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第83回ーPart4 日本児童文芸家協会会員・生涯学習インストラクター 川村優理さん

 

父のお手伝いができてよかった。

藤岡家住宅Part①~③では、うちのの館館長として、藤岡家住宅、藤岡長和、開館からこれまでについてのお話を聞かせていただきました。
Part④では、学芸員のほか、日本児童文芸家協会会員、生涯学習インストラクター、エッセイスト、ラジオパーソナリティと多数のお顔を持つ川村さんについて、また、児童文学作家の川村たかしさんのご長女として、お父様のお話も聞かせていただきました。

―プロフィールをお願いします。

五條幼稚園、五條小学校、五條中学校、五條高校・・・ずっと五條で居りましたが、タイの昔話の翻訳をしようと思って、大阪外語大学(現・大阪大学)のタイ語学科に進みました。 

―タイ語学科を選ばれたのは?

父と母の助言で。母は天理大学の英文科だったんですけど、同じ和歌山線で奈良学芸大学(現・奈良教育大学)に通う父らに英語を教えてたって(笑)。同じ路線で英文学科で女性自分ひとりだったし、何かすごい嬉しかったんだけど、いざ社会に出たら英語喋れる人がいっぱいいたんですって。だから「みんなができる語学は後でがっかりするから、誰もやってないのをやるといい。ちょっとくらい間違ってても分からへん」っていうのが母の意見でした(笑)。

父はタイの日本人町を取材に行ったら、タイの昔話が日本語に翻訳されてないからって。私は小説家になりたかったんですけど、父の創作する姿を見て育っていて、父みたいに命がけで書くのは無理だし、タイの昔話を翻訳したら、割とラクをして絵本にできるやんって思ったんです。そういう思いが重なってタイ語学科に行ったんですけど(笑)

 

―学芸員になられた経緯は?

父が「司馬遼太郎先生からの手紙」を五條の市立博物館にお貸ししてたときがあって、それを返しにきた学芸員の方に「私、学芸員になりたいんです」と言ったら「いや、無理ですね。」と言われました。「そうやんな・・・」って思ってたら、1年後、「今、お勤めしてる方の席が空いたので受付に来ませんか」とお声をかけていただいて。そこから博物館にお勤めしながら、玉川大学の通信教育で学芸員の資格を取りました。その頃父がストレスが原因の病気のためにペンが重くなってしまったり、取材に出かけることがきつくなっていました。それで父の手伝いをするようになって、五條の歴史や紀伊半島の資料を集めることになりました。それが結果的に、藤岡家住宅の話に繋がっていくことになりました。

 

―お父さま、川村たかしさんはどんな方だったんでしょうか?

私が知ってるときから書斎に居て、ずっと書き続けてたというイメージがあります。10年以上かけて執筆を続けた「新十津川物語」は、年齢や体調不良、物語の舞台が十津川村から北海道に移動することも重なり大変な労作となりました。享年80歳でしたが、父が作品をのこしてくれたおかげで、新十津川村では今も私達を大歓迎してくださいます。他にも「もりくいくじら」とか「サーカスのライオン」「山へいく牛」など、教科書に載ってる作品も多く、父の残してくれたものはとても大きいです。

 

―川村さんは童話作家、エッセイストということですが、やはりお父さまの影響が大きいのでしょうか?

大きいですね。子供のものであったり、エッセイのお仕事が多いんですが、やはり「書く」仕事に関わっているのは父の影響ですね。娘も論文とか文章を書く仕事ですが、時々「おじいちゃんが生きてたら、この論文についてどう言ってくれるだろう」とか「おじいちゃんに読んでほしいなぁ」などと言いますね。

 

―娘さんにとっても大きな存在だったんですね。

娘は小さい頃よく、父の書斎の隅っこでアンデルセン童話などを読んでいたんです。私が小さい頃は、父の書架にある本から読み始めたので「世界民謡の旅」とか「若草物語」とか。で、私、その頃からちょっと変わった子供で、幼稚園で給食の後、みんながおままごとを始める中、ずっと本を読んでて。それも、家から風呂敷に包んで持ってきた「東海道中膝栗毛 小学生版」とか「古事記 小学生版」とか。 なぜ、バッグに入れずに風呂敷だったのか。考えると不思議ですけど。

―お父さまの「命がけで書く」とは、どういうことでしょうか?

父は「新十津川物語(全10巻)」は1巻で終わるつもりだったんです。
紀伊半島を舞台の物語を書き続けていました。古式捕鯨や海賊、イノシシと戦う猟師の話などです。そしたら、「十津川村の方が苦労をして北海道に行って立派な町を作っていかれたことを五條の人はほとんど知らなくなっているから、これは書かなあかん」と思ったそうなんです。それで1冊目を書いたら好評で、「続きを書いてください」って、2冊目を書いたらそれが課題図書になって、そしたら3冊目も、と続くことになりました。
北海道の方も自分達のルーツや記録が欲しいってことで、これは史実じゃなく、物語だけども・・・とどんどん書き続けていくことになって全10巻。架空の物語、場所、町とかだったら何も言われないんですけど、だんだん資料が出てくると、これは史実と違っていた・・・というときには書き直しました。ときには1冊を全て書き直したこともあります。
この物語は9歳のフキという女の子が主人公、これは実は母がモデルだと思います。9歳で親を亡くした勝気な女の子が親戚に連れられて北海道に渡っていくんですね。

 

―主人公フキはお母さまがモデルなんですか!?

