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第83回ーPart3 登録有形文化財 藤岡家住宅     NPO法人うちのの館 館長 川村優理さん 

見せたいものがまだまだいっぱい

「古民家は未来へ進んでいく船」・・・だとか。ならば目指す目的地はどこ?船をテーマパークに?川村船長はどんな仕掛けを?。
長和が残した大切なもの、五條にこんな素晴らしい方がいたことを知れた「藤岡家住宅」インタビューの最終章。

全部あるやん、藤岡家。

―現在は資料に特化されているということですね。

そうですね。古民家って1軒の家なんですけど、実はメディア。情報の宝庫なんです。何百年も前からのメディアをどう生かして今に繋いでいくかという最中にいるんです。廃屋になってしまう古い建物や古民家をどうしていくかというのは日本中、世界中が困っていることだと思います。

―そうですね。こうして保存、公開されずに取り壊されれば、貴重な資料や文化も同時に失われるということですよね。

それで私が考えたことがあって、娘が大学で言語文化学をやっているんですが、テーマが一貫して「ディズニー」なんです。それで実際のミュージカルをみようと、一緒にアメリカで「ライオンキング」を見たんですが、その時、「なぜディズニーってこれだけ人を惹きつけるんやろ」って思ったんです。みんなすごく楽しそうでしょ?ディズニーランド、ディズニーシー、ディズニーワールド全て。私は娘とは違う「古民家というメディアをやらせてもらってる」視点で見るんです。

それで気づいたのがディズニーランドの「ホーンテッドマンション(世界各国のディズニーパークにあるライド型お化け屋敷のアトラクション)」。お化け屋敷なんですが、乗り込んだライドが真っ暗の中を進んで「この廊下・・・夏は暑くて、冬は寒くて恐ろしい・・・」ってアナウンスが流れたとき、「あ、藤岡家と一緒!」と思ったんです。作り物の蜘蛛の巣・・・「藤岡家に本物あるやん」、本を積み上げて作ったクリスマスツリーや、プーさんが覗き込んでる古い辞書や絵本・・・、「これ藤岡家にあるやん!これはいける!」って思ったんです。みんながこれだけ来たい場所にある要素を藤岡家は持ってる、「そうや!ここをディズニーにしよう!」と思ったんです。

―エンターテイメントってことですね。

そうですそうです。 


―実際、藤岡家でディズニー化しているところがあったりしますか?

100年前のピアノがあるんですが、この周辺を「美女と野獣」みたいにしたいと思って。バラのステンドグラスやハシゴがあったり・・・。展示してたら、動物の爪痕を見つけて、ほんとに美女と野獣みたいだと思いました(笑) 五條の子がもし修学旅行とかでディズニーに行って、「美女と野獣」を見たときに、「あ、これ藤岡家にあったやつ」って思うかもしれないでしょ(笑) だからディズニー化を目指そうかなと。

このピアノは長和の長女、瑠璃子さんのものなんです。英語やピアノを習って、お父様が転勤の時にはピアノとお手伝いさん付で一緒に引っ越されたほど、長和溺愛のお嬢様でしたが、小さな子供を残して24歳の若さで亡くなっています。その後ピアノはご親戚のもとで大切にされてましたが、ここを開館するときにお返しくださったんです。ピアノが帰ってきて瑠璃子さんも長和も喜んでると思います。

―ただ古いピアノだというだけでなく、それにまつわるお話やディズニー化があると、ご覧になる方の感じ方も様々ですね。

成長された瑠璃子さんのお子さんは、その後英語の先生になるために北宇智中学校に教育実習に来られます。そのときの担当がうちの母だったみたいで。まだ玉骨夫妻も居られた頃で、私に、といって、何か外国製の膨らますロバのお人形、多分ロディだと思うんですけど、それをくださったそうなんです。その方からは今も藤岡家に電話がかかってきてニューヨーク時代のお話などを聞かせてもらっています。

 

―やはり川村さんと藤岡家はご縁があったんですね。ピアノ以外にもいろんなものがありますが来館者はどのようなところに興味をもたれますか?

ここに来て何を見るかっていうのはその方の過去、現在、未来を反映していて、お人形が好きな方、絵が好きな方、建築をなさってる方、お庭に流れている川の石が全部お薬の石でできていると教えてくれた方は岩石を見る方、薬学をやる方、皆さん視点が違います。見る方によって得る情報が違うのは、古い建築物のもつメディア性のひとつだなと思います。

 

―私も初めての藤岡家でしたが、説明を聞くことでより興味が深まりました。当時の商売道具や贅をこらした屋敷等、藤岡家の繁栄ぶりや人物像などがわかり面白かったです。

江戸時代や戦前戦後、その当時の最先端のものがあるのでそれをみてもらいたいとも思いますし、この方は何がお好きなのかなって想像するのも楽しくて。子供さんの場合はここで絵を描いたり句を詠んでもらうと何が好きなのかがだいたい見えておもしろいです。五條中学の生徒さんがスケッチに来てくれたとき、絵の勉強ではなく、ここにあるもの何でもいいからひとつだけ好きなものを描いてもらったんです。温度計を描いた生徒さんもいれば、木組みを写した生徒さん、掛軸の絵を模写した生徒さんもいました。「自分」を見る機会になってもらえればと思います。

 

―かなりたくさんのものがあふれるように展示されてるので見どころ満載でした

私がここで感じたのは、私はまず母親なので、女の人は江戸が明治になっていようと、まず子供に何を食べさせようかと考えたのではないかということです。生活から覚えていく、生活や道具の変化などを追いかけるのが好きなんだと感じました。大和名所図絵や、木曽街道六十九次(歌川広重の作品)は、今だと普通、広重の絵=「美術」なんですけど、当時の旅の情報誌なんですよね。ここは橋が危ないとか、谷が深いとか、そういう生活者の視点で歴史を見るのが私は今、面白いのかもしれません。

―確かに、生活の視点で教わると「歴史苦手」意識が和らぎます。それにここはディズニーの要素を持ってるんですものね。また違った視点で見学できそうです。

そう言ってもらえると嬉しいです。修復する前に調査に来てた大学生さん達はここがただひたすら怖かったって言ってました。私も怖かったんです。怖いんで写真もパッと撮ってすぐ戸を閉めてみたいな・・・。そしたら写真がブレてる。でもそこには歴史のもつ重さと強さも感じることができました。田中さんが思い切って一歩踏み出してくれなかったら・・・と思うと、田中さんの踏み出された最初の一歩はすごく大きかったですね。

先日、自転車で小6の男の子が2人来てくれました。外で何か話し声が聞こえるんで表に出ると、近所の奥さんが「遠くから来たみたいなんやけど、見せたってくれる?」って。「いえ、僕、どうしても気になることがあって」って言うんです。もう「どうぞどうぞ」って。嬉しかったですね。それで見終わったとき「気になっていたことは解決しましたか?」って聞いたら「はい」って、帰って行きました。「子供さん達が何度も来てみたくなる。知りたいことがあるだけでなく、楽しんでもらえる。こういう場所でありたいなぁ」と思いました。

―それは嬉しいですね。「どうしても気になるもの」何だったんでしょうね・・・


ー現在、展示しているものや次に企画しているものをご紹介ください。

今は「天誅組の手紙」という展示で天誅組から藤岡家に届いた書状などを展示しています。3カ月毎に展示を変えていて、4月からは「明治天皇の誕生」を展示します。江戸時代から明治文化に近代化していく時代の日本の画像のかけらのようなものがいろいろありますので。明治天皇というのはまた偉大な天皇なんですよね。いきなり近代化していくわけですが、10代でものすごいことをしていくんです。中山忠光、天誅組との関連など、明治のものが結構ありますので4月からはそのタイトルで。

これからの展示で目指していくのは、今江戸時代の庭を掘りだしていってるんですけど。ますますディズニーフィケーションで、若い人たちが古いものにどれだけオシャレ、すごいって思ってくれるか・・・、私は皆さんにビックリしてほしいので。

 

―長い間、この藤岡家住宅で研究や調査をされてきた川村さんにとって「藤岡家住宅」「藤岡長和」とは?

基本ね、ミーハーなんで(笑) 藤岡家住宅は「発見できるドキドキの場所」です(笑) 直にその空間に居て、自分がふと開けて「えー!!」って驚くものがある。それを「見て見て!」って皆さんに見てもらう、そうすると、ご覧になった方から「これはこうで・・・」って教えてもらえる。ほんとドキドキ、発見の連続、ここは「発見」のテーマパークなんです。

 

―テーマパーク? やっぱりディズニーですね!

あー!そこにきましたね(笑)(笑)

長和については、あれほど華やかなエリート官僚であったのに、よくこれだけ静かに・・・辛いことを乗り越えた方だなと。私達の今の平和や繁栄の陰にはすごいしんどい思いをされた方がいて・・・、そんな思いをされた方が実際ここに居たってことにもろに出会った訳です。句集を見て勉強していくうちにその苦しさがどんどん分かっていったので、何ていうんでしょう、尊敬とかを超えて感謝するしかないというか。この土地や先人、ご縁に一生懸命感謝していく、そのひとつの象徴が長和だと思っています。私が女性であり母であることに特化するのであれば、静かに平和を祈るだけではなく何かを伝えていきたい、俳句でもいい、こういう人がここにいたということを伝える、そして心に感じ入ることのできる人をつくる、ある意味、教育機関でありたいと思っています。

 

―今後の課題はありますか?

