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第71回 五條ドレスメーカー学院 平岡照子さん

洋裁一筋80年 全精力を生徒さんのために


今から80年前、16歳だった少女はある方の言葉に感銘を受ける。その言葉は少女にとってショックでもあったがいずれそれは彼女の原点となり夢となる。96歳になった今でもその夢と共に平岡照子さんは全精力を生徒さんのためにと今日も自宅の教室で洋裁を指導する。洋裁一筋80年、「天才で天然」と家族も認める照子さんが歩んできた天才への道、そして少し笑える天然なエピソードをお聞きしました。

衝撃的な言葉

―照子さんのお生まれの時からのお話を聞かせていただけますか?
昭和2年、大阪の末吉橋で4人兄弟の3番目として生れました。上が兄二人、私、そして妹。父は割とおしゃれな人でね、私と妹はいつもあつらえのお洋服を着せてもらってたの。そんなおしゃれな家庭で育った私は小学校を出て、茨木の女学校へ入ったの。今は小学校を出たら中学校へ行くでしょ。でもあの時代は女の子は女学校へ5年間行ったのね。その女学校時代に※田中千代先生という方が講習に来られたの。

※田中 千代(たなか ちよ、1906年〈明治39年〉8月9日 – 1999年〈平成11年〉6月28日)は、日本の教育者、服飾デザイナー。田中千代学園理事長、田中千代服飾専門学校校長。昭和初期に渡欧し欧米の文化・服飾を学び、日本に近代洋裁教育、服飾デザインの礎を作った。Wikipediaより引用)

―田中千代先生というのは洋裁の先生なんですか?
そうそう。洋裁学校の先生。神戸で洋裁学校を経営してらした方で、当時の皇后陛下のお洋服を担当したり、とても立派な先生だったの。女学校ではいろんな講習にいろんな先生が来られるんだけど、田中千代先生はその中のひとりだったんです。そこで先生がこうおっしゃったの。「スタイル画を見ただけでお洋服が作れます」って。え??スタイル画を見ただけでお洋服が作れるの??て不思議で不思議で、ショックだったんです。

―ショックを受けるほどだったんですね。
そうです。だからその後もずっとそのときのその言葉が頭にあってね、女学校を卒業した後は相愛女子短期大学の被服科へ行ったの。やっぱりお洋服を作る科を選んで行ったわけね。でもその頃から戦争がひどくなってきてね、どうしても大阪では居られなくなって。それで私の母の実家である五條へ疎開して、それから卒業までの間は五條から短大まで通ってたんです。短大を卒業してから、五條にある母の女学校時代の同級生がやってるお洋服を作るお店から「そんなに洋裁やお洋服作るのが好きやったら来たら?」って声をかけていただいて。それで行かせてもらうことになったんです。そしたらそこに息子がおりましてね、結婚したんです笑

―照子さん・・・、ちょっと話が進み過ぎたので少し巻き戻してお聞きします笑 
照子さんのお母様の同級生がお洋服のお店をされていたんですね。
そうです、その母の同級生というのが、(後に義母となる)平岡クマノです。クマノはもともと東京に住んでいて、ご主人は船の設計士だったんです。当時「鶴見丸」っていう船を設計しててね、それで息子である私の主人が産まれたときには「鶴見」って名前をつけたんです。でも鶴見が中学2年のときに急に亡くなったの。3人子供を残して。未亡人となったクマノはもともと和裁の先生でしたが、これからはお洋服の時代だと先を見越して、子供達を実家(五條)に預け、自分は東京に残り1年間※杉野芳子先生に就いて洋裁を勉強して、そして五條へ戻ってきてお店を開いたわけ。

※杉野 芳子(すぎの よしこ1892年3月2日 – 1978年7月24日)は、20世紀大正時代から昭和時代にかけて活動した日本ファッションデザイナーで、学校経営者。「ドレメ式洋裁」の創案者で、杉野女子大学学長、杉野学園ドレスメーカー学院創立者1926年(大正15年)、ドレスメーカー女学院(現在のドレスメーカー学院)を設立。洋服に仕立て服(オーダーメイド)しかなかった時代に、標準的な型紙を使った、セミオーダーメイドや既製服(レディメイド)といった効率的な製作方法を教育。安価で良質な洋服の普及を目指した。Wikipediaより引用)