母は「お父さんは私のこと書いたことない」っていうんですけど、私は母がモデルだと思います。母と似て活発でがんばりやさんの女の子です。

 

―そうなんですね。

だんだん登場人物が増えて、取材も大変になって、例えば「吹雪」を書くために北海道に旅館をとったり、取材していくうちにいろんな繋がりが出てくる。書き続けるうちに不整合も出てくる。不整合に気づくと書き直すんです。純然たる小説10巻です。すると北海道新聞社がノンフィクションも出してくれということで、当時の資料で「十津川出国記」というのを1冊出して、合計11冊の大作になりました。

それを出したときに司馬遼太郎さんがすごくお褒めくださって、そのときにいただいた長い手紙を父はずっと大事にしていました。

 

―確かに吹雪のシーンが何度かあり、そのすさまじい様子が伝わりました。
登場人物もどんどん増えていきましたね。

9巻くらいからは、ほんとにしんどそうで、手が動かなくなって。私が口述筆記をするんですけど、もうやめとけばいいのに・・・って思うんですが、また書き始めるんですね。最終的にはパーキンソン病と診断されましたが、先生によってはパーキンソン病症候群、ピュアなパーキンソン病の症状ではないという診断もあって、結局はストレスだと思うんですけど。昔の野球漫画に『野球狂の詩』というのがあって、そこに登場する投手は一球一球にまるで人生そのものを賭けるかのように全身の力を込めて投げるんです。父の晩年はその一作一作が全て真剣な剛直球でもあるかのように、命をかけるように作品を書きました。そばで手伝っていて、作品に登場させる人物像に自分の魂をふきこむかのようにも見えました。そんな父を見てきたので、私は父の様には書けない、でも「文章を書く人」にはなりたいなと思いました。

 

―「新十津川物語」は児童文学というジャンルなんですね。

児童文学であれだけの、ま、今は色々と素晴らしい作品も出てますが、直球で3歳から80歳、100歳になっても読んでほしいという文学は高い評価をいただき、今でも皆さん大事にしてくださいます。

 

破滅的な災害や度重なる試練、現代とはかけ離れた生活や貧困の様子など、読み進めるのが辛くなる場面も正直多かったです。

去年、奈良県立大学付属高校の生徒さん達が来て、「どうして川村たかし先生は戦争をあえて書いたんですか?」とか、「不倫みたいな場面がありましたが、娘(川村優理)さんはどう思いますか?」って質問されました。

 

―主人公フキの娘、あやが、夫亡き後、他の男性に心を寄せる場面ですね。

そうです。「別に書かなくても良かったんでじゃないですか」と、生徒さんの質問にありました。「父はとにかく時代に生きた人を正確に追いかけようとしたんだと思います」と答えたんですけど、生徒さん達は今、自分達が成長していく世界にいるので、苦難を乗り越えながら頑張る子供達の文学を真っ正直に読み込んで、朗読の舞台や動画作成をしてくれました。

 

―偉大な方を父に持たれ、葛藤のようなものはありましたか?

何もないです。超えようとか全然思ってないので。父のおかげで新十津川村に父のファンが居てくださってるし、父の場所があります。「サーカスのライオン」は今でも小学3年生が読んでくれた後、お手紙をたくさん送ってくれます。何か父からのメッセージがずっと届いてるような気がして、父が死んだ気がしないんですよね。父の最晩年まで病院の待合室で、「お父さん、こんなエッセイの依頼が来てます」って言ってパソコンを持ち込んで聞き取りして入力して父の創作を手伝いました。最初の頃はペンで記録してたんですが、そうするとこっちも手が動かなくなって、そのおかげでパソコンを始めたんです。父が居てくれたこと、一生懸命お手伝いできたことは、いいことしかありません。

 

―エッセイストとしてのお仕事はどのようなものをされてますか?

母が天理大学にいたこともあって、今は天理教道友社からご依頼を受けてエッセイを書かせてもらってます。第1期は新聞に12年間連載しました。近代文学に描かれた「家族」をテーマにという執筆依頼で書きました。第2期は日常の風景のひとこまです。タイや五條の昔話に取材した作品も書き続けています。
先日、藤岡家に私のエッセイを愛読しているというおふたりの女性が来られて、私の文章が掲載されている号を大切に透明の袋に入れて持って来られました。読者の方からお手紙を頂くこともあります。励まされます。

 

―五條市広報に掲載の「うちのの館から」は川村さんが担当されてるんですよね。

ここ(藤岡家住宅)にあることを五條の方に伝えないと・・・と思って。知らないことがたくさん出てきています。天誅組関連でも、新しい資料が出てきますので、それを今はご紹介しています。私は五條市史の文学文芸編を編集したので、そこから見える五條というのもテーマにしています。歴史書にはない、あるいは史実と少しずれているかもしれない、けれども「女性や母親、生活者の視点で書かれた文学」から、当時の人達が何を見ていたかというのをちょっとでも知ってほしいからです。

 

―FM五條では「川村優里の音楽でジャーニー」という番組を開局から継続されてますね。

音楽を通して五條で見つけたもの、たまに私の日常なんかも入ってしまいますが、それを伝えたり、音楽と一緒に体を動かしてほしい、そういうきっかけになってほしいなと思います。

―パーソナリティが紹介する音楽はもちろん、いろんな情報や、クスッと笑える話など、耳心地の良さは癒しにもなりますね。

こちら(藤岡家住宅)の館を見てほしいと思ってもなかなか見てもらえないです。「私、今日、こんなもの見つけたんですよ」ってお話をちょこっと入れたりします。「音楽と一緒に心の旅をしてください」というつもりで番組作りを楽しんでいます。

 

―だから、「音楽でジャーニー」なんですね。

はい。子供俳句教室で詠んでくれた俳句も紹介させてもらうんですが、以前、選句者全員の票を集めたのが『赤色の火花を散らす彼岸花』これ、すごくないですか?映像が浮かぶでしょ、パッと咲く、その瞬間。これをラジオで紹介するときにどんな曲を合わせようかと娘に相談したら、即座にLisaの「紅蓮華」。あ、なるほどな!って。若い人の句には若い人の感性で選んだ曲をぶつけて、五條の風景をお伝えしたいですね。他にも『赤とんぼ 緑の坂を超えていく』『天空に旅立つものは渡り鳥』などなど、これ、全部小学生が20~30分、俳句について学んだ後、3日間ほどの期間があって提出してきた句なんです。私ももっともっと勉強して俳句を詠み続けたいですね。

―五條市についてどのように感じますか?