 

目標がディズニー、テーマパークなもんですから(笑) テーマパークを楽しんで頂くためには厨子二階を探検できる場所にしたいです。厨子二階へのハシゴを登ってあそこを探検してほしい。そして見つけてほしいです。
金剛山の自然石を作った石組でできた庭も散策できるようにしたいです。

見せたいものがまだまだいっぱいあるの。だから課題、とういうか目標は「さらなるテーマパーク、さらなるディズニーフィケーション」。(笑)

 

 

―川村さん、本日はありがとうございました。

つづきはPart④文芸員、エッセイスト、ラジオパーソナリティと多方面でご活躍の川村優理さんについてのインタビューです。

 

■開館時間
9:00~16:00
貸会場の開館閉館時間はご要望に応じます。

■休館日
毎週月曜日
(月曜が祝日の場合は翌日)

■入館料(維持管理協力金)
大人300円
6歳~中学生200円
20人以上は20%の団体割引有

■アクセス
〒637-0016
奈良県五條市近内町526
TEL / FAX:0747-22-4013
☆JR和歌山線北宇智駅から徒歩約20分(1.3km)
☆京奈和自動車道 五條北インターから5分(側道を国道310号の方向に進み藤岡家住宅の看板で右折。金剛山の方向へ道なりに進む。)

NPO法人 うちのの館 登録有形文化財 藤岡家住宅のホームページはこちらから

 

 

 


☆スタッフHのすぽっとwrite☆

森鴎外、与謝野晶子、高浜虚子・・・教科書で見た人物。
天誅組、北宇智駅スイッチバック・・・、五條市の歴史。
取材してそれらと藤岡家との関わりを知ったとき
思いました。「えらいこっちゃ!」と。

玉骨の書斎で、机に向かって座ってみました。
窓から、梅の木や金剛山が見え、そこで一句・・・詠めるはずもないですが、
同じようにここに玉骨が座ってたんだと思うと「ゾクっ」。
私はこの「ゾクっと」フェチなんです。

第83回ーPart2 登録有形文化財 藤岡家住宅     NPO法人うちのの館 館長 川村優理さん

見えない何かに引っ張られてる気がして

30年の長い眠りから目覚めようとする藤岡家。かつての偉人の家を蘇らせようと船出します。積まれた宝の存在を知らぬまま進み出した船は、驚き、発見、忍耐、不安、感動・・・と、まさに航海そのもの。さてどうなるのでしょうか。

 びっくり! と えらいこっちゃ・・・。

―藤岡家がこのように公開されるようになった経緯について教えていただけますか?

覚えてる方も多いと思いますが、平成10年の台風です。神社の木もなぎ倒されたりと多くの被害が出る中、ここは幸い屋根で済んだといえば済んだんですけど、瓦や煙出しが飛ばされ、ひどい雨漏りで、ご当主が慌てて帰ってこられました。応急処置で屋根にブルーシートをかけ、さてこれからどうしようということになりました。ご当主は「これまで管理は近くに住む方々にお願いしてきた。でもこんな状況のまま迷惑をかけてはいけない」と、この家の今後の何かヒントや答えが見つかればとネット検索したところ「山本本家(五條市の酒造)」さんのページにたどりつき相談します。山本さんは五條で一番最初にインターネットを始めたり、五條のまちおこしをされてきた方で、相談内容から長和と山本さんのお父様がロータリークラブでお知り合いだったことも判り、すぐに五條市役所に繋いでくださいました。
話が進む中、「修理は全て私が(ご当主)がしますから、建物は市に寄付したい」と申し出られるんですが、他にもたくさん古い建物がある五條市がこの先それらを全て管理するのかという意見もあり、市への寄付のお話は進みませんでした。

 

―市への寄付が叶わず、その後、どうなったんでしょうか?

天誅組関連の町おこしもされてた田中修司さん(㈱柿の葉すし本舗たなか創業者 以下 田中さん)が、藤岡家に天誅組三総裁の一人である松本奎堂が書いた額があるという情報をきっかけにここを訪れます。鑑定の結果、松本奎堂のものではなかったんですが、このお屋敷の立派さに「保存の価値がある」と、田中さんはその後も行政や地域の方、そして私の父(児童文学作家 川村たかし)にもお声がけいただき再び藤岡家を訪れます。私は当時、父の運転手で同行してたんですが、ご当主を交えた話し合い等も重ねた結果、田中さんがこの建物をみんなが集まり食事や談話ができる場所として活用しようという提案をしてくださいました。ご当主も活用してもらえるならと修理してくださることになり、その時は、誰もここにたくさんの貴重なものが眠っているとは知らずに船出するわけです。

 

―ご当主も貴重な資料などの存在を知らなかったんでしょうか?

ご当主は「当家に残る文化を地域の文化のために活用してください」と明言しておられました。

―川村さんがこちらの館長となられた経緯は?

田中さんが、父の書いた『新十津川物語』などに深く興味をもって下さっていたことから、地域おこしと文学の結びつきに着目なさったのだと思います。以来、土地に残るストーリーを五條の将来への発展に結びつけたいと思っています。

―田中さんがここを訪れたとき、お目当てのものが天誅組関連ではなかったところで終わらなかったことが今に繋がってますね。

そうなんです。こちらのお話を田中さんからいただいたときに父に相談すると「私は14歳の頃に玉骨先生のところに俳句を習いに行ってたから、それはもうぜひ行ってお手伝いしてきなさい」って言うんです。 横で聞いてた母も「お父さん、玉骨先生から「玉蝶(ぎょくちょう)」って俳号もらってるねん」って言うんです。そんな話、初めて聞いたんですよね。「玉蝶って」・・・、父のお酒のアテを作ったりしながら「お父さん、文学って何ですか」って恐る恐る話しかけてた怖い父と「蝶」というイメージがつながらなくて(笑)

 

―藤岡家での最初の「お宝発見」はどんなものだったんですか?

母屋で資料整理をしている時、柱時計の下を通りかかった棟梁の柴田正輝さん(以下 棟梁)が「これメイドインUSAって知ってるか?」って言うんです。おばあちゃん家にあったような時計だと特に気に留めてなかったんですが、振り子箱を開けて見てみると、江戸末期頃のアメリカ、セス・トーマス社製の時計(米国でも最古の時計)だったんです。もうびっくりして。その時ですね、もしかしたら、ここはすごいお家かもしれんって思ったのは。

 

 

 

棟梁が率いる修理工事の方達が、「川村さん、色々出てくる。まず何が必要や?」て聞いてくれて、「どうも、ここは『大坂屋』という屋号みたいなので、『大坂屋』と書いてるものがあったらとにかくそれをください」って言いましたら、次来た時には色々机の上に置いてくれてあるんです。母屋や米倉に使われていた鉄釘1本も大切に「この鉄釘が貴重やった」と。この建物、建築に対するリスペクトがあり、昔の建築の素晴らしいところを崩さず、できるだけ残そうと、各分野の職人さん達が協力し3年半かかって修理してくださいました。

 

―開館に向けて最初にした「お仕事」は何ですか?

「玉骨句集」のデータ化です。玉骨は俳人として有名だったのに句集を1冊しか出してないんです。その句集もたった1冊しか残っていませんでした。これをまずデータとして保存しなければとコピーを持ち帰り子供が寝た後、作業をする訳ですが・・・、えらいこっちゃです。難しいんです!(笑)

昭和33年に出た句集なら私と同い年、大丈夫だわ・・・と、偉そうに持ち帰ったものの上質で非常に難解な俳句ばかりでした。

 

―どういう俳句だったのでしょうか?

小さな命をものすごく大事に、子供や鳥、虫の様子、命を詠む句がたくさんあるんですね。敗戦後、五條で俳句を教えながら静かに暮らして、大勢のお弟子さんがいながら結社も立ち上げないし句集も1冊しか出さない。目立たずとにかく人を育てようとしていたのがわかりました。私の父が児童文学を始めたきっかけは昭和30年代、小学校教師だった父は「子供の読むもの」がないって思ったらしいんです。童謡や昔話はありましたが、「児童文学」というジャンルはその頃まだ育ってなかったんですね。
父は「児童文学は3歳の子供でも80歳の方が読んでも同じように価値があるもの。世代を超えて全ての人に伝えられる、新しい時代を作る子供達の児童文学を書きたい」と思い始めるんです。そのとき父が言った「子供は未来やから」っていう言葉が子供ながらに、すごいこと言うなって思ってたんです。文化が充実し生活が豊かになることで相手を思いやる心や、戦わずに問題を解決する力が養われる、そのためのエネルギーは未来をつくる子供達の教育だということを、父はここにきて玉骨先生から学んだんじゃないかと思いました。

 

スターバックスで噴き出してしまって

―長い修理期間を経ていよいよ開館。当日はどんな様子でしたか?またその後の反響はどうだったんでしょうか?

平成20年11月11日、11時11分開館のセレモニーは、華やかで、テープカットもあり多くの人やテレビ局、新聞社が来られました。お神楽やお琴、藤岡家のご親戚のシャンソン歌手奥田真祐美さんの歌の披露がありました。12月まで無料ご招待で大勢の方がお越しくださり、年明けからの有料入館では年間12,000人の方が来てくださいました。梅を見に、お雛様を見に、先のお客様をご案内して戻るともう次のグループが待ってる・・・みたいな状態。田中さんが工夫を凝らしたお料理や地域のお店の出張ランチなど、1日100人の入館、というような日も時にはありました。

 

―華々しいオープニングとその後も盛況だったんですね。

はい。でも、いざ入館料を頂戴するとなったら果たして皆さん来てくださるのかというのは実はすごく心配でした。「お食事処」とは別に私は「見てもらう部分」を作る立場だったので大丈夫かな・・・って。そしたら、10時頃坂道を登ってくるひとりの男性がいらして、どうも雰囲気的にこちらに向かってるんです。セーターを着て飄々と歩いて来られて、通り過ぎずに入口に向かって曲がってくれたときは心の中で「やった!有料入館第一号のお客様が来てくれた」と思いました。その方はなんと、阿波野青畝(奈良県高取の俳人 以下 阿波野青畝)先生の長男、阿波野健次さんだったんです。こんな方が第一号で来てくれるというのは、これから「俳句の館」という方向で進むのかなとも感じました。

 

―これまで行われた企画などをご紹介いただけますか?

五條ロータリークラブさん主宰(玉骨は初代ロータリークラブ会長)で「子供俳句教室」をずっとしています。子供達は上辻先生(奈良県俳句協会理事)に俳句を教えてもらう前に、私が「誰でも上手になれる俳句」っていうのを教えるんですけれど、もうね、子供達の俳句が素晴らしくて。子供ならではの視点というか、大人が助言していたらちょっと違ったものになると思うんですが、子供独自の目線でこそ詠める句だなっていうのが寄せられてくるんです。こんな素晴らしい句が詠める子供達が五條の未来にあると思うと嬉しくて。ただ問題は「誰でも上手になれる」ので私が追い抜かれそうなこと(笑) ここがほんと問題(笑) 今は五條東小学校の子供さんに参加してもらってるんですけど、私の望みは五條市の全小学生に俳句を教えさせてもらうこと。これは野望です(笑)

 

―川村さんはいつから俳句を始めたんですか?

