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第74回みつ葉接骨院 多賀野 葉子さん

明日も元気に笑顔で過ごせるようお手伝いさせて頂きます。

みつ葉接骨院の名前は、お母さまの光代のみつと葉子さんの葉をとってつけられました。
接骨院を一度は開院するのを辞めようとしますが、ある事がきっかけで開院する事を決意します。
お話を聞かせていただきました。

 

接骨院の開院のきっかけ

いつから接骨院を開院されたのですか?

6年前の2017年4/19から初めました。

接骨院を始めようと思ったきっかけは何ですか?

兄が6年前に亡くなったんですが、兄の病気が見つかった時、私が接骨院を開院しようと思ってましたが、こんな事をしてる場合ではないと思い開院するのを辞めようかと思っていましたが、兄を一人にできないので親に兄の側に居て私が働いてる姿を見せてあげて、元気づけるではないですが、一人になると色々考えてしまうので側に居てくれたら安心するからと言ってくれたので開院するきっかけになりました。

接骨院を開院するまでは?

専門学校入学~5年程接骨院で働いておりその後デイサービスで機能訓練士として働きました。
そろそろ接骨院を開院しようかなと親に話はしてまして、タイミングが兄の病気と重なり背中を押してくれました。

保険治療ではどのような治療をしてますか?

一番悩みが多いのは、膝の痛みと腰の痛みです。接骨院は急性を扱うものです。肩こりは自費治療です。朝から急に肩があがらない場合等は保険適応となります。腰痛は、急性の時さわって熱感があれば冷やして超音波治療、動かせるようになればストレッチ、お家でもして下さいとお伝えさしてもらってます。基本的には電気、筋肉をほぐす主技。超音波をあてさしてもらいます。痛みがひどい時は、毎日来ていただくのがいいですが、ましになって痛みを忘れる期間が増えてきたら、週に2回、だいぶましになれば予防の為に週1回通ってくれてる方も居ます。皆さん仕事がありますので、日頃のケアが大事です。ストレッチをしてください。
私の仕事は、治す事ではなく治すお手伝いをする事だと思ってます。身体を温める事、栄養をしっかり取る事、内臓が元気じゃないと駄目です。
急性の場合最悪お酒は控えてください。お酒を飲むと、血流がよくなりますので余計痛みがきつくなります。身体を休める事が一番いいです。シップは冷やす効果はないです。袋に氷を入れて冷やすのが1番いいです。食材を買った時についている保冷剤で冷やすのは止めてください低温火傷をしてしまいます。温めると逆効果になるので、腰を痛めた時は、お風呂に入らない方がいいです。シャワーだけにしてほしいです。一番は安静です。
長時間座っている時は、貧乏ゆすりがいいです。立ち仕事の人は段差に足をかけたりするながら運動がいいです。物を取ったりする時は、しゃがんで取るようにしましょう。継続するのがいいです。

 

 

 

 

 

 

 

自費治療とは

自費施術をしてるんですね?どのような事をされてますか?

マッサージは好きなので、身体をほぐしたり、マッサージを長めにして背骨の矯正をしたりします。 私は柔道をしてきてケガが多かったので、吸い玉の治療が良かったのでお薦めです。
接骨院ですが、接骨院って感じが嫌で、女性の来やすい雰囲気にしたかったのでカフェを巡り内観をカフェ風にしました。女性の方に来て欲しいです。

よもぎ蒸しを始めるんですね

4月からよもぎ蒸し治療を始めました。私が柔道を辞めてから女性特有の不調が出てきました。だいぶ苦労しました。生理前のPMSの症状が出て来て不安な気持ちになったりするのが出てきまして。そんな時に、よもぎ蒸しを試しましたら無くなりましたが、また次の身体の不調の悩みが出てくると思うので・・・女性の身体の悩みが出る一発目が、30歳を過ぎてからです。最近友達と会っても身体の事ばかり話してます。50代の方でも、私の思いは5年後、10年後元気でいてほしいです。一緒に頑張りましょうという思いです。60代、70代になるとまた他の悩みが出てくるので考えていきたいです。女性は男性の何倍も頭を使うので、ずっと動いてますので、仕事、家庭、育児の事がありますので睡眠不足になったりします。カフェとかでおしゃべりするのもいい事ですよ。

よもぎ蒸しに向いてる方はどんな方ですか?

身体の冷えが頭痛、肩こりに繋がりますし、よもぎの独特ないいにおいがするので40~50分間、携帯も触らないで無で実感してほしいです。そんな時間は、中々ないと思うので自分を見つめなおすにはいい時間です。私が去年結婚しまして、子供を授かりたいと思ってまして。どんな効果があるのか自分に対する挑戦です。よもぎ蒸しは妊活にもお薦めしてます。分かりやすく言いますと(温かい布団で寝るじゃないですか?子供に冷たい布団で寝かせるんかって)聞くんですよ。温かい布団を用意する為によもぎ蒸しをして温めましょう。冷えが一番大敵です。悩んでる方に挑戦して頂けたらと思います。

どれくらいの期間できたらいいですか?

