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第67回 リカーショップいけがみ 池上輝雄さん

取り戻してほしい 活気ある五條市を

お店の前に並ぶ小さな自転車。中に入ると子供達が楽しそうに駄菓子を選ぶ賑やかな声。何だか懐かしい・・・そんな光景を目にしたのは田園の「リカーショップいけがみ」さん。田園という街ができていく頃からお店と共に地域を見守り続けてきた店主の池上輝雄さんに酒屋としての歩みから現在に至るまでのお話しをうかがいました。

実家は酒屋ではなく

―リカーショップいけがみさんはいつオープンしたんですか?
このお店は平成元年にオープンしました。それまでは五條2丁目の商励会通りの裏手のところにお店がありました。

―池上さんは何代目ですか?
私は初代です。

―初代なんですね。ご実家が酒屋さんではなかったんですか?
うちは八百屋やったんです。親父と兄が主に十津川の方に野菜を卸に行っていました。あの頃、ダム建設が始まって毎日多くの作業員が現場で工事をしていたので、その人達のための食堂とか寄宿舎にも野菜を卸すようになりました。

―池上さんも手伝ってたんですか?
そうやねぇ。親父がケガした時・・・、配達帰りに土砂崩れにあって谷へ落ちてしもて。何とか命は助かったもののしばらく仕事なんてできませんでしたので、その間1年くらい配達を手伝いました。

―そのまま、八百屋を継がなかったんですか?
親父も仕事に復帰してまた配達をしていると、こっち(池原)に(店舗ごと)来てくれへんかという話があったみたいで、それで親父から向こうで八百屋しようと思うんやけどお前も一緒に来てくれへんかと言われました。でも私は嫌だ、俺はここ(五條)に残ると言って親父達には付いていきませんでした。それで親父達は池原で八百屋を始め、私はそのまま五條に残りました。

―五條に残ってそこからどうされたんですか?
五條の「中和酒類販売㈱」というお酒の問屋の会社に就職しました。そこの社長と親父が知り合いで、うちの息子つこたってくれへんかな・・・とかそんな話を親父がしてくれたんでしょうね、そのあたりは私も詳しくは覚えてないんですけど。それで、私も八百屋は継がへんし、せっかく親父も頼んでくれたことやし、行かせてもらいますっていうことでその会社に就職しました。

運命の分かれ道

―それが酒屋を始める原点なんですね。
そうですね。でも数年働いた頃、もっと給料が高いタクシーの運転手になろうと思って退職を決めました。それで東京のタクシー会社まで面接に行きましたが、「こっち(東京)の道も知らない者は雇えない」と断られましてね。辞める決意は変わらないもののどうしようか・・・と思ってたとき・・・私が宿直をしていた夜でした。社長がお通夜に出かけた帰りにたまたま会社に立ち寄ったんです。そこで私と顔を合わすと「おまえ、何でうち辞めるねん」て話になって。正直に「今の給料安いから俺タクシー乗るねん・・・」と打ち明けました。色々話をすると社長が「給料安いって言うんやったら、嫁とここで共働きして、ほんでここに住んだらどうや。2人で働いて、家賃もいらんし、それやったらやっていけるんちゃうか?ここに残って頑張ってくれへんか?」って言うてくれて。どないしょう・・・と思いました。辞めるか、ここに残るか、運命の分かれ道ですやん。結局、社長が言うてくれたように嫁も同じ会社で事務の仕事させてもらって・・・。それが始まりです。

―奥様と共に歩んでこられたんですね。
私らは学生の頃からの付き合いで笑。俺から好きってゆーたんかな笑 いや、多分嫁からやわ笑。
昔は10年勤めないと酒類販売の免許って取れなかったんです。小売店でも問屋でも製造元でもとにかく10年の酒類の仕事の経験がないとだめやったんです。それで私も10年勤め、免許をもらいました。ようやく池上酒店としてお酒の販売ができますので、それからは会社勤めと自分の店をかけもちし、会社が終わった後の夜の時間や、土日祝日、正月も休みなしで市内や橋本へ配達・・・そんな生活を数年続けました。

 

―仕事終わってから配達、休みもなしで働いてたなんてすごいですね。
当時はまだ車社会ではなかったですし、ネットショッピングとかディスカウントショップもなかったのでお酒と言えば配達がメインでした。ビールも缶ではなく瓶ビールが24本、木の箱に入っていて運ぶのはなかなかの重労働でしたが、それがあったからうちの商売が成り立ってたといえますね。正月1日からお酢1本配達に行ったこともありますし、とにかくお得意さんを増やそうとコツコツ、コツコツ頑張りました。お得意さんが10件から30件、30件から100件と増えて、300件近くになった頃、池上酒店として何とか食べていけるようになったのでお世話になった中和酒類販売㈱を辞めさせてもらいました。

―「池上酒店」としてスタートした訳ですね。
そうですね。月曜の朝は野原方面、昼からは二見、夜は・・・と予定を組んで配達しました。店の前はとても道が狭く車を回転させる場所もなくてね。だから都度バックで車を入れてお酒を積んだり、下ろしたり・・・そんなんでしたね。
毎日配達を続けていると配達先のお隣さんが、うちにも来てよって言うてくれたり口コミもあって、最終的には1000件くらいお得意さんになっていただきました。
八百屋のときのままだった実家は自分でペンキを塗り、棚を作ってお酒を並べました。いつだったか、近所で大火事が起きて・・・。嫁はまだ小さかった娘をお風呂に入れてる最中で、近所の人が娘を抱いて連れ出してくれたんです。私も何を持って逃げようかと焦りましたが結局何も持たず、狭い道から車を出すのに精いっぱいでした。

―田園に移転したきっかけは?
うちのお隣に住んでた人が大和団地に勤めていて、あるとき、この田園地区の開発の話を聞いたんです。池上さん、土地買いませんか?と。先ほどから話したように店舗前の道が狭いということもありましたし、先を見据えてまず土地だけ買っておこうと思って買いました。しばらくは買ったままで、そのままにしてたんですが、ぼちぼちお店を新しく建てようかということで平成元年にここ(田園)にお店を建て現在に至ってるという訳です。

自慢の手作りカレー

―田園で新店舗としてスタートされた当時を振り返ってどうですか?
どんなお店にしようかとか、それはもう色々考えましたね。当時はまだこの辺りにお店が何もなかったので、魚から肉から何でも置いてる小さなスーパーみたいにしたんですが、肉や魚の仕入れなどしたことなかったのでそこからでした。いろんな人に聞いて紹介してもらいました。毎日たくさんのお客さんが来てくれて、パートさんも数人いて肉をパックに詰めたり、毎日大忙しでしたね。ヤマザキYショップに加盟してパンもほんとによく売れ店舗表彰もしてもらえました。