開館のときに何を展示するか・・・で、私はちょうどその年、生誕1000年と世間で話題になっていた「源氏物語」をしたいと言ったんです。与謝野晶子直筆の「源氏物語礼讃歌」っていう長い巻物があって、これこそ開館記念展示にふさわしい資料と思ったんです。でも上辻先生が「いや最初は俳句や」っておっしゃるんです。確かに立派な俳人たちの短冊はたくさんありましたが、私は「俳句より与謝野晶子や源氏物語の方が有名やん」と内心思ったんです。ですが、「ここには俳句の世界ではびっくりするような方々の短冊が残されてるんやからやっぱり最初は俳句」と決まりました。それでもまだ「何で・・・」と思うほど俳句を分かってなかったんです。

先生方のおっしゃる通り、俳句で大勢の方が来てくださいました。となると、私もこれから短冊を詠めないといけないんですよね。阿波野青畝の短冊はめちゃめちゃあるし、加えて、青畝のお弟子さんからの短冊や本が寄付されてくるんです。「阿波野青畝展」をすることになり、「阿波野青畝句集」をちゃんと読み始めたんです。そしたら、句の中に画像がいきいきと浮かんできます。橿原のスターバックスで読んでいて、とうとう噴き出してしまいました。

  

―句集で噴き出したとはどういうことでしょうか?

一見ぶっきらぼうな句などがあります。青畝は耳がご不自由なのですが、聞こえないというご自身の辛さを高いところから俯瞰して笑ってしまっている。すごいなって思いました。句の中に「おかしみ」があります。心の辛さや困難なことが、俳句で客観写生することによって笑いに変わっているのですね。『枕草子』の「いとおかし」の境地にも届く深さがあります。そこからです。俳句を勉強しようと思ったのは。

 

―川村さんは俳誌「ホトトギス」の同人ですね。

はい。普通ならどこか結社に入らせてもらったらいいんですけど、そうすると吟行や俳句会に出席しないといけないんです。となると仕事があるし子供もいるし、父母の手伝い等もあって時間的にとても無理なのでNHKの俳句添削講座を始めました。右も左もわからないままのスタートでしたが、ひとつの自信は玉骨句集のデータ化と阿波野青畝句集や、後藤夜半らの句集などの読み込みでした。もしかしたら何とかなるかなと。それで2年間くらい添削を続けて、ある程度見えてきたところで、すごいハードルは高かったですが、思い切って「ホトトギス」にと投句したら稲畑汀子先生(虚子の孫)の「天地有情」にまず一句が掲載されたんです。もう嬉しくて!小さい字だったんですけど、ここに持ってきてみんなに「見て見て!」って言ってね。こんなの一生に一回かもしれないと思いました。その後主宰の稲畑浩太郎先生選の「雑詠」に毎号載るようになり、その後も投句をずっと続けてたら何年か前に「左の人を同人に推薦します」ってとこに私の名前があって!もうこんな嬉しかったことはなかったですね。

 

―その後の藤岡家はどのように進んできたのでしょうか?

田中さんの構想でたくさんの方にここを知ってもらうことができましたが、その後、田中さんが御年齢の事もあってキッチンを辞められます。開館から1~2年は月に1回のランチサロンやお琴の会など地元のいろんなものを生かしてイベントを行っていましたが、徐々に、厨房スタッフの常駐、お客様が来られなかった場合の食材の廃棄の問題等、色々な意見が出てきました。そしてコロナ禍の時代が来て、飲食を中止しました。

 

―美味しいものと見学するもの、どちらもあるのは魅力ですが、運営側としてはそういった事情もおありだったのですね。

田中さんが退かれ厨房の方も一旦休止し、今後どういった運営をしていくかというお話で、ご当主がおっしゃったのは「自分が英国などに行くと古いお家のものをいっぱい資料として展示しているところがあり、それは次の文化にとって、ものすごい力になっている。外国を旅した時にそれを強く感じる。英国なんかは入館料も結構高い。これからもしかしたらここも入館料を値上げすることになるかもしれないけれど、もっと資料に特化してもいいんじゃないでしょうか」ということでした。ほっとしたというのが正直な気持ちでした。その後、天誅組関連やたくさんの資料がどんどん出てきて、いろんな展示もさせていただいてきましたが、この先、ここをどうしていくのか、どうなっていくのか。進む方向はこのお家を守ってこられたご先祖様が決めてくれるでしょうって、私はどこか気楽に思っています。でも精一杯の努力は日々続けています。

 

―進んでみてわかることもありますものね。

こんな素敵なところでいただく季節の料理。すごい楽しい時間でしたね。「地域を大事に、みんなが楽しめる場所」っていうのは田中さんから学びましたし、ご当主は今も、維持管理費をずっと送ってくださってます。「いつもありがとうございます」とメールすると、「ありがとうはいらないですよ」って。

 

―台風被害の後、取り壊されてもおかしくないはず。ご当主が「修理、保存」という選択肢をお持ちだったこと、そして山本さんのHPにたどりついた奇遇など、藤岡家の船出は導かれてたんですね。

ほんとにそうです。ご当主は「更地にしようかとも思った」とおっしゃってました。先代当主も同じご意見だったそうですが、最終的な判断はご当主に委ねられたそうです。ご当主のお考えと、山本さんや田中さんはじめ、五條を引っ張ってきてくれた方々が集まって力を貸してくださいました。藤岡家住宅の開館は、五條ロータリークラブの発足50周年の記念でもあり、クラブの方も邸内に句碑を建立してくれたり、俳句会の開催をご支援くださるなどご尽力くださっています。

 

Part③につづく

 

第83回ーPart1 登録有形文化財 藤岡家住宅     NPO法人うちのの館 館長 川村優理さん

ここはテーマパーク 発見できるドキドキの場所

五條市近内にある「藤岡家住宅」。聞いたことあるけど行ったことない・・・という方は五條市民でも多いのではないでしょうか。かくいう私もそのひとり。
開館から既に16年。館内を案内してくださった館長川村優理さんにインタビューさせていただきました。

藤岡家住宅について

―まずはじめに「藤岡家住宅」とはどういったものなのか教えていただけますか?

こちらは江戸時代の庄屋のお屋敷で、薬屋、そして薬の材料を売る薬種商というのをなさっておりました。もっとさかのぼると、いちばん最初は大阪の夏の陣で敗れた豊臣方のお武家さんが金剛山を超えてこちらの土地に逃れて来られ、最初傘屋を始めたとあります。

 

―豊臣方の武家が?

大坂屋の「大」の屋号が入った鬼瓦

はい。どこのどなたかという記録は何もなくて、地元では「かさ屋」と呼ばれてたそうです。そのあたりからの記録がしばらくなく、次の記録が元禄年間、「大坂屋長兵衛」と名乗る方で、家業は薬商、薬種商、両替商となっています。最初の方の記録がほんとにわずかしかないですが、続々と文書類が出てきていますので、今後それがわかる資料が出てくるかもしれません。
建物は一番古いもので江戸時代寛政年間、新しいものだと明治45年の建物なので、平均して築200年くらいの建物が残っています。

 

―藤岡家住宅は藤岡長和(俳人 藤岡玉骨(ぎょっこつ))の生家と紹介されていますが、「藤岡長和」について教えていただけますか?

長和さん(以下 長和または玉骨)は明治21年、11人兄弟(四男七女)の長男として生まれます。お父様(長二郎)は江戸時代からの庄屋と薬屋を継いでおられましたが、明治期になると、北宇智村の初代村長を務めるほか、殖産興業の時代に農業だけでは立ち行かないことに目をつけ、村に製糸工場を引っ張ってきたり、この山麓に鉄道を敷設し、スイッチバック式の北宇智駅を設置するために多額の寄付をするなど、江戸から明治への変革期に地域に随分貢献した方のようです。その後、南都銀行の前身の吉野銀行の創設にも参加し、吉野銀行五条支店の支店長も務めておられました。

 

―北宇智駅やあのスイッチバックも、藤岡家の貢献があってこそだったんですね。

そうですね。藤岡家には長男の長和をはじめ4人の息子がいる訳ですが、お父様は息子達にこの屋敷を継ぐのではなくて、特に長男の長和には「官僚になれ」と命じられたそうです。長和は五條中学、京都三高(現在の京大)、そして東京帝国大学(現在の東大)に進まれ、学生の時に高等文官(現在の国家試験)の試験に合格、卒業と同時に官僚として愛知県に赴任しておられます。もうキラキラ官僚というんでしょうか、エリートコースをたどっていかれます。

 

 

―命ぜられた道をとても優秀に進まれていったんですね。

次男さんも五條中学、京都三高、東京帝大に進まれまして、播州の石井家という大きな庄屋に御養子に行かれます。大学では応用化学科をトップで卒業したという全く理科畑の方ですが、兄(長和)が京都三高時代に与謝野晶子・寛夫妻主宰の「明星」に加わった影響から、自分も夫妻の元で短歌を詠むようになり、歌人、石井龍男として活躍しました。
三男さんは、五條中学から京大法学部に進まれ、内務官僚となりました。後に官選知事にもなりますが、この方が有名になったのは車の左側通行を決めたということでテレビ局が取材に来られたこともあります。
四男さんは阪大医学部に進まれ、ドイツに留学後、富田林で藤岡医院を開業なさいます。その方を初代として玄孫の方まで歴代医院を継いでおられます。そうして藤岡家の男子4人はみんな五條を出て、女のお子さん7人も五條以外へ嫁がれ、このお家に住まいする直系の子孫の方がおられなくなりました。

 

―11人もお子さんがおられたのに、代々繁栄していた藤岡家を誰かに継がそうとはしなかったんですね。

江戸時代の薬屋は診療もしていたので四男さんが医者になっているという意味ではお継ぎになってるんですけど、ここではなく富田林で開業しておられます。長和も戦後は五條に戻って南都銀行の取締役をされてるので結果的には継いでることになるのかなと。ですけどそう言われるとほんとに、子供が11人おられたら、例えばお嬢さんに御養子さんをもらって、薬屋、あるいは両替商、銀行を継ぐこともできたでしょうに、当時お父様はそれを考えなかったんでしょうね。

 

―息子がいつか戻ってきたり、遠い先の何かを見据えていたとか?

