この辺でしたら大和郡山の食品会社まで商品を取りに行って運ぶ事が多いですね。

介護施設の入居者さん利用者さんの食材などを運んでいるので、遅れる事は出来ないですし冬は大変です。雪や大雨、台風だからと止めれない仕事です。お昼ご飯の食材を運んでますので持って行かないとご飯を食べれないじゃないですか・・・

ー人助けの仕事ですね?
いやいや ありがたいですね。

ー運送の幅が多すぎますね?
色んな運送の仕事がありますからね。
大阪でビルを建ててましたら電気関係の部品を運びます。
大型商業施設での食のイベントの食材も運んでます。ラーメンのだしを運んだりしますよ。
裏の方が分かってくるので楽しいですよ。

一番大変なのは何ですか?
大阪市内のビルの中にあるの飲食店に食材を納品するのに、ビルの裏口から入らないといけないので、行きはいいんですが帰りはビルの中をウロウロして、車までたどり着くのが大変です。

ーどのような荷物を配送されているのですか?

野菜を配送会社からお惣菜を加工工場へ運んだり、豆腐やお寿司を直売所へ運び陳列したりもあります。後、コロナワクチンの配送もあります。

ーコロナワクチンを運ぶんですか?
コロナワクチンを置いてる配送センターに取りに行き各自治体の接種会場まで運びます。
ワクチンを運ぶのに、-70度で運ばないといけないんですが、そんな冷凍車はないので、ワクチンを専用の保冷箱に入れて温度を安定させて運びます。ワクチンを運ぼうと思ってまして1台車を用意しました。仕事が続くといいなぁと思いまして・・・・

ー時間以内に運ばないと駄目ですね
そうですね そこは大変ですが、ドライバーさんに頑張って頂いております。

ー運送の仕事で大変だった仕事はありますか?
年を取ってきたので、マンションとかエレベーターのない所あるじゃないですか階段を使って重たい物を運ぶのは大変で、そんな仕事は受けないようにしてます。

―色んな仕事をしてますね

奈良県には軽の保冷庫を持っている所は少ないようで、ありがたい事に仕事の依頼は来ます。保冷車は今は10台位あります。依頼がきてもドライバーが居なくて断ること事もあります。毎日の仕事の中で学校給食の食材を運んだりしてます。

ポリストアーさくらとは

インターネットでポリ袋の通販サイトをしておりますが、今は少しリニューアル中で休んでおります。近日に更新する予定です。

ーこの仕事をして良かったことは何ですか?
災害の時に食材を運んでいたら喜んでくれました。コロナの頃は他府県ナンバーなのですごく嫌がられました。
今でも言われますよ

ーやりがいはありますか?
難しいですね。
商売というかお仕事が好きなんで、儲けるのが下手なんですよ。
仕事の依頼を言ってきてくれるのが嬉しいです
電話がならなかったら、壊れてんのかって思います。
コロナ渦でマスク、手袋がない時は当社に在庫がありましたのでお客様に無事提供出来ました。通常で在庫していた分がすぐに売り切れました。そこからなかなか入荷しなくて大変でした。

ーコロナ渦がましになって商売はどうですか?
今は商売がよめないです
駄目ですね。
飲食店を辞める方が多く厳しいですね。
一般家庭の方が外食に行く回数が半分になってますね
結婚式も小人数、お葬式も家族葬に変わってきまして朝昼夜とお弁当が出るのも最近はあまりなくなってきました。元に戻すのは無理なんです。

今はケーキなどを保冷車で運ぶ仕事が定期的にきて助かってます。
何が売れるか分からない時代ですからね?私はたまたま当たったんです。私が仕事で思いついたのは、コロナワクチンを運ぶ位ですかね。読みがいいなとよく言われます。

昔は結婚式が多かったから食器もよく売れました。
日曜日の大安でしたら、結婚式を1日に3組位してましたので、食器が300~500枚位必要なんですよ。
忙しいから、お皿を割る事が多くよく売れました。
何でそんな売れるのとよく言われました。
100均の器に高級料理を盛り付けても美味しそうに見えないんですよ。いい食事には良い食器で料理を出していただきたいです。

ーこんなに仕事内容がありますと事務員さんも大変ですね?

事務員さんは僕がどんな内容の仕事をしているか知らないんです。私自身が管理して指示を出しております。事務も勘定科目が多く科目を分けるのが大変で外部の人間に頼んでます事務員さんは皆さん優しくて長い事来てくれてます。本間いい人ばかりです。

ーこれからどうしたいですか?
今の現状のまま、楽しく続けたいです。

ー大型のトラックの運転をもうすぐ2人で交代で運転するようになりますよね?
うちは忙しくなります。
大型トラックが中継するので、そこに私たちが軽で行きまして、荷物を降ろして色んな場所に運びます。

ー五條市に対して思われる事はありますか?
当社としては卸の商売してるのですか、お店屋はそれの下にあるじゃないですか?どんどん店を閉めて行くじゃないですか。
五條から出て買い物に行くのは便利でいいんですが、外から五條市に来てくれるようにしないといけないですね。子供さんが居てないし、若い人は五條から出ていくじゃないですか。
学校も合併して行ってますね。
夜8時になるとご飯を食べに行こうとしたら、行く所がないじゃないですか?外からお客様に来ていただいて、お買い物をしてほしいです。

総合卸サクラ
住所 奈良県五條市田園3-10-5
TEL 0747-26-1117 FAX0747-26-1118
卸売業
             さくら五條トランス
          住所 奈良県五條市田園3-10-5
        TEL 0747-22-1511 FAX 0747-26-1118
                 配送業

 

スタッフの感想
櫻本さんがどんな仕事をしてるのか?興味津々で伺いました。
お話を聞かせていただきまして、私が思ってた内容のお仕事と違いまして、驚かされっぱなしでした。
インタビューの初めから終わりまで、笑いっぱなしで楽しい時間をありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

第74回みつ葉接骨院 多賀野 葉子さん

明日も元気に笑顔で過ごせるようお手伝いさせて頂きます。

みつ葉接骨院の名前は、お母さまの光代のみつと葉子さんの葉をとってつけられました。
接骨院を一度は開院するのを辞めようとしますが、ある事がきっかけで開院する事を決意します。
お話を聞かせていただきました。

 

接骨院の開院のきっかけ

いつから接骨院を開院されたのですか?

6年前の2017年4/19から初めました。

接骨院を始めようと思ったきっかけは何ですか?

兄が6年前に亡くなったんですが、兄の病気が見つかった時、私が接骨院を開院しようと思ってましたが、こんな事をしてる場合ではないと思い開院するのを辞めようかと思っていましたが、兄を一人にできないので親に兄の側に居て私が働いてる姿を見せてあげて、元気づけるではないですが、一人になると色々考えてしまうので側に居てくれたら安心するからと言ってくれたので開院するきっかけになりました。

接骨院を開院するまでは?

専門学校入学~5年程接骨院で働いておりその後デイサービスで機能訓練士として働きました。
そろそろ接骨院を開院しようかなと親に話はしてまして、タイミングが兄の病気と重なり背中を押してくれました。

保険治療ではどのような治療をしてますか?

一番悩みが多いのは、膝の痛みと腰の痛みです。接骨院は急性を扱うものです。肩こりは自費治療です。朝から急に肩があがらない場合等は保険適応となります。腰痛は、急性の時さわって熱感があれば冷やして超音波治療、動かせるようになればストレッチ、お家でもして下さいとお伝えさしてもらってます。基本的には電気、筋肉をほぐす主技。超音波をあてさしてもらいます。痛みがひどい時は、毎日来ていただくのがいいですが、ましになって痛みを忘れる期間が増えてきたら、週に2回、だいぶましになれば予防の為に週1回通ってくれてる方も居ます。皆さん仕事がありますので、日頃のケアが大事です。ストレッチをしてください。
私の仕事は、治す事ではなく治すお手伝いをする事だと思ってます。身体を温める事、栄養をしっかり取る事、内臓が元気じゃないと駄目です。
急性の場合最悪お酒は控えてください。お酒を飲むと、血流がよくなりますので余計痛みがきつくなります。身体を休める事が一番いいです。シップは冷やす効果はないです。袋に氷を入れて冷やすのが1番いいです。食材を買った時についている保冷剤で冷やすのは止めてください低温火傷をしてしまいます。温めると逆効果になるので、腰を痛めた時は、お風呂に入らない方がいいです。シャワーだけにしてほしいです。一番は安静です。
長時間座っている時は、貧乏ゆすりがいいです。立ち仕事の人は段差に足をかけたりするながら運動がいいです。物を取ったりする時は、しゃがんで取るようにしましょう。継続するのがいいです。

 

 

 

 

 

 

 

自費治療とは

自費施術をしてるんですね?どのような事をされてますか?

マッサージは好きなので、身体をほぐしたり、マッサージを長めにして背骨の矯正をしたりします。 私は柔道をしてきてケガが多かったので、吸い玉の治療が良かったのでお薦めです。
接骨院ですが、接骨院って感じが嫌で、女性の来やすい雰囲気にしたかったのでカフェを巡り内観をカフェ風にしました。女性の方に来て欲しいです。

よもぎ蒸しを始めるんですね

4月からよもぎ蒸し治療を始めました。私が柔道を辞めてから女性特有の不調が出てきました。だいぶ苦労しました。生理前のPMSの症状が出て来て不安な気持ちになったりするのが出てきまして。そんな時に、よもぎ蒸しを試しましたら無くなりましたが、また次の身体の不調の悩みが出てくると思うので・・・女性の身体の悩みが出る一発目が、30歳を過ぎてからです。最近友達と会っても身体の事ばかり話してます。50代の方でも、私の思いは5年後、10年後元気でいてほしいです。一緒に頑張りましょうという思いです。60代、70代になるとまた他の悩みが出てくるので考えていきたいです。女性は男性の何倍も頭を使うので、ずっと動いてますので、仕事、家庭、育児の事がありますので睡眠不足になったりします。カフェとかでおしゃべりするのもいい事ですよ。

よもぎ蒸しに向いてる方はどんな方ですか?

身体の冷えが頭痛、肩こりに繋がりますし、よもぎの独特ないいにおいがするので40~50分間、携帯も触らないで無で実感してほしいです。そんな時間は、中々ないと思うので自分を見つめなおすにはいい時間です。私が去年結婚しまして、子供を授かりたいと思ってまして。どんな効果があるのか自分に対する挑戦です。よもぎ蒸しは妊活にもお薦めしてます。分かりやすく言いますと(温かい布団で寝るじゃないですか?子供に冷たい布団で寝かせるんかって)聞くんですよ。温かい布団を用意する為によもぎ蒸しをして温めましょう。冷えが一番大敵です。悩んでる方に挑戦して頂けたらと思います。

どれくらいの期間できたらいいですか?

治療には少し金額はかかりますができれば週に1回は来てほしいです。改善が早いです。回数券を買っていただいたら少し安くなりますので試してほしいです。薬の飲む量を減らせたり、マッサージに行くのを減らせたりできるので、プラマイゼロになり、身体を改善してくれます。花粉症の方にもいいです。マントを頭までかぶってもらいよもぎを吸い込んでもらって、免疫力をあげるので改善になります。

いつから始めるのがいいですか?