治療には少し金額はかかりますができれば週に1回は来てほしいです。改善が早いです。回数券を買っていただいたら少し安くなりますので試してほしいです。薬の飲む量を減らせたり、マッサージに行くのを減らせたりできるので、プラマイゼロになり、身体を改善してくれます。花粉症の方にもいいです。マントを頭までかぶってもらいよもぎを吸い込んでもらって、免疫力をあげるので改善になります。

いつから始めるのがいいですか?

いつから始めてもいいですが。お薦めは夏から始めてほしいです。冬の冷えは夏が勝負です。内臓を冷やしてしまうので、秋口にしんどくなり、冬にもっとしんどくなります。で春が来てまた調子が悪くなります。吸い玉は、肩が凝りすぎて吐き気がある時は敵面で効いてくれて、肩は凝るけどましになり冬を乗り切れた方が予防に3週間に1回位来られます。

若いから気をつけないといけない

若いから大丈夫とよく言われますが、若いから気をつけないといけないんです。年齢順に亡くなってしまうのではなく、いつどうなるか分からないので。

今は若い人の方が身体が弱くないですか?

今は情報が多すぎて不安になりますね。この3年間プラスに言うのは大変でした。患者さんがコロナの話ばかりで、同じように言うてたら駄目なんで、大丈夫とプラスに言い続けていました。一年目は毎日コロナの会話で結構大変でした。不安だし患者さんは来なくなりますし。少し経てば患者さんは来てくれました。家にずっと居ないといけないから肩が痛いとの事で来てくれました。
30代から90代の方まで幅広く来院して下さります。年代に寄って悩みが違います。

どのように広げたんですか?

インスタ、チラシのポスティング、看板とかではなく、一番は口コミで広がって、患者さんにお任せして、お客様が来てくれるようになりました。初めは、スポーツ障害みたいな接骨院をしようと始めましたが、自分の身体の不調が出て来て方向転換しました。

これから先はどんな事をしようと思ってますか?

将来的には妊娠、出産を経験し、勉強した後産後ケア等もしたいと考えています。今は経験してないので説得力がないと思うので40代にはしたいです。年齢によって私もしたい事は変わってると思います。

前向きですね

前向きにしないとしんどいじゃないですか?私はネガティブになると疲れるからしんどいから逃げてしまいます。私はこんな事言ってますが、毎日お腹の調子が悪いんですよ。あの人にきつい事言ってしまったなとか、こんな事出来たらなとか考えてない振りしてどこかで考えてるんですよね。根っからのポジティブではなくポジティブにしてるんです・・・・この仕事をしてたらため息なんついてたら駄目ですからね。

今の仕事をしていて良かったと思う事はありますか?

しんどい方のお話を聞いていて、その方が泣いてくれたんです。私がたまに泣きたくなって涙を流すんですが、泣くとスッキリするじゃないですか。前から何か話したいことがあるんだなって思ってまして、吐き出してくれたんです。涙って大事じゃないですか?嬉しかったです。患者さんの腰の痛みがなくなったり、疲れがなくなったりされて毎日喜びは何かしらあります。

このお仕事は楽しいですか?

幸せかなと思います。一人でしてますし、人間関係の問題もないですしね。隣に両親も居てますので。幸せな環境だと思います。

この仕事につけたの恩師のおかげです

この資格を取ろうと決めたのは、大学卒業の半年前です。それまで一切何も考えてなくてずっと柔道をしたかったんですが、身体がボロボロでもう柔道は続ける事が無理で。就職もどうしょうかなと思ってまして。お世話になった五條東中学校の柔道の先生が恩師で、その方の知り合いの方がこんな仕事どうやって言うてくれまして。その先生にお前の性格上警察官には向いてない人と話をするのが好きやからそっちにいく方がいいと言われました。その人のおかげでまさかこんなに続けれれてるとは・・

いつから柔道をしてたんですか?

4歳から26歳までしてましたので、22年間位してました。楽しいなと思ってしていたのは小4位までです。それからは成績を残さないといけないので、大学時代が一番しんどかったです。勝たないとあかんけど勝てないし身体もボロボロですし。まだ根性論の時で、中学生の時靭帯を損傷しましたがその日に動けないからとギブスを外しました。その時きちんと治しておけば靭帯がグラグラにはなってないです。今となっては好きです。いいスポーツですね。

 

 

 

 

 

 

 

今までいい人に巡り会えて来ましたね

人と関わる事に関してはいい人に恵まれてます。怒る時は怒ってくれますしありがたいですしね。今仲良くしてくれてる人もいい人です。

この仕事のやりがいは何ですか?