古代から現代まで五條市は「通り抜ける場所」だったんです。都のある飛鳥や橿原や奈良や京都・大阪方面、紀州に行ったり、吉野、熊野に行ったり、あと山伏(山中で修行をする修験道の道者)さん達が往来する場所。空海も通って行けば、井上内親王も通って行った・・・、いろんな人が通り抜けていくので、そのたびに新しい風が入ってくるんです。「ザ・ゲートウェイ五條」だといつも私は考えていて、ここを皆通り過ぎて行って、土地の人々はそういった旅人たちを定点観測で眺めてるんだけど、そこに「物語」を見つけてきた土地です。だから五條はおもしろいですね。

 

―「ザ・ゲートウェイ五條」そんな風に考えたこともありませんでしたが、そう言われると五條はすごい、おもしろいところですね。

「ゲートウェイ高輪」ができる前から「ゲートウェイ五條!」って思っていましたので、決してマネしたのではありません(笑)

 

―川村さん、ありがとうございました。

 

川村優理さんの頁はこちらから

 


☆スタッフHのすぽっとwrite☆

小学生版とはいえ、東海道中膝栗毛や古事記を風呂敷に包んで登園する幼稚園児。
想像するとちょっと笑ってしまいますが(笑)

2月半ばに乗船してからひと月半。私にとって「心が豊かになった旅」は、最後に川村船長にこの記事をお渡しして、無事終了です。

旅の余韻と少々の疲れ?もございますが(笑)、またいつか、今度は、クルーとして?乗船できたらいいな。

第83回ーPart3 登録有形文化財 藤岡家住宅     NPO法人うちのの館 館長 川村優理さん 

見せたいものがまだまだいっぱい

「古民家は未来へ進んでいく船」・・・だとか。ならば目指す目的地はどこ?船をテーマパークに?川村船長はどんな仕掛けを?。
長和が残した大切なもの、五條にこんな素晴らしい方がいたことを知れた「藤岡家住宅」インタビューの最終章。

全部あるやん、藤岡家。

―現在は資料に特化されているということですね。

そうですね。古民家って1軒の家なんですけど、実はメディア。情報の宝庫なんです。何百年も前からのメディアをどう生かして今に繋いでいくかという最中にいるんです。廃屋になってしまう古い建物や古民家をどうしていくかというのは日本中、世界中が困っていることだと思います。

―そうですね。こうして保存、公開されずに取り壊されれば、貴重な資料や文化も同時に失われるということですよね。

それで私が考えたことがあって、娘が大学で言語文化学をやっているんですが、テーマが一貫して「ディズニー」なんです。それで実際のミュージカルをみようと、一緒にアメリカで「ライオンキング」を見たんですが、その時、「なぜディズニーってこれだけ人を惹きつけるんやろ」って思ったんです。みんなすごく楽しそうでしょ?ディズニーランド、ディズニーシー、ディズニーワールド全て。私は娘とは違う「古民家というメディアをやらせてもらってる」視点で見るんです。

それで気づいたのがディズニーランドの「ホーンテッドマンション(世界各国のディズニーパークにあるライド型お化け屋敷のアトラクション)」。お化け屋敷なんですが、乗り込んだライドが真っ暗の中を進んで「この廊下・・・夏は暑くて、冬は寒くて恐ろしい・・・」ってアナウンスが流れたとき、「あ、藤岡家と一緒!」と思ったんです。作り物の蜘蛛の巣・・・「藤岡家に本物あるやん」、本を積み上げて作ったクリスマスツリーや、プーさんが覗き込んでる古い辞書や絵本・・・、「これ藤岡家にあるやん!これはいける!」って思ったんです。みんながこれだけ来たい場所にある要素を藤岡家は持ってる、「そうや!ここをディズニーにしよう!」と思ったんです。

―エンターテイメントってことですね。

そうですそうです。 


―実際、藤岡家でディズニー化しているところがあったりしますか?

100年前のピアノがあるんですが、この周辺を「美女と野獣」みたいにしたいと思って。バラのステンドグラスやハシゴがあったり・・・。展示してたら、動物の爪痕を見つけて、ほんとに美女と野獣みたいだと思いました(笑) 五條の子がもし修学旅行とかでディズニーに行って、「美女と野獣」を見たときに、「あ、これ藤岡家にあったやつ」って思うかもしれないでしょ(笑) だからディズニー化を目指そうかなと。

このピアノは長和の長女、瑠璃子さんのものなんです。英語やピアノを習って、お父様が転勤の時にはピアノとお手伝いさん付で一緒に引っ越されたほど、長和溺愛のお嬢様でしたが、小さな子供を残して24歳の若さで亡くなっています。その後ピアノはご親戚のもとで大切にされてましたが、ここを開館するときにお返しくださったんです。ピアノが帰ってきて瑠璃子さんも長和も喜んでると思います。

―ただ古いピアノだというだけでなく、それにまつわるお話やディズニー化があると、ご覧になる方の感じ方も様々ですね。

成長された瑠璃子さんのお子さんは、その後英語の先生になるために北宇智中学校に教育実習に来られます。そのときの担当がうちの母だったみたいで。まだ玉骨夫妻も居られた頃で、私に、といって、何か外国製の膨らますロバのお人形、多分ロディだと思うんですけど、それをくださったそうなんです。その方からは今も藤岡家に電話がかかってきてニューヨーク時代のお話などを聞かせてもらっています。

 

―やはり川村さんと藤岡家はご縁があったんですね。ピアノ以外にもいろんなものがありますが来館者はどのようなところに興味をもたれますか?

ここに来て何を見るかっていうのはその方の過去、現在、未来を反映していて、お人形が好きな方、絵が好きな方、建築をなさってる方、お庭に流れている川の石が全部お薬の石でできていると教えてくれた方は岩石を見る方、薬学をやる方、皆さん視点が違います。見る方によって得る情報が違うのは、古い建築物のもつメディア性のひとつだなと思います。

 

―私も初めての藤岡家でしたが、説明を聞くことでより興味が深まりました。当時の商売道具や贅をこらした屋敷等、藤岡家の繁栄ぶりや人物像などがわかり面白かったです。

江戸時代や戦前戦後、その当時の最先端のものがあるのでそれをみてもらいたいとも思いますし、この方は何がお好きなのかなって想像するのも楽しくて。子供さんの場合はここで絵を描いたり句を詠んでもらうと何が好きなのかがだいたい見えておもしろいです。五條中学の生徒さんがスケッチに来てくれたとき、絵の勉強ではなく、ここにあるもの何でもいいからひとつだけ好きなものを描いてもらったんです。温度計を描いた生徒さんもいれば、木組みを写した生徒さん、掛軸の絵を模写した生徒さんもいました。「自分」を見る機会になってもらえればと思います。