あー、もっのすごい先見でね(笑) それはそうかもしれないですね。確かに藤岡家の方は皆、活躍して、森鴎外や与謝野夫妻、南方熊楠らと交流を深め、当時の先進的な文化や考え方を持ってきておられます。まだ中学、高校の制度がない江戸時代生まれのお父様は算盤で微分も解析もできたほど頭が良く、貨幣経済が転換していく頃、この土地にはどういう産業が似合うか、例えば製糸工場を誘致して農業と製糸を繋ぐように、農業から近代産業への道筋を随分色々考えた人だと思います。明治期は近代国家としていろんな戦争があったり、新しい法律ができたりと国際化していく時代。ここは山に囲まれ静かで、あまり変化を好まなくていい、結局豊かだってことなんですけど、もしかすると、そういった場所に、もうひとつ向こうに出て俯瞰する視点を子供達に持ち込んでほしかったんですかね。

 

長和の生涯

―長和はその後どういった人生を歩むのでしょうか。

時代の変革期をエリートとして進まれます。31歳で和歌山理事官をされてたとき(大正8年)の演説では「これからは自治の時代です」と言っています。「地方から何が大事かを考えよう、そのために必要なのは教育だ」と。当時は小学校へ行くのも大変な時代でしたが、「もっともっと子供達と地域住民の教育を充実させ、地方の自治をしましょう」と。その後、「地方自治法」が制定され、70周年のときには私達が総務大臣表彰をいただいたんです。地方自治頑張りましたねってことで。私達は先人の方達の恩恵で、ただここを管理させてもらってるだけなのに、ご当主の藤岡宇太郎さん(長和の孫、茨城県在住 以下 ご当主)も「爺さんは地方自治の進歩を目指して頑張ってたからね」って。すごい方だったんだなって改めて感じるのと同時に、ぬくぬくと平和な時代で、ちょっと勉強したら偉そうなことを言いたくなる・・・そんな世界にいる私達は、先人達がいた時代があって、それで次の平和を探していかないといけない、まだまだ勉強しないとって思いますね。

 

―大正時代、31歳で、その時既に地方自治や子供への教育の重要性を発信されてたんですね。

お父様の先見性を継いでおられたと思います。戦前ですから国が命令して政治を行う時代でしたので、当時はそれを発言するのもしんどい思いをされたと思います。

地方官時代、各地を転々とした長和愛用のイニシャル入のかばん

その後、官僚として各府県を歴任した長和でしたが、まさかあんな大きな戦争が起こることを予想もしなかったと思います。とんとん拍子に出世していく一方で、世の中はどんどんと戦争へと突っ走っていく・・・。官僚としての職を崩す訳にはいかないけれども、このままではだめなんじゃないか・・・という複雑な思いがあったんでしょうね。
昭和14年、知事を退官前、熊本県知事の時代に奥様と一緒にハンセン病施設「菊池恵楓園」を訪れます。当時はまだハンセン病への理解が進んでなくて、公職にある者は絶対に立ち入ってはならないという法律まであったそうですが、ドイツ語の本なども読まれてた長和は、罹患しない、日本のハンセン病に対する考え方は間違っているという確信が、その時既におありだったのかもしれません。

 

―公職のお立場で自らの意志でハンセン病施設に立ち入り、何をされたんですか?

長和は「皆さんを慰めに来たのではない。一緒に俳句を詠みに来ました」と言うんです。施設の中に八角堂、これが栄山寺の八角堂に影響されたかどうかは分からないのですが、匿名で八角形の文芸堂を建てまして「言志堂(げんしどう)」と名付けるんです。「ここで一緒に俳句を詠みましょう」と言って、俳句会を続けていくんですね。現在、その言志堂は建物は国に寄付され看板しか残ってないそうですが、長和の退官後も菊池恵楓園では俳句活動が続いていて冊子が送られてきていました。多分、その訪問をきっかけに知事をお辞めになったと思うんですが、熊本から出るときには知事の報酬を全て寄付し、その後は紡績会社の取締役となり文芸活動もされてました。昭和20年、大阪の宰相山にお住まいの時、家が戦火に合い五條へ帰ってきています。

 

―五條に帰ってきてからはどのような暮らしをされてたんでしょうか?

知事時代は、どこへ行くのもお付きの者を連れて・・・そういう生活でしたが、こちらに帰ってきてからは銀行にお勤めのかたわら、地域の方々に俳句の指導をし「ホトトギス」派の俳人として毎日新聞の選者を務め、俳誌「かつらぎ」で初学の方に指導をするなど文化人として活躍しました。昭和37年6月には俳句の活動によって奈良県文化賞を受賞しています。74歳でした。
俳号は藤岡玉骨、栄山寺には玉骨の句碑が建てられています。

 

Part②へ続く

 

第75回 カフェ新町ミント 松山幸藏さん 松山明美さん

きっかけはリノベーション
そこから始まり広がる新たな楽しさ

 

猛暑日が続く8月、新町通りでお店を始めたという「ミント」さんを取材。お店の軒先に吊られた風鈴が少しだけ暑さと緊張を和らげてくれました。暖簾をくぐると店内は開放感と趣ある素敵な空間。心地よい音楽が流れる中、出迎えてくださった店主の松山幸藏さんと奥様の明美さんにインタビューさせていただきました。

カウンターを置いてみたら

―こちらのお店はいつオープンされたんですか?
松山幸藏さん 以下 幸藏さん)去年の8月2日です。

―8月2日、今日?!、本日1周年ってことですか?!
幸藏さん)はい、そうです。

―おめでとうございます。
幸藏さん)ありがとうございます。

―現在、日曜日のみの営業ということですが、今日(水曜日)はわざわざお店を開けていただきありがとうございます。
幸藏さん)いえいえ。オープンから2か月ほどは私の仕事が休みの水曜と日曜にお店を開けてたんですが、そうすると、他の用事ができないんでね、例えば病院へ行ったりとか・・・。それで日曜日だけにしようってことになったんです。

―お仕事とおっしゃいますと?
幸藏さん)週5日、大阪の輸入車のディーラーさんへ回送係の仕事に行っています。
お客様の車を車検や修理のために引き取りに行って、工場へ持って行って、修理、点検が終わるとまたお客様のところへお届けする係です。京都や大阪、いろいろな地域へ行きます。

―長年そのお仕事をされてらっしゃるんですか?
幸藏さん)いえ、以前は輸入車メーカーで整備士として働いてたんですが、2009年に会社がこう・・・、パタッとなりまして。そこで、今の会社が回送係を募集していたので、派遣会社を通じて行かせてもらうようになりました。

―お勤めをされながらお店を始めることになった経緯を聞かせてください。
幸藏さん)この建屋がボロボロで雨漏りもしていて、もしこの先、台風や地震

があったときの事を考えると、子供達に負担がかかると思いリノベーションすることにしたんです。工務店の方と打ち合わせをして、とりあえず二階部分をなくして吹き抜けにしようということでご覧の様にどーんと吹き抜けにして。で、そのあと、このスペースを(現在のカウンター付近)どうしようか・・・ってときに、工務店さんから「ちょっとカウンターとかキッチンなんかを置いてもいいんじゃないですかね」って言われて。で、私も、まぁそんなんあってもえーかなくらいの気持ちで進めていったんです。

―喫茶店をしようと思ってリノベした訳ではなかったということですね。
幸藏さん)全く、そんなつもりはなかったんです。何かしたいなって言うのは多少はありましたけど、そんな強くは思ってなくて、車とかバイクが好きなんでそういうのをここでいじれたら・・・とか、そういうぼやっとしたイメージはありました。私の「何かしたい」構想と、工務店さんの「何かした方がいいですよ」が合わさっていったんですかね。でも実際カウンターと流しが入ると、あ、ここでコーヒー飲めて、好きなジャズも聞ける。なかなかいいなと思ったんですよ。で、こんなかたちになりました。

開店までの道のり

―構想が固まってからのスケジュールは?
幸藏さん)一昨年(2021年)12月に工事が始まって翌年4月に完成。そこから色々準備をして、7月に知り合いや親戚をよんでプレオープン。8月に正式に・・・といっても告知等は一切せずこそっとオープンしました笑  工事が終ってからの準備がね、結構大変で、全くの素人だったので何かを選ぶにしてもどれを選んでいいのか、どういう感じでいったらいいのか・・・。でもその後たまたま行った家具屋さんや電気屋さんで何かいい感じのものがあったので、これえぇやん、これもええやんって感じでとんとんと決まって揃えました。
コーヒーのマシンとかはね、もともと家にあったやつです。うち親戚も多くてお客様もたくさん来るんで、普段からよくコーヒーはいれてたんです。

―オープン当初の思い出は?
幸藏さん)やっぱり緊張しました。お客様が来られたらまず水とおしぼりを出して、動線をどうしてとか、豆をどうしてとかね。オープンの告知もしてなかったですし、通りがかりの人が気付いて入ってきてくれるって感じで、メニューもコーヒー、紅茶、コーラくらいに絞って何とかやれてたって感じでした。

―1年経った今、いかがですか?
幸藏さん)ま、ぼちぼちって感じです。常連さんもちょっとずつ増えてきました。車関係の仕事のお客さん、あと、毎朝の通勤で知り合った方がいて、こんなん(店)しますねんって言ったら来てくれたり、観光客の方も入ってくれるようになりました。

―手作りのケーキは、営業日の前日にご準備されるんですか?
松山明美さん 以下明美さん)土曜の晩から寝やんと焼きます。夜から作り始めて5~6種類くらいかな。

―寝やんと?! 5~6種類?! でもメニューにはケーキが載ってないですね?
幸藏さん)1年間はお試しで様子みてみよってことで、ドリンク注文のお客様にはケーキをいくつか無償でお出ししてたんです。
明美さん)そう、お試し中なんで。喜んでもらえたらそれでいいの。「いいんですか?!」ってびっくりされたりしますけど笑

―はい、私もびっくりしてます笑 奥様は昔からケーキ作りをよくされてたんですか?
明美さん)はい、昔から食べるのも作るのも好きで笑 だからほんとはもっと若い時にお店をしたかったんですけど、この歳になって、これからゆっくりしようって思てたときにお店することになって・・・笑。それもコーヒーなんていれたことないお父さんがお店するって言うんやもん笑。でも何かお手伝いできるかなと思ってね。

―ご主人・・・、コーヒーいれたことなかったんですか?笑
幸藏さん)ないです笑 店するまでは仕事から帰ってきてご飯食べてお酒飲んで、しばらくしたら奥さんに「コーヒーいれて」って。しばらくしたら「何か甘いもんない?」って。そう・・・私「何もしない人」やったんです笑

―そのご主人が今は喫茶のマスター!
明美さん)そうそう笑
幸藏さん)コーヒー屋さんのHPやYouTubeを見て、豆の量、湯の量、温度、蒸らす時間等を研究して試行錯誤を繰り返し・・・の末、結構味にうるさい息子達も美味しいと言ってくれたんで、ま、何とかいけてるのかなと笑

―息子さん達はお店を始めるにあたってどのように?
幸藏さん)「ちゃんとやらなあかんで」って笑。もう、何かすごい怒られました笑 「何をどうして、どうするのか、ちゃんと決めたんか?」「ほんまに、ちゃんとできるんか?」と笑。ま、それまで何もしたことない・・・、飲食に関わる仕事なんてもちろん、それこそコーヒーなんていれたことない人間が急にそんなことできるのかって事だったんでしょうね。