患者さんを治療して身体の痛みがなくなってくれる事と、疲れが取れてくれる事です。自分自身を見つめ直す事が出来ます。自分の為になります。

皆さんに伝えたいこと

人間は我慢が一番良くない事です。痛みにしろ疲れにしろどっかで言えなかったら来てくださいと言ってます。怪我をして、後悔してる事は山ほどあると思うんですよ。何であの時あーせんかったんやろとかあの時見つめ直してしてたらとか・・・

兄は強い人でした。

何であの時兄は言わなかったんやろ痛いともしんどいとも・・・兄貴は、最強に強い人間でした。小さい時から怪我しても痛いと言わない。しんどくてもしんどいと言わない。兄貴は根性の塊りの人間で兄貴は根性があり、私は根性がないと言われ続けました。
兄の病気が分かったのは7年前の10月でステージ4でスキルス性胃がんで進行性でした。ずっと胃は痛かったみたいですが、普通でしたらだいぶしんどいはずなんですが1年位37.5度の微熱があるのにしんどくないから病院に行かず、さすがに周りにも病院に行った方がいいと言われて行きましたら余命3か月と言われました。リンパに転移してるから手術もできないし、がん細胞が強いので抗がん剤は効きませんしずっと元気で亡くなる3週間前まで遊んで楽しく過ごしてました。
一番我慢する事が良くないです。痛い事を痛いと言わない事が結果良くないじゃないですか?私でしたら、痛い時は痛いというので、すぐに病院行きますし。たまにしんどいのか寝てました。それでも39度熱がある感じで、何も言わないし、最後まで弱音を吐かなかったです。兄が1回だけ泣いた姿を見ました。親を頼んでおくと言われました。医者にも、ごまかさないで正直に言うてくれと、それを聞いた上で判断したんでしょうね。その1年間は好きな事してましたよ。1日10食位食べてました。
それまでは、兄の事はあまり好きではなかったです。きつい性格でしたので。私より数倍きつい性格だし、言いたい事は言うし言われたくないことも言われますからしょっちゅう泣いてました。私以外には優しい人でしたよ、妹だからきついだけで。
1年間であんな格好をみせられると惚れてしまうほどでした。
若いから大丈夫じゃなくて痛みを我慢しない。病院に行ったり誰かに寄り添ってほしいです。兄が亡くなってしまうと親がとても可哀想でした。子供が親を見送るのが当然なんで・・子供は先にいってしまったら駄目です。兄の人柄で、お葬式にはたくさんの人が来てくれました。沢山の方に見送られて幸せ者でした。若いから大丈夫ではなく、若いから気をつけないといけないとお年寄りはの方はお孫さん達に言ってほしいです。

五條市に対してどのような事を思われますか?

いい所があるの勿体ないです。シダアリーナってすばらしい所だし、新しい市役所もありますのに。今ならWBCで日本が勝利したのですから、五條市出身の岡本和真さんをうんだ町なんで五條の事を知らすチャンスだと思います。呼んだりしたらどうかなと思います。私もスポーツしてたからなんか寂しいです。五條をもっと盛り上げてほしいです。

お年寄りの声ですが
病院が少ないし、補助がない。五條バスセンターから南奈良の病院まで行くのに2時間位かかるんですよ。お年寄りは子供さんに連れってもらうのも気を使うから、行くのを諦めて家に居てしまうんですよ。自然も綺麗だし、勿体ないと思います。

みつ葉接骨院 
                 住所           奈良県五條市新町1-7-28                           
          電話     0747-27-1031       

受付時間 AM9:00~PM7:00  最終受付PM6:00

   日曜のみ AM9:00~PM2:00 最終受付PM1:00

休日   月・火・祝

 

スタッフの感想

初めてお会いした時から、親しみやすくて明るい葉子さん。
インタビュー途中も、喋り過ぎて話が何度かそれてしまったりで・・
身体を治すお手伝いをしてくれるだけではなく、お話をしてますと元気をくれる方です。
接骨院を開院する前から、色んな事がありましたが明るく前向きな姿を見て、私も見習わなければと思いました。
インタビュー後よもぎ蒸しに通い始めました。夏に向けて強い身体になりますように‼

 

 

 

 

 

第66回 神戸屋靴店・喫茶神戸屋 中山純さん・中山裕湖さんご夫妻

音楽で人を幸せにできたら 神戸屋の暖簾を守りながら

 