いつから始めてもいいですが。お薦めは夏から始めてほしいです。冬の冷えは夏が勝負です。内臓を冷やしてしまうので、秋口にしんどくなり、冬にもっとしんどくなります。で春が来てまた調子が悪くなります。吸い玉は、肩が凝りすぎて吐き気がある時は敵面で効いてくれて、肩は凝るけどましになり冬を乗り切れた方が予防に3週間に1回位来られます。

若いから気をつけないといけない

若いから大丈夫とよく言われますが、若いから気をつけないといけないんです。年齢順に亡くなってしまうのではなく、いつどうなるか分からないので。

今は若い人の方が身体が弱くないですか?

今は情報が多すぎて不安になりますね。この3年間プラスに言うのは大変でした。患者さんがコロナの話ばかりで、同じように言うてたら駄目なんで、大丈夫とプラスに言い続けていました。一年目は毎日コロナの会話で結構大変でした。不安だし患者さんは来なくなりますし。少し経てば患者さんは来てくれました。家にずっと居ないといけないから肩が痛いとの事で来てくれました。
30代から90代の方まで幅広く来院して下さります。年代に寄って悩みが違います。

どのように広げたんですか?

インスタ、チラシのポスティング、看板とかではなく、一番は口コミで広がって、患者さんにお任せして、お客様が来てくれるようになりました。初めは、スポーツ障害みたいな接骨院をしようと始めましたが、自分の身体の不調が出て来て方向転換しました。

これから先はどんな事をしようと思ってますか?

将来的には妊娠、出産を経験し、勉強した後産後ケア等もしたいと考えています。今は経験してないので説得力がないと思うので40代にはしたいです。年齢によって私もしたい事は変わってると思います。

前向きですね

前向きにしないとしんどいじゃないですか?私はネガティブになると疲れるからしんどいから逃げてしまいます。私はこんな事言ってますが、毎日お腹の調子が悪いんですよ。あの人にきつい事言ってしまったなとか、こんな事出来たらなとか考えてない振りしてどこかで考えてるんですよね。根っからのポジティブではなくポジティブにしてるんです・・・・この仕事をしてたらため息なんついてたら駄目ですからね。

今の仕事をしていて良かったと思う事はありますか?

しんどい方のお話を聞いていて、その方が泣いてくれたんです。私がたまに泣きたくなって涙を流すんですが、泣くとスッキリするじゃないですか。前から何か話したいことがあるんだなって思ってまして、吐き出してくれたんです。涙って大事じゃないですか?嬉しかったです。患者さんの腰の痛みがなくなったり、疲れがなくなったりされて毎日喜びは何かしらあります。

このお仕事は楽しいですか?

幸せかなと思います。一人でしてますし、人間関係の問題もないですしね。隣に両親も居てますので。幸せな環境だと思います。

この仕事につけたの恩師のおかげです

この資格を取ろうと決めたのは、大学卒業の半年前です。それまで一切何も考えてなくてずっと柔道をしたかったんですが、身体がボロボロでもう柔道は続ける事が無理で。就職もどうしょうかなと思ってまして。お世話になった五條東中学校の柔道の先生が恩師で、その方の知り合いの方がこんな仕事どうやって言うてくれまして。その先生にお前の性格上警察官には向いてない人と話をするのが好きやからそっちにいく方がいいと言われました。その人のおかげでまさかこんなに続けれれてるとは・・

いつから柔道をしてたんですか?

4歳から26歳までしてましたので、22年間位してました。楽しいなと思ってしていたのは小4位までです。それからは成績を残さないといけないので、大学時代が一番しんどかったです。勝たないとあかんけど勝てないし身体もボロボロですし。まだ根性論の時で、中学生の時靭帯を損傷しましたがその日に動けないからとギブスを外しました。その時きちんと治しておけば靭帯がグラグラにはなってないです。今となっては好きです。いいスポーツですね。

 

 

 

 

 

 

 

今までいい人に巡り会えて来ましたね

人と関わる事に関してはいい人に恵まれてます。怒る時は怒ってくれますしありがたいですしね。今仲良くしてくれてる人もいい人です。

この仕事のやりがいは何ですか?

患者さんを治療して身体の痛みがなくなってくれる事と、疲れが取れてくれる事です。自分自身を見つめ直す事が出来ます。自分の為になります。

皆さんに伝えたいこと

人間は我慢が一番良くない事です。痛みにしろ疲れにしろどっかで言えなかったら来てくださいと言ってます。怪我をして、後悔してる事は山ほどあると思うんですよ。何であの時あーせんかったんやろとかあの時見つめ直してしてたらとか・・・

兄は強い人でした。

何であの時兄は言わなかったんやろ痛いともしんどいとも・・・兄貴は、最強に強い人間でした。小さい時から怪我しても痛いと言わない。しんどくてもしんどいと言わない。兄貴は根性の塊りの人間で兄貴は根性があり、私は根性がないと言われ続けました。
兄の病気が分かったのは7年前の10月でステージ4でスキルス性胃がんで進行性でした。ずっと胃は痛かったみたいですが、普通でしたらだいぶしんどいはずなんですが1年位37.5度の微熱があるのにしんどくないから病院に行かず、さすがに周りにも病院に行った方がいいと言われて行きましたら余命3か月と言われました。リンパに転移してるから手術もできないし、がん細胞が強いので抗がん剤は効きませんしずっと元気で亡くなる3週間前まで遊んで楽しく過ごしてました。
一番我慢する事が良くないです。痛い事を痛いと言わない事が結果良くないじゃないですか?私でしたら、痛い時は痛いというので、すぐに病院行きますし。たまにしんどいのか寝てました。それでも39度熱がある感じで、何も言わないし、最後まで弱音を吐かなかったです。兄が1回だけ泣いた姿を見ました。親を頼んでおくと言われました。医者にも、ごまかさないで正直に言うてくれと、それを聞いた上で判断したんでしょうね。その1年間は好きな事してましたよ。1日10食位食べてました。
それまでは、兄の事はあまり好きではなかったです。きつい性格でしたので。私より数倍きつい性格だし、言いたい事は言うし言われたくないことも言われますからしょっちゅう泣いてました。私以外には優しい人でしたよ、妹だからきついだけで。
1年間であんな格好をみせられると惚れてしまうほどでした。
若いから大丈夫じゃなくて痛みを我慢しない。病院に行ったり誰かに寄り添ってほしいです。兄が亡くなってしまうと親がとても可哀想でした。子供が親を見送るのが当然なんで・・子供は先にいってしまったら駄目です。兄の人柄で、お葬式にはたくさんの人が来てくれました。沢山の方に見送られて幸せ者でした。若いから大丈夫ではなく、若いから気をつけないといけないとお年寄りはの方はお孫さん達に言ってほしいです。

五條市に対してどのような事を思われますか?

いい所があるの勿体ないです。シダアリーナってすばらしい所だし、新しい市役所もありますのに。今ならWBCで日本が勝利したのですから、五條市出身の岡本和真さんをうんだ町なんで五條の事を知らすチャンスだと思います。呼んだりしたらどうかなと思います。私もスポーツしてたからなんか寂しいです。五條をもっと盛り上げてほしいです。

お年寄りの声ですが
病院が少ないし、補助がない。五條バスセンターから南奈良の病院まで行くのに2時間位かかるんですよ。お年寄りは子供さんに連れってもらうのも気を使うから、行くのを諦めて家に居てしまうんですよ。自然も綺麗だし、勿体ないと思います。

みつ葉接骨院 
                 住所           奈良県五條市新町1-7-28                           
          電話     0747-27-1031       

受付時間 AM9:00~PM7:00  最終受付PM6:00

   日曜のみ AM9:00~PM2:00 最終受付PM1:00

休日   月・火・祝

 

スタッフの感想

初めてお会いした時から、親しみやすくて明るい葉子さん。
インタビュー途中も、喋り過ぎて話が何度かそれてしまったりで・・
身体を治すお手伝いをしてくれるだけではなく、お話をしてますと元気をくれる方です。
接骨院を開院する前から、色んな事がありましたが明るく前向きな姿を見て、私も見習わなければと思いました。
インタビュー後よもぎ蒸しに通い始めました。夏に向けて強い身体になりますように‼

 

 

 

 

 

第70回かどや 森脇孝子さん 津積絵美さん

 

 化粧のちからで心豊かな人生を応援します

 

娘さんの代で3代目となるかどやさん 娘さんとお母さまが二人で仲良く楽しくお店をしてます。お店が出来た経緯を教えていただきました。

いつからお店を始められましたか?

65年前位からです。

お母さま)先代の父と母が始めました。元々橋本の隅田に住んでおり、百姓もしていました。ところが父が病気を患い、和歌山県庁の仕事を辞め、牛乳の販売と処理場をしていた親戚の片岡牛乳さんから土地を買い取ってこの場所でお店を始めました。その当時はこの周辺は南都銀行、郵便局、NTTがあり賑やかだったそうです。
先代の父は、京都工
芸繊維大学出身で繊維の勉強をしていた関係で、下着はワコール、服はレナウンがいいと取引を考えた人です。お店の開店の初期は足袋、和装小物を販売してたようです。お店の2階に福助の人形があり今でも大切にしています。
そこから資生堂、カネボウ、マックスファクターの化粧品を始めていきました。

お母さまはいつからお店にいてますか?

主人と結婚してからお嫁に来て40年以上です。

お母さま)主人が学校に勤めてましたので、私がお店を手伝うようになりました。お店はその頃資生堂花椿クラブのチェーン店になっておりまして一から化粧品の勉強をしました。資格を取得するのに、奈良まで何日も通いました。その頃は、エリクシール、リバイタル・ドルックス・クインテスの商品がありました。正社員の方が2人居て、母と私と4人でお店をしてました。一人前になるまでに化粧品の知識と技術がいりますので2年はかかります。

娘さんはいつからお店で働いてるんですか?

大学を出てから20年以上居ます。

お店を手伝いながら資生堂ビューティーアドバイザーの資格、一般社団法人日本エステティック協会のフェイシャルエステシャンの資格を取得してます。娘が、お店を手伝う事に先代の社長はすごく喜んでました。

お客様はどのような年齢層が多いですか?

年齢層は高齢の方が多いです。

お母さま)一度お店に来られた方は長い間来てくれます。一人暮らしのお年寄りが多いので、化粧品を購入に来られて、世間話をされて憩いの場になっております。五條市から引っ越しされた方や、その方の娘さんも来てくれます。

お薦めの商品はありますか?

お母さま・娘さん)取り扱いの化粧品は資生堂、カネボウですが当店ではカウンセリングをして対面販売する専門店の化粧品店です。お客様の一人一人のお肌の悩みをよくお伺いしてお客様の気持ちに寄り添う事です。その悩みを解決するお手入れ方法や、綺麗になる為の商品や使い方を丁寧に紹介してます。店頭機器を使って肌診断も実施してます。毎月実施するセミナーに必ず出席して常に新しい知識と技術を取得してます。
化粧品の他にも洋服、小物を販売しております。娘が大阪に仕入に行ってます。みなさん高いと思うイメージがあるそうですが靴下、鞄、エプロン等お手頃価格商品も置いてます。

エステもしてるんですね?

娘さん)基本的にお勧めしてるのが、お手軽価格でマッサージとパックがついて¥2,200。月2回位来ていただけたらと思います。

エステがメインではなく、お手入れをしながら、化粧品の正しい使い方や、今使っている化粧品の有効的な使い方を伝えていく事です。エステをすると、肌がツルツルになったり、もっちりしたり化粧のりがいいです。エステをされたお客様が、お家に帰りますと娘さんに「今日は肌が違うね」と言われた話を聞くと嬉しくなります。同窓会やライブなどのイベントの前にエステに来られるお客様も居ます。90歳の方が、毎週エステに来られてました。すごく綺麗でした。先代の母も92歳まで毎日お店に来て、マッサージしてましたよ。綺麗でした。

肌にとって大事な事は何ですか?