 

―かなりたくさんのものがあふれるように展示されてるので見どころ満載でした

私がここで感じたのは、私はまず母親なので、女の人は江戸が明治になっていようと、まず子供に何を食べさせようかと考えたのではないかということです。生活から覚えていく、生活や道具の変化などを追いかけるのが好きなんだと感じました。大和名所図絵や、木曽街道六十九次(歌川広重の作品)は、今だと普通、広重の絵=「美術」なんですけど、当時の旅の情報誌なんですよね。ここは橋が危ないとか、谷が深いとか、そういう生活者の視点で歴史を見るのが私は今、面白いのかもしれません。

―確かに、生活の視点で教わると「歴史苦手」意識が和らぎます。それにここはディズニーの要素を持ってるんですものね。また違った視点で見学できそうです。

そう言ってもらえると嬉しいです。修復する前に調査に来てた大学生さん達はここがただひたすら怖かったって言ってました。私も怖かったんです。怖いんで写真もパッと撮ってすぐ戸を閉めてみたいな・・・。そしたら写真がブレてる。でもそこには歴史のもつ重さと強さも感じることができました。田中さんが思い切って一歩踏み出してくれなかったら・・・と思うと、田中さんの踏み出された最初の一歩はすごく大きかったですね。

先日、自転車で小6の男の子が2人来てくれました。外で何か話し声が聞こえるんで表に出ると、近所の奥さんが「遠くから来たみたいなんやけど、見せたってくれる?」って。「いえ、僕、どうしても気になることがあって」って言うんです。もう「どうぞどうぞ」って。嬉しかったですね。それで見終わったとき「気になっていたことは解決しましたか?」って聞いたら「はい」って、帰って行きました。「子供さん達が何度も来てみたくなる。知りたいことがあるだけでなく、楽しんでもらえる。こういう場所でありたいなぁ」と思いました。

―それは嬉しいですね。「どうしても気になるもの」何だったんでしょうね・・・


ー現在、展示しているものや次に企画しているものをご紹介ください。

今は「天誅組の手紙」という展示で天誅組から藤岡家に届いた書状などを展示しています。3カ月毎に展示を変えていて、4月からは「明治天皇の誕生」を展示します。江戸時代から明治文化に近代化していく時代の日本の画像のかけらのようなものがいろいろありますので。明治天皇というのはまた偉大な天皇なんですよね。いきなり近代化していくわけですが、10代でものすごいことをしていくんです。中山忠光、天誅組との関連など、明治のものが結構ありますので4月からはそのタイトルで。

これからの展示で目指していくのは、今江戸時代の庭を掘りだしていってるんですけど。ますますディズニーフィケーションで、若い人たちが古いものにどれだけオシャレ、すごいって思ってくれるか・・・、私は皆さんにビックリしてほしいので。

 

―長い間、この藤岡家住宅で研究や調査をされてきた川村さんにとって「藤岡家住宅」「藤岡長和」とは?

基本ね、ミーハーなんで(笑) 藤岡家住宅は「発見できるドキドキの場所」です(笑) 直にその空間に居て、自分がふと開けて「えー!!」って驚くものがある。それを「見て見て!」って皆さんに見てもらう、そうすると、ご覧になった方から「これはこうで・・・」って教えてもらえる。ほんとドキドキ、発見の連続、ここは「発見」のテーマパークなんです。

 

―テーマパーク? やっぱりディズニーですね!

あー!そこにきましたね(笑)(笑)

長和については、あれほど華やかなエリート官僚であったのに、よくこれだけ静かに・・・辛いことを乗り越えた方だなと。私達の今の平和や繁栄の陰にはすごいしんどい思いをされた方がいて・・・、そんな思いをされた方が実際ここに居たってことにもろに出会った訳です。句集を見て勉強していくうちにその苦しさがどんどん分かっていったので、何ていうんでしょう、尊敬とかを超えて感謝するしかないというか。この土地や先人、ご縁に一生懸命感謝していく、そのひとつの象徴が長和だと思っています。私が女性であり母であることに特化するのであれば、静かに平和を祈るだけではなく何かを伝えていきたい、俳句でもいい、こういう人がここにいたということを伝える、そして心に感じ入ることのできる人をつくる、ある意味、教育機関でありたいと思っています。

 

―今後の課題はありますか?

 

目標がディズニー、テーマパークなもんですから(笑) テーマパークを楽しんで頂くためには厨子二階を探検できる場所にしたいです。厨子二階へのハシゴを登ってあそこを探検してほしい。そして見つけてほしいです。
金剛山の自然石を作った石組でできた庭も散策できるようにしたいです。

見せたいものがまだまだいっぱいあるの。だから課題、とういうか目標は「さらなるテーマパーク、さらなるディズニーフィケーション」。(笑)

 

 

―川村さん、本日はありがとうございました。

つづきはPart④文芸員、エッセイスト、ラジオパーソナリティと多方面でご活躍の川村優理さんについてのインタビューです。

 

■開館時間
9:00~16:00
貸会場の開館閉館時間はご要望に応じます。

■休館日
毎週月曜日
(月曜が祝日の場合は翌日)

■入館料(維持管理協力金)
大人300円
6歳~中学生200円
20人以上は20%の団体割引有

■アクセス
〒637-0016
奈良県五條市近内町526
TEL / FAX:0747-22-4013
☆JR和歌山線北宇智駅から徒歩約20分(1.3km)
☆京奈和自動車道 五條北インターから5分(側道を国道310号の方向に進み藤岡家住宅の看板で右折。金剛山の方向へ道なりに進む。)

NPO法人 うちのの館 登録有形文化財 藤岡家住宅のホームページはこちらから

 

 

 


☆スタッフHのすぽっとwrite☆

森鴎外、与謝野晶子、高浜虚子・・・教科書で見た人物。
天誅組、北宇智駅スイッチバック・・・、五條市の歴史。
取材してそれらと藤岡家との関わりを知ったとき
思いました。「えらいこっちゃ!」と。

玉骨の書斎で、机に向かって座ってみました。
窓から、梅の木や金剛山が見え、そこで一句・・・詠めるはずもないですが、
同じようにここに玉骨が座ってたんだと思うと「ゾクっ」。
私はこの「ゾクっと」フェチなんです。

第83回ーPart2 登録有形文化財 藤岡家住宅     NPO法人うちのの館 館長 川村優理さん

見えない何かに引っ張られてる気がして

30年の長い眠りから目覚めようとする藤岡家。かつての偉人の家を蘇らせようと船出します。積まれた宝の存在を知らぬまま進み出した船は、驚き、発見、忍耐、不安、感動・・・と、まさに航海そのもの。さてどうなるのでしょうか。

 びっくり! と えらいこっちゃ・・・。

―藤岡家がこのように公開されるようになった経緯について教えていただけますか?