シャッター街と化した寂しげな商店街に灯りがともり、心地よい音楽が流れてくる粋なお店がある。五條市で初めて靴屋を営んだという神戸屋靴店。2021年1月、喫茶神戸屋を併設リニューアルし、靴屋の四代目を受け継いだ裕湖さん(弥里朱華(みさとあやか)さん)は「美術教諭を経て青春時代をギリシャで過ごし、絵画の世界から転身した異色のラテン・ジャズシンガー」、そして喫茶マスターのご主人、中山純さんは音響のプロであり、サックスやベース、いくつもの楽器を演奏するミュージシャン。心地いいジャズの流れる店内で、興味深いお二人の人生のストーリーを裕湖さん(朱華さん)中心におうかがいしました。

引かれたレールから羽ばたいて

―まずは神戸屋靴店さんの創業について教えていただけますか
中山裕湖さん 以下裕湖さん)私のひいおばあちゃんの代からここで商売をしていて元々は雑貨屋だったと聞いてます。それが、時代が高度成長期手前、(履物が)下駄や草履の時代から靴へと変わる頃、店先に並べた靴が売れたので新しく出してきて並べる、そしたらまたすぐ売れる・・・そんな光景を目にした祖母が「これはいける!」と思ったのか、そこから「靴屋」を始めたそうです。
祖母はあの時代の女性にしてはとても精力的で、靴屋で儲けたお金で旅館を建て、その後も鰻寿司、スナック、薬屋、鍼灸院と先見の明で次々と商売を始め、ひとかたならぬ苦労をした人だったと思います。

―店名「神戸屋」というのは?
裕湖さん)創業当時から「神戸屋」という名前やったのかどうかはわからないのですが、祖母が靴屋を始めた頃、神戸市によく仕入れに行っていたそうです。仕入れては売れ、また仕入れ・・・ここと神戸市を何往復もしたと。そこから「神戸屋」になったんかもしれません。神戸は履物のまちやしね。当時は靴職人が靴を作る時代で、うちにも職人さんがいたそうです。その技術を祖父、そして父が受け継いで、学校から帰ってくると母はお店で靴の販売を、父は一日中仕事場でこつこつと作業している姿をよく見ました。父母共に人に施しをする気持ちを忘れたことのない人でした。それが今の商売へとつなげてくれているのだと日々感謝しています。

―4代目として靴屋を継がれたわけですが、いつ頃から継ぐという方向になったんでしょうか
裕湖さん)そんな両親は私を教師にさせたかったので子供の頃から、お絵かき、そろばん、ピアノ、お習字、日本舞踊・・・毎日いろんな習い事をさせました。中でも私はお絵かきと歌が大好きで、そこら中の壁に絵を描きまくっては怒られてました。でも小学校5年生の頃から、家にあった地球儀を眺めてるうちに、この丸い地球の裏側ってどうなってるんやろ?一体そこにはどんな人が住んでて、どんな言葉を喋って、どんなものを食べてるんやろ、ってものすごく興味深くてずっとその夢(もっと知りたい、他の国へ行ってみたい)を諦めずにいました。両親はとにかく商売は苦労するからと何としても私を教師にさせたかったので、まだ経済力もない私は家を飛び出すわけにもいかず、両親の望み通り教師になりました。だから継ぐことになったのはもっともっと後の話ですね。

 ―教師としてスタートをきった訳ですね
裕湖さん)はい。両親の教師になってほしいという思い、私は絵を描くことが大好きだったのでおのずと美術教師というレールが引かれました。21歳で採用試験に合格し初めて教壇に立ちましたが、やっぱり私に教師という地味な職業は向いてないと感じました。自分の人生、教師というレールの上を一生涯歩いていくことの息苦しさと何の変哲もない人生を送りたくないという思いで、精神的にも体力的にもきつかったですね。自分にそぐわない環境に身を置くとそうなりますよね。さらにはそのとき大失恋も経験し、身も心もボロボロになり、それで教師を辞め、スーツケースひとつでギリシャへ行くわけです。

 ーギリシャへ?!その経緯について詳しく聞かせてください
裕湖さん)教師を続けながらも、いつかは日本を出て未知の世界を見てみたいという気持ちは常にあって、23歳の時、画家達の集まりでヨーロッパ旅行に行きました。若い女性達はブランドに興味を持つ中、私は目もくれず、地図とスケッチブックを片手にひとりで街をウロウロ。映画「ローマの休日」で有名なスペイン広場の下で一日中絵を描いていました。その居心地の良さに引き込まれて帰りたくはなかった。翌年はインドネシア全土横断し、次に再びギリシャを訪れた時、拠点を見つけてきました。

 

 

 

 

↑20代の頃のヨーロッパの旅の絵
左からオンフルール・モンマルトルの丘・ベニス(オンフルールは入選作品)

 