―ちょうど田園という街ができていく頃だったんですね。
そうですね。どんどん住宅が売り出されている時期でした。何年か経つと住民も増え、Aコープやお酒のディスカウントショップもできました。そうなると、やはりうちのお客さんは減ってきました。そんなときAコープの敷地内のテナントで何かしませんかと声かけがあって・・・。それで、お好み焼きと定食のお店「あかしや」を始めました。

―お好み焼き屋を?!池上さんが?!
そうです。大阪とかあちこち食べに行って研究して最初は見様見真似から始めました。中を改装して、新しく鉄板も入れました。鉄板も新品のうちは焦げてうまく焼けなかったり、失敗や試行錯誤の繰り返しでした。料理人も雇って、とんかつ定食、焼肉定食など定食メニューを作りました。そうそう、あかしやのカレー、そこそこ有名やったんやで!笑。ソフトクリームも人気やったなぁ。

―どんなカレーですか?食べてみたかったです。
最初は料理人から教えてもらったんやけど、そこに自分流のアレンジを加えて。玉ねぎをしっかり炒めてバナナとかりんご、果物を入れて、カレールー、ニンニク、ブイヨン、インスタントコーヒーとかいろいろ。レトルトではない長時間煮込んだ手間暇かけたカレーで、ほんま自慢じゃないけど、美味しかったんですよ。知り合いに出会ったら冗談やろうけどカレーしてよって言われるんです笑

活気のあった五條市をもう一度

―現在は田園地区の自治連合会と体協の会長もされているそうですが、なかでも田園公民館の設立について随分尽力されたと聞いております。
田園公民館がある場所は最初は小学校建設予定地だったんです。それが、保育所に変わり、最終的には中学校建設予定地になったんですが、それも現在の場所(五條西中学校)に建設され、詳しい説明もないまま住宅予定地になったと知らされました。その時は住民からかなり反対の意見があり、私達(北町自治会、最終的には私を含む5名)が代表として大和団地と話し合うことになりました。何度も何度も話し合いは続き、諦めかけたこともあって、私も最後はもう、「俺毎晩、あそこ(予定地)で寝るわ」て言うたこともありましたよ笑 随分長い時間がかかりましたが、最終的には大和団地が田園の住民のための公民館を建て五條市に寄付するかたちで落ち着きました。ですので、田園公民館が五條市の他の公民館と違うところは大和団地から寄付された建物だというところです。あのときはほんとに頑張りました。今でも田園公民館の運営委員長をさせてもらってます。

―田園地区では毎年お祭りをされてるそうですね。
はい。田園地区では毎年、秋祭りや運動会をしてましたが、コロナ禍でここ数年はすべて中止です。その話と関連してくるんですが、田園地区1,600世帯ある中で自治会加入世帯は現在883世帯です。特に最近、自治会を抜ける人が多くなったように思います。そもそも自治会加入や脱退について義務や規則もありません。自治会を抜ける原因としてはやはり役に当たるのが嫌だということに加え、コロナ禍でイベントが全て中止になり、自治会に入っていても何のメリットも楽しみもないという声をいくつか聞きました。イベント中止についてはやむを得ない判断でしたし、しなかったのではなくできなかったのだということ、今年は何かしらのイベントを復活させようと思っているということを田園ニュース(年2回発行)にて皆様にお伝えしました。

―皆さんお祭りや運動会を楽しみにされてたんですね。
そうですね。お祭りは各団体、体協、防災、婦人会、老人会、消防団・・・に手伝ってもらってやっています。それぞれが焼きそばやカレー、フライドポテトなどお店を出してくれ、抽選会もやってました。自治会加入者には空くじなしの抽選券を配布してましたし、子供さんもたくさん来てくれ賑わってました。やっぱり何かしら自治会に入っててよかったなと思うことや楽しみがないとね。
運動会も始めた頃は30代の方や小さい子供さんも多かったのでとても盛り上がったんですが、今では少子高齢化で選手集めが大変になりました。ですので体育館でのレクリエーション大会に変更してやってましたが、それもコロナで今はできていません。

―イベント復活の際は池上さんのカレーも復活させてはどうですか?笑
いや、ほんまにしょうかって冗談でゆーたことあったけど、他に色々運営やら準備せなあかんのに炊いてられへんわ笑。売れて売れてしゃなかったらどないするねん笑

―今後お店をどんな風にしていきたいですか?
時代は変わって安いお店や大手さんのお店もどんどんできてきます。うちとは仕入れの値段も数も全然違うので到底太刀打ちできません。タバコもお酒も何でも24時間コンビニで買えますし、うちが売り上げを伸ばすには他がどこもやってないことをやるしかないと思ってますが、なかなか・・・。何か考えないと・・・と思いつつ正直現状維持が精いっぱいですね。継ぐ者がいないからとお店を辞めるとこが多い中で、うちは息子が継いでくれて今でもお得意さんへ配達に行かせてもらってます。「池上酒店」の名前があるだけでもありがたいことだと思っています。

―駄菓子がたくさんありますね。懐かしいです。
そうやねん。学校が早く終わる水曜日は、午後から子供さんが大勢買いに来てくれワイワイと賑やかです笑 あと、手作りサンドイッチは昔からやってて今でも続けてるんですけど、人気でよく買っていただいてます。他にクリーニングは金、土は半額サービスなどよく利用いただいてます。

 

 

 

 

 

 

 

―田園地区、あるいは五條市についてどのように感じますか
田園地区ができていく頃からみてきて三十数年経ちましたので当然ですが年齢層が変わったということですね。高校までは五條にあるけど、そこから進学や就職となると多くの若者が五條から出ていきます。これまでは親が子供を連れてここに越してきて子育てをしていた時代でしたが、今度は大きくなった子供達が親を呼び寄せて大阪などに越して行きます。田園の街そのものが変わったなと実感しています。
京奈和ができて便利になったといいますけど、五條に来てもらうための便利な道ではなく、五條の人が外へ出ていくのに便利な道になってしまってるんです。五條へ来てもらうためにはもっと五條へ行こうと思ってもらえるもの、例えば名物の柿の葉寿司、柿も日本一、そこを活かした何かで人を引っ張らないと・・・と思いますね。

昔は新町通りの「かげろう座」が毎年すごい賑わってましたが、なくなっていましましたしね。他にも子供が少ないというならどうしたら子供が増える街になるのかを考え対策しないと。子供がいなくなると、学校がなくなり、文房具も食品も売れない、街が死んでいきます。もっと活気のあった昔の五條市を取り戻してほしいんですよね。

―最後にプライベートな質問ですが、池上さん、ご趣味は何ですか?
ずっと仕事ばかりで時間もなかったのもあって、これといった趣味はないんです。ゴルフもしないし、他のスポーツもできないし。でも「あかしや」ではカラオケもやってたので、歌は好きですね。歌手になろうかと思いましたが、やっぱりあかんだね、上には上がおるから笑 カラオケが好きやね。一度、私の歌、聞いてもらったらわかると思いますよ笑 ま、そのときはたいていマイクが悪いんやと思ってください笑