化粧した日は必ずクレンジングして化粧水、乳液を塗りましょう。余裕がある時は、美容液も塗りましょう。お化粧をクレンジングで落とさないなら、化粧はしないほうがいいとメーカーさんが言ってましたよ。紫外線は年中降り注いでいますので、日焼け止めを必ず忘れないように塗って下さい。毎日続けましょう。

配達もしてるんですね?

お母さま)配達に行くと話相手になって長居する事もよくあります。花の話や料理の話をする事が多いです。お客様が配達に来るのを待ってくれてるのが嬉しいです。あまり長い間お客様から連絡がないと心配になりますが、そんな時に配達の電話をくれますので以心伝心ですね。お客様も親切で私が椿の花が好きな話をしましたら椿の挿木を持って来てくれました。お客様に椿の挿木をいただいて、3回失敗して4回目で成功しました。

かどやのコンセプト 化粧の力

娘さん)化粧をするといつまでも元気でいられる。

当店では資生堂化粧療法を取り入れてすべての女性に元気でいつまでも綺麗で居てほしいと願っております。化粧をすると認知予防になり、前向きな気持ちになって、脳の活性化につながっています。眉を書いたりするのは、丁度いい筋肉を使っています。認知予防にもなると、化粧することは注目されてます。誰でも気軽に来れて地域の憩いの場にしたいです。

娘さんの代で3代目になりますがこれからどういう店にしたいですか

娘さん)若い方が来てくれるお店にしたいです。
年齢問わず新しいお客様とお会いしたいです。

五條市内で長年商売をされてまして、五條市をどう思われますか?

お母さま)緑豊かで花を育てながら四季を感じられる安心な街です。人情味があり、人との繋がりが義理堅くて温かいです。食べ物も美味しいですし、安心して暮らせます。ずっと五條市で居たいです。

娘さん)結婚してから五條市から出ましたが、やはり五條市の方が住み慣れてますし居心地がいいです。近所の方達もいい人ばかりです。

本日はありがとうございました。

おしゃれの店かどや
住所 奈良県五條市本町1丁目8-12
TEL 0747-22-2891
営業時間 AM9:30~PM5:30
定休日 日曜日
駐車場

スタッフの感想

初めてのインタビューで緊張しました。お母さま娘さんは気さくな方々でいつも笑顔で迎えてくれますので、お店の中はほっとする空間です。美容に関する話はもちろん、世間話で長居してしまう程居心地のいいお店です。
私自身美容に興味がありまして、訪問する度にお店で新商品を見かけますと気になりまして商品について話を聞く事が度々あります。
化粧品を見てますと、気分が良くなりますね。
化粧をする事が、とても大切な事だと教えていただきました。
これからも美意識を持って年齢を重ねていきたいです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

BLESSHANDMADE(ブレスハンドメイド) デニムリメイク・雑貨  三谷敏行さん・恵さんご夫妻

大切な想い出の品で蘇らせる世界でたったひとつのデニムリメイク

 

田園で主にデニムリメイクの作品を作っていらっしゃる三谷ご夫妻。
前職から異業種に飛び込むことになったきっかけや、デニムとの出会い、デニムにかける情熱などお話してくださいました。

 

異業種へのチャレンジ

●とてもかわいいお店ですがこのお店を始めようと思ったのは?

(三谷敏行さん 以下敏行さん)
もともと「南和タクシー」ってタクシー屋をやってたんです。
祖父の代からずっとやってきていて・・・。それが10数年前に父が亡くなって。
それから引き継いでやっていたんです。

何年かはやってたんですけど。
やっぱり時代の流れで、タクシーの需要が右肩下がりであるということと、雇っていた従業員さんが高齢化してきたこともあって・・。経営についてどうしよか考え、先行きが見えないなと判断して、思い切ってタクシーやめようと決心しました。

特に何かしようと思ってやめたわけじゃなくて、このまま続けるのは無理だと思って・・。何度も考えて、考えて、考えて、考えて・・・。
それでタクシーを廃業したんです。

その頃うちの嫁さんが、趣味でハンドメイドをやっていて、カバン作ったりして、依託販売したりしてましたので、自分でもできないかなと。今やれることってこんなことかな・・というところからスタートしたんです。

初めて出店したのが、五條市の天ちゅう組の記念イベントに、商工会から声かけてもらって出店したのが初めてなんです。

でもそのころの商品はほんまにひどくて (笑)
こんなんでええんかな?って・・・(笑)

最初木工もやってたんで、古木で棚を作ったり、嫁さんは市販の布で子供用のカバン作ったり。

●フリーマーケットみたいな感じですか?

敏行さん)そうそう。今でこそ、ディスプレイも決めてやってるけど、ほんま適当に並べて今じゃ考えられないやり方がスタートでしたね。

●そうなんですね。でもタクシー業界からまったくの異業種じゃないですか。不安はなかったですか?

敏行さん)いや、不安はめちゃめちゃありました。
全く知識のないことに踏み込むんで、やっていけるかどうかということより、とりあえずやれるとこまでやろうっていうことしかなくって・・・。

それは奥様とお互いがそういう気持ちだったんですか?

敏行さん)と思います。言いませんけど・・。
ただいつも危機感だけは持っていて。人と同じ物、同じ作り方ではお客さん逃げていかはるから・・・。それは始めた当初からですけど。

●一旦南和タクシーをたたもうと決めたときはまだ何をするか決まってなかったんですよね?

敏行さん)全く。

ただ、やめることしか考えてなかったですね、「続けていくしんどさより、一旦切るほうが絶対いいな」って。だからその先のことは何も・・・。

●南和タクシーをやっておられたときはどこでやっておられたんですか

敏行さん)元々須恵でやってたんですけど、引っ越して田園へ来て15年くらい営業してました。

●やめようってなったのは何年前くらいですか?

敏行さん)6年前かな・・。

そんな最近なんですね。

(三谷 恵さん 以下恵さん)未だにここへタクシーに乗りに来る人もいますね。

●最初商工会に出店されたのが初めてとおっしっゃてましたけど、お店が軌道に乗ってきたのはいつ頃ですか?

敏行さん)高田のハンドメイドのショップ依託で・・・商品の値付けはそこからかな。依託ショップの方がすでに出店の経験のある方で、いろんなイベントを教えてくれて。最初は何もわからずイベントがあったら出る、あったら出るを続けてました。
その代わり当たり外れもひどくて。

●そんなに違います?

敏行さん)全然違います。だから出店して(売り上げが)ゼロっていう時もあったしね・・・。

●同じ商品を売ってても?

敏行さん)そうですね。
ほんまにひどい言葉あびせられたこともあるし・・。
「遊びでやってんの?」とか「ええ趣味やな」とか。

こういうハンドメイドの世界を知らない人はまだ多くて・・・。あくまでも趣味的な感じで見る人が多いです。

恵さん)わたしたちの意識は「マルシェ」なんですけど、いまだに「フリーマーケット」っていう人が多いですからね。

●「マルシェ」って”市場”ですもんね。

恵さん)そうです。
だから不用品を売る”フリーマーケット”にはうちは絶対出品しないんです。

●今「マルシェ」のお話がでましたが「blesshandmade」さんはマルシェを中心に
販売されているということですよね?
ここのお店にも来たら販売はしてくれるんですよね?

敏行さん)販売しています。

●そうなんですか。

恵さん)もともと、店はあったんですが、看板も立ててなかったし、外から見てもお店とわからない感じだったんです。出店がメインで、月平均10日くらい出店していたので。制作に追われていたから、お店の内装には手をかけてなかったんです。

●じゃあここは工房だったいうことですか?

敏行さん)そうです。
出店するごとにお客さんが「お店あるの?」って聞いてくれたんですが、あくまでも「家店で工房みたいな感じですよ」って言ってました。

出店がメインだったのがコロナで止まっちゃったんで。「さぁどうしよ」ってなって・・・。時間はあるし、じゃあ今までほったらかしにしていた看板も出して、お店としてオープンにしようと・・・。

●そうなんですね。こちら以外でインターネットでの販売もされていますよね。コロナもいろんなところに影響が出てますが、起こった以上、それに対応しないと仕方ないですしね・・・。

敏行さん)そう。出店予定のイベントが、全部中止になってしまって。

●そらどうしようってなりますね・・。

敏行さん)出店がなくなって売り上げは・・・。出店できない イコール ゼロなんで。ネット販売も以前からやっているんですけど、コロナ以降力を入れましたけど、言うほど伸びませんね・・・。

 

●ハンドメイドって趣味でやってる方が多いじゃないですか?そことの差別化はどうされてるのかなと・・・?

敏行さん)まず、(デニム)ジーンズリメイクに特化している事と物量、ディスプレイですね。

●でも、ほんとにオシャレですもんね。
全く流通や販売関係に携わっていらっしゃらなかったのに。

恵さん)もちろん主人はミシン経験ゼロでした。わたしは小さい時から服作ったりするのが好きだったからミシンは踏めるけど。主人はミシンの基本も知らないし・・。全くゼロから1年半くらいかかってるかな・・・。

●じゃあもともと器用で・・・。興味なかったり好きじゃなかったりしたら無理ですよね?

敏行さん)プラモデルが小さい時から好きで。大人になってガンプラ(ガンダムのプラモデル)とか、作ったりするのが好きで。
昔、大阪の家具屋さんに勤めてて、手先だけは器用やったんで・・。

●生みの苦しさとよく言いますが・・・。

恵さん)はい。
人が作っていない商品を作っていかないと。だからカバンでも、ちょっと変わったの作るし。なんでジーンズでこれを作るの?っていうのを作ったり。
日傘やったりサボテンやったり・・。

●サボテンすごいなと思って!
このアイデアはどこから・・?

敏行さん)サボテンは別の生地で作ってる人もいてるんですが。
それやったらこれデニムでできへんかな?って思って、何度も試行錯誤を繰り返してやっていたらこの作り方を見つけて。

●めっちゃ可愛いですもん。だって。

敏行さん)サボテンを他でも作ってる方はいてはるんですけど、自画自賛ですけど一番かわいいと思ってるんです。これも何回もモデルチェンジして・・。イベントとか持って行っても「ジーンズでできてるやん」って驚かれたりします。

●こういう商品ってなかなかインスピレーション的なのがないとできないと思うんすが・・。

敏行さん)アイデアが降臨します(笑)

●どんな時にですか?

敏行さん)これや!って!なんか「ふっ」とした瞬間に。寝てて起きたときにも「あれ作れるわ!」っていうのがあるんです。
調子いい時とか(笑)

じゃあそのアイデア浮かんだのは次の日に速攻?

敏行さん)その日に速攻作ります。(笑)

それって順番としたら作図から作るんですか?

敏行さん)図面はないです!(笑)

恵さん)この人はアイデア先です!