―拠点?ですか
裕湖さん)そう、拠点。私が住める場所、頼れる人を見つけてきたんです。
ギリシャ旅行のエーゲ海クルーズで船酔いして何も食べれずしんどくてふらふらになっていた時に立ち寄った毛皮の店のセールスマネージャーに助けられ、私を見かねて現地の日本食レストランへ連れて行ってくださりその後自宅に招かれそこで彼の子供さんやお手伝いさんともお会いし、とても楽しい時間を過ごしました。彼はいつでも遊びに来てください、そして僕もまた、日本に行きたいですと。そのとき、ここは、この人は安心できる、拠点にいいなと思ったんです。その人が後々ビジネスパートナーになる訳です。
帰国してからも電話や手紙がたくさん来ました。私は恋愛感情は全くなかったのですが向こうがプロポーズをしに日本に来た訳です。これは日本を出るいい口実になると思いました。それが教師を辞めるきっかけになりました。母は「苦労するなら助けないけれど、幸せになるのなら助けてあげる」といって片道キップの20万を持たせてくれました。それで26歳のときスーツケース一つでギリシャへ旅立ちました。

 

ギリシャでの新しい自分

―ギリシャでの生活、まずどんなスタートだったんですか?
裕湖さん)現地での生活はまず私生活のギリシャ語、彼との共通語は英語でしたが現地人が全て英語を話せる訳ではなく戸惑いながらも家で一人で居る生活が始まり、生きがいを見つけらずにいました。私は何のためにギリシャに来たのか・・・考えながらも彼の仕事の手伝い、ギリシャ→日本への毛皮の発注の仕事を始めますが能率が上がらず、現地での自分の立ち位置を見つけられずにいました。彼に相談するとそれなら二人で店を運営しないかという誘いがありゼロからのスタートとなりました。

―お店とは?
裕湖さん)彼は毛皮や宝石を専門とした店で販売員としての仕事をしていました。お店は持ってなかったけれど、向こうでは何か国語を話せるかで5本の指に入るトップセールスマンになれるかが決まります。彼は8か国語を話せたので世界各国の客を相手に販売力と腕は確かで、信頼も厚かった。最初は小さい店から始めそれがうまくいったので、目抜き通りに店を出そうということで、私は両親から借りた資金を、彼は知恵とノウハウを出し、アテネの中心地は目抜き通りに2件目の店を出しました。小さいながらも自社工場も作りました。当時の人気テレビ番組「なるほど・ザ・ワールド」の取材も来ましたし、ちょうどバブルの時代で観光客によく売れ、売り上げは好調でした。父も日本から会いに来てくれて嬉しかったです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

↑裕湖さん自身がモデルをつとめた毛皮のパンフレットや店舗、
そして住んでいたアテネ市内(パルテノン神殿)の写真

 

―言葉はどうされてたんですか?やはり準備期間に勉強を?
裕湖さん)英語はずっと勉強してたから大丈夫でしたが、ギリシャ語は向こうに行ってから勉強しました。商売がら、まず数字を覚えないということでそこからでした。電話の応対、買い物、タクシーを利用したり、自分で車を運転したりと徐々に生活にも慣れて。彼の友人たちとの交流や語学がもともと好きだったこともあり、イタリア語やギリシャ語、英語、日本語のちゃんぽんしたようなとこから始まって徐々に話せるようになりました。言葉で垣根を越えられるなら努力次第で何とでもなると思って勉強しました。

 

―やはり日本とは全く違う世界でしたか?
裕湖さん)はい、私には向こうの地がすごく合ってたんでしょうね。華やかでキラキラした世界が好きなんですよね。日本では控え目が美徳とされ、出る杭は打たれますが、海外では出すぎるくらい出ないと逆にたたかれる。良い意味で言えば強烈な個性と表現力で豊かな人生を送れる訳です。周囲には競争店が多かったですし商売するとなるとなおさらです。ギリシャは世界一の海軍国です。世界中からお客様が入ってきます。日々、国際色豊かな色んな言葉が飛び交う中での生活は日本では味わえない経験でした。

―その後、お店は?
裕湖さん)その後、ローマ、スペイン広場周辺のコルソ通りに3件目のお店を出しました。でも結局は広げすぎたんですよね、後のバブル低迷期等でお客さんは減り、借金を抱えることになってしまって。一時帰国していた私は店をすべてたたんだことを彼からの電話で知らされました。私はその後ギリシャに戻ることもできず何もかも身の回りのものすべて向こうに置いたまま。その後それがどうなったのかもわかりません。飛び出したときもスーツケースひとつでしたが、帰ってくるときもスーツケースひとつやったっていう話(笑)

―最終的にはお店をたたんでしまいましたが、パートナーとの出会いがあって海外での生活、仕事を経験したんですね
裕湖さん)そうですね、出会いから移住、彼からビジネスやたくさんのことを学びました。ビジネスパートナーであり、共に戦ってきた戦友であり家族でもありました。彼は人生をとてもおもしろおかしく、ドラマティックに、破天荒に生きていました。もう亡くなってしまったんですが、一言では言い表せない波乱の道のりでした。