―池上さんの特製カレーと歌声、楽しみにしています笑。本日はありがとうございました。

※写真撮影時のみマスクを外していただきました

 

リカーショップいけがみ
住所 〒637-0093
奈良県五條市田園4丁目1-6
TEL/FAX 0747-22-2473
営業時間 8:00~21:00
定休日 日曜日
駐車場

☆スタッフHのすぽっとwrite☆

昔のことを振り返りながら、いろいろな話を聞かせてくれた池上さん。
聞いているうちに昔の商店街の様子や、そこで買い物をした思い出、「活気のあった五條市」を私も思い出しました。
時代の変化、少子高齢化、過疎化、さらにコロナ禍・・・インタビュー後半、ついつい話題が沈みがちになりましたが、地域のために日々忙しく活動されている池上さんは「今年は田園の秋祭り再開するよ!そろそろ準備で忙しくなるねん」とパワー全開でした。

第66回 神戸屋靴店・喫茶神戸屋 中山純さん・中山裕湖さんご夫妻

音楽で人を幸せにできたら 神戸屋の暖簾を守りながら

 

シャッター街と化した寂しげな商店街に灯りがともり、心地よい音楽が流れてくる粋なお店がある。五條市で初めて靴屋を営んだという神戸屋靴店。2021年1月、喫茶神戸屋を併設リニューアルし、靴屋の四代目を受け継いだ裕湖さん(弥里朱華(みさとあやか)さん)は「美術教諭を経て青春時代をギリシャで過ごし、絵画の世界から転身した異色のラテン・ジャズシンガー」、そして喫茶マスターのご主人、中山純さんは音響のプロであり、サックスやベース、いくつもの楽器を演奏するミュージシャン。心地いいジャズの流れる店内で、興味深いお二人の人生のストーリーを裕湖さん(朱華さん)中心におうかがいしました。

引かれたレールから羽ばたいて

―まずは神戸屋靴店さんの創業について教えていただけますか
中山裕湖さん 以下裕湖さん)私のひいおばあちゃんの代からここで商売をしていて元々は雑貨屋だったと聞いてます。それが、時代が高度成長期手前、(履物が)下駄や草履の時代から靴へと変わる頃、店先に並べた靴が売れたので新しく出してきて並べる、そしたらまたすぐ売れる・・・そんな光景を目にした祖母が「これはいける!」と思ったのか、そこから「靴屋」を始めたそうです。
祖母はあの時代の女性にしてはとても精力的で、靴屋で儲けたお金で旅館を建て、その後も鰻寿司、スナック、薬屋、鍼灸院と先見の明で次々と商売を始め、ひとかたならぬ苦労をした人だったと思います。

―店名「神戸屋」というのは?
裕湖さん)創業当時から「神戸屋」という名前やったのかどうかはわからないのですが、祖母が靴屋を始めた頃、神戸市によく仕入れに行っていたそうです。仕入れては売れ、また仕入れ・・・ここと神戸市を何往復もしたと。そこから「神戸屋」になったんかもしれません。神戸は履物のまちやしね。当時は靴職人が靴を作る時代で、うちにも職人さんがいたそうです。その技術を祖父、そして父が受け継いで、学校から帰ってくると母はお店で靴の販売を、父は一日中仕事場でこつこつと作業している姿をよく見ました。父母共に人に施しをする気持ちを忘れたことのない人でした。それが今の商売へとつなげてくれているのだと日々感謝しています。

―4代目として靴屋を継がれたわけですが、いつ頃から継ぐという方向になったんでしょうか
裕湖さん)そんな両親は私を教師にさせたかったので子供の頃から、お絵かき、そろばん、ピアノ、お習字、日本舞踊・・・毎日いろんな習い事をさせました。中でも私はお絵かきと歌が大好きで、そこら中の壁に絵を描きまくっては怒られてました。でも小学校5年生の頃から、家にあった地球儀を眺めてるうちに、この丸い地球の裏側ってどうなってるんやろ?一体そこにはどんな人が住んでて、どんな言葉を喋って、どんなものを食べてるんやろ、ってものすごく興味深くてずっとその夢(もっと知りたい、他の国へ行ってみたい)を諦めずにいました。両親はとにかく商売は苦労するからと何としても私を教師にさせたかったので、まだ経済力もない私は家を飛び出すわけにもいかず、両親の望み通り教師になりました。だから継ぐことになったのはもっともっと後の話ですね。

 ―教師としてスタートをきった訳ですね
裕湖さん)はい。両親の教師になってほしいという思い、私は絵を描くことが大好きだったのでおのずと美術教師というレールが引かれました。21歳で採用試験に合格し初めて教壇に立ちましたが、やっぱり私に教師という地味な職業は向いてないと感じました。自分の人生、教師というレールの上を一生涯歩いていくことの息苦しさと何の変哲もない人生を送りたくないという思いで、精神的にも体力的にもきつかったですね。自分にそぐわない環境に身を置くとそうなりますよね。さらにはそのとき大失恋も経験し、身も心もボロボロになり、それで教師を辞め、スーツケースひとつでギリシャへ行くわけです。

 ーギリシャへ?!その経緯について詳しく聞かせてください
裕湖さん)教師を続けながらも、いつかは日本を出て未知の世界を見てみたいという気持ちは常にあって、23歳の時、画家達の集まりでヨーロッパ旅行に行きました。若い女性達はブランドに興味を持つ中、私は目もくれず、地図とスケッチブックを片手にひとりで街をウロウロ。映画「ローマの休日」で有名なスペイン広場の下で一日中絵を描いていました。その居心地の良さに引き込まれて帰りたくはなかった。翌年はインドネシア全土横断し、次に再びギリシャを訪れた時、拠点を見つけてきました。

 

 

 

 

↑20代の頃のヨーロッパの旅の絵
左からオンフルール・モンマルトルの丘・ベニス(オンフルールは入選作品)

 

―拠点?ですか
裕湖さん)そう、拠点。私が住める場所、頼れる人を見つけてきたんです。
ギリシャ旅行のエーゲ海クルーズで船酔いして何も食べれずしんどくてふらふらになっていた時に立ち寄った毛皮の店のセールスマネージャーに助けられ、私を見かねて現地の日本食レストランへ連れて行ってくださりその後自宅に招かれそこで彼の子供さんやお手伝いさんともお会いし、とても楽しい時間を過ごしました。彼はいつでも遊びに来てください、そして僕もまた、日本に行きたいですと。そのとき、ここは、この人は安心できる、拠点にいいなと思ったんです。その人が後々ビジネスパートナーになる訳です。
帰国してからも電話や手紙がたくさん来ました。私は恋愛感情は全くなかったのですが向こうがプロポーズをしに日本に来た訳です。これは日本を出るいい口実になると思いました。それが教師を辞めるきっかけになりました。母は「苦労するなら助けないけれど、幸せになるのなら助けてあげる」といって片道キップの20万を持たせてくれました。それで26歳のときスーツケース一つでギリシャへ旅立ちました。