―今、美味しいコーヒー、いただいております笑
幸藏さん)ありがとうございます笑。

バイク、ケーキ、あいみょん。

―奥様はケーキ作り、ご主人は車やバイク、ジャズがお好きとのことですが、「スイーツ」に関してはご夫婦で色々お店巡りをされてるそうですね。
明美さん)そうですね、ケーキ屋、パン屋巡りは結構しますね。私達、案外、食の好みが合うんですよ。嫌いな食べものも一緒やし、昔は信州までお蕎麦を食べに行ったりとかもしてたのよ。お父さんが車でどこへでも連れてってくれるからほんま嬉しい。
幸藏さん)車の運転は好きなんで、どこでも行きます。
明美さん)三田にスイーツの街があるんです。ケーキだけじゃなく、チョコレート専門店とかアイスの専門店とかいろんなお店が一帯にあって一日遊べそうな街。 そこへも朝早くから出かけて、並んでジェラート食べたり、子供に買って帰ったり、お父さんもほんまスイーツ好き。仕事のお昼休みにも色々買いに行って写真載せてるみたいで、それ(SNS)を見た友達が「幸藏さん、また何か買って食べてるで」って教えてくれるんです笑

―大阪だとたくさんお店もありますもんね?
幸藏さん)そうですね。今の職場のある大阪西区エリアも美味しいケーキ屋さんの激戦区で、よく昼休みに自転車で買いに行くんですよ。そのときディーラーのジャンパー着てるからお店の人がすぐ顔覚えてくれて笑。今から10年くらい前に、扇町のフランス菓子のお店に感動したのがきっかけで、それまでちょこちょこ買いに行く程度だったのが食べログとかで調べていろんなお店に頻繁に行くようになったんです。

―ジャズについては?
幸藏さん)ジャズはもうずっと昔から聞いてて。お店するにあたって何度も日本橋に行ってスピーカーを決めてきました。これはJBLっていうジャズにマッチしたアメリカのスピーカー。あと私の好きなアーティストのポスターを取り寄せて飾ったりしてここは、ま、私の趣味的なスペースでもある訳です。だから家に帰って食事を終えたらもうここに来て、コーヒーやお酒を飲みながらゆっくりジャズを聞きます。あと、中島みゆき、あいみょん

―あいみょんも聞くんですね!?
幸藏さん)聞きます聞きます。もう1個の方のスピーカーで聞くとね、ほんと、あいみょんがその場で歌ってるかのように聞こえるんですよ。初めてYouTubeであいみょんを聞いた時からこの子すごいなーって思ってて、そしたらその後ドーンと売れて笑

―食後もここに来て・・・。この場所を楽しんでらっしゃるんですね。
幸藏さん)はい。そこがいちばん大きいです笑 自分が楽しめてるこの場所に、お客さんが来てくれて、音楽とか、車、バイク、スイーツの話をできるのがとても楽しいです。このお店のこれが美味しいよとか、パンでも総菜系やハード系いろいろありますし、お酒だったら奈良の日本酒も色々飲んだので、お話できるかなと。教えてあげられること、逆に私もお客さんから教えてもらえることがうれしいんです。

―行く行くは平日のオープンもお考えですか?
幸藏さん)そうですね、私ももうすぐ70歳になるんで体力、視力、運転の技術の問題もでてきます。お客様の大切なお車、さらに輸入車は500~600万、中には1000万する車もありますからね。年々、より慎重に運転することを心掛けていますが、ディーラーさん側の判断もありますし、いつまで契約してもらえるのか、あるいは出勤日数を減らしてもらえるかなど相談していこうと思っています。少し余裕ができてきたら、だんだんこっちがメインになってお店開ける日も増やせるかと思います。

次は釜めし?クラフトビール?

―新町ミントという店名の由来は?
幸藏さん)店名は何がいいかっていろいろまぁ、家族会議で相談して・・・。で、私、虫が嫌いなんですよ。大阪って虫あんまりいないでしょ、こっちきたら、すぐそこが河原で、蚊、蜂、いろいろいてて。今はさすがに少しは慣れましたけどね。で、そこから、ミントって虫除けになるなっていうの新町通りで「新町ミント」。
あと、ミントってお菓子にも使うでしょ、奥さんもミントのケーキを作りますし、飾りにも使ってますので。

―「虫除け」の意味が含まれてたとは笑 五條市は自然豊かですからね、虫もたくさんいます笑
幸藏さん)私は元々大阪の人間でここには養子で来させてもらったんです。ずっと会社と家の往復で朝早く出て夜遅く帰ってくる生活が長かったですから、五條のことは最近ようやく色々分かって来た感じなんです。

―これからお店で取り入れたいことや考案中のものはありますか?
幸藏さん)かき氷ありますか?って来てくれるんで、それも考えようかなと。あと、ランチ的なものができればいいですね。

―ランチ、ぜひ♪ 奥様お料理好きとのことですし。
明美さん)いや~そんなん無理やわ~笑 主人が仕事辞めて完全にここってなったらまたそのとき考えよかな~。
幸藏さん)前に釜めしとか天ぷらとかだし巻とか色々作って親戚に食べてもらったりはしたんですよ。お試しで。

―釜めし、だし巻・・・ご主人、日本酒も色々ご存知とのことですし、奥様のお料理でお酒も進むのではないですか?
幸藏さん)はい。でも手術してからは控え目で・・・。私3年前に大病してね、それからいろんなことをぼちぼちしょうかなって考えになったんです。
明美さん)そう、病気してね。10キロくらい痩せたよね?お父さん、ここ(五條)に来てくれて今まで一生懸命、頑張ってくれたから、これからの人生は自分の好きなことしてくれたらいいと思ってね。
幸藏さん)病気してへんかったらこんなんしてへんだかもね笑
明美さん)
バイクで走り回ってたんちゃう?笑
幸藏さん)そうやな~
。休みならツーリングとか?
明美さん)偶然かもしれないけど、車好き、音楽好きな人が来てくれたり、あと今度カフェを始めたいって方が来てくれたことがあって、とっても話が弾んでお父さんも喜んでるのを見ると嬉しくて。だから私はちょっと出てきてお手伝いさせてもらってるだけ。
幸藏さん)今、クラフトビール巡りも楽しみのひとつで。私に資金力があったらねぇ、新町でクラフトビールのお店もしたいんですけど・・・笑

―ぜひ、クラフトビールのお店してください!その時はまた取材に来ます!笑
幸藏さん)そんなん無理無理~

―五條市についてどういったことを感じますか?
幸藏さん)大阪から最初来たときはなんて静かなとこなんだと。 風景や街並みも綺麗で大阪のガヤガヤが当たり前だった私にとっては静かだなーという印象でした。
明美さん)私はずっと暮らしてきたからそんなんも当たり前に思ってた。交通の便が不便やなと思ってましたけど。
幸藏さん)私が五條に来た頃は、まだ電車の本数も結構あったけど、今はかなり減ってるでしょ。
明美さん)雨とか風でよく電車停まってるでしょう?あれは困るよね、通勤、通学の人が難儀してるもん。そういうの改善策考えてあげてほしいよね。
幸藏さん)交通の便ね・・・ま、不便だからこそ、この風景が保ててるかもしれないですしね。大阪はやっぱり雑踏の中という感じですからね。今はアマゾンとか楽天でどこに居ても何でも買える時代だし、住むにはこういう街がいいかもしれませんね。

―幸藏さん、明美さん、本日はありがとうございました。

喫茶 新町ミント
  住      所 〒637-0043
奈良県五條市新町1丁目11-6
  営   業   日  日曜日
  営 業 時 間 10:00~17:00
  駐 車 場

☆スタッフHのすぽっとwrite☆

「お試し中なんで・・・。」そういって出してくださったケーキはどれも本格的。
なかでも初めて食べたミントのケーキが美味しくて印象に残りました。
美味しいコーヒーとケーキをいただきながら教えてもらったスイーツ、パン、お食事、たこ焼き・・・の美味しいお店など、おふたりのその情報量といったらほんとにすごくて、取材後もペンが走る走る笑 いや~お腹も心も情報も満たされました。

これから私も忙しくなりそうです。教えてもらったお店、「お試し」に行かないと♪

 

 

第69回 Cafeことほぎ 桝田小百合さん 園田ひとみさん 森本早苗さん

ここが「繋がり」の場所であれる幸せ お客様も私達も

重伝建五條新町通りの起業家支援施設「大野屋」で前身の「町家カフェゆるり」を引き継ぎ再スタートした「caféことほぎ」。古民家を改装したお店は重厚で風格ある外観、梁や柱、また格子戸越しに入る光、見える眺め等、日本の伝統的な美しさがあふれている。そんなカフェを日替わりで?営業する3名の女性スタッフにインタビューさせていただきました。

 

来てみたらここでした

―「町家カフェ ゆるり」を引き継がれた経緯について聞かせてください
園田ひとみさん 以下 園田さん)「ゆるり」は社会福祉法人正和会が営業していました。5年間営業させてもらったんですが、正和会の本業の方が忙しくなってきたということもあり一旦5年という区切りで撤退しましょうということになりました。私達は正和会の「カフェ担当」で「ゆるり」の時からのスタッフだったんですが、撤退すると聞いてとても残念に思いました。顔馴染みのお客様もいてくださいましたし、ここがまた空き家(空きスペース)になってしまうな・・・って。そこで3人で話合って、正和会から離れて自分達だけでやってみようかということになり、正和会に相談し承諾いただきました。それで店名を「ことほぎ」と変えさせてもらって再スタートしました。

―では皆さんはもともと正和会の職員さんだったんですか?
桝田小百合さん 以下 桝田さん)いえ、私はハローワークで「カフェのスタッフ募集」という求人を見て応募したんです。そこで正和会というお名前を見たものの、正和会さん自身がカフェを始めるとか、場所がここだとも思ってなくて、多分、正和会の施設内にカフェがあって、そこで働くのかなって思ってて。それで来てみたらここで働くんだって分かって笑。

園田さん)
私もそんな感じだったような・・・笑。

ーでは、皆さんは「ゆるり」のスタッフ募集がきっかけでお知り合いになったんですね。以前からカフェのお仕事に興味があったんですか?
桝田さん)そうですね、みんな接客業の経験があるので。

―ゆるりのスタッフとして働き始めて、当時どんなことを感じましたか?
園田さん)あ、こういう形(起業家支援施設内での営業)の経営なんだと分かりました。今までの経験のあるカフェとは違って、色々制約がある(カフェスペースで提供できるメニューの制限、営業日が決まっている等)ことがわかりました。その中でも自分の今までの経験を生かしてお仕事させてもらおうと思いました。