平岡クマノさん

―クマノさんはたくましい女性だったんですね。そのクマノさんのお店で照子さんはさらに洋裁の勉強を続けてたんですね。
そうです。そうして習っているうちに、先生(クマノ)に認められたわけやね笑

―やっぱり照子さんに才能がおありだったんですよ。
そうかしらね笑 自分の息子のお嫁さんにして、私を後継ぎにしたいと思ってくれたんでしょうね笑

―先生だったクマノさんがお義母様になられて・・・ どんな方だったんですか?
怖かったですね~笑笑 先生で、義母で、とてもしっかりした方、尊敬する方でしたね。

 

どこまでも洋裁を突き詰めて

―ご結婚後はどのように過ごされてたんでしょうか?
長男ができてから、もう一度洋裁の勉強をしたいと東京の杉野芳子ドレスメーカー学院へ行かせてもらいました。

―杉野芳子さんて、クマノさんが洋裁を習ってたところですよね?そこでさらにどんなことを学ばれたんですか?
そうです。クマノが習ってたところです。私が勉強に行った当時も全国から大勢の生徒さんが来てましたよ。杉野芳子先生は、義母の事を覚えてくれてましたので、私には特別に元のパターンの方法や、製図の作り方を全部教えてくれたの。本科1年と師範科1年、ほんとは2年かけて学ぶんだけど、私は特別に1年でそれを勉強して帰ってきたの。今日は本科で明日は師範科というようにスケジュールはみっちりでしたけどね。

(写真左から杉野芳子先生・クマノさん・照子さん)

 

―東京に勉強に行ってどう感じましたか?
よかったですね、ほんとに。それが元になって、今もこうして続いてるから。

―お子さんもまだ小さい頃に、東京に勉強に行きたいと言ったとき、クマノさんやご主人は何とおっしゃいましたか?
反対はされませんでした。勉強したいという私の思いにはいつも快く行かせてくれました。途中、何度か行ったり来たりしながらでしたが、子供もみてくれましたので安心して行くことができました。

―当時の東京へ往復は大変だったのではありませんか?
夜行列車で行ったり、なかなか大変でしたよ。それでも好きな洋裁のためでしたので。

―東京から戻ってきてからはどのように?
次男もできまして、クマノの助手として毎日洋裁を勉強していました。その頃はまだ、自宅で教室をしてたんだけれども、郵便局が移転することになってその建物が空いたので、そこを買って五條ドレスメーカー学院にしました。(現在の五條1丁目戎神社横)その時分の女性はお勤めなんてなくて、女学校を出たら、洋裁か和裁を習ってそしてお嫁にいくっていう時代だったの。洋裁学校もあちこちにできてきてね。うちにも4月になったらたくさんの生徒さんが入学してきて忙しかったです。

―当時の貴重なお写真がたくさんありますね。当時の様子が伝わってきてとても興味深いです。
これは、その郵便局跡に学校を開いたときの記念で行った「ファッションショー」の写真ね。その後も定期的にファッションショーをしてました。

 

昭和23年4月 新しい校舎での第1回ファッションショーは大変な人気。服地の無い時代のため、着物をリフォームしたドレスばかりだったとの事

 

 

 

 

 

 

 

 

写真中央が照子さん

―これは照子さんが生徒さんに教えてる写真ですね。
そう、これは帽子の指導をしているところ。ファッションショーをするとお帽子をかぶるでしょ?だから洋裁だけじゃなくて、お帽子も教えないといけないんです。だから東京の「サロンドシャポー」で制帽を習ったり、ほかにも「布花」とか「刺繍」、名古屋に「立体裁断」も習いに行きました。

―立体裁断ってなんですか?
ボディーに布をあててね、そしてそれをハサミで切りながら形を作るの。そんな勉強を週に1回とか、あるいは月に1回とか行ってたの。勉強ばっかりでした。そのおかげで、今、何を持って来られても、スタイル画を見ただけですぐわかるんです。

 