敏行さん)アイデアが降りてからだいたい大きさはこれくらいかなとか感覚で・・。だから僕は図面ないんです。

恵さん)後々わたしが製図するんですけどね・・・。
型紙を作って・・。定番商品にできるとなったらきっちり作りますね。

敏行さん)だから、作り方が全然違います。この人はきっちり図りますけど、僕は作りながらここちょっと大きいなって・・。

 

 

ターニングポイント~運命の出会い

敏行さん)やっていく中でポイントになる人って、要所要所に出てきて。ある人に会うことによって次こっち、また次、また違う人に会ってまたこっち・・って。有名なイベンターさんに出会ったり・・・。

●イベンターさんっていてるんですか。

恵さん)いてるんですよ。主催者さんなんですけど。そんなイベント界の有名人に偶然会うんですよ。それで話して「じゃあ1回おいでよ」っていうとこからイベントに引っ張ってもらったり。それでそこに出ている人たちに会って、じゃあ○○さんを紹介してあげるわって言ってもらえたり。

やってるうちに、どんどんポイントになる人に出会うことで、今まで残れているのかな。

●外のつながりじゃないですけど、それってタイミングとか・・。

敏行さん)ほんとそうです。
友達とか同級生が材料を融通してくれたりとか。その時その時にポイントになる人が現れてきてくれました。

●でも運って決まっていて、そういう引きつけの運ってあると思うですけど、お二人のどちらが運を引き寄せてると思いますか?

恵さん)運強いのはこの人じゃないかな?
敏行さん)というか僕は好きなんです、そういうの。神さんに手を合わしたりとか・・。普段から悪いことが起こっても、これは次のステップのための悪いことやからとか、誰かが自分たちから離れていったら、「あぁこの人は自分たちからは卒業していってもいい人やったんや」とか。
それで次の人が現れたら「あっ、これは多分、次はその人の波に乗っかれっていう」意味合いなんやなって。

●その思考は昔から?

敏行さん)わかりません(笑)
この仕事やりだしてからかもしれませんね・・。

タクシーやってるうちって、毎日同じ事を繰り返してやってきてただけで、何か新しいことをしようとしてもできないんですよ。タクシーって。陸運局の管轄があるから。

でもこの仕事やったら、今日これしようと思ったらできるし、明日からこれしようと思ったらできる。違う場所に行ってもできる。
だから自由度はめゃくちゃあるんで・・。

●でもスゴイと思います。みんな基本、現状維持を望むじゃないですか。そこから抜け出したり一歩踏み出すのってものすごい勇気いると思いますが・・。
そうでもなかったですか?

敏行さん)いや、やっぱり怖いですよ。やめる時が一番しんどかったですしね。ほんま「どうしよ」ばっかり思ってました。

恵さん)この場所からすべてのタクシーがなくなった時は、しばらく時間止まってる感じしましたね。

●そこから全く違うことにチャレンジするってところが・・・。

敏行さん)だからずっとヘコんでも、もう一回やってみようってなて。”あぁできた!” ”へこむ”・・。の繰り返しで、ほんまアップダウンしながらちょっとずつ上がっていって・・。

●でも登っていってるんですね

敏行さん)イベントにしても出店審査があるんです。応募して審査あって合格して出れるっていう。そういうとこにも、ここまでできるようになったっていう自信が結構明確にあるんです。

たまたまツイてたっていう事もあるし、やっぱり嫁さんが居てたのが大きいですね。この仕事を多分他人とやったらもめてるやろうし、方向性も違うやろうなと思います。
その辺がラクでやりやすかった部分もあるかもわかりません。

●逆に奥さんやから家族やからやりにくかったっていうのは・・。

敏行さん)家族なので言いすぎるところ。これ以上言ったら多分ヤバいなっていうところまで言ってしまうから。

●でもそれはお互いがわかってっていうところですもんね。

恵さん)方向性が違う時もありますよ。カバンの趣味でも、男目線と女目線が違うから。でも今は男の人でも持ってもらえる小物の路線に向かってるので、かわいいのではなくてかっこいい方を目指しているんで、旦那の目線を優先してます。

●インテリアも”男前インテリア”流行ってますもんね

作った作品がちょっと違うな ってなった時の折り合いはどうするんですか?

敏行さん)黙っとく(笑)

恵さん)わたしが作った作品のタグの位置が気に入らんかったら、勝手に外してます(笑)

敏行さん)イベント持っていって売れたもん勝ちです(笑)先に売れたら「なっ!売れたやろ!」って、お互いがやってます(笑)

●仲がいいですね (笑)
でもわかりやすいですよね。やったことに対しての結果がすぐ出るじゃないですか。何年後とかじゃなくて。

敏行さん)僕も接客できるようになったのってここ1年くらいなんです。

そうなんですか?それまでどうしてたんですか?

恵さん)わたしが接客してたんです。
敏行さん)僕は隠れてましたね。棚の後ろに隠れてる・・・。(笑)

でも職人さんのポジションやと思えば・・。

敏行さん)聞かれたことに対しては答えるけど、自ら接客することはなかった・・。お客さん来ても隙間から見てる感じでしたね。。

恵さん)でも今では何でも作れるようになったから、質問されても答えれるようになって接客がスゴイ上手になってきましたね。

要は自信ですよね。

敏行さん)でも、今でも接客は苦手です・・。

●よかった!(笑)
1年前に取材お願いしに来ていたら断られてましたね(笑)

敏行さん)多分、いらん言うてますね。

●これもタイミングですよね!

敏行さん)そうですね。

 

世界でたったひとつのオリジナル作品

商品について聞かせてください。製作日数はどれくらいですか?

恵さん)材料さえあればすぐ作れますけど、オーダーでジーンズを預かったりして作るのはやっぱり2週間以上はかかりますね。長い人やったら、半年くらい待ってもらう人もいますね。

●そこでスゴイ値打ちが出てきますよね。

恵さん)ジーンズをほどくときも、全部分解した所もお見せして、そこからどういう形にするか何個か提案して。この場所使ってここでこの形にしてって、ちょっとずつちょっとずつ進めていくので・・。

今やってる携帯カバーのオーダー品も、もうすぐ仕上がる一歩前なんですけど、色目とか裏地とかボタンの位置とか、全部一個一個聞いていくので、その人とコンタクト取って、一日一回くらい連絡して、「ここはどうですか?」ってお返事頂いて進めていきますね。

●完全オリジナル作品やから、お互いが妥協できないですしね。

恵さん)そういえば最近驚くオーダーがポンポンと入ってきたんです。

去年の秋くらいにあったイベントで、年配の男性が来られて。

「嫁さんに買って帰りたいねん」って言って。「プレゼントにするわ」って買って帰った人の奥さんから、先月くらいに連絡あって。「持ち込みのジーンズでもできますか?」って。

「私、BLESSHANDMADEさんで主人にカバン買ってもらって、今も大事に使ってるんですけど」って言ってくださって。
「はい。いけますよ」って。言ったら、「実は主人が数か月前に亡くなったんで、亡くなった主人のジーンズで作ってほしいんです。ずっとそばに置いておきたいんで」って。

それが超一流のジーンズでもなく、亡くなる直前に履いていたジーンスでってユニクロのジーンズを持って来られて、今お預かりしています。

「どんな形でもいいです。でも普段使いできる、毎日持てるカバンが欲しいんです」っておっしゃって。

それと、もう少し前に東北の方から連絡が突然あって。
「インスタ見たんですけどジーンズ持ち込みオーダーできますか?」って。サイズこれくらいのジーンズでって、それだったらお子さんのなのでサイズ小さめですよって、話していったら、実は震災で子供3人亡くされて、唯一キレイに残っていたジーンズがこれでって・・それで作ってほしいって。

ここ最近インスタのフォロワーさんも増えてきて、そういう需要があったり・・・故人が履いていたジーンズなんで、うれしいですよね。手元に残ると。

●そういう意味で、ただ物を売るだけじゃなくて、思い出の品をリメイクするのでスゴイ使命感というか・・。

恵さん)すごいプレッシャーです。預かるとなるとほどく作業も、めちゃめちゃ緊張します。

●そうですよね。替えが効かないですからね。それにしてもどちらもステキなエピソードですね。

恵さん)でもビックリしましたね。亡くなった方の遺品を作り変えてほしいっていうのが続いてて。プレッシャーですけどね。

●そうですよね。

恵さん)でも有難いです。

●なかなかそういうお仕事に携わる方っていらっしゃらないですもんね。

恵さん)そうですね。ここにきて、さらにそう思いますね。

 

 

お客様との出会い

●よくマルシェに行かれますがどんな方が印象に残っていますか?

敏行さん)作家さんが多いですね。

恵さん)色んな作家さんが居てはるんやけど・・志高い作家さんにやっぱり惹かれますね。

敏行さん)全く考え方の違う人。生き方の違う人・・。自分たちみたいに家業やめて出てきてる人も多いし、服も見るからに作家さんやなって。自分の世界をもってはる人・・・仙人みたいな格好して椅子作ってる人もいてるし。

異業種の作家さんは考え方が目からうろこなことが多くて。出店の仕方も作り方も。

●でも異業種の方から自分のところに取り入れるのはなかなか難しそうじゃないですか?

敏行さん)あれをうちでやったらどうなるやろって。考えますね。

●そういったところで新しいいとこにチャレンジしていく、っていう精神がすごいなと思います。

敏行さん)それをしないと残れないっていうのがあって。僕ら始めたの40代ですけど、僕らが20代の人の感覚で作れっていっても作れないんです。年齢のギャップがあるから何かから常に刺激を受けていないと取り残されるっていうか・・・。

お客さんの年齢をある程度絞っておかないと、僕らが若い人の感覚でやっても多分うちらでは売れないんです。やっぱり僕らが相手する年齢の人らに合うものを常に考えとかないと。そこ外れたらやっぱり残っていけないんですよね。

●リサーチとかマーケティングって大事って言いますもんね。

敏行さん)難しいことは考えてないけど、自分らのターゲットは「これくらいの年齢の人」というのは決めてずっとやってるんで、必然的に、そういう風になっていってるっていうことですよね。だからもっと年をとればまた違うものも作っていくとは思いますが・・

●なんかあります?作りたいのも

敏行さん)今ですか?

●家とか作ってほしいですけど。デニムの。

敏行さん)
するなら新しい店は自分の手で作りたいです。ここに小屋建てて。

●ぜひ壁とかデニムでやってほしいです

恵さん)木工商品を作るなら、デニムが加わった木工しかうちではできないんです。お客さんになんでもデニムって求められるんで。木工作っている人って、技術高い人がいっぱいいてるから。でもその人らと戦おうと思ったら必然的にデニムとひっつけて、ってなってくるんです。

このカレンダーも、本当は木だけで作ればいいんですけど、そこにデニムを貼ってって工夫しています。それでうちの色を出そうと。他の人がマネできないうちだけの商品ですね。

今後もデニムに特化した、デニムから外れないような商品作りにこだわっていきたいです。

 

デニムの魅力

デニムの魅力とはどんなところでしょうか?

敏行さん)色落ちしてその人の使い方で変わってくるから、それをうちのバッグユーザーさんが「何年も使ってる」、って見せてもらうのがめっちゃ嬉しいんです。キレイに色落ちしてきてるしその人の使いかたでハードに使ってたら色落ち激しいし。キレイに使ってくれてるのを見るとうれしいです。

恵さん)ボロボロの穴が開いたのを持ってこられても、普通の布だったらできないですけど、その味を残したまま修繕できるので、またさらに何年も使える。

●確かに。だってジーンズくらいですもんね。穴が開いててもOKなのって。

恵さん)そうですね。だから穴が開いてた箇所をうまく使ってデザインできますし。

●なんやったら穴が開いてる方が値打ちあったり

恵さん)そうですね。ダメージを求めてる人もいますね。ジーンズのリメイクって捨てるところがないんです。カバン作ったら全部使うわけじゃないので生地が余ってくるんですけど。余ったらブックカバー作ろうとか、全部使えるんです。

これってジーパンを仕入れるんですか?