―前身の「ゆるり」と現在の「ことほぎ」、何か違いはありますか?
皆さん)そんなに大きな違いはないですね。

園田さん)
自由にできる部分があることですね。今までは五條市の規約の中のさらに正和会の規約の中での営業でしたが、今は例えば、自分が今日はこのメニューにしようと思えばそれができるとか。それ以外は特に違いはなくて、だからこそといいますか「ゆるり」時代のお客様が引き続き来てくださるのでそれがとても有難いですね。「ゆるり」を始めた頃は観光客を含めそんなにお客様も来てくれなかったんですが、5年間でこのお店のことを知っていただけて徐々にお客様が増えてきました。「ゆるり」の5年間があったからです。名前は変わりましたが、以前と変わらずお馴染みのスタッフが引き続きお待ちしていますので・・・とお客様には伝えています。 

―「ことほぎ」という店名の由来は?
園田さん)3人で候補を出し合い、ずらっと並べた名前をいくつかに絞りました。その中で「ことほぎ」という言葉は「寿ぐ(ことほぐ)」というおめでたい言葉だし、響きも良いなと。おめでたい言葉で少しでも新町通りの活性化につながればってことで「ことほぎ」に決めました。

 

2つの顔

―ことほぎは「日によって店主が替わり、「meguruめぐる」と「musubiむすび」2つの顔をもつcafé」だとうかがいました。そのあたりについて聞かせてください。
桝田さん)「ことほぎ」として再スタートするにあたって、それぞれの両立していく仕事や家庭の事情を考えるとここの規約通りに(定休日(月曜日)以外は必ず開店)お店の営業を続ける自信がなかったんですよね。私は家が農園なのでその仕事と、このカフェの仕事、そして介護などもありますし・・・

森本早苗さん 以下森本さん)
私はお二人のサポートという形で働かせてもらっています。

桝田さん)
それぞれの事情を踏まえると、二人で交替制にすれば無理なく営業を続けられるんじゃないかってことで。でもどうしても無理な時は森本さんがサポートしてくれるので、3人で協力してこのスタイルでやっています。それと、それぞれがちょっと違ったメニューを出したいとか、多分そこも分かれてくると思ったので、お互いを高め合うため、また経営上や食材の管理等、別々にした方がやりやすいんじゃないかってことでこのスタイルにしました。

森本さん)お二人が急用でお店に出られないときのサポートというかたちでお手伝いさせてもらってるんですが、私はケーキ等を作る方の経験はないので、下準備しておいてくれたケーキにトッピングをしたり、飲み物を作ってお出ししたりしています。今日は桝田さん、園田さんいるかなと思ってお越しいただいた方には申し訳ないんですけどね。

―3人でフォローしあって営業されてるんですね。
桝田さん)そうですね。個人経営ではなく市の規約のもとの営業ということで、ここで一緒に働きそのあたりを理解、共有している私達で一緒にお店をやっていきませんかってとこからスタートしたので、互いにフォローしあえてるかなと思います。

―「musubiむすび」「meguruめぐる」のそれぞれの特徴や思いを聞かせてください。
桝田さん(musubiむすび)家業が柿・梅農家なのでそれを使ったものでいきたいなと思っています。ただ、柿、梅の時期は家業も当然収穫で一番忙しい時期なのでそこがネックでして・・・。
五條市の方って柿は生で食べるのがいちばんって思ってる方、多いと思うんです。五條市でも柿をメインにしたケーキや、スイーツを出されてるとこってあまりないんです。お店に来てくださる方には「ここら辺に柿売ってるとこないの?」って結構聞かれるんです。例えば駅からここまでの道中にはその案内をできるところがないので選果場を案内するんですが、そしたら選果場へ行った帰りにここへ寄って柿をつかったスイーツを食べてくれるんですよね。「柿を使ったものを食べれるお店がないのよ」って言われて、あ、それやったらここでそれをお出しして、その美味しさを分かってもらえるのがいちばんいいなぁって思って。五條市の人をはじめ多くの人に柿ってこうやって食べたら美味しいんだよってことを知ってもらいたいですし、五條市の活性化には柿をもっと宣伝したらいいんじゃないかと思っています。柿は割とご年配の方が好まれるので、若者にももっと知ってほしいなって思いますね。

―例えばどんな食べ方があるんですか?
桝田さん)生で食べるにしても、ヨーグルトに入れたりされる方はいらっしゃるかもしれないですけど、例えば、柿はクリームチーズとすごく相性がいいですし、あと、ここでは柿プリンや柿スムージーもお出ししています。生で食べるにしてもパフェにしてお出しするなど、五條の方にも知ってほしい美味しい食べ方を発信していきたいと思っています。

園田さん(meguruめぐる)私は柿や梅を桝田さんのところから分けてもらって、それをアレンジしたものをお出ししていますが、どうしてもよく似たものになってしまいます。ですので私は五條市で獲れる美味しいイチゴや桃、マスカットや梨といった果物を使ってちょっと違うものもやってみようと思っています。あと、栗なども取り入れたものも考案中です。桝田さんの「musubiむすび」とは違う特色をあえて出していきたいな・・・と思っています。

ー最近、モンブランなども話題になってますよね。ぜひ、栗を使ったスイーツも考案してほしいです。
桝田さん)柿農家の私は、廃棄されるような柿がいちばん美味しいと思っています。少し傷があるものはそこから甘味が増しますし、既に赤く色づき今から市場に出せない柿はその時が一番甘味みのピークだったりします。五條市の人は柿を袋や箱にいっぱいもらえたりってことも普通にあるので、それで十分って思ってしまうのかもしれません。広報で柿のスイーツを紹介させてもらってますが、どれだけの方に興味を持ってもらえてるんかなって思います。難しいですね。柿を五條市に発信したいのか、五條市以外の方に発信したいのか・・・、そこが揺れるところです。

園田さん)柿が大好きで毎年、柿の季節になると大阪からお越しになるリピーターさんもいらっしゃいますし、若い方でも柿が好きって言ってくださる方もいますけどね。やはり市外、県外から来ていただく方が多いです。

―定番のシフォンケーキの他に夏はかき氷も人気だったそうですね。
園田さん)奈良市の方でかき氷がブームになってきてましたし、年々夏の暑さが増してきたのもあってかき氷を始めました。シロップにこだわって特色を出していこうということで、柿、梅のほかに苺や桃のシロップを手作りし、徐々に種類を増やしていきました。すもものシロップもできて好評いただきました。

―柿や梅、すもものシロップのかき氷なんて、食べたことないです。よくある夏祭りとかのかき氷とは違うんですね。
桝田さん)そうですね。できたら五條産、できなくても奈良県産でいきたいというのがこだわりです。とっても美味しいのに廃棄されてしまう果実も、シロップ等、違ったかたちに加工することでまた美味しく食べていただくことができるので。

 

 ほっとする場所、ドキドキする場所

―日々の営業で感じることや、印象に残っていることなどはありますか
桝田さん)リピーターの方、ご近所のお年寄りの方がここでコーヒーを飲んでくれるとき、多分ホッとしに来てくれてるんだなって感じるんです。コロナでなかなか人と会えないとか、いろんな行事が中止になってるじゃないですか・・・。なので、ここに近所の人が集まって近況報告とか世間話とかしてるのを見るととても嬉しいんです。また、最近新町通りに新しくチョコレート屋さんができたり、ゲストハウスもできて人との繋がりをここでしてくれることが増えたんですよね。ここがあってよかったわ、ここでちょっとコーヒーが飲めてよかったわって言ってくださって、そういう人と人が繋がる場所として使ってもらえてるのが嬉しいです。

園田さん)先日、ご近所の方々が来られて「ここやったら感染対策ちゃんとしてるから安心やな」「近所の人と話するのってやっぱり楽しいな」「こうして1ケ月に1回集まれたら」「久しぶりにこんな感じで過ごせたわ」ってお話されてて。皆さん長引くコロナに飽きてしまってるんでしょうね。じっとしていることに我慢も限界なのかなって。ちょっとお出かけしたい、でも不安、あまり遠くにも行けない・・って感じですね。ここで集まって話ができたことにあんなに喜んでもらえるんなら、そういう場所としてこれからも使ってもらえたらなって思いました。

ー人との繋がりの大切さ、人と会える嬉しさを皆さん感じてるんですね。ご近所さんにとっても「ことほぎ」がほっとする場所として存在してる様子がわかります。園田さん)あと、観光客の方が、シフォンケーキやかき氷、柿ぷりんをお出しすると「わぁー!大きい!」とか「わぁー!かわいい!」って写真を撮って、インスタに投稿してくれたりするんです。そういった反応がとても嬉しいです。

森本さん)私は五條市で生まれ育ちましたが、今まで新町通りを通ることってなかったんですよね。それがここでお勤めさせてもらうようになって、あ、新町通りって久しぶり、あ、そういえば幼稚園の頃のお友達、この通りのこのおうちの・・・って色々思い出して、そういうのが個人的にはすごく懐かしいっていうのがありました。あと、趣味で日本中の重伝建を周ってらっしゃるご夫婦がお見えになって、「すごくいいですね」ってこの新町通りや五條市を褒めてくださるんです。私からすると、正直、すっかり錆びれてしまった・・・と思っていた場所を「いや、そこがいいんです。他の重伝建は観光地化されて、いろんなお店もあるんだけど、ここは静かに生活されてるそのままの様子がいいんです」って言ってくださって。自分の今までの間隔とは真逆の感じ方をされるそのご夫婦に、地元の者が関心なかったことに気づかせてくれた、あらためて地元を見つめるきっかけをいただけたことが印象に残っています。それから休みの日に、昔の通学路を歩いてみたり、路地に入ってみたりすると、”五條いいやん”って思いましたね。観光客の方がインスタにあげてる吉野川の写真を見ると、めちゃめちゃいいとこやんって思って笑

―新町通りはあらためて五條市を見つめる、魅力に気づかされるきっかけとなる場所ですね。
園田さん)2~3か月に1回東京から来てくださるお客様がいらっしゃるんですが、いつもカウンターに座られて、格子越しに外をながめゆったりとここでの時間を過ごしてくださいます。

桝田さん)ちょっと時間ができたら1ケ月に1回来られるときもあります。

―東京からそんな頻度で五條にこられる目的は?
皆さん)ここ、五條なんです。

園田さん)
五條に来たら、必ずここへ寄ってくださいます。五條の事は私達よりよくご存じです。金剛寺のボタンが・・・とか生連寺のてるてる坊主が・・・とか。奈良が大好き、中でも五條が大好きな方なんです。