そうめんの茹で方

―本日も先ほどまで生徒さんがたくさんいらっしゃいましたが、皆さんどんなものを制作されてるんですか?
今はね、着なくなった和服をお洋服にする、それが多いです。ある程度、生徒さんの希望を聞いて、その着物の柄とか特徴をいかに活かしてあげるかを考えて教えます。また外国のファッション雑誌を持ってきてとても斬新で新しいデザインのお洋服を作りたいって生徒さんもいらっしゃいます。そういうときはいつも以上に熱が入りますね笑 昔、ファッションショーでいろんなデザインに挑戦していた感覚が蘇るような・・・。どんなもの(スタイル画)を持ってこられても「できない」とは言えない、言わないですね笑

―照子さんの「洋裁魂」が沸き起こるんですね笑 
笑 もう仮縫いのときからワクワクしてきます。そうしてできあがったお洋服を生徒さんが着て来てくれるの。それがすごく似合ってるのね。そのとき「わぁ、いいわね」って。その瞬間がとても嬉しいです。

―照子さんは教えるだけでなくご自身も何か制作されたりするんですか?
はい、作ります。孫たちのウエディングドレスも作りました。これも(照子さんの当日着用されてたお洋服)そうです。これはもともと大きいスカーフだったの。それをインナー部分や袖口、あとアクセントにバイピングをして。いろんなところにスカーフをいかして、作りました。

 

 

 

 

 

 

 

 

―洋裁以外にご趣味などはありますか?
国際ソロプチミスト奈良あすかという奉仕活動団体で30年以上、奉仕活動をさせてもらってます。全国的な団体なんですが、奈良あすかで発足の時にお声かけていただいて、そこからずっとです。例えば、五條市の福祉施設や、こども園などへの奉仕活動をさせてもらっています。

―では、照子さんが苦手だったことってありますか?ご家族からはある情報を入手してるんですが笑 あの・・・そうめんを・・・?
ハハハ笑 何なの?そうめんにびっくり水を入れるのを知らなかったの笑笑 だって、そんなのしたことなかったから笑

―そ、そうなんですね・・・。もっとすごいことありませんでしたか??笑 
え?あったかな~??笑 あ、そうめんを湯がくときに、帯をした束のままお鍋に放り込んだの。

―そう、それです!笑 クマノさんもそれにはびっくりしたって笑 でもそこからはとっても上達してコロッケは得意料理に、そしておせちもとっても上手に作れるようになったって笑
恥ずかしいです。ハハハ~笑

―最後に照子さんにとって「洋裁」とはなんですか?
「夢」ですね。やっぱり、最初に聞いたあの言葉がショックだったけど、そういう(スタイル画を見ただけで洋服が作れる)人になりたかったのね。これからもここを続けて、全精力を生徒さんのために使いたいです。少し前、今井の教室から移転しないといけなくなったとき、家族は誰も「もう辞めたら?」って言わなかった。そしてこうしてこのお部屋を改装したり、そのほか何もかも全部、日頃からもすごく良くしてくれるの。移転しても生徒さんは習いに来てくださる。明日も皆さんが来てくれると思うと元気が出るんです。だからこれからもここで洋裁を教えていきたいです。

―照子さん、本日はありがとうございました。

五條ドレスメーカー学院
住  所 〒637-0004 奈良県五條市今井町1563番地2
電  話 0747-22-2398
月・水・金 第2・4土曜日 9:30~15:30

 

☆スタッフHのすぽっとwrite☆

ご家族の方からお聞きしたエピソードをもう少し。生前は一日何度も奥様の名を呼び、また奥様の話をされていたという愛妻家のご主人鶴見さん。介護が必要となった身でも最後まで照子さんの事を気にかけ、閉校しても自宅で洋裁を教えられるようにしてやってほしいと最後にご家族に伝えたそうです。「お義父さん、任せといて」その言葉を聞くと安らかに眠ったという鶴見さんの願い通り、照子さんは鶴見さんと過ごした自宅で今日も洋裁を教えています。
凛として、それでいてチャーミング、そして「スタイル画を見ただけでお洋服が作れる」照子さん、ありがとうございました。