覚えてる方も多いと思いますが、平成10年の台風です。神社の木もなぎ倒されたりと多くの被害が出る中、ここは幸い屋根で済んだといえば済んだんですけど、瓦や煙出しが飛ばされ、ひどい雨漏りで、ご当主が慌てて帰ってこられました。応急処置で屋根にブルーシートをかけ、さてこれからどうしようということになりました。ご当主は「これまで管理は近くに住む方々にお願いしてきた。でもこんな状況のまま迷惑をかけてはいけない」と、この家の今後の何かヒントや答えが見つかればとネット検索したところ「山本本家(五條市の酒造)」さんのページにたどりつき相談します。山本さんは五條で一番最初にインターネットを始めたり、五條のまちおこしをされてきた方で、相談内容から長和と山本さんのお父様がロータリークラブでお知り合いだったことも判り、すぐに五條市役所に繋いでくださいました。
話が進む中、「修理は全て私が(ご当主)がしますから、建物は市に寄付したい」と申し出られるんですが、他にもたくさん古い建物がある五條市がこの先それらを全て管理するのかという意見もあり、市への寄付のお話は進みませんでした。

 

―市への寄付が叶わず、その後、どうなったんでしょうか?

天誅組関連の町おこしもされてた田中修司さん(㈱柿の葉すし本舗たなか創業者 以下 田中さん)が、藤岡家に天誅組三総裁の一人である松本奎堂が書いた額があるという情報をきっかけにここを訪れます。鑑定の結果、松本奎堂のものではなかったんですが、このお屋敷の立派さに「保存の価値がある」と、田中さんはその後も行政や地域の方、そして私の父(児童文学作家 川村たかし)にもお声がけいただき再び藤岡家を訪れます。私は当時、父の運転手で同行してたんですが、ご当主を交えた話し合い等も重ねた結果、田中さんがこの建物をみんなが集まり食事や談話ができる場所として活用しようという提案をしてくださいました。ご当主も活用してもらえるならと修理してくださることになり、その時は、誰もここにたくさんの貴重なものが眠っているとは知らずに船出するわけです。

 

―ご当主も貴重な資料などの存在を知らなかったんでしょうか?

ご当主は「当家に残る文化を地域の文化のために活用してください」と明言しておられました。

―川村さんがこちらの館長となられた経緯は?

田中さんが、父の書いた『新十津川物語』などに深く興味をもって下さっていたことから、地域おこしと文学の結びつきに着目なさったのだと思います。以来、土地に残るストーリーを五條の将来への発展に結びつけたいと思っています。

―田中さんがここを訪れたとき、お目当てのものが天誅組関連ではなかったところで終わらなかったことが今に繋がってますね。

そうなんです。こちらのお話を田中さんからいただいたときに父に相談すると「私は14歳の頃に玉骨先生のところに俳句を習いに行ってたから、それはもうぜひ行ってお手伝いしてきなさい」って言うんです。 横で聞いてた母も「お父さん、玉骨先生から「玉蝶(ぎょくちょう)」って俳号もらってるねん」って言うんです。そんな話、初めて聞いたんですよね。「玉蝶って」・・・、父のお酒のアテを作ったりしながら「お父さん、文学って何ですか」って恐る恐る話しかけてた怖い父と「蝶」というイメージがつながらなくて(笑)

 

―藤岡家での最初の「お宝発見」はどんなものだったんですか?

母屋で資料整理をしている時、柱時計の下を通りかかった棟梁の柴田正輝さん(以下 棟梁)が「これメイドインUSAって知ってるか?」って言うんです。おばあちゃん家にあったような時計だと特に気に留めてなかったんですが、振り子箱を開けて見てみると、江戸末期頃のアメリカ、セス・トーマス社製の時計(米国でも最古の時計)だったんです。もうびっくりして。その時ですね、もしかしたら、ここはすごいお家かもしれんって思ったのは。

 

 

 

棟梁が率いる修理工事の方達が、「川村さん、色々出てくる。まず何が必要や?」て聞いてくれて、「どうも、ここは『大坂屋』という屋号みたいなので、『大坂屋』と書いてるものがあったらとにかくそれをください」って言いましたら、次来た時には色々机の上に置いてくれてあるんです。母屋や米倉に使われていた鉄釘1本も大切に「この鉄釘が貴重やった」と。この建物、建築に対するリスペクトがあり、昔の建築の素晴らしいところを崩さず、できるだけ残そうと、各分野の職人さん達が協力し3年半かかって修理してくださいました。

 

―開館に向けて最初にした「お仕事」は何ですか?

「玉骨句集」のデータ化です。玉骨は俳人として有名だったのに句集を1冊しか出してないんです。その句集もたった1冊しか残っていませんでした。これをまずデータとして保存しなければとコピーを持ち帰り子供が寝た後、作業をする訳ですが・・・、えらいこっちゃです。難しいんです!(笑)

昭和33年に出た句集なら私と同い年、大丈夫だわ・・・と、偉そうに持ち帰ったものの上質で非常に難解な俳句ばかりでした。

 

―どういう俳句だったのでしょうか?