桝田さん)奈良や五條へのルート、交通手段なんかもすごい熟知されてて、私達が色々教えてもらってるくらいですよ。

森本さん)きっかけは吉野川のこいのぼりだそうです。吉野川でこいのぼりがたくさん泳ぐ写真を見て五條に行きたいと思ったのが最初だそうです。こいのぼりをあげるところを見たかったそうで、あげる日の前日から五條市に泊まって準備されて。ここを拠点にいろいろおでかけもされますが、1~2日は五條でゆったり過ごし、河原や新町通りを歩いたり散策しながらここで休憩してくださるんです。

―こちらには展示スペースや飲食ブースがありますが、そこへ展示や出店される方との繋がりなどは?
桝田さん)いろんな方と知り合えますし、展示等も見れて楽しいですね。先日、初出店の店主さんが来られたんですが、坊主頭で髭を生やした結構体格のいい方で、もう私達最初ドキドキで、どうしようっっ(汗)、ちょっと絡みにくいかも~って思ったんですが笑、その方はその方で、帰り際に「いいんですか、僕たちなんかがここに来ていいんですか?」みたいな感じで笑。

お店は盛況でバタバタした日は私と森本さんもそちらのお店を手伝って笑 最後には色々お話して、売り上げはどうでしたか?て聞くと、「いや、違うんです、僕は人のつながりが楽しいんです。ここに来ていろんな人との繋がれることが楽しいんです」っておっしゃって。ここで出店される方にはそういうことを楽しまれる方もいてるんだなって思いました。私達も刺激、勉強になりましたね。いや、でも毎回最初はほんっとにドキドキで。お互い様子をみながら絡み始めるみたいな笑

園田さん)ここでの出店を終えた後もSNSでお互いフォローし合って、今日はここで出店してますとか近況を教えてくれるので、あ、今日はそこで頑張ってるんやなとか、ここで私達と出店者の方たちとの繋がりもできています。

桝田さん)お店に来られた方にあのスペースは何?って聞かれることもあるので、(チャレンジショップの)説明をすると、一度やってみよかなっておっしゃる方もいらっしゃいます。

歩いてみませんか 

―コロナ禍での引継ぎ、そして今もまだその中での営業かと思いますがそのあたりについてはどう感じてらっしゃいますか?
園田さん)「ゆるり」のとき、コロナ感染予防対策に対して正和会がすぐに反応、対応してくれたんです。検温、消毒をはじめ、ビニールカーテン、サーキュレーター、エアードッグ等の設置、徹底した感染対策のノウハウも教えてくださいました。その厳重な感染対策は、県の「感染防止等を行う飲食店等の認証制度の星三つ」をいただいています。ゆるりを引き継いだときからその感染対策の経験を大いに活かさせてもらっています。これからも正和会が築いてくださった感染対策の評価を維持しながら営業していきたいと思っています。

―何か困っていることはありますか
皆さん)駐車場・・・

園田さん)
お店の少し手前にあるんですが、「大野屋」と表示してるので「ことほぎ」という名前で来てくれる方にはわかりづらく、通り過ぎてから「駐車場どこですか?」って聞かれること、よくあるんです。この通りは一方通行でバックできないので1周まわってきてくださる方もいますが、諦める方もいらっしゃいます。大野屋は他の出店者様もおられて、それぞれの屋号がありますので仕方ないんですけどね。
桝田さん)新町通りにコインパーキングがあればなって思います。そしたら案内しやすいなって。皆さん観光地に出かけたときってお金払ってでも駐車場に車停めて観光しますよね。

―これからどういうお店にしていきたいですか?
桝田さん)皆さんに知ってもらって楽しんでもらえる空間にしたいですね。

園田さん)人と人との繋がりを増やしていけたら・・・その繋がりの場であれたらと思います。規模を大きくしてとかそういう野望は一切ないです笑。新町通りの活性化に少しでもお役にたてたらと思っています。ここはチャレンジショップの場所なので、いつまでも居座る訳にはいかないんですが、いつまでもいさせてもらえるようなお店になれたら嬉しいですね。

園田さん)五條市の方でも新町通りを通るのが初めてとか、滅多に通らないって方多くいらっしゃいます。24号線や京奈和もありここを通る用事がないっておっしゃるんですが・・・もしよければ、用事がなくても一度歩いてみてください。

桝田さん)ここは四季それぞれの風景を楽しめる場所でもあるのでウォーキングをされてる方、堤防沿いを散歩されてる方も、ちょっとこの新町通りをコースに入れてもらえてたら、何か楽しいんじゃないかなって思います。

―皆さん、本日はありがとうございました。

住所 奈良県五條市新町2丁目5-12(大野屋内)
電話 070-3313-9148
営業時間 10時~17時
駐車場 有 新町通り松本燃料店駐車場3台
定休日 毎週月曜日
※musubi・meguru各担当日についてはSNS、お電話等にて確認できます。

☆スタッフHのすぽっとwrite☆

新町通りを通る度、次のインタビューはここにしようと決めていながら、自称引っ込み思案?のため、外から様子をうかがうにとどまっていた私でしたが、インタビューが実現するまでに偶然にもお店へ行くきっかけをいただいたり、ご紹介いただける人との繋がりがありました。そう、私にとっても「ことほぎ」は繋がりの場でした。

インタビュー後は、もう慣れた様子でお茶しに行けるようになったのも、あの何ともいえない落ち着ける店内の雰囲気とスタッフの皆さんの温かさ・・・ことほぎがかもしだす雰囲気であることに他ありません。柿のスイーツも美味しかったですし、また新町通りを歩く機会が増えそうです。「いいやん、五條」♪

 

 

 

第64回 潤生山 櫻井寺 住職 康成達歩さん

「和顔愛語」皆和やかに穏やかにを願って

五條市本陣交差点近くにある「櫻井寺」。
住職の康成さんに、あの歴史について、建物について、ご自身について等、
お話を聞かせていただきました。

住職への道のり

―康成さんは櫻井寺の何代目住職ですか?
私で20世になります。お寺が開山されて(建てられて)から数えますと85~86世になるそうですが、お寺が焼けてしまったりしたこともあり、資料としてきっちりと残されているものから数えますと私は20世ということになっています。

―何歳のときにお寺を継がれたのですか?
45歳の時です。今年で4年目になります。

―ご自宅がお寺であることを子供の頃はどのように感じてらっしゃいましたか?

そうですねぇ、小学生の頃から毎朝必ず、住職(父親)と一緒に本堂でおつとめをしてから学校に行ってまして、それが私にとっては当たり前だと思ってましたので、特に気にすることなく過ごしてました。このおつとめのおかげでお経は子供の頃にほとんど暗記できましたので、後に大学に進む時にも非常によかったですね。なかなか大きくなってからお経を覚えるのは大変ですからね。高校生になると次第に嫌だなと思うようになったことは正直ありました。特に進路については、やはり父は僧侶の道に進むことを望んでましたし、そういった資格のとれる大学に進むのか、それとも一般の大学に進むのか私自身結構悩みました。

―大学ではどんなことを?
私は京都の佛教大学に進学したのですが、そこで僧侶の資格を取りたい者は、1回生でお寺の中にある寮での修行、朝から大学に行き、帰ると衣に着替え行や経典を読むといった生活をします。進級の節目毎に一般の単位にプラス特殊な授業を受け単位が取れれば次の、山に籠っての行ができる資格をいただけるわけです。2回生、3回生、4回生で初級、中級、上級を終え、最後に満行をしてそこで合格すれば大学の卒業資格と共に僧侶資格をいただけます。

―修行はとても厳しそうですがどんな思い出がありますか?
基本的に嫌だったことしか覚えてないです笑。他の宗派ではもっと厳しいところもあるそうですが、やっぱり20歳前後で朝4時に起きて寒い中、頭を剃って・・・というのは辛いものがありましたね。

―進学時は悩まれたとありましたが、佛教大学への進学とそこでの厳しい修行、継ごうという決意だったんでしょうか。
当時の思いとしては、決意というより、とりあえず資格はいただいておかないといけない、そしてそのための勉強や修行は私にとっての就職活動にあたるのかなと思っていました。ですので、大学も無事卒業でき、僧侶資格もいただけた後、実はすぐには五條には帰らず、3~4年、そのまま京都で暮らしていました。

―その間は何をされてたんですか?
在学中、教員免許(の資格をとるための授業も受けていたののですが)の「教育実習」の単位が山での修行と被ってしまっていたため取れていませんでした。それでその単位をとるための勉強をしながら、学習塾に勤めていました。法要やお盆のお手伝いで五條に帰ることはありましたが、若かった当時の私にはやはり京都での生活が楽しかったというのもありましてしばらくはそういう生活をしていました。

―すぐに継ぐことに迷いがあったということでしょうか?その後五條に戻ることになったきっかけは?
当時どうだったんでしょうかね笑 昔の友達に当時の私のことを聞くと「する(継ぐ)気なかったよな」「よう継いだな」なんて言われますが笑、今思うと、心のどこかでは自分が継がなければいけないということは分かっていながらも何か思うところがあったんでしょうね。京都での生活を続けるうちに次第にこんな生活しててもな・・・と思うようになり、両親からも「帰ってくれば?」とだいぶ言われてたのもありますしで、こちらに戻ってきました。こちらでもたまたまお話いただいて学習塾でしばらく勤めさせてもらってましたが、30歳の時に正式に副住職、そして先代の住職が50年を迎えた平成29年に住職としてつとめさせていただくようになりました。

 

あの歴史を見てきた旧本堂は今も・・・

―櫻井寺はどんなお寺ですか? 歴史や特徴など教えてください。
櫻井寺略縁起いうものから抜粋してお話させてもらいますと、この辺りに須恵の城主櫻井康成という方がいらして、天慶5年(942年)身内間の所領争いで誤って母親を討ってしまったことから発信入道(心を入れ替えて仏様の道に入ること)し建てられたお寺だとされています。それで歴代の住職は康成という姓を受け継いでいます。
歴史上のお話で有名なのが、幕末に天誅組の本陣となり、明治維新の先駆けといわれる出来事に関係したお寺になったということです。今ある本堂は約50年前に国道24号線開通に伴いこの場所に移転建築されました。それまでは今国道があるところにあったそうです。
そしてこれはあまりご存じの方はいらっしゃらないと思いますが、旧櫻井寺の古い本堂は実は今でもあるんです。箱根の芦ノ湖のほとりに移築され、お食事処レストランとして使われています。私も実際行ったことがありますし、父はやはり懐かしいものですから、箱根方面に行ったときには必ず立ち寄っています。