恵さん)デニムの反物で仕入れるのもありますけど、口とか肌に触れない商品はジーンズのリメイクです。1本のジーンズをバラバラにして使える部分を使います。キレイなジーンズはあまり好まれないんで・・。破れていたりダメージがあるほうが好まれます。

●ジーパンって何本持ってるんですか?

恵さん)常時100本はありますね。

●ジーパンを買い付けて、それを裁断して・・?

恵さん)だから手間はスゴイかかります。買ってきても1回全部洗いにかけてパリパリに乾かして。

●今までに苦労したことは?

敏行さん)とにかく量を作らないといけないので休む間がないですね。ほんとに朝から晩まで作っているので。

恵さん)足が腫れます!ミシン踏みすぎて!関節も痛くなるし、夜に2階にあがろうと思ったら足パンパンになっていてきしむ感じもしますし。

イベントの大小もありますけど、商品が足らなかったら朝からずっと作ってるし・・主婦の趣味ではないので。

 

 

五條でお店を構えて・五條について

敏行さん)思えばもうちょっと早くお店にしてたら、もうちょっと早く認知されたんじゃないかなって思います。看板出してお客さんが入って来てくれるようになったんで。出店先でお店があることを言うと、信用してもらえるところもあるんですよ。

そこが強みになったのは確かですね。

●南和タクシーやってるときは、このお商売はできなかった・・?

恵さん)できないですね。タクシーは朝7時くらいから、夜の12時くらいまでやってるんで、とてもじゃないけどできなかったですね

●最初、須恵で・・?
敏行さん)駅前ですね。

●どうですか?五條について

敏行さん)人口が少なすぎますね。何するにも。僕らイベント出て思うのは、お客さんがいっぱい来てるときは当然、売上が高いんですよ。少なかったらやっぱり下がるんですよ。だから人口少ないところで、売り上げ伸ばそうと思うと難しいですよね。

去年おととしとシダアリーナでイベント開催したんですけど、思った以上に集客がなくて、思ったようにはいかなくて。

なんかハンドメイドっていうのが周知されてないのと、人口が少ないから当然ハンドメイドをやってる人も少ないし。イベントも少ないし・・。

うちはイベントがメインなので、イベントをもっとやってほしいなって思いますが五條では少しやりにくいのかな。

 

 

今後について・野望

敏行さん)やっぱり出店するよりも、お店をちゃんと構えて毎日ちゃんとお客さんが来てくれるようになりたいです。有名になって・・・。

恵さん)もっと有名になってジーンズリメイクやってゆったらここや(BLESSHANDMADE)ってゆってもらえる店を作らないと・・。

結構、インスタとかには上げてもらえるようになって、ヒット率も高くなってきてるんです。「五條 ハンドメイド」 で検索したらうちがヒットする・・・。できたらそうなりたいですよね。

●今、個人の発信力ってすごいじゃないですか

そうですね。たくさんのフォロワーさんがいればお客さんからのオーダーだけで食べていけるって。

●新しいことや新しい世界に飛び込むのがすごいなと思います。

だけど怖い40(歳)超えてからのチャレンジっていうのは。

●それでもSNSとかされていますよね

敏行さん)やっぱりSNSをうまく使ってフォロワーさんに認知してもらうことの大切さがここにきてすごくわかります。

インターネット通してでもびっくりするところから注文入るんですよ。沖縄とか東京とか。東京なんていっぱいあるやろうに、なんで・・・?って思います。

●マルシェだと実際お客さんの顔が見れますが、ネットだとなかなかわからない部分もあると思いますが

恵さん)今ってインスタのDMで注文きたりするのが多いんです。それで買ったものをタグ付けして上げてくれたりするので、買っていただいた後にものすごく深くつながったりするんですよ。

だからインターネットって、あって有難い。
この場所(五條)とマルシェだけとなると、発信力がないので・・。

●数が違いますもんね

敏行さん)圧倒的に違いますね。

●時代はYouTubeですが、じゃあ次はユーチューバーですね!

 

 

『BLESSHANDMADE』~ブレスハンドメイド

最後にお店のお名前の由来は?

恵さん)わたしの名前なんですよ。
わたしの名前が「恵」っていうんですけど。

「恵」って英語で意味を検索したら「God bless 」
「幸運を祈ります」っていう意味があるんです・・。

でも尊すぎて・・。

屋号変えようかっていう話も出たけど結局これでいってますね。

すごくステキな名前だと思います!

 

三谷ご夫妻、本日はありがとうございました。

 

 

『BLESSHANDMADE』~ブレスハンドメイド

 

所在地  〒637-0093
奈良県五條市田園1-1-2
TEL   080-5711-5991
営業時間  9:00~18:00(冬期11月~2月 17:00)
定休日  月曜日 ※土・日イベント出店時は休み
駐車場 あり

 

 

 

 

☆森子のつぶやき☆
お店のお名前の「bless handmade」にも使われている『bless』
“God bless you.” は「あなたに神の祝福(恵み)がありますように」という意味。
たくさんの想い出が詰まったデニムを蘇らせ、世界でたったひとつの商品へとカスタムをする。
守護神ではないけれど、きっとそれを身に着けることで、多くの幸せが降り注ぐ・・。
そんな商品を作りだせる・・素敵なお仕事に携わられているんだなと、お二人の関係性も含め少しうらやましくなりました。
たくさんの幸せが降り注ぐよう、これからも仲良く作品を作り出してほしいなと思いました。

第 56 回  小松産業株式会社 代表  小松 潤さん

 「現状」にとどまらない、たゆまぬチャレンジ精神

 

ー 本日はお忙しい中、お時間いただきましてありがとうございます。早速なのですが、お店を始められたきっかけを教えていただければと思うのですが…

 先代からのお話なのですが、元々は祝箸を作っていたことが、商売の始まりとされてるんですよ。ほら、あの丸い、お正月とかに使う箸があるじゃないですか。

ー 箸… ですか? とても意外です。

台湾で(箸の)工場も建てていたそうなんです。でも、その業績や、箸の業界も景気が悪かったのもあり… その後も箸を続けていたのかというと、続けていなかったそうなので、失敗したんでしょうね(笑)。それで、他にできることはないかと、その当時、先代は「竹の耳かき」を仕入れてきたそうなんですけど、それを粗品として、郵便局さんや銀行さん相手に通販を始めたのが現在の商売のきっかけだとされていますね。

それで、その商材を広めるために、ギフトや粗品を扱っている問屋さんと出会って、その問屋がたまたま、店売りというか、一般個人向けのギフトをやり始めていた時で、先代に、それ(一般個人向けのギフト)をしないかと声をかけられたことから、冠婚葬祭のギフトを始めた、という流れになりますね。その問屋さんが、「シャディ」さんなわけです。

ー 海を渡って工場まで建てて、それでも上手くいかず… ということで、やはりいろいろと苦労を重ねられて、ようやくこの現在の「ギフト屋さん」に辿り着いたのですね…

ー あと、「ギフト」の取り扱いを始められてから。何年くらいになるのでしょうか?

40数年かな… 会社として設立されたのが、西暦でいうと1977年なので、43年目になりますね。

ー 大体自分たちと近い年代ですね(笑) (今回のインタビュアー スタッフF:1980年生まれ  スタッフM:1976年生まれ)

ー 1977年、現在の会社が設立された当時は、先代が社長を務めておられたのでしょうか?

そうですね。当時、まだ自分は中学生でしたので。当時のお店はといいますと、今のこの社屋(店舗)にはプレハブが建っていました。仕入れた品物をプレハブに入れてあって、その一角に、商品を少しばかり並べて、自分の母親が店番をしていて… というところまでは、記憶にあります(笑)。

ー 次の質問なのですが、先代からお店を始められたとのことですが、社長自身は、お店「継ぐ」という考えはございましたか?

高校の時はなかったかな… その後、大学に進学するときに、(親から)経済学を勉強しろと言われたんですけど、自分は工学系を志していたんです。経済学とは畑違いですよね。その時に親子ゲンカをしまして(笑)… その結果でもないですが、「大学を出たら親の言うことを聞く」ということで、後を継いだんです。ですから、大学を出るまでは、自分の好きなこと勉強したい、と。

― 学生時代は、どのような分野を学んでこられたのですか?

機械工学です。でも、「商売を継ぐ」ということを意識し始めたのは、大学の頃ですかね。大学を卒業してからは、まずは問屋さん(シャディ)で4年間お世話になって、こちらへ帰ってきたという感じで…

ー 工学部で機械工学を学ばれたけどギフトの道へ… 畑違いと言えば畑違い…

そうですね。ですから(今の仕事は)あまり向いてないんかなと思います(笑)。

ー 次に、お店に関してのお話をお伺いさせていただきたいのですが、現在、世間においてはギフト屋さんも多数ある中、「小松産業」さんでしかできない、そういった「強み」はございますか?

ウチにしかできないこと… 基本的に「ギフト屋さん」って問屋から仕入れて販売しますので、商品については当然ながら似通った感じで… 何が違うかと言ったらそれはもう、サービスの内容になりますね。そういった点では、ウチはお中元や、お歳暮のカタログを自社で製作している、というところでしょうか。それと、「年間の推奨品」というカタログもあるのですが、それも自社で製作していますね。

ー そうなんですね!私も新聞の折り込みチラシに小松産業さんのカタログが入っているのを見かけたことがあるのですが、あちらは自社で製作されていたのですね。

ええ。チラシとかの印刷物は、基本的に自社で製作しています。そうすることで、ウチで買っていただいたお客様に、特典を打ち出せますので… 問屋さんの既製のカタログやチラシだと、そうはいきませんよね。それ位ですかね… ほかのお店様と違うところと聞かれると。

― でも、その取り組みは大きなことだと思います。私どもも、ガス器具等のPRのチラシを製作する機会も多いのですが、メーカーの既製品だと、その販売店の独自性がなくなりますからね。

 

あと、一昨年から始めているのは、お中元やお歳暮を買っていただいたお客様には、野菜をお渡ししています。昨年でしたら、お中元の時は玉ねぎ、お歳暮の時には白菜をお渡ししましたね。

― そのアイデアも、社長が考案されたのでしょうか?

考案、と言いますか、うちは畑が余っているので(笑)、そこで作った野菜をお客様に提供、ということで。

― いいアイディアだと思います。でもなかなか、自家製で野菜を育てていく、というのも大変なことではないでしょうか?

そうですね(笑)。休みの日なんかはほとんど1日が畑仕事で潰れてしまいますし。

 

小松産業さんの、自社製作のチラシです。写真右、お歳暮チラシの「お鍋」のインパクトが大(笑)

 

 

 

― あと、次の質問なのですが、現在このお仕事(ギフト店)をされて、大切にしておられる、信念であったり心がけ等… そういったものはございますでしょうか?

やはり、「感謝」の気持ちですね。あとは、お客様にはまず、喜んでいただけるようことを、これからもやっていきたい。とにかくお客様には「感謝」です。

― あと、御社のホームページを拝見させていただきまして、その中で、ネットショッピングも運営されておられるということなのですが、現在、インターネット通販全盛の時代において、御社におけるウエイトは、どの程度占めておられるものなのでしょうか?