 

ギリシャでの新しい自分

―ギリシャでの生活、まずどんなスタートだったんですか?
裕湖さん)現地での生活はまず私生活のギリシャ語、彼との共通語は英語でしたが現地人が全て英語を話せる訳ではなく戸惑いながらも家で一人で居る生活が始まり、生きがいを見つけらずにいました。私は何のためにギリシャに来たのか・・・考えながらも彼の仕事の手伝い、ギリシャ→日本への毛皮の発注の仕事を始めますが能率が上がらず、現地での自分の立ち位置を見つけられずにいました。彼に相談するとそれなら二人で店を運営しないかという誘いがありゼロからのスタートとなりました。

―お店とは?
裕湖さん)彼は毛皮や宝石を専門とした店で販売員としての仕事をしていました。お店は持ってなかったけれど、向こうでは何か国語を話せるかで5本の指に入るトップセールスマンになれるかが決まります。彼は8か国語を話せたので世界各国の客を相手に販売力と腕は確かで、信頼も厚かった。最初は小さい店から始めそれがうまくいったので、目抜き通りに店を出そうということで、私は両親から借りた資金を、彼は知恵とノウハウを出し、アテネの中心地は目抜き通りに2件目の店を出しました。小さいながらも自社工場も作りました。当時の人気テレビ番組「なるほど・ザ・ワールド」の取材も来ましたし、ちょうどバブルの時代で観光客によく売れ、売り上げは好調でした。父も日本から会いに来てくれて嬉しかったです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

↑裕湖さん自身がモデルをつとめた毛皮のパンフレットや店舗、
そして住んでいたアテネ市内(パルテノン神殿)の写真

 

―言葉はどうされてたんですか?やはり準備期間に勉強を?
裕湖さん)英語はずっと勉強してたから大丈夫でしたが、ギリシャ語は向こうに行ってから勉強しました。商売がら、まず数字を覚えないということでそこからでした。電話の応対、買い物、タクシーを利用したり、自分で車を運転したりと徐々に生活にも慣れて。彼の友人たちとの交流や語学がもともと好きだったこともあり、イタリア語やギリシャ語、英語、日本語のちゃんぽんしたようなとこから始まって徐々に話せるようになりました。言葉で垣根を越えられるなら努力次第で何とでもなると思って勉強しました。

 

―やはり日本とは全く違う世界でしたか?
裕湖さん)はい、私には向こうの地がすごく合ってたんでしょうね。華やかでキラキラした世界が好きなんですよね。日本では控え目が美徳とされ、出る杭は打たれますが、海外では出すぎるくらい出ないと逆にたたかれる。良い意味で言えば強烈な個性と表現力で豊かな人生を送れる訳です。周囲には競争店が多かったですし商売するとなるとなおさらです。ギリシャは世界一の海軍国です。世界中からお客様が入ってきます。日々、国際色豊かな色んな言葉が飛び交う中での生活は日本では味わえない経験でした。

―その後、お店は?
裕湖さん)その後、ローマ、スペイン広場周辺のコルソ通りに3件目のお店を出しました。でも結局は広げすぎたんですよね、後のバブル低迷期等でお客さんは減り、借金を抱えることになってしまって。一時帰国していた私は店をすべてたたんだことを彼からの電話で知らされました。私はその後ギリシャに戻ることもできず何もかも身の回りのものすべて向こうに置いたまま。その後それがどうなったのかもわかりません。飛び出したときもスーツケースひとつでしたが、帰ってくるときもスーツケースひとつやったっていう話(笑)

―最終的にはお店をたたんでしまいましたが、パートナーとの出会いがあって海外での生活、仕事を経験したんですね
裕湖さん)そうですね、出会いから移住、彼からビジネスやたくさんのことを学びました。ビジネスパートナーであり、共に戦ってきた戦友であり家族でもありました。彼は人生をとてもおもしろおかしく、ドラマティックに、破天荒に生きていました。もう亡くなってしまったんですが、一言では言い表せない波乱の道のりでした。

日本での再スタート  

―帰国してからについて聞かせてください
裕湖さん)向こうで店をたたみ今度は彼が私を頼って日本にやってきました。知り合いの紹介で宗衛門町で2人でギリシャレストラン・グリークバーを始めたもののうまくいくはずもなく・・・そりゃそうですよね、飲食業なんてやったこともない、毛皮を売ってた人間なんですから。それでその商売をやめ、パートナーとはそれを機に互いに別の人生を歩むことになり、私は35歳で大阪の時計宝石の卸の会社に就職しました。

―そこでまた一からスタートということですね
裕湖さん)その会社では15年間勤務しました。自社ブランド担当を任され、言葉ができたのもあって海外出張(ヨーロッパ各国、オランダ・ベルギー・ハンガリー・ドイツetc・・・)にも行きました。商売の基本からノウハウまで仕込んでいただきそれが後にこの靴屋を継ぐときに役に立ちました。営業で小売店回りや展示会の仕事も任され、芸能人をモデルにした企画等で有名な方とご一緒する機会もたくさんあり、仕事は通勤も含めて厳しかったですけれど、そういった華やかでキラキラした世界は私の性に合っていました。ところが、スイスのバーゼルで世界の時計・宝飾展があった日、雪深い山奥のホテルで過労で倒れレスキュー隊が来てヘリでスイス病院に運ばれることに・・・。過呼吸で大変でしたが、何とか回復し帰国しました。そのときも大失恋が重なりまたもや心身ともにボロボロ、最悪の状態でした。私っていつもそう、何に対してもとにかく突き詰めて全エネルギーを注いでしまう、それがプツッと切れたときはボロボロ。それでも身体が限界まで仕事を続けましたが、やはりどん底でした。そんなとき音楽が縁で今の主人に出会いました。主人はまさしく私の救世主となり、その後私の人生は大きく方向転換し、歌の道へと進む訳です。