日本での再スタート  

―帰国してからについて聞かせてください
裕湖さん)向こうで店をたたみ今度は彼が私を頼って日本にやってきました。知り合いの紹介で宗衛門町で2人でギリシャレストラン・グリークバーを始めたもののうまくいくはずもなく・・・そりゃそうですよね、飲食業なんてやったこともない、毛皮を売ってた人間なんですから。それでその商売をやめ、パートナーとはそれを機に互いに別の人生を歩むことになり、私は35歳で大阪の時計宝石の卸の会社に就職しました。

―そこでまた一からスタートということですね
裕湖さん)その会社では15年間勤務しました。自社ブランド担当を任され、言葉ができたのもあって海外出張(ヨーロッパ各国、オランダ・ベルギー・ハンガリー・ドイツetc・・・)にも行きました。商売の基本からノウハウまで仕込んでいただきそれが後にこの靴屋を継ぐときに役に立ちました。営業で小売店回りや展示会の仕事も任され、芸能人をモデルにした企画等で有名な方とご一緒する機会もたくさんあり、仕事は通勤も含めて厳しかったですけれど、そういった華やかでキラキラした世界は私の性に合っていました。ところが、スイスのバーゼルで世界の時計・宝飾展があった日、雪深い山奥のホテルで過労で倒れレスキュー隊が来てヘリでスイス病院に運ばれることに・・・。過呼吸で大変でしたが、何とか回復し帰国しました。そのときも大失恋が重なりまたもや心身ともにボロボロ、最悪の状態でした。私っていつもそう、何に対してもとにかく突き詰めて全エネルギーを注いでしまう、それがプツッと切れたときはボロボロ。それでも身体が限界まで仕事を続けましたが、やはりどん底でした。そんなとき音楽が縁で今の主人に出会いました。主人はまさしく私の救世主となり、その後私の人生は大きく方向転換し、歌の道へと進む訳です。

―歌の道ですか?!その経緯についても聞かせてください
裕湖さん)歌は子供の頃から絵と同じくらい大好きで、学生の頃は合唱団に入っていてソプラノ(NHKに出演)の経験もありました。でもなかなか歌の道で生きていくそのチャンスに恵まれなかったので美術教諭になった訳です。主人と知り合ってからは、水を得た魚のように歌の道にのめり込んで行きました。私は会社を辞め、再び新しい第4の人生のスタートを切りました。教師~ギリシャへ~帰国後会社員を経て~歌の道へと、遠回りしたけどやっと夢が叶った気がしました。それからはバンドを結成して大阪を中心に関西エリアでライヴ活動を続けました。主人はサックスやベースの演奏を、また音響(PA)のプロなので私のキーに譜面を書きかえてくれたり・・・と、主人のおかげで私は救われ、今までとは違う安らぎを覚えました。紆余曲折ありましたが、やっと自分らしく生きていけると思いました。歌い手(Singer)としてやっていこうと決めたとき、これまでの窮屈な過去の自分に別れを告げ、生まれ変わるために、ある先生にお願いして「弥里朱華(みさとあやか)」という名前を付けて頂きました。弥里の弥は弥勒菩薩から一文字頂きました。ふるさとに根をおろしてゆったりとした心で人々に輝きと幸せを届けていけるなら・・・と。

『朱華&Bossa☆Boys』
ステージコンサートやライヴイベント等で活動

 

音楽が繋いだ縁

―純さんのこれまでの歩みについて聞かせてください
中山純さん 以下純さん)何もないで。音楽だけや。

―音楽は子供の頃から何かされてたんですか?
純さん)いや、幼稚園のとき、オルガン教室に無理やり通わされて。小学校3年生くらいまで続けとったんやけど遊ぶ方が楽しいから辞めて。うちも子供の頃から教師になるように言われ続けてきて・・・父が教師やったから、教師か公務員になれと。でも教師の道には進まなかった。

―サラリーマンとか?
純さん)音楽のできるサラリーマン笑 オーディオ機器とか好きやったから、レコードとかよく聞いたりしとって。最初レコード屋で店長として働いとってゆくゆくはそういう店しようと思ってたんやけど、とりあえず一流といわれる会社に入ろうと思って一念発起して35歳で保険会社に就職してん。それからはずっとサラリーマンしながらジャズのビッグバンド、ジャズオーケストラを立ち上げて。週末はずっと音響の仕事しとったな。僕にとって音楽は身体の一部やなぁ。