小さな命をものすごく大事に、子供や鳥、虫の様子、命を詠む句がたくさんあるんですね。敗戦後、五條で俳句を教えながら静かに暮らして、大勢のお弟子さんがいながら結社も立ち上げないし句集も1冊しか出さない。目立たずとにかく人を育てようとしていたのがわかりました。私の父が児童文学を始めたきっかけは昭和30年代、小学校教師だった父は「子供の読むもの」がないって思ったらしいんです。童謡や昔話はありましたが、「児童文学」というジャンルはその頃まだ育ってなかったんですね。
父は「児童文学は3歳の子供でも80歳の方が読んでも同じように価値があるもの。世代を超えて全ての人に伝えられる、新しい時代を作る子供達の児童文学を書きたい」と思い始めるんです。そのとき父が言った「子供は未来やから」っていう言葉が子供ながらに、すごいこと言うなって思ってたんです。文化が充実し生活が豊かになることで相手を思いやる心や、戦わずに問題を解決する力が養われる、そのためのエネルギーは未来をつくる子供達の教育だということを、父はここにきて玉骨先生から学んだんじゃないかと思いました。

 

スターバックスで噴き出してしまって

―長い修理期間を経ていよいよ開館。当日はどんな様子でしたか?またその後の反響はどうだったんでしょうか?

平成20年11月11日、11時11分開館のセレモニーは、華やかで、テープカットもあり多くの人やテレビ局、新聞社が来られました。お神楽やお琴、藤岡家のご親戚のシャンソン歌手奥田真祐美さんの歌の披露がありました。12月まで無料ご招待で大勢の方がお越しくださり、年明けからの有料入館では年間12,000人の方が来てくださいました。梅を見に、お雛様を見に、先のお客様をご案内して戻るともう次のグループが待ってる・・・みたいな状態。田中さんが工夫を凝らしたお料理や地域のお店の出張ランチなど、1日100人の入館、というような日も時にはありました。

 

―華々しいオープニングとその後も盛況だったんですね。

はい。でも、いざ入館料を頂戴するとなったら果たして皆さん来てくださるのかというのは実はすごく心配でした。「お食事処」とは別に私は「見てもらう部分」を作る立場だったので大丈夫かな・・・って。そしたら、10時頃坂道を登ってくるひとりの男性がいらして、どうも雰囲気的にこちらに向かってるんです。セーターを着て飄々と歩いて来られて、通り過ぎずに入口に向かって曲がってくれたときは心の中で「やった!有料入館第一号のお客様が来てくれた」と思いました。その方はなんと、阿波野青畝(奈良県高取の俳人 以下 阿波野青畝)先生の長男、阿波野健次さんだったんです。こんな方が第一号で来てくれるというのは、これから「俳句の館」という方向で進むのかなとも感じました。

 

―これまで行われた企画などをご紹介いただけますか?

五條ロータリークラブさん主宰(玉骨は初代ロータリークラブ会長)で「子供俳句教室」をずっとしています。子供達は上辻先生(奈良県俳句協会理事)に俳句を教えてもらう前に、私が「誰でも上手になれる俳句」っていうのを教えるんですけれど、もうね、子供達の俳句が素晴らしくて。子供ならではの視点というか、大人が助言していたらちょっと違ったものになると思うんですが、子供独自の目線でこそ詠める句だなっていうのが寄せられてくるんです。こんな素晴らしい句が詠める子供達が五條の未来にあると思うと嬉しくて。ただ問題は「誰でも上手になれる」ので私が追い抜かれそうなこと(笑) ここがほんと問題(笑) 今は五條東小学校の子供さんに参加してもらってるんですけど、私の望みは五條市の全小学生に俳句を教えさせてもらうこと。これは野望です(笑)

 

―川村さんはいつから俳句を始めたんですか?

開館のときに何を展示するか・・・で、私はちょうどその年、生誕1000年と世間で話題になっていた「源氏物語」をしたいと言ったんです。与謝野晶子直筆の「源氏物語礼讃歌」っていう長い巻物があって、これこそ開館記念展示にふさわしい資料と思ったんです。でも上辻先生が「いや最初は俳句や」っておっしゃるんです。確かに立派な俳人たちの短冊はたくさんありましたが、私は「俳句より与謝野晶子や源氏物語の方が有名やん」と内心思ったんです。ですが、「ここには俳句の世界ではびっくりするような方々の短冊が残されてるんやからやっぱり最初は俳句」と決まりました。それでもまだ「何で・・・」と思うほど俳句を分かってなかったんです。

先生方のおっしゃる通り、俳句で大勢の方が来てくださいました。となると、私もこれから短冊を詠めないといけないんですよね。阿波野青畝の短冊はめちゃめちゃあるし、加えて、青畝のお弟子さんからの短冊や本が寄付されてくるんです。「阿波野青畝展」をすることになり、「阿波野青畝句集」をちゃんと読み始めたんです。そしたら、句の中に画像がいきいきと浮かんできます。橿原のスターバックスで読んでいて、とうとう噴き出してしまいました。

  

―句集で噴き出したとはどういうことでしょうか?

一見ぶっきらぼうな句などがあります。青畝は耳がご不自由なのですが、聞こえないというご自身の辛さを高いところから俯瞰して笑ってしまっている。すごいなって思いました。句の中に「おかしみ」があります。心の辛さや困難なことが、俳句で客観写生することによって笑いに変わっているのですね。『枕草子』の「いとおかし」の境地にも届く深さがあります。そこからです。俳句を勉強しようと思ったのは。

 

―川村さんは俳誌「ホトトギス」の同人ですね。

はい。普通ならどこか結社に入らせてもらったらいいんですけど、そうすると吟行や俳句会に出席しないといけないんです。となると仕事があるし子供もいるし、父母の手伝い等もあって時間的にとても無理なのでNHKの俳句添削講座を始めました。右も左もわからないままのスタートでしたが、ひとつの自信は玉骨句集のデータ化と阿波野青畝句集や、後藤夜半らの句集などの読み込みでした。もしかしたら何とかなるかなと。それで2年間くらい添削を続けて、ある程度見えてきたところで、すごいハードルは高かったですが、思い切って「ホトトギス」にと投句したら稲畑汀子先生(虚子の孫)の「天地有情」にまず一句が掲載されたんです。もう嬉しくて!小さい字だったんですけど、ここに持ってきてみんなに「見て見て!」って言ってね。こんなの一生に一回かもしれないと思いました。その後主宰の稲畑浩太郎先生選の「雑詠」に毎号載るようになり、その後も投句をずっと続けてたら何年か前に「左の人を同人に推薦します」ってとこに私の名前があって!もうこんな嬉しかったことはなかったですね。

 

―その後の藤岡家はどのように進んできたのでしょうか?