―歌の道ですか?!その経緯についても聞かせてください
裕湖さん)歌は子供の頃から絵と同じくらい大好きで、学生の頃は合唱団に入っていてソプラノ(NHKに出演)の経験もありました。でもなかなか歌の道で生きていくそのチャンスに恵まれなかったので美術教諭になった訳です。主人と知り合ってからは、水を得た魚のように歌の道にのめり込んで行きました。私は会社を辞め、再び新しい第4の人生のスタートを切りました。教師~ギリシャへ~帰国後会社員を経て~歌の道へと、遠回りしたけどやっと夢が叶った気がしました。それからはバンドを結成して大阪を中心に関西エリアでライヴ活動を続けました。主人はサックスやベースの演奏を、また音響(PA)のプロなので私のキーに譜面を書きかえてくれたり・・・と、主人のおかげで私は救われ、今までとは違う安らぎを覚えました。紆余曲折ありましたが、やっと自分らしく生きていけると思いました。歌い手(Singer)としてやっていこうと決めたとき、これまでの窮屈な過去の自分に別れを告げ、生まれ変わるために、ある先生にお願いして「弥里朱華(みさとあやか)」という名前を付けて頂きました。弥里の弥は弥勒菩薩から一文字頂きました。ふるさとに根をおろしてゆったりとした心で人々に輝きと幸せを届けていけるなら・・・と。

『朱華&Bossa☆Boys』
ステージコンサートやライヴイベント等で活動

 

音楽が繋いだ縁

―純さんのこれまでの歩みについて聞かせてください
中山純さん 以下純さん)何もないで。音楽だけや。

―音楽は子供の頃から何かされてたんですか?
純さん)いや、幼稚園のとき、オルガン教室に無理やり通わされて。小学校3年生くらいまで続けとったんやけど遊ぶ方が楽しいから辞めて。うちも子供の頃から教師になるように言われ続けてきて・・・父が教師やったから、教師か公務員になれと。でも教師の道には進まなかった。

―サラリーマンとか?
純さん)音楽のできるサラリーマン笑 オーディオ機器とか好きやったから、レコードとかよく聞いたりしとって。最初レコード屋で店長として働いとってゆくゆくはそういう店しようと思ってたんやけど、とりあえず一流といわれる会社に入ろうと思って一念発起して35歳で保険会社に就職してん。それからはずっとサラリーマンしながらジャズのビッグバンド、ジャズオーケストラを立ち上げて。週末はずっと音響の仕事しとったな。僕にとって音楽は身体の一部やなぁ。

裕湖さん改め弥里朱華さん 以下朱華さん)
純ちゃん(主人)は橋本市で毎年、市の盆踊りとかのイベントの音響しててん。朝からトラックで現場まで機材運んで、設営、準備、本番、最後片付けして・・・って30年くらいやってきました。ほんま昔は毎週ほど仕事あったときもあったけど、今はコロナでイベントとか全部なくなってしまって。依頼のイベント以外は全部ボランティア精神で市に尽くして表彰されたことがあります。本人はそんなこと一言も言わない人ですが(笑)黙ってコツコツ型の人。

 PA(音響)の仕事の依頼で・・・活動中 

―お二人は出会ったときに互いにビビビと来た感じで?
朱華さん)いえ、最初はお互い全く笑 でもこの人ものすごい純粋で心が綺麗な人やなと思ってたら、ある日突然何かがおりてきてん。なぁ?純ちゃん! 

―そう言うてますけど、純さん?

純さん)笑・・・ま、なんとなくやな。
朱華さん)
この人、ほんま私と真逆で、喋らへんねん笑 お互いかまわれるの嫌うし笑 お互い干渉し合わないからうまくいってるねん私ら。なぁ?純ちゃん!

純さん)
・・・笑

ーそれが円満の秘訣?いいご関係ですね。
朱華さん)そうそう。いい感じの距離感と相手を敬い、思いやる心やね(笑)

 

喫茶店のカウンターに並べたもの

―いつ頃から靴屋の仕事をし始めたんですか?
純さん)10年くらい前からたまに手伝いさせてもらってて。入学時期とか忙しいときとか。
朱華さん)親も歳とってくるし、私も店のことがずっと気がかりで、主人と一緒にたまに帰ってきてましたので。 

―純さんにとって靴屋の仕事ってどうでした?
純さん)いや、別になんにも。手伝いできたらえぇなぁくらいで。お義父さんもお義母さんも歳いってくるし、力仕事でも何でも間に合うたらええわって。

―継ぐことになる経緯は?
朱華さん)主人と店の手伝いしてるときに母が「純ちゃん帰ってきて店してくれへんかな?」て言いだして。私自身、店のことどうしようかと気になりながらも、主人に言い出せずにいたから、それを言われたとき主人はどういう風に受け止めてるんかわからんかって。

―純さん、どうされたんですか?
純さん)その頃、保険会社って合併合併で、そのたびに息苦しさを感じとって。お義母さんから声かけてもろたとき、僕も定年まであと2年って時で。自分でもどうしよかなって思てた時とお義母さんからの声かかったタイミングが合うたというか。ほんだら、もう会社辞めるわってなって。

 

朱華さん)それで、仕事辞めてこっちに帰ってきてくれて。私も自分ひとりやったら店をどうしていこかと思てたけど、主人が一緒にやってくれるなら鬼に金棒やと思いました。 それで、主人は外回りや力仕事、私は事務的なことを引き継ぎ始めて。父ともほんま仲良くやってくれて。そのとき強く思ったんです。いつも世の為人の為と四方八方出かけてはその先々で人助けをしていた父。そんな背中を見ながら育ってきて父や母が祖父母の代から守ってきた神戸屋靴店をなくしてはいけない・・・。今まで好き勝手やって来たけど、これからは私がこの暖簾を守っていかなあかん、守っていきたいと!

―喫茶店を併設することになったきっかけというのは?
朱華さん)父が亡くなり、母も高齢になってきて・・・、母は90歳を過ぎても店番をしてくれて、凛として明るい人、商売上手で気丈夫、今はホームにいますが現役の頃は行動力のある人でした。やはり母の目の黒いうちは大がかりに店はいじれませんでした。ただ、主人にこの店をやってもらうにしてもここでじっと店番をしてもらうのはあまりにも酷だし、何か楽しみながら、居心地よく居てもらえる方法ないかなって考えたときに、喫茶店をしてコーヒーを出したら人が集まってきてくれて、それで音楽も流せたらええなって何となく思って。それで少しずつリフォームし始めたのが始まり。
純さん)
最初はこんなステージとか作る予定なかったんやけど。まず、ここ壊して片付けて綺麗にしょうかって壊したら、ここにこれこうしたらええんちがうやろか?そしたら、ここにこれ置いて・・・みたいにどんどんアイディア出てきて、その結果がこれ。笑
朱華さん)母も最初は喫茶のカウンターに靴並べだして・・・。「ちょっとちょっとお母さん!どこに置いてんの!」みたいなこともあって笑 「お母さん、私らちゃんとやっていくから、もう後は私らに任せて」って言うて笑 でもほんとにいい形で進んでいってくれてよかったなって、このままこうやって幸せに・・・って思ってたら今度は私に病気(ガン)が見つかって・・・。
ショックでした。今では心の整理もつき、いい先生にも巡り会えて治療を続けています。これは試練ですが、病気になって色々と考えさせられました。今ここにこうして自分がいるのは自分だけの力ではありません。生かされている命に感謝して、これからはこの経験を生かして微力ながらも誰かの役にたてればと思っています。病を乗り越え、元気に自分らしく歌を歌うことで少しでもみなさんに幸せを届けていくことができれば幸せ(喜び)です。今はその気持ちで頑張っています。

