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第64回 潤生山 櫻井寺 住職 康成達歩さん

「和顔愛語」皆和やかに穏やかにを願って

五條市本陣交差点近くにある「櫻井寺」。
住職の康成さんに、あの歴史について、建物について、ご自身について等、
お話を聞かせていただきました。

住職への道のり

―康成さんは櫻井寺の何代目住職ですか?
私で20世になります。お寺が開山されて(建てられて)から数えますと85~86世になるそうですが、お寺が焼けてしまったりしたこともあり、資料としてきっちりと残されているものから数えますと私は20世ということになっています。

―何歳のときにお寺を継がれたのですか?
45歳の時です。今年で4年目になります。

―ご自宅がお寺であることを子供の頃はどのように感じてらっしゃいましたか?

そうですねぇ、小学生の頃から毎朝必ず、住職(父親)と一緒に本堂でおつとめをしてから学校に行ってまして、それが私にとっては当たり前だと思ってましたので、特に気にすることなく過ごしてました。このおつとめのおかげでお経は子供の頃にほとんど暗記できましたので、後に大学に進む時にも非常によかったですね。なかなか大きくなってからお経を覚えるのは大変ですからね。高校生になると次第に嫌だなと思うようになったことは正直ありました。特に進路については、やはり父は僧侶の道に進むことを望んでましたし、そういった資格のとれる大学に進むのか、それとも一般の大学に進むのか私自身結構悩みました。

―大学ではどんなことを?
私は京都の佛教大学に進学したのですが、そこで僧侶の資格を取りたい者は、1回生でお寺の中にある寮での修行、朝から大学に行き、帰ると衣に着替え行や経典を読むといった生活をします。進級の節目毎に一般の単位にプラス特殊な授業を受け単位が取れれば次の、山に籠っての行ができる資格をいただけるわけです。2回生、3回生、4回生で初級、中級、上級を終え、最後に満行をしてそこで合格すれば大学の卒業資格と共に僧侶資格をいただけます。

―修行はとても厳しそうですがどんな思い出がありますか?
基本的に嫌だったことしか覚えてないです笑。他の宗派ではもっと厳しいところもあるそうですが、やっぱり20歳前後で朝4時に起きて寒い中、頭を剃って・・・というのは辛いものがありましたね。

―進学時は悩まれたとありましたが、佛教大学への進学とそこでの厳しい修行、継ごうという決意だったんでしょうか。
当時の思いとしては、決意というより、とりあえず資格はいただいておかないといけない、そしてそのための勉強や修行は私にとっての就職活動にあたるのかなと思っていました。ですので、大学も無事卒業でき、僧侶資格もいただけた後、実はすぐには五條には帰らず、3~4年、そのまま京都で暮らしていました。

―その間は何をされてたんですか?
在学中、教員免許(の資格をとるための授業も受けていたののですが)の「教育実習」の単位が山での修行と被ってしまっていたため取れていませんでした。それでその単位をとるための勉強をしながら、学習塾に勤めていました。法要やお盆のお手伝いで五條に帰ることはありましたが、若かった当時の私にはやはり京都での生活が楽しかったというのもありましてしばらくはそういう生活をしていました。

―すぐに継ぐことに迷いがあったということでしょうか?その後五條に戻ることになったきっかけは?
当時どうだったんでしょうかね笑 昔の友達に当時の私のことを聞くと「する(継ぐ)気なかったよな」「よう継いだな」なんて言われますが笑、今思うと、心のどこかでは自分が継がなければいけないということは分かっていながらも何か思うところがあったんでしょうね。京都での生活を続けるうちに次第にこんな生活しててもな・・・と思うようになり、両親からも「帰ってくれば?」とだいぶ言われてたのもありますしで、こちらに戻ってきました。こちらでもたまたまお話いただいて学習塾でしばらく勤めさせてもらってましたが、30歳の時に正式に副住職、そして先代の住職が50年を迎えた平成29年に住職としてつとめさせていただくようになりました。

 