田中さんの構想でたくさんの方にここを知ってもらうことができましたが、その後、田中さんが御年齢の事もあってキッチンを辞められます。開館から1~2年は月に1回のランチサロンやお琴の会など地元のいろんなものを生かしてイベントを行っていましたが、徐々に、厨房スタッフの常駐、お客様が来られなかった場合の食材の廃棄の問題等、色々な意見が出てきました。そしてコロナ禍の時代が来て、飲食を中止しました。

 

―美味しいものと見学するもの、どちらもあるのは魅力ですが、運営側としてはそういった事情もおありだったのですね。

田中さんが退かれ厨房の方も一旦休止し、今後どういった運営をしていくかというお話で、ご当主がおっしゃったのは「自分が英国などに行くと古いお家のものをいっぱい資料として展示しているところがあり、それは次の文化にとって、ものすごい力になっている。外国を旅した時にそれを強く感じる。英国なんかは入館料も結構高い。これからもしかしたらここも入館料を値上げすることになるかもしれないけれど、もっと資料に特化してもいいんじゃないでしょうか」ということでした。ほっとしたというのが正直な気持ちでした。その後、天誅組関連やたくさんの資料がどんどん出てきて、いろんな展示もさせていただいてきましたが、この先、ここをどうしていくのか、どうなっていくのか。進む方向はこのお家を守ってこられたご先祖様が決めてくれるでしょうって、私はどこか気楽に思っています。でも精一杯の努力は日々続けています。

 

―進んでみてわかることもありますものね。

こんな素敵なところでいただく季節の料理。すごい楽しい時間でしたね。「地域を大事に、みんなが楽しめる場所」っていうのは田中さんから学びましたし、ご当主は今も、維持管理費をずっと送ってくださってます。「いつもありがとうございます」とメールすると、「ありがとうはいらないですよ」って。

 

―台風被害の後、取り壊されてもおかしくないはず。ご当主が「修理、保存」という選択肢をお持ちだったこと、そして山本さんのHPにたどりついた奇遇など、藤岡家の船出は導かれてたんですね。

ほんとにそうです。ご当主は「更地にしようかとも思った」とおっしゃってました。先代当主も同じご意見だったそうですが、最終的な判断はご当主に委ねられたそうです。ご当主のお考えと、山本さんや田中さんはじめ、五條を引っ張ってきてくれた方々が集まって力を貸してくださいました。藤岡家住宅の開館は、五條ロータリークラブの発足50周年の記念でもあり、クラブの方も邸内に句碑を建立してくれたり、俳句会の開催をご支援くださるなどご尽力くださっています。

 

Part③につづく

第83回ーPart1 登録有形文化財 藤岡家住宅     NPO法人うちのの館 館長 川村優理さん

ここはテーマパーク 発見できるドキドキの場所

五條市近内にある「藤岡家住宅」。聞いたことあるけど行ったことない・・・という方は五條市民でも多いのではないでしょうか。かくいう私もそのひとり。
開館から既に16年。館内を案内してくださった館長川村優理さんにインタビューさせていただきました。

藤岡家住宅について

―まずはじめに「藤岡家住宅」とはどういったものなのか教えていただけますか?

こちらは江戸時代の庄屋のお屋敷で、薬屋、そして薬の材料を売る薬種商というのをなさっておりました。もっとさかのぼると、いちばん最初は大阪の夏の陣で敗れた豊臣方のお武家さんが金剛山を超えてこちらの土地に逃れて来られ、最初傘屋を始めたとあります。

 

―豊臣方の武家が?

大坂屋の「大」の屋号が入った鬼瓦

はい。どこのどなたかという記録は何もなくて、地元では「かさ屋」と呼ばれてたそうです。そのあたりからの記録がしばらくなく、次の記録が元禄年間、「大坂屋長兵衛」と名乗る方で、家業は薬商、薬種商、両替商となっています。最初の方の記録がほんとにわずかしかないですが、続々と文書類が出てきていますので、今後それがわかる資料が出てくるかもしれません。
建物は一番古いもので江戸時代寛政年間、新しいものだと明治45年の建物なので、平均して築200年くらいの建物が残っています。

 

―藤岡家住宅は藤岡長和(俳人 藤岡玉骨(ぎょっこつ))の生家と紹介されていますが、「藤岡長和」について教えていただけますか?

長和さん(以下 長和または玉骨)は明治21年、11人兄弟(四男七女)の長男として生まれます。お父様(長二郎)は江戸時代からの庄屋と薬屋を継いでおられましたが、明治期になると、北宇智村の初代村長を務めるほか、殖産興業の時代に農業だけでは立ち行かないことに目をつけ、村に製糸工場を引っ張ってきたり、この山麓に鉄道を敷設し、スイッチバック式の北宇智駅を設置するために多額の寄付をするなど、江戸から明治への変革期に地域に随分貢献した方のようです。その後、南都銀行の前身の吉野銀行の創設にも参加し、吉野銀行五条支店の支店長も務めておられました。

 

―北宇智駅やあのスイッチバックも、藤岡家の貢献があってこそだったんですね。

そうですね。藤岡家には長男の長和をはじめ4人の息子がいる訳ですが、お父様は息子達にこの屋敷を継ぐのではなくて、特に長男の長和には「官僚になれ」と命じられたそうです。長和は五條中学、京都三高(現在の京大)、そして東京帝国大学(現在の東大)に進まれ、学生の時に高等文官(現在の国家試験)の試験に合格、卒業と同時に官僚として愛知県に赴任しておられます。もうキラキラ官僚というんでしょうか、エリートコースをたどっていかれます。

 

 