裕湖さん改め弥里朱華さん 以下朱華さん)
純ちゃん(主人)は橋本市で毎年、市の盆踊りとかのイベントの音響しててん。朝からトラックで現場まで機材運んで、設営、準備、本番、最後片付けして・・・って30年くらいやってきました。ほんま昔は毎週ほど仕事あったときもあったけど、今はコロナでイベントとか全部なくなってしまって。依頼のイベント以外は全部ボランティア精神で市に尽くして表彰されたことがあります。本人はそんなこと一言も言わない人ですが(笑)黙ってコツコツ型の人。

 PA(音響)の仕事の依頼で・・・活動中 

―お二人は出会ったときに互いにビビビと来た感じで?
朱華さん)いえ、最初はお互い全く笑 でもこの人ものすごい純粋で心が綺麗な人やなと思ってたら、ある日突然何かがおりてきてん。なぁ?純ちゃん! 

―そう言うてますけど、純さん?

純さん)笑・・・ま、なんとなくやな。
朱華さん)
この人、ほんま私と真逆で、喋らへんねん笑 お互いかまわれるの嫌うし笑 お互い干渉し合わないからうまくいってるねん私ら。なぁ?純ちゃん!

純さん)
・・・笑

ーそれが円満の秘訣?いいご関係ですね。
朱華さん)そうそう。いい感じの距離感と相手を敬い、思いやる心やね(笑)

 

喫茶店のカウンターに並べたもの

―いつ頃から靴屋の仕事をし始めたんですか?
純さん)10年くらい前からたまに手伝いさせてもらってて。入学時期とか忙しいときとか。
朱華さん)親も歳とってくるし、私も店のことがずっと気がかりで、主人と一緒にたまに帰ってきてましたので。 

―純さんにとって靴屋の仕事ってどうでした?
純さん)いや、別になんにも。手伝いできたらえぇなぁくらいで。お義父さんもお義母さんも歳いってくるし、力仕事でも何でも間に合うたらええわって。

―継ぐことになる経緯は?
朱華さん)主人と店の手伝いしてるときに母が「純ちゃん帰ってきて店してくれへんかな?」て言いだして。私自身、店のことどうしようかと気になりながらも、主人に言い出せずにいたから、それを言われたとき主人はどういう風に受け止めてるんかわからんかって。

―純さん、どうされたんですか?
純さん)その頃、保険会社って合併合併で、そのたびに息苦しさを感じとって。お義母さんから声かけてもろたとき、僕も定年まであと2年って時で。自分でもどうしよかなって思てた時とお義母さんからの声かかったタイミングが合うたというか。ほんだら、もう会社辞めるわってなって。

 

朱華さん)それで、仕事辞めてこっちに帰ってきてくれて。私も自分ひとりやったら店をどうしていこかと思てたけど、主人が一緒にやってくれるなら鬼に金棒やと思いました。 それで、主人は外回りや力仕事、私は事務的なことを引き継ぎ始めて。父ともほんま仲良くやってくれて。そのとき強く思ったんです。いつも世の為人の為と四方八方出かけてはその先々で人助けをしていた父。そんな背中を見ながら育ってきて父や母が祖父母の代から守ってきた神戸屋靴店をなくしてはいけない・・・。今まで好き勝手やって来たけど、これからは私がこの暖簾を守っていかなあかん、守っていきたいと!

―喫茶店を併設することになったきっかけというのは?
朱華さん)父が亡くなり、母も高齢になってきて・・・、母は90歳を過ぎても店番をしてくれて、凛として明るい人、商売上手で気丈夫、今はホームにいますが現役の頃は行動力のある人でした。やはり母の目の黒いうちは大がかりに店はいじれませんでした。ただ、主人にこの店をやってもらうにしてもここでじっと店番をしてもらうのはあまりにも酷だし、何か楽しみながら、居心地よく居てもらえる方法ないかなって考えたときに、喫茶店をしてコーヒーを出したら人が集まってきてくれて、それで音楽も流せたらええなって何となく思って。それで少しずつリフォームし始めたのが始まり。
純さん)
最初はこんなステージとか作る予定なかったんやけど。まず、ここ壊して片付けて綺麗にしょうかって壊したら、ここにこれこうしたらええんちがうやろか?そしたら、ここにこれ置いて・・・みたいにどんどんアイディア出てきて、その結果がこれ。笑
朱華さん)母も最初は喫茶のカウンターに靴並べだして・・・。「ちょっとちょっとお母さん!どこに置いてんの!」みたいなこともあって笑 「お母さん、私らちゃんとやっていくから、もう後は私らに任せて」って言うて笑 でもほんとにいい形で進んでいってくれてよかったなって、このままこうやって幸せに・・・って思ってたら今度は私に病気(ガン)が見つかって・・・。
ショックでした。今では心の整理もつき、いい先生にも巡り会えて治療を続けています。これは試練ですが、病気になって色々と考えさせられました。今ここにこうして自分がいるのは自分だけの力ではありません。生かされている命に感謝して、これからはこの経験を生かして微力ながらも誰かの役にたてればと思っています。病を乗り越え、元気に自分らしく歌を歌うことで少しでもみなさんに幸せを届けていくことができれば幸せ(喜び)です。今はその気持ちで頑張っています。