 

―純さん、喫茶店をすることになりましたが、何かご経験がおありだったんですか?
純さん)ない笑 コーヒーたてるのは好きで・・・。お義母さんが店番しとったとき、お義母さんの友達とか近所の人が店に来て、喋ってるの見とって。そのとき、美味しいコーヒーとか出したったらええなぁって思ってたから、それから一生懸命コーヒー豆の研究したんや・・・(笑)

朱華さん)今では年齢問わずですが、特に70~80代のお客様がいつもコーヒー飲みにきてくれて美味しいって言うてくれるのが主人の一番の喜びになっています。このコロナの時期やからお客さんが5人の日もあったら1人の日もある、でも毎日同じようにコーヒーを出し続けていけたら人が集まり町もにぎわうって思うし、それをしながら店番もしてくれる主人に感謝です。

 

 

―週末にはここでライヴをされているそうですね

純さん)そう、毎週土曜の夜にいろんなジャンルのミュージシャン達が集まって演奏して、それで楽しんでくれたら。それに、近所の人もにぎやかになってええって喜んでくれて。今後は新しくできた市役所などのイベント等で音楽を流して明るい街づくりとかできたらええなって。

―五條市で生まれ、一度は離れ、そしてまた五條に戻り、これからお商売もされていく・・・五條市についてのどのように感じてらっしゃいますか?
朱華さん)近所付き合いを大事にしたいなって思います。五條から離れてた期間が長かったので最初はほんとに五條のことを知らなかった。でも、こっちに帰ってきて徐々に五條の人との交流も増えて、そしてお店にくるご年配の方に「お母さんのことよー知っとるで」「お父さんには世話になってな」っていうてもらえるのがほんまに嬉しい。祖父母~父母の時代があっての神戸屋であり、今の私達やと思う。高齢化や過疎化、そしてデジタル化が進んでるけど、お年寄りがたくさんいるこの街ならやっぱり「人と人」のつながりがいちばん大事やなと思います。

 

昔、にぎわいを見せたこの商励会通りを少しでも取り戻したい気持ちで外のスピーカーから音楽を流しています。昭和の香りのするコーヒーの美味しい店として音楽が楽しめる明るい町づくりの何かお手伝いができたらと思っています。

―純さん、朱華さん、本日はありがとうございました。

※写真撮影時のみマスクを外していただきました。

 

 

絵本作家の長谷川義史さんとギリシャのお酒でカンパイ

 

 

 

 

 

 

 

☆リニューアルオープン当日、毎日放送ちちんぷいぷい「とびだせ!えほん!」のコーナーの取材も☆

 

 

 

 

 

 

 

 

神戸屋靴店・喫茶神戸屋

営業時間 火~土:10:00~17:00
金・土:18:00~ライヴ ※ライヴスケジュールはお問合せください
定 休 日 日曜日・月曜日
駐 車 場 有(店の手前50m北)中矢青果店裏
住   所 〒637-0005
奈良県五條市須恵1丁目3-18
TEL(FAX) 0747-22-2289
※詳細はお問合せください
※コンサート・ライヴ・各種イベント音響(PA)
店舗等音響プランナー
 アドバイザー等 承ります

 


☆スタッフHのすぽっとwrite☆

コロナ禍で控えていたインタビューを1年ぶりに再開。
久々の取材の緊張とこんな素敵な方が五條にいらしたんだというワクワク感。
序盤から朱華さんのお話に引き込まれた・・・が、中盤あたりでうまく記事にまとめられるかと内心焦りだした。

「ちょっと休憩したら?」とコーヒーを出してくれた純さん。経験がないというのに板につきすぎている喫茶マスターのエプロン姿。そして足元はどこか見覚えのあるサンダル。「それって・・・?!」「そう・・・高校の生徒さんの校内用のやつ。これ、えーねん、きつ過ぎず緩すぎず、ほんまに」と、販売店主がというより、純さんが言うんだから間違いないと思わせる雰囲気がある。たててくれたコーヒーが美味しかったのも言うまでもない。

取材の緊張、集中と、昭和レトロな店内、ブレイクタイム。生演奏の迫力と音楽の心地よさ。刺激あり、癒しあり、安心感あり・・・きっとこれも「きつすぎず、緩すぎず」?なんですよね笑

トニカク素敵な神戸屋、そしてお二人に出会えたインタビューでした。

 

 

 

 

 

第64回 潤生山 櫻井寺 住職 康成達歩さん

「和顔愛語」皆和やかに穏やかにを願って

五條市本陣交差点近くにある「櫻井寺」。
住職の康成さんに、あの歴史について、建物について、ご自身について等、
お話を聞かせていただきました。

住職への道のり

―康成さんは櫻井寺の何代目住職ですか?
私で20世になります。お寺が開山されて(建てられて)から数えますと85~86世になるそうですが、お寺が焼けてしまったりしたこともあり、資料としてきっちりと残されているものから数えますと私は20世ということになっています。

―何歳のときにお寺を継がれたのですか?
45歳の時です。今年で4年目になります。

―ご自宅がお寺であることを子供の頃はどのように感じてらっしゃいましたか?

そうですねぇ、小学生の頃から毎朝必ず、住職(父親)と一緒に本堂でおつとめをしてから学校に行ってまして、それが私にとっては当たり前だと思ってましたので、特に気にすることなく過ごしてました。このおつとめのおかげでお経は子供の頃にほとんど暗記できましたので、後に大学に進む時にも非常によかったですね。なかなか大きくなってからお経を覚えるのは大変ですからね。高校生になると次第に嫌だなと思うようになったことは正直ありました。特に進路については、やはり父は僧侶の道に進むことを望んでましたし、そういった資格のとれる大学に進むのか、それとも一般の大学に進むのか私自身結構悩みました。

―大学ではどんなことを?
私は京都の佛教大学に進学したのですが、そこで僧侶の資格を取りたい者は、1回生でお寺の中にある寮での修行、朝から大学に行き、帰ると衣に着替え行や経典を読むといった生活をします。進級の節目毎に一般の単位にプラス特殊な授業を受け単位が取れれば次の、山に籠っての行ができる資格をいただけるわけです。2回生、3回生、4回生で初級、中級、上級を終え、最後に満行をしてそこで合格すれば大学の卒業資格と共に僧侶資格をいただけます。

―修行はとても厳しそうですがどんな思い出がありますか?
基本的に嫌だったことしか覚えてないです笑。他の宗派ではもっと厳しいところもあるそうですが、やっぱり20歳前後で朝4時に起きて寒い中、頭を剃って・・・というのは辛いものがありましたね。