あの歴史を見てきた旧本堂は今も・・・

―櫻井寺はどんなお寺ですか? 歴史や特徴など教えてください。
櫻井寺略縁起いうものから抜粋してお話させてもらいますと、この辺りに須恵の城主櫻井康成という方がいらして、天慶5年(942年)身内間の所領争いで誤って母親を討ってしまったことから発信入道(心を入れ替えて仏様の道に入ること)し建てられたお寺だとされています。それで歴代の住職は康成という姓を受け継いでいます。
歴史上のお話で有名なのが、幕末に天誅組の本陣となり、明治維新の先駆けといわれる出来事に関係したお寺になったということです。今ある本堂は約50年前に国道24号線開通に伴いこの場所に移転建築されました。それまでは今国道があるところにあったそうです。
そしてこれはあまりご存じの方はいらっしゃらないと思いますが、旧櫻井寺の古い本堂は実は今でもあるんです。箱根の芦ノ湖のほとりに移築され、お食事処レストランとして使われています。私も実際行ったことがありますし、父はやはり懐かしいものですから、箱根方面に行ったときには必ず立ち寄っています。

―旧本堂が現存しているとは驚きました。現在の本堂や庭園についても有名な方が手掛けられたとか?
はい、建築家、村野藤吾さん、庭園研究家の森おさむさんによる設計です。
当時としては珍しい鉄筋コンクリート造りで、とても綺麗な曲線が特徴的です。職人の方達はその曲線美を出すために何度も失敗を繰り返し相当苦労されて完成したと聞いています。お庭は私も毎日何気に眺めておりましたが、春夏秋冬、どの季節にお越しいただいても季節の花や木々が枯山水を中心に非常に美しく見られる様設計されていて、あらためて素晴らしいなと感じております。村野藤吾さんは数多くの建築物を設計し携わってこられた方ですが、お寺を手掛けられたのは櫻井寺だけではないかと思います。今でも建築関係の大学生、研究生がこちらに見学に来られます。

―こちらのお寺に保存されているもの、またそれにまつわるお話などを聞かせてください。
本堂の床下には槍尻跡のある旧本堂の柱が展示保存されているほか、本堂中の位牌堂には天誅組に参加された方々、また襲撃された代官所の鈴木源内氏はじめ討たれた方々のお位牌をお祀りさせていただいています。

お庭には源内氏ら5人の首を洗ったとされる石の手水鉢も残されています。墓地には新町に生家跡がある茜屋半七がモデルとされる歌舞伎の演目「艶姿女舞衣(はですがたおんなまいぎぬ)」に登場する三勝と半七の比翼塚があります。これは私の三世前の住職がお祀りされたと聞いています。

 

―康成さんがこのお寺が深い歴史に関わりがあるということを知ったのはいつ頃ですか?
小学校のときの歴史の授業だったでしょうか・・・校外学習で櫻井寺に見学に行くことになりまして。そこで父親が天誅組がどうとかいろいろ歴史について話してたのを生徒のひとりとして聞いたときですね。そのときから小学生なりに自分の家、お寺がそういう歴史と関わりのあるお寺なんだなということが分かり始めました。今でも、歴史クラブの小学生達が見学に来られますと私がお話をさせてもらっています。

―天誅組と縁のある櫻井寺。康成さんご自身は「天誅組」についてどのように思いますか?
歴史ですごく研究もされていますし、多くの資料や書物もありますので私がどうこう言えるものでもないんですが、私自身が個人的に思うことは、彼らの行動が幕末の時代の人々の意識を変える最初の一打だったのは間違いないということです。消滅までわずか40日ほどという短い中でも、あの時この地にやって来たときの彼らは、結果的には無謀ともいえる行動であったとしても、強く純粋な思いを貫こうと、最も勢力を得ていたときだと思います。最終的には逆賊のように捉えられ悲しい死を遂げましたが挙兵に加わったものには五條市出身の乾十郎や井沢宜庵という方もおられますし、京都の政変がなければこの五條市は本当の意味で明治維新さきがけの地になっていたのではないかと思います。わずか5年後には明治維新を迎えた、言い換えれば、この五條市であのとき歴史が大きく変わったかもしれなかったということですよね。もしそうなっていたら、五條市としての存在や歴史ももっと大きく変わっていたかもしれませんね。

