スタッフ林です。
街歩きプチ発見編です。
新町通りを歩くときに
探そう、見つけよう
と思っていたものがありました。
というのも
さかのぼること
一昨年の12月のインタビュー
第64回 櫻井寺
境内墓地にあった
三勝と半七の比翼塚
赤根屋半七は新町通りで染物屋を営む半兵衛の息子
その生家跡があったと聞いていました。
ちょうど源兵衛さんの角のところに。
見つけました!
が、生家跡というか石碑?石の標識でした。
五條市HPに掲載されたものをもう一度読み返し・・・
以下五條市HPより
赤根屋半七・美濃屋三勝 哀しい恋のものがたり
悲恋の末、大阪千日寺の墓地で遊女の三勝と心中して果てた赤根屋半七
元禄8年(1695)12月9日
ふたりは互いの体を紅絹裏の服紗縮緬で結びあわし
ともに咽喉を掻き切って死んでいたといいます。
男およそ34、5歳、女およそ24、5歳。
半七たちの哀しい、はかない恋はすぐさま「三勝半七艶容女舞衣」として
歌舞伎の舞台にのぼり、次いで「三勝半七浮名の雨」「三勝半七道行尾花露」など
矢継ぎ早に劇化され、大阪・江戸の観客たちを魅了しました。
「三勝半七艶容女舞衣」は今もなお国立文楽劇場をはじめ
多くの劇場で上演されています。
三勝・半七比翼塚
「嵐雪月昭信士 赤根屋半七」「月雪妙霜信女 美濃屋三勝」
と記されたふたりの比翼塚が
御影石の肩を並べて立ち尽くしています。
と説明にありましたが
それが櫻井寺さんにあったこれ↓だったんですね・・・
知ってて見るのと、知らずに見るのでは大違いだなと感じました。
そういえば
第1回インタビューの千珠庵 きくがわさんの和菓子
「まいぎぬ」
こちらのネーミングは
『文楽「艶姿女舞衣」の舞台となった当時の華やかな風俗を
うすぎぬの向こうに眺めるように』と“まいぎぬ”の名がつきました。
とHPにありました。
そうだったんだ・・・
あらためて、きくがわさんのインタビューとHPを見返しました。
インタビューを始めて7年近く・・・
五條市の歴史も勉強させてもらえる
とてもいい経験です(^▽^)/