―進学時は悩まれたとありましたが、佛教大学への進学とそこでの厳しい修行、継ごうという決意だったんでしょうか。
当時の思いとしては、決意というより、とりあえず資格はいただいておかないといけない、そしてそのための勉強や修行は私にとっての就職活動にあたるのかなと思っていました。ですので、大学も無事卒業でき、僧侶資格もいただけた後、実はすぐには五條には帰らず、3~4年、そのまま京都で暮らしていました。

―その間は何をされてたんですか?
在学中、教員免許(の資格をとるための授業も受けていたののですが)の「教育実習」の単位が山での修行と被ってしまっていたため取れていませんでした。それでその単位をとるための勉強をしながら、学習塾に勤めていました。法要やお盆のお手伝いで五條に帰ることはありましたが、若かった当時の私にはやはり京都での生活が楽しかったというのもありましてしばらくはそういう生活をしていました。

―すぐに継ぐことに迷いがあったということでしょうか?その後五條に戻ることになったきっかけは?
当時どうだったんでしょうかね笑 昔の友達に当時の私のことを聞くと「する(継ぐ)気なかったよな」「よう継いだな」なんて言われますが笑、今思うと、心のどこかでは自分が継がなければいけないということは分かっていながらも何か思うところがあったんでしょうね。京都での生活を続けるうちに次第にこんな生活しててもな・・・と思うようになり、両親からも「帰ってくれば?」とだいぶ言われてたのもありますしで、こちらに戻ってきました。こちらでもたまたまお話いただいて学習塾でしばらく勤めさせてもらってましたが、30歳の時に正式に副住職、そして先代の住職が50年を迎えた平成29年に住職としてつとめさせていただくようになりました。

 

あの歴史を見てきた旧本堂は今も・・・

―櫻井寺はどんなお寺ですか? 歴史や特徴など教えてください。
櫻井寺略縁起いうものから抜粋してお話させてもらいますと、この辺りに須恵の城主櫻井康成という方がいらして、天慶5年(942年)身内間の所領争いで誤って母親を討ってしまったことから発信入道(心を入れ替えて仏様の道に入ること)し建てられたお寺だとされています。それで歴代の住職は康成という姓を受け継いでいます。
歴史上のお話で有名なのが、幕末に天誅組の本陣となり、明治維新の先駆けといわれる出来事に関係したお寺になったということです。今ある本堂は約50年前に国道24号線開通に伴いこの場所に移転建築されました。それまでは今国道があるところにあったそうです。
そしてこれはあまりご存じの方はいらっしゃらないと思いますが、旧櫻井寺の古い本堂は実は今でもあるんです。箱根の芦ノ湖のほとりに移築され、お食事処レストランとして使われています。私も実際行ったことがありますし、父はやはり懐かしいものですから、箱根方面に行ったときには必ず立ち寄っています。

―旧本堂が現存しているとは驚きました。現在の本堂や庭園についても有名な方が手掛けられたとか?
はい、建築家、村野藤吾さん、庭園研究家の森おさむさんによる設計です。
当時としては珍しい鉄筋コンクリート造りで、とても綺麗な曲線が特徴的です。職人の方達はその曲線美を出すために何度も失敗を繰り返し相当苦労されて完成したと聞いています。お庭は私も毎日何気に眺めておりましたが、春夏秋冬、どの季節にお越しいただいても季節の花や木々が枯山水を中心に非常に美しく見られる様設計されていて、あらためて素晴らしいなと感じております。村野藤吾さんは数多くの建築物を設計し携わってこられた方ですが、お寺を手掛けられたのは櫻井寺だけではないかと思います。今でも建築関係の大学生、研究生がこちらに見学に来られます。

―こちらのお寺に保存されているもの、またそれにまつわるお話などを聞かせてください。
本堂の床下には槍尻跡のある旧本堂の柱が展示保存されているほか、本堂中の位牌堂には天誅組に参加された方々、また襲撃された代官所の鈴木源内氏はじめ討たれた方々のお位牌をお祀りさせていただいています。

お庭には源内氏ら5人の首を洗ったとされる石の手水鉢も残されています。墓地には新町に生家跡がある茜屋半七がモデルとされる歌舞伎の演目「艶姿女舞衣(はですがたおんなまいぎぬ)」に登場する三勝と半七の比翼塚があります。これは私の三世前の住職がお祀りされたと聞いています。

 

―康成さんがこのお寺が深い歴史に関わりがあるということを知ったのはいつ頃ですか?
小学校のときの歴史の授業だったでしょうか・・・校外学習で櫻井寺に見学に行くことになりまして。そこで父親が天誅組がどうとかいろいろ歴史について話してたのを生徒のひとりとして聞いたときですね。そのときから小学生なりに自分の家、お寺がそういう歴史と関わりのあるお寺なんだなということが分かり始めました。今でも、歴史クラブの小学生達が見学に来られますと私がお話をさせてもらっています。

―天誅組と縁のある櫻井寺。康成さんご自身は「天誅組」についてどのように思いますか?
歴史ですごく研究もされていますし、多くの資料や書物もありますので私がどうこう言えるものでもないんですが、私自身が個人的に思うことは、彼らの行動が幕末の時代の人々の意識を変える最初の一打だったのは間違いないということです。消滅までわずか40日ほどという短い中でも、あの時この地にやって来たときの彼らは、結果的には無謀ともいえる行動であったとしても、強く純粋な思いを貫こうと、最も勢力を得ていたときだと思います。最終的には逆賊のように捉えられ悲しい死を遂げましたが挙兵に加わったものには五條市出身の乾十郎や井沢宜庵という方もおられますし、京都の政変がなければこの五條市は本当の意味で明治維新さきがけの地になっていたのではないかと思います。わずか5年後には明治維新を迎えた、言い換えれば、この五條市であのとき歴史が大きく変わったかもしれなかったということですよね。もしそうなっていたら、五條市としての存在や歴史ももっと大きく変わっていたかもしれませんね。

ここでは皆和やかに

―住職の一日スケジュールやお仕事内容について聞かせてください。
お仕事と言っていいのかどうかわかりませんが朝起きて本堂の方に行きまして、位牌堂、納骨堂へお茶、仏飯をお供えし、線香お灯明を灯し勤行します。それが一日の始まりです。また、毎月1日は朝6時から檀家さんもご参加いただいて勤行を行っています。勤行が終わると月命日や法要の檀家さん宅へ訪問しお参りをします。日によって遠方のお宅へお参りの日、件数の多い日があります。葬儀や法要でお経を読み故人様の成仏をい、ご先祖様の供養を致します。