ここでは皆和やかに

―住職の一日スケジュールやお仕事内容について聞かせてください。
お仕事と言っていいのかどうかわかりませんが朝起きて本堂の方に行きまして、位牌堂、納骨堂へお茶、仏飯をお供えし、線香お灯明を灯し勤行します。それが一日の始まりです。また、毎月1日は朝6時から檀家さんもご参加いただいて勤行を行っています。勤行が終わると月命日や法要の檀家さん宅へ訪問しお参りをします。日によって遠方のお宅へお参りの日、件数の多い日があります。葬儀や法要でお経を読み故人様の成仏をい、ご先祖様の供養を致します。

―やはり悲しみの場面でのお仕事がおありかと思いますが、そのあたりについてどのように感じてらっしゃいますか?
そうですね、やはりいちばん気を遣うところではあります。ご連絡いただき私がお伺いする時はご家族様がいちばん悲しみにくれいるときです。いくら仕事といえども、慣れるわけもなく、もちろん慣れてはいけません。どうしようもない気持ちに毎回なりますが、ご遺族様の心に寄り添い阿弥陀様のお導きの話をきっちりとお伝えし、ご家族の方々に安心してもらうことが私のお役目だと思っています。悲しみの中でも、ちゃんと伝えることができただろうかといつも思います。

―お仕事で大変なことはどんなことですか?
そうですね、先ほど申しましたように、やはり気を遣う場面が多いことと、いつご連絡いただくかもしれないということが常に頭にあり、明確なオン・オフがないことですかね。今日はたまたまお参りがない日だとホッと気をゆるしていてもご連絡をいただいたらどこにいてもすぐ着替えてお参りにいきますので、そういった気分的な部分の大変さはありますね。結果的に今日は何もなかったなというのと、明日は完全にオフというのでは気分的に違いますからね。できるだけ、気にし過ぎないようにはしてますが、オフのスケジュールは立てにくく、ドタキャンすることも多々あるので、ご一緒させてもらう仲間の方にはご迷惑をかけてしまうこともあります。子供の頃、家族旅行の計画がよくキャンセルになりましてね・・・。当時は何でなん?!てだいぶごねた記憶がありますが笑、今となっては、あ、こういうことだったんだなとわかりました。

―ではお仕事の中でやりがいを感じるのはどんなときですか?
そうですね、法要等の後に「ほっとしました」ってお言葉を頂戴し喜んでいただけたときはよかったなと思います。またお檀家さんから、お寺に関係のあること、ないこと様々な内容のご相談を受けることがあります。ご相談者様から比べると私なんてまだまだ人生経験も浅いので、お寺関係のことでのご相談はお答えできたりしますが、それ以外のご相談については私はただただお話を聞かせてもらうだけなんです。来られた時はひどくお怒りであったり、お悩みの表情だった方も、本堂の中からお庭を眺めながらお話をされるうちに、段々と落ち着き穏やかなご様子になって最後にお見送りできたとき、あぁこちらに来ていただいてよかったなとやりがいの様なものを感じます。
「和顔愛語」という言葉がありますが、皆さんが明るく和やかになっていただけたらいいなと思いますね。

―住職のお仕事をされてきた中で何か印象に残っている出来事はありますか?