その分野での売り上げは少ないですね。やはり店頭販売が今なお中心です。

ー そうなんですね。自分の中では、ギフトの販売も、インターネット通販が多くなってきているというイメージがありましたが…

確かに最近は、出産などの内祝いは、他のネット通販さんの業者にとられているというのは事実ですね。でも、うちの店では、うちのネット通販と、店頭で販売している商品の価格は同じなんですよ。でも大概、ネット通販のほうが安いでしょ?ですから「値段」だけで比較されてしまうと、ネットでは売れない。一時期、4年ほど前かな… うちも「楽天」にも出店していまして。その当時は、うちも月200~300万円くらいの売り上げがあったんですけど、結局売るために値引きのさらに値引きとなってしまって、赤字で採算がとれない、ということがありましたので、それ(楽天)は一切やめて、そこから半年くらいはネットショッピング自体も全面的に停止していましたね。

ー 売れたとしても採算が合わない… ネット通販全盛の時代といえど、なかなか一筋縄ではいかないですよね。

その後、ネット通販も再開したさいは、商品の価格は、店頭販売もネット販売も同じにしたのです。近所のお客様も、遠方のお客様も同じ条件で商売をさせていただく、ということですね。

― では、やはり中心は「店頭販売」になる、ということですね。

ー あと、小松産業さんの、ネット上におけるお話をもう少しお伺いさせていただきたいのですが、御社のホームページ上に「冠婚捜査の豆知識」というコンテンツがあったのですが、拝見させていただいたところ、すごく細やかなところまで解説があって、自分も恥ずかしながら、冠婚葬祭のルールやマナーには疎いところがあるのですが(笑)、個人的にはすごく助かります。

― そうですね。あちらは結構細かく編集をしていますね。運営には結構お金がかかっているんですけど(笑)。

驚きました。でも、今の若い方もなかなか冠婚葬祭のルールやマナーを習得することも難しいと思いますので、ギフト店という、冠婚葬祭と密接した事業として、インターネットを通じてそういったことを発信していくのも、大切なことだ思います。

 

 

広く開放感がある店内。数々のギフトが整然と陳列されています。

 

 

こちらは社用車。社長自ら、荷物を積んで配達!

 

 

 

 

― 次の質問なのですが、1977年にこちらにお店を構えられ、ギフト店を営まれておられる立場から、「時代の移り変わり」というのを感じることはございますか?

もう… 十二分すぎるほどにございます(笑)。ギフトのお返し自体も変わってきていますしね。昔は、年忌のときには20~30人、親戚の方が集まったものですが、今でしたら4~5人の身内だけで行う、という風に変わってきていますし、結婚式もいわゆる「地味婚」が多くなりましたね。

ー 最近はそうですね。 自分の周りでも、「盛大に結婚式を行った」というお話はあまり聞きませんしね…

ですから、そういったことが縮小している分、お返しもその分減ってきて…という感じですね。それと、ウチでは扱っていないのですが、お返し等においては、商品券の比率が高くなって、その分商品の比率が落ちてきている、というところで。一時は良かった時代もあったんですけど今は… いわゆる「斜陽産業」であることは否めないといった状況ですね。表現はよろしくないですが。

― そうですか… 「冠婚葬祭」という場面に長年携わっておられて、そういった場面に対する価値観や重みが変化してきているのは、先程もお話しされたように、十二分にお感じになっていると思います。

― 次の質問なのですが、ギフト店は、「冠婚葬祭」の場面においてのお仕事ということで、やはり神経を遣われると思いますが、社長自身はその部分に関しましては?

そうですね… 神経を遣うといえば、これも当たり前のことなのですが、「のし」の文字ですね。出産の場面においては、お子さんの名前、これは「点」がひとつあるないとでは大変なことになりますから。あと、最近の親御さんで多いのは、例えば奥さん側の実家からお返しをする場合、例えば奥さん側の旧姓が「小松」さん、そして結婚されて、現在の姓が「佐藤」さんだとします。この場合、内祝いの名前は「佐藤」でなければならないのですね。でも、「実家から」お祝いをしているので、のしの名前は「小松」と伝票に書いてしまうんです。そして命名札を付けて贈ってしまう… これだと、子供さんの名前は「小松〇〇さん」になってしまいますので(笑)。

ー 結構ややこしい場面もあるのですね。しかも結婚や出産といった、人生の一大イベントですし…

あとは、お葬式の満中陰志でしたら、「喪主から見た続柄」を書かなければならないのですが、伝票にはよく「長男」と書かれるんです。これだと、喪主さんの子供が亡くなったことになってしまいますので… こういう場面だと、その人が本当に長男かどうか確認しますね。続柄の違うものができてしまうこともありますので。そのあたりは十分注意しています。

― 他に気を遣うところは…

納期ですね。年忌とか、結婚の引き出物などは、「その日」でしか役に立たないものですので… 「決まった日にきっちりと届けなければならない」という点では神経を遣いますね。早め早めに(問屋に)注文をかけるんですが、その品物の生産が追いつかない、ということは過去にもありました。最近は「ヒット商品」的なものはあまりないので、そういったこともないですけど、今は「輸入品」に気をつけていますね。これらは問屋に品物がなくなると、納期が普通に1か月以上かかったりしますから。

― 「決まった日にきっちりと」というのは当たり前にできるように思えるのですが、それが人生の一大イベントに関することをお願いされるとなると… とても気を使っておられるのだと思います。

 

壁には掛け時計がいっぱい! ん?このフレーズ、どこかで聞いたような…      https://gojo-gas.co.jp/spotlight/etc/3601

 

― あと、お店に関してなのですが、一日当たりの来客者数はどれ位なのでしょうか?

少ないですよ(笑)。平日なんて、5~10人くらいで、お中元やお歳暮のシーズン時でも、20~30人来たら良いほうではないかな?お客様の出入りだけで見れば、いつ潰れてもおかしくはない、ギフト屋というはそうなんです。中には店舗に来られて、商品を1個単位で買ってくださるお客様もいて、客単価が2,3千円くらいになるのですが、結婚・出産の内祝いや、満中陰志の依頼は、数がまとまって注文をいただければ、その場合は(客単価が)数十万円にもなります。一昔前であれば、満中陰志でしたら、100万円近いお買い上げをいただいたこともありました。ですから、自分たちの商売は、「客単価が多くて、客数が少ない」というものなんです。

― そうですね、スーパー等の小売りのやりかたとはまた趣は違いますよね。

ギフト屋さんは店舗を構えているのですけれど、「お客さんの数」ではないという世界ですね。

― あと、御社のホームページのお話に戻るのですが、「虹の架け橋」という、結婚相談所も、インターネット上で運営されておられるとのことですが、この事業を始められたきっかけはどのような?

先代のゴルフ友達の奥さんが、結婚相談の事業をやっていて、おたくもギフト屋さんやっているんなら、(結婚相談を)やってみたら?ということが始まりですね。

― ギフト屋さんって、冠婚葬祭と密接している業種だけに、結婚相談の事業と一緒に行っているところも多いイメージもあるのですが、そのあたりは?

いや、少ないですよ。自分が知っているのは1件、滋賀にあるくらいかなぁ…

― 意外と少ないのですね!では、小松産業さんは貴重な存在かと… あと、社長自身がそのカウンセラーも務めておられるということなのですが、結婚相談についてのカウンセリングについて、社長自身、経験がおありだったということでしょうか?

いや、ないですね(笑)。そのあたりは、先程お話しさせていただいた、結婚相談の事業を紹介してくれたかたから、いろいろ勉強させていただいてからですね。あと、あと、ウチは「全国結婚相談事業者連盟※」というところに加盟していまして、そちらでも月1回の勉強会がありますので、同業者からのアドバイスや、いろいろ教えてもらいながら、運営させていただいております。

※全国結婚相談事業者連盟(旧 仲人ネットコム)
 
 結婚相談所連盟・仲人連盟とは、中小の結婚相談所が互いに会員情報を共有することで、他の結婚相談所に所属している会員を相互に紹介できる仕組みの事です。そういった団体の中でも、全国結婚相談事業者連盟(旧 仲人ネットコム)は、西日本(近畿と九州)に強い結婚相談所連盟で、加盟店は定期的に法令や成婚率アップのための研修を受けており、勉強熱心な方が多く在籍しています。

― 社長自身もまだまだご研鑽を… というところですね。恐れ入りました。

昔の「仲人さん」といえば、私が結婚した当時の仲人さんはと言えば、仲人さんが、この人とこの人をくっつけたら、ということを、仲人さんが決めて見合いをさせる、という感じでした。でも、今させていただいているのは、入会していただいたかたが相手を探して、お見合いをしたい人を選んで、相手がOKならばお見合いを進めていく… といったスタイルですね。

― このサービスの、反響はどのような感じなのでしょうか?あと、御社のホームページにおきましては、会員数が1万5千人とのことなのですが…

その数字は「全国結婚相談事業者連盟」の加盟店すべての会員数ですね。あとそれと、ホームページの数字は更新前ものなので、会員さんの数は今は恐らく、その倍くらいになっていると思います。

― でも、万単位の会員のかたがいらっしゃるということで、本当に真剣に、結婚をお考えの方が一定数おられるということなのですね。でも、そのお手伝いをする事業って、もちろん大変ではあると思いますし、その一方ですごくやりがいのあるお仕事だと思います。

今は「全国結婚相談事業者連盟」のエリアも関西圏から関東圏へも広がって、会員数も増えてきましたけど、五條だけのエリアに絞って、見合いをしようというのはというのは正直言って無理ですね(笑)。

― えっ、そうなんですか?

やっぱり何といっても人数が少ないですし、人数が少ないだけに、「あの人、どこかで見たことがある」とか、そうなってしまうで、避けられるというケースが多いですね。ですから、離れた土地のかたとお見合いをして、というほうが、最終的に成立しやすいでしょうね。

― そうですね(笑)。五條だけで絞れば、どこかで見たことがある、的なことは必ずあるでしょうしね。あと、社長自身、お見合いのセッティングや段取りを行うこともあるのでしょうか?

いや、そういう事はしなくて、会員同士が、お互い見合いはOKですよ、となった場合、会場のセッティングを行うだけです。そのさいは、どちらかと言えば女性側に便利な立地で、ホテルのロビーで待ち合わせて、ラウンジでお茶をしてもらって、あとは会員さんたちにお任せする… といった流れですね。あと、交際の返事をするのも、昔は仲人さんを通じてでしたが、今はパソコンで、「〇」か「×」をするだけです。

― えっ、何だか味気ない感じ?ですね… でもインターネット上でのやり取りでありば、仕方のないことなのかもしれないですね。あと、当サービスで、成婚までたどり着いた事例はどれくらいあるのでしょうか?

言えるほどもないんですけど(笑)、この3月に成婚されるかたが1組いますね。2月末に最終、(成婚が)決まって、3月にウチを退会することが決まっています。そして9月に挙式… という予定ですね。

― でも、人と人とを結びつけて幸せを見届ける… 本当にうれしいですよね。こういったお話をお伺いさせていただいただけでも、なんだか嬉しくなってきました。自分も十数年前、小松産業さんのこういったサービスを知る機会があったなら…(笑)。

― あと、今後のお店の展開はどのような?あと、どのようなお店を目指していきたいとお考えでしょうか?