―命ぜられた道をとても優秀に進まれていったんですね。

次男さんも五條中学、京都三高、東京帝大に進まれまして、播州の石井家という大きな庄屋に御養子に行かれます。大学では応用化学科をトップで卒業したという全く理科畑の方ですが、兄(長和)が京都三高時代に与謝野晶子・寛夫妻主宰の「明星」に加わった影響から、自分も夫妻の元で短歌を詠むようになり、歌人、石井龍男として活躍しました。
三男さんは、五條中学から京大法学部に進まれ、内務官僚となりました。後に官選知事にもなりますが、この方が有名になったのは車の左側通行を決めたということでテレビ局が取材に来られたこともあります。
四男さんは阪大医学部に進まれ、ドイツに留学後、富田林で藤岡医院を開業なさいます。その方を初代として玄孫の方まで歴代医院を継いでおられます。そうして藤岡家の男子4人はみんな五條を出て、女のお子さん7人も五條以外へ嫁がれ、このお家に住まいする直系の子孫の方がおられなくなりました。

 

―11人もお子さんがおられたのに、代々繁栄していた藤岡家を誰かに継がそうとはしなかったんですね。

江戸時代の薬屋は診療もしていたので四男さんが医者になっているという意味ではお継ぎになってるんですけど、ここではなく富田林で開業しておられます。長和も戦後は五條に戻って南都銀行の取締役をされてるので結果的には継いでることになるのかなと。ですけどそう言われるとほんとに、子供が11人おられたら、例えばお嬢さんに御養子さんをもらって、薬屋、あるいは両替商、銀行を継ぐこともできたでしょうに、当時お父様はそれを考えなかったんでしょうね。

 

―息子がいつか戻ってきたり、遠い先の何かを見据えていたとか?

あー、もっのすごい先見でね(笑) それはそうかもしれないですね。確かに藤岡家の方は皆、活躍して、森鴎外や与謝野夫妻、南方熊楠らと交流を深め、当時の先進的な文化や考え方を持ってきておられます。まだ中学、高校の制度がない江戸時代生まれのお父様は算盤で微分も解析もできたほど頭が良く、貨幣経済が転換していく頃、この土地にはどういう産業が似合うか、例えば製糸工場を誘致して農業と製糸を繋ぐように、農業から近代産業への道筋を随分色々考えた人だと思います。明治期は近代国家としていろんな戦争があったり、新しい法律ができたりと国際化していく時代。ここは山に囲まれ静かで、あまり変化を好まなくていい、結局豊かだってことなんですけど、もしかすると、そういった場所に、もうひとつ向こうに出て俯瞰する視点を子供達に持ち込んでほしかったんですかね。

 

長和の生涯

―長和はその後どういった人生を歩むのでしょうか。

時代の変革期をエリートとして進まれます。31歳で和歌山理事官をされてたとき(大正8年)の演説では「これからは自治の時代です」と言っています。「地方から何が大事かを考えよう、そのために必要なのは教育だ」と。当時は小学校へ行くのも大変な時代でしたが、「もっともっと子供達と地域住民の教育を充実させ、地方の自治をしましょう」と。その後、「地方自治法」が制定され、70周年のときには私達が総務大臣表彰をいただいたんです。地方自治頑張りましたねってことで。私達は先人の方達の恩恵で、ただここを管理させてもらってるだけなのに、ご当主の藤岡宇太郎さん(長和の孫、茨城県在住 以下 ご当主)も「爺さんは地方自治の進歩を目指して頑張ってたからね」って。すごい方だったんだなって改めて感じるのと同時に、ぬくぬくと平和な時代で、ちょっと勉強したら偉そうなことを言いたくなる・・・そんな世界にいる私達は、先人達がいた時代があって、それで次の平和を探していかないといけない、まだまだ勉強しないとって思いますね。

 

―大正時代、31歳で、その時既に地方自治や子供への教育の重要性を発信されてたんですね。

お父様の先見性を継いでおられたと思います。戦前ですから国が命令して政治を行う時代でしたので、当時はそれを発言するのもしんどい思いをされたと思います。

地方官時代、各地を転々とした長和愛用のイニシャル入のかばん

その後、官僚として各府県を歴任した長和でしたが、まさかあんな大きな戦争が起こることを予想もしなかったと思います。とんとん拍子に出世していく一方で、世の中はどんどんと戦争へと突っ走っていく・・・。官僚としての職を崩す訳にはいかないけれども、このままではだめなんじゃないか・・・という複雑な思いがあったんでしょうね。
昭和14年、知事を退官前、熊本県知事の時代に奥様と一緒にハンセン病施設「菊池恵楓園」を訪れます。当時はまだハンセン病への理解が進んでなくて、公職にある者は絶対に立ち入ってはならないという法律まであったそうですが、ドイツ語の本なども読まれてた長和は、罹患しない、日本のハンセン病に対する考え方は間違っているという確信が、その時既におありだったのかもしれません。

 

―公職のお立場で自らの意志でハンセン病施設に立ち入り、何をされたんですか?

長和は「皆さんを慰めに来たのではない。一緒に俳句を詠みに来ました」と言うんです。施設の中に八角堂、これが栄山寺の八角堂に影響されたかどうかは分からないのですが、匿名で八角形の文芸堂を建てまして「言志堂(げんしどう)」と名付けるんです。「ここで一緒に俳句を詠みましょう」と言って、俳句会を続けていくんですね。現在、その言志堂は建物は国に寄付され看板しか残ってないそうですが、長和の退官後も菊池恵楓園では俳句活動が続いていて冊子が送られてきていました。多分、その訪問をきっかけに知事をお辞めになったと思うんですが、熊本から出るときには知事の報酬を全て寄付し、その後は紡績会社の取締役となり文芸活動もされてました。昭和20年、大阪の宰相山にお住まいの時、家が戦火に合い五條へ帰ってきています。

 

―五條に帰ってきてからはどのような暮らしをされてたんでしょうか?

知事時代は、どこへ行くのもお付きの者を連れて・・・そういう生活でしたが、こちらに帰ってきてからは銀行にお勤めのかたわら、地域の方々に俳句の指導をし「ホトトギス」派の俳人として毎日新聞の選者を務め、俳誌「かつらぎ」で初学の方に指導をするなど文化人として活躍しました。昭和37年6月には俳句の活動によって奈良県文化賞を受賞しています。74歳でした。
俳号は藤岡玉骨、栄山寺には玉骨の句碑が建てられています。

 

Part②へ続く

すぽっとらい燈とは?