―やはり悲しみの場面でのお仕事がおありかと思いますが、そのあたりについてどのように感じてらっしゃいますか?
そうですね、やはりいちばん気を遣うところではあります。ご連絡いただき私がお伺いする時はご家族様がいちばん悲しみにくれいるときです。いくら仕事といえども、慣れるわけもなく、もちろん慣れてはいけません。どうしようもない気持ちに毎回なりますが、ご遺族様の心に寄り添い阿弥陀様のお導きの話をきっちりとお伝えし、ご家族の方々に安心してもらうことが私のお役目だと思っています。悲しみの中でも、ちゃんと伝えることができただろうかといつも思います。

―お仕事で大変なことはどんなことですか?
そうですね、先ほど申しましたように、やはり気を遣う場面が多いことと、いつご連絡いただくかもしれないということが常に頭にあり、明確なオン・オフがないことですかね。今日はたまたまお参りがない日だとホッと気をゆるしていてもご連絡をいただいたらどこにいてもすぐ着替えてお参りにいきますので、そういった気分的な部分の大変さはありますね。結果的に今日は何もなかったなというのと、明日は完全にオフというのでは気分的に違いますからね。できるだけ、気にし過ぎないようにはしてますが、オフのスケジュールは立てにくく、ドタキャンすることも多々あるので、ご一緒させてもらう仲間の方にはご迷惑をかけてしまうこともあります。子供の頃、家族旅行の計画がよくキャンセルになりましてね・・・。当時は何でなん?!てだいぶごねた記憶がありますが笑、今となっては、あ、こういうことだったんだなとわかりました。

―ではお仕事の中でやりがいを感じるのはどんなときですか?
そうですね、法要等の後に「ほっとしました」ってお言葉を頂戴し喜んでいただけたときはよかったなと思います。またお檀家さんから、お寺に関係のあること、ないこと様々な内容のご相談を受けることがあります。ご相談者様から比べると私なんてまだまだ人生経験も浅いので、お寺関係のことでのご相談はお答えできたりしますが、それ以外のご相談については私はただただお話を聞かせてもらうだけなんです。来られた時はひどくお怒りであったり、お悩みの表情だった方も、本堂の中からお庭を眺めながらお話をされるうちに、段々と落ち着き穏やかなご様子になって最後にお見送りできたとき、あぁこちらに来ていただいてよかったなとやりがいの様なものを感じます。
「和顔愛語」という言葉がありますが、皆さんが明るく和やかになっていただけたらいいなと思いますね。

―住職のお仕事をされてきた中で何か印象に残っている出来事はありますか?

平成25年に天誅組150年祭がありまして、ここで法要をさせていただき、天誅組そして五條代官所に縁のあるご子孫の方々、たくさんの関係者の方々が来られました。天誅組の変、それは歴史上どうしようもないことだったのかもしれませんが、討った側、討たれた側、共に皆悲しい死を遂げ、いまここに双方のお位牌が同じお部屋に祀られています。お互いのご子孫の方達は天誅組やいろんな歴史について和やかに話しておられ、私にはその光景がとても感慨深く、印象に残っています。いまでも双方の方々間、そして櫻井寺とも交流くださり、ご位牌を一緒に祀っていただきありがとうございますというお言葉まで頂戴し本当にうれしく思っています。昔、この世ではそういう争いがあってもあちらの世界、阿弥陀様のご浄土にいくと皆同じところでいるんだなと思います。

―五條市で暮らし、お仕事をされていてどんなことを感じますか?
田舎といえば田舎、都会と違ってゆったりしているところがいいなと思いますね。その反面やはり問題となっているのが人口減少と少子高齢化、ま、これは五條市に限らず全国的にも地方の過疎化は問題となっていると思いますが。お檀家さんの数に限って言わせていただくと五條市内と市外では市外の方が多くなりつつあります。先々代までは五條市におられて息子さんの代で市外、県外へ移られるなど、そうなるとなかなか五條市に戻ってくる機会も減ってしまいますよね。それが寂しいといいますか・・・。でもこればっかりは私個人でできることは限られてますからね。

―これからの夢は?
檀家さんの方々もそうですが、やはり高齢化、そしておひとり住まいの方が増えています。月命日のお参りが終わると、おじいちゃんやおばあちゃんはいろんなお話を聞かせてくれます。人とお話をする機会が少なくなってきてるのを感じます。そういったことから、何かお寺の中に喫茶店のような、いつ来てもらっても誰かが居て気軽にお話できる空間作りのようなものを企画できないかなと考えています。大学時代の同級生が広島のお寺で、そういった取り組みをしている方がいらして、その話を聞いてとても興味深く、おもしろいなと思ってました。先代の住職は昔、境内に子供達を集めてゲームをしたり、本堂で映画を見たりといったこともしていたのですが、今は子供さんの数も少なくなってしまいましたので、ご高齢の方達の憩い、癒しの空間を企画したいなと思っています。

―素敵な取り組みですね。同級生のお仲間の方からそういったお話が聞けるのはいいですね。
そうですね。同期といいますか、共に行を行った仲間40名と年に1回総会がありましてそこで交流します。普通の会社勤めとは違い特殊といえば特殊な職業ですので、同業の仲間だからこそ、相談できますし、悩んだり、分からないことがあれば必ず誰かがアドバイスやヒント、答えをくれます。急なお参りが入ってその総会をドタキャンすることも普通にありますが、そのあたりの理解はもちろんですし、気を遣うこともないですね。とても大切な仲間です。

オンオフがなかなかはっきりしないとおっしゃってましたが、リフレッシュなど、どうされてますか?またご趣味などは?
私、「乗り物」が好きでして。大学在学中は厳しい行をしていましたが、お休みの日も当然ある訳で、ツーリングクラブに所属していました。バイクで2~3週間かけて北海道、九州、四国、だいたいまわりましたね。そして「温泉」も好きなので目的地をどこかの温泉地に設定してよく行きますね。だいたい近畿圏のいい温泉は制覇したんじゃないでしょうか。今はさすがに長旅は無理なので今日はお参りがないと決まった時点で朝早く出発し、日帰りで近場の十津川や天川の温泉に行ったりします。あと、乗り物が好きということから、サーキット場へ行ったりもします。

―意外でした!笑
そうですか???笑

ー康成さん、本日はありがとうございました。

住 所   奈良県五條市須恵1丁目3-26
電 話   0747-22-3165
アクセス   JR五條駅から徒歩10分

 

 

 

 

 


☆スタッフHのすぽっとwrite☆

多くの相談事に対して「ただ私は聞くだけです」とおっしゃる康成さんに、今回は「話す側」になって、いろんなお話を聞かせていただきました。
取材後、本堂に入らせてもらうとお庭に真っ赤な紅葉が見えました。
150年前にこの場所で起こった出来事。150年後にこの場所で「和顔愛語」で接する互いのご子孫。そのお話を康成さんから聞いただけで胸が熱くなりました。
「明治維新さきがけの地」その歴史の舞台となった地元五條櫻井寺の取材は、大変貴重な体験となりました。

 

 

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