これも難しいですね(笑) ただ… 「お客様に愛されるお店」として生き延びたいと。今はそれしかない。でも、「冠婚葬祭」というのはなくなることはないですよね。しかし縮小化の一途を辿っている… そこで何とか新しいことをしながら、今までやってきた事業と並行して行いながら、継続していきたいと考えています。

― そうですね。我々ガス事業も、今の五條市の「人口減・過疎化」の影響に直結する産業なだけに、現在の事業から離れず、社長が今おっしゃられた「新事業」にもチャレンジしていくことも考えなくては… というまさによく似た状況にございます。

 その「新しいこと」のさきがけとして、3/14(土)より、土日祝日限定で、「持ち帰り専用ピザ」を始めます(当インタビュー実施は3/12)。

― えっ!「ピザ」ですか? 今日お店に到着したとき、お店のガレージに置かれていたあの黄色いオブジェ、あれはいったい何だろうな、と。「ひょっとしてピザ窯ちゃうんかな?」思っていたのですがやっぱり!

あちらは元々、ウチの周年事業のときに、お客様に楽しんでもらえることとか、サービスできることはないかな?というのを考えていた時なのですが、ほら、こういったイベントごとって、大概たこ焼きとかそのあたりの提供になるじゃないですか。でも、「たこ焼きじゃオモロないなぁ」ってなりまして、同じ提供をするんなら、何か違うもの… その末、ピザを焼くことに決めて、そしてこの窯を作ったんです。

― 自作… されたのですね。すごい!

 

小松産業さんの秘蔵っ子「ネコ型ピザ焼き窯」。

ちょっとカワイイ?かな?

 

 

「ネコ君ピザ焼き窯」を裏から。本格的な「石窯」のそれです。なんとこのピザ窯を「自作」されたというのだから驚き!

 

でも当初は、「売るため」に製作した窯ではないので、窯のサイズは小さめなんです。でも、ピザも満足に焼けますので、土日だけ始めようかなと。まあウチは元々店頭に来られるお客様も少ないので(笑)。

― あちらのピザ窯、「ネコ」をモチーフとしていますよね?

そのつもりで作りました(笑)。

―「ものの製作」、流石にそのあたりは、大学で機械工学を学ばれていた所以ですよね。

いえいえ、そういう訳でもないんですが(笑)。

 あと、土日限定なのは、平日はやはり本業の配達が混んでいますので… でも、この「ピザ」をとっかかりにお客さんに実際に店舗に来てもらって、「こんな所にもギフト屋さんってあるんやで」ということを知ってもらえれば、ということで「本業のPR」というところも期待しています。

 

ピザのメニューです。定番のマルゲリータからミートソースにジェノベーゼ… 貴方はどれがお好み?

 

ー あと、先程お話に出ましたが、社長自身も配達に出られる?

もちろん。昔は数多くの従業員のかたに来ていただいておりましたけど、業態を変えてきたのと、お話させていただいたように、「お返し」の文化が様変わりしてきて、縮小の道を辿っている… ということから売り上げも落ちているので、正直「人」は雇えない状況です。

― そうですね… やはり「人件費」というのは膨大ですからね…

― あと、次の質問なのですが、五條で長くこうやってお店を営まれてこられた視点から、五條の今後であるとか、こういうところが心配… というお話はございますか?

やはり… 企業をもっと誘致することが必要でしょうね。大学まで出られて、企業がなければ、どうしても学生は外に目を向けざるをえない。五條市の給与水準も他府県等のそれとは比べようもなく… 働き口がないので人口が減っていく。ですから、それなりの企業を誘致して、五條でも働ける場を創っていかないと… 私どもではどうしようもない課題なのですが。ですから我々も、先程お話しした、今までの事業に加えて、何か違うことをしていかないと… ということで。

― そうですね。さらに雇用情勢が、企業の「買い手」市場から、求職者の「売り手」市場へと傾きつつある現在は、やはり求職者の目先が都市部へと向きますからね…  しかし、新しい事業への取り組みに関しては、結婚相談や先程のピザ屋さんの開業… それに向かって一歩踏み出して実行された社長の心意気、そして同じ五條で商売をしている、という点では当社も同じくして、ということで、今回のお話を通じ、いろいろと勉強させていただいたと思います。本日はどうもありがとうございました。

 

(編集後記)

一昔前に比べ「冠婚葬祭」の意味合いが薄れつつある現代。「冠婚葬祭」に密接した事業である「ギフト店」は、当然ながら昔のやり方ではこの先難しい。そんな中で、結婚相談、そしてピザ屋さんへの挑戦。その穏やかなたたずまいながらも、小松社長の「新しいことへ挑戦」していく熱い思いが伝わってきたように思います。当社も小松産業さんと同じく「五條」という地域に根差してお客様へサービスをお届けさせていただいている… 我々の立場からもいろいろ考えさせられた、今回のインタビューでした。

 

  小松産業 ㈱

 〒 637-0036

奈良県五條市野原西4丁目10-28

 TEL  0747-24-2351

 営業時間 9:00~18:30

 定休日    水曜日

 

(おまけ)

新事業」の一つとして、「持ち帰りピザ」の販売を始められたという小松産業さん。早速ではございますが、試食レポをさせていただきます!(既出なのですが…)

 

ピザ」といえば野菜(?)しかしここは野菜の苦手なスタッフ深瀬(;´Д`)  はたして今回チョイスしたのは…

 

 

 

 

 

 

 

 

 さてさて、持ち帰りするとこまでお話が飛びまして(笑)…  箱!「piccolo pino(ピッコロピーノ (お店の名前)」ロゴはもちろん小松産業さんのオリジナル!

 

 

おもむろに箱を開けると… そこにはピザ(当たり前 笑) ということで今回チョイスしたのは「ミートソース」!

 

 

ピザの淵の部分もしっかりと焦げ目が!食欲そそります。ここで雑学。ピザの耳(端っこ)の部分っていろいろな呼び方がありますよね!「ピザの耳」とか「淵」とか「かたい部分」とか…

これって、正式名称があるようなんです。

 

… そこで、ピザの本場イタリアで何というのか調べてみたところ…

cornicione(コルニチョーネ)というそうです。corincione(コルニーチェ・額縁)からできた言葉みたいです。

ですから、ピザを食べてて、「このピザ、コルニチョーネが美味しい!」とか、「ここのピザ、コルニチョーネがちょっと固めやな!」とか言ってみれば、「は?(・_・)」と返されることウケアイ! 

 

ということで、、美味しくいただきました! ネコ窯さんありがとう(^^♪

 

 

 

 

 

当ブログをごらんの皆様も、一度是非ご賞味を! お手軽感も半端ないです!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第53回 栄湯 西村保廣さん・芳江さん夫妻

これからは恩返し。今まで多くの人に支えられたから。

五條市に唯一残った銭湯「栄湯」。100年以上つづく銭湯で長年番台を守り続けてきた西村さんご夫妻にお話しを伺いました。

 

人であふれる

栄湯さんは五條市内に唯一残っている銭湯とお聞きしましたが・・・。
保廣さん)そう、五條で今残ってる銭湯はうちだけ。昔はもっとたくさんあったんやけどな。

昔はどれくらいの件数あったんですか?
保廣さん)どれくらいあったかなぁ。いまパッと思い出しても、この近辺だけで5~6件あったなぁ。他も覚えてるとこ合わせたら十数件はあった。駅前にもあったし、市役所(本町)の近くにもあったし、二見にも野原にもあったわ。

「栄湯」は創業何年ですか?
保廣さん)はっきりわからんねん。僕が生まれたときはもう風呂屋しとったし、親父の代からやから100年以上はやってる。

お父様が銭湯をすることになった経緯は?
保廣さん)もともと父も母も伊勢(三重)に居って、「丁稚奉公」で、父親は神戸の呉服屋、母親は京都の親戚の漬物屋で働いとったらしいわ。そういうまぁ丁稚奉公っていうもので、奈良県に来て高田(大和高田市)の風呂屋で風呂を焚かしてもろてたっていうのは聞いたことあるな。まぁ、風呂屋で働いてたってことなんやけど、昔、風呂屋をする人っていうのは、旦那衆が多かった。そこで、風呂を焚く仕事をさせてもらってたってことやな。高田の風呂屋の次は御所の風呂屋、で五條でも風呂屋で働いて、元々他の人がやっていたこの風呂屋を父親が買い取って「栄湯」を始めたらしい。

「栄湯」という名前の由来は?
保廣さん)父親が付けたんやけど、なんでその名前にしたのか聞いたことなかったな。けど、やっぱり栄えたらええな、栄える湯ってことで、付けたんちゃうかな。「栄湯(さかえゆ)」やけど、みんな「さかゆ、さかゆ」って呼んでくれる。

ご主人は幼いころから手伝いを?
保廣さん)小さいとき?してないしてない笑 番台に座るわけでもなく、20歳で継ぐまでは風呂焚く訳でもなく、普通に近所の子と遊んどったな笑。昔はほんま大勢のお客さんが来たから、家族で手伝ってやっていかなあかんかった。けど、僕、5人兄弟で、上に姉が4人居って、番台に座るのは女性の方がえーし、だから姉達はみんな番台に座って、手伝うとったな。

大勢というと一日どのくらいのお客さんが来てたんですか?
芳江さん)私が嫁いできたとき、昭和46年頃で、400人。毎日。
保廣さん)昔はこのあたりも人も多く、長屋も多かった。せやからこの近辺だけでも4~5件銭湯があったんやな。風呂に行くのは当たり前。日常、日課やったからね。

毎日400人も来てたんですか?!
芳江さん)そうよ。番台からみるともうここ(脱衣所)が埋まるほど人があふれてたもの。赤ちゃんもいるから、ほらそこにベッドもあるでしょ。せやからこの脱衣箱も足りなくて、脱衣籠に入れてもらってそれをちゃんと管理して・・・って忙しかった。

 

保廣さん)この脱衣箱も創業当時からのやつやと思うから相当古い。欅(けやき)の一枚板、模様や浮き彫りの漢数字、鍵・・・。銭湯ファンの人はこれ見てものすごいびっくりして喜んでくれるわ。 銭湯好きで他府県から来てくれたお客さんは、やっぱりいろんなとこ観察してる感じがあるからすぐわかるな。「どっから来てくれたん?」って色々話するんやけど。
鍵のここにほら、「用心」って文字があるやろ。こんなんも残ってるとこ少ないからなぁ。

 

 

 

 

遠方からのお客さんもいらっしゃるんですか?
芳江さん)遠くから来てくれるよ。こういうレトロな銭湯が好きな方、銭湯ファンの人が、全国から足を運んできてくれるねん。そうそう、昨日も京都から来てくれてたわ。このレトロ銭湯の本を書いてる松本さんも何度か来てくれて、ほら、こうやって、本に載せて紹介してくれてるねん。

 

定休日はありますか?
保廣さん)あるよ。休みは、6日、12日、18日、24日、30日。6の倍数の日が休み。昔、銭湯が十数件あった頃から、うちがそういう6の倍数の日を休みにするまわり(=順番)、 要するに他の店は5の倍数の日が休み、7の倍数の日が休み・・・というように、他が休みでもうちが開いてる、よそはまたその逆、ていうように休みが重ならないようにしとったんやな。休みのお店が何店舗も重なったら、開いてるお店にお客さんが集中してえらいことになってしまうから。それだけ、昔はそれぞれの風呂屋にお客さんが大勢来とたってことやな。