―旧本堂が現存しているとは驚きました。現在の本堂や庭園についても有名な方が手掛けられたとか?
はい、建築家、村野藤吾さん、庭園研究家の森おさむさんによる設計です。
当時としては珍しい鉄筋コンクリート造りで、とても綺麗な曲線が特徴的です。職人の方達はその曲線美を出すために何度も失敗を繰り返し相当苦労されて完成したと聞いています。お庭は私も毎日何気に眺めておりましたが、春夏秋冬、どの季節にお越しいただいても季節の花や木々が枯山水を中心に非常に美しく見られる様設計されていて、あらためて素晴らしいなと感じております。村野藤吾さんは数多くの建築物を設計し携わってこられた方ですが、お寺を手掛けられたのは櫻井寺だけではないかと思います。今でも建築関係の大学生、研究生がこちらに見学に来られます。

―こちらのお寺に保存されているもの、またそれにまつわるお話などを聞かせてください。
本堂の床下には槍尻跡のある旧本堂の柱が展示保存されているほか、本堂中の位牌堂には天誅組に参加された方々、また襲撃された代官所の鈴木源内氏はじめ討たれた方々のお位牌をお祀りさせていただいています。

お庭には源内氏ら5人の首を洗ったとされる石の手水鉢も残されています。墓地には新町に生家跡がある茜屋半七がモデルとされる歌舞伎の演目「艶姿女舞衣(はですがたおんなまいぎぬ)」に登場する三勝と半七の比翼塚があります。これは私の三世前の住職がお祀りされたと聞いています。

 

―康成さんがこのお寺が深い歴史に関わりがあるということを知ったのはいつ頃ですか?
小学校のときの歴史の授業だったでしょうか・・・校外学習で櫻井寺に見学に行くことになりまして。そこで父親が天誅組がどうとかいろいろ歴史について話してたのを生徒のひとりとして聞いたときですね。そのときから小学生なりに自分の家、お寺がそういう歴史と関わりのあるお寺なんだなということが分かり始めました。今でも、歴史クラブの小学生達が見学に来られますと私がお話をさせてもらっています。

―天誅組と縁のある櫻井寺。康成さんご自身は「天誅組」についてどのように思いますか?
歴史ですごく研究もされていますし、多くの資料や書物もありますので私がどうこう言えるものでもないんですが、私自身が個人的に思うことは、彼らの行動が幕末の時代の人々の意識を変える最初の一打だったのは間違いないということです。消滅までわずか40日ほどという短い中でも、あの時この地にやって来たときの彼らは、結果的には無謀ともいえる行動であったとしても、強く純粋な思いを貫こうと、最も勢力を得ていたときだと思います。最終的には逆賊のように捉えられ悲しい死を遂げましたが挙兵に加わったものには五條市出身の乾十郎や井沢宜庵という方もおられますし、京都の政変がなければこの五條市は本当の意味で明治維新さきがけの地になっていたのではないかと思います。わずか5年後には明治維新を迎えた、言い換えれば、この五條市であのとき歴史が大きく変わったかもしれなかったということですよね。もしそうなっていたら、五條市としての存在や歴史ももっと大きく変わっていたかもしれませんね。

ここでは皆和やかに

―住職の一日スケジュールやお仕事内容について聞かせてください。
お仕事と言っていいのかどうかわかりませんが朝起きて本堂の方に行きまして、位牌堂、納骨堂へお茶、仏飯をお供えし、線香お灯明を灯し勤行します。それが一日の始まりです。また、毎月1日は朝6時から檀家さんもご参加いただいて勤行を行っています。勤行が終わると月命日や法要の檀家さん宅へ訪問しお参りをします。日によって遠方のお宅へお参りの日、件数の多い日があります。葬儀や法要でお経を読み故人様の成仏をい、ご先祖様の供養を致します。

―やはり悲しみの場面でのお仕事がおありかと思いますが、そのあたりについてどのように感じてらっしゃいますか?
そうですね、やはりいちばん気を遣うところではあります。ご連絡いただき私がお伺いする時はご家族様がいちばん悲しみにくれいるときです。いくら仕事といえども、慣れるわけもなく、もちろん慣れてはいけません。どうしようもない気持ちに毎回なりますが、ご遺族様の心に寄り添い阿弥陀様のお導きの話をきっちりとお伝えし、ご家族の方々に安心してもらうことが私のお役目だと思っています。悲しみの中でも、ちゃんと伝えることができただろうかといつも思います。

―お仕事で大変なことはどんなことですか?
そうですね、先ほど申しましたように、やはり気を遣う場面が多いことと、いつご連絡いただくかもしれないということが常に頭にあり、明確なオン・オフがないことですかね。今日はたまたまお参りがない日だとホッと気をゆるしていてもご連絡をいただいたらどこにいてもすぐ着替えてお参りにいきますので、そういった気分的な部分の大変さはありますね。結果的に今日は何もなかったなというのと、明日は完全にオフというのでは気分的に違いますからね。できるだけ、気にし過ぎないようにはしてますが、オフのスケジュールは立てにくく、ドタキャンすることも多々あるので、ご一緒させてもらう仲間の方にはご迷惑をかけてしまうこともあります。子供の頃、家族旅行の計画がよくキャンセルになりましてね・・・。当時は何でなん?!てだいぶごねた記憶がありますが笑、今となっては、あ、こういうことだったんだなとわかりました。

―ではお仕事の中でやりがいを感じるのはどんなときですか?
そうですね、法要等の後に「ほっとしました」ってお言葉を頂戴し喜んでいただけたときはよかったなと思います。またお檀家さんから、お寺に関係のあること、ないこと様々な内容のご相談を受けることがあります。ご相談者様から比べると私なんてまだまだ人生経験も浅いので、お寺関係のことでのご相談はお答えできたりしますが、それ以外のご相談については私はただただお話を聞かせてもらうだけなんです。来られた時はひどくお怒りであったり、お悩みの表情だった方も、本堂の中からお庭を眺めながらお話をされるうちに、段々と落ち着き穏やかなご様子になって最後にお見送りできたとき、あぁこちらに来ていただいてよかったなとやりがいの様なものを感じます。
「和顔愛語」という言葉がありますが、皆さんが明るく和やかになっていただけたらいいなと思いますね。

―住職のお仕事をされてきた中で何か印象に残っている出来事はありますか?

平成25年に天誅組150年祭がありまして、ここで法要をさせていただき、天誅組そして五條代官所に縁のあるご子孫の方々、たくさんの関係者の方々が来られました。天誅組の変、それは歴史上どうしようもないことだったのかもしれませんが、討った側、討たれた側、共に皆悲しい死を遂げ、いまここに双方のお位牌が同じお部屋に祀られています。お互いのご子孫の方達は天誅組やいろんな歴史について和やかに話しておられ、私にはその光景がとても感慨深く、印象に残っています。いまでも双方の方々間、そして櫻井寺とも交流くださり、ご位牌を一緒に祀っていただきありがとうございますというお言葉まで頂戴し本当にうれしく思っています。昔、この世ではそういう争いがあってもあちらの世界、阿弥陀様のご浄土にいくと皆同じところでいるんだなと思います。

―五條市で暮らし、お仕事をされていてどんなことを感じますか?
田舎といえば田舎、都会と違ってゆったりしているところがいいなと思いますね。その反面やはり問題となっているのが人口減少と少子高齢化、ま、これは五條市に限らず全国的にも地方の過疎化は問題となっていると思いますが。お檀家さんの数に限って言わせていただくと五條市内と市外では市外の方が多くなりつつあります。先々代までは五條市におられて息子さんの代で市外、県外へ移られるなど、そうなるとなかなか五條市に戻ってくる機会も減ってしまいますよね。それが寂しいといいますか・・・。でもこればっかりは私個人でできることは限られてますからね。

―これからの夢は?
檀家さんの方々もそうですが、やはり高齢化、そしておひとり住まいの方が増えています。月命日のお参りが終わると、おじいちゃんやおばあちゃんはいろんなお話を聞かせてくれます。人とお話をする機会が少なくなってきてるのを感じます。そういったことから、何かお寺の中に喫茶店のような、いつ来てもらっても誰かが居て気軽にお話できる空間作りのようなものを企画できないかなと考えています。大学時代の同級生が広島のお寺で、そういった取り組みをしている方がいらして、その話を聞いてとても興味深く、おもしろいなと思ってました。先代の住職は昔、境内に子供達を集めてゲームをしたり、本堂で映画を見たりといったこともしていたのですが、今は子供さんの数も少なくなってしまいましたので、ご高齢の方達の憩い、癒しの空間を企画したいなと思っています。

―素敵な取り組みですね。同級生のお仲間の方からそういったお話が聞けるのはいいですね。
そうですね。同期といいますか、共に行を行った仲間40名と年に1回総会がありましてそこで交流します。普通の会社勤めとは違い特殊といえば特殊な職業ですので、同業の仲間だからこそ、相談できますし、悩んだり、分からないことがあれば必ず誰かがアドバイスやヒント、答えをくれます。急なお参りが入ってその総会をドタキャンすることも普通にありますが、そのあたりの理解はもちろんですし、気を遣うこともないですね。とても大切な仲間です。

オンオフがなかなかはっきりしないとおっしゃってましたが、リフレッシュなど、どうされてますか?またご趣味などは?
私、「乗り物」が好きでして。大学在学中は厳しい行をしていましたが、お休みの日も当然ある訳で、ツーリングクラブに所属していました。バイクで2~3週間かけて北海道、九州、四国、だいたいまわりましたね。そして「温泉」も好きなので目的地をどこかの温泉地に設定してよく行きますね。だいたい近畿圏のいい温泉は制覇したんじゃないでしょうか。今はさすがに長旅は無理なので今日はお参りがないと決まった時点で朝早く出発し、日帰りで近場の十津川や天川の温泉に行ったりします。あと、乗り物が好きということから、サーキット場へ行ったりもします。

―意外でした!笑
そうですか???笑

ー康成さん、本日はありがとうございました。

住 所   奈良県五條市須恵1丁目3-26
電 話   0747-22-3165
アクセス   JR五條駅から徒歩10分

 

 

 

 

 


☆スタッフHのすぽっとwrite☆

多くの相談事に対して「ただ私は聞くだけです」とおっしゃる康成さんに、今回は「話す側」になって、いろんなお話を聞かせていただきました。
取材後、本堂に入らせてもらうとお庭に真っ赤な紅葉が見えました。
150年前にこの場所で起こった出来事。150年後にこの場所で「和顔愛語」で接する互いのご子孫。そのお話を康成さんから聞いただけで胸が熱くなりました。
「明治維新さきがけの地」その歴史の舞台となった地元五條櫻井寺の取材は、大変貴重な体験となりました。

 

 

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