 

―純さん、喫茶店をすることになりましたが、何かご経験がおありだったんですか?
純さん)ない笑 コーヒーたてるのは好きで・・・。お義母さんが店番しとったとき、お義母さんの友達とか近所の人が店に来て、喋ってるの見とって。そのとき、美味しいコーヒーとか出したったらええなぁって思ってたから、それから一生懸命コーヒー豆の研究したんや・・・(笑)

朱華さん)今では年齢問わずですが、特に70~80代のお客様がいつもコーヒー飲みにきてくれて美味しいって言うてくれるのが主人の一番の喜びになっています。このコロナの時期やからお客さんが5人の日もあったら1人の日もある、でも毎日同じようにコーヒーを出し続けていけたら人が集まり町もにぎわうって思うし、それをしながら店番もしてくれる主人に感謝です。

 

 

―週末にはここでライヴをされているそうですね

純さん)そう、毎週土曜の夜にいろんなジャンルのミュージシャン達が集まって演奏して、それで楽しんでくれたら。それに、近所の人もにぎやかになってええって喜んでくれて。今後は新しくできた市役所などのイベント等で音楽を流して明るい街づくりとかできたらええなって。

―五條市で生まれ、一度は離れ、そしてまた五條に戻り、これからお商売もされていく・・・五條市についてのどのように感じてらっしゃいますか?
朱華さん)近所付き合いを大事にしたいなって思います。五條から離れてた期間が長かったので最初はほんとに五條のことを知らなかった。でも、こっちに帰ってきて徐々に五條の人との交流も増えて、そしてお店にくるご年配の方に「お母さんのことよー知っとるで」「お父さんには世話になってな」っていうてもらえるのがほんまに嬉しい。祖父母~父母の時代があっての神戸屋であり、今の私達やと思う。高齢化や過疎化、そしてデジタル化が進んでるけど、お年寄りがたくさんいるこの街ならやっぱり「人と人」のつながりがいちばん大事やなと思います。

 

昔、にぎわいを見せたこの商励会通りを少しでも取り戻したい気持ちで外のスピーカーから音楽を流しています。昭和の香りのするコーヒーの美味しい店として音楽が楽しめる明るい町づくりの何かお手伝いができたらと思っています。

―純さん、朱華さん、本日はありがとうございました。

※写真撮影時のみマスクを外していただきました。

 

 

絵本作家の長谷川義史さんとギリシャのお酒でカンパイ

 

 

 

 

 

 

 

☆リニューアルオープン当日、毎日放送ちちんぷいぷい「とびだせ!えほん!」のコーナーの取材も☆

 

 

 

 

 

 

 

 

神戸屋靴店・喫茶神戸屋

営業時間 火~土:10:00~17:00
金・土:18:00~ライヴ ※ライヴスケジュールはお問合せください
定 休 日 日曜日・月曜日
駐 車 場 有(店の手前50m北)中矢青果店裏
住   所 〒637-0005
奈良県五條市須恵1丁目3-18
TEL(FAX) 0747-22-2289
※詳細はお問合せください
※コンサート・ライヴ・各種イベント音響(PA)
店舗等音響プランナー
 アドバイザー等 承ります

 


☆スタッフHのすぽっとwrite☆

コロナ禍で控えていたインタビューを1年ぶりに再開。
久々の取材の緊張とこんな素敵な方が五條にいらしたんだというワクワク感。
序盤から朱華さんのお話に引き込まれた・・・が、中盤あたりでうまく記事にまとめられるかと内心焦りだした。

「ちょっと休憩したら?」とコーヒーを出してくれた純さん。経験がないというのに板につきすぎている喫茶マスターのエプロン姿。そして足元はどこか見覚えのあるサンダル。「それって・・・?!」「そう・・・高校の生徒さんの校内用のやつ。これ、えーねん、きつ過ぎず緩すぎず、ほんまに」と、販売店主がというより、純さんが言うんだから間違いないと思わせる雰囲気がある。たててくれたコーヒーが美味しかったのも言うまでもない。

取材の緊張、集中と、昭和レトロな店内、ブレイクタイム。生演奏の迫力と音楽の心地よさ。刺激あり、癒しあり、安心感あり・・・きっとこれも「きつすぎず、緩すぎず」?なんですよね笑

トニカク素敵な神戸屋、そしてお二人に出会えたインタビューでした。