平成25年に天誅組150年祭がありまして、ここで法要をさせていただき、天誅組そして五條代官所に縁のあるご子孫の方々、たくさんの関係者の方々が来られました。天誅組の変、それは歴史上どうしようもないことだったのかもしれませんが、討った側、討たれた側、共に皆悲しい死を遂げ、いまここに双方のお位牌が同じお部屋に祀られています。お互いのご子孫の方達は天誅組やいろんな歴史について和やかに話しておられ、私にはその光景がとても感慨深く、印象に残っています。いまでも双方の方々間、そして櫻井寺とも交流くださり、ご位牌を一緒に祀っていただきありがとうございますというお言葉まで頂戴し本当にうれしく思っています。昔、この世ではそういう争いがあってもあちらの世界、阿弥陀様のご浄土にいくと皆同じところでいるんだなと思います。

―五條市で暮らし、お仕事をされていてどんなことを感じますか?
田舎といえば田舎、都会と違ってゆったりしているところがいいなと思いますね。その反面やはり問題となっているのが人口減少と少子高齢化、ま、これは五條市に限らず全国的にも地方の過疎化は問題となっていると思いますが。お檀家さんの数に限って言わせていただくと五條市内と市外では市外の方が多くなりつつあります。先々代までは五條市におられて息子さんの代で市外、県外へ移られるなど、そうなるとなかなか五條市に戻ってくる機会も減ってしまいますよね。それが寂しいといいますか・・・。でもこればっかりは私個人でできることは限られてますからね。

―これからの夢は?
檀家さんの方々もそうですが、やはり高齢化、そしておひとり住まいの方が増えています。月命日のお参りが終わると、おじいちゃんやおばあちゃんはいろんなお話を聞かせてくれます。人とお話をする機会が少なくなってきてるのを感じます。そういったことから、何かお寺の中に喫茶店のような、いつ来てもらっても誰かが居て気軽にお話できる空間作りのようなものを企画できないかなと考えています。大学時代の同級生が広島のお寺で、そういった取り組みをしている方がいらして、その話を聞いてとても興味深く、おもしろいなと思ってました。先代の住職は昔、境内に子供達を集めてゲームをしたり、本堂で映画を見たりといったこともしていたのですが、今は子供さんの数も少なくなってしまいましたので、ご高齢の方達の憩い、癒しの空間を企画したいなと思っています。

―素敵な取り組みですね。同級生のお仲間の方からそういったお話が聞けるのはいいですね。
そうですね。同期といいますか、共に行を行った仲間40名と年に1回総会がありましてそこで交流します。普通の会社勤めとは違い特殊といえば特殊な職業ですので、同業の仲間だからこそ、相談できますし、悩んだり、分からないことがあれば必ず誰かがアドバイスやヒント、答えをくれます。急なお参りが入ってその総会をドタキャンすることも普通にありますが、そのあたりの理解はもちろんですし、気を遣うこともないですね。とても大切な仲間です。

オンオフがなかなかはっきりしないとおっしゃってましたが、リフレッシュなど、どうされてますか?またご趣味などは?
私、「乗り物」が好きでして。大学在学中は厳しい行をしていましたが、お休みの日も当然ある訳で、ツーリングクラブに所属していました。バイクで2~3週間かけて北海道、九州、四国、だいたいまわりましたね。そして「温泉」も好きなので目的地をどこかの温泉地に設定してよく行きますね。だいたい近畿圏のいい温泉は制覇したんじゃないでしょうか。今はさすがに長旅は無理なので今日はお参りがないと決まった時点で朝早く出発し、日帰りで近場の十津川や天川の温泉に行ったりします。あと、乗り物が好きということから、サーキット場へ行ったりもします。

―意外でした!笑
そうですか???笑

ー康成さん、本日はありがとうございました。

住 所   奈良県五條市須恵1丁目3-26
電 話   0747-22-3165
アクセス   JR五條駅から徒歩10分

 

 

 

 

 


☆スタッフHのすぽっとwrite☆

多くの相談事に対して「ただ私は聞くだけです」とおっしゃる康成さんに、今回は「話す側」になって、いろんなお話を聞かせていただきました。
取材後、本堂に入らせてもらうとお庭に真っ赤な紅葉が見えました。
150年前にこの場所で起こった出来事。150年後にこの場所で「和顔愛語」で接する互いのご子孫。そのお話を康成さんから聞いただけで胸が熱くなりました。
「明治維新さきがけの地」その歴史の舞台となった地元五條櫻井寺の取材は、大変貴重な体験となりました。