芳江さん)さっきも話したけど、私が嫁いできたときで400人やから、それ以前はもっと来てたはずやしね。

今、入浴料はいくらですか?
保廣さん)440円。物価統制令っていうのがあって、例えばうちの風呂、10円値上げするわとか、勝手に入浴料金を変更することはでけへんねん。奈良県は奈良県で決められた値段ていうのがあるから。大阪は大阪、京都は京都、各都道府県で料金が決められとって、値上げしたいときは、届け出て認められて初めて、じゃ、20円値上げ・・・そういう感じやね。

400人来てた頃の入浴料っていくらだったんですか?
芳江さん)35円やったかな。

え!?35円!?そんな時代だったんですね。なんか、今と感覚が違いすぎて・・・
芳江さん)そうやね。今とは時代、物価が違うからね。お客さんの職業によっては
早くから風呂に入って仕事行かはる方もいてるから、昼間から開けてた時もあったしね。

銭湯の命、窯が壊れる

栄湯の特徴、自慢は何ですか?
保廣さん)」。水が綺麗ってとこ。金剛山の分水が流れてくる、井戸水。それはどこにも負けへん自信がある。今となったら風呂は古なってしもたけど、水の綺麗さは昔から今も変わらず自慢できるし、遠方からきてくれるお客さんも喜んでくれる。

西村さんの一日のスケジュールは?
保廣さん)毎朝だいたい8時に現場へ燃料の薪(廃材)を取りに行く。薪を積んで帰ってきたらそれを窯場まで運んで、11時半頃に火を入れる。そこから湯の温度を調節して16時に開店やな。そこから20時まで営業。昔は23時半ころまでやっとったんやけどな。

銭湯って薪(廃材)で焚くんですか?
芳江さん)昔は「挽っこ(ひっこ)」=おがくすで焚いてたんやけど、11年前やったかな、窯が壊れてしまって・・・。それで窯を入れ替えて、それからは薪。実はそのとき、商売辞めることも考えて・・・。正直、窯を入れ替えるってなるとかなりの高額やし、これから先のこと考えたら、そういう考えも浮かんでね。今、銭湯がどんどん減ってきてるけど、そういうこと(窯の故障等)を機に存続を諦めて銭湯を辞めるとこもあるからね。でも、お客さんが少なくなってきてるとはいえ、やっぱり、うちがなくなったら困る人がおるやろなって思うと、やっぱり辞めれなかったし、もうちょっと頑張ってみよかなと思ってね。

窯って、銭湯の命、ですものね・・・
保廣さん)風呂屋の窯は特殊、だから高いねん。既製品っていう訳にはいかへんからね。その風呂屋ごとに合わせてつくるものやから。

おがくずで焚く、薪で焚く、どんな面で違いがあるんですか?
芳江さん)運ぶっていうことでいえば、おがくずは取りに行くだけやけど、廃材はまずチェーンソーで切る作業。そしてそれを積んで帰って、そこから窯場まで運ぶ。切って運んでって面で言えば薪の方が重労働やね。やっぱり。

保廣さん)おがくずはじわじわ燃えて火床が安定して、一定の温度を保つけど、そのためには火床にうまくおがくずを補給し続けなあかん。それがうまいこといかんとおがくずが一気にバサッと大量に落ちこんだときに火も一気にあがる危険性があるから注意せなあかん。もちろん薪(廃材)でも、注意はせなあかんけど、火は安定するからその点は安心ていうんかな。

銭湯の仕事で大変なことは?
保廣さん)裸でお風呂に入る=無防備なわけやから安全面は重要やね。
昔ならたくさんお客さん居ったから、万が一誰かがしんどくなったとか、そういうことがあっても周りの人が気付いてみんなで対処してくれたけど、お客さんが少なくなってくると、その辺も気にかけて、声かけたりとかしてるな。僕は女湯には行けないから、長い時間出てこなかったら「おばちゃーん、大丈夫かー?」って声かけたりする。そら、いざとなったら、女湯でも行くけどね(笑)
家庭でもお風呂の最中の事故って少なくないやろ?ヒートショックとか。それに、すべって転んだりしてもけがするし。やっぱり、「こんばんは」って来てくれて、風呂入って、「ありがとう」って言うて帰ってくれるまで「安全に」ってことやな。

 

人と会う、話す、気づく、集う・・・そこにある大切なもの

銭湯を続けてきた中でうれしかったこと、印象に残っていることや思い出などは?

芳江さん)一昨年(平成30年)の1月26日、イチフロ=一番風呂の日ということで市役所の方達がここでイベントを企画してくれました。来ていただいた方にお風呂に入ってあったまってもらって、そのあとは、ジビエ鍋食べてまたあったまってもらって、あと、抽選したりとか・・・。いい思い出ですね。やっぱり、人が集うっていうんかな、そういうのもうれしいしね。一生懸命準備から片付けからしてくれて、ほんとに有難かったし、思い出に残ってます。

保廣さん)同級生が地元に帰ってくる度に言うてくれるのが、うちの母親によく風呂いれてもろたって・・・。あの頃、子供も多かったし、母親はずっと女湯に居って赤ちゃんや小さい子供達の入浴を手伝うてたから。4人の姉も同じように手伝うて家族でうまく風呂屋しとったなと思う、男だけやったら、できないからなぁ。うちの娘も番台座ってたし、そうやってずっとやってきたなぁって・・・。

番台。銭湯の象徴ですね。やはり奥さんが番台に?
芳江さん)私が夕飯の準備する間は主人が男湯の方で居ってくれて、お客さんとしゃべってる。で、5時半から交替して、私が番台に座ってる。

毎日座ってると、最近来ない人が気になったり、またいろんな方といろんなお話、話題あるのでは?
芳江さん)あるよ~。お客さんも毎日来る人、隔日の人・・・いろんな人いてるから、だから毎日きてる人が来なくなったらどないしたんかな?って気になったりするし、「体調悪いの?」って電話かけたりすることもあるよ。
保廣さん)釣り好きな人とは釣りの話、政治の話が好きな人、野球の話、競馬の話・・・僕もある程度は本読んだりして勉強したりしてな。知識として知ってれば話も広がるし。知らんことは知らんていうけど、話題も大事やしね。男性客だけちごて、おばちゃんにも「あれっ、今日は綺麗にパーマあててかわいらしなったな」って気づいたこというて笑い合ったり(笑)。
やっぱり、毎日出会って話してきただけあって、ちょっとした変化も気づくもんなんやね。いじったりいじられたり、冗談言い合いしてそれも風呂屋してて楽しいなて思うことやな。

銭湯って、体を綺麗にする場所であると同時にそうやって人と人がつながってコミュニケーションをとる大切な場所でもあるんですね。
保廣さん)そうやな、今はだんだんそういうのなくなってきてるやろ。病院の診察でも先生が人を真っ裸で見ることってないけど、僕らは商売上、見るからね。ちょっと痩せたんちゃうかとか太ったんちゃうかとか、本人が気付かんこと気付くときあるな。昔は子供達もここでマナーや社会性を身に付けたり、学ぶこともあったしな。何か、言葉では伝えられなくても、「背中を流す」とか一緒にお風呂に入るってことで何かわかることとか、言葉以上のものがそこにあったり・・・。

 

 

そうですね、この近辺の商店街、私も小さい頃からいろんな買い物に利用しました。お店の人と話す、近所の人と話す、遊んでもらったり、叱られたり・・・そうやって大きくなったように思います。
保廣さん)そうやな・・・。ほんまに時代は変わったな。子供も少なくなったけど学校帰りに家の前で出会ったら、「ただいま」って挨拶してくれるし、もし黙っとったらこっちから「おかえり」って声かけたら、「ただいま」っていうてくれるわ笑
そういうの大事なんやけどな、関りっていうんかな、地域とか世代とか含めて。

何十年もたくさんの人に支えられて・・・

2011年9月の紀伊水害の際、この近くの仮設住宅に暮らす被災者の方たちに約3年半にわたり無料で銭湯を開放されたと聞きました。

保廣さん)何かできないか・・・ただそう思って。仮設住宅にもお風呂はあったけど、やっぱり小さかったり、またぎが高かったり。安らげないと思った。仮設住宅で慣れない生活を送る人たちに少しでも安らぎの場、時間をと思って妻と相談して決めたんやけど、入浴後に「ありがとう」っていうて喜んで帰ってくれたときはうれしかったな。災害が多い時代やけど、困ってる人の何か役にたつこと、大きなことでなくても何か自分たちにできること・・・っていうんかな、結局は「やるか、やらないか」ちゃうかな。

芳江さん)うちも、いままで、たくさんの人に来てもらって、支えてもらってやってきたから、恩返しという意味で、何かできることはいうことでさせてもらったんです。

これからの「栄湯」どうしていきたいですか?
保廣さん)時代の流れに従うしかない。江戸時代の「湯屋」と呼ばれるものから始まって、この時代まで「銭湯」は日本特有の文化としてあり続けてきたわけやけど、時代は変わって銭湯がなくなり続けているのが現実。

芳江さん)自分たちが健康で、お客さんが来てくれる限りは続けたいとは思ってるけれども、いつでもやめる心づもりはしてる。でもできる限りは頑張っていきたい。

残っててほしいなって思います。
保廣さん)僕らはいつまでできるかわからんけど、どんな形であれ、もし残してくれるならそれはうれしいことやな。
風呂屋としてでなくても、この場を、地域のコミュニテー、集いの場としてとか。壊すのはいつでもできるから。

五條市でずっと暮らしてきて思うことは?
保廣さん)やっぱり、人口が減ってきてることが残念というか、何か対策せなあかんと思うな。特に学生や子供が増える、また人が訪れるような、何かがあったらなと。例えば十津川へ行くには五條を通る、そこをうまく活用した何かとか、五條で一旦足をとめてもらう何かとかね。柿が名産やけど収穫時期は一時。年間通してきてくれるようなものとかあったらええなと思う。
新町通りみたいなすばらしい観光場所、また明治維新発祥の地、天誅組をもっとアピールして、観光客が歩いて回るにはもっとトイレを作らなあかんのちゃうかなと思うな。

芳江さん)私らも若くない、自分達が健康でないとこの銭湯も続けられない・・・。できるとこまで頑張っていきます。

保廣さん、芳江さん、本日はありがとうございました。

名  称  栄 湯
住  所  五條市須恵1丁目11-12
電話番号  0747-22-3169
営業時間  16:00~20:00
定休日  6日・12日・18日・24日・30日

☆スタッフHのすぽっとwrite☆

今回のインタビュー先「栄湯」。実家の近くです。レトロな雰囲気にあふれる脱衣場でお話を聞いていると、小学生の頃の下校途中の記憶が浮かんできました。

毎日帰る通学路で、庭先につながれてる犬を撫でたり、橋の上から川を覗く・・・。
そんなルーティンの中に、道の少し奥まったところにある栄湯の方に目をやる・・・そんな習慣があったのを覚えています。どんどんと寂しげに風景が変わる中、「栄湯」はいつもそこにある・・・それが静かながらも大きな「存在感」と「安堵感」を与えてくれます。

いつも緊張のインタビュー。でもやっぱりこんな「あったまる」経験、こんな「あったかい」西村さんご夫婦との出会い、すぽっとらい燈をやっててよかった♪

人と人が出会う場所。銭湯としてもコミュニティの場としても残っていてほしい、残さなければならないものではないかと思いました。

 

 

 

 

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